文鮮明先生御言葉選集 6 - 1. エリヤに対する天の心情 (1959年3月15日)
1959年3月15日(日)、全本部教会(青坡洞 1街)
聖書拝読:列王記上 19:1-21
<祈祷(I)>
今日、あなたが許してくださった日を迎え、不足な自分たちを心配しながらひざまずき、あなたの御前に集まりましたので、私たちの心がどこにあるのかを洞察することができるようお許しください。
お父様が命の道を切り開いてこられた道は、極めて厳粛な道であり、極めて聖別された道であったことを私たちは知っております。
お父様、この場所に集まったあなたの息子娘たちを憐れんでください。ここに尊厳なるお父様の姿を示してください。そして、許された勝利の基準を立て、聖別された群れと認めてくださるよう、切に願い、求めます。
残された摂理の道が悲しみの道であるなら、その悲しみを防ぐ責任が私たちにあることを知っています。そして、天の無限の悲しみを感じることができない者は、その悲しみを責任を持って背負うことができないということも知っています。残された天の悲しみと戦いを責任をもって担うことが求められていることを知っていますので、どうか私たちが天の悲しみと戦いを担う者となることを許してください。
このことを果たすためには、誰よりも大きな悲しみを感じなければならないことを知っており、誰よりも不当な立場の戦場でも脱落者にならないことが求められていることを知っています。
お父様、私たちの体が天の前に捧げられる勝利のいけにえとなるかどうか、心配する気持ちを持ちながらこの時間に参加している群れであることをお許しください。切に願い求めます。
イエス様が来られた後、2千年の歴史が過ぎ去りましたが、イエス様がカルバリの山で積み上げられた、天が共に泣かれた真の勝利の祭壇はこの地に現れていません。天が動かざるを得ない、地上の人々が動かざるを得ない、天と地が交わる世界的なゴルゴダの山が現れなければならない時が来ており、ゲッセマネの山が現れなければならない時が来ていることを知っています。この責任を果たす多くの聖徒が必要です。しかし、天が喜んで探し出してくださる群れがいないことを知れば知るほど、お父様の心情を憂う息子娘たちはこの地を見て嘆かざるを得ない現実を私たちは知っています。
お父様! あなたの願いの一日を待ち望むお父様の切なる心が大きければ大きいほど、お父様のために忠誠を尽くす一つの姿がこの地に現れることを待ち望む心情も大きいことを、許し理解させてください。
今日、私たちの心と体をすべて捧げて、お父様の手に取り込まれ、お父様の心中に立てられる息子娘となり、歴史のすべての悲しみを担う姿となることをお許しください。
お父様が直接働かれるその働きを通して、私たちの心と体が新たに復活するこの時間がなければならないことを知っております。過去一週間、私たちに委ねられた責任を果たせなかったことをお許しください。お父様の前に忠誠を尽くせなかったことをお許しください。お父様の心情を掴んで涙ながらの生活を送れなかったことをお許しください。私たち個々を探し出すために、あなたが労を惜しまず歩んでくださった事実を忘れたことをお許しください。
今日この時間、新たな決意と新たな決心をし、各々過去のすべての不足を認識し、お父様の心情を中心に自らの心を掴んで進む息子娘となることをお許し下さる様に、求めます。
お父様、この日は聖なる日であるので、困難な状況にある三千万人の民を憐れんでください。彼らの友となってください。彼らの指導者となってください。彼らの命を復活させる主となってください、お父様、切に願い求めます。
お父様、彼らの希望の中心となってください。彼らがあなたから離れては動けない群れとなることを許してください。彼らがあなたのもとで一つの民族となり、一つの教団となることを許してください、お父様、切に願い、求めます。
この民族に許される祝福を、この時間を通して授けてくださることを切に願い、求めます。勝利の日を担うあなたの息子娘たちが、その使命と責任を果たすことができるよう許してください。この使命を成し遂げ、あなたの栄光を現さなければならない責任が、この民族にあることを私たちは知っています。その責任を果たす過程には無限の試練があることを知っていますので、その試練の道でも責任を全うし、あなたに代わって立ち上がることのできる息子娘たちとなることを許してください、お父様、切に願い求めます。
この使命を知らない多くの人類にも祝福を与えてください。生死の波に飲み込まれていくこの時に、お父様、あなたにしっかりと縋りつき、あなたの息子娘となる群れが、この人類の中から多く現れることをお許しください。
人類を裁きの鞭から救う全体の責任を果たし、お父様の御前に立つことのできる息子娘たちが、この地上の人類の中から多く現れることを許してください、お父様、切に願い求めます。
このような使命を、このような時期を、このような責任を知らない者たちがいるならば、私たちを通して警告し、彼らが終わりの日の責任と使命を果たすことができるように導いてください、お父様、切に願い求めます。
今日、この日を祝福してください。地方に広がり、孤独な心情を抱えながら、お父様の御前に訴えている者たちの上に、あなたの恩賜の手を一律に伸ばしてください。そして、許された勝利の日を取り戻すための戦いの中で、倒れる者が出ないように、彼らをしっかりと守ってください、お父様、切に願い求めます。
この時間、始めから終わりまで、お父様、直接ご指導ください。そして、闇の力が働く時間とならないようにお許しください、切に願い求めます。
すべてをお父様の御前に捧げますので、どうかお受け取りください。主の御名により祈りました。アーメン。
<祈祷(Ⅱ)>
この地上で多くの人々が、目的のために苦労し、血涙の戦いを重ねてきたことを私たちは知っています。今日、私たちはその血の実を結ばなければならないことを理解し、残された摂理の基盤の上に勝利の旗を立てなければならないことも知っています。
今日のこの一時間、私たちが自分自身のものだと考える者とならないようにしてください。私たちの心も、私たちの生命も、私たちの欲望も私たちのものではないので、私たち自身を基準にして天を相対することがないように許してください。私たちは父から始まった者なので、お父様のものだけで動くこの一時間となるように許してください、お父様、切に願い求めます。
私たちの心も体も、また私たちの主張もお父様のものでなければならないことを知っており、お父様のものでないものは許さないでください。私たちの心と体にお父様が望まない悪の要素があれば取り除き、お父様のものでない主張も取り除いて、お父様のものでのみ動けるこの一時間となるように許してください、お父様、切に願い求めます。
地上にいくら優れた者があっても、誰が天に対して立つことができるでしょうか? どんな言い訳の条件を持っても、お父様の前に立てる者はいないという事実を思うと、私たちは心から悔い改めなければならず、罪の歴史に浸った私たち自身が、歴史的な罪の上で悪魔の供物となったことを自覚すべき時であると知っています。
お父様、私たちの心が私たちのものでなく、私たちの体が私たちのものでないと知っているのに、悪魔の供物となっていることを知っているので、これを悲しむ心を回復し、このことを痛み深く思う心情を起こしてください。自分を自覚し、天と縁を結ぶことができるようにしてください、お父様、切に願い求めます。
