人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全世界の人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集5(10)

2024年09月01日 19時00分41秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 5 - 10. 誇りたかった神様を知ろう (1959年2月8日)

1959年2月8日(日)、前本部教会にて

聖書拝読:創世記 1:24-31


<祈り>

お父様、お父様が本来の楽園を失い悲しまれたその心情を、今この瞬間、私たちが理解できるように許してください。アダムとエバの悲しみが私たちの悲しみであることを、これまで私たちは知りませんでした。また、私たちの悲しみよりも、お父様の悲しみがどれほど大きかったかを、私たちは体も心も感じることができませんでした。お父様が私たちの知らぬ間に涙を流し、無限の悲しみと無限の苦しみの中におられたことを、今この瞬間、体と心に感じさせてくださいと、切に願い求めます。

アダムとエバの堕落によるお父様の悲しみも大きかったですが、復帰摂理の使命を担い、地上に降り立ったイエス・キリストがすべての使命を全うできずに十字架で亡くなったことも、お父様にとって言葉にできないほどの大きな悲しみであり、孤独であり、苦しみであったことを、今この瞬間、私たちが理解し、そのすべての悲しみを体と心で感じさせてください。

私たちの先祖が、お父様を裏切ったために、やむを得ず怒りと悲しみに満ちた歴史の道を歩んできたことを思い、今日の私自身が、お父様の前でさらに悲しみを加える哀れな立場に立たないようにお許しください。アダムとエバの悲しみを感じ取り、イエス・キリストの悲しみを理解できるような姿勢を私たちにお許しください、お父様、切に願い求めます。

今、私たちの体と心が、単なる私たち自身の体と心に留まらず、私たちの心が、お父様の心を代わり、私たちの体が、お父様の形を代わることができるように許してください。私たちが、悲しみの心情を持つお父様を証し、呼び求めることができるこの時間をお許しください。

威厳を立てることのできない私たちではありますが、お父様によって立てられ、見つけ出されたお父様の内なる心情を知ることのできる群れとなるようにしてください。愚かな姿ではありますが、体と心を合わせてお父様に祈り求めますので、この時間、憐れみの手を伸ばし、愛の光を注いでください。お父様の勝利の軍勢として立ててくださり、悪魔と戦って進んでいけるお父様の息子娘となれるよう、愛するお父様、切に願い求めます。

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イエス様が去った後の2千年の歴史の中で、私たちの先祖が天倫の道理を全うしなかったため、多くの預言者たちが血を流した事実を私たちは知っています。そのような事実に対して憤りを持ち、彼らの過ちと罪を背負い、悔い改めることのできる子供たちとなれるよう、切に願い求めます。すべてをお許しください。

先祖たちが犯した歴史的な罪状を私たちは知りました。今、私たちを立て、お父様が求めておられる生命の基準を見つけ出し、立てることができるように許してください。そして、本来のアダムとエバに代わる実体として立つことができるお父様の息子娘となれるよう、切に願い求めます。

今、私たちの周りには無数の悪魔が徘徊し、狙っていることを知っています。私たちの行く道を導いてください。そして、無数の悪魔を打ち負かすための内的な準備と外的な準備を整えるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。

お父様、この時間を通じて勝利の基準を立て、お父様の栄光を現してください。もし眠っている息子娘がいるならば、その者たちを目覚めさせてください。お父様がその者たちを親しくお世話してくださることを切に願い求めます。そして、無数の悪魔が入り込むことのないこの時間となるように許してください。愛するお父様、切に願い求めます。

この時間、私たちが、お父様の心情を似ることができるように導いてください。そして、お父様の憤りの心情を体験できるように許してください。お父様の切なる心情に私たちが共感し、ただお父様の忠告と助言を仰ぐことができるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。

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この時間、民族を代表して集まっている数多くの祭壇の上に祝福を下してください。地方で切なる心情を持ってお父様の前に訴えている孤独な子供たちがいることを知っています。お父様、その者たちを祝福し、一律の恩賜で導いてください。内的な使命を全うすることができるように、復活の歴史を彼らに加えてくださることを切に願い求めます。

この一時間をお父様の前にすべて委ねますので、最初から最後まで導いてくださることを切にお願い申し上げます。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


<説教>

今日の本文の言葉は、私たちが非常によく知っている言葉です。創造の最初の日から六日目まで、神様は創造された万物を見て「良し」と言われました。すなわち、善であるとおっしゃいました。この「善である」という言葉の中には、無限に誇りたい神様の内なる心情が含まれていたことを、私たちはもう一度思い出さなければなりません。

神様は六日間で創造された万物を見て、誇りたく思われました。すべての被造物を見つめた時、無限の喜びを感じておられたのです。その喜びをもって「善である」と繰り返しおっしゃられましたが、この言葉は誰に向けたものでしょうか?この言葉は、天使長に向けたものではありません。万物に向けておっしゃられた言葉です。神様が万物に対してそのように切なる心を持っておっしゃったということを、私たちは理解しなければなりません。

