人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集5(14)

2024年09月14日 17時09分59秒 | 日記


文鮮明先生御言葉選集 5 - 14. 「歩みを止めて守ってくださる方を再び見つめよう」(1959年3月8日)


1959年3月8日(日)、前本部教会


聖書拝読:詩篇: 121篇








<祈祷(Ⅰ)>
命を司る父なるお父様、私たちは不甲斐ない姿であなたの前に集まりました。どうか私たちをお受け入れください。あなたの正しいご意思に従って、私たちを導いてください。


命の源である父なるお父様に賛美を捧げたいと願いますが、死の力に縛られた罪の本性が今日まで私たちを支配しています。新しい領域へと私たちを導くため、救いの摂理を行ってこられた父なるお父様、この時、現れてくださり、死の力を取り除き、生命と復活の賜物をお与えください。


永遠なる父なるお父様、この一時が、創造の価値を持つ生命体として動くことができる時間となるようお許しください。倒れた私たちが、あなたの限りない善を歌い、限りない美を称える賛美の姿となれるように、心から願い、求めます。


人類の祖先の堕落によって、天と地の命のつながりが断たれ、天使の代わりに賛美を捧げるべきだった天使長は、天を裏切ることでその責務を果たせなかったことを知っています。


今日、私たちは呼ばれました。賛美を受けられなかったことで積もったお父様の怨みを、私たちを通じて晴らしてください。言葉にできなかった内なる事情を、私たちと共に分かち合ってください。そして、人々と天をつなぐ存在として、私たちを立ててくださるよう、心から願い求めます。


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創造の喜びを私たちと共に分かち合おうと待ち望んでこられた父なる神様の前に、全ての忠誠を捧げ、生命の実体として、あなたと絆を結べるように、導いてください。


天は真心から賛美を捧げる者を探しておられます。今日、私たちが真心の協力者としてお父様なる神の前に立つことを待ち望んでおられるという事実を、本日、私たちに教えてください。私たちが全てを主管するために、創造の理想を立て、これまでご苦労されてこられたお父様の心情を感じ、無限の協力者、無限の賛美者、無限の恩恵を受ける存在として、私たちが立てるようにしてください。


不甲斐ない私たちが、お父様の前に集まったことを、私たち自身の力だけでは、天が求めるいかなる条件も満たすことができないと知り、私たち自身を超えて、お父様の心情を感じ取り、お父様の事情を理解できる者となれるよう、心から願い求めます。


一週間の間に、意図せずにお父様の御心に背くことが多かったことを知っています。この時だけでも、お父様が望まれる真の基準を立てることができるようにお許しください。善の実体として、お父様の愛の懐に抱かれるこの一時をお与えください。


この日は聖なる日です。どうか全ての人々を祝福し、この哀れな民族をも祝福してください。孤独な家庭を、あなたの恵みの懐に抱きしめてください。


    2


私たちの不忠の身体を屈めて、お父様に礼拝を捧げようとしているこの一時、ただただあなたが主導されるようお許しください。暗黒の勢力がこの時間に侵入しないよう守ってください。聖別された場所で、お父様の心情を分かち合い、お父様の心情に従って礼拝できる時間をお与えください。愛するお父様、心からお願い申し上げます。


初めから終わりまで、どうかあなたが直接導いてくださるよう心から祈り求め、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<祈祷(Ⅱ)>
本来、天と地を統治するために来られたキリストの実体の姿を記念するこの時間をお与えください。ゴルゴダの丘で血を流し、敵のために祈られたその心情を記念する時間となるようお許しください。地上に悲しい出来事があるなら、それ以上に悲しいことはないということを、この時間、私たちが骨の髄まで感じることができるようにしてください。


イエス・キリストの悲しい事情と心情を私たちが体感でき、天の悲しみと無念さを知り、民族と人類、さらには歴史的な罪を犯した悪魔さえも、未来の子孫が進むべき道までも憂慮し、イエス・キリストの痛ましい事情を感じるこの時間をお与えください。お父様、心からお願い申し上げます。


顔も立場もない私たちを抱きかかえるために、6千年間、日々の休みもなくご苦労してこられ、心情の傷をものともせずに歩んでこられたお父様、私たちがその心情に習うことをお許しください。そして私たちがその歩みを追い、お父様の御心を成し遂げるために働くことができるように導いてください。


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罪の道を歩きながら、罪に浸り天を裏切ってきた私たちは、何も持たず疲れ果てた身体でお父様の前に立っています。この体がそのままではお父様の御前に立つことはふさわしくないと知りつつも、お父様を求める運命に置かれているため、面目なくもあなたの心情を慕ってこの場に伏しています。憐れみ深いお父様、どうかお許しください。愛するお父様、慈悲をおかけください。


私たちを支えるために忍耐してくださり、闘ってこられたお父様、今日も再び諭しの鞭を振ってください。お父様の御前に立つにふさわしくない悪の要素があるならば、それを取り除いてください。諭して聞き入れないときには、鞭を振るってでも悪の要素を取り除いてくださり、私たちが天の心情に触れ、神の命令に従うことができるこの時間をお与えください。お父様、心からお願い申し上げます。


お父様、この3,000万の民族を憐れんでください。悲しみの谷を越え、長い歴史の過程を経てきたこの民族、道を失いさまよいながらも今日ここまで残った者たちを憐れんでください。進むべき目的地もわからず彷徨っていたこの民族に、天の義なる新しい知らせを伝え、新たな復活の祭壇を築く一日をお許しください。新たな栄光の時を、この民族にお与えください。心からお願い申し上げます。


無力な私たちを集めて、お父様がこの民族の前にいけにえとなることを命じられたことを知っています。天に対して責任を果たせなかった自分を嘆くのではなく、お父様の御心に全てを捧げるいけにえ、悪魔の都市に突入して爆発する一つの爆弾となることを私たちにお許しください。心からお願い申し上げます。


迷い、さまよっている群れはこの民族だけではありません。この地に住む多くの人々にも新たな夜明けの鐘を響かせ、命の光を照らし出してください。お父様の栄光の日を紹介する時が、一日も早く来るようお導きください。心からお願い申し上げます。


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私たちを呼び立て、天の摂理の全体を教えてくださったお父様、私たちはその御心を知りました。どうか私たちがその御心のために行動できるよう、直接の力を行使してください。ためらう私たちの足を急がせ、躊躇するこの身体を、お父様、奮い立たせて、お父様が望まれる善の福地に向かって新たな決意を持って前進できる天の子どもたちとさせてください。心からお願い申し上げます。




<祈祷(Ⅲ)>
お父様、私たちは孤児のように迷い、目的も方向もわからず、どのような状況に置かれているのかも知らぬまま、歴史の流れに流され、生命の中心を見失ったまま、今日まで来た哀れな姿であることを知っています。


しかしながら、このような私たちを支えてくださり、私たちが悲しむときに共に悲しんでくださるお父様がいることを知りませんでした。そして、死の力に縛られて呻く私たちを見つけ出すために、昼夜を問わず苦労してこられた主人がいることも知りませんでした。こうした事実を知り、感じる喜びが、天と地を繋ぐことよりも尊いものであると私たちに悟らせてください。


私たちのために尽力してくださった天のお父様がいること、そして私たちの人生を案じてくださるより大きな天があることを知り、心と体でお父様に向かって敬虔に接することができるようお導きください。私たちが傷つく前に、お父様が先に傷ついてくださったという事実、私たちの体が疲れ果てて倒れるときには、お父様が私たちを抱きしめて慰め、再び進むべき道を示してくださることを、私たちに知らせてください。


今日まで言葉だけで生きてきた自分自身を自覚させてください。これからは、お父様を知り、お父様の事情を理解できる子供たちとして、お父様と心情の一体を成し、離れたくても離れられない、分かれたくても分かれることのできない関係を築き、お父様と私たちの間に割り込むことができる存在が何もない、確固たる位置に立ち、天の悲しみを自分の悲しみとし、天の喜びを自分の喜びとし、天の仕事を自分の仕事とし、天の責任を自分の責任と感じることができるようにしてください。


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今日、私たちは永遠に変わらない位置に立ち、億万のサタンと戦わなければならない責任者の立場にあることを知り、全てを救うためには、犠牲の立場に立たなければならないという、この厳粛な事実を理解できる子供たちとさせてください。お父様、心からお願い申し上げます。


天は私たちが眠っている時も眠らず、休んでいる時も休まず、この一群を目覚めさせ、導いてこられたお父様、再び、私たちはあなたの前に戻ってきました。どうかお許しください。眠る者や怠ける者がいるならば、再び警告し、傷ついた者がいるならば、お父様、油を塗り、癒してください。心からお願い申し上げます。


天を求め、悲しみながら追い求める者がいるならば、その者たちを抱きしめ、慰めてくださるこの時間となるようにしてください。お父様、心からお願い申し上げます。私たちの事情を知っておられるお父様、その事情の主人であり、許されない困難な事情さえも受け入れてくださる父であることを、私たちは知りませんでした。今、この心の奥底にある全ての困難や悲しみ、そして悩みを、お父様の前に全て打ち明け、お父様のものとして受け取っていただけるこの時間としてください。心からお願い申し上げます。


お父様、私たちの心の中にあるすべての不正な要素を取り除き、あなたの心性に、あなたの本質に同化し、あなたと一体となることができる強固な決意と覚悟を持てるこの時間としてください。お父様、心からお願い申し上げます。


自我の観念であなたのすべての性質を測ろうとする子供たちがいないようにしてください。完全に従順し、調和し、お父様が望まれる通りに、そしてお父様が形作られる通りに、動き現れるあなたの子供たちとなることをお許しください。お父様、あなたが許されない要素があるならば、すべてを取り除き、あなたが直接ご自身の御座にお座りになり、命令してくださるよう心からお願い申し上げます。


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今、この人々にあなたが与えたい言葉をお与えください。人間の言葉よりも、あなたの心情を通して発せられる新しい言葉が私たちには最も必要です。距離を置かずに、お父様の心情を直感的に感じ、お父様の動きを私たちの動きとして感じ、お父様の感じることを私たちの感じることとすることができるように導いてください。そして、お父様の無念さを体感し、お父様の怨みを解消することができ、心と体で新たな言葉の衝撃を感じることができるようにしてください。心からお願い申し上げます。


語る者の心も、受け取る者の心も二つではなく一つにしてください。この一時に、さらに恵みを重ねてお与えください。心からお願い申し上げます。


今日、地方に散らばって礼拝を捧げている孤独な家族たちにも、お父様の憐れみの御手が一律に注がれるよう心からお願い申し上げ、すべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。








<御言葉>


人間たちは、どのような目的地に向かっているのかも知らずに、長い歴史の道を歩んできました。どのような理念を持ってこの地に生まれ、その理念を通してどの目的地に到達するのか?また、どのような価値でその目的と関係を結ぶのか?こうした問題について、人間たちは完全な解決を見出せないままもがいているという事実を、皆さんはよく知っています。


信仰を持つ人々は、「私」の存在意識について語るとき、「私」という存在は出発も天であり、その結果も天であると言い、その天の意志の前で一つの価値を探し求めると言います。しかし、この観念は宗教的な人々だけでなく、一般の人々も持つべきだと考えます。人類の一員として生まれた私たちが考えるすべてのことは、自分を中心にしているけれど、その目的は自分自身にはないのです。自分を超えてどのような理念の世界と関係を結びたいのかという事実を、私たちは実生活の中で感じています。


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しかし、その世界と現在の私たちとの間には時間的な距離と空間的な距離があります。この距離を打破するための重要なものがあるとすれば、それは学説でも手段でもありません。この距離はただ心情の世界に入らなければ打破できません。


心情、それは宗教界で問題視されるだけでなく、文学や芸術の分野でも問題とされています。心情そのものを考えると、個人的な心情があるでしょうし、家庭レベルの心情、また社会、国家、世界レベルの心情があるでしょう。さらに、創造主、つまり実存の主人公がいるとすれば、その主人公も心情を中心に動いているという事実を私たちは否定できません。


