今日の靖史はちょっと変だ。僕と一緒に話しているのに、どこかうわの空。多分、鳴戸に散々殴られたのを思い出しムカついているのだろう。顔だってアザだらけ。今まで僕と一緒に住んで場所も、もう帰れない。ムカつくのもしょうがない。
片手に酒を持ちながら一点を睨みつける靖史。僕はそっとしておく事にした。
新宿プリンスホテル最上階の『シャトレーヌ』は、いい感じで賑わっている。僕はこんな雰囲気も大好きだった。靖史の教えてくれた『グラスホッパー』は、何度でも飲みたくなるぐらいおいしい。むつきはまだぐっすり寝ているかな?
「ん?」
入口の方向を見た時、先ほど廊下で激しい口論をしていたバッティングセンターの馬鹿カップルが入ってくるところだった。
「あ、あれ見てよ。さ、さっきの…」
思わず僕は靖史へ声を掛けていた。
「ん、どうした?」
「い、入口見て」
僕はその方向へ指を差しながら言った。
「私ねー、絶対にひろゆきが電話くれると思っていたんだ」
「俺もつい感情的になっちまって悪かったよ。部屋に行ってから、ずっと反省していたんだよ」
馬鹿なカップルの会話の声は非常に大きい。ここにいてもよく聞こえた。今回もまた何かしでかしそうな気配は充分にある。狙ってじゃなく、天然でやっているのが余計に質悪い。見ている分には非常に退屈しないで済むのけど……。
「おい、勝男。ひょっとしてあれって……」
靖史が聞いてくる。
「さ、さっきの、お、男だよね? 僕、今日、さっき以外でも見たような気が……」
「バッティングセンターでだろ?」
「そ、そうそう」
「見ている分には面白いぜ、勝男」
僕と靖史は二席先にある席に座って楽しそうにする馬鹿カップルをゆっくり見物する事にした。
「ねぇ…、ひろゆき」
「なんだい?」
「お誕生日おめでとう……」
「ありがとうな、ほんと……」
「ううん……」
「俺が馬鹿だったよ」
「ううん、私の方が馬鹿よ」
彼女の目がウルウルしていた。ひろゆきの肩に頭を乗せ甘えた表情をしている。ひろゆきも、彼女の髪の匂いを嗅いでいるらしく、鼻の穴が大きく膨らんでいる。とてもマヌケな表情だ。馬鹿カップルの二人の目と目が合わさる。まさかこんな場所でもお構いなしに、おっぱじめるのだろうか……。
「ひろゆき……」
「ああ、愛してるよ」
人目を一切気にしない見事な会話。聞いていてこっちが恥ずかしくなる。だんだんとお互いの顔が近付いていく。
「す、すごいね……」
「ああ…、ある意味、すご過ぎる」
とうとうラウンジの中だというのに、馬鹿カップルは席を立ち上がって、ド派手に濃厚なキスをしだした。周囲の客が徐々に馬鹿カップルに注目していく。二人は辺りの様子などまったく視界に入っていない様子で、自分たちの世界にドップリと入っている。長い…、長いキスだった。僕たちの隣のテーブルの客が拍手をしだす。他の席からも拍手が聞こえだし、シャトレーヌにいる客の大半が拍手を馬鹿カップルに送っていた。コンサートに来たような盛大な拍手だ。もちろん僕は拍手などしないが、靖史まで笑顔で拍手を送っている。
ホテルマンの江島が僕たちの席に向かってきた。
「すごい賑わい方ですよね」
「いやー、参ってしまいますよ。一応ここはホテルのラウンジなので……」
「ああまで盛り上がっては、注意すら行けないですよね。お気持ち察しますよ」
「私も仕事じゃなければ、笑いながら拍手していますけどね」
「江島さん、すいませんね、今日も色々気を使わせてしまったみたいで……」
「いえいえ、何を言ってるんですか。お互い様ですよ」
「実は私、今日で『ダークネス』を辞めてしまったのですよ」
「えっ? 何でまた……」
「オーナーとトラブってしまいましてね」
「じゃ、じゃあ、その顔のアザは……」
「ご想像の通りです」
「裏稼業って、おっかない世界なんですね」
「でもなかなか面白いもんですよ。あっ、そうそう、江島さん。今日このままここに泊まりたいんで、部屋を一つ頼みたいんですよ。いいですか?」
「そんな事、いつだって任せて下さい。いい部屋おとりますから」
「すいませんね」
僕は黙って二人の会話を聞いていた。
拍手の勢いが落ちてきたので、横目で馬鹿カップルのほうを見るとまだキスをしている。よくもまあ、あそこまでできるものだ。とても僕には無理な芸当だ。ラウンジにいる客もあまりにも長過ぎるキスにうんざりしてきている様子だった。
「では、そろそろ席に戻りますね」
「お腹大丈夫ですか? 何かお持ちしましょうか?」
「いえいえ、もうその気持ちだけで充分ですよ」
僕は和牛ヒレ肉の黒コショウ焼きをがっついて食べだした。
「どうだ、うまいか?」
「う、うん。で、でも…、す、すごいな靖史は……」
「何がだ?」
「み、店でも店長をやって、こういうホテルのラウンジに来ても、ホテルマンが靖史に気を使ってくれる。か、金だってある。じ、地元の頃よりも格段にレベルアップしている。じ、地元にいる神威や深沢とかも、い、今の靖史見たらきっと感心すると思うよ」
「神威か…。もう随分と懐かしい名前だな。もし、あいつらに会ったとしても、感心なんてないさ。特に神威みたいな奴は、俺の事を軽蔑するさ。もう店長じゃないし、たまたまこのホテルに知り合いがいたってだけだ。金だって店の金を抜いて貯めてだけ。結局はバレてこのザマだ」
そう言って靖史は、右手の人差し指で顔に向けてクルクル回す。僕はそれを見て笑った。さすがにそろそろ眠くなってきた。時計を見ると十二時十分前だった。
「じゃー、勝男。そろそろ出ようか。おまえだって部屋に帰って、女が起きてたら面倒なんじゃないのか?」
「そ、そうだね。む、むつきちゃんが起きた時に、ぼ、僕が部屋にいないと確かにそうだよね」
「ここの会計は俺が払うから、もういいぞ」
「さ、さっき百万も貰っといて、そ、そんな訳にはいかないよ」
「いいよ、実際に勝男に迷惑掛けた事には変わらない」
「で、でも……」
「気持ちだけ受け取っておくよ」
「あ、ありがとうな、や、靖史。お、お言葉に甘える事にするよ」
「これでも勝男には感謝してんだぜ」
出口に向かって歩いていくと、キャッシャーには江島がニコニコしながら立っていた。
二人でエレベーターに乗り込む。ホテルのラウンジの会計があんなに安いとは、ビックリした。でも、もちろん靖史の顔が利いているからだろうけど。