しかし、創造されたすべての被造物がエデンの園で「善である」と賛美されたにもかかわらず、その被造物は善の価値を失ってしまいました。神様が誇ろうとされたその意図が、万物の中で実体的に現れることができなかったのです。この悲しい事実を考えるとき、「善である」とおっしゃったその言葉が、悲しみの言葉となったことを私たちは再び思い出さなければなりません。「善である」とおっしゃったその言葉が、悲しみの言葉となったのです。真に神様の心情と事情を理解する真の人がいたならば、神様は御自身の大いなる労苦の手を経て創造された万物を見て、さらに大きな喜びを感じられたことでしょう。

しかし、「善である」とおっしゃったその言葉の価値基準を理解し、その言葉に応えてくれる捧げ物がなかったのです。このことを思い起こすと、被造物を愛されたお父様の心情には、悲しみが隠されていたに違いありません。本来、神様は「善」として創られたその被造物よりも、その被造物を創造されたお父様御自身をもっと誇りたかったのです。このことを私たちは理解しなければなりません。

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そのため、今日私が皆さんにお伝えしたいテーマは「誇りたかったお父様を知ろう」というものです。「誇りたかったお父様を知ろう」というテーマで、しばらくお話しさせていただきます。

お父様はアダムとエバを創造され、彼らが成長し、万物を支配し、善の理念圏内で言葉の価値を実現することを望まれました。また、アダムとエバを通して万物の前に誇ることができる日が訪れることを待ち望んで、アダムとエバを見つめておられたのです。この事実を私たちはもう一度思い出さなければなりません。

お父様がアダムとエバを見つめられるとき、彼らが完成の段階に到達し、万物を支配し、お父様の代わりに存在するその日を心の中で渇望し、待ち望んでおられました。お父様はアダムとエバを立て、長い時間をかけて万物を創造された事実を誇ることができる歴史的な一瞬を持ちたかったのです。また、アダムとエバを立て、彼らが「あなたの内なる性格と外なる形を似た実体として、あなたの心が私の心であり、あなたが喜べば私も喜び、あなたが応えれば私も応える、二つではなく一つの姿である」と言えるその日を待ち望んでおられました。このような天の心情を、今日私たちは探り、理解しなければなりません。しかし、このお父様の心情を人間の祖先が理解しなかったために、堕落したのです。この事実を私たちはよく知っています。

創造以来、お父様は人間の祖先を通して誇ることができる人、誇ることができる家庭が現れるその日を心の中で待ち望んでおられましたが、堕落によってその誇りの条件がすべて失われてしまいました。誇りの条件が悲しみの条件に変わってしまったのです。この事実を考えるとき、私たち堕落した人間には、すべての精力を注ぎ込んで、本来の父の内なる心情に刻まれている誇りを探り出し、それを引き出してお父様の前に誇ることができるその一日を見つけるために探し求める歴史的な責任が残されているということを、私たちは考えなければなりません。

被造物を創造されながら、一度も誇ることができなかったそのお父様、誇りが悲しみに変わり、誇りが涙に変わった天のその事情を、私たちは知らなかったのです。

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ですから今は、お父様が誇りたいと思われる本性を探さなければならないときです。元来の生命を探さなければならないときです。したがって、皆さんは今、お父様と対面することのできる本性の愛の心情を持つ存在として、お父様が誇りたかった本来の姿を備える必要があります。

お父様は悪魔を恥じさせることができる一つの実体の姿、誇ることができる一つの姿を6000年もの間待ち望み、探し求めてこられましたが、そのような人を見つけることができず、今日この時間まで来ています。この悲しい事実を私たちは知るべきです。

人間は誇りたいと願うものです。自分を誇りたくなるのが人間の心です。また、自分を中心にして、親や兄弟、子供、つまり家庭全体を誇りたくなる心があります。さらに進んで、民族を掲げて誇りたくなり、国家を掲げて誇りたくなり、さらに世界や天地を掲げて誇りたくなるのです。堕落した人間ではありますが、誇りたいという本心が皆さんの生活を支配し、これまでの歴史を支配してきたことを、私たちは知るべきです。では、今日誇りたいこの心を正しくないものとする原因はどこにあるのでしょうか?それは、人間が堕落したからです。

私たちは日常生活の中で自分自身を誇りたくなります。隣人に対してだけでなく、全世界の人々に対しても自分を誇りたくなります。自分自身を誇りたいという心は悪い心ではなく、本性の心です。それは天国に行ける創造本来の心なのです。

私たち一人ひとりが自分を誇り、家庭を超えて社会を超えて国家を超えて、世界にまで自分の名前を広めたいと思うのは、地上に生きる私たちの心情です。では、こうして誇りたいという心情が私たちの心を動かし、心を激しく揺さぶる原因は何でしょうか?それは、本性として誇りたかった心が私たちにあるからです。このような心があるのは、お父様と人間が一体的な理想を成し遂げたならば、私たちの誇りがお父様の誇りとなり、お父様の誇りが私たちの誇りとなる本来の関係があったからです。