人が生き、動くのは心情を中心にしたことです。心情を中心に状況を解決し、心情を中心に関係を結ぶために、人々は動いており、社会も動いており、世界も動いており、天理も動いているという事実は否定できません。


私たちがこの宇宙、さらに天主を洞察してみると、宇宙と天主は心情を基に動いています。つまり、心情を基盤にした法則を超えた存在は一つもありません。これを私たちは理解しなければなりません。


心情を中心に考えたとき、私はどのような心情を持っているのか、この社会と世界の人々はどのような心情を持っているのか、そして一つの統一的な天主を成し遂げようとしている神がいるなら、その神はどのような心情を持っているのか?またその心情がどのような関係と手段で結びつけられるのかが重要な問題です。もし個人の心情を超えて社会、国家、世界を越え、創造主の心情にまで結びつけられる偉大な宗教が現れるなら、すべての創造物はその宗教の範囲内に自然に入るだろうと考えます。


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それでは、今日私たちがより良い善を目指し、より美しいものを追い求め、より静かな愛を探し求める最高の目的は何でしょうか?それは創造主の天的心情と縁を結ぶことです。この事実を私たちは再び考えなければなりません。


この視点から見たとき、神の心情、天理の心情、人倫の心情を考察するとき、これらの心情が一つの目的に向かって正常に動いているのかというと、そうではありません。人間社会の人倫と摂理の法則に従って動いている天理が方向を変えているのです。この事実を宗教という名詞を借りて言うと、堕落の結果であると言えます。堕落によって創造主の心情と天理の心情、人倫の心情が衝突している悲しい事実を私たちは理解しなければなりません。


私たちはこうした自分たちを認識し、こうした社会を認識し、こうした世界を認識して歩みを止め、再び復活した創造世界を見つめ、創造主の心情を再び見つめ、社会の実状を再び見つめ、自分の心と体を再び注視できる人にならなければなりません。そうしなければ、新しい理念の世界、新しい静的な世界は人類の歴史に登場することはできません。このような立場に立った私たちは、歩みを止めて見守ってくださる方を見つめなければなりません。


私たちの生活の中で、私たちが知らず知らずのうちに動いている存在を、私たちの生活環境を整え守ってくださる存在を、私たちは歩みを止めて再び見つめる必要があると感じなければなりません。それで、今日皆さんにお伝えしたいことは、歩みを止めて見守ってくださる方を再び見つめることです。このタイトルでお話ししようと思います。


私たちは全体を見渡せる人にならなければなりません。さらに、目を上げて最も小さな微生物の世界を見つめることのできる人にならなければなりません。また、目を上げて死が波打ち、死によって破壊されていく社会的実状を見つめることができる人にならなければなりません。そして、目を上げて自分の心の世界と無限の理念の世界、関係を結びたい静的な理念の世界を見つめなければならないことを、皆さんは再考しなければなりません。


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私たちは微生物である細菌から天体まで、自分の一個体と関係を持って考えなければなりません。また、私一人を中心に、平面的な世界だけでなく立体的な世界、すなわち心の世界を再考しなければならない立場にあることを皆さんは理解しなければなりません。


今、私たちが住んでいるこの地球は、太陽の周りを宇宙の法則に従って変わることなく公転しているという事実を私たちは知っています。この地球自体がそうであるように、太陽自体も自転しています。地球の130万倍の質量を持つ太陽が休むことなく動いているのです。宇宙には、太陽系の質量の2000億倍に相当する広大な銀河系があります。このような銀河系を小宇宙と呼び、宇宙には銀河系のような星雲が数え切れないほど存在します。これを総称して大宇宙と呼びます。私たちはこの広大無辺な大宇宙の世界を心を広げて見る必要があります。半径だけでも数千億光年にもなる巨大な大宇宙を創造された神は、その大宇宙を変わらぬ法則によって数億千万年も動かし続けているのです。私たちが考えることも感じることもできないほどの偉大な力でこのすべての天体を動かしているのです。


このような宇宙を創造された神を考えると、その壮大さと偉大さに自然と頭を垂れざるを得ません。この大宇宙を創造された方が私たちを守ってくださる父であり、私たちを保護してくださる神であり、実存する偉大な主人公であるという事実を、私たちは心を広げて考えなければなりません。


神はこの大宇宙を創造し、創造された大宇宙のすべての存在を見守り、無限に喜ばれました。一日の希望を描きながら……もし神が言葉を話すことができたなら、どれほど多くの言葉を語ったことでしょうか!また、自慢することができたなら、どれほど多く自慢されたことでしょうか!


このような膨大な天体、私たちが数字で数えることができないほどの価値の天体ですが、その天体自体が神の創造目的ではありませんでした。神の創造目的は、太陽系の中の一つの衛星である地球という小さな地面に、大宇宙に比べれば塵にも劣るような取るに足らない人間を創り、人間を中心に一つの理念の世界を建設することでした。この事実を考えるとき、そのありがたさと喜びと栄光と偉大さがどれほど大きいか、皆さんは考えたことがありますか?


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また、私たちが万物、自然界を見つめるとき、四季によって変わる自然現象や、その時々にすべての生物が花開き美を表すのを見るとき、私たちは無意味な心情で見るべきではありません。私は鳥を見たり、蝶や蜂を見たり、流れる水やそびえ立つ山の頂きを見るときも、これらすべてが創造主である神の内面的な心情が反映された姿であることを感じ取るべきです。


多くの芸術家がいて、多くの文学者がいますが、すべての芸術家と文学者は一様に多くの形容詞を使って創造世界、すなわち万物の美を表現しています。そして、この自然は芸術や文学と密接な関係を持っています。創造世界、すなわち自然を抜きにしては、私たちが楽しめる相対的条件は計り知れないほど減少するという事実を考えると、自然はなくてはならないものであり、感じなければならないものであることがわかります。


私たちはこの関係の心情を持って自然を見なければなりません。さらに、球形や繊毛形などさまざまな形を持つ非常に微細な細菌からバクテリアや細胞、広大無辺な天体まで、生物や無生物を問わずすべての存在は秩序正しく、自分でも知らずに何らかの目的のために作用し、運動しているのです。


では、創造主はなぜこれらすべてをこのように創造されたのでしょうか?それは、地上に住む極めて微細な存在で、天体に比べれば塵にも劣る人間のために天主を創造されたという事実を、皆さんは心の扉を開けて再度考えるべきです。


神がこのように創造した万物を見て喜ぶべきでしたが、喜んだことがないので、人間に悲しいことがあるとすればこれ以上の悲しみはないでしょう。それにもかかわらず、人間はそのような悲しみを感じることができない存在になってしまいました。悲しむことを知らない人間になってしまったのです。しかし、創造主である神は長い歴史の過程を経て、人間が悲しむ前に悲しみ、人間が悩む前に悩みながら、人間のために今まで努力し続けています。


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このような神を、皆さんは心の扉を開けて歩みを止め、目を上げて再び見つめることができなければなりません。その一瞬がなければ、人間の価値が回復されることはありません。


今日、私たちは神を信じていますが、私たちが持っている感情の主体として、意識の主体として信じています。しかし、神は無限の天体を動かし、永遠に向かって休むことなく進んでいます。このような神を私たちは信じるべきです。このような神が6000年という長い年月の間に私たちを守ってくださった事実を、人間は休む時間があったが、神には休む時間がなく、人間は眠る時間があったが、神にはそのような時間がなかった、また人間が知ろうが知るまいが、いつも人間を知っておかなければならない立場にあったという事実を、皆さんは骨身にしみて感じたことがありますか?


真の宗教的心情が湧き上がるその瞬間には、万物を見て頭を垂れることができるのです。そして、天を見たり、自然を見たり、天体の無数の星雲を見たりするときに神秘的で崇高な感情が心から湧き上がります。このような感情から宗教が発生しました。自分を超えて自然の現象を見つめ、高く評価し、動く自然のすべてを見つめ、自分の心情世界の高貴なものを代わりに歌うことができなければなりません。


そして、動くすべてを自然の音楽のように、自然の芸術のように、自然の文学のように感じる心情が自分の心から湧き上がるときに初めて、天体を支配する神と自分が関係を結ぶことができることを皆さんは理解しなければなりません。このように、自分がすべてと関係しているという心情が強くなることで、物事を扱う際の感情的基準が整います。これが私たちが霊的な境地に入るとそのまま感じることになることを皆さんは理解しなければなりません。


創造主神と創造された万物はこのような関係を結んでいます。神と万宇宙はこのような因縁で絡み合っており、人間と関係を結ぼうとしています。このような事実を感じながら自然を見つめるとき、皆さんは初めて人間の尊厳を感じることができるでしょう。


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神と創造物がこのように切り離せない因縁で絡み合っているのは、極めて小さく微細な存在である私たち人間とつながるためであることを知るとき、万物と私たち人間との関係、また神と私たち人間との関係を感じることができます。この境地で私たちの心はこのような方向に流れています。自分の生活の中で、いつも自分をその方向に促しているのです。この境地で芸術が現れ、宗教理念が生まれることを皆さんは理解しなければなりません。


そのため、私たちは広大無辺な宇宙を見つめるとき、無意味に見つめるのではなく、私たちと永遠な関係を結んでいるという立場から、またそれがすべて私たちのために創造されたという事実を感じる立場から見なければなりません。そこで、皆さんにはどんな宇宙的な変動があっても、神が私たちを守り、保護してくださるという信念が生まれるのです。


そうなれば、また神と私は切り離せない驚くべき因縁、神が心情でつながった私の父であることを感じ、体と心が天倫と通じ、倫理と通じて自分も知らない力がぶつかる感覚を得ることができます。


その力は神の心情から来る力であり、創造的な原理法則を通じて神と私との因縁によって作用する力です。また、その力は理念の世界と心情の世界、あるいは現象の世界にまで一括して通じると同時に、無形世界を通じる心的基準となるのです。


このような事実を知る立場にあり、万物を扱い、万物を創造した神の心情を歌うことができる者、天体を創造し喜ばれた神の心情を歌うことができる者、人間を創造し喜ばれた神の心情を歌うことができる者、理念の世界が善く、尊く、美しく創られていることを歌うことができる者が、お父様の前で賛美を捧げる姿があるときに、ここで初めて天の縁が結ばれ、人間の縁が結ばれることを感じなければなりません。また、天倫と人倫を通じる歴史的で摂理的で創造理念的な心情の縁が結ばれるという事実を感じるべきです。


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今日、私たちは神を私たちと同じ形を持つ方と知り、そう信じています。しかし、信仰生活の中や祈りのとき、あるいは暗い夜に一人静かに心を沈めて自然界を見つめたり、真剣な心で心の扉を開けて本心から湧き出る心情を感じながら自然界を見つめたりする時、その自然界が自分のために存在していること、無数の天体世界が自分のために存在していることを実感するでしょう。そのような境地で頭を下げ、「お父様、ありがとうございます」と祈るその瞬間は、人間と人間の感情で祈るどんな時間よりも崇高な祈りの時間であることを感じることができるでしょう。


私たちは神を「父」と呼んでいますが、そのお父様が私たちを守ってくださるとだけ知っており、そのお父様がこれほど大きく、これほど偉大で、これほど細やかであることを知りませんでした。また、そのお父様が一日だけでなく、創世以前から今日まで数千年の間に私たち人間を見つけ出し、心情が通じる父と子の関係を結ぶために苦労してきた事実を、心から感じるべきです。


このような事実を真心で感じる時、この父は偉大であり、その言葉を使うべきはこの方だけであるほど偉大であり、大きいという言葉を使うべきはこの方だけであるほど大きい、驚くという形容詞で称賛し、偉大という形容詞で称賛し、尊厳という形容詞で称賛するべきはこの方だけであるほど偉大な方であることを知るべきです。そして、この方が私たちを守ってくださる事実を知るべきです。


