人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集5(12)

2024年09月07日 17時26分49秒 | 日記
「文鮮明先生御言葉選集 5 - 12. 希望の理想天国」(1959年2月22日)

1959年2月22日、元本部教会

マタイによる福音書 3:1-17





<祈り(Ⅰ)>

本来の真の人間を失ったお父様が、長い年月にわたって復帰摂理を進めてこられたことに、どれほどのご苦労をされたのかを、私たちは知っています。本来のアダムとエバを慕いながら、歴史の道において血と涙に満ちた難関を乗り越えてこられたことを、私たちが心と体で感じることをお許しください。


この使命を引き継いで摂理の意志を果たしてきた私たちの先祖たちも、行く先々で悲しい十字架の道を歩んできたことを、私たちは知っています。


これからも残されたこの十字架の道を、今の終末の時代に生きる私たちが最後まで歩まなければならない歴史的な責任と摂理的な責任が残っていることを、私たちは知っています。どうか、あなたの力とあなたの励ましで私たちを再び奮い立たせてください。そして、この残された十字架の関門をすべて乗り越え、願っていた本来の楽園の中で、お父様の栄光を讃える喜びの姿になることができるようにしてください。


私たち自身の中に属するすべてのものは永遠ではないことを知っていますので、今日、残された使命を果たすために摂理の歴史の前に立ちはだかる十字架の関門を乗り越える決意を、私たちが天からの覚悟を持って実行できるようにしてください。


    1


この使命を果たすためには、私たちは武器を手にして戦場に出て行くように、厳しい覚悟を持って立ち向かわなければならない時が来ました。お父様、どうか今日も明日も、いついかなる時も、私たちのすべての力を振り絞って戦いに出られるようにお許しください。そして、その戦いの道を阻む悪魔に立ち向かう力を私たちにお与えください。


その戦場で勝利の姿を現し、お父様の栄光の園でお父様と共に暮らせるようにしてください。そして、お父様が願っていた全体の意志を成し遂げ、お父様の愛を讃えることができる、あなたの息子娘にしてください。そして、悪魔の世界やすべての万物の前に誇りとすることのできる、お父様が探しておられた息子娘になることをお許しください。


そうして、お父様の前に見いだされた息子娘として、お父様と永遠に共に住み、お父様の事業とお父様の思想とお父様の願いを果たした者として、喜びと栄光の歌でお父様を慰めることができる、真の子供たちにしてください。


残された戦いの道と残された十字架の道を通して、お父様の栄光を讃えることのできる私たちにしてください。お父様、どうかそうしてください。


この日は聖なる日です。すべての人々が一つになり、お父様の全体の意志を支えることができ、すべての人々が動き、お父様の勝利の国を建設することができる時が早く訪れるように願います。


    2


私たち三千万の民族を祝福してください。そして、この日に集まったあなたの息子娘たちにも特別な恩寵の手を差し伸べてください。


この民族を愛の心で抱きしめてください。そして、あなたが望む意志、残された恨みの全体の意志を責任をもって戦い、勝利し、成就してみせる栄光の姿が現れるその時まで、あなたが急き立てて導いてください。そして、そのような息子娘になることを許してください。


未熟で不完全な私たちがこの日にお父様の前に集いました。どうか不相応なものすべてを取り除いて、お父様の栄光の懐に抱かれることのできる本来のものだけを、この時間に現させてください。この時間に、本来の栄光だけがそれぞれの心に結びつき、天が願っていた姿としてお父様の前に捧げられることができる、この一つの集まりにしてください。そして、ただお父様のものとしてのみ受け入れられるようにしてください。


広がっている多くのあなたの息子娘たちにも、常に共にいてください。歴史に働いてくださることを願いながら、主の名前で祈ります。アーメン。




<祈り(Ⅱ)>


お父様、私たちを集めてくださいました。この時間、私たちだけを残さないでください。多くの試練の中で、私たちをここまで導いてくださったことを感謝します。お父様が私たちのためにこの道へと導いてくださったことを、私たちはよく理解しています。天の悲しみと地の悲しみが私たちを条件として覆わざるを得ない歴史的な責任が私たちにあることも知っています。


    3


翻訳の範囲が長大であるため、引き続き翻訳を進めますが、ここまででの確認や変更点があればお知らせください。


お許しくださった言葉と、お許しくださった恩寵と、お許しくださった命によって、今日この場所でお父様を前に「お父様」と呼べる栄光の恩寵を持つことができたことを、恐縮に存じます。


今日、私たちに託された責任がどれほど重要であるかをよく知っています。愛するお父様、この時間、私たちを見捨てないでください。もう一度お父様の懐に抱きしめてくださり、私たちの心にお父様の心情を移してくださいますように。お父様が私たちに委ねようとされた全体の意志を私たちに託し、お父様が安心して任せられる私たちにしてくださいと、切に願い求めます。


これから、私たちの心と体が私たち自身のものでなくなり、この時間だけはお父様のために動く心と体とならせてください。お父様が直接指導する一つの祭壇となり、お父様以外の何ものも許されないこの時間をお許しください。


数えきれない悪魔たちが、私たちの動きを妨げようと必死になっています。この時、私たちは心も体もすべてを傾け、それを阻むことのできる天の力と能力を待ち望んでいます。お父様、力を与えてください。恩寵を授けてください。復活の権限を持って、死の権威に立ち向かう天の軍隊となることができるように、お許しください。


    4


お父様、この訓練期間を通して訓練を受けたあなたの息子娘たちは、切実な心情と新たな覚悟と決意を持って、この三千里(韓国の領土)の隅々に散らばっております。お父様、彼らが進む道を開いてください。戦いに挑む時に力をお与えください。信仰によって天の権威を確立できるようにしてください。そして、天の実権を行使するに不足のない者としてください。


鉄の杖のような言葉と命の盾で、敵を打ち負かす力を彼らに授けてください。そして、天の勝利の栄光を彼らに与えてください。


6千年もの間、耐え忍んでこられたお父様の心情を解放できる時が来たことを私たちは知っています。そして、すでに私たちにその時を予告してくださったので、この働きが無駄に終わらないようにしてください。動くすべての上に命の動きがあり、現れるすべての場所に天の全権的な働きが現れるようにしてください。彼らに命の姿を整えさせ、敵が口を閉じ、屈服するその日を迎えることができるようにお許しください。


この日は約束された日です。祝福してください。この日は許された日です。お父様の意志を現してください。隠されていたお父様の愛の心情を、私たちの心に移してくださり、私たちがその愛を讃え歌うことができるようにしてください。私たちが、お父様の栄光を顕すことができるようにしてください。お父様の前で、真に礼拝を捧げることができるこの時間をお許しください。


私たちが、眠っている三千万の民族を目覚めさせることができるようにしてください。そして、この地上にいる多くの人々をも目覚めさせることができるようにしてください。彼らがいる場所がどこであれ、お父様が心配していることを私たちは知っています。彼らが倒れないように、お父様が支えておられることも知っています。私たちも、この民族を支え、戦うことができるようにしてください。そして、人類をも支え、戦うことができるようにしてください。


    5


彼らは私たちのために存在しているのではなく、私たちが彼らのために存在していることを知っています。お父様も彼らのために今も戦っておられることを知っています。私たち自身も、自分のために生きるのではなく、お父様のために生きなければならないということを悟り、この民族を支えようとされるお父様の意志と、すべての人々に対する緊迫した責任感を感じる私たちでいられるように導いてください。このような使命感と責任感を持って、一瞬たりとも惜しんでお父様の意志のために戦っていける天の軍隊となることを許してください。


この日、全人類を代表して集まる多くのあなたの祭壇を祝福してください。命の恩寵に満ち、天に孤独な祭壇を築き、訴えている隠れた息子娘たちが多いことを知っています。彼らに特別な恩恵をお与えください。


終末の時に、天の意志を知らせてください。そして、お父様の栄光の時が来ることを彼らに告げてください。天の恩寵を中心に集まる日が早く訪れることを許してください。そうして、全人類が一つの祭壇を築き、お父様の栄光を讃え、礼拝を捧げる日が地上に訪れることを許してください。


摂理の意志の前に、栄光の一日が早く訪れることを許し、その日を待ち望み、戦っていく私たちの前に、勝利の喜びの日が早く訪れることを許してください。天の栄光が地に広がり、勝利の歌声が響き渡る喜びの園が早く実現することを許してください。


今日、この時間以後のすべての時間を、直接お導きください。この時間、私たちがここに集まったことをどうか喜んで受け止めてください。そして、私たちのすべての考えや感情を取り除き、天の心情に共鳴することができるようにしてください。私たち自身がただあなたに捕らわれることを願い求め、すべての言葉を主の名によってお祈り申し上げます。アーメン。


    6




<祈り(Ⅲ)>


お父様!今日ここに集まった私たちを、ヨルダン川の岸に集まっていた哀れな群衆のようにしてください。天からの新しい知らせを聞こうと、洗礼者ヨハネの前に集まっていた群衆のようにしてください。


切なる心情でメシアの到来を待ち望んでいたイスラエル民族の足跡を振り返り、歴史的なすべての悲しみを越えて、天の愛を中心に洗礼者ヨハネを中心に動いていた群衆の姿、イエスを従った群衆の姿、心と心が通じ合い、新しい希望に喜んでいた群衆の姿になることを、切に願い求めます。


選民の権利を誇り、選ばれた民族であることを誇り、祝福の中で生きていたイスラエルはどこへ行ってしまったのか、と嘆かれるお父様の悲しい涙がこの地に残っていることを、私たちは知っています。


お父様が4千年の歴史的な悲しみを耐え忍びながらも、選ばれたイスラエル民族を導いてこられたのは、ただ一人のメシアを送るためでした。しかし、彼らはメシアを見ていながら、悪魔の懐に飛び込んでしまいました。それを見たお父様の悲しみは、その時だけの悲しみではなく、億千年の歴史にわたる悲しみとして残っていることを、私たちは知ることができました。


当時、選ばれたイスラエル民族は、この事実を知りませんでした。それを思い出す時、今日の私たちは身を低くし、心を落ち着けて、歴史的な罪を暴露し、その罪に代わって悔い改める責任があることを、私たちは悲しまずにはいられません。


    7


お父様、どうか手を伸ばしてください。お父様、愛の心情を示してください。お父様、疲れた足取りをもう一度進めて、私たちを見つけてください。切に願い求めます。


イエス様は、天の悲しい心情を持って、倒れていく民族を見つけ出されました。そして、彼らを憐れみ、自分の命を惜しまずに彼らを救い出してくださいました。しかし、自ら選ばれた民族だと称するイスラエルの人々は、天が送ったメシアと準備された洗礼者ヨハネを、自分たちの思い通りに扱い、歴史的な悲しみの陰に隠してしまったのです。私たちは今日、その事実を知っています。


今日ここに集まったあなたの息子娘たちが、その時のイスラエルの人々が私たちよりも劣っていたから天を裏切ったのではなく、天を愛する心が私たちよりも劣っていたから天を忘れたのではないことを知ることをお許しください。新しい時代に対する希望が足りず、新しいメシアの理念を持って来られた主の姿が大きいと思い込んでいたのに、実際に現れたメシアはあまりにも小さく、哀れでみすぼらしかったために、彼らが拒絶したという事実を知ることをお許しください。


今、私たち自身がどのような立場にいるのかを振り返ることをお許しください。今日、私たちは歴史的なイスラエル民族を非難し、その時代の状況を批判することが好きですが、当時の状況と今日の状況に大きな違いがないことを理解させてください。


もし私たちがその時代にいたなら、私たちも同じような群衆であったでしょう。私たちもその時代にいたなら、彼らと同じ立場にいたことでしょう。私たちが歴史的な罪の跡を持ち、悪魔の魔手が私たちの体を狙っているということを、この時間、知ることをお許しください。


