文鮮明先生御言葉選集 6 - 4. 慎重に見守らなければならない信仰の道
1959年4月12日(日)、元本部教会
マタイによる福音書 11:1-30
1
<祈り(Ⅰ)>
不足な姿の私達がお父様の聖なる御姿を恋しながら再びお父様の御前に出て、心と体を伏せましたので、憐れみの恩恵をもって私達に接して下さいますようお願いいたします。
何十万回も愛してくださったお父様であり、数えきれないほど忍耐してこられたお父様でございます。
私達を見捨てる事なく、新しい愛で導く事を休まれなかったお父様! 今日現れた私達の姿が御心に適わず、お父様の心に喜ばれないかもしれませんが、哀れみの心をもって私達に臨んで下さい。
それでも、険しい世を避けて、お父様の心情の世界に入り込もうとする切なる心がございますので、この心をご覧になって、お父様の憐れみの愛を注いでくださり、この時間、私達を受け入れ、見つめて下さいますよう、お父様、切に願い求めます。
お父様の愛を受けるその一席は、創造されたすべての万物が慕う席であり、過去の無数の人類が慕ってきた席であり、現代の人間と未来の人間達が慕わなければならない席です。
2
これを思い、私達がお父様の愛の心中に抱かれようとすればするほど、万物が注目しているという事実を、この時間に感じさせて下さいますようお願いいたします。お父様、切に願い求めます。
今、私達にお父様を「私の父」と呼べる心を与え、そのお父様が私のために苦労された父である事を知る心、お父様が私によって悲しみに沈んでいる事を知る心をお与え下さい。
そして、その心に感動して、お父様と呼び、お父様を掴むことができる切なる息子、娘の姿を表して下さい。
切なる心情でお父様を探し求め、お父様の事情を心配しながら現れた者は、お父様が見捨てられないという事を知っておりますので、私達の心がお父様の心に向かって走り出す事をお許し下さい。
私達の体がお父様の胸に抱かれるために走り出す事をお許し下さい。
3
怒りと悲しみ、そして痛ましい罪の歴史を蹴り出して進み出る動きが、この時間、私達の体と心に満ち溢れるようにして下さい。
そして、私達の体と心を奮い立たせてくださるよう、お父様、切に願い求めます。
私達は、確信を持って天を探し求めて進むことができない弱い者ですので、どうかお父様が信仰の主としておられる事を願い、地が険しく、困難な試練の道が残っている中で、私達は疲れ果てておりますが、天が強く現れる事を望みます。
お父様が私達人間を探しに来られ、失望されることが多かった事を私達は知りませんでした。
人間を心配し、人間のために苦労され、望んでこられた事が私達によって成し遂げられない時、お父様は再び打撃を受け、後退せざるを得なかった事を知りませんでした。
4
私達の望みよりもお父様の望みが大きいという事を私達が知るようにして下さい。
お父様は、私達が弱いときに強くあらん事を望まれ、御心を支え、摂理される時に強い者を求められる事を私達が忘れないようにして下さい。
私のお父様、心から願い求めます。
今、私達の心はお父様の聖姿を恋い慕い、私達の体はお父様の御姿を見たがっております。私達の手はお父様の手を掴みたがり、お父様の体にすがりつきたいと願っております。
そのような真の息子娘、お父様の愛を歌うことのできる息子娘達を迎えたいと願っているのが、人間に対するお父様の中心の願いである事を知っておりますので、私達の心がそのような心情に深く浸ることができるこの時間となるようにして下さい。お父様、切に願い求めます。
5
今日、私達は罪に染まっており、闇の中におります。これまで私達の感覚や五感は、お父様の悲しみや嘆きを感じる事ができず、お父様の悲しみに満ちた心情を忘れ、自分自身の悲しみを訴えることに急でした。
お父様の御前に差し出すべき何も備えていない私達に、せめて自らを悲しむ心をお与え下さい。
過去の誤りを責め、今日の未熟さを恨む悲しい心情が私達の心中から溢れ出て、お父様を呼ぶことができるようにして下さい。そうすれば、お父様は私達を掴み、お父様は私達を見つめ、お父様は私達を抱きしめてくださるでしょう。
お父様、そのような心情を私達にお与え下さい。そのような心情に満ちて、不完全な自分を認識し、お父様の御前にすべてを捧げる切なる心を私達にお与え下さいと、お父様、切に願い求めます。
お父様、この場に集まった恥ずかしい子供達を憐れんで下さい。知っていると思っていた事も知らない時が来た事を知っております。
6
自らの口で自分を弁明していた自分を否定し、再び生まれ変わらなければならない時が来た事を知っております。
すべての歴史的な悲しみは、蕩減条件を通らなければ解放されない事を知っています。
今、私達には、お父様の理念の前でカインとアベルの立場に置かれる時が来ている事を教えて下さい。
個々の心と体が争い、体が心を非難し、心が体の前に屈服する時、歴史的な終末時期が近づくにつれ、個人から家庭、教会、社会、世界に至るまで繋がって起こる事が私達の目の前に近づいている事を教えて下さい。
その時を知らず、悲しみの歴史に押し流された私達の先祖達を知っている私達も、罪の歴史を紡ぎ続ける道具に簡単にされてしまう立場に置かれています。
7
しかし、私達には、天の善を築き上げるために使われる要素が非常に少ない事を知っている私達に、どうか話したい時でも口を閉ざす術をお与え下さい。
見たくないものを見ても、耐えることができるようにして下さい。聞きたくない言葉を聞いた時には、耳を塞ぐことができる心をお与え下さい。
天に向けるべき心が混乱の中でさまよっており、体が留まる場所を見つけられない環境に置かれているかもしれませんが、お父様、私達を見捨てず、お父様の恩恵の手で私達をお父様の胸に導いてくださると信じています。
どうか私達を憐れんでくださり、お父様の御前にひざまずいて訴える事のできる心を起こして下さい、お父様、切に願い求めます。
このような心情がなければ、永遠に悲しみを呼び起こす天の裏切り者になってしまうのではないかと恐れ、自分を掴んで泣く者となるようにして下さい。
8
兄弟を思って悲しむよりも、自分の心を思ってもっと悲しみ、隣人の兄弟が私と同じ悲しみに陥るのではないかと心配し、彼らを助けたいという心が私達の心から湧き上がらなければ、最後に超えなければならない最後の峠を越えられない事を知っています。
ですから、お父様、この時間、愛する家族達の心をお慰め下さい。
ここまで私達を探し出してくださった摂理の目的が何であり、希望が何であるかを知り、自らを立てようとする内容を心で分析し、立て、守り、お父様の御前に決断しなければならない時である事を教えて下さいますよう、切に願い求めます。
お父様、聖なるこの日、多くの人類を祝福して下さい。ここに集まった多くのあなたの息子娘達を祝福して下さい。
天に向かって「父」と呼ぶ息子娘が数多くおりますが、「父」と呼べる真の息子娘、お父様が「私の息子娘」と呼べる真の息子娘が非常に少ない事を知っています。この悲しみを止める者は誰であり、お父様のこの悲しみを慰める者は誰でしょうか?
9
地上には誰もいない事を知っております。
このような理念を備え、お父様の心情を通じる事ができる真の息子娘達が、あなたを探し、あなたの胸に抱かれ、万宇宙を代わって誇る事ができるその一瞬が、歴史的な終末期に、希望の最後に現れなければならない事を知っています。
お父様、ここに集まったあなたの息子娘達が、誰のためにここに来たのか、誰に仕えるためにここに来たのか、誰を迎えるためにここに来たのかを自ら反省し、孤独なお父様の前に軽率な態度を捨て、温和で謙虚な姿勢になるようにして下さい。
お父様の悲しみの中の悲しみを感じ、苦しい心情を体験し、お父様を慰め、お父様を呼ぶ事ができるこの時間となるよう切に願い求めます。
この時間、孤独な家族達が地方に広がり、お父様の御前にひざまずいて祈っている事を知っております。
10
彼らの事情をご存知のお父様、彼らを見捨てず、彼らの主宰者となり、保護して下さい。
すべての心配をお父様が共にしてくださり、慰めてくださり、お父様の栄光を歌う事ができる喜びの時間となるよう、切にお願いいたします。
不足な者達がお父様の御前にひざまずき、礼拝を捧げようとしておりますので、どうか親しく聖別してくださり、初めから終わりまで、悪魔の一切を許さないようにして下さいますよう切にお願いし、すべての言葉を主の御名においてお捧げいたします。アーメン。
<祈り(Ⅱ)>
お父様、私達の行く道は険しいですが、この道を行けば天の人に会えるという願いの日が遠くない事を知り、この道を行く私達の歩みが疲れる事もありますが、お父様が歩まれた道であるために、行かざるを得ない人生の道である事を知りました。
今、私達が心に染みてお父様を呼ぶ事ができる切なる心が湧き上がるその時には、私よりも切なく、切実な心情で見守られるお父様がおられるという事を知りました。そして、一歩、二歩と探りながら進むことの分からない道を行けとおっしゃるお父様の声に従って進む歩みも楽ではない事を知りました。
11
今日、残された御心の前に、私達が未熟であり、忠誠の捧げ物とならなかった事を嘆かざるを得ず、苦難の歴史を振り返り、天の前に喜びを返す事ができなかった悲しい歴史を振り返るたびに、嘆かざるを得ません。このような姿が、かつてお父様の前に祝福を求めた時の不足をお許し下さい。
お父様、人間達を見つめ、人間を探すために心を痛めるお父様の御姿を見つめる息子娘がいるならば、お父様の前に祝福を祈る事も、その御姿の前で自分の主張を広げる事もできない事を知っております。このような歴史的な悲しみが残っている事を千度万度忘れていたこの不忠不孝な子供達をお許し下さい。
今、心の奥底からお父様を呼ぶ事ができ、天地が喜ぶ事のできる、父と私達が一つになるその瞬間に新しい歴史が始まり、希望が成し遂げられる事を知っておりますが、今日の私達の心の根底がそのような心情に満ちる事ができる場所にいないため、失望し、嘆かざるを得ません。
お父様、ここに出てお父様を呼ぶ者達の姿を憐れんで下さい。彼らがお父様の前に忠誠を尽くした内容があるならば、お父様がそれを覚えておられないはずがない事を知っており、彼らがお父様のために知られずに苦しい場所にいるならば、それを知らないはずがない事を知っております。お父様、私達が天に心配をかけたとしても、お父様は私達の前に心配を残されなかったという事実を忘れさせないで下さい。
地上に悲しみがあるとするならば、悲しむ者を慰められるお父様の悲しみ以上の悲しみがどこにありましょうか? 苦痛があるとするならば、お父様を裏切って苦しむ者を抱き慰められるお父様の苦痛以上の苦痛がどこにありましょうか?
12
お父様はご自身の威信と体面と権威を立てる事ができず、希望を残したまま歴史の道を歩んでこられる間、多くの善なる先祖達を抱いて、「私の心情を分かってほしい、私の事情を分かってほしい」と泣き叫びながら、切に訴えてこられたという歴史的な言葉を私達は聞きました。しかし、今日の私達は歴史を代弁する事もできず、歴史的な実体を証明して善の実体であると誇る事もできない姿で、お父様の前にひざまずいております。この面目ない私達の姿を、この時間にさらけ出し、告白させて下さい。そして、悪魔に弄ばれている自分達である事を悟らせるこの時間となるよう、切に願い求めます。
残された摂理の御心の前で、不忠な者は多いですが、忠誠を尽くす者がいないため、今日も明日も心配され、摂理の御心と心情を打ち明けて話す事ができないお父様の御事情を、この時間に私達が理解できるようにして下さい、とお父様、切に願い求めます。
この時間、ここに伏せておりますので、私達の心がどこに留まっているのかを考えさせて下さい。
お父様は天の御心と心情の基盤の上で動く事を望んでおられるにもかかわらず、今日の私達の心は虚空に向かって走っていないでしょうか? 目的と方向を失ったまま悲しみの場所に留まっていないでしょうか? お父様の心配の鞭を受けるにふさわしい悲しみの場所にいるのではないでしょうか? 自ら悔い改めさせて下さい。
私は残された善の園に向かって進む者であり、残された使命のために戦う天の勇士であると誇れるようにして下さい。お父様が探し求めておられる姿が自分自身である事を知り、探し出されるために努力している事をお父様の前に明らかに示す事ができる者とならせて下さい。自ら決意し、自らを清める事ができるこの時間とならせて下さい、とお父様、切に願い求めます。
13
散り散りになった心を集めて故郷を恋しがる事ができる、再創造の御手が及ぶこの時間とならせて下さい。そして、お父様の祝福を受け継ぐ前に、まずお父様の悲しみを受け継ぎ、その悲しみの主人公となって、お父様の前に堂々と立ち向かい進む覚悟と決意を持つこの時間とならせて下さい、とお父様、切に願い求めます。
今日、統一の理念を備えておきながら、他人ではないとするこの場に追いやられたお父様、自分が望んでいないその一か所に足を早めて追いやられたお父様、善なる事を始められた方も父であり、善なる事を成し遂げられる方も父である事を知っております。お父様の御心と通じない限り、呼ばれ、集められるという目的が成し遂げられないという事を知っておりますので、その御心の前に水となり、火となり、油となり、今日も明日も御心の前に謙遜な供え物となる事ができるよう、切に願い求めます。
悪しき世を焼き尽くす事のできる油となり、火となるべきであり、善に対しては柔和謙遜でなければならない事を知っております。お父様はこのような法則をもって私達を探し求めてこられたゆえに、イエス様は「高くなりたい者は低くなり、低くなりたい者は高くなる」とおっしゃられ、犠牲と奉仕、柔和謙遜で天の道を築かれた事を知っております。
私達もその中心に染み入って、自らの不足を知り、お父様の前に無限に謙遜になる事ができ、自分のすべてを捧げる供え物とする心情が、それぞれの心と心を通じて天心にまで届く事ができるようにお許し下さい。お父様、切に願い求めます。
この日も時を知らずにさまよっている多くの人間達がおりますので、彼らの運命を握って下さい。そして、さらに、五千年の歴史を誇りながらも、哀れな境遇にある三千万人の民衆を憐れんで下さい。この民族の歴史の道は血で染まった道である事を知っており、この民族は善を阻む存在達と戦ってきた哀れな民族である事を知っております。
14
このような民族を立てておきながら、天は摂理の御心を予告され、摂理の時を教えて下さいました。彼らの前に一つの中心を知らせてくださったお父様! この民族によって重くなったお父様の悲しみを少しでも和らげる事ができるようにして下さい。そして、そのような条件がこの民族にないならば、まず御心を知り、心情を知った私達がお父様の心情を抱き、その悲しみを抑え込む事ができるようにしてくださるよう、切に願い求めます。
今、私達の心がお父様に向かって無限に走れるようにして下さい。お父様を恋しく思い、抱きしめたい気持ちと、子供のような心情を持って、お父様を無限に慕う事ができるこの時間となり、罪に染まったあらゆる主義やあらゆる観念、あらゆる意識が私達から離れるようにして下さい。
どうか願わくば、この時間、私達の本心が表れ、本性が表れ、本来の姿が現れるように導いて下さい。お父様が喜んでくださり、お父様が再び私達を抱きしめ、万宇宙と悪魔の前に立って誇られる事ができる私達になるよう、この時間、歴史を動かして下さい。そして、一歩先に進み、お父様の前で頭を下げる姿となるようにして下さい。お父様、切に願い求めます。
終わりの日に、お父様がこのような姿を探し求められる時、小さくか弱い声ででも、「万民の悲しみを抱えて訪れてくださったお父様、不足な者がここにおりますので、どうか憐れんで下さい」と言えるようにならなければなりません。自らの不足を感じながら、お父様の呼びかける声に応じる事ができず、顔を上げる事ができない自らの不足を悔い、再び反省する事ができるお父様の息子娘達となるようにお許し下さい。お父様、切に願い求めます。
お父様に対してはこのような心を持ち、不義と悪に対しては憤り、我慢できない正義の心情を持ち、この身が祭壇に上がる事があったとしても、天の法を開拓する者として、立てられた天の精兵の体面を損なうあらゆる事に対しても屈する事なく戦う姿となるようお許し下さい。お父様、切に願い求めます。
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お父様をお迎えする事のできるこの時間となるようにお許し下さい。そして、孤独な心情で祈っている家族たちの上にも、均一な恩賜をもって歴史を働かせてくださるよう、お願い申し上げます。
初めから終わりまで、お父様が主宰して下さい。千千万の聖徒達と天軍天使達がお父様を取り囲む中、お父様の深く広く高い御姿を体感させて下さい。私達の目でお父様を見させて下さい。私達の耳でお父様の声を聞けるこの時間をお許し下さい。そして、天の聖霊が実体として現れるようお許し下さい、とお願い申し上げます。すべてを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。
<祈り(Ⅲ)>
胸に釘痕を残した悲しみがどのようなものであるか、私達は御言葉を通して学びました。お父様!この御言葉を読むと、身に余る光栄であり、この御言葉を語られたイエス様の焦燥した姿が懐かしくなります。心情を抱えて嗚咽してくれる友一人もいなかったイエス・キリストの生涯の悲しい事情を同情する私達になるようお許し下さい。
人間的な生活から抜け出せなかった弟子達と、天の悲しみを知る事ができなかった人間世界の悲しい現実を見つめられるイエス様の御言葉を共感した者がいなかった事を知っています。
お父様、30余年もの間、荒野でイナゴと野蜜を食べながら修行した洗礼者ヨハネが抱いた願いとは何であったのでしょうか? 彼の願い全体、その心の中心の一つは、来られるメシアを迎える事であった事を知っています。
16
メシアを証した彼には、メシアと一つにならなければならない天倫の縁があったのに、彼が私の心の中にあり、私が彼の中にあり、彼のものが私のものであり、彼の心情が私の心情であり、彼の生涯が私の生涯であるという、すなわちイエスのすべてが洗礼者ヨハネの心中に反映されて一体を成すべきであったのに、彼はそれを成し遂げられませんでした。
ヨルダン川岸の多くの群衆の前で手を挙げて天の子だと証した記憶を持っていた洗礼者ヨハネは、悲しく孤独な姿で鉄の牢に閉じ込められ、自分の悲しい境遇を嘆かざるを得ない状況の中で、自分が証したメシア、天が証し立ててくださったメシアに弟子達を送って、「来るべき方があなたでいらっしゃいますか、それとも私達は他の方を待つべきでしょうか?」(マタイ11:3)と問い返した場面は、歴史的に悲しい場面であり、天が超える事のできない悲しい場面であった事を私達は知りました。