「あ、あれだけ飲んで食べて、な、何で五千円なの?」
「向こうが気を遣ってくれたんだろ」
「す、すごいよなー、靖史は……」
「何度も同じこと言うなよ。たまたま俺は運気が人より、ちょっと良かっただけの話だよ。全然ビックリする事じゃない」
「い、いやー、じゅ、充分にすごいって……」
「お、お酒までお土産にくれたじゃない」
「今日はちょっとした魔法を掛けといたからな」
「え、な、何それ?」
「冗談だよ。冗談…。いちいちそう真剣にとるなよ。そろそろ二十一階に着くぞ」
「あ…、そ、そうだね」
「ほら、もうドア開くぞ。じゃーな、おやすみ」
「お、おやすみ」
エレベーターで二十一階に着く。靖史はそのままエレベーターに乗り、下に降りて行った。靖史のとった部屋は僕たちの階より、もうちょっと下の階らしかった。
「む、むつきちゃん怒るかな……」
恐る恐る部屋へ戻る。ドアを開けると部屋の薄暗さは変わらない。足音をできるだけたてないように静かに歩く。
ベッドを見ると、まだむつきは熟睡していた。僕はホッと胸を撫で下ろす。出ていった時と違うのは、お金の入ったダンボールが無い事だけだった。
僕は服を脱いで彼女のいるベッドに潜り込んだ。むつきの体温を肌で感じながら幸せを感じる。横で熟睡している彼女を見ているとやはり興奮してきた。また寝ているところを襲い掛かったら、絶対に怒りそうなので我慢する事にする。出来る限り真っ白な天井を見るようにした。もともとお酒が強いほうじゃない僕はすぐに眠くなる。
「うーん……」
むつきちゃんが寝返りを打つ。つい、性欲に目が眩み、視線を持っていきそうになるが、懸命に我慢した。
「眠るんだ…。早く眠るんだ……」
心の中で呪文を唱えるように繰り返した。
睡魔と興奮が僕の頭の中で、互角の闘いを繰り広げていた。今だけは睡魔を応援しないと……。
江島が用意してくれた部屋は一人にしては、なかなかの広さがあった。テレビをつけてチャンネルを回して見るが、ロクな番組がやってないので消す。リモコンをテーブルに放り投げてベッドへ横になった。
しばらくここに滞在してゆっくりしよう。ここ一年ほど休みもとっていなかったし、もう無職になったんだから……。
ゆっくり時間をかけて目を閉じる。アルコールを飲んだせいか、傷の痛みを感じない。このまま眠っている内に、この痛みがなくなってしまえばいいのにな。
そんな、都合いい事を考えてしまう。
今、俺は完全な孤独の空間にいる。仕事に行けば、もちろん人はいたし、部屋に帰っても勝男との共同生活で、自分一人だけという時間が考えてみるとあまりなかった。たまにはこういう静寂な何もしないでいい空間というのもいいもんだ。
シャトレーヌでチェック済ました際、江島が「良かったらどうぞ」とプレゼントしてくれたグレンリベット十二年のボトルを開ける。ショットグラスはさすがに部屋に無いので、そのまま口につけラッパ飲みをした。
喉にグッと一気にくるこの感覚。やはりチェイサーも必要だな。
千円札一枚と小銭を適当につかみ、空のアイスペールを持って部屋をあとにした。
確かエレベーターのところに自動販売機があったな。おっと、カードキーを忘れないようにしないと……。
夜中なので通路を歩いていても誰にも会わない。静かなものだった。
エレベーターのところに着くと、自動販売機が並んでいる。プリンスは各階によって自動販売機の種類も微妙に違って設置しているようだ。ジュースの販売機はどの階も置いてあるが、俺の部屋の階は冷凍食品だろうけど食べ物の販売機もあった。どうせ部屋で酒を飲むのだからポテトと焼きおにぎりを買う事にする。
一つ一つの出てくるまでの時間が掛かるのがこの自動販売機の欠点だが、中で解凍しているのだから我慢するしかないだろう。
チェイサー代わりに烏龍茶と、朝起きた時用として缶コーヒーも買っておく。製氷機に空のアイスペールを入れ、氷のボタンを押す。ガラガラと音を立てながら、平べったい氷が空のアイスペールを埋めていく。
「ピッ、ピッ、ピーッ」
食べ物の販売機のブザーが鳴る。どうやらポテトができたようだ。取り出そうとして紙製の容器に触れた瞬間、思わず手を引っ込めてしまう。
「アチッ!」
結構な熱さだった。少しばかり自動販売機の加熱力を侮っていた。ちょっと経ってから紙製の容器を取り出す事にする。続いて焼きおにぎりのボタンを押した。
ただ自動販売機で物を買うというだけの行為が、とても新鮮に感じる。毎日毎日ゲーム屋で休みなしに働き、店の売り上げから金を誤魔化して抜くだけの生活。そんな事を繰り返していたから、俺の心は徐々に汚していったのだろう。
そんな汚れた日常の中に突如入ってきた赤崎。顔や体などの外見的なものに惹かれたのも事実だが、初めて見た時にそれ以外の何かを感じた。今までの従業員に比べると、つい赤崎には親切に優しくしてしまう自分がいた。赤崎と出会った時に感じた何かとは、多分、彼の真っ直ぐな青臭さい部分に対し、一気に惹かれたのだろう。そんな赤崎に抱かれてみたかった。逆に抱いてもみたかった。誰にも相談できない自分だけの秘密だった。
明らかに今の俺は金に狂っている。金がすべてだと思いたい。しかし赤崎の顔を想像すると、金だけじゃ割り切れない何かを感じた。あの男の青臭さが、少しは俺にも伝染したのかもしれない。
「ピッ、ピッ、ピーッ」
焼きおにぎりができたようだ。
それらを手で持てるぐらいの熱に冷めるまで、タバコを吸って時間を潰した。
部屋に帰ると、テーブルに買った物を置く。明日の仕事を気にせずに、部屋で落ち着いて酒を飲むという幸せ。明日は朝になったら携帯の番号を変えに行って、またこの部屋に戻り、いくらでもゆっくりすればいいだけだ。
俺が今している事は贅沢になるのだろうか。ここで何日か泊まっても俺の持ち金はそんなに減らない。酒を飲む環境を整え、俺はまたグレンリベットを飲みだした。
時計を見ると夜の一時を過ぎている。
そういえば俺が店でこんな風になり赤崎はあの場で帰されたが、『ダークネス』はどうなるのだろうか? 遅番の時間で働く新堂と田中は、今の時間なら店で働いているはず……。
俺の抜きがバレて鳴戸が怒り、あんな事になって店のは今、営業しているのだろうか?