それにもかかわらず、今日まで人間が抱いてきた希望がどうしてそんなに小さいのでしょうか?考察の視点がどうしてそんなに狭いのでしょうか?持っている感情がどうしてそんなに邪悪なのでしょうか? このような嘆きをせざるを得ません。理念の世界の感情を感じる境地に入り、自分でも知らずに頭を下げて涙を流し、私たちを守ってくださる聖なる存在の前で両手を合わせて「お父様」と呼ぶその一時間が信仰生活にないとすれば、神が創造した万物の世界を支配せよと命じられたその支配の目的を知っても、その責任を果たすことができる者とは言えません。


イエスは「全世界を得ても、自分の命を失えば何が得られようか。」(マタイ16:26)とおっしゃいました。取るに足らない微細な存在であるこの存在が、いかなる創造物の価値よりも尊いと言ったのはどういう意味でしょうか?それは形が美しいからではなく、形が偉大で驚くべきだからではありません。それは単に人間が創造理念の世界で内面的に流れる情を通じることができる存在だから、尊いと言えるのです。


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どんなに広大な天体世界、どんなに美しい自然界であっても、それらが創造主なる神にどのような刺激的な感情や衝撃を与える存在となるかはわかりませんが、内面にあるお父様の創造理念の心情を一瞬でも捉え、それを表現して父を喜ばせることはできません。天体の創造的な心情の流れを瞬時に捉え、その感情と同じ感情でその心情に応答できる存在は万物ではありません。外界に現れた万物ではなく、万物を支配するように創られた人間なのです。だからこそ、神は人間を必要とされるのです。


心情というものを除けば、人間の価値は微細なものよりも劣ると言えます。私たちの心も、行動もそうです。それでは、理念を立てて天地を創造された神の心情の前に、美の本質、愛の本質、善の本質として現れるためにはどうすれば良いのでしょうか?歴史的に感じられる感情、時代的に感じられる感情、生活的に感じられる感情、また自分を中心にして見つめる欲望や希望、自分を中心にした幸福感や感情よりも更に崇高な感情の縁が私たちの前にあることを知るべきです。


これまでの歴史の中で、どんなに「私は幸福な人間だ」「私は成功した人間だ」「人間の中で偉大な勝者だ」と言っても、それを嘲笑するほどの幸福が残っていることを私たちは知っておくべきです。どんなに成功を誇る人がいても、それを嘲笑するほどの成功が残っていることを知っている人、また、自分が金を持っていると誇る人たちに、それ以上のものがあることを知るべきだと主張できる人にならなければなりません。


歴史的な終末の時代である今日、天が私たちを訪れ、私たちはまたその天を訪ねるとすれば、私たちは人間が知り得ないほどの幸福がどれほど大きいか、人間の成功がどれほど偉大であるか、歴史的人物を嘲笑するほどの幸福を歌い、さらに偉大な成功を誇ることができるものがあるということを予想できるはずです。


今日、人間が喜んでいるものは完全な喜びではなく、成功と言われる完全な成功でもありません。それは単なる過程的な現象に過ぎないのです。それにもかかわらず、そのようなものに酔いしれて生きている人がいれば、その人は哀れな人です。


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イエスが「全世界を得ても、自分の命を失えば何が得られようか。」(マタイ16:26)と言われたときの「命」、つまり生命は堕落権の中にある私たちの生命ではありません。それではその生命とは何でしょうか?それは創造主の生命と直接的に結びついている生命です。イエスの言葉は今日までの歴史的な感情ではなく、創造本性に流れる感情と関連できる感情、創造本性と通じるそのような感情を持った価値ある人間の生命を賭けて言われたことを私たちは理解しなければなりません。


私たちが生きる道の中で堕落による悲しみの過程が横たわっているため、幸福だと自慢することなく、自分を中心にした幸福を自慢してはいけません。そのような人は過ぎ去ってしまいます。自民族を中心に幸福を論じる者も過ぎ去ってしまいます。私たちが生きているこの世界を中心に幸福を論じる者も過ぎ去ってしまいます。


どんな理念を提唱する者がいても、自分たちの国を中心にした理念や地上の世界を中心にした理念を掲げて闘うなら、その者もまた過ぎ去ってしまうのです。天が存在するとすれば、私たちは結局通過する歴史の中に立っている自分を認識し、歩みを止めて再び見つめ直さなければなりません。生きている私たちの生命を支配するその支配者はどこにいるのでしょうか?私たちが幸福を望んでいるのに、幸福の感情を支配する主はどこにいるのでしょうか?私たちが目指す目的に向かって進み、成功を希望しているのに、その成功を支配する主はどこにいるのでしょうか?その主は私たちを教える師でもなく、私たちを導く何らかの主義でもなく、何らかの宗教でもありません。


これを考えるとき、私たちは歩んでいる足を止め、真の理念と幸福と成功を紹介する真の心情で私たちを守るそのような方はどこにいるのかを再び見つめ直さなければなりません。自分を中心にしてどんなに幸福だと言っても、その幸福が世界と何の関係もなければ、自分を中心にしたその成功は6000年の人類歴史、いや永遠の天宙の歴史に何の貢献をするのでしょうか?国のために功績を上げた者があったとしても、全体をために功績を上げたのであれば忠臣として現れることができますが、自分を中心にした立場で功績を上げたのなら忠臣とは言えません。


歴史は深刻な様相で展開しています。今、歩みを止め、自分は誰のものであり、自分は誰に支配されたいのか、自分の心情は誰を迎えたいのか、誰をためにしたいのかを考えなければなりません。これが問題です。自分を中心にして幸福に生きようとしても幸福に生きることができないのはどういう理由でしょうか?生活圏内でこれを考えたならば、歩みを止めて心で待ち望む理念の主人公はどこにいるのか、人類に幸福を紹介しようとする者はどこにいるのか、私たちの最大の幸福の要素を支配し、私たちを歴史の流れへと導く主がいるとすれば、その主はどこにいるのかを探し出さなければなりません。


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皆さんはよく知らないかも知れませんが、歴史は目的地に向かって流れています。の統一された理念世界に向かってずっとその間なく流れています。これは人間の操作によるものではなく、人間のこの流れは、自分でも知らないうちに動けずにはいられないものであり、それは私の周囲を巻き込み、私の心を巻き込み、私の国家と世界を巻き込む少数力があるため、そして私は目的とする世界に向かって進まなくても過程にある存在であるため、流れないではいられないのです。いるという事実を、皆さんはもう一度考え直すべきです。


さて、この流れの中で私の歩みはどの方向に向かっているので?左でお願い、右でお願いですか?縦でお願い、横でお願いですか?このような流れを見たとき、私たち私たちは自分を中心とした幸福を主張することはできず、自分を中心にして成功を主張することもできません。です。


人間は本来、被造世界全体と関係を持ち、被造世界全体に対して主体的な立場に立つべき価値があるのです。そのため、この万物の前に自分を誇れるほど成功するまでは、その感情流れを止める方法はありません。結局、人間が進むべき道はこのような道です。この偉大で驚くべき縁の世界から出発し、関係の世界を経て目的の地に到着します。の価値を現し、自分自身が創造主の前で誇りに思い、立ち上がることができるのです。事実を皆さんは知っているはずです。


このような人々を導くために、宗教が現れる、芸術文化が現れました。そうして私たちの感情問題を整理します。個人的な感情から家庭的な感情へ、家庭的な感情から国家ような感情へ、国家的な感情から世界的な感情へ、世界的な感情から宇宙的な感情へと進んできました。過去の芸術はこのような方向を目指してきたのです。


自然界と人間が内的な正義の縁を結ぶために、これらを静的な理念の世界へ導くために、芸術が文学があります。科学は外的なすべての自然法則幼い私たちの生活環境を結ぶために貢献しています。科学の道は進むほど芸術冷静な道であり、文学や文学の道は進むほど切ない道です。このような中で、すべては一つの理念に向かって進んでいます。


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宗教とは何でしょうか?科学や芸術文化が人間世界に貢献し、外側的な私たちの感情を広げたとしても、内側的な感情の世界を永遠の世界まで結ぶことはできるず、本来の天的な感情の世界まで結ぶこともできませんでした。このような内的な感情の世界を見つめるために出てきたのが宗教です。


宗教は芸術の内的な分野を代替したものであり、文化は内部的な側面を代替したものであり、芸術家や文学者が想像もできない無形の本体を、そしてその方によって美の衝撃を受けて生きていくのです。


しかし、多くの分派に分かれた宗教が合流しなくてもいい時が来ます。これはどの宗教という枠を中心にして行われる芸術ではなく、どのという枠を中心にして行われるので、全体的で直接的な舞台となる存在である皆さんです。 「私」という存在です。 「私」という存在です。貫く心の基盤となります。から追放されてしまいます。


それでも、中間的な自分を見つけなければいけない私たちですが、宗教が今日まで時代を越えて多く貢献してきたということです。正義の世界には発展がありません。発展はありません。なぜなら、心情の世界何千年前も、何億年後も発展がありません。親が子を愛する心、夫婦がお互いを愛する心、自分の同族や親戚を愛する心、これらのその心情一つを持って全体を代替することができ、その心情一つを持って全体性を代替することができ、その心情一つが全体の幸福を代替するできるからです。


では、人生最高の幸福の地はどこでお願いですか?最高の安息の地はどこでお願いですか?神がどのような本体として存在するとしたら、私たちは彼の息子だと主張でき、彼を父だと言う場所、またその神が私たちを息子と行く場所です。 静的な基盤の上でそのようなシナリオで地上で起こり得る、その瞬間から人間世界は幸福な世界あり、人類が最大限だ最大の成功の世界だと見ざるを得ません。


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勝手に、どのような宗教理念を持って現れた人であっても、すべて善を指向して善感情を満たす仕事をしてきたのです。私は神と一体だと言いました。 歴史上これ以上偉大な事実を宣言した者はそうではありませんでした。 そして人類に対して、私は新郎であり、あなた方は新婦人だと言い、さらに友だそして民だとも言い、弟子だとも言いました。


人間全体の生活感情を動かし、すべての要素を刺激できる全体の要素を挙げて、その本体価値を代替して主張した。このようなイエス様は万物を見たとき、静的な心情で見ておられ、歴史的な人物を扱うときも、平面的に扱って、歴史的な心情で対応されるこのような矛盾した現象は堕落した世界であったために現れたということを私たちは知っているべきです。


イエス様は「誰よりも私を愛しなさい」と言われました。 この言葉は、それまで慣れ親しんだ縁を結び、静的な関係を持つ世界の前に一大爆弾宣言であり、革命的なそれは何もというと、イエス様は自分が感じ、自分の心の中に流れる愛の心情で人々を見たとき、天地を貫き、人類すべての心情を貫き、始まりと終わりを創造された神の心情を貫くことができる見地で見たとき、それまで人々が皆愛したものは、天から本来の愛として認められるものではなかったからです。


このような主張をして立ち上がったイエス様の前に全ては敵でした。 すべてが敵でした。でした。 カルバリ山で、敵の前で耐えられ血を流されたときの彼の悲しみを誰も知らなかった。 また、彼が希望と願いを持って見ていた喜びの心情を誰がそれも知りませんでした。


しかし、イエス様はその時でさえ、無限大の宇宙を創造された神が堕落した人間を見ている悲しみが無限大の悲しみであることを思い起こしました。希望を持たれる神ではありません。人間が堕落したことを嘆く神だと言うなら、人間を創造されたことを後悔される神だと言うなら、その神の悲しみは、感情を持つ私たち人間が何千年考えても理解できないほど無限の悲しみだということを私たちは知らなければなりません。


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その時、イエス様は神様の心情が無限の悲しみで染まる前には、人間を希望し、慕う無限の喜びの心情であったということを知るべきです。破滅するのではなく、悲しみを振り払い、無限の喜びを求めて進められたのです。では、イエス様がその心情を考えて戦い続けることができた理由は何だったのでしょうか? 悲惨な生活を、ヨセフの家から追い出されてもその悲しみよりも大きな悲しみがあることを知られ、国家から追われ、イスラエルから異端者とされても、その上の悲しみが残る事や、愛する弟子たちからも追われても、その壁が残ることを知っていたからです。


