人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集6(3)

2024年09月23日 17時01分20秒 | 日記
文鮮明先生の御言葉 6-3「信仰者の態度」(1959年3月29日)
1959年3月29日(日)、前本部教会
聖書拝読:ヘブライ書 11:1-32


<祈り(Ⅰ)>
今日、未熟な私たちが再びお父様の膝前に参りましたので、どうか哀れみを持ってご覧ください。

私たちの心と身体がお父様の肢体として認められる場所まで私たちを導いてくださることを、お父様、切に願い、望みます。


多くの人々が天国を目指して出発していますが、お父様の御心を見据えて進む真の息子娘がどれほどいるのかを考えると、心配な気持ちを抱いてお父様の前に立たざるを得ません。


お父様が私たちを呼び求められてからすでに6千年が経ちました。万物の主人として私たちを自らお呼びになり、求められましたが、私たちがその喜びの実りとして御お父様の膝前に立っているのかを自ら思う時、これまでの全ての過去をお父様の前で悔い改めなければならないと感じます。日常の私たちの全ての行いも反省しなければならず、今日を契機として、明日以降の全ての行動を憂いながら反省しなければならない立場にあることを、どうかお許しください。


天が待ち望まれる本来の姿は栄光の姿であり、求められる姿は誇らしい姿であったのに、今日の私たちはそのような姿にはなれず、呼び出すに値する本来の姿を備えることができませんでした。このように嘆かざるを得ない自分を見出すとき、御父様の前で顔向けできない自分を悔いる真剣な心を持たせていただきたいと、御お父様、切に願い、望みます。


天を目指して進む時、誰が御父様の息子娘になりたくない者がありましょうか。天を目指して犠牲の供え物となろうと誓わない者がどこにいるでしょう。しかし、御父様の真の息子娘として立つ者は非常に少なかったのです。誓った者たちを引き出して導かれましたが、天が誇れる姿として現れた者が非常に少なかったことを、私たちは歴史の過程を通してよく知っています。私たちが持っているすべての堕落の痕跡と過ちを、御父様、お許しください。


天は真の心で、真の情で、真の行動で私たちを探し求めてこられましたが、真実に応じられなかった全ての不完全さを許していただきたいと、御父様、切に願い、望みます。


今、私たちは、御父様が共に手を取り、地上を見て涙を流すことのできる真の息子を恋しがっておられることを知っていますし、娘を恋しがっておられることも知っています。多くの人々が御父様の手を取っても、それを離れることで忘れ去られたと思っています。今日、私たちは天に対する一途な心で自らの身体を持ち、命を捧げて御父様の手を取り、事情を申し上げて残ることのできる息子娘とさせてくださるよう、御父様、切に願い、望みます。


御父様、今回の期間、私たちの心を分別してくださいますように。御父様、約束されたその時を待ち望む私たちには、欠けているところが数え切れないほど多いことを知っています。歩んでいる私たちの足はすでに疲れ果て、視線も不十分な立場にあり、天を目指して良心の奥底から切に叫んでいた心さえ、悪魔が奪い取ろうとしていることを知っています。


このような状況に直面するたびに、天が悲しみの心情を持って見ておられることを私たちが理解できるように許してください。真の善が勝利の標を掲げなければならない時が近づけば近づくほど、私たちを支えることができず、忠告できない天の内的事情を私たちが知ることができるようにしてください。そうして、残された運命の道、恨みのその道を私たちが自ら歩むことができる天の尖兵となることを許してくださるよう、御父様、切に願い、望みます。


多くの人々が天を恨み、天を拒み、天を裏切る場所に立つとしても、私たちだけは不変の心情を抱いて、御父様が喜ばれることのできる歓喜の一日を目指して進む息子娘とならせてくださるよう、御父様、切に願い、望みます。


御父様、この日は聖なる日ですので、すべての人々の上に祝福を与えてください。また、哀れな三千万のこの民族を、御父様、憐れんでください。彼らの命と運命を背負う主が地上にいないことを知っています。まず御父様に召された私たちが、信じる者としてその責任を果たすことを許してください。私たち自身が御父様の前に進み、信頼できる一つの姿となり、委ねられた責任を果たさなければならないのです。そのような全体的な責任が私たちの背に課せられていることを忘れないように導いてくださることを切に願い、望みます。


心だけで動く私たちではなく、身体を聖なる生け贄として御父様の前に捧げ、御父様の栄光を顕すことができる息子娘とならせてくださるよう、御父様、切に願い、望みます。この日、この時、祭壇でひとりひざまずき、天を仰いで祈るあなたの息子娘たちを祝福してくださるよう、御父様、切に願い、望みます。


御父様、今日この時まで導いてくださったことを感謝いたします。また、残された本郷の理想としてのみ残っていることを知った私たちが、今や御お父様の心情を一身に帯び、その理想を地上に実際に成し遂げる責任と使命も残されていることを知ることができるように許してください。御父様、切に願い、望みます。