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ですから、たとえ私たち人間が堕落してしまったとしても、そのような方向に向かって進んでおり、今日私たちはその万物の中心価値を見つけるために苦しんでいます。しかし、堕落した人間であるために、私たちの心に働きかけるすべての誇りの法則は順理的な法則ではなく、逆理的になっていることを、私たちは知らなければなりません。本来の心情に従って順理の法を求めて進むべき人間であったはずが、堕落したためにそれを失い、逆の道を歩まざるを得ないため、本来の心情が指向する方向と現実の環境とが対立していることを、私たちは知るべきです。

ですから、お父様を探し求める私たち、道の道を探し求める私たちは、今、誰を掲げて誇るべきでしょうか?自分を掲げて誇る前に、一つの中心を掲げてまずその者を誇るべきです。国を誇りたければ、自分を中心にして誇るのではなく、忠臣を立ててその国を誇るべきです。民族を誇るときも、一つの中心を立ててその民族を誇るべきです。家庭も同じです。

そのため、堕落した人間は自分を捨てて、自分を超えて、団体では団体の中心、道では道の中心、国家では国家の中心、世界では世界の中心、さらに天地においては天地の中心であるお父様を掲げて誇るという道を歩まなければなりません。それができなければ、お父様の前に誇りの存在として立つことはできないということを、私たちは知るべきです。

自分を中心にして自分が喜ぶために誇る人は、天理原則に反する条件を立てる者です。したがって、皆さんは自分自身の誇りの条件を超えて、相対的な存在を誇ることができなければなりません。相手の善を誇り、相手の特性を誇ることができればできるほど、その分だけ天に近づくことができるのです。

すべての人間は自分を超えて家庭を誇りたくなり、教会や国家、世界を誇りたくなる心が湧き上がっていますが、これまでの歴史の道のりで、また今日この地上で、真に頭を垂れて誇りたいと思える世界や国家、教会、家庭を見つけたことはありません。永遠に誇ることができる世界や国家、教会、家庭をまだ見つけていないのが人間です。

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私たち人間がたとえ不信の立場に立っていても、いずれにせよ、お父様の前に誇りの縁を結ばなければなりません。自分を超えて家庭を誇り、社会や国家、世界を誇らなければならない立場にある私たちです。ですから、私たちの心は常にその方向へと導かれているのです。

今、私たちは誇りたかった天の心情を思い起こさなければなりません。私を見つけるために、お父様が6千年間続けてきた労苦の歴史、血戦を繰り広げてきた悲惨な歴史の道を経て、今日私を見つけ出してくださったお父様を考えるとき、お父様は歴史のどの時点においても、人間を立てて誇ることができる条件を持っていませんでした。この天の事情を知るとき、今日の私たちは、お父様の前に自分を立てて誇ることができるものもなく、どんな条件を持って現れることもできません。

本来、善の楽園では、私たち個々をお父様が誇ることができました。私たち個々を立てて万物の前に誇ることができましたし、万物を立てて天使の世界の前に誇ることができました。誇りたかった本来の心が私たちから出発し、家庭、社会、国家、世界を通じて、私自身の誇りが天の誇りと縁を結ばなければなりませんでした。しかし、それができなかった立場にある堕落した子孫たちは、逆にその誇りの条件を立てるために自分を打つ歩みをしなければならない悲しい立場に置かれていることを知らなければなりません。

さらに、お父様の誇りの条件であったアダムとエバ、悪魔でさえも「あなたが誇ることのできる真の息子娘です。まさにあなたの愛を受けるにふさわしいです」と言って崇拝すべき本来のアダムとエバにはなれず、6千年という長い年月の間、悪魔の犠牲となってきました。このような人々を見つめるお父様の悲しみが、言葉に表せないほど大きかったことを、私たちは知るべきです。

今、私たちはこのような悲しみの中にあるお父様に、誇ることのできる条件を立てるべきです。一つが二つになり、二つが十になり、十が千になり、万を成し、民族や国家、世界を成して、お父様が目指される誇りの方向を探し求めていかなければならないのです。その方向を探し求めなければならない堕落した子孫であり、今日この地上に生きる人間です。

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したがって、皆さんは今、お父様が誇ることのできる本来の世界に向かい、お父様が誇ることのできる主権に向かい、お父様が誇ることのできる本来の人間に向かい、お父様が誇ることのできる本来の生命と本来の性質と本来の愛を求めて進まなければならない時が来たのです。

パウロは持っていた地位や学識があっても、自分を誇りませんでした。彼は自分の民族を立てて誇ることのできる背景があり、自分の教派を立てて誇ることができ、自分の国家を選ばれたイスラエルとして誇ることができましたが、彼の心に誇りたかったのは、お父様が掲げられた誇りの条件だけであったことを、皆さんは知るべきです。お父様が誇りたかったその誇りの条件を握りしめて戦い抜いたパウロの生涯を、皆さんは知るべきです。それだけでなく、ノアの時代から今日まで、お父様の前に立てられた無数の先祖たちは無限の苦しみを味わいました。