無数の悪魔が私たちの心と体を狙っていることを知っています。お父様が許せない罪の苦い根が残っているならば、お父様!現れて、その能力の権限で再創造の歴史を起こし、私たちの心がお父様の前に服従できるように天の歴史を起こしてください、お父様、切に願い求めます。
天が動くとき、地が動かざるを得ず、地が天に要求するとき、天がそれを実現しないわけにはいかないという事実を知っています。今日、真の心を持ち、真実の心情で天を自分のものとして掴むために戦っている天の息子娘はいるのでしょうか? 天のすべての事情を自分の事情とし、天の事業を自分の事業とし、天の理念を自分の理念とし、これを掴むために戦い、これを掴むために蔑まれ、これを掴むために追い詰められて一生を生きた者はいるのでしょうか?私たちがそのような位置にないならば、私たちは天の前に受け入れられない罪人であることを告白できるようにしてください。
今日、私たちは知らないかもしれませんが、天は6千年という長い年月を経て、多くの預言者を送り、血の祭壇を築かせ、またこの民族に忠臣烈士を送り、民族の進むべき方向を示してくださったことを忘れないようにしてください。どの地域をも気にせず、民族を超えた領域まで内面的に摂理を導かれたお父様の苦労を忘れないようにしてください。
お父様、この一つの目的を達成するためにすべての心を尽くし、すべての努力を注ぎ、どんな犠牲も覚悟して私たちを探し出してくださったのに、こうしたお父様の恵みの前で面目を失う無礼な息子娘とならないようにしてください、お父様、切に願い求めます。
今、天が存在することを知り、天のお父様が誰であるかを知っています。父と私たちの間には必然的な条件が残っていることを知っているので、今日このような心情を通じて、天の父と縁を結び、お父様の悲しみを自分の悲しみとし、お父様の嘆きと哀しみを自分の嘆きと哀しみとして感じることができるように許してください。悪魔と壮絶な戦いを繰り広げる天的な行軍がこの民族の前に現れるように、またこの地上に現れるように許してください、お父様、切に願い求めます。
6千年間、天に対して誹謗していた敵悪魔を地球上から追い出し、お父様の嘆きを解消し、求められていた理想の園を早く築くことができるように許してください、お父様、切に願い求めます。
お父様、民族が進むべき方向を示し、教団が進むべき方向を明示し、真の息子娘が進むべき道を示してください。混乱と混沌の中で、暗黒の権勢に捉えられる歴史的な悲しみの時が来ていることを知っていますので、この時を乗り越えられる一つの基準を定めてください、お父様、切に願い求めます。
人類を導いてこられたイエス様と神様には悲しみが晴れる時がなかったことを知っています。2千年前のイエス様を振り返るとき、彼は誰にも知られない涙を流し、誰にも知られない飢えた生活を送り、誰にも知られない迫害の道で涙を流したことを知っています。
イエス様もこのような歩みをされ、多くの聖徒たちも血の道を気にせず歩み、死の道も気にせず戦い抜いたことを私たちは知っています。
今日、天を向かって礼拝し、生ける祭物を捧げて祝福を受けるべき時が近づいています。全生命を捧げて天の栄光を賛美する時が近づいていますが、天の前に生ける祭物を捧げるあなたの息子娘たちはどこにいるのでしょうか? 栄光の姿で父を喜ばせ、讃美を捧げる姿はどこにあるのでしょうか? そのような姿を求めるお父様の心情を知っています。悲しいことは、あなたの相手を見つけられないこと、栄光の実体を見つけられないことです。このような天の悲しみが、今日私たちが動く足跡を通じて千秋万代の子孫にまで及ぶことを恐れて、少しでもその心を持つことができるように、お父様、歴史を刻んでください。
ここに集まったあなたの息子娘たち、何を期待してここに来たのでしょうか? どんな目的でここに来たのでしょうか? 彼らが行くべき場所はこの場ではなく、お父様の家です。彼らが留まるべき場所はお父様の心の中心です。お父様の玉座に座る者がいるのでしょうか?お父様の心の中に記憶される者がいるのでしょうか? 私たちがそのような姿になれないならば、私たちは多くの悪魔の嘲笑の対象となり、供物となるだけだと知っています。この時間、心を一つにしてお父様の前にひれ伏し、お父様の心に入ることができるようにしてください。
天性に至る道は十字架の道です。そのため、自分の十字架を背負い、ゴルゴタの山頂にまで行き、十字架の流した血の実を持ち、天の前に祭物を捧げることが私たちの使命です。今日、心を整えて、お父様の前に進み出てください。
お父様、この一時間を支配してください。今日、私たちの心情を通じてお父様の悲しみを感じ、お父様のために生ける祭物となるようにしてください。天のすべての息子娘が集まって、あなたの栄光を賛美し、あなたを心から喜ばせる時が来るようにしてください。
神様、私たちはあなたを求め、あなたを知りたいと願います。どうぞ、私たちがあなたの前に自分を捧げ、あなたの心に入り、あなたの願いを実現するために一つとなることができますように。
あなたの永遠の栄光がこの地に現れることを祈りながら、私たちは主の御名によって祈ります。アーメン。
<御言葉>
神様は堕落の歴史が始まった後、長い年月の間、無数の苦労を厭わず、選ばれたイスラエルを支え続け、3千年後に、その時のイスラエル民族が知らないうちに、大いなる希望と期待を持ってサウル王を立てられました。しかし、サウルがその責任を果たせなかったため、神の本来の意図はダビデ王を経てソロモン王の時代まで延ばされました。つまり、サウルを立てて成し遂げようとされた神の意図は、ソロモン王の時代まで120年間も延長されたということです。
ソロモン王は天の意志を受けて神殿を建て、彼の民族を統率して神殿と一体になるべき天的な責任がありましたが、その使命を果たせず、自身も罪を犯したため、民族はサタンによって弄ばれる立場に陥ったことを私たちは知っています。結局、ソロモン王が死んだ後、ヤロブアム王とレホブアム王によってイスラエル(北王国)とユダ(南王国)に分裂しました。神を中心とする一人の指導者が出て、彼が左と言えば一緒に左へ、右と言えば一緒に右へと進むべき選ばれたイスラエル民族が、神の労苦の歴史を経て導かれながらも、天の導きに逆らい、南北の二つの王朝に分裂した悲しい事実を私たちはよく知っています。イスラエルの12部族全体は、天に立ち、一つの祭壇を中心に天と一体にならなければなりませんでした。
ヤコブがハランに向かう際、神はベテルでヤコブに現れて祝福を与え、ヤコブは枕にしていた石を立てて碑とし、神に誓いを立てました。そして、ヤボク川を渡る前にギルアデの山で石の山を築き、神の名をかけてラバンと約束を交わしました。このようにして天から祝福を受けたヤコブから始まったイスラエル民族は、神が権限を行使できる一つの主権国家として、一つの主権民族として一体となり、神殿を支えなければなりませんでした。しかし、その天的な使命を放棄し、12部族は北王国10部族と南王国2部族に分裂しました。この悲しい事実を私たちは単なる歴史的事実として理解してはならないでしょう。
当時のイスラエル民族は、神の涙の3000年の歴史と戦いの道を経て生き残った者たちであり、追われ、侮辱されて残った悲しい民でありました。彼らは先祖たちを虐げた多くの異邦の民や、神の意図を裏切った多くのサタンたちを怨むべき立場を忘れ、同胞同士で血戦を繰り広げました。このような悲しい事実を見つめるイスラエルとユダを前にした神の心情を私たちは考えずにはいられません。
