文鮮明先生御言葉選集 5 - 14. 「歩みを止めて守ってくださる方を再び見つめよう」(1959年3月8日)
1959年3月8日(日)、前本部教会
聖書拝読:詩篇: 121篇
<祈祷(Ⅰ)>
命を司る父なるお父様、私たちは不甲斐ない姿であなたの前に集まりました。どうか私たちをお受け入れください。あなたの正しいご意思に従って、私たちを導いてください。
命の源である父なるお父様に賛美を捧げたいと願いますが、死の力に縛られた罪の本性が今日まで私たちを支配しています。新しい領域へと私たちを導くため、救いの摂理を行ってこられた父なるお父様、この時、現れてくださり、死の力を取り除き、生命と復活の賜物をお与えください。
永遠なる父なるお父様、この一時が、創造の価値を持つ生命体として動くことができる時間となるようお許しください。倒れた私たちが、あなたの限りない善を歌い、限りない美を称える賛美の姿となれるように、心から願い、求めます。
人類の祖先の堕落によって、天と地の命のつながりが断たれ、天使の代わりに賛美を捧げるべきだった天使長は、天を裏切ることでその責務を果たせなかったことを知っています。
今日、私たちは呼ばれました。賛美を受けられなかったことで積もったお父様の怨みを、私たちを通じて晴らしてください。言葉にできなかった内なる事情を、私たちと共に分かち合ってください。そして、人々と天をつなぐ存在として、私たちを立ててくださるよう、心から願い求めます。
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創造の喜びを私たちと共に分かち合おうと待ち望んでこられた父なる神様の前に、全ての忠誠を捧げ、生命の実体として、あなたと絆を結べるように、導いてください。
天は真心から賛美を捧げる者を探しておられます。今日、私たちが真心の協力者としてお父様なる神の前に立つことを待ち望んでおられるという事実を、本日、私たちに教えてください。私たちが全てを主管するために、創造の理想を立て、これまでご苦労されてこられたお父様の心情を感じ、無限の協力者、無限の賛美者、無限の恩恵を受ける存在として、私たちが立てるようにしてください。
不甲斐ない私たちが、お父様の前に集まったことを、私たち自身の力だけでは、天が求めるいかなる条件も満たすことができないと知り、私たち自身を超えて、お父様の心情を感じ取り、お父様の事情を理解できる者となれるよう、心から願い求めます。
一週間の間に、意図せずにお父様の御心に背くことが多かったことを知っています。この時だけでも、お父様が望まれる真の基準を立てることができるようにお許しください。善の実体として、お父様の愛の懐に抱かれるこの一時をお与えください。
この日は聖なる日です。どうか全ての人々を祝福し、この哀れな民族をも祝福してください。孤独な家庭を、あなたの恵みの懐に抱きしめてください。
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私たちの不忠の身体を屈めて、お父様に礼拝を捧げようとしているこの一時、ただただあなたが主導されるようお許しください。暗黒の勢力がこの時間に侵入しないよう守ってください。聖別された場所で、お父様の心情を分かち合い、お父様の心情に従って礼拝できる時間をお与えください。愛するお父様、心からお願い申し上げます。
初めから終わりまで、どうかあなたが直接導いてくださるよう心から祈り求め、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
<祈祷(Ⅱ)>
本来、天と地を統治するために来られたキリストの実体の姿を記念するこの時間をお与えください。ゴルゴダの丘で血を流し、敵のために祈られたその心情を記念する時間となるようお許しください。地上に悲しい出来事があるなら、それ以上に悲しいことはないということを、この時間、私たちが骨の髄まで感じることができるようにしてください。
イエス・キリストの悲しい事情と心情を私たちが体感でき、天の悲しみと無念さを知り、民族と人類、さらには歴史的な罪を犯した悪魔さえも、未来の子孫が進むべき道までも憂慮し、イエス・キリストの痛ましい事情を感じるこの時間をお与えください。お父様、心からお願い申し上げます。
顔も立場もない私たちを抱きかかえるために、6千年間、日々の休みもなくご苦労してこられ、心情の傷をものともせずに歩んでこられたお父様、私たちがその心情に習うことをお許しください。そして私たちがその歩みを追い、お父様の御心を成し遂げるために働くことができるように導いてください。
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罪の道を歩きながら、罪に浸り天を裏切ってきた私たちは、何も持たず疲れ果てた身体でお父様の前に立っています。この体がそのままではお父様の御前に立つことはふさわしくないと知りつつも、お父様を求める運命に置かれているため、面目なくもあなたの心情を慕ってこの場に伏しています。憐れみ深いお父様、どうかお許しください。愛するお父様、慈悲をおかけください。
私たちを支えるために忍耐してくださり、闘ってこられたお父様、今日も再び諭しの鞭を振ってください。お父様の御前に立つにふさわしくない悪の要素があるならば、それを取り除いてください。諭して聞き入れないときには、鞭を振るってでも悪の要素を取り除いてくださり、私たちが天の心情に触れ、神の命令に従うことができるこの時間をお与えください。お父様、心からお願い申し上げます。
お父様、この3,000万の民族を憐れんでください。悲しみの谷を越え、長い歴史の過程を経てきたこの民族、道を失いさまよいながらも今日ここまで残った者たちを憐れんでください。進むべき目的地もわからず彷徨っていたこの民族に、天の義なる新しい知らせを伝え、新たな復活の祭壇を築く一日をお許しください。新たな栄光の時を、この民族にお与えください。心からお願い申し上げます。
無力な私たちを集めて、お父様がこの民族の前にいけにえとなることを命じられたことを知っています。天に対して責任を果たせなかった自分を嘆くのではなく、お父様の御心に全てを捧げるいけにえ、悪魔の都市に突入して爆発する一つの爆弾となることを私たちにお許しください。心からお願い申し上げます。