では、お父様はどのような条件の下で私たちに向き合われるのでしょうか? 悪魔世界で最も嫌がる条件を立てて私たちに向き合われるのです。このことを私たちは知るべきです。お父様は私たち人間が信じず堕落したので、信じることのできない環境で信じるように強調し、食べれば死ぬ危険な状況で食べないように強調された方でした。

したがって、私たちの先祖たちは、お父様の言葉を信じて実行することが難しい環境の中でも、その言葉通りに実行してきました。ノアは逆境の中で120年間、同じように信じ続けました。襲い来るすべての迫害や侮辱を断固として排除しました。お父様の心情に通じようとする心が切実でした。自分が誇りたいと思うどんな条件よりも、社会のどんな誇りの条件よりも、お父様が誇りたいと思われるその条件が大きく、尊いことを知り、従ってきました。

そのような道を歩んできたノアだったので、たとえ万人を水で裁いても、天を裏切り不信するその群れが抗議できるような条件は成立しませんでした。そのようなノアは、お父様が誇ることのできる人物でした。天的な誇りの価値と実体的な価値を立てたのがノアの審判です。ノアの息子娘たちは、ノアが中心として慕っていた、すなわちお父様が立てようとしている誇りの心情を通らなければなりませんでしたが、その中心を離れて自分を中心に考えました。そこから天倫は逆転していきました。

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アブラハムも同じです。カルデアのウルからすべてを捨てて出発することは、簡単なことではありませんでした。アブラハムは悪魔世界で誰よりも幸福で楽しく生きることができる人でした。彼の妻は非常に美しく、彼の生活は豊かでした。

お父様は悪魔世界で誰よりも豊かな生活の条件を備え、誰よりも楽しく生きていたアブラハムを呼び、その反対の立場である逆境の中に追い込まれました。自分の民族が歩んでいない道、家族や民族の誰もが歩まなかった逆境の場所へと追いやる、すなわちカルデアのウルを離れよという命令をされたことを、皆さんは知らなければなりません。

アブラハムは、自分を超えて民族と子孫を理想的な理念の世界へ導いていくお父様が存在することを誰よりも深く感じていた人でした。アブラハムは、自分が現実に生きている生活が、民族が生きるべき誇りの基準ではないことを知っていました。このような心情を持った彼にお父様の命令があったとき、彼は自分のすべてを捨てました。それは簡単なことではありません。楽しく生きていた家庭とすべての財産を捨て、ハランの荒野に向かって進んだアブラハムの事情は悲惨でした。しかし、今日たとえ哀れな放浪者の姿であっても、今日たとえ誇ることのできない立場や環境に置かれていても、いつかは誇る日が来ると信じて進んでいくアブラハムの歩みは堂々としていたのです。

どんな逆境や困難が襲いかかってきても、それを百回千回乗り越えていく覚悟を持ち、お父様が目指す誇りの楽園を求めていく心は、その時代の誰よりも大きかったことを、皆さんは知らなければなりません。

このようなアブラハムの心情と、誇ることのできる一つの相対的な存在を探し求めていたお父様の心情が見えない理念圏の中で何らかの合一点を結んだからこそ、お父様はアブラハムにお父様御自身が理想する絶対的な理念の楽園を掲げ、誇りの祝福を授けてくださったという事実を、私たちは知らなければなりません。

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こうしてアブラハムはお父様の前に信仰の祖として祝福された立場に立つことになりましたが、その後の子孫たちは、自分たちがとどまっている場所が誇るべき場所であると思い込んでいました。民族を超えて世界に向かって進むべきなのに、彼らはそれを知りませんでした。彼らはただ一箇所に留まり、自分たちの誇りを握りしめていたため、お父様が誇ることのできる理念の時代からますます遠ざかっていきました。その結果、人間は悲しい歴史の道を歩むことになったことを、皆さんは知らなければなりません。

モーセもまた同じです。華やかなファラオの宮殿で40年間、誰にも劣らない裕福な生活を送りました。しかし、羨まれることのない生活環境の中で生きていたものの、彼はお父様が民族を立てて誇ることのできる日を誰よりも待ち望んでいました。エジプトで400年間、苦しみの中で呻吟している哀れな民族でしたが、いつかはお父様が必ず彼らを祝福し、約束の地カナンに導いてくださることを信じていました。新たな希望の楽園を築き、どの民族や国家にも劣らない国、お父様が最も誇りとされる地上天国を築いてくださることを、モーセは望んでいました。

彼は自由な環境で不自由なことなく生活していましたが、それをすべて拒絶し、誇りの条件としませんでした。むしろ彼は呻吟し、苦しむイスラエル民族をお父様の前で誇りたかったのです。さらに進んで、アブラハムに祝福されたカナンの地、カナン七族に奪われたその地を慕い、誇りたかったのです。そのような心情がお父様がカナンの地にイスラエル選民を立てて誇りたかったその心情と通じたからこそ、お父様は民族の前にモーセを立ててイスラエル民族を導き出されたのです。このようなお父様の事情があったことを、私たちは知るべきです。