御父様、あなたは未熟な私たち人間を救うために来られました。今、最後の勝利の日を目指して進む私たちの祈る心が変わらぬように許してください。また、不孝な立場に立たないように許してください。御父様、切に願い、望みます。


御父様、私たちを顧みてください。御父様のその御旨に対して全体の責任を負っている私たち、行かざるを得ないことを知っておりますので、最後まで御父様の命令の前に、御父様の心情に、御父様の愛に対して不孝を犯さない息子娘とならせてくださるよう、切に願い、望みます。


この期間、逆境を越えて摂理歴史の道程で悲しまれる御お父様の心情を感じ、御父様の許された御旨の前で不孝な私たちとならぬように導いてくださることを、切に願い、望みます。


この時、私たちの身体と心を御父様のものとしてお受けください。不足な姿が御父様の前に集まり、ひざまずいて頭を垂れ、御父様の胸に抱かれたいと願う私たちの心を知って受け入れてくださるように切に願います。


始めから終わりの時まで御手を持ってご主宰ください。主の御名によりお祈りいたします。アーメン。




祈り(Ⅱ)
愛するお父様、私たちをこの民族の前に立たせるために、私たちが知ることなく苦労されたお父様の涙の痕が私たちの周りに散らばっていることを、どうか気づかせてください。


お父様、悲しみと嘆きの死の領域に巻き込まれ、天と縁を結べなかった不孝の子供たちでしたが、授けられた恩賜の前に畏れ多い心を抱き、己の本性を整える一つの姿となれるように許し、お父様をお迎えできるこの一時となることを心より願い求めます。


お父様が「来なさい」とおっしゃったその道があることを知ったその時から、涙の道にもお父様が共にいらっしゃることを知り、十字架の道、苦難の道、悲しみの道、鎖につながれるその道まで共にいらっしゃることを知りました。そして愛する子供たちの背後で労を惜しまず、歴史の道を歩まれたお父様のその茨の道も知っています。


今日、私たちを集めてくださるために、私たちが知らなかった数々の苦労の歴史があったことを知り、そのようにして労されたお父様の姿を心に描きつつ礼拝する私たちですが、身の置きどころも分かりません。お父様の衝撃の心情で私たち自身を捕らえてくださるよう、お父様、心より願い求めます。


天の意志があり、天の希望があるゆえに召された私たちですから、今日私たちに訪れる十字架の道も、私たちが引き起こしたものではないことを気づかせてください。


千秋万代の子孫たちまでも、先祖が苦労してきた歴史的なその縁の道を知ることを許しください。この時、私たちが無限の喜びと無限の幸せ、そして無限の希望を抱くことができる心を持っているならば、それは私たち自身から始まったものではなく、どんな人間からでもなく、すべてが天から始まり、天から動かされたという事実を、私たちの体と心に深く刻み、天が動かれたその土台を慕い、これをしっかりと抱きしめて涙することのできる子供たちとならせてください。愛するお父様、心より願い求めます。


お父様! この孤独な場に来たあなたの子供たち、彼らが進むべき方向をあなたはご存じであり、彼らが取るべき道もご存じです。彼らの心の始まりも彼ら自身から始まったものではなく、彼らが立つ警告の場所も彼ら自身のためではなく、他人のため、そしてお父様のためであったならば、最後までその心情が変わることなく導いてください。お父様、心より願い求めます。


お父様、残された苦難のこの一期間を通して、お父様に不孝を働き離れていく者たちとならないように許し、お父様が導いてこられた悲しみを感じながらも、この難しい時期を乗り越えられない子供たちとならないように許しください。最後までお父様の心情を持ち続けるために、自分を捨てて父を思い、お父様の心情を慰めることを知り、お父様の事情を理解することのできる子供たちとならせてくださいと、心より願い求めます。


今、己が立ったと言う者は倒れる時が来ており、己を意識する道を行く者はそれだけ天を裏切りやすい時が来ました。お父様、この一日、あなたの膝前に集まったあなたの子供たちが、命の警告に喜ぶ姿となり、お父様が喜びを味わうことのできるこの一時とならせてくださいと、心より願い求めます。


この時、私たちの心にはお父様のもの以外は何一つ求められません。今や私たちは今日の苦難を乗り越え、約束の園を見つめ、永遠の祝福の天国を慕わなければなりません。現れる神の祝福は言葉では尽くせないほどの大きな栄光の場であることを私たちは知っていますから、今日の私たちが、お父様に対する心情を変えることなく最後まで耐え、残る者たちとならせてください。最後まで戦い、お父様の前に立つことができる子供たちとならせてくださいと、心より願い求めます。お父様の意志を思うあなたの子供たちがいるので、彼らの上に祝福を与え、導いてくださるように、心より願い求めます。


この一日も、遠く地方にあってお父様の前に痛悔の時を持っている子供たちがいることを知っています。彼らの上に等しい恩賜の手を許し、彼らの心を見分けさせ、道中で倒れる者たちとならないように許しくださいと、心より願い求めます。