イエス様は十字架に釘付けにされて死ぬ場所に入っても、自分が死ぬ場所で感じる悲しみ以上の悲しみがあることを知っていたのです。ですから敵に対して祈ることができました。その時、イエス様は自分の心情よりもさらに大きな悲しみの心情、より大きな悲しみの歴史、より大きな悲しみの基準が残っていることを知っていたのです。


では、神様はなぜイエスを見捨てて、世界を見捨てることができなかったのでしょうか? イエスを十字架に渡しながらも、敵を見捨てなかった理由は何でしょうか? それは、イエスが死ぬ以上の悲しみがあったことを証明するためです。


堕落した私たちは、この無限の天的心情を探し、私たちを守り、摂理された歴史的心情を体験し、神の前に勝利の姿で現れなければなりません。皆さんが暮らしているこの社会を見ると、この世界は喜びの世界ではありません。また、人類の歴史は悲しみの歴史です。人類の歴史は喜びから始まったのではなく、悲しみから始まったために、今日の人類の歴史は悲しみの歴史となっています。


個人が自分の悲しみの為に泣き叫ぶのを見ると、皆さんは同情するでしょう。しかし、個人の悲しみに同情し、自分自身を楽しむ事があってはいけません。個人を超えて、家庭、さらに国家、世界、天の悲しみまで、私たちと関わりがあります。


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皆さんはしばしば個人の不満や、自分自身の不幸、自分自身の困難、自分の心に深く刻まれた悲しみを持って泣き叫ぶことがあるかもしれません。しかし、皆さんの個人の悲しみよりもさらに大きな悲しみが、家庭、社会、国家、世界、そして天に残っています。


今、私たちが天の心情を探しに行く勇者になるためには、私たちの心の悲しみを感じるとともに、究極の悲しみを感じることができなければなりません。人生の道程で、私が排斥され、裏切られ、不当な扱いを受け、追い詰められることが、天を目指す過程において最終的なものなのかどうかを考えなければなりません。人間同士の悲しみ以上に大きな悲しみがあります。創造主が偉大で高いのであれば、その創造主の理念も偉大で高いのは当然であり、その善と理念を描くその心の前で、悲しみが偉大で高い理念を代替するのではなく、宇宙的な善を代替し無限の対象の位置を占めていることを私たちは忘れてはなりません。


皆さんが天を探しに行く過程で悲しみ、涙を流すとしても、自分を中心に出発し、自分を中心に結果を結ぶために悲しんではなりません。そのような者は自分を抱えて破滅してしまいます。家庭を抱えようとする者は家庭を抱えて破滅し、国家を抱えようとする者は国家とともに破滅し、世界を抱えようとする者は世界とともに破滅します。


では、私たちは何を抱えて泣くべきでしょうか?天を抱えて泣くことができる人になるべきです。神の悲しみを自分の悲しみとして、神の困難を自分の困難として感じることができる人になるべきです。


私たちは堕落した人間であるため、悲しい歴史の道程をたどりゴルゴタの丘を目指して歩かなければなりません。今日、皆さんが感じる苦痛や、皆さんが受けるその悲しみは終わりではありません。終わりではありません。


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これを知っていたイエス様は、敵に対して祈ることは問題ではありませんでした。それ以上の悲しみの山があっても、その悲しみの山を越えて天的な子としての使命を全うしなければならないことを感じていました。そのため、イエス様は死の山を踏み越えることができました。また、そのような心の衝撃で十字架の上で敵を許し、死を克服することができたことを私たちは知っておくべきです。


それでは宗教の歩みは何を探し求めるものでしょうか?神は宗教を設けて、良いもの、貴いものを人間に紹介されましたが、人間は良いもの、貴いものを歩むことができず、困難で悲しい歩みを歩まなければなりませんでした。


天が6千年間努力し悲しんでいたことは、どの宗教の経典にも紹介されていません。しかし、善や私たちが生きるべき福地については詳細に紹介されています。なぜ天はこのような方法を取ったのでしょうか? それは天が私たちを愛しているからです。天が私たちを愛しているがゆえに、この方法で私たちに近づいてきたのです。人間が天を探し求めるのもそうですが、喜びは一日で突然訪れるものではありません。悲しみの道を通った後に、喜びを見つけることができるのです。


天国を望む者が地上にいるとしたら、天の真の子どもになりたいと思う者が地上にいるとしたら、「私の一生に神様の6千年の悲しみの涙を流させてください」と祈り、泣くことができる人になるべきです。命をかけて天と地、すべての万物をかけて叫ぶことができる人になるべきです。


善良で、美しく、貴い、誇らしく、栄光に満ちた立場にいるお父様ではなく、悲しみの立場にいるお父様を発見した人が、お父様が探し求める善の主人公となるでしょう。神様の真の子どもであることを理解するべきです。


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天が涙を流していたとしたら、この地上のどんな湖や大河の水よりも多く流していたでしょうし、天と地に満ちる場所がないほど涙を流し悲しんでいたことでしょう。したがって、神の悲しみを理解する人は、山を見るとその山を天の努力と苦しみの山と感じ、海を見るとその海を神の涙と感じ、草木を見るとそれを神の心配と感じるでしょう。広大無辺な宇宙全体を見たとき、そのすべての現象が美しいとはいえ、その美しさが人間と直接的な関係を持っていないことを見て、神には悲しみの条件となることを理解するべきです。このようなことを感じ、そうした感情で父を呼ぶことができる子どもたちが地上にどこにいるのか、神は探し求めるでしょう。


真の孝行者とは、お父様と共に喜び、お父様と共に楽しむことだけで孝行者と呼ばれるわけではありません。そうした人を孝行者とは呼びません。お父様の喜びよりも、お父様の悲しみや困難を代わりに受けることができる子どもが孝行者と呼ばれるのです。


人間がこのようであるならば、天も同様です。感情が喜びに結びつくことができない堕落した世界のために、悲しみと困難の道を歩かなければならない人間であるため、手がひび割れ、体が疲れ、裂けるとしても、天を目指して走る心を持たなければなりません。この地上にいるどんな人間をもつかまえても、天に対して叫び続けるその一時間が、失われた天と結びつく時間であることを理解しなければなりません。


人間はこのような時間を取り戻し、自分の人生で天に頭を下げ涙を流す時間を持つべきです。そして、その心から悲しみが消え、喜びと平和を歌うその瞬間が、天が訪れる瞬間であり、天が笑う瞬間であり、天が喜びをもって私の子どもたちと祝福する時間であることを理解するべきです。


堕落した人間たちは、今日まで歩んできた歩みを止め、新たな悲しみの道を歩まなければなりません。6千年間、人間を守るために悲しみの道を歩んできた天がいたことを知らなかった人間たちは、自分を反省しなければなりません。自分の家庭や国家、世界をもって自分を嘆かなければなりません。


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死のゴルゴタの丘を越えながらも天の悲しみを考え、敵のために祝福を祈ったイエスの足跡に従わない限り、神の苦労の心情や神の悲しみの心情を地上の人間として感じることはできません。神の心情に深く浸りきった悲しみを解消できない限り、神様の中にある永遠の喜びや永遠の善、永遠の幸福は地上の人間と永遠に結びつくことはできないのです。


今日、皆さんは自分の位置を再考するべきです。涙を流すことが多かったでしょう。その涙はどこに行ったのでしょうか? 再び反省してください。皆さんの手は自分自身のために多く動いています。しかし、この手は誰のために動いているのか、この歩みは誰のために努力しているのか、この体と心は誰のために何を描き、探しているのかを立ち止まって考えるべきです。


歴史的な悲しみに直面している自分を認識し、希望の一日を再び探さなければならないことを感じ、改めて覚醒し過去の生活を批判しなければなりません。天が期待する自分でないこと、天との縁を結べなかった自分を嘆かなければなりません。


「このような立場に立つ私は、家庭に対しても面目がなく、国家に対しても面目がなく、世界に対しても面目がない」と感じる心情を、皆さんは常に感じるべきです。このような心情が皆さんの心から湧き出るなら、家庭を見ても涙が流れ、国家を見ても涙が流れ、世界を見ても涙が流れ、天を見ても涙が流れるでしょう。皆さんの生涯でこのようなことがなければ、神の心情が隠れた黒い幕を突破し、深く隠された神の善や神の喜び、神の幸福を見つけることはできないことを理解するべきです。


今、私たちは生活しながら、自分のために生きているのかを分析し、自分を守っているその一人がいることを知り、たとえ自分が知らなくても、知っていても、自分を守っている一人がいることを見つめることができるようにならなければなりません。


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御言葉選集5(13)

2024年09月14日 13時35分43秒 | 日記


文鮮明先生御言集 5 - 13. 愛天者と愛国者になろう (1959年3月1日)


1959年3月1日(日)、前本部教会にて。


マタイによる福音書 5:33-48


<祈り>


愛するお父様! あなたを求めて歩む人間の短い生涯は、一見単純なようで実は複雑であり、私たちもそのような生活の道を歩まざるを得ません。この日も、明日も忍耐し、残りの生涯をお父様の懐の中で送る祝福された息子娘となれるように導いてくださることを、お父様、切に願い求めます。


今日この世には、私たち自身だけでなく、無数のサタンが私たちを取り囲んでいることを知っています。このサタンたちは、6千年もの間、お父様の前で巧妙な戦いを挑み、告発の条件を掲げてきました。お父様が私たちをサタンから守るためにどれだけ努力されてきたか、私たちは理解しています。どうか、お父様の心配が私たちの心配以上に大きいことを悟らせてください。お父様がサタンと戦い、成し遂げられた業績が、私たちが一生をかけて努力し戦ったものよりも大きいことを、この時間、私たちに教えてください。


多くの先祖が、命の道を握りしめて、復帰の意志を果たすために尽力してきたお父様の努力は、十字架の道であり、私たちには何一つとして報いることができない、私たちの借りであることを知っています。今日、その恩恵の前に、私たちの体と心をすべて捧げてもなお不足を感じ、恐縮の思いで、この時間、父に向き合える私たちであることをお許しください。


お父様、これまでの歴史が、不足した者を栄光の前に立たせるための道のりであったことを知りました。不足している私たちに、切なるあなたの心を注ぎ、この時間、父に忠誠を尽くす気持ちだけを持てるようにお許しください。私たちの体と心が自分のものとならないようにお許しください。お父様の心に深く入り込みたいという切なる思いを持たせてください。そのような心に満ちた一つの生贄となれるようにしてください。そして、お父様の愛の懐に抱かれ、父を慰め、また父から慰めを受けることができ、お父様が愛する息子娘としてこの時間向き合うことができるように、切に願い求めます。


このような恵みを願って私たちはここに集まりました。どうか見捨てず、お父様が「息子よ!」と呼びかけてくださる私たちとなれるようにお許しください。お父様が手を握り、愛することができる息子娘としてこの時間導いてくださることを、切に願い求めます。


     1


戦いに疲れ、明日も戦わなければならない責任を残している私たちの弱さを憐れんでください。お父様! 力を与えてください。私たちの心に新たな力を与え、新たな能力を加えてくださり、残された戦場で敵の前に屈しない強く勇敢な息子娘となれるようにお許しください。天の全ての使命を担う戦士として、お父様の栄光を高める息子娘となれるようにお許しください。愛するお父様、切に願い求めます。


お父様が私たちの命の主体となり、サタンの要求条件に引っかかる命が一つもないようにお許しください。私たちがお父様のものであることを誇りとし、お父様の栄光となる存在となれるようにお許しください。愛するお父様、切に願い求めます。