モーセが60万の群衆の前に現れたとき、イスラエル民族はモーセがそのような内なる心情を持って現れたことを知る者は一人もいませんでした。大多数がモーセに反対しました。しかし、お父様は多くの奇跡と奇蹟をもってモーセが神に代わり、イスラエル民族が生きるための誇りの楽園へと導く責任者であることを認識させ、そのモーセの心情を理解させてイスラエル民族を引き出しました。

それならば、イスラエル民族は誰よりもモーセを天に立てられた者と知り、最後までモーセを誇ることができるべきでした。そのような民族であるべきでした。しかし、天の権威を持ってファラオの宮殿に現れ、宮殿を討つときは、神に立てられた者であり私たちの指導者だと喜んでいましたが、荒野に出てみると、些細な環境に直面し、イスラエル民族を導くことができない存在だと不信しました。

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天が誇りの人物として立てたモーセに対して、イスラエル民族は誇りの指導者、誇りの代表者として認識し、彼の悲しみは民族の悲しみであり、彼が行く道は民族の運命を解決するための道であり、民族を導くのも民族を救うためであることを知り、日々モーセを中心として生活していた人がいたならば、60万の群衆は荒野の道で全員倒れることはなかったでしょう。

誇らなければならないモーセを恨んだその日から、従うべきモーセを裏切ったその日から、迎えるべきモーセを迎えられなかったその日から、お父様の誇りとモーセの誇りと民族の誇りは消え去りました。モーセによってこの使命を成し遂げるべきでしたが、それが成し遂げられませんでした。民族に代わって立てられたモーセを民族が裏切りました。ここからモーセはファラオの宮殿でカナンの地を憧れて生きていたとき以上の悲しみを感じたことを知らなければなりません。

モーセは希望の楽園であるカナンの地へと導くために民族を荒野に導き出しました。荒野で民族が拒絶し、不信する環境の中でも民族を導かなければならなかったモーセの悲痛な心情は、言葉では言い表せないものでした。民族全体が誇るべきでしたが、それを知らず無視する民族は、即座に滅びるべきです。もしイスラエル民族がモーセの心情を理解していたなら、不平を言うことはできなかったでしょう。

飢えに苦しむ民族を見つめるとき、モーセは飢えに苦しむどのイスラエル民族よりも壮絶で深刻な立場で天に向かい、彼らに祝福を求めて祈願しました。そのような心が天を動かしたのです。モーセが自分の立場を忘れ、自分たちのために祈っていたことをイスラエル民族は夢にも思いませんでした。

イスラエルの60万の群衆が滅びないためには、モーセが彼らよりもさらに飢えていて、彼らよりもさらに悲惨であったことを知るべきでした。また、民族を救おうとしていたモーセであったことも知るべきでした。したがって、モーセを永遠の後世の子孫の前に天の誇りの条件として立てるべき民族であったのです。しかし、それにもかかわらず、逆に後退し、反対の立場に立ったとき、モーセの心情は言葉にできないほど悲しかったのです。

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さらに、命を懸けて天を敬うモーセの意志に従って進んでいくべきであったことを民族が知らなかったとき、それによってモーセが悲しんだだけでなく、天はモーセ以上に悲しみました。モーセの悲しみよりも天の悲しみがさらに大きかったということを、皆さんは知るべきです。民族を代表する指導者、誰よりもお父様が誇ることのできるモーセでしたが、民族の不信によって悲惨な結末を迎えることになった悲しい事情を、私たちは知るべきです。

お父様はイスラエル民族がモーセに従ってくれることを望んでおられました。お父様がモーセを立てようとされるほど、従ってくれることを望んでおられましたが、その希望は消え去り、イスラエル民族は望まぬ悪魔の犠牲となりました。

お父様がモーセを通してファラオの宮殿で40年、ミディアンの荒野で40年、荒野の道で40年間一貫して望んでおられた希望は、跡形もなく消え去り、誇ることのできる民族と土地は失われてしまいました。それでもモーセは不甲斐ないイスラエル民族を異邦の国々の前に誇りたかったのです。しかし、このようにお父様が立てられた立派なモーセを、イスラエル民族は誇ることができませんでした。

では、将来、終わりの日に世界を動かすことのできる天の権威を持つことができる国家とは、どのような国家であり、その民はどのような民であるでしょうか? お父様が掲げられた者を天以上に誇ることのできる民と国家であることを、皆さんは知るべきです。それが当然ではありませんか?

イエス様を一度考えてみましょう。イエス様はお父様が4千年もの間労苦されて作り上げた結晶であり、愛と心情の化身でした。また、彼の言葉と事情と希望と心情は、お父様の全体の属性を代弁していました。お父様の希望を代弁し、誇ることのできる一つの存在として立てられたのがイエス様であったことを、私たちは知らなければなりません。

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お父様が4千年という長い年月を耐え忍んだ末に、イエス様を御自身の代理人として、誇ることのできる中心存在としてお送りになったのですが、そのようなイエスも、この地上に来て自分を誇ったことは一度もありませんでした。お父様が喜ばれる場所で、イエス様は一度も誇ったことがなく、お父様が喜ばれるほどイエス様を掲げて誇ってくれた者もいませんでした。