気になると非常に気になりだすものだ。まあ、もう辞めたんだし店の事はどうでもいい。アルコールの酔いが回り、いい感じに気持ち良くなっている。
また赤崎の事を考えてしまう。
今、赤崎に連絡してこのホテルにいるけど一緒に飲まないかと誘ったところで、断られるのは目に見えて分かる。
直接俺が赤崎に電話しても、出てくれなさそうだ。
赤崎と新堂は仲がいい。新堂を利用したら、もしかして赤崎に会えるかもしれない。いや俺がホモだと分かって拒絶感をあらわにした赤崎が、もう店でも関係ないのに俺に会いたいと思うか?
そう考えると憂鬱になる。
新堂にとりあえず電話を掛けてみるか……。
いや、危険かもしれない。
もし、新堂と田中が今の時間、店で働いていたとしたら、当然鳴戸や水野の両オーナーは、俺を探す手掛かりに利用されている可能性は充分にある。
でも最悪、新堂、田中と鳴戸、水野が通じていたとしても、携帯を掛けるぐらいじゃ、俺がここにいるのは分からないだろう。
新堂だって店の金を抜いていたのは俺も知っている。向こうだって連絡が来たとして、俺を鳴戸らに売ったら、逆に自分たちだって危険な事ぐらいは分かるだろう。そうなったも自分たちが店の金を抜いていたという事実が発覚するだけだ。
俺は携帯を手に取り、新堂の携帯に電話する事にした。
「もしもし、岩崎さんか?」
すぐに新堂は電話に出た。受話器からはポーカーゲームの音は聞こえてこない。
「どうも」
客がいないだけかもしれない。
「大丈夫ですか? 夜になって店に行ったら鳴戸さんと水野さん両方いて、岩崎さんの抜きが見つかり制裁を加えたって聞いて……」
「今、店ですか?」
「いや、俺と田中も店の金を抜いていたじゃないですか。何か話を聞いててヤバいなって思い、俺たち遅番も今日で店辞めるって言ったんですよ」
新堂の話しぶりを聞いていると、嘘ではないと思った。彼は鳴戸とは通じてない。
「鳴戸とか怒りませんでした?」
「その前に俺と田中も疑われたんですよ。だからワザと強気に演技して、そんな疑われてまでここで働けないって…。まあ、ある意味逆ギレですけどね。でも岩崎さん、相当やられたって聞いたんですけど、大丈夫なんですか?」
「確かに酷かったです。こっ酷くやられはしましたけどね。でも別に鳴戸は腕力でってタイプでもないし、そこまでのダメージは残ってないですよ。まあ、散々蹴っ飛ばされたんで、顔はアザだらけですけどね」
「実際酷いですよねー。俺もこんな事、言っちゃあれですけど、岩崎さんがやられたって聞いて、こっちの身だって危ない訳じゃないですか? その状況で俺たちも疑われたんで、それなら自分たちも辞めますって具合で、そのまま辞めたんですよ」
「そのほうがいいですよ。あんなムチャクチャなオーナーの下でなんて、やってられないですよね、実際の話」
何故かすんなり信用できるのは、新堂の話し方から何か伝わってくるものがあるからだろう。安心した俺はグレンリベットを口に含む。
「水野なんて、ただの金の無い乞食と一緒じゃないですか? 鳴戸は年中人に威圧をかける事だけが生き甲斐のサディスト野郎ですよ」
新堂も店を辞めてスッキリしたのか、さっきまで鳴戸と水野の両オーナーをさん付けで呼んでいたのに、今じゃもう呼び捨てだ。しかもクソミソにけなしている。
「相当あの二人にストレス溜まってたんですね」
「特にあの水野の野郎のセコさ加減には、実際参りますからね」
「以前、赤崎さんの話を聞いたことありますか?」
「何かあったんですか?」
「俺が鳴戸に呼ばれて外行っている時に、赤崎さんと水野が店にいたんですよ。それで出前とろうかってなったらしいんですよ」
「もしかして水野の野郎は、それなのに赤崎君から金をとったとか?」
「その通りです。赤崎君、千円だよって、言いながら手を差し出したらしいですよ」
「ほんと、あいつはチンカス野郎ですね。オーナーなんだから、自分の部下に飯食うかと言っておいて、奢りじゃないなんてクソ野郎ですよ。たまにピンクの水玉模様のついた悪趣味なネクタイなんかしやがって、『どーだ、これ家の女房が選んだアメリカ式なんだ』って訳の分からない自慢するんですよね。ほんと大馬鹿野郎ですよ」
新堂は水野の悪口になると一気に加速する。胡散臭い口髭にパンチパーマが伸びたインチキ臭い顔。そんな男がピンクの水玉模様のついたネクタイを締めて偉そうに自慢するのを思い浮かべると、思わず吹き出してしまう。
「バカ水野って一応、奥さんがアメリカ人らしいですよ。以前、自慢してましたよ」
「ほんとなんですか? 初めて聞いた……」
「でも、自分もそのアメリカ人の奥さんの自慢話は散々聞きましたけど、写真一枚も見てないですからね。英語も全然話せないくせに……」
「絶対に嘘ですよ。アメリカ式って言葉を使えば、きっと格好いいとでも思っているんですよ。何故ピンクのネクタイ締めるのが、アメリカ式なのか分かりませんけど」
「いいじゃないですか。自分の中じゃ格好いいと思わせておけば。とても可愛そうな人なんですから、そのぐらいは温かい目で見てあげないと」
本当に眠たくなってきた。そろそろ赤崎を誘い出す為の餌をまかないといけない。
「新堂さん。今度時間作って赤崎さんと田中君も呼んで、みんなで飲みましょうよ」