私たちの心の中に罪の根が残っているならば、お父様の力でこれらを清めてください。お父様が望まない性質はすべて取り除いてくださり、お父様の性質に従える心の変化が起こるようにお許しください。お父様! 私たちの体と心に新しい力と新しい愛の感動を与えてくださり、悪の要素をすべて除き分別して、お父様の懐に抱かれる再創造の業が起こるこの時間をお許しください。愛するお父様、切に願い求めます。


私たちがお父様が望まれない思いや主義や観念を持たないように導いてください。私たちのすべてがお父様のものとして始まり、動き、お父様のものとして結実するこの時間をお許しください。お父様、切に願い求めます。


このような感動と衝撃がこの時間私たちにないならば、偉大な摂理の前で全てを背負って責任を果たすことができません。お父様、この時間、直接お越しくださり、私たちに命の喜びと命の復活をお許しください。


     2


お父様! この眠っている都市を目覚めさせる責任が私たちにあります。三千里の山河を新しい光の中へと導く責任が私たちにあります。どうか、弱い手を強めてください。貧弱な体であっても、サタンに最後の一撃を与え、天の栄光を現す息子娘とならせてくださいと切に願い求めます。


この一年に決意し誓った全てを投げ出す者となることなく、その誓いを心に抱き、体に携えて、多くの命を救う一つの爆弾のような存在とならせてください。命が原子爆弾のように暗い世界を打ち砕き、お父様の栄光の基盤に復帰することができるようにしてください。私たちに託された責任を果たす息子娘とならせてください、愛するお父様、切に願い求めます。


この民族を祝福してください。この人類を祝福してください。私たちの望みすべてがお父様のものでありますように、お父様、共にいてくださり、導いてください。残された復帰の恨みが晴れるその日まで、私たちを導いてください、お父様、切に願い求めます。


今日も明日も誠心を尽くし、お父様の前に出て、進む中で不足を感じ、焦燥感を持ちながら開拓していくことをお許しください。熱烈な心を持って開拓できる感動の力が、私たちの生活と人生の道全体を動かすことができるようにお許しください。


この日、地方で孤独な心を抱き、お父様の前に祈っているあなたの息子娘たちを祝福してください。同じ恵みで包んでください。許された恵みを誇りに思える栄光の姿に立たせてくださる様にと、切に願い求めます。


     3


この日、礼拝を捧げる場所ごとに、天の無数の聖徒と天軍天使が取り囲み、あなたを喜ばせることができる日となるようにお許しください。礼拝の時間が天に喜ばれる時間となるようにお許しください。この時間、ただ聖三位一体がすべてを導き、サタンが一切関与しない時間となることを切に願い、お願い申し上げます。主の御名によって祈ります。アーメン。










<御言葉>


この時間にお伝えしたい題目は「愛天者と愛国者になろう」、つまり「天を愛する者と国を愛する者になろう」です。


本来、人間は天を愛し、兄弟を愛し、この地を愛するようにできていました。天と人と地をすべて愛さなければならない存在だったのです。神様が本来人間をお創りになったとき、人間が天を愛し、兄弟を愛し、この地を愛することを知っている者として創造されました。しかし、今日この地上に生きている人々は皆、堕落の子孫であるため、天を愛することも、兄弟を愛することも、この地を愛することもできない者となってしまいました。これが堕落による悲しみです。


そのため、天はこの悲しみを抱き、堕落した人間を本来の姿に回復するために、今まで6千年という長い年月、どんな戦いも厭わずに犠牲を払い続けてこられたという事実を私たちは知っています。つまり、失われた人間を復帰しなければならないという天的な責任を負い、人間を探してこられたのだということを私たちは知っています。


今日の私たちは、神様の復帰摂理の意図を知らなくても、私たちの心は自然と天的な因縁に従っており、その天的な因縁が私たちの生活と人生を支配しているという事実を、私たちは日々の生活の中で多く体験しています。


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では、なぜ皆さんの心は、自分でも知らないうちに善なる大きな理念の世界を求め、休むことなく動いているのでしょうか?なぜ、皆さんの心は自分が望む方向に動かないのでしょうか?それは、皆さんが考えてもみない、知らない方向へ導いておられる神様、つまり皆さんが想像する以上の因縁を通して計画し、努力されている神様がいらっしゃるからです。このようにして、私たちの心は善の理念に引き寄せられていくのです。


その天は最高の善であり、最高の理念です。その天は、私たち人間にとって最高の命であり、最高の希望の中心であり、過去にも現在にも、そして未来にも動いておられます。そのため、私たちの心は天が指し示す善の方向へ引かれているという事実を、私たちは認識しなければなりません。


皆さんが善を志向する心を持っており、善なる天性を持っているとしても、それを自分のものだと断言してはいけません。また、天性を根拠にして自分の身体が善の段階にあるとしても、その身体を自分のものだと誇ってはいけません。


たとえ良いことや善なることがあり、他者の前で光となることがあったとしても、それを自分のものとし、自己の功績として表すべきではありません。天が皆さんにそのような因縁を結びつけてくださったにもかかわらず、皆さんがそれを忘れ、自分を誇る立場に立つなら、その瞬間から天的な罪を犯す立場になるという恐ろしい事実を理解しておく必要があります。今日の私たちは、周囲の人々の中にこのような罪を犯している人々がいることを目の当たりにしています。


今日の私たちは皆、善を望み、正義を求めています。このように、私たちには善を志向する心と、正義に向かって進もうとする心がありますが、その心でさえも皆さん自身のものではないのです。このことを知るべきです。この善を求める心の歴史を紐解けば、6千年の人類の歴史が明らかになり、さらには神様の創造の歴史が明らかになり、神様の創造本然の心情が明らかになるでしょう。


     5


ですから、皆さんはこのような歴史的な因縁、時代的な因縁、未来的な因縁を代わりに担い、その中心を通して動く本然の善を所有しなければなりません。皆さんがその善を自分のものとして所有しようとするとき、もし誰かがその道を阻み、善に反対する条件を提示するなら、それが法的に問題がないと断言できるでしょうか?


今日の人間は、このような善の心を求めていかなければなりません。さらに進んで、このような善の心を持ち、その心で自分を中心に動くのではなく、全体的な善の主体に向かって動かなければなりません。しかし、それを理解している人はあまりいないことを私たちは知っています。


本来、善というものは、自分の中だけで成し遂げられるものではありません。この善は自分を超え、環境を超え、国を超え、世界を超えて、創造主の最大の善と結びついて初めて実現するのです。実績が残る道のりでのみ、この「善」という言葉が成立するのです。


私たちはこの善の方向を見つけ、その目的地を知り、そこへ向かって進まなければならないことを知ると同時に、善そのものとなり、善なる生活の実績を残さなければなりません。これまでの歴史の道のりで、この事実を知ってすべてを引き受けて生き抜いた人は一人もいなかったと言っても過言ではありません。このような人々を抱えて、神様は今日まで苦労してこられました。どんなに苦労されても、その苦労に報いることを知らない人間、自分の命が救われても感謝を知らない人間を6千年もの間引き連れてこられたのです。


このような歴史的な悲しみの道のりが、今日の皆さんで終わらないならば、皆さんの子孫にまで延長されてしまうでしょう。この悲しみの道が皆さんの生活の中で、皆さんの命の上に流れているという事実を感じ取れない人になってしまったとしたら、国を愛し、天を愛すると言うことは空しい言葉にすぎないと私たちは思わずにはいられません。


     6


私たちの一日の生活も、善を基にした心から始めるべきです。善なる心が私たちの生活を支配しなければならないのです。私たちは生涯の目標を成し遂げるにあたり、善の理念圏内で誇るべき実績を立てなければなりません。そうでない者は、歴史の道のりと天の善を探し求める復帰の道のりにおいて、何の貢献も、何の実績も残していない者と言わざるを得ません。


では、人類の堕落はなぜ生じたのでしょうか? 自分の生涯を自分のものだと誤解したからです。人類の祖であるアダムとエバは、自分たちですべてが成り立つと思っていました。自分たちを基にすべてが始まり、すべての目的が自分たちで成し遂げられると思っていたからこそ、堕落したのです。このことを私たちは理解しなければなりません。


したがって、私たちは先祖たちが犯した罪状を暴露し、自分を基に何事も解決しようとする心を捨てなければなりません。その代わりに、民族と世界、そして天と地をかけて問題を解決しようとする真の心を持ち、善なる世界を目指す者となるべきです。そのような集団が存在するならば、天は彼らを見つけ出されるでしょう。良心が指し示す目的を達成しようと摂理される天は、そのような集団を探しておられることを、私たちは心に留めなければなりません。


このようなことを明らかに理解した後に、自分自身を再認識し、そこから自分の価値観、生活観、人生観、歴史観、宇宙観を持ち、「天を愛します」と言わなければ、そこから愛の因縁が結ばれることはありません。また、その観点から国を愛して初めて、皆さんが本当に国を愛したと言える立場に立つことができるのです。


私たちは、この道が歴史的な人物も進まなければならない道であり、時代を代表する人物も進まなければならない道であることを知り、この方向から自分を再分析して進まなければならないと考えます。


     7


今日の人類は堕落によって善なる良心の働きを感じつつも、善が目指す目的地を知りません。善を志向させる良心の働きを受けつつも、良心の呵責を感じない善なる生活を送ることができていません。


皆さんはこの矛盾した立場にいる自分を明らかにしなければなりません。自分を新しい目標と新しい理念の前に映し出してみなければなりません。そして、これまで抱えていたどんな認識や、どんな主義主張、どんな観念も捨てて、新しい善の目標に向かって進まなければならないのです。終わりの時代に直面しているこの時代の人類は、その善の目標に向かって進まなければならない危機に直面しているということを私たちは知っておかなければなりません。


では、堕落した人間はどこまで落ちたのでしょうか?神様の創造理念とは正反対の立場にまで落ちました。本来、人間はこの世を自分たちの世界と見なし、楽しむことができるはずでした。全人類は一つの種族として生きるべきであり、創造主である神様を自分たちの神様としてお迎えして生きるべきだったのです。


しかし、今日この地上に住む人々は自分たちの世界を成し遂げたでしょうか?成し遂げていません。全人類を一つの種族と見なしている人がいるでしょうか?国家があるでしょうか?ありません。また、神様を自分たちの神様としてお迎えしている集団がいるでしょうか?いません。


このため、私たちは善の基準を探し立てた後、自分の力とすべてを注いで、自分たちの世界、自分たちの種族、自分たちの神様を探し求めなければなりません。これが堕落した人間が探し求めなければならない歴史的な使命であることを私たちは知らなければなりません。


     8


私たちの神様は姿を消し、私たちの種族である人類も四方に散ってしまい、私たちが支配すべきこの地も無残に分断されてしまいました。もし創造主がいらっしゃるとすれば、その創造主の理念とは何でしょうか?それは、この地を私たちの地にしようとすることであり、この人類を一つの種族、一つの兄弟としようとすることであり、私たちを神様と一つにしようとすることです。そうして創造主がこの人類の神様として、世界の神様として現れようとしておられることを私たちは知らなければなりません。


では、「私は天を愛します」と言う愛天者がいたとしたら、その人はどのような人でしょうか? その人は私たちの世界を探し求める者であり、全人類を一つの種族にしようと探し求める者であり、創造主である神様を私たち人類の神様として、世界の神様としてお迎えして生きようとする者です。このような者こそが、天を愛する者と言えるでしょう。


今日の人間たちはこのような基準を失ってしまったため、善が働く心の作用を感じつつも、善の実績を求めようとしても見つけることができない生活を送っていることを私たちはよく知っています。


善の働きは、創造理念、人間が成し遂げなければならない天的な理念と世界的な理念を中心にして、私たちの心の中で絶えず起こっています。しかし、それを無視し、断ち切り、踏みにじって生きてきた私たちだということを、この時間に再び骨身にしみて感じ取らなければなりません。このような者にならない限り、堕落した人間として、神様を愛するという立場に入ろうとしても到底入ることができないという事実を皆さんは知っておかなければなりません。