今、私たちのすべてをお父様に捧げますので、受け取ってくださいと心より願い求め、この時私たちの心がお父様のものとして動き、お父様の勝利の栄光を体験することのできる時とならせてくださいと、お父様、心より願い求めます。


残されたその後の時間をお委ねし、主の御名においてお祈りします。アーメン。




祈り(Ⅲ)
お父様! あなたの恩賜を、千万回死んでも報いることのできない者たちが、あえてお父様と呼ばせていただいていることを、どうかお許しください。私たちがお父様を祝福されたお父様として知り、呼んでいることをお許しください。そして、ただ尊い座におられるお父様としてのみお迎えしたことをお許しください。


お父様は、万軍の父であり、万宇宙の主であり、万天下の権威を持つ主人であられますが、子たちが過ちを犯したために、このように哀れな状況にいらっしゃることを、この時間、私たちが知ることを許しください。私たちが、残された摂理の恨みの峠を見据え、敗者のように弱々しい姿にならないようにお導きくださいと、お父様、切に願い求めます。


私たちが行けなくても、お父様が行かなければならない摂理の道であり、また、私たちがお父様を裏切っても、お父様は裏切られながらも悲しみを抱いて行かなければならない道であり、民族を越え、世界へと向かい、今日も十字架の道を厭わずに進まなければならないお父様であることを知っています。しかし、そのような事情を知る者は地上に極めて少なく、お父様の嘆きがこの地に深く染み込み、お父様の嘆息が地に届き、お父様の裁きがこの地に下ることを恐れざるを得ません。憐れみ深いお父様、愛のお父様、今日、私たちの心にお父様の約束の意志が生きているならば、どうか守ってください。お父様の前に跪き、声を上げて泣きながら、心情の祭壇を築く愛する子供たちとならせてくださいと、お父様、切に願い求めます。


六千年の摂理の意志がこのようであることを知り、進んでいく時に、これまで信じてきた者たち以上に信仰を持つ私たちとなれるようにしてください。どんな迫害にも打ち勝つ者となれるように、どんな無視にも打ち勝つ者となれるように、許しください。裏切り者になる可能性がある私たちですが、ここに参りました。お父様に対する一途な心を持ち、変わらぬ忠孝の子供たちとならせてくださいと、お父様、切に願い求めます。お父様、私たちが歩んでいるこの歩みが止まれば、民族の悲しみはさらに深まり、私たちの嘆息もさらに増すことを知っています。行かなければならない道を行くように、どうか急かして押し出してください。お父様の主張を掲げられる中心を築くまで、どうか最後まで追い出してくださいと、お父様、切に願い求めます。


天の心情を伝えるとき、お父様の子供たちとして立たなければ、摂理を成し遂げることができないという天の事情を知っています。お父様は地上の誰も知らないところで、このために悩んでこられたという事実を私たちが知ることを許しくださいと、お父様、切に願い求めます。今や私たち自身のすべてをお父様の前に捧げ、新たな誓いと決意をしなければならない時です。この地上に来られ、悲しみを残して去られたイエス様を、どれほど心にお迎えしようとしたのか反省させ、新たな誓いと決意をさせてください。眠っているこの民族の上に力の手を伸ばし、聖霊の恵みの雨を降らせてくださり、彼らが勝利の一日を誇り、お父様の栄光を歌うことができるようにしてくださいと、お父様、切に願い求めます。


私たちがお父様の前に立つとき、どんな困難も厭わずに進むと決意されたイエス様のその孤独な心情を体験することができました。今や、決意して立った私たちが抱いている希望を誇る時が来ました。天の側に立ち、先頭に立って進んでいけるようにしてください。天が残したいと願うものを残せるようにしてください。今、心に心を重ね、父を慰め、お父様のために戦える真の者たちを支えてくださいと、お父様、切に願い求めます。人間に対する摂理を諦められないお父様の理念があることを知り、今や現れるべき天の真心を知り、受け止め、進むべき天の悲しみを知る私たちとなることを許しくださいと、お父様、切に願い求めます。


真のイスラエルとなろうと忠誠を尽くす者たちと喜びも悲しみも共にすることをお許しください。モーセの導きを受け、荒野をさまよっていた者たちも、涙に濡れた苦しみの中で意志を裏切ったことを知っています。歴史的な転換の兆しが今日、私たちに現れているので、私たちが歴史的な悲願を果たす者となれるようにしてください。お父様が立てた意志の前において、自らの不十分さを感じなければならず、逆境の中でも父を信じ、お父様の祭壇を築こうとしたモーセの心情を代わることができる子供たちとなることを許しくださいと、お父様、切に願い求めます。


お父様の心配とお父様の苦痛とお父様の労苦は、今日私たちが受けているものに比べものになりません。無限の労苦の道を歩んで来られたお父様のその様子を見つめることができる者たちとなることを許しください。無限の苦痛の道を歩まれるお父様の聖顔を見つめることができる者たちとなることを許しくださいと、切に願い求めます。