    8


私たちは知らないうちに、命の権限を失い、苦しむことが多々あります。今日、このすべての矛盾した環境を打破し、環境に縛られたすべての状況を抑え込み、悪魔が喜ぶことができる足場を作るのではなく、お父様の悲しみを和らげることができる、心情の捧げものとなることをお許しください。


私たちが誰を見るためにここに来たのでしょうか?誰を探し求めてこの場に来たのでしょうか?ただ、私たちが求め、探し求めているのは、お父様の心情です。歴史的な教師を求めて集まる群衆ではなく、預言者を通じて現れるお父様の心情を求めて集まる群衆になることをお許しください。


お父様、私たちの心には、この世で汚された罪の苦い根が残っています。そして、私たちの体は悪魔の侵害を受けて傷ついています。哀れみの心で現れてください。そして、この哀れな私たちを、せめてこの一時間だけでも、お父様の懐に抱いてください。お父様の永遠の命に浸り、自分のすべての認識を超えて、お父様の存在に融和し、本来の性質を持った姿でお父様と対面できる、この時間にしてください。


残された天国の理念を私たちに見つけ出してください。残された新しい国の喜ばしい知らせが、私たちを見つけることを許してください。解放の鐘の音が響き、自由と解放の恩寵の前に、私たちが喜んで踊れる日が早く来ることをお許しください。そして、この人類の前に、新しい喜びの楽園が展開されることを許しください。


今、この時間をお導きください。お父様が望む通りに、お許しくださった言葉を現してください。悪魔の暗い影を取り除き、真の命を得た喜びを紹介できる、天の縁が結ばれるこの一時間にしてください。死んだ体が再創造の復活の恩寵を受けて、お父様を認識できる時間にしてください。再創造の言葉と再創造の命の動きがここに現れることを、切に願い求めます。そして、すべての言葉を主の名においてお祈り申し上げます。アーメン。


    9






<御言葉>




我々人間は堕落したその日から今日に至るまで、失った理想の国を憧れ、希望を抱きながら無限の苦難を乗り越えて戦ってきたことをよく知っています。私たちが生きている周囲は本来、幸せであるべきなのに、私たちは心の中で描き、望んでいるすべての幸せの条件と結びつけることができず、不幸の中でもがいていることもまた、よく知っています。こうした立場に立たされているのは、人間が神様が創造された理想の天国を失ったからだということを、私たちは改めて思い返さなければなりません。


神様は6日間ですべての万物を創造されました。その中でアダムとエバは、万物の主人公として創造されました。このアダムとエバは、神様の創造の理想の園で、神様に代わってすべての被造物を司ると同時に、神様の栄光を享受し、天と地の前で和合できる栄光の中心、勝利の中心、喜びの焦点となるべき存在でした。しかし、彼らは自らの位置を失い、与えられた責任を果たすことができませんでした。その結果、その日からこの地は悲しみと苦しみと死の地に変わったという事実を私たちは知っています。


もし誰かがこの事実を否定し、そうではないと主張するならば、その人は自分の心を否定し、歴史的事実を否定し、私たちが生きている現実の生活を否定する者だと言えるでしょう。


だからこそ、今日の人間は誰もが不安と恐怖、死の困難な環境の中で生きているということを心に刻まなければならない時が来たのです。


私たちはこれに気付き、新しい覚醒をし、現実の矛盾を取り除きながら、新しい心情に満ち、新しい理念と希望を持たなければなりません。そして、もし創造主がいるならば、その創造主が望む理念を抱き、今日も明日も、いや生涯を通じて、その理念と共に戦う覚悟を持たなければ、この矛盾した環境を打破し、天との縁を結ぶことができるのだということを理解しなければなりません。


    10


行かざるを得ない道であり、避けることができない苦難の環境ですが、このすべてを否定し、すべてを捨て去って突き進む希望を持たなければなりません。このすべてを忘れて駆け抜けることができる新しい理想の園、それこそが私たちが目指す目的であり、歴史の中で、あるいは歴史の終わりに見つけ出すべき目的なのです。このことを私たちは知らなければなりません。


これは神様が望んでおられることであり、人類が望んでいることであり、この国と今日の私たちが望んでいることです。このような立場から、今日のあなたたちは、その責任を担わなければならないということを感じなければならないのです。したがって、今日あなたたちにお話しする題は「希望の理想天国」です。「希望の理想天国」。


人間が堕落したことで、神様の希望は挫折し、人間の希望も断たれてしまいました。神様が希望された対象である人間は、本来、宇宙を代表する主人公であり、あるいは天宙的な理念の個体として、理想的な個体として、全体を代わって神様を動かし、また地上を支配する存在であるべきでした。しかし、そのような人間にならなかったため、神様の希望は残され、人間の希望もまた残されたままとなってしまいました。


このことを考えると、神様が人間のために創造された楽園、そして人間と共に幸福を享受するための創造理念は、私たち自身によって決定されるものであることを再認識し、その責任を担い、戦う覚悟を持たなければなりません。そして、神様の歴史的な恨みを晴らすために努力する必要があります。


もし悲しいことがあるとすれば、それ以上に悲しいことはなく、もし悔しいことがあるとすれば、それ以上に悔しいことはないほどの心の痛みが、皆さん自身の中から爆発する瞬間こそが、新しい理念と希望を見つけるための転換点となることを理解しなければなりません。


    11


そのため、神様は堕落した人間の心に新たな衝撃を与えようとして、今日まで戦ってこられたことを私たちは忘れてはなりません。神様の使命を代わりに引き継いだ多くの預言者たちも、死の領域に眠る人類を目覚めさせ、新しい理念の世界があり、新しい希望の楽園があることを知らせるために戦い、命を落としてきたことを私たちはよく知っています。


さらに、歴史を通して私たちの先祖たちが天の使命を受け、時代ごとに警告してきた神様の言葉に感動し、その言葉を信じてその時代を切り開いてきた群れや民族がなかったことを知るべきです。これが歴史的な過ちであり、我々はその過ちに対して罪を認識できていない状況にあるのです。


ヤコブには自分の意思に反して21年間の荒野生活がありました。その期間に彼は繰り返し困難に直面しましたが、それに打ち勝つ心の基準を彼は持っていました。それは、神様に対する不動の心情と、神様から与えられた衝撃による心情が彼の生活と人生を支配していたからです。したがって、環境のすべての苦難を克服し、復帰の道を堂々と進んだのです。


また、民族的な責任を負って生まれたモーセの心は、ファラオの宮殿の豪華な生活に支配されることはありませんでした。モーセは40年間ミディアンの荒野で羊飼いとしての貧しい生活を送りましたが、その環境は彼の心に宿った神様からの衝撃を消し去ることはできませんでした。モーセには、民族を超え、人類を超え、世界を超えて、神様と結びつきたいという湧き上がる心情的な衝撃があったために、ミディアンの荒野の40年を無事に乗り越えることができたのです。


こうした私たちの先祖たちが一心に待ち望んだものは、新しい国、つまり神様がいらっしゃる場所でした。それを見つけ、実現するために戦い続けてきたことを私たちは知っています。


    12


モーセが60万人のイスラエル人を率いて荒野をさまよった40年間、その環境は非常に厳しいものでした。しかし、彼がそのすべての困難を忘れ、60万人の民をカナンの地へ導くことができたのは、神様との約束を果たし、カナンの地に入るという切なる希望の心情が、反対する人々の心情よりも強かったからです。


モーセにとって、目指すカナンはただの地ではなく、神様の約束を果たす場所であり、イスラエルの民が真に自由となり、神様の祝福を受けるべき理想の地でした。そのため、モーセはあらゆる困難を超えてその使命を果たし、カナンに向かうことを決して諦めませんでした。


さらに、4千年の歴史を経て、神様が人類に希望する中心存在として、また理想の天国理念を紹介し、それを成し遂げるために来られたイエス様は、その時代の環境に満足せず、当時の宗教的な形式や習慣にも囚われることはありませんでした。


イエス様が新しい忠誠の心情を持ち、新しい教えをもって現れたとき、彼は歴史的な人物や団体、国家すべてから反発を受けたという事実を、私たちは歴史を通して理解しなければなりません。それが、イエス様が天国の理念を探し求める道を阻んだ大きな障害だったのです。


イエス様は、今日よりも明日、明日よりも来年、来年よりも次の世代、さらには次の世紀へと、人類をより良い理念に引き上げ、最高の理想のレベルにまで導きたいと願っておられる創造主、神様がおられることを、歴史を通じて私たちは知ることができます。


    13


私たちは今、世界が終わりに近づいていると言われる時代に生きています。全世界の人々が生きるか死ぬかの岐路に立たされ、自己の存在意義を誇ることもできない状況です。したがって、2千年前にイエス様が紹介してくださった理念を再び思い出し、それぞれが新しい心の衝撃を受け、現実に根付いた古い体制の上に立っている自分たちが新しい心の爆発を起こさなければ、この時代は歴史の悲しみの谷から抜け出すことができないということを理解しなければなりません。


歴史的な終末にある私たちは、聖書を通して学ぶべき教えをすべて学んできました。多くの学者が2千年にわたり、心血を注いで聖書を研究しましたが、それはそれで終わりを迎えました。彼らが完全だと信じたすべての動きは、発展したかのように見え、人々の前に理想的な理念を提示したかのように見えましたが、それは人類が真に求めている天国の理念ではなく、心の楽園を開拓するための新しい動きではなかったという事実を、現実を見て理解することができます。


私たちは今、このような壁を打ち破り、切り開く存在にならなければなりません。


では、現在の人類が直面している最大の問題は何でしょうか? それは、もし創造主が存在するならば、その創造主が成し遂げたいと思われる天国の理念があるはずですが、その理念をどのように人類に紹介するかという問題です。しかし、これまでの理念ではそれが実現できなかったため、新しい理念が必要であると感じ、その新しい理念を心から渇望しない者がただ新しいものを望むならば、彼は歴史的な犯罪者と見なされるべきでしょう。


新しい理念が現れることを待ち望み、すべての人類が幸せになることを願うのであれば、皆さんはすべての恨みの山を乗り越え、現実のすべてを振り払い、戦っていく覚悟を持つかどうかが問われるのです。


    14


私は皆さんに尋ねたいのです。まだ解消できない歴史的な頑固さを打破し、新しい衝撃を引き起こし、新しい理念に燃えることができる人を作り出す理念はどこにあるのでしょうか?また、もし天が存在するならば、そうした理念を私たちに心から紹介してくれるでしょうか? 皆さんはこうしたことを考えたことがありますか?もし考えたことがないならば、この理念の園、すなわち理想の世界を憧れ、求めて苦しんできた我々の先祖の前で顔向けできない罪人であることを自覚しなければなりません。


天に向かう心情に染まり、新しい創造理念の世界、人間が目指すべき希望の世界を心で感じ、その衝撃によって行動することができたイエス様は、「悔い改めなさい、天国が近づいている」とおっしゃいました。


しかし、イエス様がこの衝撃に基づいて行動されたときの環境はどのようなものだったでしょうか? イエス様が一歩踏み出すたびに、万民が一致団結してイエス様を歓迎すべきだったのに、誰も歓迎することはありませんでした。当時だけでなく、今日まで歴史上の多くの人々や、霊界にいる多くの霊人たちも、イエス様が叫ばれた言葉やその歴史的な行跡、またイエス様の責任が何であったかを知りませんでした。こうして、イエス様を歓迎した者はいなかったのです。


しかし、新しい理念を携えて来られたイエス様は、その理念を実現するためには、理念の目的が成就する日まで、全ての反対条件を打ち破って前進しなければならないことを心に深く感じておられました。理念に基づく衝撃が強ければ強いほど、環境からのあらゆる悪条件を打ち破ることができる強い信念を持っていたため、イエス様はどんな環境に直面しても、それを克服することができたのです。