迷い、さまよっている群れはこの民族だけではありません。この地に住む多くの人々にも新たな夜明けの鐘を響かせ、命の光を照らし出してください。お父様の栄光の日を紹介する時が、一日も早く来るようお導きください。心からお願い申し上げます。
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私たちを呼び立て、天の摂理の全体を教えてくださったお父様、私たちはその御心を知りました。どうか私たちがその御心のために行動できるよう、直接の力を行使してください。ためらう私たちの足を急がせ、躊躇するこの身体を、お父様、奮い立たせて、お父様が望まれる善の福地に向かって新たな決意を持って前進できる天の子どもたちとさせてください。心からお願い申し上げます。
<祈祷(Ⅲ)>
お父様、私たちは孤児のように迷い、目的も方向もわからず、どのような状況に置かれているのかも知らぬまま、歴史の流れに流され、生命の中心を見失ったまま、今日まで来た哀れな姿であることを知っています。
しかしながら、このような私たちを支えてくださり、私たちが悲しむときに共に悲しんでくださるお父様がいることを知りませんでした。そして、死の力に縛られて呻く私たちを見つけ出すために、昼夜を問わず苦労してこられた主人がいることも知りませんでした。こうした事実を知り、感じる喜びが、天と地を繋ぐことよりも尊いものであると私たちに悟らせてください。
私たちのために尽力してくださった天のお父様がいること、そして私たちの人生を案じてくださるより大きな天があることを知り、心と体でお父様に向かって敬虔に接することができるようお導きください。私たちが傷つく前に、お父様が先に傷ついてくださったという事実、私たちの体が疲れ果てて倒れるときには、お父様が私たちを抱きしめて慰め、再び進むべき道を示してくださることを、私たちに知らせてください。
今日まで言葉だけで生きてきた自分自身を自覚させてください。これからは、お父様を知り、お父様の事情を理解できる子供たちとして、お父様と心情の一体を成し、離れたくても離れられない、分かれたくても分かれることのできない関係を築き、お父様と私たちの間に割り込むことができる存在が何もない、確固たる位置に立ち、天の悲しみを自分の悲しみとし、天の喜びを自分の喜びとし、天の仕事を自分の仕事とし、天の責任を自分の責任と感じることができるようにしてください。
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今日、私たちは永遠に変わらない位置に立ち、億万のサタンと戦わなければならない責任者の立場にあることを知り、全てを救うためには、犠牲の立場に立たなければならないという、この厳粛な事実を理解できる子供たちとさせてください。お父様、心からお願い申し上げます。
天は私たちが眠っている時も眠らず、休んでいる時も休まず、この一群を目覚めさせ、導いてこられたお父様、再び、私たちはあなたの前に戻ってきました。どうかお許しください。眠る者や怠ける者がいるならば、再び警告し、傷ついた者がいるならば、お父様、油を塗り、癒してください。心からお願い申し上げます。
天を求め、悲しみながら追い求める者がいるならば、その者たちを抱きしめ、慰めてくださるこの時間となるようにしてください。お父様、心からお願い申し上げます。私たちの事情を知っておられるお父様、その事情の主人であり、許されない困難な事情さえも受け入れてくださる父であることを、私たちは知りませんでした。今、この心の奥底にある全ての困難や悲しみ、そして悩みを、お父様の前に全て打ち明け、お父様のものとして受け取っていただけるこの時間としてください。心からお願い申し上げます。
お父様、私たちの心の中にあるすべての不正な要素を取り除き、あなたの心性に、あなたの本質に同化し、あなたと一体となることができる強固な決意と覚悟を持てるこの時間としてください。お父様、心からお願い申し上げます。
自我の観念であなたのすべての性質を測ろうとする子供たちがいないようにしてください。完全に従順し、調和し、お父様が望まれる通りに、そしてお父様が形作られる通りに、動き現れるあなたの子供たちとなることをお許しください。お父様、あなたが許されない要素があるならば、すべてを取り除き、あなたが直接ご自身の御座にお座りになり、命令してくださるよう心からお願い申し上げます。
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今、この人々にあなたが与えたい言葉をお与えください。人間の言葉よりも、あなたの心情を通して発せられる新しい言葉が私たちには最も必要です。距離を置かずに、お父様の心情を直感的に感じ、お父様の動きを私たちの動きとして感じ、お父様の感じることを私たちの感じることとすることができるように導いてください。そして、お父様の無念さを体感し、お父様の怨みを解消することができ、心と体で新たな言葉の衝撃を感じることができるようにしてください。心からお願い申し上げます。
語る者の心も、受け取る者の心も二つではなく一つにしてください。この一時に、さらに恵みを重ねてお与えください。心からお願い申し上げます。
今日、地方に散らばって礼拝を捧げている孤独な家族たちにも、お父様の憐れみの御手が一律に注がれるよう心からお願い申し上げ、すべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。
<御言葉>
人間たちは、どのような目的地に向かっているのかも知らずに、長い歴史の道を歩んできました。どのような理念を持ってこの地に生まれ、その理念を通してどの目的地に到達するのか?また、どのような価値でその目的と関係を結ぶのか?こうした問題について、人間たちは完全な解決を見出せないままもがいているという事実を、皆さんはよく知っています。
信仰を持つ人々は、「私」の存在意識について語るとき、「私」という存在は出発も天であり、その結果も天であると言い、その天の意志の前で一つの価値を探し求めると言います。しかし、この観念は宗教的な人々だけでなく、一般の人々も持つべきだと考えます。人類の一員として生まれた私たちが考えるすべてのことは、自分を中心にしているけれど、その目的は自分自身にはないのです。自分を超えてどのような理念の世界と関係を結びたいのかという事実を、私たちは実生活の中で感じています。