今日私たちが経験している不条理、私たちが受けている非難、私たちが経験している迫害、このすべてを乗り越えられるようにしてください。私たちがどんな場所にいても、ためらうことなくお父様のために進んでいけるように導いてください。このすべての事実を私たちに深く教え、気づかせてくださるよう切に願い、最後の勝利の土台に立つまで、お父様が心配される心情で見守ってくださり、そのすべてを厭わない子供たちとなることを許しくださいと、お父様、切に願い求めます。


今日この時間、私たちは集まりました。天のご加護が私たちの心と体に現れることを許しください。今や私たちに悲しみがあり、孤独があり、困難があったとしても、お父様と呼ぶことのできる意識を持つ者であるならば、あえて自分という存在意識を持つことができないということを知っています。この時間、親しく個々の心と体に訪れてくださり、お父様、命の一体感を感じさせ、栄光の恩賜をお与えください。最後まで耐えて残ることができる新たな決意と新たな誓いを持ち立つ子供たちとなることを許しくださいと、心から願い求めます。


この時間も、孤独にお父様の膝前にひれ伏し、涙を飲み込んでいる家族がいることを知っています。この時間、彼らのお父様であり、彼らの友として現れ、等しい歴史をもって対処し、見守ってくださるように、私のお父様、切に願い求めます。


この一時すべてを委ねましたので、御心のままにお導きください。主の御名においてお祈りします。アーメン。




祈り(Ⅳ)
お父様、この時間、ただただ私たちの心と体が、お父様の心情に寄り添えるようにお許しください。本来のその心に触れ、お父様の心情に引き寄せられることを感じ取れる時間とさせてください。お父様が喜ばれる姿を見て、父に駆け寄り、お父様の首に抱きつけるような、切なる心情が私たちの体と心に芽生えることをお許しください。


静かに現れ、私たちが心を打ち明けるまで動かれない父であることを知りました。今、私たちの心が汚れていたとしても、父に向かう真心だけは持っておりますので、どうかこの心情を通して私たちを見つけてください。この心情を通してお導きください。体の不十分さを悔い、過去の生活が不忠であったことを悟り、知らず知らずのうちに涙を流しながら、父を「私の父」と呼べる切なる心情が湧き出ることをお許しください。


天は誰も守ることをためらわないことを知りました。そして、天を探し求める者の友となることをためらわないことも知りました。天は天に向かって叫び、涙を流す者たちの友であり、永遠に共に生きる父として現れることを喜ばれることを知りました。


お父様、静かに私たちに語りかけてくださったお父様の声が恋しく、静かに抱きしめてくださったその驚くべき愛の感触が恋しいです。そうした私たちの心を通して、父と呼べる一瞬が待ち遠しく、手を挙げて「私の父」と誇り、叫びたいのです。


遠く離れていらっしゃると思っていたお父様が、私たちの心の中におられ、その父に出会った瞬間が喜びでした。遠くにいると思っていた時、父は近くにおられ、心の中にいると安心していた時、遠くで叫ばれる父でした。しかし、今日の人間はそのリズムに気づけずにいます。


私を見捨てたと思っていたその場所が、父に最も近い場所であり、お父様が私と共におられないと思っていたその場所が、実はお父様が私と共におられたということを知らなかった過去の自分を、この時間、悔い改めさせてください。


愛する息子と名付け、愛する娘と名付けられた以上、その息子や娘を苦しみの場所に置きたくないお父様の心を知りませんでした。お父様の苦しみの心情を知らず、苦難の道に私たちを送り出した父を冷たく無情な父としか思わず、その間、父に対して不平を漏らすことも多く、恨むことも多くありました。父と私たちの間に立ちはだかっていた苦難の壁を知らずに、恨み、拒絶し、否定し、不信の立場に立ったことを、お父様、お許しください。


これは私たちの先祖が堕落したことによって招いた罪の結果であり、人類の歴史の中で恨みの血の痕を残し、預言者や先祖たちが命を落とした理由であることを知りました。今日、私たちの心の基準が高いところにあるでしょうか。その心を焼き払ってください。私の体と私の名誉を掲げ、神に代わって現れようと望んでいるのでしょうか。お父様の前に面目のないこの体を打ち、悲惨な状況に置かれている父であることを悟り、父を呼ぶことができる息子娘となることを切に願い求めます。


お父様、多くの言葉は必要ないことを知りました。言葉を伝えながら、それを実行できない者たちを見て、天が悲しまれる時、語った者は自ら偽り者となり、お父様の悲しみは日々増していったことを知りました。


しかし、再び語らなければならない状況に立たされているこの悲しい事情を、天は知っておられますが、地上の人間は知らずにいます。この事実を知りながらも、天はそのような人間たちを見捨てることができず、悩みながら再び語りかけなければならない天の立場にあることを再認識しなければならない私たちを、お父様、お許しくださいと切に願い求めます。