歴史の流れの中に、洗礼者ヨハネの道程はそのまま残っています。新しい理念を探し求めて苦しんでいる私達、新しい歴史を待ち望みながら準備している私達が、今、洗礼者ヨハネと自分自身を置き換えて考える事のできる者達になるようお許し下さい。
天の民達が天の御心を拒んだ事実を歴史を通じて知りましたので、今日私達がそのような歴史的な過ちを繰り返す者達とならないよう導いて下さい。そして、荒野で鍛え準備させてくださったその御心を失う者達とならないよう切に願い求めます。
今日、あなたの愛する息子娘達が多く集まりましたので、今、その心と心を開き、その体と心がお父様の前に面目ない事を悟るようお許し下さい。この時間、勧告される御言葉を聞き、イエス・キリストの悲しい心情を受け継ぐことができるようにし、天的な悲しい心情を抱いて人々が知らない新しい理念の主人公を迎えることができる心と体とならせてくださるよう、お父様、切に願い求めます。
17
この時代を導いていく主人公は誰であり、この時代に残される事のできる民族はどのような民族なのかを憂慮し、そのような姿を思い描きながら悲しい心情に浸る事のできるこの一時間とならせてくださるよう、お父様、切に願い求めます。聞こえてくる御言葉と聞こえてくる声に耳を傾け、それに同調し反応する生活をする私達が、今、自分達の歩んできた道を振り返り、新たに覚醒しなければならない時が来ました。
混乱と混沌の中に置かれ、生死を決する立場にいる自分自身を心配する状況から私達が脱する事ができるようにして下さい。信頼できない社会であり、信頼できない世界である事を知っておりますが、信頼できる理念の世界に沈み、その理念の世界と結びつけるように自ら覚醒し、自らを認識して天を掴まなければならない時が来た事を知っております。そして、心の変革を起こさなければならない時が来た事を知っています。
このような環境に置かれている自分である事を肝に銘じて、新しい自分を追い求める事ができるように導いて下さい。そして、怨恨に満ちた悲しみの峠を越え、歓喜の姿を迎える事のできる私達となるようにして下さい。その姿を恋い慕い、その世界に引かれ、その世界と和合できるようにして下さい。今日、この社会環境が自由でなく、悲しみに満ちている事を悲痛に感じ、これを阻止して戦える力と勇気をお与え下さい。永遠であり、絶対的である天があるならば、罪悪の一切を追い払う事ができる力をお与えくださるように願い、祈ります。
ミディアンの荒野で羊を飼っていたモーセ、たとえ彼の手には杖があったとしても、彼はイスラエルの運命を左右する事のできる新しい覚悟と新しい希望、新しい理念を持っていた事を知っています。また、その希望と理念を抱き、ミディアンの荒野で40年間過ごしたモーセの忠誠心を私達は知っています。
今、私達は御言葉を聞ける場におり、待ち望んでいたその方に会う事ができる場所におります。しかし、待ち望んでいたその方の前に立つ私達の姿は、新しい姿でなければならない事を知っています。お父様が「私はあなたの中にあり、あなたは私の中にある」とおっしゃった御言葉を私達は知っています。これを知る私達が、「すべてをお任せいたしますので、再創造して下さい。お父様の喜ばれる御心のままに、望まれる供え物として用いて下さい」と言えるこの時間となる事を、切に願い求めます。
18
お父様、何も言いたくはありませんが、許されたこの時間、今、御言葉を語らなければならない時ですので、口を開かざるを得ない事を知っています。
ここに集まったあなたの息子娘達が、あなたの御姿を見たいという気持ち、あなたがいらっしゃる場所に行きたいという切なる気持ち、あなたと共に暮らしたいという切実な心情、慕う心情に満たされ、愛の心情だけがこの雰囲気を包み、再創造の栄光が現れる時間となるようにして下さい。お父様、切に願い求めます。
一つで始まり、一つで終える事ができるように、一つの主導的な働きが全体の上に現れる事をお願いし、悪魔が入り込む時間とならないようにしてくださる事を願いながら、すべての言葉を主の御名によってお捧げいたします。アーメン。
<御言葉>
今日、私達は心に引かれて動くのか、事情に引かれて動くのか、さもなくば、何らかの希望に引かれて生きています。世の中での生活もそうであり、天の道を歩む事もそうだという事を、私達は知っています。
このような立場から離れられない私達であり、自分という存在を認めるならば、私の人生というものが必ずしも私自身から始まるものではない事を否定できません。私達の社会的な環境や信仰の道も、やはり何らかの全体的な計画の下で、何らかの目的に向かって進んでおり、その形が次第に変わっていくという事実を私達は考えるべきです。
19
これを考えると、今日の人生の旅路で勝利したと断言し、自慢でき、あるいは摂理の御心の前に堂々としていると言える人がいるとしたら、その人は、この混乱した世界で生きている人ではないと言い切れるでしょう。
そのような存在が今まで歴史の道に現れていないこと、そのような存在が歴史を支配できていない事を否定できないのならば、私達はそのような自分を心で思い描き、主義や思想、あるいは生活の過程を通して追い求め、それを探し続けていかなければならないのだという事を知らなければなりません。
そのような個人を中心に据えた家庭になり、そのような家庭を中心にして天を讃え、証する事のできる社会になり、そのような社会を中心にして天を讃え、証する事のできる国家、さらに進んでそのような世界にならなければなりません。天の前に現れて、自信を持って「お父様、私を見て下さい。お父様、私を掴んで下さい。私を見て、歴史的なすべての悲しみを忘れて下さい」と言える個人を探して、歴史は流れてきたという事を私達は知っています。
しかし、人間が堕落した事によって、希望の自分となれず、望まない嘆きと絶望の中で、未知の旅路で苦しんでいます。さらに、そのような自分を急かし、私が住んでいる社会や国家、世界を急かす何かがないかと、私達は悲しんでいます。このように、希望の自分と希望を成し遂げられなかった自分を抱え、最後の決断を下して、長い間探し求めてきたその自分を見つけ、すべての被造物の前で誇り、万物の霊長と自負できるその瞬間を目指して、人間は今日も戦い、明日も、この年も、そして今後数年後も戦い続けるという事を忘れてはなりません。この運命に置かれている自分自身を考えるとき、私達は今日、どれほど大きな責任を負っているかを知らなければなりません。
エデンの園のアダムとエバが神の御腕の中で育っていた時は、現れるすべてのものに対して自信を持って生活していました。しかし、許されていない天倫の法を破ってからは、彼らの心には自分を誇れる自信がなくなりました。ここに悲劇があり、ここに曲折があるという事を、私達はもう一度考えなければなりません。
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人間を放棄できない神は、創造された責任があるがゆえに、これを再び回復させるための運動を提唱されました。これが、人間を導いてきた宗教運動です。
人間は堕落して落ちてしまいましたが、神が創造の理念で立てられた一つの法則と、本来の自分を誇れる自由の理念は、創造の前から創造の後、現在に至るまで変わらずに神の心中に深く刻まれているという事を、私達は知っていなければなりません。しかし、今まで神の心がどのようなものかを解明した者はいません。神の理念がこれだと主張した者もいないのです。
天は人間のために存在し、天のために人間が創造されたと言えるならば、神と本来の人間が共に生きられる理念の世界、神の心中に隠されている本来の世界は、必然的に現れなければなりません。
今日まで、神は正常な道を歩んでこられたのではなく、堕落した人間を掴み、曲折の道を歩んでこられた事を、歴史を通してよく知っています。聖書を中心に歴史を振り返ってみると、カインとアベルから今日まで、天を信じない人間を導いて曲折の道を歩んできた事を、私達は知る事ができます。
このような歴史の流れは、最終的には一つの理念の世界に向かって進むでしょうし、天はその理念の世界に人間を追いやるに違いありません。人間の良心がその理念の世界に向かって今日も明日も苦しみながら進まなければならないと急き立てているという事も、確かな事実です。これを誰も否定する事はできません。天が立てようとしておられる理念と、私達が求めている理念が交わる瞬間が、人間にとっての希望の瞬間であり、天が導いてこられた摂理の目的である事を、私達は再認識しなければなりません。
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天は信仰の道を求める宗教者達、特にキリスト教徒に終わりの日を予告されました。その日が再臨の日であり、その日の主人公が再臨主だと予告されました。したがって、その一日が神の希望の終着点であり、人類の願望成就の終着点である事を否定する事はできません。
では、その日を迎えなければならない私達は、どのような姿でなければならないのでしょうか? 問題はここにあります。どのような姿でなければならないのか? 今まで真にこれを教えてくれる論理もなく、宗教もなく、心情を整理してくれる友もありませんでした。私達はそのような状況に置かれています。
私達の心は刻一刻と変わっています。社会生活の形態も変わっており、主義や思想も場所や時期によって変わっていきます。
絶対的な自分、全体の理念を代わって立つ事のできる自分、変わる事のない自分を探し求める事が信仰の道だとするならば、紆余曲折の道を歩まなければならない地上世界で、私達が持つべき心情は何であり、どのような道を歩むべきか、私達が整えて立てるべきものは何か、これらは誰しもが考慮しなければならない重要な問題です。
これらを理解したときに、終わりの日を見据える私達が、私が待ち望む太陽がどこから昇るのか分からない今、あなた方の目はどこを向いているのか、どこを見据えるべきか? これが問題です。注意深く、全力を尽くして、東の太陽が昇るところに向かって自分の心と体の方向を合わせなければなりません。
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人類の運命がこの道で終わらなければならないゆえに、また、この縁を断ち切る事ができず、この領域の中で信仰生活をしている私達だからこそ、注意深く見守りながら進まなければならないという事です。ですから、皆さんの前にお話しする題は「慎重に見守らなければならない信仰の道」です。
今、皆さんは自信を持っていますか? 自らを断言していますか? 自信があるなら、その自信は誰を通しての自信ですか? 個人を通して、環境を通過する事ができますか? 社会、国家、世界を通過する事ができますか? さらに、天倫があるならば、それを通過する事ができますか? これらの問題に対して自信を持てない限り、皆さんは自分自身を絶対的に否定しなければなりません。
このような立場に置かれている人間だからこそ、皆さんは常に天倫が向かっている方向はどこであり、その終着点はどのような形で現れるのかを探し求めなければなりません。自信を持って主張し誇る何よりも、そうした心が切実でなければならないのです。これを知らずに自らを誇り、自らを中心にして動く範囲が大きければ大きいほど、終わりの日に歴史的な裏切り者として登場する事になるという事を、私達は考えなければなりません。
私達は足りない者達です。私達は押し流され、状況に巻き込まれています。このような私達が、「天倫よ、私を押してくれ」と言える自信を持つ事ができるでしょうか? できません。持てません。私達の先祖達も、自信を持てない歩みで天を探し求めました。ですから、天が命じるところに行くとき、彼らは一歩一歩を慎重に進み、二歩も慎重に進み、一日の生活も慎重に過ごし、一夜の眠りの中ですら慎重に歩んできた事を、私達は知っています。
そのため、このような生活ができない者であれば、たとえ御心に従うといっても、最終的には天の御心から離れ、天の御心を悪魔の世界に返す事に貢献した者として終わる可能性がある事を、私達はあまりにもよく知っています。
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自信のない家庭、自信のない民族、自信のない国家、自信のない世界だからこそ、この世界の何も、誰も天倫の前に不変の存在だと主張する事はできません。このような立場に置かれている私達だからこそ、私達は一日の生活を慎重にし、一年の生活を慎重にし、一生の生活を慎重にしなければなりません。このように慎重に歩む事が、善を求めて進む歩みである事を知り、私達は歩まなければなりません。
歴史は発展してきました。個人から始まり、氏族を経て、部族へ、さらに民族を経て、国家、そして世界にまで発展してきました。過去の多くの氏族は自分たちの理念や主張を持っていましたが、時代の流れによって氏族時代から民族時代に移行するとき、氏族時代のすべての思想が民族時代の思想に飲み込まれ、また民族時代の思想は国家時代の思想に飲み込まれ、国家時代の思想は世界時代の思想に飲み込まれました。そして世界時代の思想は、今後、天倫に飲み込まれていくでしょう。歴史はこのように、一つの帰結点に向かって吸収されてきたという事実を、私達は理解しなければなりません。
このような歴史的事実を否定できないのであれば、今日の私はどのような立場で生きているのか、どのように動いているのか、どこに立っているのか、ということが問題となります。皆さんが今生きているその場所が、最後の終着点であれば問題は単純ですが、ここでまた変革が必要な歴史が残っているのであれば、皆さんは歴史理念時代、あるいは摂理理念時代、あるいは信仰理念時代の目的地に達しておらず、途中で止まる者にすぎない事になるでしょう。
天は人間と切り離せない関係を結んでいるゆえに、人類を放棄する事なく、人類を掴んで歴史の道を動かしてこられました。そして時代が変わるごとに、新しい理念をお与えになりました。氏族から部族に移行するときには、部族時代に移行できる理念をお与えになりました。氏族に対して、部族権を超えた遠くの理念を与えると、それについていけないので、良心と繋がる程度で、一歩先の理念をお与えになってきたのです。このように、氏族時代には部族の理念を、部族時代には民族の理念を、民族時代には世界の理念をお与えになり、連結してきたという事を、信仰の歴史を見ても、人類の歴史を見ても、否定する事はできません。
では、歴史の道のりに残される民族、歴史の道のりに残される氏族とは、どのような民族、氏族であるべきでしょうか? たとえば、氏族時代から部族時代に移行するとき、天倫を掴んで超えていける氏族です。そして、天倫が部族を越えて国家の理念を求めるならば、国家の理念に向かって立ち上がる事のできる群れです。あるいは、その国家の前に世界の理念が残されているならば、国家を越えて世界の理念に向かって進む事ができる群れです。このような群れが、最後に残される群れであり、同時に世界を建設する事ができる群れであり、世界を支配する事ができる群れなのです。このような氏族、部族、民族、国家、世界を完成して、歴史的に勝利する民族、勝利する国家として立つ事ができるのです。
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したがって、このような理念を求めて進む氏族が必要であり、このような摂理の御心に従って進む氏族が必要です。さらに、この摂理の御心に従うために、闘いの道を歩む民族が必要です。そうしてキリスト教が登場し、イスラエル民族が登場したのです。イエス様が統一された家庭、統一された国家、統一された理念を主張された原因がここにある事を、私達は理解しなければなりません。
では、そのイエス様はどのような方なのでしょうか? イエス様は、本来の主人公であり、最初に天の理念を備えた実体であり、天と永遠に共に住む事のできる理念を完成された実体として現れた方です。イエス様は、人類全体を導く立場では指導者であり、私達個々人に対しては父であり、本来の創造理念世界を求めていく立場では新郎です。イエス様はこれを結論づけておられました。
では、これから一つの世界、一つの理念の園、一つの理念国家が成し遂げられる時の理念はどのようなものになるでしょうか? それは、歴史の変化や革命にも変わらない理念でしょう。たとえば、親の愛のように変わらない愛の理念です。親が子供に対する心情は変わりません。変わらない天の愛を中心にして、絡み合った世界、関わるすべての場所において愛の感情が先立つその社会、その国家、その世界においては、「革命」という言葉は成立しません。その世界は、神の心情が個人の生活を通じて現れる世界です。そして、神がすべての人々を子供として思われる心情をすべての人々が体感する世界です。だからこそ、お互いに兄弟姉妹と考えないわけにはいかない心情の世界である事は間違いありません。このような世界が、人間が探し求めなければならない最後の終着点です。イエス様はこの地に来られて神を「父」と呼び、ご自身を「新郎」と呼び、さらに私達を一段高く引き上げて「兄弟」とおっしゃいました。真に感謝すべき恩恵の御言葉なのです。
イエス様は、個人の縁を通してこの地に現れた方ではありません。4千年の歴史を経てくる間に、天が多くの預言者、聖者達を通して「送りましょう、送りましょう」として来られた方でした。したがって、イエス様は天倫の背景を備え、摂理の歴史の御心を基盤として人類の歴史をまとめるために現れた方であると言えます。それゆえ、世界はイエス様を中心として今日まで進み、イエス様の名は今まで残されています。
今日のこの時代は、善と悪が交差する時代であり、善に合流していく時代です。このような時代に置かれている私達はどうなるのでしょうか? 善と悪が交差して合流した後には、どのような世界になるのでしょうか? この世界が進むと、どのような世界がやってくるのでしょうか? これは気になる問題です。今日、天の御心を持った若者達がいるとすれば、歩みを止めて天が存在する事を知り、地にある万物の希望を知らなければなりません。そして、その希望の爆発地点が交差点にとどまるこの世界ではなく、まさに自分たち自身である事に気付かなければなりません。
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このような問題を解決するために、神は今まで摂理を進めてこられました。もしアダムがエデンの園で神の前に罪を犯さなかったならば、堕落の悲しい道を歩まなかったならば、アダムは6千年が過ぎた今でも神の御心に従って歩んでいた事でしょう。皆さんはそれを考えたことがありますか? アダムが神の祝福を受け、神の御心を受け継ぎ、神の摂理を責任を持って果たし、神と共に住んでいたならば、数多くの預言者や先祖たち、そして御心を抱いて来た数多くの善なる人々が命を落とす悲劇はなかったでしょう。そうではありませんか?