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しかし、その世界と現在の私たちとの間には時間的な距離と空間的な距離があります。この距離を打破するための重要なものがあるとすれば、それは学説でも手段でもありません。この距離はただ心情の世界に入らなければ打破できません。
心情、それは宗教界で問題視されるだけでなく、文学や芸術の分野でも問題とされています。心情そのものを考えると、個人的な心情があるでしょうし、家庭レベルの心情、また社会、国家、世界レベルの心情があるでしょう。さらに、創造主、つまり実存の主人公がいるとすれば、その主人公も心情を中心に動いているという事実を私たちは否定できません。
人が生き、動くのは心情を中心にしたことです。心情を中心に状況を解決し、心情を中心に関係を結ぶために、人々は動いており、社会も動いており、世界も動いており、天理も動いているという事実は否定できません。
私たちがこの宇宙、さらに天主を洞察してみると、宇宙と天主は心情を基に動いています。つまり、心情を基盤にした法則を超えた存在は一つもありません。これを私たちは理解しなければなりません。
心情を中心に考えたとき、私はどのような心情を持っているのか、この社会と世界の人々はどのような心情を持っているのか、そして一つの統一的な天主を成し遂げようとしている神がいるなら、その神はどのような心情を持っているのか?またその心情がどのような関係と手段で結びつけられるのかが重要な問題です。もし個人の心情を超えて社会、国家、世界を越え、創造主の心情にまで結びつけられる偉大な宗教が現れるなら、すべての創造物はその宗教の範囲内に自然に入るだろうと考えます。
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それでは、今日私たちがより良い善を目指し、より美しいものを追い求め、より静かな愛を探し求める最高の目的は何でしょうか?それは創造主の天的心情と縁を結ぶことです。この事実を私たちは再び考えなければなりません。
この視点から見たとき、神の心情、天理の心情、人倫の心情を考察するとき、これらの心情が一つの目的に向かって正常に動いているのかというと、そうではありません。人間社会の人倫と摂理の法則に従って動いている天理が方向を変えているのです。この事実を宗教という名詞を借りて言うと、堕落の結果であると言えます。堕落によって創造主の心情と天理の心情、人倫の心情が衝突している悲しい事実を私たちは理解しなければなりません。
私たちはこうした自分たちを認識し、こうした社会を認識し、こうした世界を認識して歩みを止め、再び復活した創造世界を見つめ、創造主の心情を再び見つめ、社会の実状を再び見つめ、自分の心と体を再び注視できる人にならなければなりません。そうしなければ、新しい理念の世界、新しい静的な世界は人類の歴史に登場することはできません。このような立場に立った私たちは、歩みを止めて見守ってくださる方を見つめなければなりません。
私たちの生活の中で、私たちが知らず知らずのうちに動いている存在を、私たちの生活環境を整え守ってくださる存在を、私たちは歩みを止めて再び見つめる必要があると感じなければなりません。それで、今日皆さんにお伝えしたいことは、歩みを止めて見守ってくださる方を再び見つめることです。このタイトルでお話ししようと思います。
私たちは全体を見渡せる人にならなければなりません。さらに、目を上げて最も小さな微生物の世界を見つめることのできる人にならなければなりません。また、目を上げて死が波打ち、死によって破壊されていく社会的実状を見つめることができる人にならなければなりません。そして、目を上げて自分の心の世界と無限の理念の世界、関係を結びたい静的な理念の世界を見つめなければならないことを、皆さんは再考しなければなりません。
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私たちは微生物である細菌から天体まで、自分の一個体と関係を持って考えなければなりません。また、私一人を中心に、平面的な世界だけでなく立体的な世界、すなわち心の世界を再考しなければならない立場にあることを皆さんは理解しなければなりません。
今、私たちが住んでいるこの地球は、太陽の周りを宇宙の法則に従って変わることなく公転しているという事実を私たちは知っています。この地球自体がそうであるように、太陽自体も自転しています。地球の130万倍の質量を持つ太陽が休むことなく動いているのです。宇宙には、太陽系の質量の2000億倍に相当する広大な銀河系があります。このような銀河系を小宇宙と呼び、宇宙には銀河系のような星雲が数え切れないほど存在します。これを総称して大宇宙と呼びます。私たちはこの広大無辺な大宇宙の世界を心を広げて見る必要があります。半径だけでも数千億光年にもなる巨大な大宇宙を創造された神は、その大宇宙を変わらぬ法則によって数億千万年も動かし続けているのです。私たちが考えることも感じることもできないほどの偉大な力でこのすべての天体を動かしているのです。
このような宇宙を創造された神を考えると、その壮大さと偉大さに自然と頭を垂れざるを得ません。この大宇宙を創造された方が私たちを守ってくださる父であり、私たちを保護してくださる神であり、実存する偉大な主人公であるという事実を、私たちは心を広げて考えなければなりません。
神はこの大宇宙を創造し、創造された大宇宙のすべての存在を見守り、無限に喜ばれました。一日の希望を描きながら……もし神が言葉を話すことができたなら、どれほど多くの言葉を語ったことでしょうか!また、自慢することができたなら、どれほど多く自慢されたことでしょうか!
このような膨大な天体、私たちが数字で数えることができないほどの価値の天体ですが、その天体自体が神の創造目的ではありませんでした。神の創造目的は、太陽系の中の一つの衛星である地球という小さな地面に、大宇宙に比べれば塵にも劣るような取るに足らない人間を創り、人間を中心に一つの理念の世界を建設することでした。この事実を考えるとき、そのありがたさと喜びと栄光と偉大さがどれほど大きいか、皆さんは考えたことがありますか?
