瞑想難民ものがたり(1) - 素晴らしき日々からの続き。
海外の瞑想に興味があったといえば、聞こえがいいでしょう。それは嘘ではありません。ただ、当時の私はその興味以上に、24時間ずっと、不安という隣人が頭の中を占拠している感じでした。瞑想して、この不安が止まるならいいなと思ったのです。たまたまタイから帰国して瞑想を教える会があるというので、その時の会場があった神奈川県まで電車で揺られて行きました。
生れて初めてみた本物の海外のお坊さん(日本人ですが)が、そのプラユキ・ナラテボー師でした。顔のお肌がつるつるで健康そうな方で、生命がみなぎってる感じと同時に優しい感じを受けました。浄土真宗でいうところの、光顔巍巍を地でいっている感じでした(光顔巍巍なんて言葉を日常でいつ使うんだろうって思っていたけど、使う日がやってくるとは!)。黄色というのか黄土色というのか、いわゆる東南アジアの仏教の衣を着ていて、『おお、本当に着てるんだな!』という何とも単純な感想を持ちました。いやだって、生まれて初めてですからね。いやはや。
その日からおそらくもう10年以上は経っていますので、全くお話の内容は覚えていませんが、そこで習った手動瞑想の威力は鮮明に覚えています。瞑想というと座禅みたいに座って目をつむってジーっとしているイメージが強いと思うのですが、そこで習ったのは目を開けたまま、手を動かす瞑想でした。『へえ、こういうのも瞑想というのか』と驚きました。やり方の動画は下に貼っておきます。
手を動かす順番を間違えないようにと集中したのが良かったのでしょうか、それともビギナーズラックというのでしょうか、それともわざわざ神奈川まで来たんだから結果をだすぞと思っていたのがよかったのでしょうか、いえ、単に瞑想が効いたのでしょう。あれまあ、思考がスーッと落ち着いて行きました。悲しくもなんともないのに、涙がボロボロこぼれました。でも、マインドはとてもシーンとしているのです。
瞑想後の爽快感にも驚きました。『なんだこのスッキリ感は!!』こころが「軽い」っていうのは、単に言葉上の表現じゃなくて、本当に軽くなるんだなと思いました。これはすごい、なぜ瞑想がこんなにブームなのか、ようやく腑に落ちました。
ところがです。帰宅して、自分で習った通りにやってみると、出来ないのです。おかしいな、習った通りにやっているのに、どうして出来ないのだろう。いまならわかるのですが、それは同じ体験をしようと期待しているからです。その期待が邪魔をしているので、初回のように集中できないのです。
プラユキ師は普段は日本にいません。これは困った、誰から習えばいいのか。当時は今みたいにオンラインで習う環境もありません。ここからです。私の瞑想難民ものがたりが始まったのは。いったい誰に瞑想を習えばいいのか。
(3)へつづく。