今日、私たちは心の中で何かを渇望しています。私たちの体は何かを求めて苦しんでいます。私たちはまた、恐怖と不安の中でうめいています。こうした時にある私たちは、このすべての恐怖と不安の条件から解放されるその日を憧れなければならないということを理解しなければなりません。


    15


今日、こうした環境に置かれているのは私たちだけではありません。2千年前に来られたイエス・キリスト様も同じ環境に置かれていたのです。この事実を思い出し、イエス様がどのようにその環境を乗り越えられたのかを考えてみましょう。


この地上に来られたイエス様は、神様が万物を創造されたこと、そしてその創造された万物が真の主人によって管理され、理想の天国が築かれるべきだったことを知っていました。しかし、人間の堕落によって、創造主が理想とされた天国は地上の地獄に変わり、言葉にできない恐怖と不安の世界、戦争の世界に変わってしまったという事実もご存知でした。だからこそ、イエス様はその理念と理想の天国を手に入れるためではなく、この地上の地獄の責任を背負い、人々を救うために公生涯をスタートされたのです。


理想の天国を目指して進んでいくイエス様は、言葉にできない孤独と逆境、悲しみに直面しました。それでも、イエス様はそれが進むべき道だと理解していたため、その道がどれほど困難であろうとも、理想の楽園が実現するまで、創造主と共に天国の楽園に入るまで進み続ける決意を持っていました。このことを感じなければなりません。私たちもまた同じです。私たちもその理想の楽園を目指して進んでいかなければなりません。


今、皆さんがこうした衝撃を受けたならば、その衝撃と共に、「お父様、私は行きたいです!希望の理想天国を目指して私は行きたいです!」という強い決意を持つべきです。


希望の理想天国を目指して進む道は、平坦な道ではなく、悲しみの道です。天国へと進む道は天国から出発するのではなく、罪の世界から出発するのです。罪の世界である地獄から出発し、その地獄を打ち破らなければ、天国と繋がることができないのです。


    16


私たちは進むべき運命に置かれています。希望の理想天国を目指して進む運命に置かれているのです。イエス様が進んだ道を考えてみましょう。イエス様はどのような道を歩まれましたか? 平坦な道を進まれたわけではありません。イエス様は多くの人々から歓迎される道を進まれたわけではありません。イエス様は万民の救い主であり、万物の主人公であったにもかかわらず、一度も主人公として振る舞われることはなく、自らを誇り、大衆に自分を従わせようとすることもありませんでした。


摂理の道を進むべきイエス様は、先頭を切って進むべきであったのに、民族の最後尾に立ち、「あなたたちは安らかな道を進みなさい。私は最も困難な道を進もう」と言われ、民族の苦難、世界の苦難をすべて背負い、人類が嫌がる苦難の十字架を背負って人類のために進まれました。イエス様はご自分が進むべき道が歴史的に悲しい道であり、悪条件に満ちた道であったとしても、その道を進まなければならなかったため、30年の準備期間と3年の公生涯期間を通じて、厳しい決意を持って歩まれました。その決意が厳しければ厳しいほど、イエス様は苦しむ人類の友となり、悪魔に苦しめられている人々を救おうとし、歴史的にも時代的にも最も低い位置で悪魔と戦われました。


イエス様は、「人類に悲しみがあるならば、それは私が、人類に困難があるならば、それは私が、人類に死があるならば、それは私が責任を取る」と決意して歩まれました。イエス様の歩みは個人の歩みでしたが、その使命は歴史的なものであり、時代的なものであり、未来に向けたものでした。


創造以来の神様の心情と人類の心情、そして被造物に対する心情があるならば、それらすべてを理解し、その恨みを解消する責任を負ったイエス様はどこに向かって歩まれたのでしょうか?イエス様は豪華な宮殿を目指したわけではなく、栄光の中で権力を享受する高官の家を目指したわけでもありませんでした。時代的にすべての条件が整わない中で、神の意志に立たされたことを知っていたイエス様は、その逆の道を選ばれたのです。


神様が4千年間信じ続けてきたイスラエルと、その国を代表するユダヤ教団が進むべき道が天国へと繋がる希望の道が塞がれていることを知り、その希望の道を開こうと先頭に立とうとされましたが、彼らが信じなかったために、イエス様は民族の後ろを歩むしかありませんでした。


    17


希望の天国を目指して進むべきイエス様は、個人を超え、家庭を超え、民族と国家を超えて、世界を神のもとに導き、理想の天国を実現するべきお方でしたが、民族の先頭に立ちながら追放されました。ユダヤ教団からも追放され、家族からも、弟子たちからも、さらには強盗にまで追放されました。その時のイエス様の心情はどれほど辛かったことでしょうか。


お父様の理念で進むべきイエス様が、世界の人類に幸福の楽園を紹介するべきイエス様が、反対の道を進まなければならない時、イエス様の姿と心情はどれほど深いものであったか、私たちは理解しなければなりません。


イエス様は進むべき道をまっすぐに進めないのであれば、回り道をしてでも進まなければなりませんでした。4千年の歴史が経過しているので、その4千年の歴史を逆戻りしてでも進むしかありませんでした。これがイエス様の使命であり、責任であったため、イエス様は何度も神様に祈られました。「お父様の意志が成し遂げられることを妨げる障害があるなら、それを捨て去り、数千年かかってでも回り道をして進みます。ただ、希望の楽園を目指して進みます。お父様よ、私はここにおりますので、どうか絶望しないでください」と。


しかし、神様が4千年の間準備された民族、教団、家族、さらに洗礼者ヨハネまでもが、皆イエス様の進む道を妨げ、裏切りました。このような状況の中で、イエス様を見つめられた神様は、イエス様の前で顔向けできないほどの申し訳なさを感じられました。


神様が4千年間準備してきたすべての環境条件が一瞬にして崩れ去ったとき、イエス様はむしろ悲しんでおられる神様を慰める立場に立たなければなりませんでした。本来なら、神様が悲しんでおられるように、イエス様も悲しむはずでしたが、イエス様は自らの悲しみを抑え、神様を慰めるという立場に立たざるを得なかったのです。その結果、イエス様は民族から敵対視され、教団からは異端者とみなされ、家族からも裏切りを受け、強盗からも嘲笑を受けました。


    18


最終的に、イエス様は十字架を背負い、ゴルゴダの丘で釘付けにされて亡くなりながらも、自分を殺そうとしている敵のために口を開いて、「お父様、彼らの罪をお許しください」と祝福を祈り、彼らのために祈り続けました。


天国の理想の楽園を目指して進むと神様に誓われたイエス様は、その道が栄光や幸福、喜びで終わらず、悲しみと悔しさ、死で終わるとしても、その道を進まなければならなかったのです。お父様が探し求めているその理想の楽園を目指して進むことこそがイエス様の使命でした。イエス様がその理想の楽園を探し求められたのは、人類を代表してのことであり、歴史を代表してのことであり、万物を代表してのことでした。そのため、イエス様に従う私たちもまた、進まなければならない運命に置かれているのです。生きて進めなくても、死んでからでも進む運命にあるのです。


イエス様は人類の苦しみを背負い、人類の最も低い立場から出発し、最終的にはゴルゴダの丘までたどり着きました。そこは、イエス様がご自身のすべてを犠牲にする場でした。ああ、神様の御子、天国の王子様、天の皇太子の姿はどこにあったのでしょうか?人類のメシア、救い主としての姿はどこに行ったのでしょうか?その場は、イエス様がご自身のどんな価値も主張できない、悔しさと屈辱の極限の場所でした。しかし、イエス様はそのような死の峠を越えて天を仰ぎ、天国の理想の楽園を目指して進むことができたのです。それは、イエス様の理想が死の力よりも強く、歴史的ないかなる力よりも強かったからです。したがって、死の力を打ち破り、復活が起こり、反対していた人々も悔い改め、今日のキリスト教が勝利の土台を築くことができたのです。


このようにして進まれたイエス様の後を追う今日の私たちは、たとえ死んでも、たとえ生きても、その道を進まなければなりません。このようにして進みたいという思いが、皆さんの中に深く染み渡っているかどうかが問題です。


皆さんが「どんな衝撃を受けても、その理想を目指して進みたい。食べても、飢えても、鞭打たれても、冷遇されても、迫害されても進みたい」と言えるような、死の力よりも大きな思いがなければ、歴史的な終末に現れる大審判で、死の権威を乗り越えることはできません。「どうであれ進みます。お父様よ、あなたが存在していることを知りました。あなたの理想世界がどのようなものであるかを知りました。誰も進まなくても私だけは進みます」という心を持たなければならないのです。


    19


しかし、進む道は平坦ではありません。人間の祖先が最初から平坦で幸福で喜びに満ちた出発をすることができず、悲しみと苦しみ、逆境と恐怖、不安の中から出発したため、その贖罪を担わなければならない最終段階にある私たちも、同じように悲しい道を進まなければならないのです。このような時、天的な理想を紹介してくれるメシアが現れなければ、人類は不安と恐怖と死の権威から逃れる道はありません。生きる道がないのです。


だからこそ、キリスト教は本来、犠牲の教団です。十字架の教団です。血を流す教団です。奉仕する教団です。まず死ぬために進んでいく教団です。天が導いてきたキリスト教は、このような歴史の過程を通じてその伝統を輝かせてきました。しかし、今日の時代のキリスト教にこの精神がないならば、その教団は天罰を受けるべきであると言っても過言ではありません。これを断言することができます。


世界の運命を開拓するべきキリスト教は、世界的な悲しみを抱え、涙を流しておられるイエス様の代わりに、ゴルゴダの丘で血を流して亡くなられたその瞬間に、「彼らの罪を許してください」と祈られたイエス様の心情に染まり、天と地の恨みを解き放ち、新しい理想と希望、そして新しい理想の楽園を紹介できる牧者、羊となるべきです。このような人物でなければならないことを皆さんは知るべきです。


さらに、皆さんは、反対と迫害の果てにゴルゴダの丘で十字架にかけられたイエス様が復活することを知らなかったイスラエルの民の中で、彼らを代表してイエスの死を目の前にして、死を覚悟して天の前に進み出たペテロ、ヤコブ、ヨハネのように、死を覚悟して天の前に立つことのできる牧者、そのような羊の群れがあるならば、彼らこそが新しい時代と新しい天的理想を繋ぐ存在であるということを知らなければなりません。


今日、私たちは肝に銘じなければなりません。私たちの周囲にあるすべてのものを新たな感情で見直さなければなりません。現れる指導者がどのような者であっても、再評価する必要があります。ユダヤ教の祭司たちはどういった者たちだったでしょうか?彼らは天的な新しい知らせを踏みにじった者たちです。私たちは今日、何が私たちを支配しており、何が私たちの国を精神的に主導しているのかを再分析しなければなりません。


    20


今日、この時代的なすべての罪悪の基盤を打ち破り、新しい希望の中へと導いてくれる新しい理念に燃え立たせてくれる衝撃を、皆さんが教団を通じて受けられないならば、その教団はイスラエルが受けたのと同じような裁きを免れることはできないのです。


私たちは、進んでいかなければなりません。既存の教会や他の宗教の信者の信仰理念を乗り越え、さらにイエス様の十字架をも乗り越えなければならないのです。さらに言えば、十字架だけでなく、イエス様の復活の心情をも乗り越え、神様の心情までも超え、神様を慰めることのできる息子娘にならなければなりません。そういった立場に私たちは進んでいかなければならないのです。


行きたいその場所、お父様がいらっしゃるその場所、主がいらっしゃるその場所、人類の真の兄弟姉妹がいるその場所を目指して、私たちの足取りがどこに留まることができるでしょうか? 地上のどんなものが私たちを引き止めようとも、理想の道、私たちが進むべき道を妨げているすべての条件を踏み越えて、彼らさえも導いていかなければならない道が、皆さんの前にはあるのです。