私達が願い、待ち望むものは何でしょうか? 私達が希望し、探し求めるものは何でしょうか? それは、堕落していない姿、歴史に永遠に残りうる姿、変化する歴史をまとめられる姿、善の理念を立てられる姿です。そのような姿がこの終わりの日に現れるならば、私達は嘆く事はないでしょう。絶望の場所にいる事もないでしょう。
では、何が嘆きと絶望の原因なのでしょうか? それは、御心の前に立つ事のできる歴史的な主人公がいないという事実が嘆きであり、絶望であり、悲しみなのです。この歴史的な主人公を探し求めてきたのが歴史の流れであるため、私達人間はあちらこちらで倒れながらも、一度も歩みを止める事なく、この時間も歩き続けているのです。
今日、全世界の人類が再び訴えるべき事があるとすれば、それは「歴史的であり、時代的であり、未来的な主人公はどこにいるのか?」という事です。この主人公を切実に待ち望む時が来ました。歴史はすでに過ぎ去ったのに、その主人公はいつ来られるのでしょうか? もし天倫がなければ、その主人公は人類の前に現れる事はないでしょう。しかし、天倫があるゆえに、この時代の主人公はいつか必ず人類の前に現れるのです。ですから、皆さんはその主人公がどのような姿で来られるのかを知っておかなければなりません。
なぜなら、過去にも新しい主人公が来られたのに、その主人公を認識できなかったからです。今日もまた、天の御心を終わらせるための天の摂理が残っていると知っている限り、皆さんはこの時代の主人公が誰であるかを考えなければなりません。もし皆さん自身がその主人公になる自信がないならば、頭を下げ、その主人公を探そうとする決意と行動を取る事ができなければなりません。
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私達が求める最後の主人公は、この時代の主人公だけでなく、未来の主人公にもなり得る方です。だからこそ、今日、キリスト教思想の中で感謝すべき事は再臨主思想です。4千年の歴史を代わって歴史的な指導者として来られたイエス様、その時代を代わって来られたイエス様が未来の主人公として再び来られるのですから、そのイエス様は私達人類にとって必要な方なのです。人類は今や再び来られるイエス様を必要としています。再び来られるイエス様がそのような主人公として責任を負う事ができるからこそ、そのイエス様の名が人類に必要であり、今日、人類は再び来られる主に向かって進んでいるのです。これを誰も否定できません。否定できないのです。
では、終わりの日に直面している皆さんは、この時にどうすべきでしょうか? 皆さん自身がこの時代の主人公となり、未来の主人公となるべきです。そのための準備をしなければなりません。これが、天を見上げて進む者達が必ず憂慮しなければならない最後の問題であり、中心問題であるという事を忘れてはなりません。
もし皆さんがそのような事を解明できず、そのような理念を主張できないならば、皆さんは何らかの流れに巻き込まれてしまうでしょう。この巻き込まれる流れを阻止し、新しい何かを待ち望む自信がない限り、最終的な審判の場で後退しなければならない敗北の種族となってしまうという事を知っておかなければなりません。そうではありませんか?
今日の世界は再び変わらなければならない世界です。今まで世界がこのように変わってきたのですから、今日の時代は再び大きく変わらなければなりません。このような世界に生きている皆さんは、変わらずにいられるでしょうか? 変わる世界、変わる思想の中で変わらない自分でいなければならないのです。そのためにはどうすればよいのでしょうか? それを解決してくれるものが、宗教であり、真理であるはずです。
歴史は一つの目標に向かって変わらずに流れてきましたし、現在もそうであり、これからもそうでしょう。しかし、人々の心は変わっています。皆さんの心も一日の生活の中で何度も変わります。皆さんが主張する主義も、一生の間に何度も変わります。このような歪んだ人間であり、エデンで天を裏切った堕落した子孫であるという事を、私達は生活の中で感じなければなりません。
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これを止めてくれる宗教はないのか? これを止めてくれる指導者はないのか? これを止めてくれる責任者はいないのか? そのように胸を開いて宇宙の悲しみと哀れみを嘆き、叫ばなければならない時が来たのです。
歴史は時期ごと、あるいは世紀ごとに変わってきました。神の6,000年の摂理の歴史を振り返ってみると、そこには捧げ物の時代があり、律法の時代があり、信仰の時代がありました。また、旧約時代があり、新約時代があり、やがて成約時代が来る事を知っています。今、新しい理念の世界が来なければなりませんが、この世界が変わらなければ、その理念の世界は来ないのです。
ところが、今日、私達は一日にも千回、万回と変わりながらも、平然と眠っている歴史的な悲しみの果実である事を知らなければなりません。いくら自分の主義を高らかに誇ったとしても、自分自身を弁明したとしても、それは変わるべき誇りであり、変わるべき弁明です。
では、人も変わり、歴史も変わり、この地も変わるならば、これを収めることのできる心情的な態度はどのようなものでしょうか? それは「慎重にする」しかありません。慎重に見守るしかありません。こちらに来ても、心を痛めながら慎重にし、あちらに行っても心を痛めながら慎重にしなければならないのです。変わる時代を乗り越えるためには、新しい世界を恋い慕い、その世界を望み、変わるものを避け、慎重に進もうとする心を持たなければなりません。
過去の預言者達も、天に呼ばれるときは勇敢に現れました。天の前に呼ばれたときは勇敢に現れましたが、悪魔に送られたときは皆敗れました。そうではありませんか? 天に呼ばれたときは喜んで出発しましたが、天が呼ばれた目的を果たすために悪魔に向かって突き進んだときは、皆倒れてしまいました。このような敗北の足跡を持つ歴史がある事を、私達は知らなければなりません。
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では、今、私達は何を慎重に見守るべきなのでしょうか? 死の権能の中にいる、何度も死んで当然の人間を探して来られる天の御苦労があるという事を、慎重に見守るべきです。天が死の権能の中にいる私達を探し出してくださるときは、世の中の何よりも貴いものを持って来てくださり、死の権能の中にいる私達を救ってくださるときは、心配する心と切なる心情を持って救ってくださる事を忘れてはなりません。お分かりですか? 天が私達を死の権能から奪い返すときには、天が持っているすべてを犠牲にする覚悟をして奪い返されるのです。
だからこそ、私達は探し出してくださったその御苦労を知るべきです。また、探し出してくださったその愛の心情を知るべきです。そして、探し出してくださったその闘いの道のりを知らなければなりません。本来、父と私は一つなのです。したがって、お父様の心が私の心であり、お父様の目的が私の目的ですから、行けとおっしゃるところに行かなければなりません。責任を果たそうという心情に染まって行かなければなりません。億千万の苦難の道があり、どのような十字架の壁があったとしても、それを越えられるという信念を持って進まなければなりません。このような信念とお父様の心情を基に、歴史のすべてを乗り越えて立とうと決意した人がいるならば、その人は必ず勝利する事でしょう。
皆さんの中にそのような燃え上がる心情があれば、変わる世界を蹴り飛ばす事ができます。摂理の御心、歴史的な闘いが終わる事を願うお父様の心情を掴んで進む事ができる心が、信仰者である皆さんの心の中から消えるならば、皆さんは歴史と共に変わってしまう人となるでしょう。
啓示録では、「初恋を失うな」と言われています。初恋は命を捧げても変わる事はありません。天が初めて与えてくださったものを、皆さんの一生の中で最も貴重なものとして大切にしなければなりません。それを、皆さんが持っているどんな価値よりも高く感じなければなりません。この恩賜は、世の中のどんなものと交換する事もできない恩賜であり、死が幾千万倍加重されても変わる事のない恩賜だと感じる人は、必ず神の心情の中にいる人であり、神の愛の中にいる人です。そういう人こそ、神の偉業を手にする事ができるでしょう。
だからこそ、私達は慎重に見守らなければなりません。では、何を慎重に見守るべきなのでしょうか? 天がいつ、私達に貴重で価値ある贈り物を与えてくださったのか? 歴史を振り返ってみると、私達の先祖たちが歴史的な贈り物であり、2千年前に来られたイエス様が人類の前に現れた愛の贈り物でした。この感謝すべき歴史を振り返り、泣き叫ぶその瞬間に、私達の心は天と通じ合う事ができ、その心情を基に天の再創造の歴史が始まる事を、私達は知っています。
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このような心情に燃える姿、この胸の高まりを抑える事のできるものは何もないという自信を持つ者だけが、歴史的な実践の道において最大の勝利者として登場する事ができるのです。
イエス様は、そのような方でした。神は歴史の道のりで何度も私達を探してくださり、私達のために犠牲を払われました。私達は、いくら報いても報いきれない恩恵を考えた事がありますか? 私達は、歴史的な裏切り者である事を認めなければなりません。天的な贈り物を持って歴史を摂理してこられた天の前に裏切り者である事を認め、罪人である事を嘆き、少なくとも悔い改めなければならない私達です。
統一教会の信徒である皆さんは、他の人々が行かない道を行くためにこの場に来ました。そのような皆さんに、私は問いたいです。何のために来たのですか? 一生のすべてを悪魔に奪われるとしても、先祖に代わって感謝する事のできる心を持たなければなりません。現実のすべてを犠牲にする事になっても、死の場に出ていく事になっても、「私を守ってくださり、私の事を心配してくださる天の恩賜だけは忘れません」と言える心、そのような不変の心情を持たなければ、統一の理念を成し遂げるその日まで残る私達とはなれないのです。
このような心情が皆さんの胸に芽生えないならば、このような理念の世界に対する感情が皆さんの心の中で動かないならば、皆さんはどうなるのでしょうか? 彷徨い、彷徨い、彷徨った挙句、最後の瞬間には自分自身を弁明する事もできずに、死の落とし穴に落ちてしまうでしょう。このような事を知らない人がいるならば、目を閉じ、耳をふさぎ、口を閉じ、鼻をふさいでも、もう一度よく考えてみる心が必要です。立派な信仰者の態度は、人との関係においても同様に、慎重に見守る態度です。このように見守る心、慎重な心がなければなりません。このような心を持たない人は無責任な人です。
歴史は責任者を求めています。では、どのような責任者を求めているのでしょうか? それは、歴史的であり、時代的であり、未来的な責任者を求めています。そのような責任者を求めています。過去の聖人たちや歴史的な私達の先祖たちは、皆その時代に歴史的な責任を訴えた方々です。だからこそ、歴史の終わりである今日まで、その方々の言葉は私達の心を打ち続けているのです。また、その方々の行動は私達の心情を動かし、その方々の生涯は私達の生涯に方向を示してくれているのです。これを否定する事はできません。
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さて、皆さんは、一言話すにしても、聞くにしても、見るにしても、感じるにしても、慎重に見守り、注意しなければなりません。皆さんは歴史的な責任を果たすために、どれほど努力しましたか? 困難も気にせず、憤りも気にせず、追い詰められたり、追い立てられたりすることも気にせず、飢えも気にせず、死も恐れずに、歴史的な責任を果たすために自分のすべてを投げ出してみましたか? どれだけ慎重な心を持ちましたか?