「いいですね。多分、鳴戸と水野の悪口大会になりそうですけどね」
よし食いついた。今日はこの辺で切り上げておこう。
「じゃあ、また連絡します」
「岩崎さんもお大事にして下さいね」
電話を切り終わると、ベッドに横になる。アルコールが効いていた。目を軽く閉じると、いつの間にか眠りに引きずり込まれていった……。
何か痛いぞ? バシバシ叩かれているような……。
「起きなさいよ! 勝男!」
「いてて……」
「早く起きなさいよ!」
むつきが、僕の頬っぺたをバシバシと何故か叩いている。
「な、何時なの?」
「うるさいわねー。さっさと起きなさいよ!」
「わ、分かったから叩くの止めてよ」
体が気だるい…、昨日の酒がまだ体に残っているみたいだ。でもむつきが何故か怒っているから、しょうがなく起き上がる事にする。
「勝男ーっ!」
「な、何だよ…。い、いてっ。や、止めてよ」
「何でダンボールが無いのよ! 一体どう言う事なの? ちゃんと説明しなさいよ!」
むつきは僕が起きたというのに、叩くのを止めてくれない。
昨日あれから靖史とこのホテルで会い、ダンボールを返した事を説明した。むつきも始めのうちは大人しく聞いていたが、ダンボールを靖史に返した辺りの説明になると、みるみる内に顔が般若のように変わっていく。さすがに靖史からもらった百万円の事は言い出せなかった。
「あんたねー、ふざけないでよ!」
「だ、だって…、あ、あれはもともと靖史のお金だし…。グァッ」
むつきの正拳突きをまともに喰らう。鼻血が吹き出した。
「冗談じゃないわよ。もうあんたなんかとは終わりよ」
「ひょ、ひょんなー…、ひょ、ひょっと待ってよ……」
彼女はプリプリと膨れっ面で、洋服を着替え出している。僕の事などもう眼中にないといった感じだ。僕はティッシュを鼻の穴に捻り込んで、とりあえず鼻血を止めた。
「じゃーね、さよーなら……」
「ま、待ってよ。む、むつきちゃーん……」
僕はむつきの前に立ち塞がり、進路を阻もとする。むつきちゃんの表情が怖い。
「お、落ち着いて話そうよ。ぼ、僕はむつ…、グェッ……」
容赦なく彼女に金的を蹴飛ばされた。あまりの痛さに僕は悶絶しながら床を転げ回る。
「あのねー、あんたふざけんじゃないわよ。勝手にダンボール返したりして…。いくらあったと思っているの、あの中に…。私、言ったでしょ? 友達と私どっちとるのって。あんたなんかと寝た私が馬鹿だったわ。会った時から馬鹿だと思ったけど、ここまで大馬鹿とは思いもよらなかった。もう、あんたとはこれっきり二度と会うことはないでしょう。じゃーね……」
バタンッ!
ドアが勢いよく閉まる音がする。僕は金的を蹴られた痛さにで、動こうと思っても全然動けなかった。
薄々気付いてはいたんだ。
むつきちゃんが何故、僕と一緒に行動して、何故僕なんかと寝たのか……。
すべてはあのダンボールの中のお金のせいなんだ。
昨日の夜、勝手に靖史に返した事で、もう僕の存在はむつきちゃんにとって不要なものになってしまったんだ。
床に顔をくっつけた情けない格好のまま、僕は泣いた。とても悲しく、自分自身に対して情けなく感じた。
意外と簡単に番号って変えられるもんだな。
携帯のサービスセンターに行って、携帯番号を変えてきたところだった。
歌舞伎町を歩いて偶然鳴戸と出くわすのも嫌なので、俺はすぐ新宿プリンスホテルに戻る事にする。
途中酒屋に寄り、好きなブランデーやウイスキー、つまみ代わりにチーズやビーフジャーキーを大量に買い込み、ホテルへ向かう。
部屋に帰ると、ボトルを綺麗に揃えて並べ、つまみ類は冷蔵庫に入れた。時間を見ると十一時ちょっと前だった。そろそろチェックアウトの時間か。
備え付けの電話をとり、シャトレーヌに連絡を入れる。ホテルの従業員である江島に頼んで、今の部屋の宿泊日数を延ばす事にした。
こうしてゆっくりできるのはなかなかいい気分だ。昨日までならとっくにダークネスへ出勤している時間である。
赤崎は今日、出勤したのだろうか? その辺が気になるところだ。
勝男はあのあと、修羅場だったろうな……。
この部屋を知っている訳でもないし、俺の携帯に電話したところでもう番号は変えてあるから通じない。あのむつきとかいう女は金が無くなった勝男と一緒にいるようなタマじゃないのは容易に予想できた。
勝男には酷な事かもしれないが、お詫びの気持ちも込めて百万の金を渡したつもりだ。それで風俗でもキャバクラでも行って、いくらでも他の女に慰めてもらえばいい。
あいつの事だから、むつきとかいう女に、そのまま百万を渡していてもおかしくないが、どう使おうとそれはあいつの自由だ。
それにしても、あのむつきという女……。
結構どころじゃない、かなりいい女だった。
バッティングセンターの時一度だけ電話で話したが、かなりの曲者だ。性格はひと癖もふた癖もあっててこずりそうだが、一度抱いちまえば女なんて大人しくなるもんだ。一度は抱いてみたい女だった。
遠目で二度ほど、バッティングセンターの時と、この新宿プリンスホテルに入る時だけしか見ていないが、それでも俺がここまで思うという事は相当いい女だという証。今頃は、何故ダンボールが無くなっているのか勝男に食って掛かっているだろう。勝男の困る顔が頭に浮かぶ。