ヨシュアとカレブの導きでカナンの地に入ったイスラエル民族は、ソロモン王を中心に神が宿る神殿を建て、神を迎えなければなりませんでした。それにもかかわらず、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂し、互いに争い、バアル神やアシェラ神を崇拝するに至りました。この惨状を見つめていた神の心情を私たちは理解しなければなりません。
このような歴史を導いてこられた神は、悲しみで胸がいっぱいになり、その悲しみは今日まで続いています。では、その歴史的な悲しみはどこへ行き、民族的な悲しみはどこへ行き、さらに天的な悲しみはどこへ行ったのでしょうか。このような条件が皆さんの心情を囲んでいること、このような条件が天を求める私たちの周りを取り巻いていること、このような条件が私たちの意識世界を超えて、私たちが進むべき方向を正そうとしているという事実を私たちは知りませんでした。
このような悲惨な状況を見ていた神は、ギルアデの地に住む農民の中からエリヤという人を選びました。イスラエルの王もいましたし、10部族の族長もいましたが、彼らをすべて後回しにして、ギルアデの地でただ農民として生活していたエリヤを選ばれたのです。この悲しい事実を皆さんは知らなければなりません。
イスラエルを支配し、天の神殿を通るべきイスラエル王は、その責任を忘れ、天を拒み、民族を侮辱しました。さらに、天の敵であるバアルのために祭壇を築き、アシェラの木像を作って民族の前に立てて崇拝させました。このようなアハブ王を神がどれほど憎まれたかを私たちは考えなければなりません。神はその憎しみの心を抑えきれず、選ばれた民がサタンに虐げられるのを見て、悲しい心を抑えることができず、その悲しい事情と心情を解放するために一人の人を選ばれました。しかし、その選ばれた者は、国の王でもなく、王族でもなく、族長でもない、ただの平民エリヤでした。
神は、求めるべき者を見つけられず、持つべき者を持つことができず、導くべき者を導くことができない立場に置かれ、焦燥感を抱きながら王や族長、そして多くの人々を探し回られましたが、見つけられず、その時代の民族的悲しみと天的な悲しみを知り、憂慮し、天に向かって祈り、嘆き叫ぶ姿を探して、エリヤを選び出されました。
そのようにして立てられたエリヤでした。皆さん!そのエリヤを思い起こしてください。エリヤは、同族からの支援を受けた人でもなく、彼を擁護し、彼の立場と状況を支持する環境を持った人でもありませんでした。彼は天の心情を知り、天の召命を受けて現れた人でした。
彼が当時置かれていた環境は、アハブ王の主権下にある敵の環境でした。そのような環境の中で天の召命を受けたエリヤは、たとえ死んでもこの民族を抱えて死ぬという強い心を持っていました。たとえ死んでも、民族的な摂理の歴史の道で、歴史的な心情を代わりにした先知先烈たちの伝統を尊重しようとしたエリヤでした。さらに、誰よりも神の心情を憂い、涙を流し、民族と歴史を代わりにして涙を流したエリヤであったことを皆さんは思い起こさなければなりません。だからこそ、神はこのエリヤを探し出されたのです。
今日、皆さんにお伝えしたいタイトルは「エリヤに対する天の心情」です。「エリヤに対する天の心情」という内容で、少しの間、お話ししたいと思います。
ご覧ください。神は3千年の悲しい心情を代わりにして、エリヤを見出されました。つまり、多くの先知先烈が歩み感じた歴史的な心情を代わりにして、神ご自身が手を挙げて「イスラエル」と祝福してくださった約束を忘れず、それを心にかけておられた天が、ヤコブ以降、エリヤの時代まで1千年余りの歴史過程を経て、摂理を導いてこられた心情を抱えてエリヤを探し出されたのです。
敵に囚われたイスラエル民族を再び回復するためにエリヤを立てられた神には、悲しみの反面、希望もあったことを私たちは思わなければなりません。
神が選ばれたイスラエル民族がアハブ王とその王妃イゼベルと共に異邦のバアル神を崇拝し、アシェラの偶像を作って汚れていくのを見て、悲しみをこらえきれずにエリヤを召された時、彼は喜んで神の前に出て行くことができませんでした。
エリヤは神が召したからといって、「お父様!その通りです。あなたが望む道を私が進みます。あなたが召されたその意図を私が責任を持って果たします」と言うことができなかったのです。そこで彼は「私は何者でもない平民です。天よ、私よりも優れた族長も多く、王もおり、王族もおり、数多くのイスラエル民族がいる中で、私のような取るに足らない者を選んでくださったのはどういうことでしょうか」と言いました。良心を持つエリヤは、イスラエルを憂う心が大きければ大きいほど、無私の心で天の前に辞退せざるを得なかったのです。
しかし、天は時として、その民族全体を立てることができず、エリヤでなければならないことを知っていたため、エリヤを選ばれました。
したがって、神はエリヤにその使命をすぐに果たすよう命じて追い立てたのではなく、その環境を整理し、様々な形で衝撃を与えて、自然に現れるようにされたのです。
ですから、エリヤが天の召命を受け、アハブ王の前に現れる時、天は「お父様の命令ですから、すぐに行います」という即決ではなく、行こうとしなくても行かざるを得ない状況に追い込み、彼の悲惨さと民族の悲惨さが増していくことを自覚させ、「民族の代わりに私が死にます。族の代わりに私が死にます」という覚悟を持たせた後に、戦いの責任者として立てたという事実を私たちは知るべきです。
私たちの祖先であるノアもそうでした。「120年後に全世界を水で裁くから、あなたは箱舟を作りなさい」という神様の言葉を実行しながら、ノアは内面的な戦いの道のりで神を疑うことも多かったでしょうし、自分自身の弱さを嘆く環境に置かれることも多かったでしょう。しかし、ノアがそうした立場に立てば立つほど、心にしみたのは、この地上の人々が水に流されて裁きを受ける日が近づいているということでした。
また、マリアを見てみましょう。彼女は純潔な乙女であり、イスラエル民族を誰よりも深く心配していた真のイスラエルの女性でした。天が何千年も前から約束していた私たちの指導者メシアはいつ来るのだろうかと、メシアを待ち望む心情がイスラエル民族の誰よりも強い人でした。
メシアを送りたいとする天の心情を知っていたのがマリアでした。このようにメシアを迎えるべきイスラエル民族を代表したマリアの心情を、人々は知りませんでしたが、天は知っていました。このような心の基準をマリアは持っていたのです。
マリアのその心の基準は、民族を代わりに敵を打ち破ろうとするものではありませんでした。苦しみの中で嘆く民族の悲しみを清算するために戦いの勇士として立とうとするものでもありませんでした。天の悲しみがあることを知り、涙を流すことのできる心情、当時の人々は知らなかったものの、民族の背後に悲しみの歴史があったことを知る心情、選ばれたイスラエル民族が神の前に立てない惨めな状況を嘆く心情を持っていたのです。
このように、現れるべき堂々とした姿が現れないとき、その姿が現れることを願って涙を流し、骨に染みる心情を抱いていたことによって、天の歴史的な心情と結ばれることができたため、思いもよらぬときに天使が現れ、「あなたは身ごもり、男の子を産むでしょう…」(ルカ1:31)という、まるで青天の霹靂のような知らせを伝えたのです。しかし、マリアはためらい、「私は男の人を知りませんので、どうしてそのようなことが起こり得ましょうか?」(ルカ1:34)と言いました。すると天使は再び「神にとって不可能なことは何もありません」(ルカ1:37)と言いました。父の御心を成し遂げようとする天使の言葉を聞いたマリアは、ためらわずに「主のはしためです。御言葉通りになりますように」と言ったのです。