もしかしたら、自分の環境に自分を引き寄せようとする摂理的な天倫の手が伸びているのではないかと、慎重に見守りながら、責任感に燃える心、それを見つけたいという心が自分の中に渦巻き、今までの自分の立場を否定して新しい考えを持つ時間を、皆さんはどれだけ持ちましたか? 持っていなければ、皆さんは顔を上げられないと感じるべきです。
エデンの園には、まず創られた天使長がいました。しかし、新たにアダムとエバが現れると、すでに環境を支配していた天使長は攻撃者になりました。攻撃者です。これが歴史の出発点でした。慣習的な歴史、あるいは伝統的な歴史を主張する人間たちは、いつも神が進まれる道に反対しました。どの時代においても協力しませんでした。なぜなら、祖先がそうだったから、子孫もそうだという事です。歴史の中で追い詰められた者達が、戦いながら歴史を動かしてきたのです。
天に仕えていたノアもまた同じでした。当時の社会の伝統を主張する者達の前では、彼は狂人にしか見えませんでした。狂人、いい加減な者、愚か者にしか見えなかったのです。アブラハムもまた同じでした。百歳にして天から祝福されて生まれた一人息子イサクを殺そうとしました。モーセもまた同じでした。このように、御心を抱いて進んだ者達を謀り、裏切り、追い出そうと扇動したのは誰だったのでしょうか? 歴史的な伝統を固守する者達でした。天があるならば、そのような者達は裁かれなければなりません。
今までの歴史的なものに対する未練を一度に断ち切り、過去の古い服を脱ぎ捨て、新しい園で新しい朝を迎え、白い衣をまとい、新しい希望を持って現れることが、復帰の理念なのです。
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このような歴史過程を経てきた堕落した人間であるがゆえに、新しい学説が現れると、それを打ちました。新しい何かを主張すれば、それを殴りました。しかし、家庭的に殴られれば、それは家庭的な使命を代行した事になり、民族的に殴られれば、それは民族的な使命を代行した事になり、国家的に殴られれば、それは国家的な使命を代行した事になるのです。そして、その時代の国家の民衆から殴られれば、それはその時代と国家と民衆の理念的な使命を代行した事になるのです。
歴史は進み、今日に至っては、民主主義と共産主義が対立しています。ですから、将来的には必ず攻撃戦、あるいは防御戦、すなわち激しい闘いが繰り広げられるでしょう。これが歴史全体の終結点となり、これで全ての問題が解決されるのであれば別ですが、そうならない場合には、ここに新しい何かが現れなければなりません。その新しいものはどのようなものになるのでしょうか? 宗教を掲げて出てくれば宗教者達に殴られるでしょうし、何らかの責任を掲げて出てくれば社会環境で拒絶されるでしょう。何らかの理念を掲げて出てくれば、世界の主義から拒絶されるでしょう。最後には、民主主義からも共産主義からも拒絶されるでしょう。
今日、この世界はそのような過程を経ていかなければならない堕落世界であるゆえに、拒絶され、追い詰められながらも、それに屈しない何かが現れなければ、この世界は新しい世界に進むことはできません。私達はその何かが必ず現れる事を知っています。また、私達はその理念を紹介するために話しているのです。その目的を成し遂げるために、私達は迫害を恐れず、今日も明日も進むために集まっているのです。
ここで、皆さんはどのような決意をしなければならないのでしょうか? それは歴史的な決意ではありません。時代的な決意でもありません。一瞬の決意でもありません。それは、天宙的な決意、天宙的な決意です。宇宙を支配する天は、必ずそのような決意を持つ群れを集めるでしょう。宇宙の理念に燃える抱負を持ち、追い詰められる群れに加わる勇者達がいて、時代に打ち負かされる事なく残るとすれば、彼らは後の歴史を動かす事ができるでしょう。
今日まで宗教は提唱してきました。イエス様は「億兆蒼生(おくちょうそうせい)を救おう」と仰いました。善の理念圏内へ人類を導き、一つの目的世界を紹介するために提唱されたのです。
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これから新しい宗教理念が出てくるとすれば、それは地上の人類だけでなく、これまでに来て去った数多くの預言者や先祖、そして御心を裏切って地獄に行った霊人たちまでを救わなければならないでしょう。新しい理念を備えた主義であるなら、そのような宗教であるなら、地上の億兆蒼生を救うのはもちろんのこと、天上にいる霊人たちや地獄にいる数多くの罪人たち、さらには天を裏切った悪魔までを救わなければならないでしょう。
そのような宗教が必ず出てこなければなりません。そのような宗教の理念が出てきて、すべての宗教を統一し、すべての宗教人の心に火を投げ込み、平和と喜びを感じられない人々の心に平和と喜びを与え、新しい理念圏内に突き進む決意と誓いを立てさせる必要があります。この地上にそのような決意、そのような誓いをさせる事のできる新しい運動が出てこなければならないのです。
皆さんはそのような事を考えた事がありますか? 探し求めた事がありますか? 想像でもしてみた事がありますか? その理念の目的はすべてを統一する事です。地上も統一し、霊界があるなら霊界も統一し、恨みに満ちている地獄までをも解放する事です。直接できなくても、理念を備えた宗教が出てこなければなりません。そのような理念を備えた宗教が出てくれば、私達が憧れる世界、すなわち善の世界と悪の世界が関係を結ぶ事ができるのです。
現代を終末と言う皆さんは何を探し求めているのでしょうか? 皆さんの生命問題に関わる理念は、極めて小さな一言から、一つの手の動きから、一つの足跡から、一つの象徴的な示唆から皆さんに接触してくるのです。これを今日の人間たちはすべて忘れています。
このような観点から世界を見渡すとき、敵はいません。悪とぶつかるとしても、悪が私の進む道を急がせるものになるのです。また、善も私を急かすものとなるのです。このような見地から、私達は何かを探し、慎重に見守る生活を送らなければならないでしょう。
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今日も明日も天に対する希望を持たなければならず、罪悪の現実、絡み合っている世の中に対する未練を断ち切り、動く事のできる心の衝撃を受けなければなりません。その衝撃が一日、一年、さらに一生にわたって続くかどうかによって、皆さんが憧れるその目的地に到達できるかどうかが決まるのです。
そのような衝撃がなければ、言葉では表せないほど焦燥感を抱く事になるでしょう。今日のこの時代は、自分でも知らないうちに心が焦燥し、恐怖の雰囲気に巻き込まれる事を感じ取る事ができる時代です。わずかでも良心のある人なら、何かしら分からない不安と焦燥感の中に自分が追い込まれている感触を感じるでしょう。多くの青年男女がこのような事を感じたとしても、その焦燥感を解決し、恐怖を克服できる何かが芽生えれば、それによって人間の希望の基盤を支配していた恐怖と焦燥が退き、良心的なものが動く事のできる世界が現れるでしょう。したがって、今、焦燥と恐怖心を超えて慎重にそれを探す心が、皆さんの歩みを急かし、皆さんの体を引っ張っていくならば、今でも決して遅くはありません。なぜなら、最終的な統合点は、物質的な理念や人間的な理念が見つけてくれるものではなく、私の心に爆発的に湧き上がってくる切なる心情だからです。最後に残る理念の一箇所に向かって動いていくのは心情です。心情が最終的に私のすべてを決定してくれるのです。
この心情だけを握りしめて慎重に探し求める者が、伝えられる言葉を聞く事ができ、見せられる幻を見る事ができ、生活におけるすべての実情を分析する事ができるのです。自分に与えられた責任を感じ、焦燥した心情と不安な心を抑えながら新しい理念を探し、動く青年男女がいて、彼らの叫ぶ声が聞こえるようなそのような心情の動きがあるならば、皆さんは彼らの心情を通して、歴史的なすべてのもの、長い間感じてきたすべてのものを一度に感じ取ることができるでしょう。
その心情を感じ、自分を覚醒して「天が探していた理念の主体はこれだったのか! 世界が探していた真の姿はこれだったのか! 天地の前に立って誇ることのできる姿はこれだったのか!」と無意識に叫ぶ瞬間を持つ者こそが、歴史的な主人公であり、摂理的な主人公であり、天倫的な主人公であるという事を、皆さんは知っておかなければなりません。
今日の皆さんは、自分が一人で生きる事のできない存在である事を否定できないでしょう。関係と縁の世界において責任を果たし、実績を残さなければならない人生の道を歩んでいる私達である事を否定できないでしょう。
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責任を果たし、実績を残せばどうなるのでしょうか? 自分を誇る事ができ、本来の人間を代弁する勝者の姿が私だったのかという覚醒が生まれるでしょう。その瞬間に、世界は皆さんのものとなり、この宇宙も皆さんのものとなるでしょう。また、今日まで摂理を進めてこられた神も皆さんの神となり、皆さんはその神の偉業を相続できる直系の子供となる事ができるのです。
これを探し求めるにおいて最も重要な事は何かというと、それは慎重に見守ることです。そのようにしているうちに、このような事が成し遂げられ、見つけられるという事を皆さんは心に留めておいて下さい。
<祈り>
変貌山で激しい戦いをしていたイエスの心は、悲しみに沈んでいました。しかし、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは「先生、ここにいることが良いので、私達はここに幕屋を三つ作りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために作ります」と言った弟子たちの心情を、私達は感ずる事ができます。
地上で理念の痕跡も感じ取れず、理念の世界の実状も知らなかった無知で愚かな彼らは、全天宙を主観し、包み込む事ができる理念的な環境が広がっているその場で、そのような言葉を口にする者がいなかったでしょうか。確かに彼らが思い描いていたその一場面、生きたいと願っていたその一場面である事は心で知っていましたが、現実的な過程を経て初めて実現するという事を、その時のペテロ、ヤコブ、ヨハネは知らなかったのです。
今日の世界に散らばっているキリスト教徒たちも同じように、心では天国を待ち望み、憧れていますが、天国を探すには戦いの道が残されているという事を忘れています。このようなキリスト教徒たちを覚醒させなければならない責任が私達にあるのです。
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特に終末の今日、歴史も変わり、信仰も変わり、人の心も変わり、伝統も変わり、主義も変わり、愛の心情さえも、これがなければ死ぬと言っていた心情さえも変わりつつあるこの時、変わらない理念、変わらない姿、変わろうとしても変われない存在、それ、それを持つ楽園、その世界、その主権、その指導者、その声、その生活、その環境慕っております。
お父様、塞がっていた胸を開いて下さい。今日の私が、このように焦燥し、このように狭い自分自身である事を知りました。今日の自分を乗り越えて、明日の自分を追い求める事に急がなければならない私が慕わしいのです。
統一教会の信者達が進む道に迫害があるとしても、その迫害を私が行く道を妨げる悪の要素として受け止めるのではなく、私を天の心情にもっと近づけるための刺激的な作用として利用することができる信徒たちとなる事をお許し下さい。その迫害は迫害ではなく、心情を結びつけるためのお父様の歴史である事を悟らせて下さい。
お父様の前で手を合わせ、頭を下げ、天上の法則は歴史の道と矛盾しないと言える場において、勝利の歓喜をお父様に捧げることで、お父様が「まさしく私の子だ」と言っていただける姿となる事をお許し下さい。お父様が喜ばれるとき、共に喜ぶ事ができ、私が喜ぶとき、悪魔さえも恥ずかしい顔で笑わざるを得ない心情を引き起こす事のできる子供たちの姿を、天は求めている事を知りました。そのような私を探し求める世界のキリスト教徒たちが出てくる事をお許し下さい。そして、そのような私を急がせる先頭に立つ統一教会の信徒たちとなる事をお許し下さい。お父様、心から願い求めます。
私達が願っていたものはあまりにも小さかったのです。私達が大切にしていたもの、それで終わりだと思っていましたが、それを超えて無限の愛と無限の恩寵がある事を知りました。
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お父様の恩寵の前に道を閉ざしていた自分自身であった事を嘆く心が、今この時、一人一人の信徒たちに湧き上がらせて下さい。今や心情の刺激を受け、使命感に燃えて「来なさい」と呼ばれたときに喜んで来て、「行け」と言われたときに喜んで行ける人々となる事をお許し下さい。呼ばれる声に感謝したならば、命じられる声にも感謝し、敵陣を向かって突き進む事のできる天の勇者達となり、天の世界の主人となる事をお許し下さい。ここには、矢に当たって倒れる者がいる事を知っています。そんな場においても、敗北して後退する者達にはならないように導いてくださる事を心から願い、求めます。
幸福に浸り、父と相談する瞬間がある一方で、戦場で血の涙を流し、天の恨みを訴えながら倒れる瞬間が、この息子娘たちにある事を悟らせて下さい。
喜びも責任を負い、悲しみも責任を負い、戦いも責任を負い、無念さも責任を負い、終末の審判の場に立ち、歴史の全てを拒絶し、「お父様、どうか手を挙げて私達を祝福して下さい。お父様、私を見て怒りを抑えて下さい。お父様、私を見て苦しみと無念を耐えて下さい。お父様、私を見て苦労を収めて下さい」と言えるようにして下さい。このような息子娘たちが現れる事を願い、6千年も慎重に探してこられたのです。お父様、恐れ多くも痛ましい事です。探されるその視線、探されるその姿、慎重なその足跡を、私達は忘れておりました。
今日、聞きました。そして、この時間に知りました。慎重に探せと言われた事を知りました。慎重に探してこられたお父様、私達を掴もうとしたその手を、何度も裏切ってきた私達が、お父様の体面を忘れていた自分自身である事を知りました。
今や、私達がお父様の前に立ち、父と縁を持つ生活をし、お父様に代わって慎重に進むべき道を歩めるようにして下さい。この道をすべて歩んだ後、この道を知らない他の人々に慎重に進むべき方向を教えるべき私達である事を、どうかお許し下さい。そのような天的な命令を受けた私達が、ここで悲しみの涙を流して後退する者達にはならないようにお許し下さい。
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裏切る者達を愛し、裏切る者達を祝福しようとされたお父様の心情が、怒りとして残っている事を知っています。今、終末においてエリヤが祈っていた以上の祈りをお父様に捧げ、その現れた一人の悲しみを慰める者がいない事を知り、その悲しい条件を乗り越え、その方を励ます事のできる切なる心を持つようにさせて下さい。お父様、心から願い求めます。
探し求める足取りが疲れ果てて倒れ、慎重に探し求める歩みが疲れ果てて倒れるたびに、お父様が「私がいる、私の行く道に来なさい」とおっしゃったその時が恋しいです。お父様は人間を信じて働くことができなかった事を知り、人間と相談すると天の業が遅れに遅れていた事を思い出さずにはいられません。
今日、この時は、多くの群れが必要でない事を知っています。この時は、乗り越えていかなければならない時であり、この時は、清算して進まなければならない時であり、この時は、すべてを結びつけて超えていかなければならない時であり、この時は、ありのままに現れなければならない時です。この道は不平を抱く者が進める道ではなく、自らを弁明する者が進める道でもなく、自らを誇示する者が後退する道である事を知りました。この道は、イエス様が血を流して進んだ十字架の道、延長されたゴルゴタの道である事を知りました。自分を弁明する事を知りながらも弁明せず、誇りたい気持ちを持ちながらも誇らず、怒りを感じながらも踏みにじられながら進むべき道である事を知りました。6千年の摂理の道を歩んだ天の聖徒たちを思い出すとき、本当に胸が痛みます。
しかし、それ以上に、お父様の心情がもっと苦しいという事を知ったとき、悔い改めなければならない私達なのです。これは悲しみの中の悲しみであり、言葉にできないほど後悔しなければならない事情だと知っています。私達のすべての願いがお父様のものであり、私達のすべてがお父様の所有であり、私達の心情と愛の中心が父であるのに、その事を感じる事のできない者がいるならば、その者は哀れな者である事を知っています。
イエス様も、十字架で血を流しながらも、そのようなお父様を知り、しっかりと掴んでいたので、死も恐れないとおっしゃいました。むしろ、敵に対して祝福を祈る、その堂々とした、余裕のある人格が恋しいです。その歩みが恋しいです。今日も、明日も、歴史の変化と生活の変化、自らの変化を笑い飛ばせる勝利の王子はどこにいるのでしょうか? お父様、慕わしいです、慕わしいです。
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歴史的な主人公、時代的な主人公、未来的な主人公が分かれてしまうのではなく、一つの実体として現れ、あなたの心情を人間に伝えることのできるその時、その世界、その楽園が慕わしいのです。お父様を「父」と呼べる群れが出てこなければならず、教団が出てこなければなりません。
すべてを忘れてそれを探し求める準備をし、誠心誠意を尽くして責任を果たすことができるようにお許し下さい。すべてを蕩減し、お父様の前に立つために、どんな犠牲も恐れずに駆け出す事ができる息子娘達となる事をお許し下さい。お父様、心から願い求めます。
お父様、この三千万の民族をどうするのでしょうか。この地に散らばっている27億の人類をどうするのでしょうか。民族の運命を憂慮せずにはおられませんし、人類の終末が悲劇的な黒幕に覆われている事を見るとき、悲しみを感じずにはいられません。
感じずにはいられないお父様の歴史的な悲しみの心情を知るがゆえに、無知な人々の前にこの心を伝えることによって、この心を呼び起こさなければならないので、このように言葉を発しました。お許し下さい。愚かな人々に、不忠の座を避けさせるために、このような切なる悲しみの心情を伝えております。お許し下さい。この祈りをお受け入れ下さい。愛するお父様、心から願い求めます。
十字架で亡くなられたイエス様の悲しみが、歴史的な悲しみである事を知っております。カルバリの丘で血の涙を流されたイエス様が慕わしいです。今、その代理者として、お父様の実体として歴史を笑い、歴史を叱責する事のできる一つの姿が現れる事を、人類は待ち望んでおります。天も待ち望んでいる事を知っております。そのような存在が慕わしく、今日も明日も探し求める息子娘たちとなるようにして下さい。心から願い、求めます。
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進むべき道をすべて進み終えず、悲しむ者達にならないようにお許し下さい。進むべき道をすべて進み終えた後も、さらに進みたいと願い、進むべき道をすべて進み終えた後に見つけられる喜びを胸に抱くために、懸命に努力する群れとなるようにして下さい。そうしてこそ、驚くべき大きな摂理の御心の前に一つの礎となるのだという事を、私達は学び知りました。今日も明日も、この御心のために動員される事をお許し下さい。