では、私たちが今、全力を尽くして成し遂げなければならないことは何でしょうか?どんな犠牲も覚悟して成し遂げなければならないことは何でしょうか?それは、神様が望まれる世界、人類が望む世界を成し遂げることです。神様は一つの親から生まれた血族、つまり神様を中心とした一つの種族を探しておられます。神様を中心とした一つの家族のような世界を探しておられるのです。このことを知り、この基準に合わせて生活することのできる者となるべきです。そうでない者は、神様が探しておられる理念的な世界、理念的な人類、理念的な天国は成し遂げられないでしょうし、たとえ成し遂げられたとしても、それは私たちとは何の関係もないということを私たちは悟らなければなりません。


     9


神様は人間を創造され、祝福して「すべてを支配せよ」と仰いました。「地に満ちて繁栄せよ」と仰いました。人間がこの言葉を完全に成し遂げれば、神様はその完成した人間を直接支配しようとされました。これが創造の基準でした。しかし、人間はこの基準を今まで成し遂げることができませんでした。そのため、私たちは地を支配できなかった者であり、真の愛の世界で繁栄できなかった者であり、真の神様の愛を受けることができなかった者です。これが私たちの悲しみです。この因縁の中にあるために、私たちはサタンの試みの犠牲となっているのです。


このような人類を天は再び立ち上がらせ、地を支配させなければならず、善の功績を積み、悪によって乱れた堕落した人類のすべてを清算し、この人々を再び和解させ、天の血族にしなければなりません。その後に、神様はこれらの人々を支配するために動いておられます。これが人間が志していく歴史的な目的であり、人類が心の中で憧れている希望の基準です。


私たちは本来そのような場所で生きるべき存在でした。したがって、私たちのすべての要素、身体と心が望むその場所に向かって進んでいることに、無限の感謝を感じ取ることができる者でなければなりません。


しかし、天を失い、本然の兄弟を失い、堕ちるところまで堕ち、どうしようもなく堕ちた人間たちは、逆さにそれらを探し求めています。本来であれば、神様の愛を受けて兄弟と愛の因縁を結び、夫婦同士で愛の因縁を結び、その後に親を迎えるべきでしたが、神様と愛の因縁を結ぶことができず、堕落した人間となってしまいました。そのため、真の親、真の夫婦、真の兄弟だと大声を出す者がいても、神様の愛を中心に真の関係を結んだ者は一人もいません。


私たちはこのような種族であるため、人間が支配するどんな物も、神様の物だと主張する理由がなくなってしまいました。神様の物として造られたこの世界が、人間の物にもならず、悔しいことにサタンの物になってしまったというのはどういうことでしょうか?神様の物であるべきであり、人類の物であるべきこの地が、神様や人類のどちらの物にもならず、突如としてサタンの所有物になってしまったのです。このことを見つめる天の悲しみを感じ取れる者、そして人類の悲しみを感じ取れる者が現れなければ、この世界をサタンの所有から解放する運動を行うことはできません。


     10


神様はこの運動を展開するために、長い歴史の道のりを経て、人間に良心の働きを起こされました。神様が支配されるべき人間を失ったため、時代ごとに中心人物たちを送られました。人類のすべての問題を引き受け、人類が果たすべき使命と時を伝えるために、中心人物たちを送られましたが、その方々こそ、歴史の道のりで現れては去っていった預言者たちでした。


堕落によって、私たち人間は神様の創造期間の6日をすべて失ってしまいました。そして、安息日という一日を通してのみ神様に向かうことができるようになりました。このようになったため、本来はいつでも神様に向かうべき人間を失ってしまった神様は、そのような機会を探し求めながら、無限の苦労をいとわず、人間を探し求めておられるのです。しかし、人間は神様がどれほどの苦労をされてきたかを知ることさえもできていません。


では、時期を見計らって現れて去っていった預言者たち、時代的な使命を引き受けて現れて去っていった天的な人々は、この地に何を提示したのでしょうか?彼らは地上のいかなる存在価値も認めず、天を信じるように主張しました。人間が生きているこの地が永遠の地ではないと主張しました。また、地上での命が永遠の命ではないと主張しました。地上で享受している幸福は、永遠の幸福とは何の関係もないということを、歴史の道のりで彼らは説いていきました。


神様は6千年の摂理の道のりで、一つの時代、一つの世代を代表して労苦の実体として預言者を送られましたが、その預言者たちを捕らえて殺すために、血を流しながら戦いを続けてきた罪の祖先を持つ私たち、天倫の意志を裏切った歴史的な裏切り者の祖先を持つ私たち、神様が送られた人々だけでなく、神様ご自身をも裏切った祖先を持つ私たち、今、このような私たちが今日どのような立場にいるのかを再び考えなければならない時が来ています。


天はこのような人々を立て、堕落した人間と因縁を結ぶために、無限の労苦の道のりを歩んできました。このような労苦が積み重なり、天の悲しみとして、地の悲しみとして、すべての人々の悲しみとして残されているにもかかわらず、この悲しみを認識することなく、自分個人のことを考えて悲しむ者や、自分の家族のことで悲しむ者は多いですが、天と地のことで悲しむ者は一人もいません。


     11


終わりの時が近づいていると口々に言われるこの時に、皆さんは天の悲しみと苦しみを抱いて悲しむ者がいないことを知っておられる天の心情を感じ取ったことがありますか?神様は6千年もの間、ため息をつき、後悔しながらも、人類を引き連れて戦い続けてこられましたが、人間は未だに天の前に嘆きの条件として残っています。しかし、今日、皆さんは心の扉を開き、天と地と万物すべてに宿っている天の悲しみを感じ取ったことがあるでしょうか?その悲しみは、いかなる民族の悲しみよりも、いかなる国家の悲しみよりも大きなものです。これまで人間が経験してきたどんな悲しみにも比べられない悲しみであるということを、私たちは知らなければなりません。


私たちが天を愛する愛天者の集団に参加すべき人間であるならば、この運命の道を歩まなければならない堕落した人間の子孫であるならば、私たちの心の中から善を志向する心が爆発し、天と万物すべてに染み込んでいる天の悲しみを感じ、その悲しみを解き放って差し上げる責任を果たす集団となるべきです。このような集団が現れなければ、大きな摂理の意志を成し遂げることはできないということを私たちは知らなければなりません。


しかし、人間はこれまで自分自身を中心に戦い続けてきました。自分の家庭を中心に、自分の国、自分の土地、自分の民族を基にして戦い続けてきたのです。しかし、天はそうではありません。神様は私たちの世界、私たちの人類のために、そして私たちの神様となるために苦労してこられました。しかし、地に住む人類は、自分自身を中心にした家庭、自分自身を中心にした国家、自分自身を中心にして支配する土地を探し求めてきました。これが今までの歴史の道のりでした。


人間は堕落によって、天的な心情、良心、身体、万物すべてを失ってしまいました。しかし、人間はこの恐ろしい事実を知らないまま、ただ自分を中心にした物質、自分を中心にした身体、自分を中心にした心、自分を中心にした情を追い求めてきました。このような人間を抱えて、自分を超える方向へ導いてくださる神様の摂理がなければ、人類は滅んでしまったでしょう。人類は滅んでいたはずです。


このような人類を目覚めさせようと、私たちの心を通して毎日の生活を命じておられる天に対して、私たちは無限の感謝を持たなければなりません。今日まで自分を中心に生きてきた堕落した人間たち、堕ちるところまで堕ちてしまいました。それでも自分を中心にして地を求めようとしています。しかし、堕落した人間たちは本然の立場に向かって進まなければならない復帰の運命にあることを知らなければなりません。


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今日、皆さんが持っている身体は宇宙的な価値を成し遂げるための身体であり、皆さんが所有しているすべては宇宙と因縁を結ぶための捧げ物です。しかし、人間はこれを今まで知りませんでした。皆さんにいかなる情的な心情があったとしても、その心情は宇宙的な天的心情と因縁を結ぶことができる心情です。しかし、これを忘れた人間たち、つまり天と反対の立場にある人間たちと天は因縁を結ぶために、今まで苦労してこられたという事実を皆さんは知っておかなければなりません。


これまでの歴史の道のりでよく見られたすべての事実は、自己個人を中心にして戦ってきたことです。自分の一つの民族を中心にして、自分の一つの国土を中心にして戦ってきました。一つの主権の下で、自分の国土と自分の民族と自分の主権のために戦うことに留まっていました。利己主義を中心にして今日まで、つまり第一次世界大戦の前後まで戦ってきました。しかし、このような戦いで止まるならば、人類は滅亡へと向かってしまうでしょう。


今まで数多くの民族や国家が栄え、滅びましたが、その民族やその国家のために忠臣となった人々は多くいました。民族や国家を愛した人々はたくさんいました。その時代に、その民族やその国土やその主権を抱えて愛した人々はたくさんいました。しかし、その愛国者たちは今どこに行ったのでしょうか?歴史上に名を轟かせたその愛国者たちは、すべて消え去ってしまいました。歴史上の主権国家には多くの忠臣がいましたが、今日、そのような忠臣の節操心は見つけることができないほど消えてしまったのです。


私たちが知っておくべきことは、これまでの歴史的な事実を見てみると、多くの人々が土地を奪うために戦い、国境を打破する戦いを行ってきましたが、そのような方法では、本来の理想世界を建設することはできないということです。


このようにして土地を奪い、拡大する帝国主義時代を過ぎた後、私たち人間は何を探し求めるべきでしょうか?世界的な帝国主義時代を過ぎた後は、人を探し求めなければなりません。そのような時が来るのです。そのような人を探し求める際に求められるのは、主義と主張です。しかし、どのような主義主張を中心にして土地を奪おうとしても、その主義は主義として存続することはできません。皆さんは第一次世界大戦を転機として、新しい主義と理念を探し求めていく歴史的な事実を否定できないでしょう。土地を求めて戦う時代が過ぎた後は、人を求めて戦う時代が来ます。その時が理念を持って戦う時代なのです。


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その時代を過ぎ、その次には何の時代が来るのでしょうか?本来の人間が失ったものを取り戻す時代が来るのです。万物を支配すべき責任が人間にあるため、世界を自分たちのものにするために、私たちの本心が動いているのです。もし主権を動かす権限があるとすれば、その主権を世界的な標準にまで高めたいとするのが人間の本性です。そのため、本性はどの方向を指し示して私たちの心を支配しているのです。


その次には「神様の息子娘として世界に満ちよ」と言われました。神様の息子娘として世界に満ちるべきであるため、今日、世界各国は主義と思想を中心にして民族性を打ち破らなければなりません。民族性を打ち破らなければならないのです。人間は気づいていませんが、天はこの戦いを仕掛けています。


そして、土地を支配し、兄弟を回復した後は何をしなければならないのでしょうか? 天を愛さなければなりません。これが人間が必ず行くべき運命の道であるため、これから新しい宗教が現れるとすれば、それはこの時代の宗教を克服できる愛天的な宗教でなければならないのです。


土地を求めてさまよう人々の前にそれを見つけさせるために、民族を動員して国境を打破し、領土を拡大してきました。そして、人類を建てなければならない天的な摂理の時代に生きる人類の前には、民族と民族の壁を打破する主義と思想を建ててきましたが、その次には何が出てこなければならないのでしょうか?それは、天を愛することができる主義と思想、宗教と宗派の壁を打ち破ることができる一つの主義が必ず出てこなければならないのです。そうして初めて復帰の歴史の終結を見ることができます。


ですから、過去のようにどの土地に欲望を持ち、自分の民族だけを愛する心で侵略的な政策を立てる主権国家は滅びてしまうということです。しかし、他国を侵略しても、これから来る時代の新しい理念に近い指導理念を立てて侵略するならば、その指導理念の効力が消滅するまで、その国家は滅びずに続くでしょう。歴史はこのように進んできました。