このように、天の心情と結びつこうとしたマリアの心情は切実であり、自分の生涯が破滅し、最終的に死を迎えるかもしれない立場に置かれていましたが、「御心のままに」と言ったのです。なぜなら、乙女の身で懐妊したという噂が広まれば、その当時はモーセの律法によってすぐに石打ちの刑にされ、民族から追放され、同族からも受け入れられなくなるからです。そのような環境でも、イスラエル民族の中で誰一人自分を歓迎してくれないことが分かっていながら、マリアは「主よ、はしためです。御心のままに」と言ったのです。
悲しみに染みた内的な心情と現実的な信仰を示す中で、マリアは歴史の主人公であり、時代の主人公であり、未来の主人公であり、世界の人類の主人公であるメシアを誕生させる母となったのです。
同じように、エリヤも天の前に召されました。天が彼を探し出すまで、エリヤは他人が知らない涙を流し続けた涙の王子でした。イスラエルのどの王よりも、イスラエルのどの人よりも多くの涙を流した涙の王子でした。哀れな境遇で涙を流したイスラエルの民がいたとしても、彼らが流した涙は自分自身のための涙でした。しかし、一介の平民であったエリヤが自分の環境や威信を忘れて流した涙は、自分自身を超えた涙でした。彼は「天が導いてくださったイスラエルがなぜこのようになったのか?」という思いが誰よりも強かったことを、皆さんは知るべきです。
エジプトでの400年の苦役を経て、荒野での40年の旅路で60万人の大衆を失った後、カナンの地に入って国家を築いたイスラエルが、異邦の国々によってこのような状況に置かれ、敵に弄ばれ、神に選ばれた選民の権利が崩れ去っていくのを見て、深い悲しみを抱いたのがエリヤでした。彼は誰よりも民族のために熱心に祈り、誰よりも天に向かって誠心誠意を尽くしました。このようなエリヤだけがイスラエルを代表できたため、天は彼を探し出されたのです。
天の前に召されたエリヤは、天から「エリヤよ、エリヤよ」という声を聞いたとき、驚いたことでしょう。彼は「これはどういうことでしょうか?これは夢にも思わなかったことですし、予想もしなかったことです」と言ったことでしょう。このように恐れ多くも大いなる使命に向かうとき、天は「私がいるから、行ってアハブ王に警告しなさい」と言われました。天のその言葉に、エリヤは天に代わってアハブ王と戦うことになったのです。
異邦の国から来た王妃イゼベルによって持ち込まれたバアルとアシェラの木像のために、裁きの日が遠からずやって来ることを心配していたエリヤは、長年、天の悲しみと民族を抱えて悲しんでいたため、天の命令に対し「父よ、民族が救われるなら、この身が犠牲になってその事業を遂行いたします」と言って立ち上がったのです。このように天の命令を受けて、アハブ王に向かって出発したその日から、エリヤの生活に「喜び」という言葉は存在しませんでした。彼は見たことのない現象を見なければならず、聞いたことのないことを聞かなければならず、食べることや着ること、寝る環境も快適ではなかったことを、皆さんは知るべきです。
エリヤはアハブ王に、異邦の神々を崇拝すれば滅び、飢饉が訪れ、飢えに苦しむだろうと予告しましたが、アハブ王は彼の言葉を聞かず、むしろエリヤを殺そうとしました。そこでエリヤは逃げ、ケリテ川に避難しました。そのとき、エリヤの心情も限りなく悲しかったのです。
もし天を知らなければ、彼には横になれる家もあり、親もあり、親戚もあり、兄弟もいたでしょう。住む土地もあり、彼を認めてくれる環境も持っていたでしょう。しかし、天を頼りに進んだその日から、彼は思いもよらぬ谷に避難しなければならない身の上になったのです。
それでもエリヤは天を恨むことはせず、アハブを恨みましたし、民族を恨むことはせず、イゼベルを恨みました。そのように追われ、困難な状況にあっても、天への忠誠心がなかったならば、エリヤはその環境を捨てたでしょう。しかし、エリヤは自分の環境が厳しくなればなるほど、さらに天の悲しみを抱き、民族を抱きました。天を抱き、悲しむ生活が、一時の喜びを感じる生活よりも価値があることを知っていたエリヤだったため、歴史的な先祖たちの功績を捨てず、自分の苦しみを顧みず、天の前に近づき、さらに近づいていったのです。
それでもなお、エリヤは兄弟が自分を思ってくれる以上に天が自分を思ってくれ、親族が心配してくれる以上に天が自分を心配してくれ、親が心配してくれる以上に天が自分を心配してくれることを知りませんでした。いつも、過ぎた後に天の心情を知ることができたのです。これが、天を求めていく者たちが抱える悲しい事情です。
エリヤは、ケリテ川に避難していたその環境の中でも、新たに決意を固めました。アハブとイゼベルを打ち倒し、イスラエル民族を救うために避難していたエリヤの切ない心情を人々は知りませんでしたが、カラスが食べ物を運んできました。このように飢えに耐えながらも、天の心情を知ることのできる仲間を見つけようと決意していたエリヤのことを、皆さんは知るべきです。
彼は、生死の岐路に立つ民族のために天の悲しみが染み込んでおり、その染み込んだ心情が強まるにつれて、裁きの日が来ることを知っていました。しかし、それを一人で背負うことはできないと感じれば感じるほど、天の意志のために自分を犠牲にできる同志をエリヤは求めていたのです。民族を愛する気持ちが大きいほど、自分の前に現れる同志たちを愛したいと願い、天を愛する気持ちが大きいほど、自分の前に現れる同志たちを愛したいという思いに駆られていたエリヤでした。
そのようなエリヤの心が、民族を救うことのできる心であり、民族を救える仲間を集める心でした。また、天と人間を結びつけることのできる切実な心でした。エリヤがそのような心情を持っていたため、天は彼を選び、彼を導いたのです。
一度、飢えたエリヤが天の導きでサレプタの寡婦の家に行き、パンをもらって食べましたが、その哀れなエリヤを助けてくれた寡婦は、自分が食べた後に残った小麦粉でパンを作ったのではなく、一食分しか残っていない小麦粉でパンを作ってくれました。そのため、その後サレプタの寡婦は食糧に困らなくなったという事実を、私たちは知っておかなければなりません。
エリヤがサレプタの寡婦の家に滞在していたとき、その寡婦の息子が病気で重篤な状態になり、息を引き取りました。寡婦はその子を抱いてエリヤに訴えました。その寡婦の切実な訴えを聞いて、エリヤが天の前に祈ると、死んでいた子供が生き返りました。また、カルメル山の頂上では、バアルの預言者とアシェラの預言者800人を捕らえて殺しましたが、これは偽りの神と真の神を明確に区別するための一大決戦でした。
このような立場において、エリヤは神が民族を愛しておられるために自分を召されたことを知りました。神が自分を召されたのは、敵を憎む神に代わって戦うためであることを知ったのです。民族を代表して召され、神に代わってバアル神やアシェラ神の預言者たちと戦う責任者として召されたことを知り、エリヤは、水に濡れた祭壇に天から火が降りて燃え上がったとき、バアル神の預言者とアシェラ神の預言者800人を捕らえて殺しました。この出来事が終わった後、飢饉と飢えで嘆いていたイスラエル民族を哀れに思ったエリヤは、カルメル山の頂上に上り、命をかけて天の前に7度も繰り返し訴えました。すると、アハブ王が戻る前に雨が降るという現象が起こりました。