今日の世界も、この御心のために、私達の後世もこの御心のために動員される運命にある事を知っております。命じてくださり、導いて下さい。私達は進んでまいります。
お父様! 私達が訴えたいすべての心情をご存知であり、祈る事を成し遂げてくださる事を心からお願い申し上げます。残された険しい道もお守り下さい。
1959年4月12日(日)、元本部教会
マタイによる福音書 11:1-30
1
<祈り(Ⅰ)>
不足な姿の私達がお父様の聖なる御姿を恋しながら再びお父様の御前に出て、心と体を伏せましたので、憐れみの恩恵をもって私達に接して下さいますようお願いいたします。
何十万回も愛してくださったお父様であり、数えきれないほど忍耐してこられたお父様でございます。
私達を見捨てる事なく、新しい愛で導く事を休まれなかったお父様! 今日現れた私達の姿が御心に適わず、お父様の心に喜ばれないかもしれませんが、哀れみの心をもって私達に臨んで下さい。
それでも、険しい世を避けて、お父様の心情の世界に入り込もうとする切なる心がございますので、この心をご覧になって、お父様の憐れみの愛を注いでくださり、この時間、私達を受け入れ、見つめて下さいますよう、お父様、切に願い求めます。
お父様の愛を受けるその一席は、創造されたすべての万物が慕う席であり、過去の無数の人類が慕ってきた席であり、現代の人間と未来の人間達が慕わなければならない席です。
2
これを思い、私達がお父様の愛の心中に抱かれようとすればするほど、万物が注目しているという事実を、この時間に感じさせて下さいますようお願いいたします。お父様、切に願い求めます。
今、私達にお父様を「私の父」と呼べる心を与え、そのお父様が私のために苦労された父である事を知る心、お父様が私によって悲しみに沈んでいる事を知る心をお与え下さい。
そして、その心に感動して、お父様と呼び、お父様を掴むことができる切なる息子、娘の姿を表して下さい。
切なる心情でお父様を探し求め、お父様の事情を心配しながら現れた者は、お父様が見捨てられないという事を知っておりますので、私達の心がお父様の心に向かって走り出す事をお許し下さい。
私達の体がお父様の胸に抱かれるために走り出す事をお許し下さい。
3
怒りと悲しみ、そして痛ましい罪の歴史を蹴り出して進み出る動きが、この時間、私達の体と心に満ち溢れるようにして下さい。
そして、私達の体と心を奮い立たせてくださるよう、お父様、切に願い求めます。
私達は、確信を持って天を探し求めて進むことができない弱い者ですので、どうかお父様が信仰の主としておられる事を願い、地が険しく、困難な試練の道が残っている中で、私達は疲れ果てておりますが、天が強く現れる事を望みます。
お父様が私達人間を探しに来られ、失望されることが多かった事を私達は知りませんでした。
人間を心配し、人間のために苦労され、望んでこられた事が私達によって成し遂げられない時、お父様は再び打撃を受け、後退せざるを得なかった事を知りませんでした。
4
私達の望みよりもお父様の望みが大きいという事を私達が知るようにして下さい。
お父様は、私達が弱いときに強くあらん事を望まれ、御心を支え、摂理される時に強い者を求められる事を私達が忘れないようにして下さい。
私のお父様、心から願い求めます。
今、私達の心はお父様の聖姿を恋い慕い、私達の体はお父様の御姿を見たがっております。私達の手はお父様の手を掴みたがり、お父様の体にすがりつきたいと願っております。
そのような真の息子娘、お父様の愛を歌うことのできる息子娘達を迎えたいと願っているのが、人間に対するお父様の中心の願いである事を知っておりますので、私達の心がそのような心情に深く浸ることができるこの時間となるようにして下さい。お父様、切に願い求めます。
5
今日、私達は罪に染まっており、闇の中におります。これまで私達の感覚や五感は、お父様の悲しみや嘆きを感じる事ができず、お父様の悲しみに満ちた心情を忘れ、自分自身の悲しみを訴えることに急でした。
お父様の御前に差し出すべき何も備えていない私達に、せめて自らを悲しむ心をお与え下さい。
過去の誤りを責め、今日の未熟さを恨む悲しい心情が私達の心中から溢れ出て、お父様を呼ぶことができるようにして下さい。そうすれば、お父様は私達を掴み、お父様は私達を見つめ、お父様は私達を抱きしめてくださるでしょう。
お父様、そのような心情を私達にお与え下さい。そのような心情に満ちて、不完全な自分を認識し、お父様の御前にすべてを捧げる切なる心を私達にお与え下さいと、お父様、切に願い求めます。
お父様、この場に集まった恥ずかしい子供達を憐れんで下さい。知っていると思っていた事も知らない時が来た事を知っております。
6
自らの口で自分を弁明していた自分を否定し、再び生まれ変わらなければならない時が来た事を知っております。
すべての歴史的な悲しみは、蕩減条件を通らなければ解放されない事を知っています。
今、私達には、お父様の理念の前でカインとアベルの立場に置かれる時が来ている事を教えて下さい。
個々の心と体が争い、体が心を非難し、心が体の前に屈服する時、歴史的な終末時期が近づくにつれ、個人から家庭、教会、社会、世界に至るまで繋がって起こる事が私達の目の前に近づいている事を教えて下さい。
その時を知らず、悲しみの歴史に押し流された私達の先祖達を知っている私達も、罪の歴史を紡ぎ続ける道具に簡単にされてしまう立場に置かれています。
7
しかし、私達には、天の善を築き上げるために使われる要素が非常に少ない事を知っている私達に、どうか話したい時でも口を閉ざす術をお与え下さい。
見たくないものを見ても、耐えることができるようにして下さい。聞きたくない言葉を聞いた時には、耳を塞ぐことができる心をお与え下さい。
天に向けるべき心が混乱の中でさまよっており、体が留まる場所を見つけられない環境に置かれているかもしれませんが、お父様、私達を見捨てず、お父様の恩恵の手で私達をお父様の胸に導いてくださると信じています。
どうか私達を憐れんでくださり、お父様の御前にひざまずいて訴える事のできる心を起こして下さい、お父様、切に願い求めます。
このような心情がなければ、永遠に悲しみを呼び起こす天の裏切り者になってしまうのではないかと恐れ、自分を掴んで泣く者となるようにして下さい。
8
兄弟を思って悲しむよりも、自分の心を思ってもっと悲しみ、隣人の兄弟が私と同じ悲しみに陥るのではないかと心配し、彼らを助けたいという心が私達の心から湧き上がらなければ、最後に超えなければならない最後の峠を越えられない事を知っています。
ですから、お父様、この時間、愛する家族達の心をお慰め下さい。
ここまで私達を探し出してくださった摂理の目的が何であり、希望が何であるかを知り、自らを立てようとする内容を心で分析し、立て、守り、お父様の御前に決断しなければならない時である事を教えて下さいますよう、切に願い求めます。
お父様、聖なるこの日、多くの人類を祝福して下さい。ここに集まった多くのあなたの息子娘達を祝福して下さい。
天に向かって「父」と呼ぶ息子娘が数多くおりますが、「父」と呼べる真の息子娘、お父様が「私の息子娘」と呼べる真の息子娘が非常に少ない事を知っています。この悲しみを止める者は誰であり、お父様のこの悲しみを慰める者は誰でしょうか?
9
地上には誰もいない事を知っております。
このような理念を備え、お父様の心情を通じる事ができる真の息子娘達が、あなたを探し、あなたの胸に抱かれ、万宇宙を代わって誇る事ができるその一瞬が、歴史的な終末期に、希望の最後に現れなければならない事を知っています。
お父様、ここに集まったあなたの息子娘達が、誰のためにここに来たのか、誰に仕えるためにここに来たのか、誰を迎えるためにここに来たのかを自ら反省し、孤独なお父様の前に軽率な態度を捨て、温和で謙虚な姿勢になるようにして下さい。
お父様の悲しみの中の悲しみを感じ、苦しい心情を体験し、お父様を慰め、お父様を呼ぶ事ができるこの時間となるよう切に願い求めます。
この時間、孤独な家族達が地方に広がり、お父様の御前にひざまずいて祈っている事を知っております。
10
彼らの事情をご存知のお父様、彼らを見捨てず、彼らの主宰者となり、保護して下さい。
すべての心配をお父様が共にしてくださり、慰めてくださり、お父様の栄光を歌う事ができる喜びの時間となるよう、切にお願いいたします。
不足な者達がお父様の御前にひざまずき、礼拝を捧げようとしておりますので、どうか親しく聖別してくださり、初めから終わりまで、悪魔の一切を許さないようにして下さいますよう切にお願いし、すべての言葉を主の御名においてお捧げいたします。アーメン。
<祈り(Ⅱ)>
お父様、私達の行く道は険しいですが、この道を行けば天の人に会えるという願いの日が遠くない事を知り、この道を行く私達の歩みが疲れる事もありますが、お父様が歩まれた道であるために、行かざるを得ない人生の道である事を知りました。
今、私達が心に染みてお父様を呼ぶ事ができる切なる心が湧き上がるその時には、私よりも切なく、切実な心情で見守られるお父様がおられるという事を知りました。そして、一歩、二歩と探りながら進むことの分からない道を行けとおっしゃるお父様の声に従って進む歩みも楽ではない事を知りました。
11
今日、残された御心の前に、私達が未熟であり、忠誠の捧げ物とならなかった事を嘆かざるを得ず、苦難の歴史を振り返り、天の前に喜びを返す事ができなかった悲しい歴史を振り返るたびに、嘆かざるを得ません。このような姿が、かつてお父様の前に祝福を求めた時の不足をお許し下さい。
お父様、人間達を見つめ、人間を探すために心を痛めるお父様の御姿を見つめる息子娘がいるならば、お父様の前に祝福を祈る事も、その御姿の前で自分の主張を広げる事もできない事を知っております。このような歴史的な悲しみが残っている事を千度万度忘れていたこの不忠不孝な子供達をお許し下さい。
今、心の奥底からお父様を呼ぶ事ができ、天地が喜ぶ事のできる、父と私達が一つになるその瞬間に新しい歴史が始まり、希望が成し遂げられる事を知っておりますが、今日の私達の心の根底がそのような心情に満ちる事ができる場所にいないため、失望し、嘆かざるを得ません。
お父様、ここに出てお父様を呼ぶ者達の姿を憐れんで下さい。彼らがお父様の前に忠誠を尽くした内容があるならば、お父様がそれを覚えておられないはずがない事を知っており、彼らがお父様のために知られずに苦しい場所にいるならば、それを知らないはずがない事を知っております。お父様、私達が天に心配をかけたとしても、お父様は私達の前に心配を残されなかったという事実を忘れさせないで下さい。
地上に悲しみがあるとするならば、悲しむ者を慰められるお父様の悲しみ以上の悲しみがどこにありましょうか? 苦痛があるとするならば、お父様を裏切って苦しむ者を抱き慰められるお父様の苦痛以上の苦痛がどこにありましょうか?
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お父様はご自身の威信と体面と権威を立てる事ができず、希望を残したまま歴史の道を歩んでこられる間、多くの善なる先祖達を抱いて、「私の心情を分かってほしい、私の事情を分かってほしい」と泣き叫びながら、切に訴えてこられたという歴史的な言葉を私達は聞きました。しかし、今日の私達は歴史を代弁する事もできず、歴史的な実体を証明して善の実体であると誇る事もできない姿で、お父様の前にひざまずいております。この面目ない私達の姿を、この時間にさらけ出し、告白させて下さい。そして、悪魔に弄ばれている自分達である事を悟らせるこの時間となるよう、切に願い求めます。
残された摂理の御心の前で、不忠な者は多いですが、忠誠を尽くす者がいないため、今日も明日も心配され、摂理の御心と心情を打ち明けて話す事ができないお父様の御事情を、この時間に私達が理解できるようにして下さい、とお父様、切に願い求めます。
この時間、ここに伏せておりますので、私達の心がどこに留まっているのかを考えさせて下さい。
お父様は天の御心と心情の基盤の上で動く事を望んでおられるにもかかわらず、今日の私達の心は虚空に向かって走っていないでしょうか? 目的と方向を失ったまま悲しみの場所に留まっていないでしょうか? お父様の心配の鞭を受けるにふさわしい悲しみの場所にいるのではないでしょうか? 自ら悔い改めさせて下さい。
私は残された善の園に向かって進む者であり、残された使命のために戦う天の勇士であると誇れるようにして下さい。お父様が探し求めておられる姿が自分自身である事を知り、探し出されるために努力している事をお父様の前に明らかに示す事ができる者とならせて下さい。自ら決意し、自らを清める事ができるこの時間とならせて下さい、とお父様、切に願い求めます。
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散り散りになった心を集めて故郷を恋しがる事ができる、再創造の御手が及ぶこの時間とならせて下さい。そして、お父様の祝福を受け継ぐ前に、まずお父様の悲しみを受け継ぎ、その悲しみの主人公となって、お父様の前に堂々と立ち向かい進む覚悟と決意を持つこの時間とならせて下さい、とお父様、切に願い求めます。
今日、統一の理念を備えておきながら、他人ではないとするこの場に追いやられたお父様、自分が望んでいないその一か所に足を早めて追いやられたお父様、善なる事を始められた方も父であり、善なる事を成し遂げられる方も父である事を知っております。お父様の御心と通じない限り、呼ばれ、集められるという目的が成し遂げられないという事を知っておりますので、その御心の前に水となり、火となり、油となり、今日も明日も御心の前に謙遜な供え物となる事ができるよう、切に願い求めます。
悪しき世を焼き尽くす事のできる油となり、火となるべきであり、善に対しては柔和謙遜でなければならない事を知っております。お父様はこのような法則をもって私達を探し求めてこられたゆえに、イエス様は「高くなりたい者は低くなり、低くなりたい者は高くなる」とおっしゃられ、犠牲と奉仕、柔和謙遜で天の道を築かれた事を知っております。
私達もその中心に染み入って、自らの不足を知り、お父様の前に無限に謙遜になる事ができ、自分のすべてを捧げる供え物とする心情が、それぞれの心と心を通じて天心にまで届く事ができるようにお許し下さい。お父様、切に願い求めます。
この日も時を知らずにさまよっている多くの人間達がおりますので、彼らの運命を握って下さい。そして、さらに、五千年の歴史を誇りながらも、哀れな境遇にある三千万人の民衆を憐れんで下さい。この民族の歴史の道は血で染まった道である事を知っており、この民族は善を阻む存在達と戦ってきた哀れな民族である事を知っております。
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このような民族を立てておきながら、天は摂理の御心を予告され、摂理の時を教えて下さいました。彼らの前に一つの中心を知らせてくださったお父様! この民族によって重くなったお父様の悲しみを少しでも和らげる事ができるようにして下さい。そして、そのような条件がこの民族にないならば、まず御心を知り、心情を知った私達がお父様の心情を抱き、その悲しみを抑え込む事ができるようにしてくださるよう、切に願い求めます。
今、私達の心がお父様に向かって無限に走れるようにして下さい。お父様を恋しく思い、抱きしめたい気持ちと、子供のような心情を持って、お父様を無限に慕う事ができるこの時間となり、罪に染まったあらゆる主義やあらゆる観念、あらゆる意識が私達から離れるようにして下さい。
どうか願わくば、この時間、私達の本心が表れ、本性が表れ、本来の姿が現れるように導いて下さい。お父様が喜んでくださり、お父様が再び私達を抱きしめ、万宇宙と悪魔の前に立って誇られる事ができる私達になるよう、この時間、歴史を動かして下さい。そして、一歩先に進み、お父様の前で頭を下げる姿となるようにして下さい。お父様、切に願い求めます。
終わりの日に、お父様がこのような姿を探し求められる時、小さくか弱い声ででも、「万民の悲しみを抱えて訪れてくださったお父様、不足な者がここにおりますので、どうか憐れんで下さい」と言えるようにならなければなりません。自らの不足を感じながら、お父様の呼びかける声に応じる事ができず、顔を上げる事ができない自らの不足を悔い、再び反省する事ができるお父様の息子娘達となるようにお許し下さい。お父様、切に願い求めます。
お父様に対してはこのような心を持ち、不義と悪に対しては憤り、我慢できない正義の心情を持ち、この身が祭壇に上がる事があったとしても、天の法を開拓する者として、立てられた天の精兵の体面を損なうあらゆる事に対しても屈する事なく戦う姿となるようお許し下さい。お父様、切に願い求めます。
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お父様をお迎えする事のできるこの時間となるようにお許し下さい。そして、孤独な心情で祈っている家族たちの上にも、均一な恩賜をもって歴史を働かせてくださるよう、お願い申し上げます。
初めから終わりまで、お父様が主宰して下さい。千千万の聖徒達と天軍天使達がお父様を取り囲む中、お父様の深く広く高い御姿を体感させて下さい。私達の目でお父様を見させて下さい。私達の耳でお父様の声を聞けるこの時間をお許し下さい。そして、天の聖霊が実体として現れるようお許し下さい、とお願い申し上げます。すべてを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。
<祈り(Ⅲ)>
胸に釘痕を残した悲しみがどのようなものであるか、私達は御言葉を通して学びました。お父様!この御言葉を読むと、身に余る光栄であり、この御言葉を語られたイエス様の焦燥した姿が懐かしくなります。心情を抱えて嗚咽してくれる友一人もいなかったイエス・キリストの生涯の悲しい事情を同情する私達になるようお許し下さい。
人間的な生活から抜け出せなかった弟子達と、天の悲しみを知る事ができなかった人間世界の悲しい現実を見つめられるイエス様の御言葉を共感した者がいなかった事を知っています。
お父様、30余年もの間、荒野でイナゴと野蜜を食べながら修行した洗礼者ヨハネが抱いた願いとは何であったのでしょうか? 彼の願い全体、その心の中心の一つは、来られるメシアを迎える事であった事を知っています。
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メシアを証した彼には、メシアと一つにならなければならない天倫の縁があったのに、彼が私の心の中にあり、私が彼の中にあり、彼のものが私のものであり、彼の心情が私の心情であり、彼の生涯が私の生涯であるという、すなわちイエスのすべてが洗礼者ヨハネの心中に反映されて一体を成すべきであったのに、彼はそれを成し遂げられませんでした。
ヨルダン川岸の多くの群衆の前で手を挙げて天の子だと証した記憶を持っていた洗礼者ヨハネは、悲しく孤独な姿で鉄の牢に閉じ込められ、自分の悲しい境遇を嘆かざるを得ない状況の中で、自分が証したメシア、天が証し立ててくださったメシアに弟子達を送って、「来るべき方があなたでいらっしゃいますか、それとも私達は他の方を待つべきでしょうか?」(マタイ11:3)と問い返した場面は、歴史的に悲しい場面であり、天が超える事のできない悲しい場面であった事を私達は知りました。