今日も聖なる日として集いました。言葉を待ち望んで集いましたか? 天の恩賜を待ち望んで集いましたか? 何を望んで集まったのかを知っております。今や、真の自分を待ち望む者たちとなることをお許しください。そして、真の自分から降りてくる言葉と命令を聞くことができる者たちとなるように導いてくださいと、お父様、切に願い求めます。


お父様、私はお父様の御心に従って40年間の道を歩んできましたが、悲しいことがあっても落胆することを望まず、試練に遭う時も敗北して後退することを望まなかったことを、父はご存じでしょう。お父様、今や残された道にも無数の苦難が連続して待ち受けていることを知る時、今日の不忠をお父様の前に頭を下げて謝罪せざるを得ません。どうか、歴史の悲しみをこの一身に背負わせてください。そして、残されたすべての苦難もこの一身を捧げて、天が乗り越えられるようにお許しください。


お父様が安息でき、すべての嘆きを忘れ、喜びの一瞬を迎え、お互いに首を抱きしめ、「私のお父様」「私の息子よ」と呼び合えるその瞬間が恋しいです。私たちがどのような犠牲やどのような覚悟、どれほど惨めな姿で地上に生きるとしても、その忠誠の一途な心だけはこの地上に刻み、消え去る息子娘とならせてください。そのような道を行く覚悟をしている私たちですから、どうかためらうことなく追い立て、導いてくださいと切に願います。新たな心と体で覚悟し、誓うことのできるこの時間とさせてくださいと、お父様、切に願い求めます。


与えられたこの時間に何を語りましょうか? お父様が明かされたいことを伝えますので、その心情をそのまま伝えることができるようにお許しください。そして、受け取る者の心と一体となり、一つの心情となって、お父様の大いなる胸に抱かれ、お父様の栄光を歌えるこの時間とさせてくださいと切に願い求めます。このすべての言葉を、主の御名においてお祈りします。アーメン。






<御言葉>
この時間にお話しする言葉の題目は「信仰者の態度」です。「信仰者の態度」という題目で少しお話しさせていただきます。


皆さんは今まで信じていると自認してきました。私たちは現実のこの国を希望として歩んできたのではなく、永遠の国を希望してきました。皆さんはその国を見たことも行ったこともありません。ただ、言葉を聞いてそうであろうと信じて歩んできただけです。


そのため、信仰の本質が現実のすべての条件や妥当性を備えたものだとは言えません。広大で無限の天が、私たちが想像もできない永遠の理想の園として存在し、私という存在と相反する関係を持ちながら、常に私の理想を促さなければ、そこに信仰の道が続くことができないのだと、真の信仰生活をしようとする人は感じるだろうと思います。


したがって、私たちが望むその国は、夢や想像、あるいはどんな賢い推測でも論理的に説明できるものではないことを私たちは知っています。だからこそ、その世界が私たちに必要なのです。


その世界は私たちが考える以上に無限の世界であり、私たちが考える以上に善と幸福、愛と理想の世界です。その世界こそが私たちが望む信仰の国であり、私たちが住みたいと思う信仰の天国です。その世界の本質を通して信仰する人を地上から見れば、哀れであれば極めて哀れであり、孤独であれば極めて孤独であり、悲惨であれば極めて悲惨な人と言えるでしょう。


しかし、そのような場にあっても、天の心情を体験し、その心情の中で受ける衝撃や刺激を感じる者がいるならば、どんな迫害や苦難、死の道が立ちはだかろうとも、その人が進む道を止めることはできないのだと、私たちはまず考えなければなりません。


このような心情が心を揺さぶり、その心が体を動かして四肢を動かすことで、自分でも知らないうちに無限の境地に向かって進む生活の一片一片を体験しようと努めることが、今日の世に生きる信仰者の生活だと私は言いたいのです。


このような感触と衝撃のある生活を送り、遠くにある理想を実際の生活の力として表現でき、その力の衝撃で周囲に押し寄せてくる死の波さえも押し返す心の基盤を築かなければ、天はそのような人を真の信仰者として認めるだろうと私は見ています。


皆さんがどのような立場で天に向かって叫ぶ時、自我を通して感じるものが、どんな主義や思想から感じるものよりも大きく、それが心的あるいは肉体的、さらには生活環境の核心的な光の価値として現れることを考えなければなりません。


このような重要な決定的な立場から、勝利への道を進むことが信仰生活だと言えます。したがって、この道には迫害が加わり、悲しみが加わり、十字架の道、あるいは死の道が加わってきたことを、私たちは歴史の道を通してよく知っているのです。このような歴史と伝統を持っているからこそ、今日、皆さんもこの歴史的な信仰の道を裏切ることはできない立場に置かれているのです。そのため、私たちは今日、正しい信仰の態度を取ることが何よりも大切だということを強調せざるを得ません。


