オドラデクの心配事

日常にゆるやかに乱入する舞踏家の由無し事

孔玉振との出会い

2010年02月27日 | 道路劇場の記録
東奥日報  
2001年5月25日 から転載

韓国での道路劇場

この一年、大きな公演が続いた。
日韓文学シンポジウム。南太平洋バヌアツ公演。日韓アートフェスタ。
準備と後始末に翻弄された。
企画。制作。広報。主演。庶務。
舞踏家は何でもこなさなければ青森ではつとまらない。
どこでも踊りたいわがまま舞踏家に休息はない。
打ち上げの宴席も次なるささやかな妄想を
現実に仕立て上げていくための幕あいでしかない。

二十七年前、山形で出会った異形の舞踏に魅せられ、
小さな集落を訪ね歩く道路劇場をはじめた。
生活の現場に出かけ、ばあさんや子供たちの前で
恐る恐る危険な遊戯を繰り返してきた。
「踊る」の意味を未消化なままに、
「踊る」を続けることに、絶対の誇りと微かな希望を託し格闘してきた。

八年前初めて韓国と向き合った。
そしてこの五月初旬が六度目の訪韓となった。
黄芝雨氏。社会性の強い作品を発表し続け、
詩の実験的な試みを展開している韓国の現代詩人である。
日韓文学シンポジウムを機に私たちは意気投合した。
ソウルに着いて早速、私は黄氏を訪ねた。
氏は翌年開催の日韓ワールドカップサッカー開会式のシナリオを執筆中であったが、
その多忙な中、五日間も時間を割いて国内を案内してくれた。

光州出身の氏は、全羅南道の潭陽(タミャン)という町に私を連れていった。
のどかな田園風景の広がるその町は竹の特産地で、
折りしも町をあげての竹祭りが催されていた。
竹博物館の特設舞台では、夕刻から舞踊や音楽の公演が催されていた。
公演の最後にテグムと呼ばれる竹製の伝統楽器が登場した。
国立国楽院指導委員の元長賢氏が特別ゲストとしてフィナーレを飾った。
私はそこで元氏の演奏をバックに踊る機会を与えられたのだ。


二千人の観客は、ほとんどが地元の農業者である。
深い祈りをたたえたテグムの心地よい響きにシンセサイザーが重なり、
私は踊り始めた。
間もなく観客の中から笑い声が聞こえた。
しばらくして拍手が起った。
踊り終えた私を大きな拍手が包んだ。
その拍手の意味を黄氏から聞き、
私はハンマーで殴られたようなショックを覚えた。

「観客は孔玉振という舞踊家にあなたの踊りを重ね合わせて見ているのです」。

孔玉振は、七十歳を過ぎた女性舞踊家である。
一九七○年代から心身に障害のある人の動きにも似た
独特の踊りで全国に知られている。
その仕草がとても滑稽なので、はじめは観客はよく笑う。
見終わって哀しさがこみ上げ涙を流すのだという。
彼女は年老いてから脳こうそくで倒れ半身マヒとなった。
が、不自由な体で再び踊り始めた。
その踊りには韓国独特の概念である「恨(ハン)」が込められているという。

黄氏は強調した。
「民衆が反応したことは大きな成功です」
久々に耳にする言葉の響きを私は胸の内で転がした。
孔玉振に会おうと思った。
黄氏の心遣いに深く感謝し、新たな予感を抱いて真新しい仁川空港を後にした。

卵の叫び

2010年02月26日 | 道路劇場の記録
河北新報青森県内版 「日曜随筆」
1999年11月28日 から転載

十一月二十六日。水戸市郊外の閑静な住宅街。
一角にある近隣公園で踊る。観客は老夫婦と犬と犬の散歩者。
ボール遊びに興じる子供数人。
晩秋の日没はあっという間だ。

大学の同窓会で踊るようにと悪友に下知された。
その上京のついでに、大学時代の恩師に会うため水戸に立ち寄ったのだ。
改札の向こうに見えるなつかしいたたずまい。
一瞬にして二十数年前の記憶が引き戻される。

大学の発生学研究室。
毎日のように顕微鏡に向かい、イモリやサンショウウオの卵をのぞき込んでいた。
つやつやの輝く受精卵は、間もなく大きく二つにくびれ分割していく。
それは一個の生命体の最初の最もダイナミックな行為だ。

受精卵という丸い宇宙は、自らを二つに切り分ける意志を内包している。
やがておびただしい分裂をくり返し、何億という分身をつくっていくのだ。
最初に等価に分かれたはずの細胞は、分裂をくり返していくうちに、
何かをきっかけに皮膚や内臓や骨など形の異なる細胞に分化していく。

そのことが面白くて深夜、米粒大の卵を裸にむき出しにしては、
ひっくり返したりつついたりして眺めていた。
遺伝子組み替えなどという超ミクロの世界からは対極にある、
具体的で命まるごとの始まりの物語に魅せられていた。