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また、私たちが万物、自然界を見つめるとき、四季によって変わる自然現象や、その時々にすべての生物が花開き美を表すのを見るとき、私たちは無意味な心情で見るべきではありません。私は鳥を見たり、蝶や蜂を見たり、流れる水やそびえ立つ山の頂きを見るときも、これらすべてが創造主である神の内面的な心情が反映された姿であることを感じ取るべきです。
多くの芸術家がいて、多くの文学者がいますが、すべての芸術家と文学者は一様に多くの形容詞を使って創造世界、すなわち万物の美を表現しています。そして、この自然は芸術や文学と密接な関係を持っています。創造世界、すなわち自然を抜きにしては、私たちが楽しめる相対的条件は計り知れないほど減少するという事実を考えると、自然はなくてはならないものであり、感じなければならないものであることがわかります。
私たちはこの関係の心情を持って自然を見なければなりません。さらに、球形や繊毛形などさまざまな形を持つ非常に微細な細菌からバクテリアや細胞、広大無辺な天体まで、生物や無生物を問わずすべての存在は秩序正しく、自分でも知らずに何らかの目的のために作用し、運動しているのです。
では、創造主はなぜこれらすべてをこのように創造されたのでしょうか?それは、地上に住む極めて微細な存在で、天体に比べれば塵にも劣る人間のために天主を創造されたという事実を、皆さんは心の扉を開けて再度考えるべきです。
神がこのように創造した万物を見て喜ぶべきでしたが、喜んだことがないので、人間に悲しいことがあるとすればこれ以上の悲しみはないでしょう。それにもかかわらず、人間はそのような悲しみを感じることができない存在になってしまいました。悲しむことを知らない人間になってしまったのです。しかし、創造主である神は長い歴史の過程を経て、人間が悲しむ前に悲しみ、人間が悩む前に悩みながら、人間のために今まで努力し続けています。
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このような神を、皆さんは心の扉を開けて歩みを止め、目を上げて再び見つめることができなければなりません。その一瞬がなければ、人間の価値が回復されることはありません。
今日、私たちは神を信じていますが、私たちが持っている感情の主体として、意識の主体として信じています。しかし、神は無限の天体を動かし、永遠に向かって休むことなく進んでいます。このような神を私たちは信じるべきです。このような神が6000年という長い年月の間に私たちを守ってくださった事実を、人間は休む時間があったが、神には休む時間がなく、人間は眠る時間があったが、神にはそのような時間がなかった、また人間が知ろうが知るまいが、いつも人間を知っておかなければならない立場にあったという事実を、皆さんは骨身にしみて感じたことがありますか?
真の宗教的心情が湧き上がるその瞬間には、万物を見て頭を垂れることができるのです。そして、天を見たり、自然を見たり、天体の無数の星雲を見たりするときに神秘的で崇高な感情が心から湧き上がります。このような感情から宗教が発生しました。自分を超えて自然の現象を見つめ、高く評価し、動く自然のすべてを見つめ、自分の心情世界の高貴なものを代わりに歌うことができなければなりません。
そして、動くすべてを自然の音楽のように、自然の芸術のように、自然の文学のように感じる心情が自分の心から湧き上がるときに初めて、天体を支配する神と自分が関係を結ぶことができることを皆さんは理解しなければなりません。このように、自分がすべてと関係しているという心情が強くなることで、物事を扱う際の感情的基準が整います。これが私たちが霊的な境地に入るとそのまま感じることになることを皆さんは理解しなければなりません。
創造主神と創造された万物はこのような関係を結んでいます。神と万宇宙はこのような因縁で絡み合っており、人間と関係を結ぼうとしています。このような事実を感じながら自然を見つめるとき、皆さんは初めて人間の尊厳を感じることができるでしょう。
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神と創造物がこのように切り離せない因縁で絡み合っているのは、極めて小さく微細な存在である私たち人間とつながるためであることを知るとき、万物と私たち人間との関係、また神と私たち人間との関係を感じることができます。この境地で私たちの心はこのような方向に流れています。自分の生活の中で、いつも自分をその方向に促しているのです。この境地で芸術が現れ、宗教理念が生まれることを皆さんは理解しなければなりません。
そのため、私たちは広大無辺な宇宙を見つめるとき、無意味に見つめるのではなく、私たちと永遠な関係を結んでいるという立場から、またそれがすべて私たちのために創造されたという事実を感じる立場から見なければなりません。そこで、皆さんにはどんな宇宙的な変動があっても、神が私たちを守り、保護してくださるという信念が生まれるのです。
そうなれば、また神と私は切り離せない驚くべき因縁、神が心情でつながった私の父であることを感じ、体と心が天倫と通じ、倫理と通じて自分も知らない力がぶつかる感覚を得ることができます。
その力は神の心情から来る力であり、創造的な原理法則を通じて神と私との因縁によって作用する力です。また、その力は理念の世界と心情の世界、あるいは現象の世界にまで一括して通じると同時に、無形世界を通じる心的基準となるのです。
このような事実を知る立場にあり、万物を扱い、万物を創造した神の心情を歌うことができる者、天体を創造し喜ばれた神の心情を歌うことができる者、人間を創造し喜ばれた神の心情を歌うことができる者、理念の世界が善く、尊く、美しく創られていることを歌うことができる者が、お父様の前で賛美を捧げる姿があるときに、ここで初めて天の縁が結ばれ、人間の縁が結ばれることを感じなければなりません。また、天倫と人倫を通じる歴史的で摂理的で創造理念的な心情の縁が結ばれるという事実を感じるべきです。