この歴史を通じて、アハブ王とイスラエルの民は生ける神を知り、自分たちが崇めていたバアル神が偽りの神であることをはっきりと知り、悔い改めてエリヤの後に従うべきでした。しかし、彼らはエリヤに従いませんでした。アハブは民衆の中に入り、イゼベルにそのことを詳しく報告しました。すると、イゼベルはエリヤに「お前が剣を振るって殺したバアルの預言者たちと同じ運命にお前もなるだろう」という伝言を送りました。
それを受けたエリヤは、イスラエルの国境を越えてユダのベエルシバに到達し、そこに従者を残して荒野に入ってさらに一日の道のりを進み、ロデムの木の下で天の前に祭壇を築いて祈りました。
イスラエルの国境を越えて期待していたユダの地に行きましたが、進むべき道が閉ざされました。選ばれたイスラエルを救うために自分が召されたことを知ったエリヤは、数々の逆境と多くの戦いの道のりを経て、尽力できる限り尽力しましたが、実績を残すことはできませんでした。それでユダの地へ逃げて行きましたが、行くべき道が閉ざされたエリヤは膝をついて、「天よ、あなたが送られた預言者たちはすべて殺されてしまい、私が立てられましたが、天を求め、天に向かおうとする心情を持った者を見つけることができず、また彼らが私を捕えようとしています。私はもうこれ以上進むことができません。どうか私を殺してください」と言いました。
こうしてエリヤは、絶望的な状況に陥りましたが、天は彼を見捨てませんでした。その瞬間、天使がエリヤに現れ、「起きて食べなさい」と告げました。エリヤは目を開けてみると、頭のそばに焼いたパンと水が置かれていたのです。エリヤはそれを食べて力を得ました。しかし、それでも彼の旅路は終わっていませんでした。天の命令に従ってエリヤは40日間と40夜、ホレブの山まで歩き続けました。
ホレブ山に到達したエリヤは、神の山にある洞窟に入り、そこで夜を過ごしました。その時、天の声が彼に語りかけました。「エリヤよ、ここで何をしているのか?」と。エリヤは答えました。「イスラエルの子らはあなたの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。私はただ一人残されましたが、彼らは私の命も取ろうとしています」と。
神はエリヤに、外に出て山の上で立つように命じました。その瞬間、大風が山を裂き、岩を砕くほどの激しい風が吹きましたが、神はその風の中にはいませんでした。次に地震が起こりましたが、神はその地震の中にもいませんでした。さらに火が降り注ぎましたが、神はその火の中にもいませんでした。そして、その後に、静かな細い声が聞こえてきました。それが神の声でした。
神はエリヤに再び問いかけました。「エリヤよ、ここで何をしているのか?」と。エリヤは再び同じ答えをしましたが、神は彼に使命を与えました。ダマスカスの荒野に戻り、ハザエルに油を注いでアラムの王とし、エリシャを後継者として油を注ぐように命じたのです。そして、エリヤは神の命令に従い、エリシャを見つけ出して弟子としました。
こうして、エリヤは神に対する忠誠と信仰を示し続けましたが、彼の時代が終わりを迎える時が来ました。エリヤは火の戦車に乗って天に引き上げられ、地上を去ることとなりました。彼の後を継いだエリシャが、その使命を引き継いでいったのです。
エリヤの物語は、困難な状況においても神に忠誠を尽くし、信仰を持ち続けることの重要性を教えています。彼のように、天の声に従い、神の意志を全うする者は、最終的に神の祝福を受けるという教訓を私たちは学ぶことができます。
エリヤが天に引き上げられた後、彼の後継者であるエリシャはその使命を引き継ぎました。エリシャはエリヤから受け継いだ力を使い、数々の奇跡を行いました。まず、エリヤのマントを拾い、ヨルダン川の水を打つと、川の水が二つに分かれ、彼は川を渡ることができました。これにより、エリシャがエリヤの後継者として神の力を受け継いだことが明確に示されました。
その後も、エリシャは人々の病を癒し、飢饉の時には食糧の奇跡を行い、神の力を示し続けました。彼は神に忠誠を尽くし、エリヤのように天から与えられた使命を果たしていきました。このようにして、エリヤが果たすことのできなかった使命はエリシャによって引き継がれ、神の計画は続けられたのです。
エリヤとエリシャの物語は、神が選んだ者たちが苦難に直面しても、神の計画を信じ、最後まで忠実であり続けることの重要性を教えています。彼らの信仰と忠誠は、私たちにとって模範であり、私たちもまた、自分たちが置かれた状況の中で、神の導きに従い、与えられた使命を全うすることが求められているのです。
神は、彼らのように信頼に足る者たちを選び、彼らを通して神の意志を成し遂げていくのです。私たちもまた、エリヤやエリシャのように、たとえ困難に直面しても、神の力と導きを信じ、忠実に歩み続けることが求められています。そうすることで、私たちもまた、神の大いなる計画の一部となり、歴史に名を刻むことができるのです。
ここで、エリヤとエリシャの物語が締めくくられますが、彼らの信仰と献身は、私たちにとって今日でも重要な教訓を提供しています。
エリシャがエリヤから受け継いだ使命は、単に奇跡を行うことだけでなく、神の民であるイスラエルを導く霊的な指導者としての役割も含まれていました。エリシャの生涯には、いくつかの重要な出来事がありますが、その一つは、ナーマンの癒しです。
ナーマンはアラム王国の軍の司令官で、権力も富も持っていましたが、彼は重い皮膚病に苦しんでいました。彼の妻の召使いであったイスラエルの少女は、エリシャがその病を癒せることを知っていたため、彼に会いに行くよう助言しました。ナーマンは最初、エリシャが自分を直接癒してくれるものだと思っていましたが、エリシャは使者を送り、「ヨルダン川で7回身を洗いなさい」と指示しました。
ナーマンはその簡単すぎる指示に怒り、すぐに帰ろうとしましたが、彼の部下たちが「もし難しいことを言われてもやったでしょう?それなら、言われた通りにすればいいではありませんか」と諭しました。ナーマンは結局、エリシャの言葉に従い、ヨルダン川で7回体を洗った結果、病は完全に癒されたのです。この出来事は、信仰と従順が奇跡をもたらすという重要な教訓を私たちに示しています。
また、エリシャがかかわったもう一つの出来事は、飢饉の時の食料の奇跡です。飢饉に見舞われたイスラエルでは、人々が食べるものも乏しくなり、飢えに苦しんでいました。しかし、エリシャは人々に信仰を持って食料を集めさせ、それを祝福しました。その結果、わずかな食料が奇跡的に増え、多くの人々を養うことができました。この奇跡もまた、信仰と神の力が困難を乗り越える手段となることを示しています。
エリシャの生涯は、神の導きと力があれば、いかなる状況においても人々を助け、救うことができるという強いメッセージを伝えています。彼は決して自分の力に頼るのではなく、常に神に祈り、神の意志に従って行動しました。その姿勢こそが、彼を偉大な預言者として歴史に刻まれる存在にしたのです。
エリシャが亡くなった後も、彼の影響力は続きました。死後に埋葬されていたエリシャの墓に他の死者が葬られた際、その死者が蘇るという奇跡が起きたのです。エリシャの生涯は、生と死を超えて、神の力がどれほど偉大であるかを示すものでした。
エリシャの物語を通じて、私たちは神に対する絶対的な信頼と従順の重要性を学びます。彼のように、たとえ困難な状況に置かれても、神に頼り、神の導きに従うならば、奇跡が起こり、私たちもまた神の計画の一部となることができるのです。
神は時代ごとに忠実な僕を選び、その僕を通じて歴史を導いていかれます。私たちもまた、そのような神の僕としての役割を果たすことができるよう、エリヤやエリシャの信仰に学び、日々神に忠実であり続けることが求められています。