ずっと忙しかったから急に暇になっても、何もやる事が見つからない。一時の孤独は人間をリラックスさせるが、リラックスしたあとの孤独とは、非常に辛いものである。
本来俺って寂しがり屋だったのかな……。
そう考えると口元がニヤついてくる。金は取り戻したんだ。もう何も言う事はない。いや、もしここに赤崎がいてくれたら……。
携帯に手を伸ばす。赤崎の携帯番号を画面に出すが、思い留まる。携帯をソファーに投げつけた。
「出てくれる訳ねえじゃねーか」
俺はハッキリ拒絶されたのだ。あの時だけでいいから綺麗な女に生まれたかった。
赤崎の言った台詞を思い出す。
「す、すいません。俺、彼女いますし……」
赤崎の口から出た彼女という存在。名前も顔も知らない赤崎の彼女に嫉妬を覚えた。俺の感覚がおかしいのは充分に分かっている。本来俺は、女性的な性格なのかもしれない。赤崎が普通の神経の持ち主で、俺が異常なだけなのだ。
さっき買ってきたアルコールの中から、適当にボトルを一本手に取った。たまたま手にしたのは有名なコニャックのブランデー、ヘネシーのXOだった。
さっきの酒屋でブランデーグラスもショットグラスも買ってある。俺は包装紙に包まれたブランデーグラスを取り出し、丁寧に包装紙を外す。取り出したブランデーグラスにヘネシーXOを注ぐ。
冷蔵庫からミネラルウォーターとクリームチーズとクラッカーを取り出して、テーブルの上に置く。ミネラルをグラスに注ぎ、クリームチーズをクラッカーに塗る。
ヘネシーを口に含みながら、チーズの乗ったクラッカーを口に放り込んだ。手軽に作れたわりには、なかなかうまい。
しばらくはここで何も考えず、せめて顔のアザが消えるまで、ゆっくりと休息をとる事にしよう。
もう一つクラッカーを口に放り込むと、俺は風呂場に行き、ユニットバスの排水口の栓を閉めてお湯を溜めた。廊下に着ている服を脱ぎ捨てて裸になる。
カーテンを開けて、素っ裸のまま窓際に立ち、歌舞伎町の町並みを上から見下ろす。
誰も、俺がここに素っ裸でここにいるのを気付く奴なんていない。そう思うと妙なざわざわした開放感が、体を支配して何ともいえない気分になる。
「ざまーみやがれ、鳴戸の野郎」
歌舞伎町の町並みに向かって叫んでみた。
俺は変態だったんだ。このような奇妙な行動を明らかに楽しんでいる。
股間の局部が興奮でギンギンに勃起していた。どこかで誰かが、窓に素っ裸のまま立っている俺を見ているかもしれないと思うと、さらに興奮してくる。
心地良い快感に包まれながら、俺はしばらく街の光景を見下ろしていた。
靖史から受け取った百万円の札束を手にとってみる。百万という金額を生まれて初めて手にしたが、改めて見ると、こんな薄いものだったんだ。
むつきちゃんに去られてしまい、僕にはこの百万円だけが残った。この百万をあげれば、またむつきちゃんが戻ってくるというのなら、僕は簡単にこの百万を手放すだろう。
僕にとって、百万の価値はそんなもんだった。
約一日、ずっと一緒にいたむつきちゃんは、たったそれだけの時間で僕の心の中に大きく広がり過ぎ、忘れられない存在になってしまっていた。それほど、魅力のある女性だった。
「んっ、何だろう?」
ベッドの傍に一枚の名刺らしき白い紙が落ちていた。拾い上げると名刺だった。
【性感ヘルス モーニングぬきっ子 モモ】
名刺にはそう書いてある。
以前にこの部屋を借りた奴の忘れ物だろう。一応あとで受付けに届けてればいいか。名刺をポケットにしまう。
その時、部屋にある電話がいきなり鳴りだした。ひょっとしてむつきちゃんかもしれない…。
大急ぎで受話器を取る。
「すいません、そろそろチェックアウトの時間になりますが……」
現実なんてそんなものだ。自分の都合いいように物事がうまくいく訳ではない。
「あのー、お客さま?」
時計を見ると十一時をちょっと過ぎていた。
「す、すいませんでした。す、すぐに出ます……」
急いで服を着替えて受付に向かう。靖史はまだこのホテルのどこかにいるのだろうか。通路を歩きながら考えた。
急にちょっと手前の部屋のドアが勢いよく開きだして、声が聞こえてくる。
「ふざけんなよ、おまえはよーっ!」
「何よ、ひろゆきがいけないんでしょーっ!」
あれは昨日、靖史と飲んだ上のラウンジで飲んだ時に、熱烈なキスをして場内を沸かせたあのカップルの部屋だった。僕はこのカップルに、何かと縁があるみたいだ。
「もうチェックアウトの時間だろ。何、モタモタしているんだよ」
「私が着替えようとしたら、いきなりムラムラしたとか言って、襲って来て着替えさせてくれなかったのは、ひろゆきのほうでしょ?」
「セックスが終わってから、どれだけ着替えに時間掛かっているんだよ」
「あのねー、男と女じゃ準備するのに掛かる時間が違うの。髪の毛だってあんなに激しくするからクシャクシャになっちゃうし、自分だけ出すもん出したらとっとと着替えちゃって、それで私に早く準備しろだなんてさー、ほんと冗談じゃないわよ。そんなにチェックアウトが大事なの…? だいたい、ひろゆきは勝手過ぎるよ!」
そうだ、そうだ。僕もすぐにチェックアウトしないと延長料金取られちゃう。
このカップルの喧嘩を呑気に見物している場合ではない。急いで歩いてカップルの部屋を通り過ぎようとした時、何かが僕の頭にぶつかってきた。
何だ、何だ?