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今日、私たちは神を私たちと同じ形を持つ方と知り、そう信じています。しかし、信仰生活の中や祈りのとき、あるいは暗い夜に一人静かに心を沈めて自然界を見つめたり、真剣な心で心の扉を開けて本心から湧き出る心情を感じながら自然界を見つめたりする時、その自然界が自分のために存在していること、無数の天体世界が自分のために存在していることを実感するでしょう。そのような境地で頭を下げ、「お父様、ありがとうございます」と祈るその瞬間は、人間と人間の感情で祈るどんな時間よりも崇高な祈りの時間であることを感じることができるでしょう。
私たちは神を「父」と呼んでいますが、そのお父様が私たちを守ってくださるとだけ知っており、そのお父様がこれほど大きく、これほど偉大で、これほど細やかであることを知りませんでした。また、そのお父様が一日だけでなく、創世以前から今日まで数千年の間に私たち人間を見つけ出し、心情が通じる父と子の関係を結ぶために苦労してきた事実を、心から感じるべきです。
このような事実を真心で感じる時、この父は偉大であり、その言葉を使うべきはこの方だけであるほど偉大であり、大きいという言葉を使うべきはこの方だけであるほど大きい、驚くという形容詞で称賛し、偉大という形容詞で称賛し、尊厳という形容詞で称賛するべきはこの方だけであるほど偉大な方であることを知るべきです。そして、この方が私たちを守ってくださる事実を知るべきです。
それにもかかわらず、今日まで人間が抱いてきた希望がどうしてそんなに小さいのでしょうか?考察の視点がどうしてそんなに狭いのでしょうか?持っている感情がどうしてそんなに邪悪なのでしょうか? このような嘆きをせざるを得ません。理念の世界の感情を感じる境地に入り、自分でも知らずに頭を下げて涙を流し、私たちを守ってくださる聖なる存在の前で両手を合わせて「お父様」と呼ぶその一時間が信仰生活にないとすれば、神が創造した万物の世界を支配せよと命じられたその支配の目的を知っても、その責任を果たすことができる者とは言えません。
イエスは「全世界を得ても、自分の命を失えば何が得られようか。」(マタイ16:26)とおっしゃいました。取るに足らない微細な存在であるこの存在が、いかなる創造物の価値よりも尊いと言ったのはどういう意味でしょうか?それは形が美しいからではなく、形が偉大で驚くべきだからではありません。それは単に人間が創造理念の世界で内面的に流れる情を通じることができる存在だから、尊いと言えるのです。
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どんなに広大な天体世界、どんなに美しい自然界であっても、それらが創造主なる神にどのような刺激的な感情や衝撃を与える存在となるかはわかりませんが、内面にあるお父様の創造理念の心情を一瞬でも捉え、それを表現して父を喜ばせることはできません。天体の創造的な心情の流れを瞬時に捉え、その感情と同じ感情でその心情に応答できる存在は万物ではありません。外界に現れた万物ではなく、万物を支配するように創られた人間なのです。だからこそ、神は人間を必要とされるのです。
心情というものを除けば、人間の価値は微細なものよりも劣ると言えます。私たちの心も、行動もそうです。それでは、理念を立てて天地を創造された神の心情の前に、美の本質、愛の本質、善の本質として現れるためにはどうすれば良いのでしょうか?歴史的に感じられる感情、時代的に感じられる感情、生活的に感じられる感情、また自分を中心にして見つめる欲望や希望、自分を中心にした幸福感や感情よりも更に崇高な感情の縁が私たちの前にあることを知るべきです。
これまでの歴史の中で、どんなに「私は幸福な人間だ」「私は成功した人間だ」「人間の中で偉大な勝者だ」と言っても、それを嘲笑するほどの幸福が残っていることを私たちは知っておくべきです。どんなに成功を誇る人がいても、それを嘲笑するほどの成功が残っていることを知っている人、また、自分が金を持っていると誇る人たちに、それ以上のものがあることを知るべきだと主張できる人にならなければなりません。
歴史的な終末の時代である今日、天が私たちを訪れ、私たちはまたその天を訪ねるとすれば、私たちは人間が知り得ないほどの幸福がどれほど大きいか、人間の成功がどれほど偉大であるか、歴史的人物を嘲笑するほどの幸福を歌い、さらに偉大な成功を誇ることができるものがあるということを予想できるはずです。
今日、人間が喜んでいるものは完全な喜びではなく、成功と言われる完全な成功でもありません。それは単なる過程的な現象に過ぎないのです。それにもかかわらず、そのようなものに酔いしれて生きている人がいれば、その人は哀れな人です。
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イエスが「全世界を得ても、自分の命を失えば何が得られようか。」(マタイ16:26)と言われたときの「命」、つまり生命は堕落権の中にある私たちの生命ではありません。それではその生命とは何でしょうか?それは創造主の生命と直接的に結びついている生命です。イエスの言葉は今日までの歴史的な感情ではなく、創造本性に流れる感情と関連できる感情、創造本性と通じるそのような感情を持った価値ある人間の生命を賭けて言われたことを私たちは理解しなければなりません。
私たちが生きる道の中で堕落による悲しみの過程が横たわっているため、幸福だと自慢することなく、自分を中心にした幸福を自慢してはいけません。そのような人は過ぎ去ってしまいます。自民族を中心に幸福を論じる者も過ぎ去ってしまいます。私たちが生きているこの世界を中心に幸福を論じる者も過ぎ去ってしまいます。