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このようにして今日まで多くの民族が集結してきました。しかし、どの民族が天的な理念に近い理念を持って国家の形を取って動いているのでしょうか?天的な理念に近いときは主権を行使することができますが、そうでないならば、その主権は第三者に渡ります。また、天的な理念にもっと近づける理念を持っている第三者にその主権が渡りながら発展してきたのが歴史の発展の実態なのです。


今日は皆さんもご存じの通り、三・一節です。私たちの民族は日本の支配下で36年間、無限の苦痛を経験しました。日本の支配下で苦しんでいた私たちの民族の希望は何だったのでしょうか? それは、日本が滅びることでした。私たちの民族はそのような日が必ず来ることを願いながら、忍耐強く生き抜いてきました。外的な環境が拡大するにつれて、内的な強い意志が積み上がり、その流れが今日の三・一節に爆発したのです。第一次世界大戦直後にウィルソン大統領によって提唱された民族自決主義の影響で三・一運動が起こったことを、皆さんはよくご存じでしょう。


アメリカという国が民主主義陣営の主導権を握り、民主主義陣営全体を動かす一つの代表的な国家として今まで進んできましたが、これも天的な復帰摂理の道のりにおいて、その指し示す方向が天に近いほど残るでしょう。もし、その間に溝ができる日が来るならば、アメリカも衰退の道を歩むことになるでしょう。


私たちは日本の支配下で36年間、多くの愛国者を見ました。また、この国、この強土に多くの愛国者たちが血を流していきました。血を流しながらも、彼らの心にはこの民族が今は圧政に苦しんでいますが、この環境の中で滅びるのではなく、必ず独立国家にならなければならないという希望を抱いて戦ったため、今日の大韓民国という主権国家を回復させることができました。


その愛国者たちが圧政の下であらゆる条件に対抗して戦い続けたのはもちろん、民族を愛し、国土を愛する心があったからです。また、彼らには勝利の日を待ち望む心と、その勝利の日が必ず来ると信じる強い心があったため、そのような圧政の下でも屈せずに戦うことができたのです。このことを私たちは知らなければなりません。


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このように、一つの国を見つけるにもこれほどです。ましてや、天的な理念を探すには、さらに変わらない信念と変わらない同志愛を持って聖地を求め、天に代わって行動しなければなりません。このような集団が世の中にいなければ、この世界は天と因縁を結ぶことができません。歴史の流れに伴い、天が摂理される意志を受け入れてきた多くの宗教者たちがいましたが、その中でも、歴史を経てサタンとの血闘で悲惨な犠牲の捧げ物となったキリスト教徒たちこそが、その集団であることを私たちは知っておかなければなりません。


旧約4千年の歴史からイエス以後の新約2千年のキリスト教の歴史を見ても、他の人々がその理念について夢見ることさえなく、異邦人たちは全く考えもしなかったにもかかわらず、天の教えに従って死んでいった人々が数え切れないほどいました。さらに、天の理念を探し求める道においても、多くの人々が犠牲になりました。


このように、歴史の道のりで天の理念を探すために、多くの人々が犠牲になってきました。では、天の意志を探し、その意志を成し遂げるために犠牲となってきた集団と、これに対して国家のために戦い、犠牲となってきた集団は、どのような結末にたどり着くのでしょうか?これがこの時代の私たちにとって疑問の問題です。これからは世界政府主義の時代が来ると言われています。一つの政府形態、一つの理念の世界に向かって歴史は流れており、この二つは今日、互いに近づいています。しかし、この二つは互いに和合しようとする兆しを見せていないという状況です。私たちはこれをどうすべきでしょうか?


ここで、皆さんは歴史の道のりで天のために無惨に血を流してきた集団、天の理念を握りしめて戦い続けてきたその集団を忘れてはなりません。ですから、土地を奪い、主義を立て、人間を包摂する時代は必ず過ぎ去ります。


宗教はすでに天が指し示す方向に向かって動いていますが、人間の希望はその位置まで届かず、中途半端で止まってしまうため、歴史上に数多くの忠臣がいましたが、彼らが今日の歴史が輝くこの時、世界が動いているこの時に誇るべきものは何でしょうか?私たち韓国の士大夫(サユクシン)のような方々は、世界的な観点で誇るべきものを持っているでしょうか?彼らは民族的な観点でしか誇ることができない方々です。


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この観点から、2千年前のイエス様と私たちを比較してみると、イエス様はどのような方でしょうか?イエス様は国家を統治し、世界を統治し、人類を統治できる理念と資格を持ち、神様を父としてお迎えし、神の独り子だと主張された方です。それ以上に何をする必要があるでしょうか?まさにメシアとしての資格があったのです。


今日の私たちは、ある領主の息子娘になりたい、世の中のある主人の息子娘になりたいと願っていますが、イエス様は創造主を据えて自分がその独り子であるとおっしゃいました。それこそがまさにメシアの資格を持つ方であるということです。


そのような姿で現れたイエス様は、どんな困難にもため息をつくことはありませんでした。それこそが彼が人類に残した最大の貢献でした。イエス様はそのような信念を持ち、どんな困難な嵐が襲いかかってきても、その場で忠臣の節操を立てたため、今日、すべての人々のメシアとして讃えられることができるのです。


このような節操心を持ち、一つの理念を成し遂げるために生涯を捧げて進んだイエス様は、その道を阻む親も「行くべき道を行きなさい」、民族も「行くべき道を行きなさい」、種族も「行くべき道を行きなさい」、教団も「行くべき道を行きなさい」とおっしゃいました。すべてを捨てて握りしめたのは世界と人類でした。彼は世界と人類を抱えて亡くなられたのです。親、兄弟、教団、民族が行くべき道を行っても、その前で消え去るべきではないと考えたのは、この世界と人類でした。それがイエス様の中心となる考えでした。


ですから、イエス様はこの世界に必要な方であり、この人類に必要な方です。そして、イエス様は天を握りしめ、天のために生き、亡くなられた方です。ですから、イエス様は神様にも必要な方です。このように天と地に必要な方であるため、メシアでないはずがありません。今日の私たちはこのことを知らなければなりません。


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これまでの歴史をすべて整理すると、次には何を持って世界的な因縁を結ぶのでしょうか?これが今日、志を持つ青年男女たちが解決しなければならない重大な問題です。また、何を握りしめ、何を捨てるべきかというのが、終わりの審判を見据えている多くの人類が最終的に選択しなければならない問題なのです。


イエス様は当時の時代状況から見ると、民族の反逆者でした。教団の反逆者であり、種族の反逆者であり、さらに言えば伝統の破壊者でした。しかし、本当の意味では彼は破壊者ではなく、建設者であり、反逆者ではなく、愛国者であり愛天者だったのです。この事実を人々は今日になってようやく理解しました。私たちが真の愛国者を語るならば、それはどのような人物でしょうか?真の愛国者、真の民族主義者であるならば、イエス様のように世界を一つの民族として見なければなりません。


ゴルゴダの道、十字架の道を堂々と歩んでいかれたその姿が、私たちが崇拝すべき方の姿であるということをもう一度考えなければなりません。イエス様が不当にもこのような苦難の道を歩まれましたが、その不当さを理解してくれる集団はどこにいるのでしょうか?去っていかれた方の殉教の場が地上に残っており、その悲しみが天に宿っている限り、成し遂げなければならない天の意志が残っている限り、そのすべての悲しみを解き放つ歴史的な終末の時は必ず来ます。その時を指して私たちは「審判の日」、「終わりの日」、「終末」と呼ぶのです。


今、終末の時代が胸の奥深くに感じられるこの時に、皆さんはどこへ行くべきか、何を取るべきか?これは皆さんが自問自答して解決しなければならない問題です。イエス様の断固たる行動を模倣して進む集団が、果たしてこの民族の中にいるでしょうか?この世界の中にいるでしょうか?私たちは目を転じ、他の観点からそのような集団を見つけることができる知恵深い人間でなければなりません。


皆さん!イエス様が亡くなられたその時代と、私たちが生きているこの時代は何が違うでしょうか?何も違いはありません。違うものはありません。このような時代に生きている今日の私たちが、その時代に排斥されたイエス様を迎えることができるでしょうか?これは考えなければならない問題です。


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今日、私たちが世界を探し求めているこの時に、平等を叫ぶ共産主義はどうでしょうか?労働者や農民を救おう。共に食べ、共に生きようと叫んでいます。歴史の流れをもう一度観察してみましょう。これから世界を動かすことができる民族はどのような民族でしょうか?世界を動かすことができる主義はどのような主義でしょうか?世界を動かすことができる宗教はどのような宗教でしょうか?それは、先に述べたように、善の理念に従ってすべてをそこに委ねて行動する民族主義的宗教でしょう。


これはどういう意味でしょうか?善とは自分を中心にしたものではないということです。自分の家庭を基にして生きてきて滅びなかった家庭があったでしょうか?自分の一国家を基にして世界を求めようとした民族の中で生き残った民族はどこにいるでしょうか?このような主義を基にしてこの世界を支配し、永遠不変の理念を求めたと言ってもよさそうですが、見てみてください。天を除けばすべてが終わりです。


本来の人間は神様をお迎えし、天倫を中心にして生きるようにできていました。そのような人間の生活で天倫の条件を代わりにしたものが何かといえば、それは人間が持っている良心の基準です。この良心の基準の前に理念があり、理念の基準の前に天情があります。このようにして、内的環境の中で天倫を探し求めていくことが復帰です。


私たちの世界を探し、私たちの民族を探し、私たちの種族を探し、私たちの国を探して、私たちの主を迎えることのできるその日こそが、天が望まれる終末の日です。その日は、天の意志を持って地に来られたイエス・キリストが定めた終末の日であり、私たちが探し求めるべき希望の日です。天が望まれる日であり、イエスが望まれる日であり、私たちもまた望む日なのです。その日にはすべてが解決されるでしょう。


皆さん、再臨主は去ったときのまま来られるのが復帰の原則です。何かを失ったならば、失われた場所に行かなければそれを見つけることはできません。故障が起きたならば、その逆の方向に向かって、故障が起きた順番をたどらなければ、故障が起きなかった場所に戻ることはできません。これが因果法則を外れることのできない鉄則であるため、再臨主も去られたときのまま来られるということを知らなければなりません。失われたものは失われた場所で見つかるということを知っておくべきです。


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今日のこの時代は、エデンの園でアダムとエバに許されたものを取り戻さなければならない時代なのです。今日この地に住んでいる人間はすべて、堕落したアダムとエバの子孫です。皆さんもまた堕落した親の子孫なのです。真の親の子孫になれませんでした。ですから、再び真の親の子孫とならなければならないのです。この言葉はどういう意味でしょうか?それは、皆さんは神様と真の親を直接にお迎えできる神様の愛の領域内で、真の親が両手を挙げて授けてくださる祝福を受けて夫婦となり、繁殖していく真の親の血族となるべきだということです。しかし、今日まで私たち人間は真の親の子供としてこの地を正しく支配したことがないため、真の親の息子娘となることができません。この理があるではないでしょうか?