このような信仰の道を歩む中で、困難の道、迫害の道、死の道を雄々しく越えていくためには、まず感じなければならないことがあります。今日、皆さんが生まれたのも、自分が生まれたいと思って生まれたのではありません。このような国に生まれたかった、このような国の国民として、このような不自由な環境に生まれたかったという意識があって生まれたわけではありません。皆さんも知らずに何かの動きに巻き込まれてこの地に生まれ、このようなことをしていることを否定できないでしょう。自分にこのような動機を与え、このような過程を経させ、このような結果として現れることを再び考える時、私という存在は自分自身を誇るものではなく、歴史を通して、全体を通して、あるいは未来を通して、理想的な領域で誇りたい何かがあることを私たちは忘れてはならないのです。


ですから、もし皆さんがこのような信念や感覚を持てないならば、皆さんの信仰の道には、今日皆さんが思っている以上に複雑なことが起こり、悲しいことが起こり、困難なことが起こり、理不尽な死に直面し、天倫の縁を裏切る信仰者の態度を取りやすくなり、天を裏切りやすい立場に立つことになるのです。


だからこそ、私たちは神の理想に対する切なる心情を持たなければならず、自分の生活をこの理想に基づいて見つめなければなりません。無限の信仰世界の理想と縁を結びながら、自分は宇宙的な縁を輝かせるための一つの犠牲であることを感じながら生きなければならないのです。このような理想が心から消えず、その感覚が心中から離れない限り、この地上で皆さんを侵害したり屈服させたりする存在はないでしょう。


私たちの先祖たちはこのような縁を多く感じていたことを知るべきです。ヤコブがイスラエルの祝福を受けた時から始まったその民族は、神の選民という理想を持っていました。この選民意識がユダヤ民族の歴史を作り、復帰摂理の歴史を継承して新しい福祉の園を建設する道で希望の基盤となったことを私たちは知っています。


このような例を通して、信仰者の正しい態度が求められる理由を理解することができるでしょう。


そのイエス様が、今日私たちが信じているイエス様であり、この信仰を確立するために生涯を捧げた方であることを、歴史を通じて信仰者たちの中で知る者はいませんでした。そのようなイエス様を抱きしめて泣く者が、この地上にいなかったのです。このように考えてみると、イエス様のその哀しみに涙を流せる心が、皆さんの生活の中で渦巻き、皆さん自身を動かす感情がなければ、それは天国に向かって進む信仰者とは言えないでしょう。私はそのように感じています。


ですから、今、私たちがこの哀れな民族を見つめる時、この民族の運命に対して悲しみ、天を求める教団が分裂し、互いに争っているのを見た時には、自分と切り離すことのできない縁を持つ立場から、それを見つめ、イエスと同じ心で、歴史を代表し、現代を代表し、未来の子孫を代表して悲しむことを知っていなければなりません。そうしてこそ、皆さんの子孫にイスラエルに許された祝福を受ける縁の条件でも地上に残すことができるということを、皆さんは知るべきです。


このような観点から見た正しい信仰者の態度とは、自己をすべて捨てることです。死の峠を越えなければ、天と喜びの縁を結び、消えるその瞬間に「お父様、イエス様のようにすべてを成し遂げました」と言うことができ、今まで結んできた哀しみと恨みの縁を終わらせ、喜びに満ちた縁を歌える瞬間を持てるべきです。このような者たちが手にするものこそが永遠の国であり、このような者たちが住む場所が天国であり、このような者たちを見つけ出すことが神の御心であることを、私たちは知るべきです。


統一教会を訪れた皆さんを見ると、哀れに思うことがあります。皆さんが統一教会を訪れた時には、何かわからない縁が結ばれているからです。足を引き返そうとしても、何か未練があってその縁が皆さんを引っ張っているのです。自分でも気づかないうちに築かれた、行こうにも行けない縁が、自分の力によるものではないなら、誰による縁であったのか? それは、血の涙の歴史を解放するために立てられた先祖たちの功績の基盤が、私たちの背後にあったからであることを知るべきです。ですから、その感触が心の中に感じられるたびに、自分の存在意識さえも忘れ、倒れながらでも天に向かって「お父様!」と叫びたい気持ちが爆発することができなければなりません。そのような心を持って、最終的に哀しみに縁づけられた歴史の峠を越え、喜びの世界と縁づけられる時、ようやく主に会う資格者となると考えるべきです。


皆さんもそうでしょうが、私も同じです。何か言葉にできない悲しみが溢れ出し、心を刺すのはなぜでしょうか? それは、自分でも知らない歴史的な恨みの縁があるからです。自分でも知らない天的な縁、地的な縁、人間的な縁が今日の私と結びついているからです。私たちはこれを知るべきです。


では、ここで天が求めているものは何でしょうか? それは、地上で哀しみの縁をすべて清算できる人が現れることです。彼は「神よ! 天の哀しみの縁を私がすべて清算しますので、哀しみに縁づけられた歴史の主となれるよう導いてください。哀しみの縁の世界から残り、その世界で天が求める姿となり、民族となるようにしてください」と言える人です。皆さんがこのような心を持っているならば、いくつもの十字架が今日、私たちの心にぶつかってくるとしても、それが終わりではないことを知るべきです。