私たちは、このような責任を担いながらも進まなければなりません。神様はすでに6千年の間、私たちを探して来られたのです。私たちは進む運命に置かれており、神様は私たちを見つける運命に置かれているのです。


神様は、私たちを探し求めるために言葉にできないほどの苦労をされてきましたが、皆さんはその天の苦労を考えたことがありますか?堕落したその日から、神様はアダムの後を追いかけられなかったことは一度もなく、アダムの子孫たちの後を追い続けられなかった時は一度もありませんでした。その神様が、今日も皆さんが知らないうちに休むことなく、皆さんを探し続けておられます。皆さんはその天を見つけようとしたことがありますか?そこには、6千年にわたる悲しみと数千数万の死の山が立ち塞がっていたという事実を知らなければなりません。私たちを探しに来られた神様の歩みがこうであるならば、神様を探しに行く私たちも同じような道を歩まなければならないという思いを持つべきです。


    21


イエス様はご自分のために何らかの理想を探し求めて来られたのではありません。イエス様は万民の中心として、万民に幸福と希望の楽園を紹介するために来られました。ですから、イエス様は万民のために苦労され、万民のために苦しみを受け、万民のために悲しみの道を歩まれました。そのため、被造物すべて、天と地のいかなる存在も、イエス様の悲しみと無関係ではなかったのですが、イエス様は進むべき道がありませんでした。しかし、イエス様はそこで絶望することなく、新しい希望を残されました。こうしてメシアとしての基準を完了し、新しい希望の楽園を開拓する主人となったのです。このことを私たちは知らなければなりません。


今日まで私たちは、このようなイエス様を知りませんでした。しかし、知ってみると、イエス様は悔しく、悲しい思いで去られたお方だということが分かります。今やイエス様がどれほど悔しい思いであったかを知った以上、そのイエス様を再び見つけ出し、出会わなければなりません。そして、イエス様に会いたいという切なる思いが強くなければなりません。4千年間、神様のために苦労されたイエス様が、神様の手を取って戦い続けたのと同じように、皆さんもイエス様以降の2千年の歴史、いや6千年の全歴史を代わって、神様に出会いたいという強い願いと、その方へ進みたいという熱い心を持つべきです。皆さんが悲しい時に慰めてくださった神様とイエス様、困難な時に助けてくださった神様とイエス様、そして悔しさと悲しみを代わってくださった神様とイエス様に出会うことができます。しかし、その出会いには困難が伴います。


イエス様は亡くなる時に、人間に対して多くのお願いをされました。「私が天に行って、あなたがたのために居場所を用意する」とおっしゃいました。また、再び会うその日を約束されました。私たちには進むべき道が残されていると同時に、再び会うべき日が残されているのです。したがって、ただ進むという決意だけでは十分ではありません。会わなければならないのです。


再び会うその日は、歴史の終わりであり、キリスト教的に言えば、再臨の日です。したがって、皆さんはその再臨の日を待ち望みたいという思いと進みたいという思いを持ち、苦難や迫害、悲しみの死の谷にある地獄の門を突き破って進んでいかなければならないのです。悪魔が訴えることができるすべての条件が取り除かれ、神様の理念に従って動く場所、それが天国です。苦しみの条件が完全に取り除かれ、喜びのうちに出発できる場所、それが天国です。ですから、地上で進むべき苦しみの道を全うせずに残してしまうと、その残した分だけ霊界で苦しみを受けることになるのです。


私たち人間は、進むべき道をすべて進んだ後にしか、会うことのできる立場にはなりません。イエス様が先に進まれた歴史的な道を再び歩んだ後にしか、再び会うことのできる立場にはならないのです。


    22


神様は、イエス様が天に昇られた後、2千年の間、再び会うための準備を進めておられます。イエス様は、終わりの日に天の新婦と出会うために、霊界で2千年の間、神様の前で私たちのために祈り、準備をされているのです。イエス様には、新郎としての責任分野があり、地上に残された人間たちには、新婦としての責任分野があります。そのため、新郎であるイエス様は、霊界で2千年の間、その責任を果たすために努力されているということを、私たちは聖書を通じて知っています。


では、地上に残された新婦たちはどのようにして新郎に会うことができるのでしょうか? それはまず、責任を果たさなければなりません。イエス様も地上に現れる責任を果たし、再び現れます。ですから、私たちも責任を全うしなければならないのです。そうすれば、その報酬として天の贈り物を受けることができるでしょう。ですから、新婦の立場にある全世界のキリスト教信者たちに与えられている新婦としての責任を果たさなければならないのです。


イエス様は、「地の果てまで行って私の証人になりなさい」(使徒行伝1:8)とおっしゃいました。また、「自分の命を救おうとする者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを見つけるであろう」(マタイ16:25)とおっしゃいました。


私たちは、責任を果たす道において、与えるために戦う者となるべきです。そうすることで、責任を全うするために食べることもできず、心の安らぎを一日も持つことのできなかった新郎イエス様と同じように、歴史の道を通じて地上のために戦った多くの者たちの心の前に恥じることなく立つことができるのです。このようにして、各自が責任を果たした後に初めて、イエス様に会う資格を得ることができるのだということを理解しなければなりません。


今日まで堕落した人間として、神様に会う責任を全うした者は一人もいないため、天国に入った者は一人もいません。イエス様も楽園にいらっしゃいます。楽園は天国に入るための待合室なのです。


    23


では、人類の希望とは何でしょうか? それは、堕落の恨みを解消し、復帰の道を通じて神様の深い恨みの条件を贖い、「私は人間としての責任を全うしました」と言える姿になることです。その姿こそ、イエス様が2千年の間、準備して見つけようとしている姿なのです。


そのようなイエス様に会いたいという心情に満ち、今日の生活の中でイエス様が感じられた歴史的な悔しさを私たちが清算しなければなりません。イエス様が悔しさを抱いて進まれたすべての逆境の道を、私たちは喜びのうちに勝利して進むべきなのです。


今日のキリスト教信者たちは、ゴルゴダに向かうイエス様の道を妨げず、勝利の道を開拓して、イエス様の願いを果たす責任を果たした立場から、イエス様を迎えなければならないのです。私たちは、見たいという思い、進みたいという思いを抱くことが求められています。しかし、私たちは自分の中にそのような思いがどこにあるのか、進みたいという強い願いがどこにあるのかを問い直す必要があります。


本当の意味で、会いたい、進みたいという願いに満ちている私たちはいないかもしれません。真に会いたいという思いに満ち、自分自身が引き裂かれ、命を落とすような場面にあったとしても、その会いたいという思いでそれを超えていけるような、切実な心情を持った者たちが地上に現れなければならないのです。そうでなければ、2千年の間、会いたいと探し求めて来られたイエス様にお会いするに足る面目が立たないということを理解しなければなりません。


「私たちは会いたいのです。天よ!イエス様の願いとは何だったのでしょうか? 彼の願いは、この地上と天国が理想の天国となることでした。その天国を建設するためには、天国に住むべき民が必要であり、天国を作り上げるための地が必要であり、そのための天国の主権が必要であり、その主権を動かす統治者が必要であるということを私は知っています。どうか、この地上に生きる万民が天国の民となりますように。それが私たちの望みです」と心から言えるようにならなければなりません。


    24


この地上がいくら広いとしても、神様が「これは私のものだ」と言える一片の土地すら存在しません。イエス様が「私のものだ」と言える土地もありません。永遠に悪魔が侵すことのできないと断言できる一片の土地も持っていなかったのがイエス様でした。


イエス様の理念こそ、神様の理念であり、地上に建設されるべき理想天国の理念なのです。その理念を会いたくて、神様の民になりたくて、苦しみながら探し求めてきた者たちがいるべきだからこそ、イエス様は「探しなさい」とおっしゃいました。「求めなさい」とおっしゃいました。「門を叩きなさい」ともおっしゃいました。


私たちがこの地上に残されている恨みの道を開拓していくためには、イエス様が心で憧れていた理想世界を見たいという思いが強くなければ、その理念の実体を手に入れることはできないのだということを理解しなければなりません。


第一イスラエルが滅びた後、全世界のキリスト教徒は第二イスラエルとして、イエス様が憧れた国とその民とその土地と主権と統治者が現れることを待ち望み、今まで尽力してきました。しかし、その現実が理想と一致しないため、悲しみがあるならば、これ以上の悲しみはないでしょう。


愛国者とはどのような人を指しますか? それは、民の不幸を見て、自分の痛み以上の痛みを感じる人であり、その土地が侵略されるのを見て、自分の体が引き裂かれる以上の痛みを感じる人であり、その主権者や統治者が不当で不幸な立場にいるのを見て、自分が不当で不幸を受けている以上の悔しさや痛みを感じる人が、真の愛国者です。


    25


しかし、私たちが天国の王子を迎える新婦だという誇らしい言葉は、いったいどういうことでしょうか? 私たちはその言葉に値する存在ではなく、不忠であり、不完全であり、罪に満ちた存在です。だからこそ、恥じる心を持ち、天国の民が踏みにじられ、この国土が悪魔に踏みにじられるのを見るとき、命を失うことになっても、それを回復するために戦わなければなりません。私たちには、善の主権を回復するべき天的な使命があるのです。


今日のキリスト教徒たちは、良心と理念を持って地上の悪を打ち破るべき時が来ていることを知らなければなりません。イエス様が望んでおられる姿と、その望みの一日がどのようなものかを理解しなければなりません。イエス様が生涯の間に待ち望まれた理想の地、その民、その主権、その統治者に出会いたいという切なる心情を持ち、十字架の苦難をも許しの心で乗り越えられた方の願いを成就するために、「私の命が尽きる前に、その国を見たい。その国の民に会いたい」と願う人がいるならば、その国は決して滅びません。このような心で「天国の地を作りたい。善の主権を回復したい。その主の前に忠誠を尽くしたい」と思わなければなりません。


皆さん、時代が切迫するほど、私たちの運命は歴史の重要な時点に差し掛かっているということを骨身に感じなければなりません。その時が今、訪れています。皆さんは、誰のために存在しているのでしょうか? 皆さんは、自分のために存在しているように見えるかもしれませんが、自分のためではありません。家族のために存在しているように見えるかもしれませんが、家族のためでもありません。国や世界のために存在しているように見えるかもしれませんが、それらのためでもないと断言したいのです。私たちが生きているこの家族、社会、国家、世界が、このままでは天国の理念の世界にはなり得ないのです。


私たちは、会いたいという強い願いに満ち、自分に与えられた責任を果たして初めて、希望している方にお会いすることができるということを理解しなければなりません。そして、出会った後には、その方をどう迎え入れるべきかを考えなければなりません。マグダラのマリアが復活されたイエス様にしがみつこうとしたとき、イエス様はそれを拒否されました。それは、マグダラのマリアが進むべき道をすべて進んでおらず、準備すべき供物をすべて整えていなかったからです。責任を果たさず、供物を整えていない者は、イエス様の前に現れることはできないという事実を、イエス様はそこで私たちに教えてくださったのです。したがって、私たちは進むべき道をすべて歩み、戦うべき戦いをすべて戦い、勝利した姿で供物を準備しなければなりません。


ここで言う供物とは、何の供物でしょうか? それは、皆さん自身が供物となるべきなのです。神様は、皆さんが供物としてどれほど整えられたかに応じて、皆さんを迎え入れてくださるでしょう。また、その程度に応じて、神様は皆さんに出会ってくださるでしょう。


    26


すべての道を進み、お父様に出会った後、私たちは何をすべきでしょうか?お父様の愛を受けるべきです。そして、最終的な新郎新婦の婚宴に参加し、喜びの再会を果たした後、何をすべきでしょうか? お父様の愛を受けることこそが、人類の究極の願いです。そして最終的に残されているのは、愛を受けることなのです。