では、天は4千年もの間苦労されて人間の前にどのような主義を立て、どのような主人公を立てられたのでしょうか?「この世界は私のものであり、全人類は私の種族であり、神は私の父である」という主義を叫ばれたイエス様を立てられました。そうして初めて人間と因縁を結ばれたのです。しかし、イエスがその意志を地上で成し遂げることができず、十字架にかけられて亡くなられました。去られたその主は、再び戻ってこられなければならない運命にあるのです。これは、民族的な審判の終わりの日が、世界的な審判の終わりの日に延長された結果を生みました。


今日、この世にイエス様が去られたまま戻ってこられるならば、すべてを捨てて亡くなられたことで成し遂げられなかったイエス様の目的が成し遂げられなければならず、イエスを基にして世界理念が整えられた園で、イエスを基にした種族の動きが現れなければなりません。


だからこそ、統一の形態を整えて進む運動が起こらなければならないのです。単なるキリスト教の統一だけではありません。すべての宗教が一つの形を成さなければなりません。キリスト教徒たちは「あなたたちは儒教を信じ、仏教を信じているから地獄に行く」と言っています。しかし、そうはなっていません。行ってみるとそうではありません。そうなっているのなら、私があの国に行って話し合ってみますが、絶対にそうではありません。イエス様を一人としてさまざまな方向に引っ張り上げようとしているので、一つの方向に早く集めなければならないため、横に向かうことはできません。縦に「お前が一番だ」と言って追い出しているのです。このように見ると、今日の人類はすべて天の意志の中にある集団です。


イエス様は4千年の間、民族と血縁を捨てて築き上げたユダヤ教団、4千年を経て選ばれて立てられたイスラエルの民を一瞬で放棄されました。しかし、それでも彼らは神様と因縁のない民族ではありませんでした。絶対的な因縁がある民族でした。どの立場にあっても「神様は私たちの神様だ」と言える民族でした。このようなイスラエルの民をイエス様が放棄されると、天も放棄し、地も放棄し、人類も放棄しました。そのため、ユダヤ人たちは世界で最も悲惨な集団となりました。世界をさまよい、多くの民族に迫害されました。


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天を望んでいる今日の私たちも悲惨な生活を多く経験してきました。このことは今まで人々に知られていませんが、私たちのある日が来れば、世界歴史の道のりの中で私たちが無視できない位置に立つことになるでしょう。イエス様を裏切らなかったならば、栄光に満ちた世界理念を獲得することができた民族が、苦難と逆境の中で世界の理念を探し求めているため、祝福された民族も祝福されなかった民族も同じようになってしまいました。


イエス様は天が4千年もの間、力を尽くして築き上げた民族を捨てて、握りしめたのは世界と人類です。イエス様はユダヤ教を中心とした宗派的な観念に囚われなかったということです。ユダヤ人が信じなくても構わないという覚悟で新しい理念を持って進まれたイエス様でした。このことを思い返すと、今日のキリスト教徒たちにとっては、目覚めるべき一面があります。


このような内容を全体的に整理してみると、民主主義の形態を経て主義と思想を備え、理念的な宗教の統一形態を整えて進む鉄則があるということがわかります。この時代に民主主義陣営に残る者となるためにはどうすべきでしょうか?


民主主義陣営に残る者となるためには、イエス様のようにならなければなりません。イエス様のように全世界のために、全人類のために、天のためにすべてを捨てることができるならば、その国は残るでしょう。自分の下着まで奪われながらも「おお、天よ!」と叫んだイエス様、天情に染み込んで天だけを握りしめて自分のすべてを捧げたイエス様の後を追うならば、残る者の集団となるでしょう。どの民族がそのような理念を持って進んでくるならば、その民族の前にすべての民族が征服されざるを得ないでしょう。


この観点から見ると、朝鮮半島で生まれた不幸な集団である私たちは、今何を悟り、何を覚悟すべきでしょうか?「南北に分かれたこの国に住む私たちは、すべてを捨てました。親兄弟も捨て、家族も捨て、種族も捨て、物質もすべて捨てましたが、そのことは気にしていません。願わくば、天よ!世界の中で私たちがいるこの場所が、イエス様が叫ばれたゲッセマネの丘のサンサンボンであることを許してください。この地が世界のゲッセマネの丘であることを許してください。そして、世界のゴルゴダの頂であることを許してください」と祈る心が燃え上がらなければなりません。このような青年男女がこの国に多く現れるならば、この国は絶対に滅びません。


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今日、「歴史を捨てても、この時代を捨てても、どんな主義やどんな種族を捨てても、天の心情だけは、天が愛されるものだけは捨てることはできません」と言える集団がいるならば、その集団は世界を支配するでしょう。このような集団が真の天の集団です。


イエス様が再び来られるときは、去られたときのまま来られると仰いました。去られた足跡、ゲッセマネの丘でのその悲しい心情はどこに行ったのでしょうか?ゴルゴダで十字架を背負い、血と汗を流しながら歩まれたその痛ましい心情はどこに行ったのでしょうか?イエス様そのものは問題ではありません。今、私たちが探さなければならないのはイエス様の心情です。


心情を通して許し、心情を通して一つになり、心情を通して和合する、真の人類愛に染み込んだ集団が希望の園で生きることができ、心情を通して世界を見つめる主人公となって初めて、この世界の万物さえも和解するのです。その時にようやく、神様を「私の父」と呼ぶことができ、6千年もの間蓄積されてきた億千の怨恨の峰があっても、それを乗り越えて天を握ることができるのです。このような集団こそがゲッセマネの丘で主張されたイエス様の実体の結実であり、ゴルゴダで十字架にかけられたイエス様の実体の結実です。


したがって、このような存在が現れてこそ、全人類が善の園で一つの種族として神様をお迎えし、一つに和合して生きることができます。その世界は、受け取ろうとする人々が住む場所ではなく、与えようとする人々が与えるために努力して生きる場所です。これまで歴史の道のりで受け取るために苦しんできたのが、まさにサタンです。自分を中心にした善と統一を主張せず、他者を中心にした善と統一を主張する集団が住む場所こそ、統一教会が主張する地上天国です。


神様はイスラエルの民に選民思想を植えつけられましたが、その選民思想を持って誇りながら生きることができる人が、まさに天民思想を持った人です。したがって、神様が今まで探してこられた人は、選民を失った天の悲しみを知り、天国を建設するために天民思想に徹底して従う人です。天民思想に徹底して従うその心情がある場所が、億千の人々が帰依する地点です。ですから、その場所に入る者は滅びることがありません。また、その場所を中心にして進めば、すべての問題は解決されないものはありません。その心情に染み込んで他者のために与えようとし、与えるために努力する集団が住む世界が、いわゆる初めに主張した意志の世界です。そして、今まで歴史の過程を経てこられた神様の意志が成し遂げられた世界であり、今まで苦労されてこられた歴史の道のりの希望の園であることを皆さんは知っておくべきです。


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この地に真の国があるならば、その国は何の国でしょうか?その国を「地上天国」と呼びます。その国でなければ、神様が本来のアダムとエバに「あなたがたは完成したときに万物を支配せよ」と祝福されたその意志を成し遂げることはできません。そして、人間は初めてこの地の真の主人として現れることができるということです。また、その時にようやく人類は互いに真の兄弟となることができます。その時に初めて私たちは神様の真の息子娘となるのです。天のお父様に対しては真の孝子孝女であり、主人に対しては忠臣であり、この宇宙万物に対しては真の主人となるのです。そのようになれば、神様が私たちに全権を委ねられますが、外的な全権だけでなく、内的なすべての心情の中心までを移してくださいます。神様がすべてを任せられても安心できる息子娘になるのです。このような息子娘は、歴史の道のりにおいていかなる忠臣、烈女、孝子孝女よりも偉大な存在です。そのような人々を世界的に誇れる日がこれから訪れなければなりません。


今日の共産主義者たちは、自分たちが掲げる理念を中心にして人格者や功労者を追いかけるモデルを立てていますが、民主主義はそうではありません。私たちはそれを超えて、歴史の道のりで天に向かって全体の理念を立てた功労者たちを崇拝し、彼らの人格を尊敬しなければなりません。さらに、彼らの足跡を守り、そのような主義を持って地上で天が追求する理念の世界に向かって進む者、またそのような集団にならなければなりません。


そのような理念圏内で、この世界を一つの国として、この世界の人類を一つの民族と見なし、希望の主人公をお迎えして生きることのできる一つの日、天と地を代わりにしてすべての被造物と和合し、礼拝できるその日を望んで進まなければなりません。その時が来るまで、すべてを与えつつ犠牲を覚悟して戦っていく者こそ、天が望む愛国者であり、天が望む愛天者であると言えるのです。




<祈祷>


お父様、歴史の道のりを振り返ってみると、人類はゴルゴダの道のりを歩んできたことを知っています。そして、今日私たちが見つめる山川も骸骨の地であり、私たちが住んでいる都も骸骨の地であり、私たちが動いているこの地も荒地となっています。ここに立っている私たちは皆、捨てられた民族となったのです。父よ、では、今私たちが唯一所有することができるものは何でしょうか? イエス様が右の頬を打たれたら左の頬まで差し出し、上着を求められたら下着までも差し出しなさいと仰いましたが、この言葉は歴史の道のりのどの時代、どの場所で実現するのでしょうか?どの民族を通して、どの主義を叫ぶ者たちを通して、どの教団を通して、その言葉が成し遂げられるのでしょうか?

お父様! この民族は4千年の悠久の歴史の道のりで、打たれながらも弁解することもできず、絶望せざるを得ないことを何度も経験しながら、希望の日を待ち望んで忍耐強く進んできた民族です。

     23

しかし、この終わりの時に天的な隠れた因縁があって、この民族が世界的なゴルゴダの山頂に置かれていることを知らずにいます。お父様!お父様! ゲッセマネの丘で祈られたイエス様の泣き叫ぶ声と同じ祈りが、この国の隅々で響き渡るようにしてください。カルバリの山で敵を許してくださいと叫ばれたイエス様の聖なる姿を慕う真の集団はどこにいるのでしょうか?探し求めることができる集団とならせてください。

選ばれたイスラエルの民は、ゲッセマネの丘のイエス様に見向きもしませんでした。天の心情に悲しく、地の怨みを晴らすことができないために悲しんでいたイエス様の心情、「地よ、砕けよ。天よ、裂けよ。体よ、引き裂かれよ!」と叫ばれたイエス様のその心情を誰も理解しませんでした。

イエス様の心情が悲しみに満ちていたにもかかわらず、その三人の弟子たちはイエス様を理解せず、深い眠りについていました。彼らは自分自身のことだけを心配しながら生きていました。その事実を今日、私たちが心に留められるように許してください。

お父様! この不幸な者たちを呼び寄せたのもあなたでした。あなたが許してくださったから、この場に来ました。この場に留まらせてくださるのもあなたであり、導いてくださるのもあなたです。ゲッセマネの丘で、お父様に向かって「世界を捨てることはできず、人類を捨てることもできない。父を捨てることはできない」と、全身全霊で泣き叫び、すべてを捨てて清算して進まれたイエス様の心情的な覚悟を持つ息子娘、つまり天情の因縁を結んだ息子娘たちがここに多く現れるように許してください。父よ!願い求めます。

この日を迎えてみると、限りない悲しみを感じます。この日がこの民族の悲しい日であり、この民族の無念の日であることを私たちは知っています。私たちが動いているこの日、天の意志に染み込んだ心で永遠の新しい理念を提示することのできる衝撃が私たちに与えられる日としてください。父よ、切に願い求めます。

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今、言葉を伝えました。私たちが天を愛する愛天者となり、天の国、築かれるべき本来の国を愛する愛国者となることができるように許してください。お父様、切に願い求めます。

数多くの人類がこのような理念を持って死んでいき、命を捧げてこの道を探し求めてきたことを今日、私たちは知り、さらに知ることができました。お父様が指し示される方向も知り、感じ取ることができました。私たちが全身全霊を捧げ、愛天者として、愛国者としての天的な因縁を持つことで、天的に築かれた6千年の歴史の伝統を踏みにじる者とならないようにしてください。裏切り者、反逆者とならないように許してください。切に願い求めます。

今日の言葉を聞いて、ここにいるこの命たちが何かを感じ取りましたか? もし感じ取ったならば、この言葉が時代の終末において、それぞれの心情に解決の基点を築き、カルバリの山を乗り越えなければならない、復活しなければならない重大な事実を告げている言葉であることを悟らせてください。

新しい理念の世界、新しい主義のために自分のすべてを捨てて進んでいったキリストの姿のように、私たちもまた自分のすべてを捨てて、あなたの悲しい心情を慰めて差し上げることのできる、終わりの日に残される集団となれるように許してください。そして、この終わりの日の迫害の道のりで消えていく集団とならないように許してください。お父様、切に願い求めます。すべてをあなたの御意志どおりに成し遂げてください。主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。

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