イエス様が「すべてを成し遂げました」と言われたのはどういう意味だったのでしょうか? それは、天の哀しみを清算する道のりで、自分の死を通じてある限界までしか成し遂げられなかったということです。つまり、イエス様は自分が死ぬことで、言葉にできない哀しみが神の心にまでつながり、従う者たちには無惨な死の道が残されることになると知っていましたが、霊的な救いの基盤が築かれることを知っていたので、自分の死を堂々と受け入れたのです。


もしこの感覚が皆さんの心に湧き上がっているならば、たとえ持つものがなくても、天と地を所有する者です。また、たとえ同志がいなくても、天と地が同志として現れるのです。だからこそ、真の信仰の道は、縁の歴史を続けていく道であり、天との縁の塔を積み上げていくことにあるということを、皆さんは感じなければなりません。


世の中の友達と別れる時ですら名残惜しく、悲しく思うのに、ましてや天を中心として進んできた縁の道が途切れるその瞬間はどうでしょうか? それは、歴史的な悲しみの瞬間であり、天地の悲しみの瞬間であり、人類と天上の悲しみの瞬間であることを、皆さんは感じるべきです。


これを感じる者がいるならば、どこまで行っても不足を感じずにはいられず、溢れ出る涙をこらえられずにはいられないでしょう。また、皆さんが原理を通じて学んだように、今日私たちが立っている場所は、天と地と霊界にいる霊たちの恨みを解消するべき場です。この宇宙的な運命の祭壇に置かれている皆さんです。こうして犠牲となった自分の立場が悲しいのであれば、それは無限に悲しいことでしょう。しかし、この犠牲を見つめている無数の霊たちの悲しみ、犠牲を見つめている無数の民族の悲しみ、犠牲を見つめている天と地の無数の存在たちの悲しみが皆さんの悲しみよりも大きいことを知れば、皆さんは天に向かって進む道で落胆することも、嘆くこともできないでしょう。


私の心に感じるこの感触、私の心に縁づけられたこの衝撃が、どんな永遠の理想と結びつくために動いているのかを知り、必ずこの理想を成し遂げ、その世界で生きられるようになることを願う心が、私たちにあることを否定できないでしょう。したがって、霊があるならば、その霊が喜んで住める世界を私たちが築かなければなりません。今日、この地上で結ばれた縁の広さと高さによって、その世界を所有する権利が左右されるのです。この事実を考える時、皆さんはこう動いたり、ああ動いたり、喜ぶ時も悲しい時も、罪人という心情を抑えようとしても抑えきれないでしょう。これこそが、天を求めて進む信仰者の道であると私は知っています。


だからこそ、40年この道を歩んでいる私も、覚悟をしてこの道に出る時、「天よ! 私は天を求めて進みます。どうか今日、天と約束したこの縁を、死ぬその瞬間まで裏切らないようにしてください。天が消え、地が消え、この体が消えても、その縁に従って生き、その縁に従って死ぬことができる者にしてください」と祈り求めたのです。したがって、皆さんもこの歴史の渦中で一時代を生き、困難に直面し、十字架に直面し、迫害が加わるその瞬間ごとに、天と約束した自分を思い起こし、そのような環境の中でも天の前で涙を流し、頭を下げて自分の未熟さ、自分の不完全さ、自分の無力さを嘆きながら、天を抱きしめて泣くべきです。これが天を求めて進む者の足跡であると私は知っています。


皆さんは先生が持っているすべてが先生のものであると思ってはいけません。私のすべてを皆さんのものとして結びたいのです。神は、天が持っているすべてを歴史的、時代的、未来的なものとして残したいと望まれています。しかし、私たちはこのような心情を通して縁を結んでいる民族であること、種族であること、個人であることを忘れてはいけません。私が語る神が偽りでなく、私が望む理想が偽りでないならば、皆さんが天の御心を否定した分だけ、裁きの条件に引っかからないかと心配になります。イエス様がこのような心情を持っていたからこそ、死んでも行かねばならず、生きても行かねばならなかったのです。イエス様がそのような立場にあったからこそ、万民が同情できるのだということを皆さんは知るべきです。


私が知っている限り、皆さんは私に従い、師として敬い、誠を尽くそうとしていますが、その誠を受け取ることをためらっている師であることを、皆さんは知らなければなりません。なぜなら、天がこの地上でそのような日を迎えておらず、私自身がまずお父様の前で喜びの心を持って、誠心を尽くし、毎日毎日礼拝し、仕えることができていないからです。このように喜びで天に接することができない自分であることをよく知っているので、皆さんの誠心を拒絶する時も多く、天の前で叫び求める切なる心情を知らないかのように遮ってしまう立場を取ることも多くありました。それは私の欲望を満たすためにそうしたのではなく、縁の世界の恨みを思い、現実世界のあらゆるものを見つめた時、そうせざるを得ない事情があったからでした。だからこそ、皆さんがこのように、あるいはあのように私を見る時、そこに芽生えている天の悲しみを心配する心情を持つ者になってほしいのです。