エリヤとエリシャの物語は、単なる歴史の一部ではなく、今日の私たちに対しても深い示唆を与えるものです。
エリシャの物語が終わった後も、神の預言者たちによる導きは続きます。エリシャの後継者たちも神の計画に従って、イスラエル民族を導き、神の意志を成し遂げていきました。これらの預言者たちの使命は、常に神の民を正しい道へと導き、彼らが神と共に歩むことができるようにすることでした。
しかし、イスラエルの民がしばしば神の教えに背き、偶像崇拝や不義に陥ることがありました。そんな中で、預言者たちは神の警告を伝え、民が悔い改めるように導く役割を果たしていました。彼らは時には迫害を受け、苦難に遭遇することもありましたが、それでも信仰を失わず、神の言葉を忠実に伝え続けました。
特に預言者イザヤやエレミヤなどは、イスラエルの民に対する神の憐れみと裁きについて多く語りました。彼らはイスラエルが悔い改めない限り、神の裁きが下されることを警告しましたが、それでも神は彼らを完全に見捨てることなく、常に救いの道を用意していると伝え続けました。彼らの預言には、神の深い愛と正義が込められていたのです。
また、預言者ダニエルの時代には、バビロン捕囚という大きな試練がイスラエル民族を襲いました。ダニエルとその仲間たちは、異国の地で強い信仰を持ち続け、神に忠実であり続けました。彼らがライオンの巣や火の炉の中に投げ込まれるという厳しい試練に直面しても、神は彼らを守り、救い出されたのです。この出来事は、神の信頼に値する者は、いかなる困難の中でも神の守りを受けることができるということを強く示しています。
さらに、神が選ばれた預言者たちは、メシアの到来を預言しました。彼らは、イスラエルの民を救うために、やがて神が約束した救世主が現れると告げました。これらの預言は、旧約聖書の中心的なテーマの一つであり、イスラエル民族にとって大いなる希望の源でした。このメシアの約束は、やがてイエス・キリストの到来によって成就されます。
イエス・キリストが現れた時、彼はイスラエルの失われた羊たちを探し出し、神の愛と救いを伝えました。彼の教えと行動は、すべての人々に対する神の愛と憐れみを示しており、彼の生涯は預言者たちが伝えた救いの成就そのものでした。イエスは十字架上で命を捧げることで、人類の罪を贖い、神との和解をもたらしたのです。
イエスの死と復活は、神の救いの計画の完成であり、すべての人々に永遠の命をもたらすものとなりました。彼の生涯と教えを通じて、私たちは神の深い愛と救いの計画を知ることができ、今もなお私たちに対する神の約束が生き続けていることを確信できます。
エリヤからエリシャ、そしてメシアに至るまで、神の救いの計画は途絶えることなく進んでいきました。私たちもまた、神の導きに従い、信仰を持って神の計画の一部となることができます。歴史を通じて神が示された愛と憐れみを忘れず、日々の生活の中で神に忠実であり続けることが重要です。
私たちは、神がすべての時代にわたって忠実な僕を選び、彼らを通じて神の意志を成し遂げてきたことを学びました。そして、その救いの計画は、私たち一人ひとりにも関わるものであり、私たちもまた、その一部となることができるのです。
このように、神の救いの歴史は、預言者たちを通じて続き、最終的にはメシアによって完成されました。私たちはこの歴史に学び、神の愛と憐れみに感謝し、信仰をもって神と共に歩んでいくことが求められています。
我々の先祖であるノアもそうでした。神は「120年後に全世界を水で裁くので、あなたは方舟を作りなさい」とおっしゃいました。ノアはこの神の言葉を実践しながら、内面的な戦いの過程で天を疑うことも多かったでしょうし、自分の弱さを嘆く環境に置かれることも多かったでしょう。しかし、ノアがそのような立場に立つほど、心に深く刻まれていたのは、この地上の人々が水に流される裁きの日が近づいているということでした。
また、マリアを見てみましょう。彼女は純潔な乙女であり、イスラエルの民を誰よりも深い心で思っていたイスラエルの真の女性でした。天が数千年前から約束していた我々の指導者メシアはいつ来るのかと、メシアを待ち望む心がイスラエルの民の誰よりも強い人でした。
メシアを送ろうとする天の心情を理解していたマリア。イスラエルの民を代表してメシアを迎えなければならないその心情を、人々は理解できませんでしたが、天は知っていました。マリアはそのような心的基準を持っていたのです。
マリアの心的基準は、民族を代表して敵を打ち砕こうとするものではありませんでした。苦しみの中で呻いている民族の悲しみを清算するために戦う英雄になろうとするものでもありませんでした。天の悲しみがあることを知り涙を流す心、当時の人々が知らなかったが民族の背後には悲しみの歴史の道程があったことを知る心、選ばれたイスラエル民族が神の前に立てない惨めな状況を嘆く心を持っていたのです。
そのように現れるべき立派な姿が現れないとき、その姿が現れることを望み涙を流し、骨に染み入る心情を持っていたため、天の歴史的心情と縁を結ぶことができたのです。そのため、予想もしない時に天使が現れて「あなたが身ごもり、子を産むことになるでしょう」と(ルカ1:31)青天の霹靂のような告知をされたのです。しかし、マリアが「私は男を知りませんので、どうしてこのことがあるでしょうか?」(ルカ1:34)とためらうと、天使は再び「神のすべての言葉にはできないことはない」(ルカ1:37)と言いました。その言葉を聞いて、マリアはためらうことなく「主の僕女ですので、御心のままにおなりください」と言ったのです。
このように天の心情と縁を結ぼうとしたマリアの心情は切実であり、彼女の生涯が破滅し、最終的に死を迎えるかもしれない状況に置かれても「御心のままにおなりください」と言いました。なぜなら、処女の体で妊娠したという噂が広まると、当時はモーセの律法により即座に石で打たれて死ななければならず、民族から追放され、部族から受け入れられないからです。そのような環境でも、イスラエル民族の中で誰一人として彼女を歓迎しないかもしれないが、マリアは「主よ!僕女ですので、御心のままにおなりください」と言ったのです。
悲しみに満ちた内面的な心情と実際の信仰を示すことで、マリアは歴史的な主人公であり、時代の主人公であり、未来の主人公であり、世界的な人類の主人公であるメシアを生む母親となったのです。
同様に、天の前にエリヤは呼ばれました。天が彼を探すまで、エリヤは他の誰も知らない涙を流した涙の王子でした。イスラエルのどの王よりも、イスラエルのどの人よりも多くの涙を流した涙の王子でした。かわいそうな立場で涙を流したイスラエルの民がいたとしても、彼らの涙は自分自身のための涙であり、エリヤは平民でありながら自分の環境や名声を忘れて流した涙は、自分を超えた涙でした。彼には、天が導いてくれたイスラエルがなぜこのようになったのかという心が何よりも大きかったことを皆さんは知っておくべきです。
エジプトでの苦役400年を経て、荒野の40年の道程で60万人を失い、カナンの地に入って国家を作ったイスラエルが、異国の国によってこのようなことをされ、敵に嘲笑され、神の選ばれた民の権利が衰退するのを見て、エリヤは悲しみの心を持っていました。彼は誰よりも民族のために熱心に祈り、誰よりも天に対して精を尽くしました。そのため、天は彼を探したのです。