この愛を受けるために、「私は死の道も、どんな困難な道も、苦難の道も乗り越えてきました。悪魔でさえも愛し、死にゆく一人の命を抱きしめ、その命の代わりに自ら供物となろうと戦いました。お父様が地上の人間たちに向けて与えたかった愛を、私は代わりに与え、愛を求める人間たちに私のすべての心情を注ぎました。お父様、私を愛してください!」と言える皆さんのその一言に、天が心から応じてくださるその瞬間を迎えなければなりません。


皆さんが信じているイエス様は、30余年の間、涙の道を歩まれました。悲しみと死の峠を越えられました。そして、復活されて神様に向かい、「お父様、私は参りました。4千年にわたるお父様の心情を私は理解しました。そして、その心情を紹介するために私は供物となり、この場に参りました。お父様!」と言われたとき、神様はその「お父様!」という声に、自らの威厳を忘れてイエス様を抱きしめ、号泣し、喜びの涙を流されたのです。その瞬間こそ、失われた子供を見つけた瞬間であり、天と地が一つとなる瞬間でした。キリスト教徒は、この瞬間に神様が自らの威厳を忘れてイエス様を抱きしめ、号泣しながら喜びの涙を流されたということを知らないのです。


皆さんもまた、最終的にお父様の前に立ち、「行けと言われた道を進み、会おうと言われたその言葉を信じてお父様に会いに参りました。お父様、どうか私をお父様の愛の御手の中に抱きしめてください」と言えるようになるべきです。そして、愛の中に抱かれて、お父様が手を掲げて「永遠の愛の中で生きよ!」と祝福してくださる、その祝福を受ける必要があるのです。そうしてこそ、私たちの願いである理想の楽園、すなわち天国の建設が完了するのです。


天国の建設は、個々人がそのように完成されるところから始まるのだということを、皆さんは理解しなければなりません。イエス様もこの理念のために戦われましたし、私たちの先祖たちもこの理念を探し求めてきました。そして、今日、道を歩む多くの人々もまた、この目的に向かって進んでいます。


    27


では、皆さんが解決すべき心情は何でしょうか? 進みたいという思い、会いたいという思いも必要でしょうが、それらはすべて過ぎ去っていくものです。堕落した世界の人間たちが贖わなければならないものなのです。私たちには、それ以上に、神様の愛を受けたいという心情がなければなりません。そして、永遠の昔から神様が蓄えてこられたその愛を受けた一つの永遠の愛の実体として現れなければなりません。


そうして、神様が「私の愛する息子娘を見つけた」と万物の前に立てて誇り、全世界の民の前に、そして悪魔の前にまで誇ることができるとき、「そうです。あなたが探し求めていた愛の実です。あなたが理念として築き上げたかった愛の楽園の主人公です」と言われるような者にならなければならないのです。


死ぬことなく、霊と肉を合わせて神様の真の愛を受け、「あなたはお父様が探し求めておられた存在です。天と地に天国理念を建設し、その天国を支配できる第二の天的な神様の後継者です」と、すべての被造物と悪しき悪魔も証言し、頭を垂れるような存在とならなければ、天国の主人公となることも、天国の息子娘になることもできないのだということを、皆さんは理解しなければなりません。








<祈り>


この日も、天が私たちを急かす心情を感じる時、私たち人間の身体がどれほど弱いかを感じざるを得ません。今日も、天の深い心情が私たちに繋がり流れているという恐るべき事実を感じる時、私は畏れ多く感じます。お父様、私たちを支えてくださり、あなたの願いとあなたの心情、そしてあなたのご事情を解決してほしいという畏れ多いご命令に、私たちの身体と心が捧げ物となり、残された十字架の道を歩むことができるようにしてください。最後まで疲れることなく、心に刻まれた衝撃の心情をもって死の峠を越え、疲れた身体を支える力を与えられ、天との繋がりが途切れないようにしてください。


そして、憧れ、再会したい理想の楽園に会うことができるように許してください。そのためには、私たちには責任があります。その責任を果たし、残された成果を条件として備え、喜びの捧げ物として捧げられるようにしてください。天が愛したいと思い、また天から愛を受けることができる、あなたの真の息子娘として、永遠の愛の縁と愛の命、そして愛の栄光の中で生きることができるようにしてください。お父様が愛さずにはいられない、また愛されずにはいられない私たちになるように、導いてください。


    28


そうして、その国の民として、その国の息子娘として、その国の指導者として立つことができ、億千万の悪魔の前に誇りに思い、なお余裕があるようにしてください。そして、すべての被造世界が喜びと解放の賛美を捧げることができる喜びの日が早く訪れるように許してくださいと、心から願い求めます。


この事が、何か霊的な世界で行われるのではなく、現実のこの地上に生きる私たちの身体と心を通じて、実体を通じて決定されなければ、天の創造的な理念は完結できないということを知っています。責任を果たさなければならない全体的な使命の領域において、私たちが心で感じ、行動で実践し、希望の日が来るまで、どのような戦いの道であっても開拓することをためらわない、天の息子娘として許してくださいと、心から願い求めます。


残された十字架の恨みを解消し、喜びと希望の一時、永遠に楽しめる愛の一時を迎えるために、困難な道を開拓できる私たちとなるように許してください。そして、今日もそのような場で生きることができるように許してくださることを、心からお願いし、主の御名によって祈りました。アーメン。


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御言葉選集5(11)

2024年09月07日 16時17分40秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集5 - 11「再び目を開けて天を仰ぎ見よう」(1959年2月15日)

1959年2月15日(日)、前本部教会

聖書拝読:マタイによる福音書 26:36-46


<祈り (Ⅰ)>
お父様、暗闇の権力と闇、そして深い眠りから目覚めなければならない人類が、目覚めることを知らずにおります。どのような障壁が私たちの道を塞いでいても、新しい光明の旗に向かって走ることができるように、どうかお父様の憐れみの御手を私たちにお示しください。


お父様、幼い私たちのために尽くしてこられたお父様の歴史的なご労苦を、私たちは知っております。そして、闇の性質が心の中に潜んでいる自分たち自身を前にして、悲しまなければならない存在であることも承知しております。お父様が地を見つめて悲しまれたように、今日、私たちも自分自身を見つめて悲しまなければならないのです。


さらに、私たちは自分自身を超えて、万物が抱える悲しみの借りを清算し、悲しみのお父様の心を慰める責任があることを知っておりますが、その責任を果たせないまま今日ここにいることをお許しください。


私たちは、悲しみの歴史を悲しみで受け継ぎ、悲しみの実体を作り出してしまいました。お父様は喜びの歴史と喜びの実体を築こうとされましたが、私たちは不平と嘆きの結果を作り出してしまいました。これが、どうしてお父様の悲しみでなく、どうしてお父様の心情の苦悩でないことでありましょうか?


今日、このような惨めな姿を、どうかお父様、さらに哀れんでくださり、お父様のものとしてお取りください。そして、お父様の理念に基づいて、私たちを再び形作る実体としてお取りください。お父様が願う通り、私たちが天の本性の美を備えることができるように、この時間、本来の創造の法則に従って、私たちの心と体を再び作り直してください。私の愛するお父様、切に願い求めます。


    1


悲しみの障壁を打ち破り、新しい朝の光明を見つめ、ハレルヤの勝利の賛歌を歌い、万物の主人を見つけた喜びを歌い、万物を創造されたお父様をお迎えできる喜びをお許しください。そして、すべての創造物に対して本来の郷愁を感じ、本来の誇りを持つことをお許しください。


私たちは、人類が堕落して以来、万物までが悲しみ、嘆いてきたことを知っております。そして、真の息子娘の手によって、本来の創造物としての立場に戻れることを望んでいることを知っております。お父様を慰め、万物を再び本来の立場に復帰させる使命が私たちにあることを考えるとき、今日の私たちの至らなさをお父様の前に申し上げ、再びお父様のご苦労を仰がなければならない状況にあることをお許しください。


このようにしてでも、お父様の願いと、創造された万物の願いを成し遂げ、6千年の嘆きを終わらせ、怨みを解消しなければならない責任が私たち一人ひとりにあることを知っております。ですから、憐れみ深いお父様、愛のお父様、どうか私たちの心が、お父様の心から遠ざかることなく動き続けることをお許しください。お父様のご姿から遠く離れて動いている私たちにならないようにお許しください。


お父様が私たちをお造りになった以上、私たちはお父様と心も体も通じ合い、創造の縁にあることを知っております。塵にも満たない、取るに足らない存在である私たちを、どうかお父様の力の範囲に導き、本性を備えた者として再び立ててくださることを切に願い求めます。


どうかお父様の前に誇れる一人の息子、一人の娘として、暗い世に光明となり、暗い地上に新しい天の喜びを伝える者となることをお許しください。そして、東方の光に代わって現れる羊の群れとなることをお許しください。


    2


お父様、あなたが小さな者を起こして大きな者を恥じ入らせるとおっしゃったことを知っております。また、少数を起こして偉大な国を築くと仰せられたことも存じております。哀れな者を立てて、祝福された民族の前に誇りとするおつもりであることを知っております。ですから、今日、哀れで頼りない私たちを、この日に再び誇り高き実体として立ててください。


お父様がなさりたいと願うことを、私たちを通してなさると知っております。信じる心と従順な心をもって、お父様の御命令に従い、導きに従って進んでいく羊の群れとなることを、切に願い求めます。


そして、本来の園に残された悲しみを取り除き、万人の心身に染みついた罪の根性を完全に取り払い、その根を抜き去ることにより、天の栄光の土台として私たちを立ててください。そして、この使命を果たすことができる強い者として、私たちを抱きしめてくださることを切に願い求めます。


今日ここに集まった子供たちの心と体を、お父様、どうかお導きください。彼らの心の中に自己中心の主張がありますか? 彼らが自分の考えに固執し、天から与えられた道を忘れることがないようにしてください。お父様の愛を感じ、その情を体感し、本来の存在と一体となり、繋がり合うこのひと時となることを、切に願い求めます。


暗闇の勢力を操る悪魔は、この時も私たちを狙いながら見つめていることでしょう。お父様、どうか、暗闇の権力に囚われる者が一人も出ないようにしてください。切に願い求めます。


    3


この一時間、私たちを完全に導いてください。この家族たちとこの民族と全人類の前に、速やかに解放の日が訪れるようにしてください。私たちがこの全ての使命と責任を担うことができるように、どうか力を与えてください。主の御名によってお祈り致します。アーメン。




<祈り (Ⅱ)>


お父様、この地上で悲しみが起こるたびに、天も悲しまれ、私たちの祖先も悲しまれ、万物も悲しまれました。そして今日、私たちも悲しんでおります。この悲しみが取り除かれる解放の日を待ちながらも、道を知ることができず、何かを探し求めてもそれに気づかず、さまよい、苦しみながら6千年という長い年月を過ごしてきた事実を、お父様、あなたはご存知です。今、お父様がご臨在されるならば、私たちは抱きしめて、限りなく涙を流し、心の底から泣きたい思いでおります。


今や、私たちはすべてを知り、本来のご両親を探し求めております。悲しみの涙に代わり、喜びの涙を流し、私たち自身の存在を忘れ、天地に向かって声をあげて泣くことのできる日が一日でも早く訪れることを、この時、心と体で願い求めております。


今、私たちはどこに行くべきかを知り、私たちがどこに属しているのかも理解し、私たち自身が本来何であるかを知っています。失われた子供としての価値を理解しましたが、堕落によってもたらされた悲しみと罪悪の叫びはあまりにも大きく、今日、私たちが聞こうとするお父様の御言葉を妨げています。この力を打ち破ることができない無力な私たち自身を、悲しまずにはいられません。