イエス様はお父様の代理として来られたため、自分自身を誇り、家庭や教団や民族や世界の前に誇りたいという心が切実であったのです。それが当然ではありませんか? 彼は4千年もの間待ち望まれていた誇りの結晶として来られたので、自分を家庭や社会や国家や世界の前に誇りたいという心が切実であったことを、皆さんは知らなければなりません。

そのようなイエス様が数万の群衆の前に自分を掲げて誇る基盤がありませんでした。お父様もイエス様を立てられたとき、天地のすべての被造物の前に誇り、悪魔の前にまで誇るために立てられました。それにもかかわらず、誰一人として彼を誇らず、一つの家庭も、一つの教団も、一つの民族も、世界も彼を誇りませんでした。

このように天を裏切った民族の子孫である私たちは、天の前に威信と体面を立てることのできない者です。歴史的な罪過を犯した私たち人間は、自分を掲げて誇ることのできる位置に立てず、そのような環境を持つこともできませんでした。それゆえ、これまで誇ることのできる一人の人間や、一つの教団や、一つの民族に出会えなかったことがお父様の無限の悲しみであることを、皆さんは知るべきです。

イエス様はお父様が彼を4千年の歴史を代弁して立てられたとき、「畏れ多いことです」と涙を流さざるを得ませんでした。しかし、イエス様の心に刻まれていたのは、その立てられた使命が成し遂げられなかったことでした。彼は自分を弁明するよりも、「私を立てて苦労されたお父様の願いがこんなことになるとは!」と嘆息し、天の前で頭を垂れたイエス様でした。したがって、皆さんは今、このような心情を持っていたイエス様を誇らなければならない時が来たということを知るべきです。

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今日のキリスト教徒たちは、イエス様が個人と家庭と民族と世界の前に立てて誇りたかったその一日を成し遂げ、彼を迎えなければならないことが自分たちの使命であることを知るべきです。これはお父様がこれまで望まれている願いです。今、お父様がエデンの園を創造され、人類を立てて誇りたかったその本来の心情を、皆さんが理解するべき時が来ました。

お父様の御子であることを誇らなければならなかったイエス様、栄光の姿で誇らなければならなかったイエス様が十字架を背負わなければならなかった惨めな姿となったこの悔しい事実を、私たちは知るべきです。そして、十字架の刑具を背負いゴルゴタに向かって歩んでいたイエス様の心、民族に対して、天地に対して、悪魔に対して抱かれたその怨念の心情を解き放ちたいという心が、皆さんの胸に満ちていなければなりません。そのような心が必要です。天の使命に対する切なる心情が染み渡るべきです。

心情の結晶として来られ、人類の希望の結晶として来られ、人間に天と切り離せない父子の縁を結ばせるために来られた真の父を怨念の場所に追いやったのは私たちの先祖であり、悪魔が行った行為であったので、今日私たちはその先祖たちの罪を清算し、悪魔を裁きたいという燃え上がる心が必要です。今も私たちの血には悪性の血が流れています。それゆえ、私たちは「天よ、力をお与えください。天よ、私をお許しください!」と叫ぶ心を持たなければならないのです。

誇りの楽園が悲しみのゴルゴタに変わるとは、これがどういうことですか? 今日、信者たちは十字架を誇ることはできますが、天のために十字架を背負ってはいません。イエス様を追い求めながらも、イエス様を誇ることができず、天に対して切なる心情を持ち、生ける祭壇を求めてさまよっていたイエス様の心情については誇りませんでした。イエス様が天と地で探し求めた一人の人間と一つの家庭と一つの民族を握りしめて、天の使命を成し遂げようとした心情は知られていません。

ですから、すべてを捨ててでも私たちが最後に行うべきことは、歴史的に犯されたすべての罪を清算し、天の心情を体験し、天がそのように探し求めていた一人の人間として現れることです。

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それによって、そのような家庭と民族が現れ、その後にはそのような選民が現れ、そのような天民が現れなければなりません。人間の事情がどれほど悔しく、どんな複雑な事情があっても、それが問題にはならないのです。そのような使命を成し遂げる心が皆さんから湧き上がらなければなりません。パウロはそのような心情を持った人でした。

イスラエル民族のために来られたイエス様は哀れな方でした。ダマスコ途上でイエスに出会ったパウロは、その日からイエス様の前に顔を上げることができない、すなわち顔向けできない自分であることを悟り、イエス様のために生きようとしました。彼はイエス様のために一生を捧げようという心情にとらわれて「死ぬとも生きるとも、あなたの栄光を現すことができるよう導いてください」と祈りながら、イエスに対して変わることのできない心情を持っていたため、キリスト教の新たな基盤がここから築かれることになったことを、皆さんは知らなければなりません。

今、私たちはイエス様を誇らなければなりません。彼の心情を誇らなければなりません。イエス様の事情と願いを誇り、さらに進んでイエス様が探し求めていた花嫁を誇らなければなりません。イエス様が探し求めていた花嫁を誇ると同時に、イエス様が探し求めていた家庭、民族、国家、世界を誇り、その後にようやくお父様が私たちを掲げて誇ることができることを知るべきです。このようなことを考えるとき、私たちが誇りたいと思っている私たちの前に立ちはだかっているものは何でしょうか?