舞踏家は、チャンスがあればどこでも踊ろうとする。
組み込まれたステージでなくとも、森の中や海辺の砂浜、雪の中や市場の雑踏、
宴席やまじめな講演会など、体験できるあらゆる場面で身体をさらそうとする。

踊ることは、表現や演技ではない。存在の主張、命の叫びだ。
卵が音もなく分裂していく密かな行為はすぐれて舞踏的だ。
それは危機に立つ生命体の命がけの行為である。

老科学者は八十路を迎えたとは思えないほど、かくしゃくとしていた。
恰好の老夫婦は、踊りたいという舞踏家のわがままを素直に受け入れてくれた。
夕映えのする公園で犬に吠えられ、ボタ山で落ち葉とたわむれる正ちゃんダンスを
遠くの方で薄暗くなるまで見守っていてくれた。

親しみへの奥の手

2010年02月25日 | 道路劇場の記録
河北新報青森県内版 「日曜随筆」 
1999年7月25日から転載


六月下旬。大学の授業で踊る。
土曜の四時。夜間部の学生が八十数人。
いかにも国立大学らしい変哲のない階段教室だ。
 急きょ楽屋となった研究室。
じっとしていれば何事もなく授業が終わる。
学生も突然の正ちゃんダンスに出くわすことなく人生を終える。
一瞬かすめた甘い躊躇を払いのけ、舞踏家は授業中のドアを開いた。
教員だけが知ってい静かな乱入。
ざわめきとニヤニヤが次第に凍りつき、約束の二十分があっという間にすぎた・・・。

数日後、札幌の先生から礼状が届く。
学生の中には、精神科の看護婦経験者もいた。
彼女は、踊る私を向こう側に行ってしまった人として疑わなかった。
舞踏家が立ち去り、先生が素性を明かすと、
授業はいつになく和やかな雰囲気で進んだ。
先生にもあんな人間くさい友人がいたのだ、
と学生が一様に安心したらしいと結んであった。
「もしかしたら学生たちは、少年少女の日々に置き去りにした、
体いっぱいの情けない宿題の答えを一瞬見つけたのですよ」。
片山健の画集を眺めながら宗教学の先生に私は電話でこたえた。

小さな集落や露店の宵宮で踊ると子供たちは興奮して近寄ってくる。
恐いもの見たさや弱いものいじめの衝動。
それとともに踊り手の人間くさい情けなさに
無意識に親近感を抱いてしまうのかもしれない。

そもそも私は、ダンスがうまく踊れない。
リズム感がなくステップがうまく踏めないのだ。
三歳児が音楽に合わせようと片足で床を踏んでいるようなものだ。
それに笑顔がうまく作れない。
いつも無理して笑い顔を作っている。
アルバムの少年は、歯を見せて思い切り作り笑いをする写真ばかりだ。
ついでに言えば赤面症でもある。
人前で話したり、主張するなんてドキドキものだ。
胴も長い。がに股だ。指も短い。体も硬い。
そのうえ最近は髪の毛が薄くなり、小腹が出はじめたのだ。
平たくいえば、私のダンスは、コンプレックスが動いているようなものである。
しかし、このくらいでなければ舞踏家としては失格である。
コンプレックスこそ固有の表現になり得るのだ。

それらを丸ごと日常に放り出し、偶然に出くわした人と迷宮入りの宿題を共有してしまおう。
抜き差しならない関係から舞踏は始まっていく。
がに股のぎこちない歩行。リズムが外れたステップ。
少年の作り笑い。稚拙な回転。赤面舞踏。
それらは見るものを親しみの果てへと導く舞踏家の奥の手なのだ。



新町の道路劇場

2010年02月24日 | 道路劇場の記録
河北新報青森県内版「日曜随筆」
1999年7月4日 から転載   

六月。青森市の新町通りで踊る。
ダンスは、いつも気まぐれに始まる。
古着で作った提灯ブルマと着物シャツ。
お気に入りの衣装だ。
スポンジに水を含み、顔、首筋に白塗りする。
何百回このように塗っただろうか。
手の甲、二の腕、太もも、水虫の足指。
見えるところは隈なく化粧する。
ぼさぼさのカツラをかぶると怪しげな舞踏家が出来上がる。
気を丹田に沈め、店のドアに体を預ければ正ちゃんダンスの始まりだ。

かつて「暗黒舞踏」「前衛舞踏」と呼ばれた舞踏は、
いまや都会ではファッションとなってしまった。
暗黒とはホラーではない。それは日常の闇を見つめ、恐れ、祈ることだ。
前衛とは、破壊ではない。それは恥じらいと勇気をもった危険な遊戯だ。
暗黒にこだわり、常に前衛であり続けることは正しいが、なかなか難しい。