歴史の流れの中に、洗礼者ヨハネの道程はそのまま残っています。新しい理念を探し求めて苦しんでいる私達、新しい歴史を待ち望みながら準備している私達が、今、洗礼者ヨハネと自分自身を置き換えて考える事のできる者達になるようお許し下さい。
天の民達が天の御心を拒んだ事実を歴史を通じて知りましたので、今日私達がそのような歴史的な過ちを繰り返す者達とならないよう導いて下さい。そして、荒野で鍛え準備させてくださったその御心を失う者達とならないよう切に願い求めます。
今日、あなたの愛する息子娘達が多く集まりましたので、今、その心と心を開き、その体と心がお父様の前に面目ない事を悟るようお許し下さい。この時間、勧告される御言葉を聞き、イエス・キリストの悲しい心情を受け継ぐことができるようにし、天的な悲しい心情を抱いて人々が知らない新しい理念の主人公を迎えることができる心と体とならせてくださるよう、お父様、切に願い求めます。
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この時代を導いていく主人公は誰であり、この時代に残される事のできる民族はどのような民族なのかを憂慮し、そのような姿を思い描きながら悲しい心情に浸る事のできるこの一時間とならせてくださるよう、お父様、切に願い求めます。聞こえてくる御言葉と聞こえてくる声に耳を傾け、それに同調し反応する生活をする私達が、今、自分達の歩んできた道を振り返り、新たに覚醒しなければならない時が来ました。
混乱と混沌の中に置かれ、生死を決する立場にいる自分自身を心配する状況から私達が脱する事ができるようにして下さい。信頼できない社会であり、信頼できない世界である事を知っておりますが、信頼できる理念の世界に沈み、その理念の世界と結びつけるように自ら覚醒し、自らを認識して天を掴まなければならない時が来た事を知っております。そして、心の変革を起こさなければならない時が来た事を知っています。
このような環境に置かれている自分である事を肝に銘じて、新しい自分を追い求める事ができるように導いて下さい。そして、怨恨に満ちた悲しみの峠を越え、歓喜の姿を迎える事のできる私達となるようにして下さい。その姿を恋い慕い、その世界に引かれ、その世界と和合できるようにして下さい。今日、この社会環境が自由でなく、悲しみに満ちている事を悲痛に感じ、これを阻止して戦える力と勇気をお与え下さい。永遠であり、絶対的である天があるならば、罪悪の一切を追い払う事ができる力をお与えくださるように願い、祈ります。
ミディアンの荒野で羊を飼っていたモーセ、たとえ彼の手には杖があったとしても、彼はイスラエルの運命を左右する事のできる新しい覚悟と新しい希望、新しい理念を持っていた事を知っています。また、その希望と理念を抱き、ミディアンの荒野で40年間過ごしたモーセの忠誠心を私達は知っています。
今、私達は御言葉を聞ける場におり、待ち望んでいたその方に会う事ができる場所におります。しかし、待ち望んでいたその方の前に立つ私達の姿は、新しい姿でなければならない事を知っています。お父様が「私はあなたの中にあり、あなたは私の中にある」とおっしゃった御言葉を私達は知っています。これを知る私達が、「すべてをお任せいたしますので、再創造して下さい。お父様の喜ばれる御心のままに、望まれる供え物として用いて下さい」と言えるこの時間となる事を、切に願い求めます。
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お父様、何も言いたくはありませんが、許されたこの時間、今、御言葉を語らなければならない時ですので、口を開かざるを得ない事を知っています。
ここに集まったあなたの息子娘達が、あなたの御姿を見たいという気持ち、あなたがいらっしゃる場所に行きたいという切なる気持ち、あなたと共に暮らしたいという切実な心情、慕う心情に満たされ、愛の心情だけがこの雰囲気を包み、再創造の栄光が現れる時間となるようにして下さい。お父様、切に願い求めます。
一つで始まり、一つで終える事ができるように、一つの主導的な働きが全体の上に現れる事をお願いし、悪魔が入り込む時間とならないようにしてくださる事を願いながら、すべての言葉を主の御名によってお捧げいたします。アーメン。
<御言葉>
今日、私達は心に引かれて動くのか、事情に引かれて動くのか、さもなくば、何らかの希望に引かれて生きています。世の中での生活もそうであり、天の道を歩む事もそうだという事を、私達は知っています。
このような立場から離れられない私達であり、自分という存在を認めるならば、私の人生というものが必ずしも私自身から始まるものではない事を否定できません。私達の社会的な環境や信仰の道も、やはり何らかの全体的な計画の下で、何らかの目的に向かって進んでおり、その形が次第に変わっていくという事実を私達は考えるべきです。
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これを考えると、今日の人生の旅路で勝利したと断言し、自慢でき、あるいは摂理の御心の前に堂々としていると言える人がいるとしたら、その人は、この混乱した世界で生きている人ではないと言い切れるでしょう。
そのような存在が今まで歴史の道に現れていないこと、そのような存在が歴史を支配できていない事を否定できないのならば、私達はそのような自分を心で思い描き、主義や思想、あるいは生活の過程を通して追い求め、それを探し続けていかなければならないのだという事を知らなければなりません。
そのような個人を中心に据えた家庭になり、そのような家庭を中心にして天を讃え、証する事のできる社会になり、そのような社会を中心にして天を讃え、証する事のできる国家、さらに進んでそのような世界にならなければなりません。天の前に現れて、自信を持って「お父様、私を見て下さい。お父様、私を掴んで下さい。私を見て、歴史的なすべての悲しみを忘れて下さい」と言える個人を探して、歴史は流れてきたという事を私達は知っています。
しかし、人間が堕落した事によって、希望の自分となれず、望まない嘆きと絶望の中で、未知の旅路で苦しんでいます。さらに、そのような自分を急かし、私が住んでいる社会や国家、世界を急かす何かがないかと、私達は悲しんでいます。このように、希望の自分と希望を成し遂げられなかった自分を抱え、最後の決断を下して、長い間探し求めてきたその自分を見つけ、すべての被造物の前で誇り、万物の霊長と自負できるその瞬間を目指して、人間は今日も戦い、明日も、この年も、そして今後数年後も戦い続けるという事を忘れてはなりません。この運命に置かれている自分自身を考えるとき、私達は今日、どれほど大きな責任を負っているかを知らなければなりません。
エデンの園のアダムとエバが神の御腕の中で育っていた時は、現れるすべてのものに対して自信を持って生活していました。しかし、許されていない天倫の法を破ってからは、彼らの心には自分を誇れる自信がなくなりました。ここに悲劇があり、ここに曲折があるという事を、私達はもう一度考えなければなりません。
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人間を放棄できない神は、創造された責任があるがゆえに、これを再び回復させるための運動を提唱されました。これが、人間を導いてきた宗教運動です。
人間は堕落して落ちてしまいましたが、神が創造の理念で立てられた一つの法則と、本来の自分を誇れる自由の理念は、創造の前から創造の後、現在に至るまで変わらずに神の心中に深く刻まれているという事を、私達は知っていなければなりません。しかし、今まで神の心がどのようなものかを解明した者はいません。神の理念がこれだと主張した者もいないのです。
天は人間のために存在し、天のために人間が創造されたと言えるならば、神と本来の人間が共に生きられる理念の世界、神の心中に隠されている本来の世界は、必然的に現れなければなりません。
今日まで、神は正常な道を歩んでこられたのではなく、堕落した人間を掴み、曲折の道を歩んでこられた事を、歴史を通してよく知っています。聖書を中心に歴史を振り返ってみると、カインとアベルから今日まで、天を信じない人間を導いて曲折の道を歩んできた事を、私達は知る事ができます。
このような歴史の流れは、最終的には一つの理念の世界に向かって進むでしょうし、天はその理念の世界に人間を追いやるに違いありません。人間の良心がその理念の世界に向かって今日も明日も苦しみながら進まなければならないと急き立てているという事も、確かな事実です。これを誰も否定する事はできません。天が立てようとしておられる理念と、私達が求めている理念が交わる瞬間が、人間にとっての希望の瞬間であり、天が導いてこられた摂理の目的である事を、私達は再認識しなければなりません。
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天は信仰の道を求める宗教者達、特にキリスト教徒に終わりの日を予告されました。その日が再臨の日であり、その日の主人公が再臨主だと予告されました。したがって、その一日が神の希望の終着点であり、人類の願望成就の終着点である事を否定する事はできません。
では、その日を迎えなければならない私達は、どのような姿でなければならないのでしょうか? 問題はここにあります。どのような姿でなければならないのか? 今まで真にこれを教えてくれる論理もなく、宗教もなく、心情を整理してくれる友もありませんでした。私達はそのような状況に置かれています。
私達の心は刻一刻と変わっています。社会生活の形態も変わっており、主義や思想も場所や時期によって変わっていきます。
絶対的な自分、全体の理念を代わって立つ事のできる自分、変わる事のない自分を探し求める事が信仰の道だとするならば、紆余曲折の道を歩まなければならない地上世界で、私達が持つべき心情は何であり、どのような道を歩むべきか、私達が整えて立てるべきものは何か、これらは誰しもが考慮しなければならない重要な問題です。
これらを理解したときに、終わりの日を見据える私達が、私が待ち望む太陽がどこから昇るのか分からない今、あなた方の目はどこを向いているのか、どこを見据えるべきか? これが問題です。注意深く、全力を尽くして、東の太陽が昇るところに向かって自分の心と体の方向を合わせなければなりません。
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人類の運命がこの道で終わらなければならないゆえに、また、この縁を断ち切る事ができず、この領域の中で信仰生活をしている私達だからこそ、注意深く見守りながら進まなければならないという事です。ですから、皆さんの前にお話しする題は「慎重に見守らなければならない信仰の道」です。
今、皆さんは自信を持っていますか? 自らを断言していますか? 自信があるなら、その自信は誰を通しての自信ですか? 個人を通して、環境を通過する事ができますか? 社会、国家、世界を通過する事ができますか? さらに、天倫があるならば、それを通過する事ができますか? これらの問題に対して自信を持てない限り、皆さんは自分自身を絶対的に否定しなければなりません。
このような立場に置かれている人間だからこそ、皆さんは常に天倫が向かっている方向はどこであり、その終着点はどのような形で現れるのかを探し求めなければなりません。自信を持って主張し誇る何よりも、そうした心が切実でなければならないのです。これを知らずに自らを誇り、自らを中心にして動く範囲が大きければ大きいほど、終わりの日に歴史的な裏切り者として登場する事になるという事を、私達は考えなければなりません。
私達は足りない者達です。私達は押し流され、状況に巻き込まれています。このような私達が、「天倫よ、私を押してくれ」と言える自信を持つ事ができるでしょうか? できません。持てません。私達の先祖達も、自信を持てない歩みで天を探し求めました。ですから、天が命じるところに行くとき、彼らは一歩一歩を慎重に進み、二歩も慎重に進み、一日の生活も慎重に過ごし、一夜の眠りの中ですら慎重に歩んできた事を、私達は知っています。
そのため、このような生活ができない者であれば、たとえ御心に従うといっても、最終的には天の御心から離れ、天の御心を悪魔の世界に返す事に貢献した者として終わる可能性がある事を、私達はあまりにもよく知っています。
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自信のない家庭、自信のない民族、自信のない国家、自信のない世界だからこそ、この世界の何も、誰も天倫の前に不変の存在だと主張する事はできません。このような立場に置かれている私達だからこそ、私達は一日の生活を慎重にし、一年の生活を慎重にし、一生の生活を慎重にしなければなりません。このように慎重に歩む事が、善を求めて進む歩みである事を知り、私達は歩まなければなりません。
歴史は発展してきました。個人から始まり、氏族を経て、部族へ、さらに民族を経て、国家、そして世界にまで発展してきました。過去の多くの氏族は自分たちの理念や主張を持っていましたが、時代の流れによって氏族時代から民族時代に移行するとき、氏族時代のすべての思想が民族時代の思想に飲み込まれ、また民族時代の思想は国家時代の思想に飲み込まれ、国家時代の思想は世界時代の思想に飲み込まれました。そして世界時代の思想は、今後、天倫に飲み込まれていくでしょう。歴史はこのように、一つの帰結点に向かって吸収されてきたという事実を、私達は理解しなければなりません。
このような歴史的事実を否定できないのであれば、今日の私はどのような立場で生きているのか、どのように動いているのか、どこに立っているのか、ということが問題となります。皆さんが今生きているその場所が、最後の終着点であれば問題は単純ですが、ここでまた変革が必要な歴史が残っているのであれば、皆さんは歴史理念時代、あるいは摂理理念時代、あるいは信仰理念時代の目的地に達しておらず、途中で止まる者にすぎない事になるでしょう。
天は人間と切り離せない関係を結んでいるゆえに、人類を放棄する事なく、人類を掴んで歴史の道を動かしてこられました。そして時代が変わるごとに、新しい理念をお与えになりました。氏族から部族に移行するときには、部族時代に移行できる理念をお与えになりました。氏族に対して、部族権を超えた遠くの理念を与えると、それについていけないので、良心と繋がる程度で、一歩先の理念をお与えになってきたのです。このように、氏族時代には部族の理念を、部族時代には民族の理念を、民族時代には世界の理念をお与えになり、連結してきたという事を、信仰の歴史を見ても、人類の歴史を見ても、否定する事はできません。
では、歴史の道のりに残される民族、歴史の道のりに残される氏族とは、どのような民族、氏族であるべきでしょうか? たとえば、氏族時代から部族時代に移行するとき、天倫を掴んで超えていける氏族です。そして、天倫が部族を越えて国家の理念を求めるならば、国家の理念に向かって立ち上がる事のできる群れです。あるいは、その国家の前に世界の理念が残されているならば、国家を越えて世界の理念に向かって進む事ができる群れです。このような群れが、最後に残される群れであり、同時に世界を建設する事ができる群れであり、世界を支配する事ができる群れなのです。このような氏族、部族、民族、国家、世界を完成して、歴史的に勝利する民族、勝利する国家として立つ事ができるのです。
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したがって、このような理念を求めて進む氏族が必要であり、このような摂理の御心に従って進む氏族が必要です。さらに、この摂理の御心に従うために、闘いの道を歩む民族が必要です。そうしてキリスト教が登場し、イスラエル民族が登場したのです。イエス様が統一された家庭、統一された国家、統一された理念を主張された原因がここにある事を、私達は理解しなければなりません。
では、そのイエス様はどのような方なのでしょうか? イエス様は、本来の主人公であり、最初に天の理念を備えた実体であり、天と永遠に共に住む事のできる理念を完成された実体として現れた方です。イエス様は、人類全体を導く立場では指導者であり、私達個々人に対しては父であり、本来の創造理念世界を求めていく立場では新郎です。イエス様はこれを結論づけておられました。
では、これから一つの世界、一つの理念の園、一つの理念国家が成し遂げられる時の理念はどのようなものになるでしょうか? それは、歴史の変化や革命にも変わらない理念でしょう。たとえば、親の愛のように変わらない愛の理念です。親が子供に対する心情は変わりません。変わらない天の愛を中心にして、絡み合った世界、関わるすべての場所において愛の感情が先立つその社会、その国家、その世界においては、「革命」という言葉は成立しません。その世界は、神の心情が個人の生活を通じて現れる世界です。そして、神がすべての人々を子供として思われる心情をすべての人々が体感する世界です。だからこそ、お互いに兄弟姉妹と考えないわけにはいかない心情の世界である事は間違いありません。このような世界が、人間が探し求めなければならない最後の終着点です。イエス様はこの地に来られて神を「父」と呼び、ご自身を「新郎」と呼び、さらに私達を一段高く引き上げて「兄弟」とおっしゃいました。真に感謝すべき恩恵の御言葉なのです。
イエス様は、個人の縁を通してこの地に現れた方ではありません。4千年の歴史を経てくる間に、天が多くの預言者、聖者達を通して「送りましょう、送りましょう」として来られた方でした。したがって、イエス様は天倫の背景を備え、摂理の歴史の御心を基盤として人類の歴史をまとめるために現れた方であると言えます。それゆえ、世界はイエス様を中心として今日まで進み、イエス様の名は今まで残されています。
今日のこの時代は、善と悪が交差する時代であり、善に合流していく時代です。このような時代に置かれている私達はどうなるのでしょうか? 善と悪が交差して合流した後には、どのような世界になるのでしょうか? この世界が進むと、どのような世界がやってくるのでしょうか? これは気になる問題です。今日、天の御心を持った若者達がいるとすれば、歩みを止めて天が存在する事を知り、地にある万物の希望を知らなければなりません。そして、その希望の爆発地点が交差点にとどまるこの世界ではなく、まさに自分たち自身である事に気付かなければなりません。
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このような問題を解決するために、神は今まで摂理を進めてこられました。もしアダムがエデンの園で神の前に罪を犯さなかったならば、堕落の悲しい道を歩まなかったならば、アダムは6千年が過ぎた今でも神の御心に従って歩んでいた事でしょう。皆さんはそれを考えたことがありますか? アダムが神の祝福を受け、神の御心を受け継ぎ、神の摂理を責任を持って果たし、神と共に住んでいたならば、数多くの預言者や先祖たち、そして御心を抱いて来た数多くの善なる人々が命を落とす悲劇はなかったでしょう。そうではありませんか?