お父様、今、復帰の峠に向かって走っている私たち、傷ついた足を引きずりながら、アダムとエバが願ったその頂点を目指して進んでおります。どうか、最後の力を振り絞って、この峠を越えられるように、鞭を振るって私たちを駆り立ててください。私たちがその峠を越えることができるように、お父様の衝撃を私たちの体と心にお示しくださることを、切に願い求めます。


    4


今日、この時間、お父様、私たちと共にいてください。もし、お父様が今語りたいことがあるならば、それは、お父様が喜ばれたということではなく、むしろお父様が限りなく悲しまれ、無限の困難を抱え、無限の苦しみを受けておられたという事実です。これを私たちが心で悟り、体感し、お父様の本来の心情を代わりに担うことができるようにしてください。


人間を失った天の心情がどれほどであったか、その心情と事情を理解し、また天の事情を知る方の心を通じて溢れ出る御言葉に、私たちが共感できるこの一時間をお許しください。


今や、語る者の心も、受け取る者の心も、二つに分かれることがなく、一つとなってお父様の御心が私たち全体に現れることをお許しください。悪魔がこの時間に入り込むことがないようにお導きください。主の御名によってお祈り致します。アーメン。






<御言葉>


この時間、皆さんと共に考えたい題目は「再び目を開けて天を見つめよう」です。「再び目を開けて天を見つめよう」という題目で、少しの間、お話しいたします。


私たちが生きているこの地は、神の創造の理念が実現した新しい朝を見ることができず、悪魔の権勢のもとで長い眠りに落ちてしまったことを、私たちは知っています。私たちの歴史はそのようであり、私たちが持っている心もそのようであり、私たちが望む心情、私たちが求めようとするすべてがそのようであるということです。すなわち、悪魔の権勢の中で深い眠りに落ち、目覚めることを知らないということです。この事実を私たちはよく知っています。


    5


神がアダムとエバを創造され、手を上げて祝福された時の彼らは、目覚めており、永遠の理念の世界で神と共に楽しめる存在でした。神はその目的のためにアダムとエバを創造されたのです。しかし、アダムとエバは自分たちが神とどのような関係にあり、どのような理念のもとで万物を対峙すべきかを正確に理解しませんでした。そして、完成を目指して進んでいく未完成の段階で、堕落という悲しい過ちを犯したのです。このことを私たちは知っています。


神はアダムとエバに「善悪の知識の木から取って食べると、必ず死ぬ」と言われました(創世記2:17)。また「万物の主人となり、全宇宙の支配者になれ」とも言われました。ここで、もし御言葉を語る神の心情と、その御言葉を聞くアダムとエバの心情が完全に一体となっていれば、堕落は決して起こらなかったでしょう。


しかし、神が御言葉を語られる時と、アダムとエバがその御言葉を聞く時の間には、心情的な距離があったのです。アダムとエバは、成長の過程を経て、御言葉の目的を成し遂げることで神の心情を理解できる立場にありました。彼らが万物や天使を見るたびに、またある存在物に向き合うたびに、神が彼らに命じた御言葉がどのようなものであり、神の心情がどのようなものであるかを、心を落ち着けて再び思い起こしながら接していたならば、堕落は起こらなかったでしょう。自分たちの立場を理解し、目覚めた心情で天を思い、天の心情を思い起こしていたならば、神の御言葉と、隣からささやく天使長の言葉を区別することができたはずです。


アダムとエバは、常に目覚めて神の御言葉と共にあるべきでした。彼らがその立場に立てなかった時、天使の誘惑が現れたのです。


天は私が眠っている時や目覚めていない時でも、常に目を覚まして私を見守っておられました。私が自分の価値に気づいていなかった時でも、天は私の価値を知り、私を見守っておられました。また、私が自分に課せられた責任や使命、守るべきことを知らない時でも、天はその全ての価値を知り、私を見守っておられました。


    6


さらに、神は永遠に切り離すことのできない親子の関係の理念の中で、心の底に染み込んだ愛を中心に、永遠に共に生きるべき全体的な価値を持ってアダムとエバを見つめておられました。しかし、アダムとエバはそのような神の心情を理解することなく、堕落してしまったのです。彼らは自分たちがどのような存在であり、何をすべきか、何を守るべきか、そして何を愛すべきかを理解しないまま堕落してしまったのです。


もし、神に悲しみがあるとすれば、それはアダムとエバをお造りになり、時間をかけて瞬間瞬間、彼らを見守り、支えてこられた神の心を彼らが理解しなかったということです。神が彼らの成長をどれほど待ち望んでいたかという天の心情を、彼らは理解しなかったのです。このようにして、人間の祖先が天と縦の関係を結ぶことができなかったために、その後の子孫たちは天を知らず、自分たちの存在する場所を忘れてしまいました。そして、彼らは自分が誰のものであり、どのような存在であるかも知らずに生きているのです。


彼らは、自分たちを守り、責任を持ち、全てを知って見守ってくださる神を知らないため、自分が何をすべきであり、何を目指すべきか、何を守るべきかも知らないのです。また、神が愛の心情をもって人間と一つになりたいと願い、見守っておられることを知らなかったため、人間は愛の道を探し求めながらも、その目的を知らないまま6千年を経過してきました。


天が知っていることと、人間が知っていることが相反していたため、堕落の原因となりました。だからこそ、私たちは自分自身を振り返り、私という存在を再確認しなければなりません。私が私を振り返り、私を回復しなければなりません。人間にこの義務があるために、数多くの哲学者や宗教家たちがこれを解決するために戦ってきましたが、まだ解決されていません。この事実は私たちがよく知っています。つまり、私という存在は誰のものであるのか、ということです。


必然的な縁を持つ人間であれば、その縁には主体があるはずです。私たちを存在させたその主体、つまり私たちの主はどのような方でしょうか?そして、私たちはその主体の前にどれほどの価値を持つ存在なのでしょうか?私たちはこれを明らかにし、その主と私の関係を再構築しなければなりません。


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では、私の心の主、私の体の主、私の心情の主、そして私の命の主がいるならば、その主はどのような方でしょうか?「ああ、その方こそが私の全てを代わる方であり、その方こそが理念を代わる方であり、その方こそが私の命を代わる方であり、その方は私にとってなくてはならない存在です」と言える方です。その方を知るその日から、歴史の中で変わりゆく時代を経て来られたとしても、変わらない主として私たちを支えてくださる神を知ることができるでしょう。そして、その時からすべての問題が解決されるのです。


次に、私たちはその一人の主から生まれた者たちです。創造主である神が私たちを一つ一つ作り、私たちの前に何を任せ、何を支配させるためにご苦労されているかを知ることができるでしょう。


神は人間に万物を支配するように祝福されました。では、どうして神は人間を造られ、万物を支配せよと祝福されたのでしょうか?神ご自身が直接万物を支配するのではなく、人間を立てて、私たちを立てて万物を支配せよと祝福された理由はどこにあるのでしょうか?それは、神が天地万物を創造された時の心情を人間に悟らせるためでした。ですから、私たちに万物を支配せよと祝福されたのです。神が万物を造られた事情と心情を、私たち人間に体感させるために、万物を支配せよという祝福を与えられたのです。


アダムとエバは、自分たちの主が神であることを知っており、神の御言葉に従って守るべきものを守り、万物に対する自分たちの意識が高まるにつれて、神が万物を創造された際に感じた美しさや愛の感情、万物を見て喜ばれた神の心情を体感し、万物を愛し、万物の前で神に代わる存在として喜ぶべきでした。しかし彼らは、神の創造の心情を体感する立場から離れ、思いもよらない悪魔の誘惑、すなわち天使長の誘惑により、感じてはならない感情を感じ、許されていない領域に足を踏み入れ、堕落してしまったのです。このことを私たちは知らなければなりません。


このようにして、私たちは堕落したアダムとエバの子孫として、今日、被造世界を見ても、天地万物を創造された神の喜びの心情を体感する手段を失った、失墜した人類となってしまったのです。だからこそ、私たちは自分自身を回復し、神を主と仰ぐ立場に立ち、エデンの園で万物を支配せよと祝福された神の心情を体感し、その心情をもって歩んでいく者になるべきです。このような人にならなければ、アダムとエバが犯した堕落の怨みを解く方法はありません。


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皆さんは日常生活の中で、神がどのような心情で万物を創造されたのかを心で感じ、体感したことがありますか?もしあるならば、万物を抱きしめて愛する感情が湧き上がるでしょうし、深い情が湧き出てくることでしょう。また、神の御言葉が耳に響くことを感じるでしょう。万物に対する態度において、神が創造された当時の神の心情を体感し、喜びの心情で万物に接するべきだったアダムとエバが、再び目を開けて天を見つめるべきであったにもかかわらず、神の心情を体感できなかったのです。


それもそのはず、アダムとエバは当時、知識がまだ十分に発達していなかったため、神の心情を深く感じることができなかったのです。そのような立場にあったとしても、「食べてはならない」という神の御言葉を彼らの生活の標語にし、感覚のすべての標語にし、人生の標語にし、そして自分たちの命の標語として守り続けていたならば、横から入ってくるどんな誘惑も問題にはならなかったでしょう。


アダムとエバは、神が彼らをして万物を支配させた創造の目的がどこにあるのかを理解していませんでした。神が命じられた「これを守れ」という御言葉を守り、その後に来るであろうこと、つまり御言葉の山を越えた後に与えられるであろうものを憧れる心がなかったのです。自分たちの命に対する意識と生活感情を忘れず、「食べてはならない」とされた御言葉を守り、その後に何が来るのか、越えた後に与えられるものに対する憧れの心が彼らの生活を支配し、導いていたならば、アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べなかったでしょう。


憧れの心がなかったために、アダムとエバは、横から入ってくる天使長の言葉が神の御言葉よりも貴重だと思ってしまいました。そこから人類の悲しみは始まりました。深い眠りの始まりは、まさにその瞬間だったのです。


その時、アダムとエバがもう一度目を開けて「食べてはならない」と仰せられた神の御言葉をもう一度思い出し、万物を支配せよと祝福されたその後に、自分たちに与えられるはずのものが、天使長の誘惑よりもはるかに大きいことを感じていたならば、堕落はなかったでしょう。これがすべての人類の悲劇の根本原因となったのです。したがって、今日、私たちは自分自身を探し求める活動をしなければなりません。そして、自分に与えられた責任を取り戻すために努力しなければなりません。その後、私は何になるべきかということを考えなければならないのです。


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アダムが成長し、万物を支配する心情を身につけていたなら、その次に何が成し遂げられたでしょうか?アダムの愛、エバの愛、万物の愛、そして神の愛が一つに結びつき、決して切ることができない、決して離すことができない全体的な縁が完成していたでしょう。


しかし、このすべてを失ったため、今日、私たちは嘆き悲しんでいます。罪深いこの地を恨みながら生きています。人生の真の価値と目的を知らずに、悪魔に囚われて人生の旅路を歩み、死の価値すら理解できない暗闇の中で苦しんでいます。


このような環境を打ち破り、再び目を開けて神を再認識できるような心の変革が、私たち自身の中で起こらなければ、切実な心情が私たちの中で湧き上がらなければ、新たな存在意識が私たちの中で生まれなければ、私たちは自分の価値を誇りたいと思っても、誇ることはできません。なぜなら、その価値は天と何の関係もないからです。どんなに自分の命の権限を誇ろうとしても、それもまた天とのつながりを持つことはできません。すべては無駄に終わるのです。


ですから、今日の私たちは、天使長の言葉を再び分析し、神を見つめられなかったアダムとエバの立場を繰り返さないようにしなければなりません。そして、今日の私自身を見つめ、第2の私として再び目を開け、私を見つめる神がおられることを悟らなければなりません。そうした瞬間から、本当の自分の姿が芽生え始めるのです。


私たちはまだ新たに目を覚ましていないため、堕落によって生じた悲しみ、堕落によって受け継がれた絶望と悲劇の深みに囚われ、そこから抜け出せない宇宙が生まれてしまいました。これ以上の悲しみはなく、これ以上の怒りもありません。にもかかわらず、この悲しみと怒りを解き放つべき立場にあるのに、今日の人類はその悲しみと怒りがどこから生じたのかさえ知らず、さまよっています。このような人々も哀れですが、その姿を見つめる神は、どれほど哀れなのでしょうか?