昨年青森市で開催された日本文化デザイン会議は、
寺山修司の市外劇を一日だけ復活した。
市外劇は大袈裟に行われた。
それは、一瞬新町通りを劇場に変えたが、
残念なことにレトロなファッションショーの域をでなかった。
もっと質素に、もっと軽々と日常を異化できないものだろうか。

松木屋デパートの前は、土曜の夕方にもかかわらず閑散としていた。
やがて、母娘連れがこわばった顔で遠巻きに擦れ違った。
信号が変わる。ぷるぷると震えながら横断歩道を渡り始める舞踏家。
信号待ちのタクシーから運転手と客がじっと見ている。
慎重に横断しているうちに途中で信号が変わってしまった。
間もなくしてパラパラと回る赤いランプが音もなく近づいてきた。
頑丈な体格の男女が車から降りてくる。
だれかが携帯電話で警察に通報したのだ。
知らぬふりをしてじりじりと移動して行く。
知人が警官に説明しているのを横目に見ながら、
舞踏家はいきなり走って車道を横切った。
向いの「紅屋」に飛び込み、今度は店の中で踊るのだ。

清潔に整頓された社会は異物を同化する力がない。
不可解なものへの免疫がないから、直ちに排除の論理が働く。
厄介なものには関わらないほうが楽に決まっている。

「ふりふりのついてない白いやつをください。」
「踊りに使うのです。これから道路で踊るのです。」
二十数年前、舞踏家は、女もののパンティーをこの店で買ったのだった。

顔を赤らめ、中年のおばさんに一所懸命説明している少年舞踏家がそこにいた。
目当てのものはズロースと呼ぶことさえ少年は知らなかったのだ。
    
   

ザマヲミル。ザマヲオドル。

2010年02月22日 | 道路劇場の記録
巨大なチャンスンが静かに岩木山の方角を睨んでいる。
韓国では守り神のように村々の入り口に建つ魔除けの木柱だ。
韓国の陶芸家と同行してきたチャンスン制作の名人が
松宮氏と意気投合して出来上がった作品である。
先ごろは展示館の入り口に「NAOMI」という陶芸作品が設置された。
ギリシア陶芸界の大御所マロ・ケラスオッティさんの愛くるしい作品である。
マロさんは五所川原世界薪窯大会でおなじみの少女のように
天真爛漫なすてきなおばさんだ。

海外で活躍する陶芸家たちが毎夏この大会に集まり、
朝から晩まで必死に焼き物のことだけを考えて過ごす。
互いの手の内を公開し、金山の土で作品を作り、
批評し合い、新たな窯作りにも挑む。
一ヵ月のメニューはすこぶる濃い。

大会は津軽金山焼窯元松宮氏の発案と情熱に多くの人たちが共感し、
協働して産まれたものだ。
こんな大会が開催され続けていることは、
伝統やしがらみで身動きの取れない日本の陶芸界に
大きな風穴を開けた事件として痛快だ。

松宮氏のアイデアには国境も制度もしがらみもない。
想像力で飛行する人力飛行機ソロモンのように自在だ。
共感する周りの人たちをすうっと引き寄せ、
ロクロを回すようにしてアイデアを一気に造形にしてしまう。
出会ってしまった人々は、いつのまにか氏の夢に自分自身を
重ね合わせているのに気づく。

松宮氏は周りに集まったヒトビトを窯に放り込み高温で
一気に焼き締める術を知っている。
氏の手中では熟練した手わざ、純粋な驚きや共感、
欲望やささやかな祈りに至るまで、るつぼとなって
焼き締められ金山焼という巨大な器として生まれ変わるのだ。

松宮氏はすべてを許しているように見える。
許すことは自分のザマを晒すことである。
小手先ではごまかしがきかない本質がザマというものである。
氏は出会いの瞬間から人を安心させる。
それは深く、温かく心地よい。出会った人は必ず元気を貰う。
鯵ヶ沢なまりの津軽弁と精神科の看護師という経歴がそうさせているのかもしれない。

第一工房の奥に「社長室」という木札の掛った六畳の小部屋がある。
かつて松宮氏が寝泊りしていた部屋だ。
今は昼夜を問わず窯焚きする従業員の仮眠室となっている。
窯場で踊る私に、氏は決まってこの部屋を提供してくれる。
ここで着替え、薄暗い洗面台の前で白塗りし、
整然と棚に並ぶ窯入れ前の陶器たちの間を祈るようにすり抜け、
ザマを踊るために窯場に向かうのだ。

訪れるたびに新しい建物が窯場の風景を刻々と変容していく。
陶器の産地を作るという氏の夢が着実に進んでいるように見える。
チャンスンは風雪に晒され、ずいぶんと色あせてきた。
部屋の木札とチャンスンは朽ちるまでなくならないことを願っている。

あおもり草子 174号(2007年6/1)から転載