地面に転がった物を見ると、女物の片側のハイヒールだった。
「止めろって、おいっ!」
「ふざけないでよーっ!」
部屋から次々に色々な物が飛んでくる。白い枕に、もう片側のハイヒール、バッグなど様々な物が飛んできた。
部屋の入り口で、彼氏のひろゆきは飛んでくる物を巧みにかわしているから、僕は溜まったもんじゃない。
ここにいては危険だ……。
駆け足で、その場から逃げ出すことにした。
「何、さっきからかわしているのよ!」
「止めろって……」
「ふざけないでっ! よけてないで当たりなさいよ、ひろゆきっ!」
エレベーターのとこに僕が着いても、カップルの喧嘩の怒鳴り声が聞こえていた。
どのくらいこうして歌舞伎町の町並みを素っ裸で見下ろしているだろう。
ギンギンになった局部を右手で握り、上下に激しく動かす。
歌舞伎町の町並みを見ながらマスターベーションをする奴なんて、多分、俺が初めてだろうな。
赤崎の顔を想い浮かべる。
自分の想像の中だ。好きにさせてもらう。
快感が絶頂に届くと、俺の局部は勢いよく射精し、精液が窓に掛かる。
ゆっくりと垂れ流れる精液を見ながら、俺はブランデーを飲みだした。これじゃまるで精神異常者だな……。
窓を見ながらニヤリと笑ってみた。
風呂を見に行くと、バスタブにはお湯がいい具合に溜まっている。そのまま湯船に浸かった。なかなかいい湯加減だ。
しばらく目を閉じ、全身をお湯に浸かるようにした。このままお湯の中に溶けることができるなら、きっと楽なんだろうな……。
ん、待てよ。何でお湯に溶けるのが楽になるんだ?
思考回路が明らかに狂い出している。俺みたいな人間は何の目的もなく暇だと、おかしな方向へいってしまうのかもしれない。
別に構わないさ、おかしくなったって……。
再び俺は、赤崎の事を想い浮かべた。
また元気になる局部。湯船の中でマスターベーションを始めた。赤崎と一緒にお風呂へ入れたら、どんなに幸せだろうか。淫らな想像がどんどん膨らむ。
湯船の中で俺は射精していた。
完全に俺は変態の領域に入っている。
湯船から出て鏡を見ると、ちょっとだけ顔のアザがひいているように見えた。
ホテルをチェックアウトして外に出る。
十一時を少し過ぎていたが、受付けの綺麗なお姉さんはサービスをしてくれたのか、延長料金を取らなかった。
また機会があったらここに泊まりに来たいものだ。
さっきまで僕の横にむつきがいたのが夢のようだった。
地元から東京に出てきて、初めてプライベートでデートした女。
一夜を共に過ごした女。
僕が体験したのは幻だったのだろうか……。
いや、違う。
むつきの温もりは、まだ僕の体がちゃんと記憶している。
「もう、あんたとはこれっきり二度と会うことはないでしょう。じゃーね……」
先ほど言われた台詞が、頭の中でずっとこだまする。
道の真ん中で、思わず両膝をつきそうになるくらい力が抜けた。
今日は夜十時から仕事だ。こんな力が入らない状態で仕事に行くのはとても嫌だった。時計を見ると、まだお昼にもなっていない。約十時間もどうやって時間潰したらいいんだろう?
マンションに帰ってまた寝てもいいが、昨日会ったヤクザみたいな男と会ったら嫌だ。靖史が言っていた鳴戸という名前の男。ああいう人間とは二度と係わり合いになりたくない。
今僕のポケットには、百万の札束と財布に四万円のお金があった。どこへ遊びに行ってもお金が足りないって事はないが、落としたりする可能性もある。百万は途中で銀行に寄り貯金しておこう。
キャッシュディスペンサーから出てきた残高照会の紙を見ると、貯金残高は百七十三万円になっていた。
ケタが一桁増えている。数字を見ていても、あまり嬉しくないのは何故だろう。
きっとむつきが横にいないからだ。あの時、僕がむつきを強引に追い駆けたとしても、拒絶されておしまいだっただろう。むつきは僕でなく、あのお金の入ったダンボールがあったからこそ、そばにいてくれただけ……。
例えあの場で靖史にダンボールを渡さなくても、お金が無くなった時点でむつきは僕から離れていくだろう。
現実を直視すると、あまりいい事がない。寂しいなあ。
うなだれながら歌舞伎町を歩いていると、いきなり声を掛けられた。
「おにーさん…。どちらまで行かれるんですか?」
振り返るとポン引きだった。そんなポン引きさえ、話し掛けてくれたと嬉しく感じる僕。
「な、何かいいとこないですか?」
「いっぱいありますよ。抜きがいいですか?」
抜きなら昨日だけで、むつき相手に何度も出していた。むつきの体を思い出すと、今はどの風俗に行こうが絶対に満足できないだろう。さすがに性欲が沸いてこない。
「や、やっぱいいです」
「おにーさん」
僕はしつこいポン引きを無視して歩き出す。
新宿プリンスホテルを出てから、真っ直ぐ歩くとコマ劇場に出る。近くにハーゲンダッツがあるので入る事にした。
昨日靖史に教えてもらったカクテルのグラスホッパーを思い出し、チョコミントが無性に食べたくなったのだ。チョコミントをかじると、昨日飲んだグラスホッパーの味が脳裏に蘇る。
アイスを食べながらコマ劇場の横を通り過ぎ、つき辺りの東通りに出る。近くに喫茶店があったので入る事にした。
よくゲーム屋にあるようなポーカーゲームの台が、テーブル代わりに置いてある古惚けた喫茶店。メニューを見ると、色々なものがあるのでゆっくりと眺めた。
「いらっしゃいっ」
ドンッっとすごい音がして、テーブルに水を置かれる。
ビックリして上を見ると、太った無愛想な顔の女性店員がいた。何歳ぐらいなのかまったく分からない年齢不詳の女。
彼女は、上から見下ろすような感じで僕をジッと見ていた。この店の教育は一体どうなっているのだ?