天の前に呼ばれたエリヤは、天から「エリヤよ、エリヤよ!」という言葉を聞いたとき、驚いたことでしょう。彼は「これは何の理由ででしょうか?これは夢にも思わなかったことであり、予想もしなかったことです」と言ったことでしょう。このように驚きながらも偉大な意義に向かって立ち上がると、天は「私がいるので、行ってアハブ王に勧告しなさい」とおっしゃいました。天のその言葉に応えて、エリヤは天に代わってアハブ王と戦いました。
異国の国から来た王妃イゼベルを通じて持ち込まれたバアルとアシェラの偶像によって、すぐに裁きの日が近づくことを心配していたエリヤは、長年天の悲しみと民族を抱きしめて悲しんでいたため、天の命令に「父よ、民族が生きられるのならば、この身が犠牲となってその仕事を遂行します」と立ち上がったのです。そのように天の命令を受けてから、アハブ王に向かって出発したその日から、エリヤの生活には喜びという名詞は存在しませんでした。彼は予想もしない現象を見なければならず、聞くことも考えもしなかったことを聞かなければならず、食べたり着たり寝たりする環境も快適ではなかったことを皆さんは知っておくべきです。
エリヤはアハブ王に対して異国の神を崇拝すれば滅び、飢饉が来て飢えが訪れると予告しましたが、アハブ王は彼の言葉を聞かず、逆にエリヤを殺そうとしました。すると、エリヤは逃げてクリト川に避難しました。その時、エリヤの心情も無限に悲しかったのです。
天を知らなければ、彼には寝る家があり、親があり、親戚があり、兄弟がいたでしょう。生きる土地もあり、自分を認めてくれる環境もあったでしょう。しかし、天を信じて立ち上がったその日から、彼は予想もしなかった谷に避難しなければならない身となったのです。
それでもエリヤは天を恨むことはなく、アハブを恨むこともなく、民族を恨むこともなく、イゼベルを恨みました。そのように追われ、追い詰められる環境で、天に対する忠誠の心がなければ、エリヤはその環境を見捨てたでしょう。しかし、エリヤは自分の環境が締め付けられるほど、ますます天の悲しみを抱き、民族を抱きしめました。天を抱きしめて悲しむ生活が、しばらくの間の喜びを感じる生活よりも大きいことを知っていたエリヤは、歴史的先祖たちの功績を見捨てることなく、自分の苦痛を気にせず、天の前に近づき、さらに近づきました。
それでもエリヤは、兄弟が思ってくれる以上に天が自分を思ってくれることを知らず、親戚が心配してくれる以上に天が心配してくれることを知らず、親が心配してくれる以上に天が自分を心配してくれることを知らなかったのです。いつも過ぎ去った後に天の心情を知ることが、これが天を求める悲しい事情です。
天の計画を管理する神が、信じて呼び立てられた目的を達成するために努力し、民族を導いたエリヤが、悲しい状況で「父よ、私だけが残りました!」と訴えるのを見守る天は、さらに増した悲しみを感じたという事実を私たちは理解しなければなりません。
天は、追われて避難しているエリヤを、数多くのイスラエル民族よりもさらに貴重に感じ、イスラエルの地に置かれていた希望よりも大きな希望を彼に持たせました。疲れ果て、希望も断たれ、進むべき方向も見失った荒野で最後の決断を下すように訴えたエリヤを、私たちは考えてみるべきです。さらに、イスラエル民族を導いた神、エリヤを呼び立てるために苦労された神、エリヤが困難に陥ったときにさまざまな形の奇跡で助け、家から彼を支えた神を知るべきです。ここで、エリヤに対する天の心情が悲しみに沈んだことを、皆さんは理解するべきです。
ユダの地にも留まることができないことを悟ったエリヤは、40日夜を歩いてイスラエル民族がエジプトから出るときに神が彼らに祝福を与えた山、彼の先祖たちが天と縁を結んだシナイ山近くのホレブ山に逃げました。エリヤが国境を越えなければならないことを知っていた神も、逃げるエリヤの道が遠く、彼が進む道に友も同情者もないことを知っていました。そこで、神はロデムの木の下で眠っているエリヤに、天使を通して炭火で焼いたパンと一瓶の水を与え、食べるように命じました。
エリヤはそれを食べて再び力を得て、天の悲しみと民族の悲しみを抱え、敵を討つための憎悪を抱き、悲しみの地であるイスラエルに向かって駆け出さなければなりませんでした。それにもかかわらず、エリヤは反対にホレブ山に逃げたのです。
そうして40日夜を歩いてホレブ山のどこかの洞窟で眠るエリヤは、敗北者のような哀れな状況になりました。神が導く道を逸れて、自身の安全を守るために逃げて洞窟で眠っているエリヤを、天は再び訪れました。眠っているエリヤに神は「エリヤよ、ここで何をしているのか?」と尋ねました。エリヤは「天を熱心に考えています。しかし、私は先祖たちよりも弱い者です。」と答えました。その言葉は神を慰めるものではありませんでした。しかし、神は眠っていたエリヤを山に立たせ、さまざまな形で警告しました。強い風で、または地震で、または火の中で警告されたのです。
しかし、神は直接エリヤの前に現れませんでした。その後、静かな中で神は現れ、エリヤを呼びました。エリヤは答えました。「父よ、あなたの預言者たちがすべて彼らの手によって死に、イスラエル民族の前に私だけが残りました。行きたいけれど行けません。追われ、追い詰められたこの場所で、私はどうすればよいのでしょうか?」しかし、神は再び「イスラエルはアハブの手中にあるが、その中に割礼を守り、バアルに屈しない7000人がいる。彼らをどうするのか?」とおっしゃいました。「アハブ王の下で苦しむ、バアルに屈しない7000人はどうするのか?」これがエリヤに対する天の悲しい心情でした。
ここでエリヤは再び決心し、天の命令に従ってダマスカスに戻り、ハザエルとイエフに油を注いで王とし、エリシャに油を注いで自分の後を継ぐ預言者としました。
エリヤは足を返し、バアルに屈しなかった残りの7000人を天が心配していることを知り、新たな決意をしました。
同様に、今日、摂理の意図に応じているすべての人々は、苦労の道を歩んでいます。血の涙の道を歩んでいます。十字架を背負って迫害の道を歩んでいます。この悲しみと憤り、悔しさの状況は誰のために生じたのでしょうか?それは民族のためであり、さらに神の6000年の敵であるサタンのためであることを理解しなければなりません。
悲しみと苦痛が押し寄せ、迫害の嵐が吹き荒れる状況に置かれる原因は何でしょうか?それは民族を救うためであり、天を解放するためです。しかし、天の意図に応じる人々もそのような神の心情を感じるのは難しいのです。
イエスは教団から追われ、民族からも追われました。教団からは異端者、律法の破壊者と見なされました。彼は自分の民族からも追われ、家からも追い出されました。ヨハネの一団からも追われました。荒野に出ても、そこでもサタンに追われました。それで終わりではありませんでした。後には全体が動員されて、十字架の道、ゴルゴタの道に追いやられました。
しかし、反逆者として追われる民族のために、むしろ涙を流したのがイエスでした。イエスはユダヤ教団から異端者と見なされましたが、イスラエルのどの祭司よりも彼らのために多くの血の涙を流した人でした。その時代のどの人も彼の味方にはならなかったが、イエスはその時代の友でした。民族の反逆者として追われながらも、民族の忠臣であり、教団の異端者として追われながらも、教団の忠臣でした。
彼の歩みはどのようなものでしたか。引き裂かれ、追われ、倒れる、十字架を背負った悲惨な歩みでした。それだけではありませんでしたか。無謀な悪党たちが鞭を持って追い立てる状況にも直面しました。このような状況で、もしイエスがエリヤのような人であったなら、「父よ、私だけが残りました。」という祈りをしたかもしれません。