私を阻み、私を裂き、私を迫害する十字架が立ちはだかっています。しかし、それを誇りながら進むことがキリスト教信者が進む道です。これは無限に悲しいことです。

実体のイエス様を誇るべきなのに、ゴルゴタの十字架を背負ったイエス様を誇らなければならない条件が人間の前に残されたため、その十字架を誇らなければ、皆さん自身が誇りの条件を立てることができません。天のために無限に苦しんだというこの一つの誇りの条件を立てなければ、お父様の心情やイエス様の心情を持つ、すべての被造物に対して誇りの条件を備えた天の息子娘たちにはなれないことを知るべきです。

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心ではそのような世界を知っており、感情の感覚ではそのような事実を知っているとしても、実際に皆さんが活動する生活圏内で誇りの条件を備えなければなりません。イエス様が十字架の上で「すべてが成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言ったのと同じその基準を持って進まなければ、お父様が私たちを信じてくださることも、イエス様が私たちを信じてくださることもなく、お父様が私たちを立てて誇ってくださることも、イエス様が私たちを立てて誇ってくださることもないことを、皆さんは知らなければなりません。

イエス様が去った後の2千年の歴史が経過しましたが、これまでイエス様を誇りたいという心に燃えている人に出会ったことがありますか? そのような教団や指導者になれなかったなら、それは堕落した雇われの羊飼いです。自分の体が裂かれ、脇腹に槍が刺さり、額に茨の冠が被せられ、手足に釘が打たれて死ぬとしても、天の前に誇りの条件を立てるために十字架の丘を甘んじて越えて行かれたイエス様の姿を、皆さんは誇らなければなりません。

イエス様は栄光の姿を誇ることのできる条件を備えていましたが、それを表すことはありませんでした。その代わりに哀れな一人の罪人の姿で生きられました。そして、死の道においてもお父様の前に誇らなければならないという心情を持って進まれたイエス様の生涯を見つめ、今日私たちもそのような心を持ってその丘を越えていかなければならないのです。

マグダラのマリアが復活したイエス様を抱きしめようとしたとき、拒絶されました。復活した姿は歓迎されるものではありません。復活する前、生きているイエス様の悲しみを慰め、天と地の前に、悪魔の前に「すべてが成し遂げられた」という誇りの基準を立てるべきだったのです。このような歴史的な悲運のゴルゴタが残されたため、これまでのキリスト教徒たちはその丘を上がり下りし、上がり下りしているという繰り返しを続けています。上がっては下り、また上がっては下りするということを繰り返しているのです。

これまでゴルゴタを越え、主が永遠に私の花婿だと天と地に向かって叫んだ人は現れていません。「おお、主よ、私をお父様のもとへ導いてください」と祈る信仰者はたくさんいました。これまでのすべての人々は、イエス様を誇らなければならないその内的な事情を知らず、イエス様が来いとおっしゃるのでただ従っているだけです。イエス様の心情世界、その内的な事情を知らなかったのです。

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お父様が誇りたいと思われたものがイエスにおいて結実するべきでした。しかし、その実を結ぶことができなかったために、イエス様は花嫁を立て、その実を結ぼうと2000年の間待ち続けてきたのです。このことを知り、皆さん自身はイエス様の花嫁になる資格を備えるべきです。そうして、お父様が誇りたかった存在、イエス様が誇りたかった存在、さらに進んで皆さんが自分自身を誇ることのできる存在となってこそ、子羊の婚宴に参加することができるのです。このことを皆さんは確かに知るべきです。

親は当然、子供を誇ろうとします。自分を中心にしている前後左右上下のすべてを誇ろうとします。したがって、皆さんも自分の周りに属するすべてを誇ることができる人となってこそ、全体の主人であるお父様とイエス様の前に誇りの条件として立つことができるのです。

終わりの日にいる私たちは、自分自身を冷静に批判しなければなりません。私は誰を通じて誇っているのでしょうか? お父様は誰を通じて誇ろうとしておられ、イエス様は誰を通じて誇ろうとしておられ、私は誰を通じて誇ろうとしているのでしょうか?お父様を掲げて私を誇りたいと思い、イエス様を掲げて私を誇りたいと思い、すべての被造物を掲げて私を誇りたいと思っている私たちです。ですから、私たちは「お父様が誇りたかった本来の姿、お父様の心情を代弁した誇り高い姿がここにありますので、この体を掲げて悪魔の前に誇ってください」と祈ることができなければなりません。

お父様の誇りの心と生命の権限と本来の性質を備え、お父様が信じることのできる私となれば、お父様と私の間のすべてをすべての被造物の前に誇ることができ、万人の前に誇ることができ、三位一体の前にも誇ることができるのです。さらに進んで、悪魔でさえも「そうです。お父様の子供に違いありません」と告白せざるを得ないそのような位置に立たなければなりません。それによって初めて、悪魔が崇拝する基準を成し遂げることができるのです。