唖然としてしまう僕。グラスから水が少しこぼれ、テーブルが濡れていた。
「何する?」
「はあ?」
店員の言葉がよく理解できなかった。喋っている発音を聞くと、どうやら日本人ではないみたいだ。アジア系のどこの国かは分からないが、その辺の国の人だろう。
「何する?」
太った女店員の喋り方は、僕に早くメニューを決めろとでも言うようにプレッシャーを与えた。
「ハ、ハンバーグサンド……」
圧倒されたまま僕が注文をすると、店員はウンともスンとも言わず無言で去って行った。何だかすごい喫茶店だ……。
しばらく呆然として店員の消えた方向を見ていた。
目の前のポーカーゲームを見ると、千円札を入れる入り口がある。暇つぶしに千円を入れると、クレジットが百になった。一応、十円のレートみたいだ。
ベットをマックスで掛けると五十ベッド。一ベットが十円なので、マックスだと五百円掛かる。千円だと二回しかできない。百ベット分しかないので、ベット数を二十にしてプレイする。五回プレイして何の役も出ず、千円は台に溶けた。
「お待ち!」
ドカッと目の前にハンバーグサンドを置かれる。水の時と一緒で置き方が非常に荒い。置いた時の衝撃で、ハンバーグサンドの形が酷く崩れていた。店員はハンバーグサンドを置くとすぐに、その場から去って行く。
料理を見てみると、見栄えがいいとは言えない。いやハッキリ言って酷かった。
真ん丸の手作り風の小さいハンバーグが、一応、形的にはパンに挟んであるのだが、挟む食パンのミミは切っていない。パンとパンの間に丸い小さなハンバーグを入れ、真ん中からただぶった切っただけなのである……。
レタスもキャベツも何も無い不恰好なハンバーグサンドだった。
大丈夫なのか、こんなものを食べても……。恐る恐る口に運ぶ。
「ん、う、うまい!」
見栄えとは裏腹に味はおいしかった。
店員の態度もすご過ぎて、頭に来るとかじゃなく、逆に面白くてこの喫茶店を気に入ってしまったようだ。
本棚には無造作に汚くなった雑誌が積み重ねられている。僕は暇をつぶす為、適当に何冊かの雑誌を手に取り読み始めた。三冊目の雑誌を読んでいると、喉の渇きを覚える。水も飲んでしまい、何も飲み物がないので店員を呼んだ。
「す、すいませーん」
太った店員がノソノソと近寄ってくる。
「なに?」
相変わらずこのぶっきら棒な喋り方にはビックリするが、気にせず注文をする。
「ア、アイスコーヒーを一つ」
「あい」
今度は一応返事をしてくれたみたいだ。
心なしか嬉しく思う僕は変なのだろうか……。
この面白い喫茶店を誰かに教えたかった。
そうだ…、靖史ならきっと暇しているだろう。電話を掛けてみた。
「お客さまのお掛けになった電話番号は現在使用されていません」
機械的なアナウンスが話している。もう携帯番号の変更を済ませてしまったんだな。まあ靖史の事だから、向こうからまた連絡あるか。
ヘネシーXOのボトルを空けて、ベッドに横になる。
天井がグルングルン回っているように見えた。相当酔っ払ったみたいだ。
時計を見ようとしてもグルグル回っているので、何時なのかすら分からない状態だ。気持ち悪い…、吐き気を催す。
立ち上がりトイレに行こうとするがフラフラしてしまい、あちこち壁に体をぶつける。やっとの思いでトイレに辿り着き、便器に屈み込んで一気に汚物をぶちまけた。
結構胃の中のものを出したつもりだが、まだ気持ち悪い。俺は右手の指を喉の奥に突っ込み、さらに吐き続けた。
完全に飲み過ぎだ……。
出すものをすべて吐き出し、ヨロヨロしながらベッドへ倒れ込む。
顔のアザが布団に擦れて、少し痛みを感じた。
「赤崎やらせろー、この野郎。くわえさせろ、この野郎。ちくしょう!」
言葉に出してみると案外スッキリするものだ。
俺はベッドに突っ伏したまま、いつの間にか深い眠りに落ちていた……。
すごい喫茶店を出て、コマ劇場へ向かって歩き出す。立ち食いそばのところを左に曲がるとセントラル通りだ。
この角にある立ち食いそばの三色セットはお金が無い頃、結構お世話になった。焼きそば、天婦羅うどん、かやくご飯の三点で三色セットという、すごい組み合わせのところである。すべて主食でなりたっている恐るべきセット。
男は結構好んで食べるが、女でこの三色セットを食べる子が過去いたのだろうか? 一度、店員に聞いてみたいものだ。
「ちょっとお茶でもどーですか?」
立ち食いそばを左に曲がってセントラル通りに出ると、聞き覚えのある甲高い声が聞こえてくる。つい僕は、声のほうを向いてしまう。
「お茶でもどーですかと、私は言ったんですよー」
「は、はい」
「じゃー、行きましょう」
慌てて携帯を掛けているフリをして、後ろを振り向く。
口から心臓が飛び出そうな勢いだった。
白のロングコートを着たあの男。マンションで会ったあのヤクザみたいな男が、セントラル通りにいた。靖史が確か鳴戸とか言っていた男だ。
僕と同世代ぐらいのまあまあガタイのいい男が、鳴戸のあとを黙ってついて行く。その男の表情は、暗く青ざめているのが分かる。
鳴戸に気付かれないように、そのままやり過ごした。
昨日むつきとマンションを出て、タクシーに乗った時の恐怖が蘇る。タクシーの窓から見下ろした冷徹な眼光は、まだ鮮明に覚えている。
こんなのに追われていたら、靖史だって嫌になるだろう。
鳴戸とガタイのいい男がどこへ行くのか、ちょっと気になった。あとをつけるのはとても怖いが、靖史も落ち着いたら僕に連絡してくるだろうし、少しでも情報はあったほうがいいだろう。
鳴戸が近くの喫茶店に入るのを見届ける。