私達が願い、待ち望むものは何でしょうか? 私達が希望し、探し求めるものは何でしょうか? それは、堕落していない姿、歴史に永遠に残りうる姿、変化する歴史をまとめられる姿、善の理念を立てられる姿です。そのような姿がこの終わりの日に現れるならば、私達は嘆く事はないでしょう。絶望の場所にいる事もないでしょう。
では、何が嘆きと絶望の原因なのでしょうか? それは、御心の前に立つ事のできる歴史的な主人公がいないという事実が嘆きであり、絶望であり、悲しみなのです。この歴史的な主人公を探し求めてきたのが歴史の流れであるため、私達人間はあちらこちらで倒れながらも、一度も歩みを止める事なく、この時間も歩き続けているのです。
今日、全世界の人類が再び訴えるべき事があるとすれば、それは「歴史的であり、時代的であり、未来的な主人公はどこにいるのか?」という事です。この主人公を切実に待ち望む時が来ました。歴史はすでに過ぎ去ったのに、その主人公はいつ来られるのでしょうか? もし天倫がなければ、その主人公は人類の前に現れる事はないでしょう。しかし、天倫があるゆえに、この時代の主人公はいつか必ず人類の前に現れるのです。ですから、皆さんはその主人公がどのような姿で来られるのかを知っておかなければなりません。
なぜなら、過去にも新しい主人公が来られたのに、その主人公を認識できなかったからです。今日もまた、天の御心を終わらせるための天の摂理が残っていると知っている限り、皆さんはこの時代の主人公が誰であるかを考えなければなりません。もし皆さん自身がその主人公になる自信がないならば、頭を下げ、その主人公を探そうとする決意と行動を取る事ができなければなりません。
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私達が求める最後の主人公は、この時代の主人公だけでなく、未来の主人公にもなり得る方です。だからこそ、今日、キリスト教思想の中で感謝すべき事は再臨主思想です。4千年の歴史を代わって歴史的な指導者として来られたイエス様、その時代を代わって来られたイエス様が未来の主人公として再び来られるのですから、そのイエス様は私達人類にとって必要な方なのです。人類は今や再び来られるイエス様を必要としています。再び来られるイエス様がそのような主人公として責任を負う事ができるからこそ、そのイエス様の名が人類に必要であり、今日、人類は再び来られる主に向かって進んでいるのです。これを誰も否定できません。否定できないのです。
では、終わりの日に直面している皆さんは、この時にどうすべきでしょうか? 皆さん自身がこの時代の主人公となり、未来の主人公となるべきです。そのための準備をしなければなりません。これが、天を見上げて進む者達が必ず憂慮しなければならない最後の問題であり、中心問題であるという事を忘れてはなりません。
もし皆さんがそのような事を解明できず、そのような理念を主張できないならば、皆さんは何らかの流れに巻き込まれてしまうでしょう。この巻き込まれる流れを阻止し、新しい何かを待ち望む自信がない限り、最終的な審判の場で後退しなければならない敗北の種族となってしまうという事を知っておかなければなりません。そうではありませんか?
今日の世界は再び変わらなければならない世界です。今まで世界がこのように変わってきたのですから、今日の時代は再び大きく変わらなければなりません。このような世界に生きている皆さんは、変わらずにいられるでしょうか? 変わる世界、変わる思想の中で変わらない自分でいなければならないのです。そのためにはどうすればよいのでしょうか? それを解決してくれるものが、宗教であり、真理であるはずです。
歴史は一つの目標に向かって変わらずに流れてきましたし、現在もそうであり、これからもそうでしょう。しかし、人々の心は変わっています。皆さんの心も一日の生活の中で何度も変わります。皆さんが主張する主義も、一生の間に何度も変わります。このような歪んだ人間であり、エデンで天を裏切った堕落した子孫であるという事を、私達は生活の中で感じなければなりません。
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これを止めてくれる宗教はないのか? これを止めてくれる指導者はないのか? これを止めてくれる責任者はいないのか? そのように胸を開いて宇宙の悲しみと哀れみを嘆き、叫ばなければならない時が来たのです。
歴史は時期ごと、あるいは世紀ごとに変わってきました。神の6,000年の摂理の歴史を振り返ってみると、そこには捧げ物の時代があり、律法の時代があり、信仰の時代がありました。また、旧約時代があり、新約時代があり、やがて成約時代が来る事を知っています。今、新しい理念の世界が来なければなりませんが、この世界が変わらなければ、その理念の世界は来ないのです。
ところが、今日、私達は一日にも千回、万回と変わりながらも、平然と眠っている歴史的な悲しみの果実である事を知らなければなりません。いくら自分の主義を高らかに誇ったとしても、自分自身を弁明したとしても、それは変わるべき誇りであり、変わるべき弁明です。
では、人も変わり、歴史も変わり、この地も変わるならば、これを収めることのできる心情的な態度はどのようなものでしょうか? それは「慎重にする」しかありません。慎重に見守るしかありません。こちらに来ても、心を痛めながら慎重にし、あちらに行っても心を痛めながら慎重にしなければならないのです。変わる時代を乗り越えるためには、新しい世界を恋い慕い、その世界を望み、変わるものを避け、慎重に進もうとする心を持たなければなりません。
過去の預言者達も、天に呼ばれるときは勇敢に現れました。天の前に呼ばれたときは勇敢に現れましたが、悪魔に送られたときは皆敗れました。そうではありませんか? 天に呼ばれたときは喜んで出発しましたが、天が呼ばれた目的を果たすために悪魔に向かって突き進んだときは、皆倒れてしまいました。このような敗北の足跡を持つ歴史がある事を、私達は知らなければなりません。
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では、今、私達は何を慎重に見守るべきなのでしょうか? 死の権能の中にいる、何度も死んで当然の人間を探して来られる天の御苦労があるという事を、慎重に見守るべきです。天が死の権能の中にいる私達を探し出してくださるときは、世の中の何よりも貴いものを持って来てくださり、死の権能の中にいる私達を救ってくださるときは、心配する心と切なる心情を持って救ってくださる事を忘れてはなりません。お分かりですか? 天が私達を死の権能から奪い返すときには、天が持っているすべてを犠牲にする覚悟をして奪い返されるのです。
だからこそ、私達は探し出してくださったその御苦労を知るべきです。また、探し出してくださったその愛の心情を知るべきです。そして、探し出してくださったその闘いの道のりを知らなければなりません。本来、父と私は一つなのです。したがって、お父様の心が私の心であり、お父様の目的が私の目的ですから、行けとおっしゃるところに行かなければなりません。責任を果たそうという心情に染まって行かなければなりません。億千万の苦難の道があり、どのような十字架の壁があったとしても、それを越えられるという信念を持って進まなければなりません。このような信念とお父様の心情を基に、歴史のすべてを乗り越えて立とうと決意した人がいるならば、その人は必ず勝利する事でしょう。
皆さんの中にそのような燃え上がる心情があれば、変わる世界を蹴り飛ばす事ができます。摂理の御心、歴史的な闘いが終わる事を願うお父様の心情を掴んで進む事ができる心が、信仰者である皆さんの心の中から消えるならば、皆さんは歴史と共に変わってしまう人となるでしょう。
啓示録では、「初恋を失うな」と言われています。初恋は命を捧げても変わる事はありません。天が初めて与えてくださったものを、皆さんの一生の中で最も貴重なものとして大切にしなければなりません。それを、皆さんが持っているどんな価値よりも高く感じなければなりません。この恩賜は、世の中のどんなものと交換する事もできない恩賜であり、死が幾千万倍加重されても変わる事のない恩賜だと感じる人は、必ず神の心情の中にいる人であり、神の愛の中にいる人です。そういう人こそ、神の偉業を手にする事ができるでしょう。
だからこそ、私達は慎重に見守らなければなりません。では、何を慎重に見守るべきなのでしょうか? 天がいつ、私達に貴重で価値ある贈り物を与えてくださったのか? 歴史を振り返ってみると、私達の先祖たちが歴史的な贈り物であり、2千年前に来られたイエス様が人類の前に現れた愛の贈り物でした。この感謝すべき歴史を振り返り、泣き叫ぶその瞬間に、私達の心は天と通じ合う事ができ、その心情を基に天の再創造の歴史が始まる事を、私達は知っています。
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このような心情に燃える姿、この胸の高まりを抑える事のできるものは何もないという自信を持つ者だけが、歴史的な実践の道において最大の勝利者として登場する事ができるのです。
イエス様は、そのような方でした。神は歴史の道のりで何度も私達を探してくださり、私達のために犠牲を払われました。私達は、いくら報いても報いきれない恩恵を考えた事がありますか? 私達は、歴史的な裏切り者である事を認めなければなりません。天的な贈り物を持って歴史を摂理してこられた天の前に裏切り者である事を認め、罪人である事を嘆き、少なくとも悔い改めなければならない私達です。
統一教会の信徒である皆さんは、他の人々が行かない道を行くためにこの場に来ました。そのような皆さんに、私は問いたいです。何のために来たのですか? 一生のすべてを悪魔に奪われるとしても、先祖に代わって感謝する事のできる心を持たなければなりません。現実のすべてを犠牲にする事になっても、死の場に出ていく事になっても、「私を守ってくださり、私の事を心配してくださる天の恩賜だけは忘れません」と言える心、そのような不変の心情を持たなければ、統一の理念を成し遂げるその日まで残る私達とはなれないのです。
このような心情が皆さんの胸に芽生えないならば、このような理念の世界に対する感情が皆さんの心の中で動かないならば、皆さんはどうなるのでしょうか? 彷徨い、彷徨い、彷徨った挙句、最後の瞬間には自分自身を弁明する事もできずに、死の落とし穴に落ちてしまうでしょう。このような事を知らない人がいるならば、目を閉じ、耳をふさぎ、口を閉じ、鼻をふさいでも、もう一度よく考えてみる心が必要です。立派な信仰者の態度は、人との関係においても同様に、慎重に見守る態度です。このように見守る心、慎重な心がなければなりません。このような心を持たない人は無責任な人です。
歴史は責任者を求めています。では、どのような責任者を求めているのでしょうか? それは、歴史的であり、時代的であり、未来的な責任者を求めています。そのような責任者を求めています。過去の聖人たちや歴史的な私達の先祖たちは、皆その時代に歴史的な責任を訴えた方々です。だからこそ、歴史の終わりである今日まで、その方々の言葉は私達の心を打ち続けているのです。また、その方々の行動は私達の心情を動かし、その方々の生涯は私達の生涯に方向を示してくれているのです。これを否定する事はできません。
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さて、皆さんは、一言話すにしても、聞くにしても、見るにしても、感じるにしても、慎重に見守り、注意しなければなりません。皆さんは歴史的な責任を果たすために、どれほど努力しましたか? 困難も気にせず、憤りも気にせず、追い詰められたり、追い立てられたりすることも気にせず、飢えも気にせず、死も恐れずに、歴史的な責任を果たすために自分のすべてを投げ出してみましたか? どれだけ慎重な心を持ちましたか?