しかし、イエスはゲッセマネの園で三人の弟子を後に置いて祈るときに、「我が父よ、もしできることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の意志ではなく、父の意志を行ってください。」(マタイ 26:39)と言いました。これが偉大です。自身の状況も悲しい中で、自分自身は民族の犠牲であり、人類の犠牲であり、天の理の犠牲であることを知っていました。
このことを知っていたイエスは、自身の悲しみも悲しみですが、天の悲しみがどれほど大きいかを心配していました。民族のために現れながらも、民族の前で裏切られる自分を見る天の悲しみがどれほど大きいかを心配していました。イエスは天の王子であり、万宇宙の主人公であり、メシアでした。そんな「イエスが悲惨な十字架の運命にどうしているのか?」と嘆くならば、この宇宙を動員して嘆くことができたでしょうが、嘆くことができない自分であると感じたため、追われる立場に立つことに恥じたのです。
教団をまとめ、民族をまとめて天の王国を築き、世界を父の懐に抱きしめる責任を担ったイエスは、その責任を果たせずに十字架の道を歩むときに、恨みを感じることはありませんでした。「この杯を避けさせてください。」と祈ったのも、自分の死が悲しいからではありませんでした。自身の死によって民族の悲しみと天の悲しみがさらに増すことを知っていたからこそ、そう祈ったのです。
イエスは自分が十字架に倒れると、後世の世界人類にさらに増す十字架が残り、そのために悲しみの歴史が終わらないことを知っていました。ゴルゴタの道が終わらないことを知っていました。死の道が終わらないことを知っていました。そして、自分がゴルゴタの道を行けば、自分に従う者たちもゴルゴタの道を歩まなければならないことを知っていました。十字架だけでなく、さらに困難な道が残ることを知っていたイエスでした。
両手両足に釘が打たれ、脇腹に槍で刺されて血を流す状況、いばらの冠をかぶる状況に立つときでさえ、これが自分に止まらないことを知っていたにもかかわらず、イエスは天に向かって「すべてが成し遂げられた」と言いました。その言葉は人間の世界における十字架の道が全て終わったという意味ではありませんでした。十字架のために涙を流し、心配する気持ちの訴えが天と通じたということです。
イエスは数多くの先祖たちが天の前で犯したすべての過ちを背負い、天を慰めるために自分自身が生け贄として天の前に捧げられたという事実を、皆さんは知っておくべきです。
それでは、ここでイエスに対する神の心情はどうだったのでしょうか?死にゆくイエスの姿、天を心配しながら十字架の坂を越えていくその姿を見たとき、人間世界に怒りがあったとすれば、それ以上の怒りがないでしょうし、天の4000年の歴史の中に怒りがあったとすれば、それ以上の怒りがないでしょう。
しかし、イエス自身は死にゆく中で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかを知らないのです。」と言いました。神は直ちにノアの時代以上の審判をしたい気持ちがありましたが、イエスが民族を守り、教団を守り、十字架を守って死んだので、神は人間たちを見捨てることができず、つかみ続けているのです。このような心の繋がりが後世の人間、残されたイスラエル民族と結びついていたため、裏切る後世の人間たちを見捨てることができず、つかみ続けているのです。裏切る後世の教団をつかみ続けているのです。
後代に生まれた私たちは、今、こうした天の心情を理解しなければなりません。イエスはこのような心情で天を迎えたく、こうした生涯を送りたいと望んでいました。イエスの族であり、イエスの後継者であり、イエスの偉業を継承しなければならない私たち、天の前に栄光の実体として誇れるべき私たち、こうした使命と責任を担い、天の期待に応えて立つ今日の私たちは、今何を求め、何を感じ、何をすべきかを考えなければなりません。
私たちは今、さらに何を考えなければならないのでしょうか?イエスの友となり、イエスの花嫁となるようにとの教えに従い、そのような人になることを考えなければなりません。さらに、私たちは先祖たちが天の前に抱えていた歴史的な恨みを解消しなければなりません。そして、死の嘆きの因縁を後代に残さず、戦いの道を死のゴルゴタに残さず、勝利のゴルゴタとして残すことができるようにしなければなりません。天はこのような責任を担う者を探していることを知っておくべきです。
この終末の使命が信者たちにあるとするなら、審判の日を待ち、復活の主を求めて栄光の場に立ちたいと願う私たちは、イエスの心情とノアの家庭に対して天が抱いた悲しい心情を理解しなければなりません。天の前に立ったノアが120年間の労苦の末に洪水の審判を免れたとき、天は残されたノアの八人の家族を通じてその間の恨みを解消しようとしましたが、ハムの失敗により再び嘆きの条件が残ったことを知り、ノアの家庭の悲しみを再び解消できる者となるべきです。
アブラハムは犠牲の失敗により息子イサクを犠牲として捧げなければならず、彼の子孫はカナンの地を離れてエジプトに入り、400年間の苦役時代を過ごしました。
天はイスラエル民族をカナンの福祉へと戻すためにモーセを立てて努力させましたが、その復帰の過程でイスラエル民族は何度も天を裏切りました。それ以後、多くの先祖たちがその意志を貫こうとしていますが、天から「よろしい。お前が意志を成し遂げた。私の願いを成し遂げた」との称賛と祝福を受けた者はいませんでした。
このように先祖たちによって悲しみに満ちた天の心情を理解し、今日の言葉のように、アハブ王の前であらゆる迫害と抑圧を受けたエリヤのような立場に立つとしても、晩年の人生として消え去るとしても、自らの境遇を嘆かず、ただ神をつかんで進まなければなりません。
ゲツセマネの園とゴルゴタの山頂でイエスが抱いた心情をエリヤが抱いていたなら、そして天と縁を結んでいたなら、天はそこから歴史的な悲しみの一端を解消したでしょう。しかし、そうすることができなかったために、天の悲しみはイエスにまで延長されたのです。
しかし、イエスの死によってこの意志は解消されることなく、今日まで延長されていることを私たちは知っています。
今日、世界で起こっている現象を見ると、それはかつてイスラエルのアハブ王の時代に起こった現象と匹敵するものです。偶像とは何ですか?天を捨てて他の何かを崇拝し、それを神よりも高くすることが偶像です。しかし、今日の多くの人類は、自分が知らない間に文明という偶像の下にあることを私たちは知っておかなければなりません。
このような時に、アハブ王を見守っていたエリヤのような心情を持ち、すなわちアハブ王を見て天の悲しい心情を内的な心情に重ねて感じる者がいるとするなら、エリヤ以上の激しい心を持ってこの時代を見守り、「この地を天の懐に抱くことができる愛する子供たちにしてくださいますように」と祈る者がいるなら、その者はエリヤ以上の激しい心を持ってこの時代を見守るべきです。そのような者がいないなら、自分がいかに下位であっても、先祖たちが天の意志を受けて天の道を築き、摂理の伝統を築いて摂理しようとする神の歴史が残っていることを知り、自分がいかに不足していても不足と考えず、他人の知らないところで祭壇を築き、他人の知らない涙を流す者となるべきです。このような者がこの地に現れ、戦わなければ、この世界の終末的な形を阻むことはできません。
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