どんな理念を提唱する者がいても、自分たちの国を中心にした理念や地上の世界を中心にした理念を掲げて闘うなら、その者もまた過ぎ去ってしまうのです。天が存在するとすれば、私たちは結局通過する歴史の中に立っている自分を認識し、歩みを止めて再び見つめ直さなければなりません。生きている私たちの生命を支配するその支配者はどこにいるのでしょうか?私たちが幸福を望んでいるのに、幸福の感情を支配する主はどこにいるのでしょうか?私たちが目指す目的に向かって進み、成功を希望しているのに、その成功を支配する主はどこにいるのでしょうか?その主は私たちを教える師でもなく、私たちを導く何らかの主義でもなく、何らかの宗教でもありません。
これを考えるとき、私たちは歩んでいる足を止め、真の理念と幸福と成功を紹介する真の心情で私たちを守るそのような方はどこにいるのかを再び見つめ直さなければなりません。自分を中心にしてどんなに幸福だと言っても、その幸福が世界と何の関係もなければ、自分を中心にしたその成功は6000年の人類歴史、いや永遠の天宙の歴史に何の貢献をするのでしょうか?国のために功績を上げた者があったとしても、全体をために功績を上げたのであれば忠臣として現れることができますが、自分を中心にした立場で功績を上げたのなら忠臣とは言えません。
歴史は深刻な様相で展開しています。今、歩みを止め、自分は誰のものであり、自分は誰に支配されたいのか、自分の心情は誰を迎えたいのか、誰をためにしたいのかを考えなければなりません。これが問題です。自分を中心にして幸福に生きようとしても幸福に生きることができないのはどういう理由でしょうか?生活圏内でこれを考えたならば、歩みを止めて心で待ち望む理念の主人公はどこにいるのか、人類に幸福を紹介しようとする者はどこにいるのか、私たちの最大の幸福の要素を支配し、私たちを歴史の流れへと導く主がいるとすれば、その主はどこにいるのかを探し出さなければなりません。
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皆さんはよく知らないかも知れませんが、歴史は目的地に向かって流れています。の統一された理念世界に向かってずっとその間なく流れています。これは人間の操作によるものではなく、人間のこの流れは、自分でも知らないうちに動けずにはいられないものであり、それは私の周囲を巻き込み、私の心を巻き込み、私の国家と世界を巻き込む少数力があるため、そして私は目的とする世界に向かって進まなくても過程にある存在であるため、流れないではいられないのです。いるという事実を、皆さんはもう一度考え直すべきです。
さて、この流れの中で私の歩みはどの方向に向かっているので?左でお願い、右でお願いですか?縦でお願い、横でお願いですか?このような流れを見たとき、私たち私たちは自分を中心とした幸福を主張することはできず、自分を中心にして成功を主張することもできません。です。
人間は本来、被造世界全体と関係を持ち、被造世界全体に対して主体的な立場に立つべき価値があるのです。そのため、この万物の前に自分を誇れるほど成功するまでは、その感情流れを止める方法はありません。結局、人間が進むべき道はこのような道です。この偉大で驚くべき縁の世界から出発し、関係の世界を経て目的の地に到着します。の価値を現し、自分自身が創造主の前で誇りに思い、立ち上がることができるのです。事実を皆さんは知っているはずです。
このような人々を導くために、宗教が現れる、芸術文化が現れました。そうして私たちの感情問題を整理します。個人的な感情から家庭的な感情へ、家庭的な感情から国家ような感情へ、国家的な感情から世界的な感情へ、世界的な感情から宇宙的な感情へと進んできました。過去の芸術はこのような方向を目指してきたのです。
自然界と人間が内的な正義の縁を結ぶために、これらを静的な理念の世界へ導くために、芸術が文学があります。科学は外的なすべての自然法則幼い私たちの生活環境を結ぶために貢献しています。科学の道は進むほど芸術冷静な道であり、文学や文学の道は進むほど切ない道です。このような中で、すべては一つの理念に向かって進んでいます。
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宗教とは何でしょうか?科学や芸術文化が人間世界に貢献し、外側的な私たちの感情を広げたとしても、内側的な感情の世界を永遠の世界まで結ぶことはできるず、本来の天的な感情の世界まで結ぶこともできませんでした。このような内的な感情の世界を見つめるために出てきたのが宗教です。
宗教は芸術の内的な分野を代替したものであり、文化は内部的な側面を代替したものであり、芸術家や文学者が想像もできない無形の本体を、そしてその方によって美の衝撃を受けて生きていくのです。
しかし、多くの分派に分かれた宗教が合流しなくてもいい時が来ます。これはどの宗教という枠を中心にして行われる芸術ではなく、どのという枠を中心にして行われるので、全体的で直接的な舞台となる存在である皆さんです。 「私」という存在です。 「私」という存在です。貫く心の基盤となります。から追放されてしまいます。
それでも、中間的な自分を見つけなければいけない私たちですが、宗教が今日まで時代を越えて多く貢献してきたということです。正義の世界には発展がありません。発展はありません。なぜなら、心情の世界何千年前も、何億年後も発展がありません。親が子を愛する心、夫婦がお互いを愛する心、自分の同族や親戚を愛する心、これらのその心情一つを持って全体を代替することができ、その心情一つを持って全体性を代替することができ、その心情一つが全体の幸福を代替するできるからです。
では、人生最高の幸福の地はどこでお願いですか?最高の安息の地はどこでお願いですか?神がどのような本体として存在するとしたら、私たちは彼の息子だと主張でき、彼を父だと言う場所、またその神が私たちを息子と行く場所です。 静的な基盤の上でそのようなシナリオで地上で起こり得る、その瞬間から人間世界は幸福な世界あり、人類が最大限だ最大の成功の世界だと見ざるを得ません。