さすがに僕が入って鳴戸に気付かれるのも嫌なので、外から様子を伺う事にした。鳴戸がウェイトレスに何かを言っている。怯えたようにウェイトレスは去って行く。どうやらあの男は、女にも容赦がないようだ。
あの時、タクシーへ乗る前に捕まらなくて本当に良かったと思う。
しばらく鳴戸が何か言っていたが、男はいきなり立ち上がり、き然とした態度で鳴戸に何かを言っていた。
珍しく鳴戸がビックリしたような顔をして、その男を見ている。男はやがて席を離れ、喫茶店を出てきた。
喫茶店から出た男の顔はさっきのき然とした時の表情とはえらい違いで、すべてのエネルギーを使い果たしたような表情に変わっている。しばらくその男を見ていたが、西武新宿駅の方向へ向かって歩いていき、人混みの中へ消えていく。
あの男の消えた人混みをボーっと眺めていると、鳴戸の甲高い声が聞こえてきた。
「水野さんですか。今、赤崎に偶然会って話したんですけど、やっぱり意思は固いようで、いくら説得しても駄目でしたよ。ええ…。はい、はい…。もうしょうがないですね。店はリニューアルして、来年にオープンって形をとるしかないでしょうね。えっ? 水野さん…。今、従業員がいないんだからしょうがないでしょ? ええ、そうです。私は従業員がいないから無理だって言ってじゃないですかー。ええ…。違うでしょーっ! あのねー、水野さん、あんたも本当に分からない人ですねー。だいたい……」
いつの間にか鳴戸も喫茶店から出てきて、外で誰かと話している。
何の会話かは分からないが、通行人の何人かはその甲高い声に反応して鳴戸を見ている。まだまだ話は続きそうだったので、僕はその場から離れる事にした。これ以上、鳴戸と関わるのはもう嫌だ。
少し歩き振り返って見ると、鳴戸の後ろ姿が見える。
自然と僕の視線は、鳴戸の後頭部に行ってしまう。
あいつのでっぱりは、一体どうなっているんだろう……。
欲望がざわめきだす。
ヤバイ、さすがにそれはヤバイだろって……。
「キニナルンダロッ! デッパリキニナンダロッ! ガマンシナイデ、サワッチマエヨ!」
ざらついた声が聞こえだす。
確かにあの男のでっぱりはどうなっているんだろう?
欲望に逆らえない……。
勝手に足が鳴戸の後ろ姿に向かって歩き出した。僕の意思とは無関係に右手が動き出す。ほんとに止めてくれって、頼むから……。
鳴戸との距離はドンドン近付いていくばかり。
まだ彼は電話をしているので、僕に気付く様子はない。
視野が狭まり、周りの景色が見えなくなっていく。
僕の視野でハッキリと見えるのは、鳴戸の後頭部だけだった。
「サワッチマエッ! サワレッ!」
ざらついた声だけしか、僕の耳は聞こえない。
もう鳴戸の後頭部が目の前だ……。
右手が勝手に鳴戸の後頭部に伸びる。
鳴戸の髪の毛に触れ、構わずその奥に右手は伸びていく。
後頭部にある、でっぱりに触れた。
「……!」
さすがにこの男は、かなりでっぱっている。
「おいっ、いきなり何してんですかーっ! 失礼な奴ですねー」
目の前が真っ暗になった。
目から火花が散るというが一瞬だけ本当に火花が散り、そのあと真っ暗になって道路へ倒れる。
僕が鳴戸の後頭部を触ったら、いきなり殴られたんだ……。
肩口にすごい衝撃を受ける。倒れているところを上から踏みつけられたのだ。
確かに知らない人間からいきなり後頭部を触られたら、誰だって怒るだろう。それを差し引いても、鳴戸の攻撃は容赦ない。
僕は、ひたすら謝るしかなかった。
「グェッ…。す、すいません。ウグッ! ほ、ほんとにすいませんでした。グェッ!」
僕は蹴られる度に、地面を転がりまわる。何度も殴られ蹴られ、それでもひたすら謝る。
「おいっ、何、人の頭いきなり触ってんですかって、こっちはさっきから聞いているんですよ。謝れなんてひと言も言ってないんですよー」
鳴戸はさらに甲高い声を発しながら、僕を蹴り続けた。
最初顔面に一撃を食らってからアルマジロのように丸くなり横向きになっていたので、まだ耐えられる。だけどやっぱり痛い……。
攻撃が止んでも、しばらくその体勢で地面に倒れていた。親切な通行人が僕を抱き起こしてくれる。
辺りを見渡すと、鳴戸の姿はその場にはなかった。代わりに野次馬が大勢いて僕を見ている。僕を起こしてくれた親切な通行人にお礼を言い、野次馬の一角をどかした。宛てもなく僕はフラフラと歩きだした。
殴られたり蹴られたりした箇所は、痛い事には変わりはない。でも実際そんなには酷い傷を負ってはいない。
靖史の顔のアザも鳴戸にやられたと言っていたが、昨日見た限りでは、普通に行動をしていた。
案外あの鳴戸という男。すぐに手を出すが、腕力的には恐れる必要がないのかもしれない。だからといってこれ以上、鳴戸にはもう関わり合いになりたくないものだ。
あの何とも言えない異様な怖さがある男。
僕の事を殴ったが、彼は昨日マンションで会った人間だとは気付かなかったようだ。
もし気付いていたら、何かしら僕に言ってきたはずである。
鳴戸の後頭部を触れた時の感触。今までにないでっぱり具合だった。かなり人を裏切ってきたのが分かる。
むつきのでっぱり具合は、今まで触った事のある人と比べて大した事はなかった。
靖史は普通の人よりもちょっとだけ、でっぱっている。でもあのぐらいならその辺にゴロゴロいる。
鳴戸のでっぱり具合は、僕が触ってきた人間の中でも飛び抜けてナンバーワンだった。あそこまででっぱった人間とは絶対に関わっちゃいけない。
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