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終末においては、すべてを再確認し、再認識しなければならないのが堕落した人間の運命です。すべてを再認識し、再び目を開ける日、新しい自分を発見する喜びの日、新しい自分の価値を中心に、万宇宙とつながりを持つその瞬間、全体の価値を統合し、神との切り離せない愛の縁を結ぶその瞬間こそ、人類が知らずに探し求めてきた歴史的な目的であり、人生の目的なのです。


私たちは再び目を開ける必要があります。再び目を開けて、天を見つめなければなりません。再び目を開けて天を見つめるとき、皆さんは恐れと畏敬の念を感じるでしょう。そして、深い眠りの中で、死の世界でさまよい、人生の価値を見失ったまま、死を目前にして嘆いてきた人類を、天は一日たりとも、一瞬たりとも忘れず、彼らを見守り、反逆する人類を何千万回も再認識してきたのです。そして、神が人類を愛される心情を感じることができるでしょう。このようにして、皆さんが本当に天が存在することを悟る瞬間、悲しみと感謝の念に満ち、泣き崩れざるを得なくなるでしょう。


天は、今日に至るまで、私たちの命を支え、何度も何度も私たちを見つめ直してこられました。天は私たちの人生の道筋と理念的な条件をつかみ、私たちが求めているすべての条件を守り、私たちが気づかないときにもその条件を通して私たちを見つめてこられました。皆さんは、こうした神の悲しみを知っていますか? 私たちの惨めさと悲しみとは比べ物にならない天の惨めさを感じたことがありますか? もしその経験がなければ、今日の6千年の歴史の終わりに立って、このすべてを解決することはできません。できないのです。この壁をすべて打ち砕き、本来のアダムの位置に戻り、神の心情を体感できるその一瞬が訪れる前には、人類の根本的な問題は解決できません。それが人類の運命なのです。


それでは、私たちは再び目を開けて、私たちが信じている神を再び見つめなければなりません。イエス様を再び見つめることを学ばなければなりません。聖霊と神の復帰摂理の使命を果たすために来られた無数の先祖たちを再び見つめることを学ばなければなりません。歴史を再び見つめると同時に、この時代を再び見つめ、これから来る時代を思い、将来どうなるかを考えながら、再び見つめることを学ばなければなりません。再び目を開けて天を見つめながら、「天よ!」と叫びたい心がなければ、皆さんの希望は途絶えてしまいます。


今日、人々の歩む道がすべて行き止まりに見えるのはなぜでしょうか?宗教を立てて導いてきた聖職者ですら、根本的な問題を解決できずに行き詰まっています。哲学や科学ですらすべてが行き止まりです。その理由は何でしょうか?それは、再び目を開けていないからです。


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今まで私たちが持っていたもので解決できないのであれば、それを捨てて再び天を見つめることを学ばなければなりません。天を見つめたいという心と、天を見上げて泣きたいという心を持つ人、そのような心で悲しみ、天を見つめたいという心を持って死んでいく人々の心こそが、人類の歴史を終わらせる礎となるでしょう。


滅びゆく国家の運命を案じて立ち上がる者がいたとしても、民族のためにまず叫ぶのではいけません。まずは溢れる思いを持って、天のために叫ばなければならないのです。その後で、民族のために叫ばなければなりません。その時、民族は救われるでしょう。これは歴史が証明していることです。


何かわからないものを探し求めても見つからず、もがき苦しんでも解決策が見つからない未知の世界を追い払い、本来の心に立ち返り、何もない空(くう)の状態から再び目を開けるその日、その瞬間こそが新しい歴史を創造する瞬間となり、新しい人生が始まる瞬間となり、新しい自分を発見する再創造の瞬間となるでしょう。


祈りながら天を探し求めたイエス様であったことを私たちは知るべきです。ですから、30年間の準備期間にあったイエス様は、兄弟が喜んでいるからといって喜びの表情を浮かべることはできませんでした。親戚や隣人が楽しんでいるからといって、共に楽しむこともできませんでした。このようにして、天が願う方向と、全世界の人類が向かう方向があまりにも大きく違っていたことを見て、その差が大きければ大きいほど、イエス様はさらに固い決意をしたのです。


言いたいことがたくさんあっても口を閉ざしていたイエス様の30年間の準備期間の悲しみを、皆さんは知っておくべきです。この30年間の準備期間を経た後、イエス様は一人の開拓者として家族を振り切って出発しました。死の峠が迫っても私は行く、疲れた道であっても私は行く、滅びることがあっても私は行くという心を抱き、自らの環境を清算できました。


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アダムが横から入ってくる言葉をすべて受け入れて滅びたように、私たちも流れてくる思想をすべて受け入れてしまうと、死を迎えるかもしれません。ですから、これを再評価し、受け入れなければなりません。そして皆さんが自分の心と命と情的な理念を通じてこれを評価できる主の立場に立つならば、どのような思想が皆さんを束縛するでしょうか?どのような思想も皆さんを束縛することはできないのです。この根本的な問題が解決されたならば、皆さんの心の世界には平和が訪れ、皆さんの生活環境にも幸福が訪れるでしょう。自由と平等を享受できるでしょう。


今日、理想を叫んでいる主義がいくら多くあっても、心の解放、情的な解放、理念的な解放を与えてくれる主義はありませんでした。この事実を私たちはよく知っています。再び目を開けて、眠っていた自分自身を哀れみ、目覚めた解放の日を待ち望み、今日の環境を振り切って立ち上がり、目を開けて天を見つめると、そこに主がいらっしゃることを人類は今まで知らなかったのです。


では、歴史の道を歩み、神の御旨を探し求めてきた人たちはどのような人たちだったのでしょうか?彼らは時代を振り切り、「おお、天よ!」と叫び、地を蹴って天に向かって突き進む心を持った人たちでした。そして彼らはその時代に受け入れられず、時代の落伍者のような立場に立って、哀れな人生の道を歩みました。彼らは人間社会で哀れであるなら、極めて哀れな人たちでした。他の人たちが拠り所として生きている世界で、何の拠り所も持たず、自分の心情を吐露して語り合える友も、自分と共に命を懸けて戦ってくれる同志も持たずに、彼らはみな消え去っていきました。


そして、堕落から4千年が経った時に現れた一人の青年、すなわち万民を救うために、まず時代を否定し、環境を否定し、それまでの教団を否定して立ち上がった青年イエス様は、何を主張したのでしょうか?イエス様は人間が知らなかった神の御旨を主張しました。


神の御旨を胸に抱いたイエス様は、この世のあらゆるものが人生の全体的な理念の材料にはなり得ないことを知っていました。だからこそ、イエス様は世が裏切ってもそれを振り切り、新しい目で新しい自分を見つめ、新しい家庭、社会、国家、世界を見つめ、新しい主義を堂々と見据えることができたのです。そして、その価値が現世のどんな価値よりも高く、尊く、大きいことを知っていたため、イスラエルが裏切り、ユダヤ教団が裏切っても、彼は揺るがなかったのです。社会や家庭、どんな著名な学者が裏切ろうとも、どんな祭司や律法学者が反対しようとも、どんな波風や困難が四方から押し寄せようとも、イエス様は微動だにしなかったのです。彼はただ再び目を開けて「おお、天よ!」と叫びました。これがイエス様の生活信条だったのです。


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自分を否定する環境を見て無限の悲しみを感じたイエス様は、自分を見つめる神が悲しんでいることを知り、身をもだえするほど罪の意識を感じたのです。イエスにとって、自分自身が死の犠牲となることは、神がこれまで人類のために悲しみ、戦ってこられた切実な心情に比べれば、塵にも劣るものだと感じました。だからこそ、彼は自分を否定し、神の心情を優先し、頭を垂れることができたのです。ここから、人類の新たな覚醒が促され、第2の自我が出発し始めたのです。イエスによって、人類は復活の春を迎えることができました。4千年間、悲しみと深い眠りの中にあった人類が、イエス様を信じたならば、新しい春を迎え、復活することができたのです。


イエス様が来られてから2千年、人類のために立ち上がった者たちの中で、自らの命に執着しなかった者がどれほどいたでしょうか?また、自らの心に感じる悲しみを知らない者がどれほどいたでしょうか?しかし、彼らは自分自身の命への執着や自らの悲しみよりも、主の悲しみ、主の命が引き裂かれているという事実を感じたのです。私たちの先祖たちは、自らのすべてを否定し、天に向かって突き進む心を抱いていた人々でした。


そのような先祖たちの血と汗と涙に染まってきた天の摂理の道は、今どこに向かっているのでしょうか?これまで人類の歴史の歩みを共にしてきたのですが、歴史の終わりにはどこへ行くのでしょうか?ここで終わるのか、それとも新しい道を見つけて再び進むのでしょうか?このように考えた時、この摂理の終わりの時代に、全体を代わる血の犠牲、涙の犠牲、汗の犠牲となり「天よ!私をお受けください」と言える一人の姿が現れるならば、その人はこの終末時代の涙の救世主であり、血と汗の救世主であり、命の救世主となるでしょう。


そのような方がいて、その摂理を責任持って果たすならば、その方は天の条件を伴って地上に現れ、天の心情を代わって地上に現れるでしょう。皆さんがそのような先知者に出会った時、その方の天的な心情や人格は知らなくても、現実を否定し、再び見つめる心を持たなければならないのです。


自分が生きている場所で再び目を開けて見つめ、自分たちが知らない第2の価値、第2の人格の基準を見分けることができなければなりません。そうできなければ、皆さんはイエス様がこの地に再び来られても、その方を見分けることができないでしょう。


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見てください。60万のイスラエルの民の前に立ったモーセは、王宮で育ち、ミディアンの荒野で羊を飼っていた牧者でした。その姿をただ見つめれば、何の価値もなく、世間の人々と何ら変わらないものでした。しかし、モーセが天の心情と天の人格を備えて現れる時、イスラエルの民は再び目を開けて彼を見つめなければなりませんでした。しかし、それができなかったため、彼らはモーセに従って荒野をさまよい、そこで命を落としたのです。イエス様の時代も同じであり、今日の歴史の終末の時代も同様です。


罪の歴史は皆さん自身から清算しなければなりません。皆さんが歴史にとってマイナスとなる立場にいるなら、それは地獄です。プラスとなる立場にいるなら、それは天国です。また、皆さんと時代を比較した時、時代が皆さんより大きければ、それは地獄です。皆さんが時代より大きければ、それは天国です。そうなるのです。


今日に至るまで、天の運命に従ってきた人間たちは、天の運命を変えられる日を取り戻さなければなりません。神はその一日を待ち望んで、6千年という長い年月を歴史として歩んでこられました。天の運命に従い歩んできた歴史の悲しみを振り払い、その運命を支配できる勇者を探し求めてこられたのが、神の6千年にわたる復帰摂理の道だったのです。


ですから、これを回復し、取り戻さなければならない運命を背負っている私たちは、第2の私の目を持ち、第2の私の命の感触を感じながら、第2の私の理念を探し、第2の私の人格を備え、その価値を誇るべきです。そうして、天と地の運命を代わる者として、皆さんを立て、祝福することのできる存在が現れなければ、6千年の摂理は完結できません。また、その方によって神が栄光を受けるための条件が成立するのです。


ゲッセマネの園で、三人の弟子を伴って祈っていたイエス様の姿を思い出してみてください。彼は天地の心情を通じて、自分の心情を通じて、神の心情を動かそうとする決意に満ちた姿でした。そうして祈っていたのが、ゲッセマネの園だったのです。人類の心情を動かし、天と地、天情と地情を統合しなければならないイエス様が、地上の人々から拒絶され、地から追放される立場に立たされたため、天情との縁を結んで乗り越えなければなりませんでした。その場所がゲッセマネの園だったのです。その場には人間を代表する三人の弟子が共にいましたが、イエス様が感じていた心情とペテロをはじめとする弟子たちが感じていた心情は全く異なっていました。


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イエス様は天情を求め、死を前にして再び天を見上げ、その視線は死の峠を越えて復活の栄光を見据えていました。しかし、自己中心にものを見ていた弟子たちは、天情に触れたイエス様の心情を理解していなかったのです。このようなことは、一度や二度ではありませんでした。実に恥ずべき行いでした。これが、天を裏切った先祖たちの行動でした。


私たちの真の親であり、私たちの主人であり、私たちの夫であり、私たちの理念の主体であり、命の主体であり、私たちのすべてを代わる天の実体であるイエス様を、このように裏切ったのが、私たちの先祖たちでした。このような先祖の子孫であることを骨の髄まで感じ、皆さんの心の中に歴史的な人物を恨む深い怒りの心があるでしょうか?