自分を誇りたければ、そのような基準を備えなければなりません。そのような基準が備えられていないならば、お父様が「良し」と言われたその基準に達することはできません。それは皆さんの責任です。皆さんは自分が誇りたくなるそのような基準を天に掲げることができなければなりません。そのような皆さんに対して、お父様が今、誇りたかったものを探し出してその位置に立て、世界の誇りとして天地万物の前に掲げようとされるのです。

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お父様が6千年間耐え忍んでこられたこの日を迎え、私たちも自分を掲げて誇りたいという心情が湧き上がるような息子娘がどこにいますか?私たちは自分を誇りたいのです。そのような心情の動機を持った皆さんであれば、自分を誇りたいと願うその誇りの対象の中心に自分を置いて、その中心的な誇りの基準を立てるために努力しなければなりません。

そうして、皆さん一人ひとりが掲げている誇りの基準が一つに結ばれて、世界的な誇りとして成長し、私たちが立つべき位置がいかに大きいかを見て、そのすべてを天に返して差し上げることができる立場に立たなければなりません。皆さんがそのような心情を持った者であるならば、お父様は歴史的な日を迎えて、皆さんの立場を立てて誇りたかったすべてを天に捧げようとしておられるのです。

そのような立場に立った皆さん自身は、今日私を掲げて誇りたいお父様の心を体験し、私たちを掲げて誇りたいイエス様の心を体験し、世界を掲げて誇りたいお父様の心を体験して「お父様、栄光を受けてください!」と祈らなければなりません。

皆さんがそのような祈りを捧げ、誇ることができれば、天は皆さんを中心として誇りたいと願われるのです。それゆえ、皆さんが誇ることのできる実体、誇ることのできる家庭、誇ることのできる民族を持たなければならないのです。

そのような信仰者の群れが現れるならば、天は地を抱えて誇り、皆さんを立てて誇り、栄光の基準を持って「このような息子娘が天の息子娘だ!」と告白するその日が来るのです。そのような基準に達することのできる皆さんでなければなりません。

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皆さんは誇りの立場に立たなければなりません。どのようにして立つべきでしょうか? 自分自身を天の前に掲げ、天のために掲げ、世界の前に掲げなければなりません。どのようにすれば、私たちを掲げて誇りたいというお父様の心を実体で体験できるでしょうか?どのようにすれば、私たちを掲げて誇りたいというイエス様の心を実体で体験できるでしょうか?どのようにすれば、天と地が共に皆さんを掲げて誇り、万人の前に誇ることができる立場に立つことができるでしょうか?

お父様が誇ることのできる一つの中心、イエス様が誇ることのできる一つの中心を見つけなければなりません。それを見つけて立つのが皆さんの使命です。

皆さんは今、どのようにしてお父様を掲げ、イエス様を掲げ、悪魔世界の前に誇ることができるでしょうか?皆さんは、そうして天を掲げて誇り、地を掲げて誇り、悪魔世界を誇ることのできる立場に立たなければならないのです。その立場に立ったその日から、栄光の基準が皆さんを包み、天と地のすべてが皆さんを中心に祝福されます。それによって、皆さんを掲げて誇るために、悪魔が敬服することができるそのような位置に立つことができるのです。

ですから、皆さんは自分の願いを誇るべきではなく、自分の生涯を誇るべきではなく、天の願いを誇り、天の心情を誇る立場に立たなければなりません。それが皆さんの今の使命です。そのような誇りを掲げた群れが現れるならば、お父様の恵みがその群れに臨み、栄光の賛美がその群れに響き、神の権威がその群れに与えられるのです。

そのような立場に立たなければならない皆さんは、歴史を総結集して、この日、誇りの道を進む決意を持って出発しなければなりません。ですから、皆さんは今日、自分の過去のすべてを掃除し、誇りたいという天の心情を掲げて誇りの位置を立てなければなりません。それによって、皆さんが天に誇るべき存在となり、皆さんの家庭、民族、国家、世界が天の栄光の基準に立つことができるのです。このことを、今日この時間、心に深く刻まなければなりません。

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<祈り>

お父様、今、私たちはあなたを迎えて誇りたいという心を持たなければならない時です。私たちを立てて誇りたいというお父様の心情を体験し、そのような立場で私たちを掲げて誇りたいというイエス様の心情を体験しなければならない時です。天を掲げて誇り、地を掲げて誇り、悪魔世界を掲げて誇り、皆さんを掲げて誇ることができる立場に立たなければなりません。お父様が私たちを掲げて誇り、天と地が共に私たちを掲げて誇り、万人の前に誇ることができる立場に立つことができるようにしてください。

イエス様が去った後の2千年の歴史の中で、私たちの先祖たちが天倫の道理を全うしなかったため、多くの預言者たちが血を流した事実を私たちは知っています。そのような事実に対して憤りを持ち、彼らの過ちと罪を背負い、悔い改めることのできる子供たちとなれるよう、切に願い求めます。すべてをお許しください。

この一時間をお父様の前にすべて委ねますので、最初から最後まで導いてくださることを切にお願い申し上げます。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


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