もしかしたら、自分の環境に自分を引き寄せようとする摂理的な天倫の手が伸びているのではないかと、慎重に見守りながら、責任感に燃える心、それを見つけたいという心が自分の中に渦巻き、今までの自分の立場を否定して新しい考えを持つ時間を、皆さんはどれだけ持ちましたか? 持っていなければ、皆さんは顔を上げられないと感じるべきです。
エデンの園には、まず創られた天使長がいました。しかし、新たにアダムとエバが現れると、すでに環境を支配していた天使長は攻撃者になりました。攻撃者です。これが歴史の出発点でした。慣習的な歴史、あるいは伝統的な歴史を主張する人間たちは、いつも神が進まれる道に反対しました。どの時代においても協力しませんでした。なぜなら、祖先がそうだったから、子孫もそうだという事です。歴史の中で追い詰められた者達が、戦いながら歴史を動かしてきたのです。
天に仕えていたノアもまた同じでした。当時の社会の伝統を主張する者達の前では、彼は狂人にしか見えませんでした。狂人、いい加減な者、愚か者にしか見えなかったのです。アブラハムもまた同じでした。百歳にして天から祝福されて生まれた一人息子イサクを殺そうとしました。モーセもまた同じでした。このように、御心を抱いて進んだ者達を謀り、裏切り、追い出そうと扇動したのは誰だったのでしょうか? 歴史的な伝統を固守する者達でした。天があるならば、そのような者達は裁かれなければなりません。
今までの歴史的なものに対する未練を一度に断ち切り、過去の古い服を脱ぎ捨て、新しい園で新しい朝を迎え、白い衣をまとい、新しい希望を持って現れることが、復帰の理念なのです。
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このような歴史過程を経てきた堕落した人間であるがゆえに、新しい学説が現れると、それを打ちました。新しい何かを主張すれば、それを殴りました。しかし、家庭的に殴られれば、それは家庭的な使命を代行した事になり、民族的に殴られれば、それは民族的な使命を代行した事になり、国家的に殴られれば、それは国家的な使命を代行した事になるのです。そして、その時代の国家の民衆から殴られれば、それはその時代と国家と民衆の理念的な使命を代行した事になるのです。
歴史は進み、今日に至っては、民主主義と共産主義が対立しています。ですから、将来的には必ず攻撃戦、あるいは防御戦、すなわち激しい闘いが繰り広げられるでしょう。これが歴史全体の終結点となり、これで全ての問題が解決されるのであれば別ですが、そうならない場合には、ここに新しい何かが現れなければなりません。その新しいものはどのようなものになるのでしょうか? 宗教を掲げて出てくれば宗教者達に殴られるでしょうし、何らかの責任を掲げて出てくれば社会環境で拒絶されるでしょう。何らかの理念を掲げて出てくれば、世界の主義から拒絶されるでしょう。最後には、民主主義からも共産主義からも拒絶されるでしょう。
今日、この世界はそのような過程を経ていかなければならない堕落世界であるゆえに、拒絶され、追い詰められながらも、それに屈しない何かが現れなければ、この世界は新しい世界に進むことはできません。私達はその何かが必ず現れる事を知っています。また、私達はその理念を紹介するために話しているのです。その目的を成し遂げるために、私達は迫害を恐れず、今日も明日も進むために集まっているのです。
ここで、皆さんはどのような決意をしなければならないのでしょうか? それは歴史的な決意ではありません。時代的な決意でもありません。一瞬の決意でもありません。それは、天宙的な決意、天宙的な決意です。宇宙を支配する天は、必ずそのような決意を持つ群れを集めるでしょう。宇宙の理念に燃える抱負を持ち、追い詰められる群れに加わる勇者達がいて、時代に打ち負かされる事なく残るとすれば、彼らは後の歴史を動かす事ができるでしょう。
今日まで宗教は提唱してきました。イエス様は「億兆蒼生(おくちょうそうせい)を救おう」と仰いました。善の理念圏内へ人類を導き、一つの目的世界を紹介するために提唱されたのです。
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これから新しい宗教理念が出てくるとすれば、それは地上の人類だけでなく、これまでに来て去った数多くの預言者や先祖、そして御心を裏切って地獄に行った霊人たちまでを救わなければならないでしょう。新しい理念を備えた主義であるなら、そのような宗教であるなら、地上の億兆蒼生を救うのはもちろんのこと、天上にいる霊人たちや地獄にいる数多くの罪人たち、さらには天を裏切った悪魔までを救わなければならないでしょう。
そのような宗教が必ず出てこなければなりません。そのような宗教の理念が出てきて、すべての宗教を統一し、すべての宗教人の心に火を投げ込み、平和と喜びを感じられない人々の心に平和と喜びを与え、新しい理念圏内に突き進む決意と誓いを立てさせる必要があります。この地上にそのような決意、そのような誓いをさせる事のできる新しい運動が出てこなければならないのです。
皆さんはそのような事を考えた事がありますか? 探し求めた事がありますか? 想像でもしてみた事がありますか? その理念の目的はすべてを統一する事です。地上も統一し、霊界があるなら霊界も統一し、恨みに満ちている地獄までをも解放する事です。直接できなくても、理念を備えた宗教が出てこなければなりません。そのような理念を備えた宗教が出てくれば、私達が憧れる世界、すなわち善の世界と悪の世界が関係を結ぶ事ができるのです。
現代を終末と言う皆さんは何を探し求めているのでしょうか? 皆さんの生命問題に関わる理念は、極めて小さな一言から、一つの手の動きから、一つの足跡から、一つの象徴的な示唆から皆さんに接触してくるのです。これを今日の人間たちはすべて忘れています。
このような観点から世界を見渡すとき、敵はいません。悪とぶつかるとしても、悪が私の進む道を急がせるものになるのです。また、善も私を急かすものとなるのです。このような見地から、私達は何かを探し、慎重に見守る生活を送らなければならないでしょう。
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今日も明日も天に対する希望を持たなければならず、罪悪の現実、絡み合っている世の中に対する未練を断ち切り、動く事のできる心の衝撃を受けなければなりません。その衝撃が一日、一年、さらに一生にわたって続くかどうかによって、皆さんが憧れるその目的地に到達できるかどうかが決まるのです。
そのような衝撃がなければ、言葉では表せないほど焦燥感を抱く事になるでしょう。今日のこの時代は、自分でも知らないうちに心が焦燥し、恐怖の雰囲気に巻き込まれる事を感じ取る事ができる時代です。わずかでも良心のある人なら、何かしら分からない不安と焦燥感の中に自分が追い込まれている感触を感じるでしょう。多くの青年男女がこのような事を感じたとしても、その焦燥感を解決し、恐怖を克服できる何かが芽生えれば、それによって人間の希望の基盤を支配していた恐怖と焦燥が退き、良心的なものが動く事のできる世界が現れるでしょう。したがって、今、焦燥と恐怖心を超えて慎重にそれを探す心が、皆さんの歩みを急かし、皆さんの体を引っ張っていくならば、今でも決して遅くはありません。なぜなら、最終的な統合点は、物質的な理念や人間的な理念が見つけてくれるものではなく、私の心に爆発的に湧き上がってくる切なる心情だからです。最後に残る理念の一箇所に向かって動いていくのは心情です。心情が最終的に私のすべてを決定してくれるのです。
この心情だけを握りしめて慎重に探し求める者が、伝えられる言葉を聞く事ができ、見せられる幻を見る事ができ、生活におけるすべての実情を分析する事ができるのです。自分に与えられた責任を感じ、焦燥した心情と不安な心を抑えながら新しい理念を探し、動く青年男女がいて、彼らの叫ぶ声が聞こえるようなそのような心情の動きがあるならば、皆さんは彼らの心情を通して、歴史的なすべてのもの、長い間感じてきたすべてのものを一度に感じ取ることができるでしょう。
その心情を感じ、自分を覚醒して「天が探していた理念の主体はこれだったのか! 世界が探していた真の姿はこれだったのか! 天地の前に立って誇ることのできる姿はこれだったのか!」と無意識に叫ぶ瞬間を持つ者こそが、歴史的な主人公であり、摂理的な主人公であり、天倫的な主人公であるという事を、皆さんは知っておかなければなりません。
今日の皆さんは、自分が一人で生きる事のできない存在である事を否定できないでしょう。関係と縁の世界において責任を果たし、実績を残さなければならない人生の道を歩んでいる私達である事を否定できないでしょう。
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責任を果たし、実績を残せばどうなるのでしょうか? 自分を誇る事ができ、本来の人間を代弁する勝者の姿が私だったのかという覚醒が生まれるでしょう。その瞬間に、世界は皆さんのものとなり、この宇宙も皆さんのものとなるでしょう。また、今日まで摂理を進めてこられた神も皆さんの神となり、皆さんはその神の偉業を相続できる直系の子供となる事ができるのです。
これを探し求めるにおいて最も重要な事は何かというと、それは慎重に見守ることです。そのようにしているうちに、このような事が成し遂げられ、見つけられるという事を皆さんは心に留めておいて下さい。
<祈り>
変貌山で激しい戦いをしていたイエスの心は、悲しみに沈んでいました。しかし、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは「先生、ここにいることが良いので、私達はここに幕屋を三つ作りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために作ります」と言った弟子たちの心情を、私達は感ずる事ができます。
地上で理念の痕跡も感じ取れず、理念の世界の実状も知らなかった無知で愚かな彼らは、全天宙を主観し、包み込む事ができる理念的な環境が広がっているその場で、そのような言葉を口にする者がいなかったでしょうか。確かに彼らが思い描いていたその一場面、生きたいと願っていたその一場面である事は心で知っていましたが、現実的な過程を経て初めて実現するという事を、その時のペテロ、ヤコブ、ヨハネは知らなかったのです。
今日の世界に散らばっているキリスト教徒たちも同じように、心では天国を待ち望み、憧れていますが、天国を探すには戦いの道が残されているという事を忘れています。このようなキリスト教徒たちを覚醒させなければならない責任が私達にあるのです。
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特に終末の今日、歴史も変わり、信仰も変わり、人の心も変わり、伝統も変わり、主義も変わり、愛の心情さえも、これがなければ死ぬと言っていた心情さえも変わりつつあるこの時、変わらない理念、変わらない姿、変わろうとしても変われない存在、それ、それを持つ楽園、その世界、その主権、その指導者、その声、その生活、その環境慕っております。
お父様、塞がっていた胸を開いて下さい。今日の私が、このように焦燥し、このように狭い自分自身である事を知りました。今日の自分を乗り越えて、明日の自分を追い求める事に急がなければならない私が慕わしいのです。
統一教会の信者達が進む道に迫害があるとしても、その迫害を私が行く道を妨げる悪の要素として受け止めるのではなく、私を天の心情にもっと近づけるための刺激的な作用として利用することができる信徒たちとなる事をお許し下さい。その迫害は迫害ではなく、心情を結びつけるためのお父様の歴史である事を悟らせて下さい。
お父様の前で手を合わせ、頭を下げ、天上の法則は歴史の道と矛盾しないと言える場において、勝利の歓喜をお父様に捧げることで、お父様が「まさしく私の子だ」と言っていただける姿となる事をお許し下さい。お父様が喜ばれるとき、共に喜ぶ事ができ、私が喜ぶとき、悪魔さえも恥ずかしい顔で笑わざるを得ない心情を引き起こす事のできる子供たちの姿を、天は求めている事を知りました。そのような私を探し求める世界のキリスト教徒たちが出てくる事をお許し下さい。そして、そのような私を急がせる先頭に立つ統一教会の信徒たちとなる事をお許し下さい。お父様、心から願い求めます。
私達が願っていたものはあまりにも小さかったのです。私達が大切にしていたもの、それで終わりだと思っていましたが、それを超えて無限の愛と無限の恩寵がある事を知りました。
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お父様の恩寵の前に道を閉ざしていた自分自身であった事を嘆く心が、今この時、一人一人の信徒たちに湧き上がらせて下さい。今や心情の刺激を受け、使命感に燃えて「来なさい」と呼ばれたときに喜んで来て、「行け」と言われたときに喜んで行ける人々となる事をお許し下さい。呼ばれる声に感謝したならば、命じられる声にも感謝し、敵陣を向かって突き進む事のできる天の勇者達となり、天の世界の主人となる事をお許し下さい。ここには、矢に当たって倒れる者がいる事を知っています。そんな場においても、敗北して後退する者達にはならないように導いてくださる事を心から願い、求めます。
幸福に浸り、父と相談する瞬間がある一方で、戦場で血の涙を流し、天の恨みを訴えながら倒れる瞬間が、この息子娘たちにある事を悟らせて下さい。
喜びも責任を負い、悲しみも責任を負い、戦いも責任を負い、無念さも責任を負い、終末の審判の場に立ち、歴史の全てを拒絶し、「お父様、どうか手を挙げて私達を祝福して下さい。お父様、私を見て怒りを抑えて下さい。お父様、私を見て苦しみと無念を耐えて下さい。お父様、私を見て苦労を収めて下さい」と言えるようにして下さい。このような息子娘たちが現れる事を願い、6千年も慎重に探してこられたのです。お父様、恐れ多くも痛ましい事です。探されるその視線、探されるその姿、慎重なその足跡を、私達は忘れておりました。
今日、聞きました。そして、この時間に知りました。慎重に探せと言われた事を知りました。慎重に探してこられたお父様、私達を掴もうとしたその手を、何度も裏切ってきた私達が、お父様の体面を忘れていた自分自身である事を知りました。
今や、私達がお父様の前に立ち、父と縁を持つ生活をし、お父様に代わって慎重に進むべき道を歩めるようにして下さい。この道をすべて歩んだ後、この道を知らない他の人々に慎重に進むべき方向を教えるべき私達である事を、どうかお許し下さい。そのような天的な命令を受けた私達が、ここで悲しみの涙を流して後退する者達にはならないようにお許し下さい。
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裏切る者達を愛し、裏切る者達を祝福しようとされたお父様の心情が、怒りとして残っている事を知っています。今、終末においてエリヤが祈っていた以上の祈りをお父様に捧げ、その現れた一人の悲しみを慰める者がいない事を知り、その悲しい条件を乗り越え、その方を励ます事のできる切なる心を持つようにさせて下さい。お父様、心から願い求めます。
探し求める足取りが疲れ果てて倒れ、慎重に探し求める歩みが疲れ果てて倒れるたびに、お父様が「私がいる、私の行く道に来なさい」とおっしゃったその時が恋しいです。お父様は人間を信じて働くことができなかった事を知り、人間と相談すると天の業が遅れに遅れていた事を思い出さずにはいられません。
今日、この時は、多くの群れが必要でない事を知っています。この時は、乗り越えていかなければならない時であり、この時は、清算して進まなければならない時であり、この時は、すべてを結びつけて超えていかなければならない時であり、この時は、ありのままに現れなければならない時です。この道は不平を抱く者が進める道ではなく、自らを弁明する者が進める道でもなく、自らを誇示する者が後退する道である事を知りました。この道は、イエス様が血を流して進んだ十字架の道、延長されたゴルゴタの道である事を知りました。自分を弁明する事を知りながらも弁明せず、誇りたい気持ちを持ちながらも誇らず、怒りを感じながらも踏みにじられながら進むべき道である事を知りました。6千年の摂理の道を歩んだ天の聖徒たちを思い出すとき、本当に胸が痛みます。
しかし、それ以上に、お父様の心情がもっと苦しいという事を知ったとき、悔い改めなければならない私達なのです。これは悲しみの中の悲しみであり、言葉にできないほど後悔しなければならない事情だと知っています。私達のすべての願いがお父様のものであり、私達のすべてがお父様の所有であり、私達の心情と愛の中心が父であるのに、その事を感じる事のできない者がいるならば、その者は哀れな者である事を知っています。
イエス様も、十字架で血を流しながらも、そのようなお父様を知り、しっかりと掴んでいたので、死も恐れないとおっしゃいました。むしろ、敵に対して祝福を祈る、その堂々とした、余裕のある人格が恋しいです。その歩みが恋しいです。今日も、明日も、歴史の変化と生活の変化、自らの変化を笑い飛ばせる勝利の王子はどこにいるのでしょうか? お父様、慕わしいです、慕わしいです。
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歴史的な主人公、時代的な主人公、未来的な主人公が分かれてしまうのではなく、一つの実体として現れ、あなたの心情を人間に伝えることのできるその時、その世界、その楽園が慕わしいのです。お父様を「父」と呼べる群れが出てこなければならず、教団が出てこなければなりません。
すべてを忘れてそれを探し求める準備をし、誠心誠意を尽くして責任を果たすことができるようにお許し下さい。すべてを蕩減し、お父様の前に立つために、どんな犠牲も恐れずに駆け出す事ができる息子娘達となる事をお許し下さい。お父様、心から願い求めます。
お父様、この三千万の民族をどうするのでしょうか。この地に散らばっている27億の人類をどうするのでしょうか。民族の運命を憂慮せずにはおられませんし、人類の終末が悲劇的な黒幕に覆われている事を見るとき、悲しみを感じずにはいられません。
感じずにはいられないお父様の歴史的な悲しみの心情を知るがゆえに、無知な人々の前にこの心を伝えることによって、この心を呼び起こさなければならないので、このように言葉を発しました。お許し下さい。愚かな人々に、不忠の座を避けさせるために、このような切なる悲しみの心情を伝えております。お許し下さい。この祈りをお受け入れ下さい。愛するお父様、心から願い求めます。
十字架で亡くなられたイエス様の悲しみが、歴史的な悲しみである事を知っております。カルバリの丘で血の涙を流されたイエス様が慕わしいです。今、その代理者として、お父様の実体として歴史を笑い、歴史を叱責する事のできる一つの姿が現れる事を、人類は待ち望んでおります。天も待ち望んでいる事を知っております。そのような存在が慕わしく、今日も明日も探し求める息子娘たちとなるようにして下さい。心から願い、求めます。
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進むべき道をすべて進み終えず、悲しむ者達にならないようにお許し下さい。進むべき道をすべて進み終えた後も、さらに進みたいと願い、進むべき道をすべて進み終えた後に見つけられる喜びを胸に抱くために、懸命に努力する群れとなるようにして下さい。そうしてこそ、驚くべき大きな摂理の御心の前に一つの礎となるのだという事を、私達は学び知りました。今日も明日も、この御心のために動員される事をお許し下さい。
今日の世界も、この御心のために、私達の後世もこの御心のために動員される運命にある事を知っております。命じてくださり、導いて下さい。私達は進んでまいります。
お父様! 私達が訴えたいすべての心情をご存知であり、祈る事を成し遂げてくださる事を心からお願い申し上げます。残された険しい道もお守り下さい。
主の御名においてお祈り申し上げます。アーメン。
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