弟子たちが目を開けて天を見つめることができなかった時、イエス様は祈りながら何度も弟子たちを見つめたことでしょう。「試みに陥るな」と警告するイエス様の焦燥感と切実な心情は、計り知れないものでした。そのような心情を抱いたイエス様は、神の御名を呼び、神の心情を感じながら、自分自身を忘れて愛する弟子たちを何度も何度も思い、見つめたことでしょう。しかし、三人の弟子は、そんなイエス様の心情を知っているのか知らないのか、居眠りをしていたのです。これは単に三人の弟子たちだけの姿ではなく、人類全体の内面を暴露した一面であることを、皆さんは知っておかなければなりません。


今日、皆さんは、ゲッセマネの園での決意と、涙と血の叫びが耳に響いていても、それに気づかないままです。「再び目を開けて見つめなさい」と叫ばれても、それを聞き取ることができません。眠っている人類を目覚めさせるために体を揺さぶり、頭を叩かれても、気づかないままです。このように哀れな人類を見つけ出し、息子娘として祝福の日を与えるために努力される神の悲しみを知る者は、この地上にいません。


ですから、皆さんは善の理念を持って生き、本来の息子娘として、天の胸に打ち込まれた釘痕を癒し、歴史的な悲しみを清算し、喜びの代わりの存在として、万物と全宇宙を代わる和合の仲介者として「あなたは私の誇りであり、私の愛であり、私の幸福の基準である」と言っていただける人になるべきです。


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神はこのような心情で、皆さんを見つめておられますが、今日、皆さんが目を開けてその神を見つめる時、復活の基準がそこに確立されているでしょうか?神が万物を創造され、アダムとエバに万物を支配せよと仰せられたのは、第2の創造の心情を感じさせるためでした。皆さんはそのような心情を感じるべきであり、万物を見るたびに、神が万物を創造された御業とその労苦、そして創造物を見て喜ばれた神の心情を感じるべきです。


皆さんは、天との心情の合一、万物との心情の合一を探し求め、天の主の実体として立ち、天に全てを捧げられる存在でなければなりません。そうした瞬間こそが、天が望み、私たち人間が望んでいた終着点であり、天と私たち人間が出会う終結点です。しかし、その業を成し遂げるのは、神ではなく、皆さん自身が行動しなければならないのです。


最終的に残るものは何でしょうか?それは、天地の情を通じて、神の愛の圏内で新しい本来の心情を備えた資格者になることです。ここで、神が許可できる新しい人間として現れることができ、また、完全なアダムとエバの本来の姿を持って、神が両手を上げて祝福し、喜んでくださる、新たに見出された姿になるのです。こうして、新しい天地に築かれる新しい家庭の主人、新しい天地の新しい親、新しい子供たちの親となるべきです。そのような家庭が、皆さんを中心として成されなければなりません。


神は、私たち人間を何千万回も見つめながら歴史を歩んでこられました。その歴史の最終的な終着点はどこにあるのでしょうか?神と人間が永遠に共に生きられる、神が人間を実の息子娘として立て、人間が神の愛を中心にして「あなたがいなくても私は生きていけない、私がいなくてもあなたは生きていけない、兄弟がいなくても私たちは生きていけない、万物がいなくても私たちは生きていけない」という一つの家庭です。神は、このような家庭を待ち望んでこられたのです。このことを皆さんは理解しなければなりません。


今日、私たちは自分のものではありません。私たちのものではないのです。私たちが生きているこの社会も私たちのものではありません。私たちが住んでいるこの国家も私たちのものではなく、私たちが生きているこの世界も私たちのものではありません。私たちが信じている天も、私たちだけのものではないのです。今や、皆さんは再び目を開けて第2の自分を、第2の自分のものを見つけ、天に向かって立ち上がることができなければなりません。終末における聖徒たちの姿は、このようなものであるべきです。


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今、私たちは自分自身を否定し、新たに認められなければならない運命にあります。しかし、私たちが生きているこの地上と、その生活は、私たちに天的な報いをもたらしてはいません。ですから、たとえこの世が去り、友が去り、親が去り、妻子が去り、地上のすべてが去ったとしても、再び目を開けて天を見つめるこの切なる心は消えないと言わなければなりません。


再び目を開けて、神が変わらない存在であるように、私も変わらないと言える姿を。そして、天の縁と祝福の縁を掴んで、たとえ死ぬことがあってもその事情を地上に残していこうというその心を。私の心が引き裂かれ、悪魔の犠牲になっても、神の愛を所有したいというその心を。堕落の条件を取り除けるその心が残っていることを願い、もがく私になっていますか? 天が求めていた私になっていますか? 天の前に示すことのできる私になっていますか? 天と地の前に誇ることのできる私になっていますか?「天よ、降りてきてください。人類よ、集まりなさい。万物よ、踊りなさい」と言える私になっているでしょうか。


私を条件にして、天の怨みを解き、地上の怨みを解き、万物の怨みを解き、全宇宙に染み込んだすべての悲しみを解消し、天を代わって歌い、地を代わって歌い、全宇宙を代わって歌うことができる皆さんにならなければなりません。そして、悪魔に命じることができるように、「誠実な忠義の心だけが私たちに残るようにしてください」と言えるようになる必要があります。「その心を持つ者だけが歴史の主人になるべきです。その心を持つ者だけが人類の歴史を動かすべきです。その心だけが私たちの子孫の希望のしるしになるようにしてください」と言えるようになり、そうした心を伝える使命が皆さんにあることを理解しなければなりません。


だからこそ、イエスもこの理念のために戦い、私たちの先祖たちもこの理念のために戦いました。そして、神もこの理念のために地を見つめ、暗闇の中にいる人間を目覚めさせようとされてきたことを、皆さんは理解する必要があります。


歴史的な不運の壁を打ち破り、天の心情を通じて眠っている人々の心情を目覚めさせ、引き上げる者は誰でしょうか? 眠っている自分自身を目覚めさせ、引き上げる者は誰でしょうか? 爆発する天の愛の心情を紹介する者は誰でしょうか? それは、取るに足らないように見える皆さんです。だからこそ、たとえ追いやられ、追い詰められ、惨めにされても、皆さんがその一点と関係を持つ立場に立つ先頭にいるのではないかと考えるべきです。


    18


このような責任を持ち、天と地、万物の前に呼び出された私たちは、その使命と責任を果たし、天と地の怨みを解き、天と地の第2の希望の存在として、神がすべての怨みを忘れて、再び喜びの心で見つめることができる姿となり、人類が喜びの中で見つめることのできる私となり、万物が喜びと調和の中で見つめることのできる存在となるべきです。


そこが理念の楽園であり、そこが本来の天国です。そして、そのような場所で、一つの理念を中心にして一体となる場所が地上天国です。このことを伝えるために、天は何千万回も私たちを探し、目覚めさせ、立ち上がらせてこられました。しかし、私たちはそれを忘れてしまいました。この悲しみを心に刻み、それを責任として、第2の自分を探し求めてもがくことのできる皆さんにならなければなりません。






<祈祷>


天を仰ぎ見なければなりません。私たちの目は暗くなり過ぎてしまいましたが、昼も夜も絶えず、何が現れるのかを見つめなければなりません。アダム以降の歴史に刻まれたすべてを見つめなければなりません。


これらの事柄が私たちをして命の中心と理念の基準を見つけられなくさせています。それを克服し、再び天を見つめることができる心を、そして情を超越し天情に染み渡る心を持てるようにお許しください。地を恨み、天を恨み、万物を恨み、もがく自分自身を自覚し、第2の自分を探し求める飢えた足取りとなることをお許しください。そして、焦燥感を持ち、問題を解決しなければ落ち着けない心を持つことを切に願い、求めます。


私たちは、失われた本来の楽園、失われたお父様の理念を探し、万物を支配し守る者です。そして、万物と共に愛の縁を結び、それを束ねてお父様の前にお返しする者です。お父様が天地を創造された心情を通して、お父様の愛の花を咲かせ、それを束ねてお捧げするという全体的な責任を負っていることを知っています。


    19


しかし、私たちはまだ一歩も踏み出せず、深い眠りの中にいる世界中の人類を目覚めさせ、新しい光明の朝を迎え、天を仰ぎ見て再び目を開くことができる群れとなることを、愛するお父様、切に願い求めます。


新たに目を開けて天を見つめ、世界の歴史の前に新たな意志を起こすことのできる第2の群れとなることをお許しください。そして、新しい理念と新しい心情で絡み合い、新しい種族を動かす者となることをお許しください。お父様、切に願い求めます。


そのような民族、そのような国家があれば、世界は彼らを通じて天と縁を結ぶことができると信じています。今日、私たちの韓民族が哀れな境遇にあるからといって、失望しないようにこの民族を守ってください。


現実のすべてを拒絶し、再び目を開けて見つめなければならない歴史的な不運の峠が残っていることを理解しています。


捨てなければならない要素を最も多く持つのはこの韓民族です。今日、私たちの宗教や政治を誇ることはできません。持っているものの中で持ち越せるものは何もなく、捨てざるを得ない環境に置かれています。この環境を再び握りしめるために、もがく者にならないようにお許しください。そして、天に向かって再び目を開けることをお許しください。人類が見ることのできない新たな場所を探し求める群れとなるために、この民族の道を最初に塞がれたことを理解しています。どうか失望せず、疲れも忘れ、今日も明日も粘り強く進むことができるように導いてください。


    20


再び目を開けて天を見つめる群れが現れれば、この地は生き返り、その動きによって世界も生き返ると信じています。これを担う群れとなることをお許しください。


ゲッセマネの園で祈られていたイエス様の心情は、一文無しの人の心情でした。親を失った心情であり、兄弟を失った心情であり、国家や世界を失った心情でした。今日、私たちもそのような心情を持ち、すべてを失った心の中で、天を所有できるようにお許しください。縁は地上で結ばれなければならないため、イエス様は死から復活されました。縁の条件を地上に立てる責任がイエスにあったことを、私たちは理解しています。


今日、私たちもその心を中心に、地上のすべてを捨て、天の基準だけを持って倒れることがあったとしても、イエス様が望んだ希望、天が望んだ希望、人類が望んだ希望が、私たちによって必ず地上で成し遂げられるその日を目指して、今日も明日も、一年も十年も、残りの人生も惜しまず捧げて走り続ける息子娘となることをお許しください。切にお願いし、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


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