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勝手に、どのような宗教理念を持って現れた人であっても、すべて善を指向して善感情を満たす仕事をしてきたのです。私は神と一体だと言いました。 歴史上これ以上偉大な事実を宣言した者はそうではありませんでした。 そして人類に対して、私は新郎であり、あなた方は新婦人だと言い、さらに友だそして民だとも言い、弟子だとも言いました。
人間全体の生活感情を動かし、すべての要素を刺激できる全体の要素を挙げて、その本体価値を代替して主張した。このようなイエス様は万物を見たとき、静的な心情で見ておられ、歴史的な人物を扱うときも、平面的に扱って、歴史的な心情で対応されるこのような矛盾した現象は堕落した世界であったために現れたということを私たちは知っているべきです。
イエス様は「誰よりも私を愛しなさい」と言われました。 この言葉は、それまで慣れ親しんだ縁を結び、静的な関係を持つ世界の前に一大爆弾宣言であり、革命的なそれは何もというと、イエス様は自分が感じ、自分の心の中に流れる愛の心情で人々を見たとき、天地を貫き、人類すべての心情を貫き、始まりと終わりを創造された神の心情を貫くことができる見地で見たとき、それまで人々が皆愛したものは、天から本来の愛として認められるものではなかったからです。
このような主張をして立ち上がったイエス様の前に全ては敵でした。 すべてが敵でした。でした。 カルバリ山で、敵の前で耐えられ血を流されたときの彼の悲しみを誰も知らなかった。 また、彼が希望と願いを持って見ていた喜びの心情を誰がそれも知りませんでした。
しかし、イエス様はその時でさえ、無限大の宇宙を創造された神が堕落した人間を見ている悲しみが無限大の悲しみであることを思い起こしました。希望を持たれる神ではありません。人間が堕落したことを嘆く神だと言うなら、人間を創造されたことを後悔される神だと言うなら、その神の悲しみは、感情を持つ私たち人間が何千年考えても理解できないほど無限の悲しみだということを私たちは知らなければなりません。
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その時、イエス様は神様の心情が無限の悲しみで染まる前には、人間を希望し、慕う無限の喜びの心情であったということを知るべきです。破滅するのではなく、悲しみを振り払い、無限の喜びを求めて進められたのです。では、イエス様がその心情を考えて戦い続けることができた理由は何だったのでしょうか? 悲惨な生活を、ヨセフの家から追い出されてもその悲しみよりも大きな悲しみがあることを知られ、国家から追われ、イスラエルから異端者とされても、その上の悲しみが残る事や、愛する弟子たちからも追われても、その壁が残ることを知っていたからです。
イエス様は十字架に釘付けにされて死ぬ場所に入っても、自分が死ぬ場所で感じる悲しみ以上の悲しみがあることを知っていたのです。ですから敵に対して祈ることができました。その時、イエス様は自分の心情よりもさらに大きな悲しみの心情、より大きな悲しみの歴史、より大きな悲しみの基準が残っていることを知っていたのです。
では、神様はなぜイエスを見捨てて、世界を見捨てることができなかったのでしょうか? イエスを十字架に渡しながらも、敵を見捨てなかった理由は何でしょうか? それは、イエスが死ぬ以上の悲しみがあったことを証明するためです。
堕落した私たちは、この無限の天的心情を探し、私たちを守り、摂理された歴史的心情を体験し、神の前に勝利の姿で現れなければなりません。皆さんが暮らしているこの社会を見ると、この世界は喜びの世界ではありません。また、人類の歴史は悲しみの歴史です。人類の歴史は喜びから始まったのではなく、悲しみから始まったために、今日の人類の歴史は悲しみの歴史となっています。
個人が自分の悲しみの為に泣き叫ぶのを見ると、皆さんは同情するでしょう。しかし、個人の悲しみに同情し、自分自身を楽しむ事があってはいけません。個人を超えて、家庭、さらに国家、世界、天の悲しみまで、私たちと関わりがあります。
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皆さんはしばしば個人の不満や、自分自身の不幸、自分自身の困難、自分の心に深く刻まれた悲しみを持って泣き叫ぶことがあるかもしれません。しかし、皆さんの個人の悲しみよりもさらに大きな悲しみが、家庭、社会、国家、世界、そして天に残っています。
今、私たちが天の心情を探しに行く勇者になるためには、私たちの心の悲しみを感じるとともに、究極の悲しみを感じることができなければなりません。人生の道程で、私が排斥され、裏切られ、不当な扱いを受け、追い詰められることが、天を目指す過程において最終的なものなのかどうかを考えなければなりません。人間同士の悲しみ以上に大きな悲しみがあります。創造主が偉大で高いのであれば、その創造主の理念も偉大で高いのは当然であり、その善と理念を描くその心の前で、悲しみが偉大で高い理念を代替するのではなく、宇宙的な善を代替し無限の対象の位置を占めていることを私たちは忘れてはなりません。
皆さんが天を探しに行く過程で悲しみ、涙を流すとしても、自分を中心に出発し、自分を中心に結果を結ぶために悲しんではなりません。そのような者は自分を抱えて破滅してしまいます。家庭を抱えようとする者は家庭を抱えて破滅し、国家を抱えようとする者は国家とともに破滅し、世界を抱えようとする者は世界とともに破滅します。
では、私たちは何を抱えて泣くべきでしょうか?天を抱えて泣くことができる人になるべきです。神の悲しみを自分の悲しみとして、神の困難を自分の困難として感じることができる人になるべきです。
私たちは堕落した人間であるため、悲しい歴史の道程をたどりゴルゴタの丘を目指して歩かなければなりません。今日、皆さんが感じる苦痛や、皆さんが受けるその悲しみは終わりではありません。終わりではありません。
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これを知っていたイエス様は、敵に対して祈ることは問題ではありませんでした。それ以上の悲しみの山があっても、その悲しみの山を越えて天的な子としての使命を全うしなければならないことを感じていました。そのため、イエス様は死の山を踏み越えることができました。また、そのような心の衝撃で十字架の上で敵を許し、死を克服することができたことを私たちは知っておくべきです。
それでは宗教の歩みは何を探し求めるものでしょうか?神は宗教を設けて、良いもの、貴いものを人間に紹介されましたが、人間は良いもの、貴いものを歩むことができず、困難で悲しい歩みを歩まなければなりませんでした。
天が6千年間努力し悲しんでいたことは、どの宗教の経典にも紹介されていません。しかし、善や私たちが生きるべき福地については詳細に紹介されています。なぜ天はこのような方法を取ったのでしょうか? それは天が私たちを愛しているからです。天が私たちを愛しているがゆえに、この方法で私たちに近づいてきたのです。人間が天を探し求めるのもそうですが、喜びは一日で突然訪れるものではありません。悲しみの道を通った後に、喜びを見つけることができるのです。
天国を望む者が地上にいるとしたら、天の真の子どもになりたいと思う者が地上にいるとしたら、「私の一生に神様の6千年の悲しみの涙を流させてください」と祈り、泣くことができる人になるべきです。命をかけて天と地、すべての万物をかけて叫ぶことができる人になるべきです。
善良で、美しく、貴い、誇らしく、栄光に満ちた立場にいるお父様ではなく、悲しみの立場にいるお父様を発見した人が、お父様が探し求める善の主人公となるでしょう。神様の真の子どもであることを理解するべきです。
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天が涙を流していたとしたら、この地上のどんな湖や大河の水よりも多く流していたでしょうし、天と地に満ちる場所がないほど涙を流し悲しんでいたことでしょう。したがって、神の悲しみを理解する人は、山を見るとその山を天の努力と苦しみの山と感じ、海を見るとその海を神の涙と感じ、草木を見るとそれを神の心配と感じるでしょう。広大無辺な宇宙全体を見たとき、そのすべての現象が美しいとはいえ、その美しさが人間と直接的な関係を持っていないことを見て、神には悲しみの条件となることを理解するべきです。このようなことを感じ、そうした感情で父を呼ぶことができる子どもたちが地上にどこにいるのか、神は探し求めるでしょう。
真の孝行者とは、お父様と共に喜び、お父様と共に楽しむことだけで孝行者と呼ばれるわけではありません。そうした人を孝行者とは呼びません。お父様の喜びよりも、お父様の悲しみや困難を代わりに受けることができる子どもが孝行者と呼ばれるのです。
人間がこのようであるならば、天も同様です。感情が喜びに結びつくことができない堕落した世界のために、悲しみと困難の道を歩かなければならない人間であるため、手がひび割れ、体が疲れ、裂けるとしても、天を目指して走る心を持たなければなりません。この地上にいるどんな人間をもつかまえても、天に対して叫び続けるその一時間が、失われた天と結びつく時間であることを理解しなければなりません。
人間はこのような時間を取り戻し、自分の人生で天に頭を下げ涙を流す時間を持つべきです。そして、その心から悲しみが消え、喜びと平和を歌うその瞬間が、天が訪れる瞬間であり、天が笑う瞬間であり、天が喜びをもって私の子どもたちと祝福する時間であることを理解するべきです。
堕落した人間たちは、今日まで歩んできた歩みを止め、新たな悲しみの道を歩まなければなりません。6千年間、人間を守るために悲しみの道を歩んできた天がいたことを知らなかった人間たちは、自分を反省しなければなりません。自分の家庭や国家、世界をもって自分を嘆かなければなりません。
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死のゴルゴタの丘を越えながらも天の悲しみを考え、敵のために祝福を祈ったイエスの足跡に従わない限り、神の苦労の心情や神の悲しみの心情を地上の人間として感じることはできません。神の心情に深く浸りきった悲しみを解消できない限り、神様の中にある永遠の喜びや永遠の善、永遠の幸福は地上の人間と永遠に結びつくことはできないのです。
今日、皆さんは自分の位置を再考するべきです。涙を流すことが多かったでしょう。その涙はどこに行ったのでしょうか? 再び反省してください。皆さんの手は自分自身のために多く動いています。しかし、この手は誰のために動いているのか、この歩みは誰のために努力しているのか、この体と心は誰のために何を描き、探しているのかを立ち止まって考えるべきです。
歴史的な悲しみに直面している自分を認識し、希望の一日を再び探さなければならないことを感じ、改めて覚醒し過去の生活を批判しなければなりません。天が期待する自分でないこと、天との縁を結べなかった自分を嘆かなければなりません。
「このような立場に立つ私は、家庭に対しても面目がなく、国家に対しても面目がなく、世界に対しても面目がない」と感じる心情を、皆さんは常に感じるべきです。このような心情が皆さんの心から湧き出るなら、家庭を見ても涙が流れ、国家を見ても涙が流れ、世界を見ても涙が流れ、天を見ても涙が流れるでしょう。皆さんの生涯でこのようなことがなければ、神の心情が隠れた黒い幕を突破し、深く隠された神の善や神の喜び、神の幸福を見つけることはできないことを理解するべきです。
今、私たちは生活しながら、自分のために生きているのかを分析し、自分を守っているその一人がいることを知り、たとえ自分が知らなくても、知っていても、自分を守っている一人がいることを見つめることができるようにならなければなりません。
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