私たちが天と出会い、喜んだとしても、それで終わるのではありません。天に悲しみがあるならば、その悲しみが今日で終わるわけではありません。だからこそ、私たちに希望があり、喜びがあるならば、それは言葉にできないほどの大きな喜びであり、地上に悲しみがあるならば、それは言葉にできないほどの大きな悲しみです。この地の悲しみを解消し、お父様の悲しみを慰めることができ、地上の喜びを歌って、お父様の心に隠された喜びを表すことができる主人公が、いつの日かこの地に現れるでしょうか? 皆さんはそのような心情を持ち、そのような主人公と出会える縁を無視してはいけません。私が皆さんを無視できないように、皆さんもまた私を無視することはできません。皆さん同士は、涙と悲しみの6千年の歴史を経て出会った人々です。


天は天の家族を待ち望み、天の家庭を待ち望み、天の民族を待ち望み、天の国を待ち望んでいました。だからこそ、天の国を待ち望む民族とならなければ、その民族は消えてしまいます。天の民族を望まない家庭であれば、その家庭も消えてしまい、天の家庭を待ち望まない個人であれば、その個人も跡形もなく消えてしまうでしょう。


私を超え、家庭と民族を超えて、国家的な基準を立て、その理念の中で悲しみを清算できなければなりません。そうして初めて、6千年間苦労され、悲しみの縁を超えた国家を望んで来られた父を慰める資格者となることを、皆さんは知るべきです。そのような場において、初めて天の息子娘と決定され、そのような場で初めて天との縁が回復され、そのような場で初めて喜びの歴史が始まることを、皆さんは知るべきです。


どの民族でも、主権がなければ、来る人が侮り、過ぎゆく人までが嘲笑するかもしれませんが、主権が立つその日から、誰も自由に通ることはできず、勝手に侮ることはできなくなります。しかし、今日の地上に広がるキリスト教徒たちは、神の国の民となっていません。天の主権を持つ天の民となっていないのです。たとえ天の民であったとしても、その民を率いる主権を持たなければ、その民族は侮られ、見捨てられることを知るべきです。


ですから、神はイスラエル民族60万の民を中心として、エジプトで天国の主権を回復しようとはしませんでした。天の主権の国を望んで、60万の民をカナンという縁の地に向けて荒野へ追いやった理由は何だったのでしょうか? それは、どんな迫害を受け、死の峠を越えたとしても、天が直接動くことのできる主権国家を築く必要があったからです。このように、死の波が押し寄せる荒野へイスラエルの民を追いやった天の心情を、私たちは知らなければなりません。どの民族でも、国家の形を整え、神をお迎えできる主権を回復できなければ、その民族は滅び、蹂躙されるしかありません。


このような観点から、天の摂理を見た時、世界中のキリスト教徒は、自分たちの教派を中心に進む時ではありません。選民主義的な思想を超えて、全ての民が天の思想を持つことを知らなければなりません。その国の民としての威厳と節操を持ち、天的な縁と地的な縁、歴史的な縁と人間的な縁を結び、天を中心に団結できる祭壇が現れなければなりません。そのような祭壇が現れない限り、地上で天国を実現することは夢に過ぎないのです。


皆さん一人ひとりには、多くの敵がいた歴史的な縁があり、欺かれた多くの預言者や先祖たちの縁が染み込んでおり、悪魔によって天が悲しんだ痛ましい歴史の縁が染み込んでいることを知るべきです。たとえ出会うのが一個人であり、対するのがただの人間であっても、その背後には天の縁と天の事情が絡んでいるかもしれません。その背後には、宇宙的な縁が結ばれていることを知るべきです。


6千年間、天は主権を探し求め、一つの主義を探し求め、一つの縁を探し求め、真の心情を持った同志を探し求めて来られました。すべてのものは出発から終結まで、この歴史的な縁を拒むことができません。この統合的な縁の歴史を継承し、出会いながら生きていく信仰生活であるならば、どんなに同志に欠ける部分があり、どんなに家族に不足があり、どんなに家族が皆さんに刺激を与えたとしても、どうして天との縁を結びたい心以上に怒りの心を持つことができるでしょうか? その縁を断ち切る時に感じる悲しみ以上の大きな悲しみが、どこにあるでしょうか?


国のために自分の身を顧みずに尽力する人を忠臣と言い、家庭や親戚のために自分の身を顧みずに孝を尽くす人を孝子と言い、家族を守り、自分の身を顧みずに犠牲となって生きる女性を烈女と言うことを、私たちは知っています。


では、今日の縁の歴史を見れば、天は新郎であり、私たちは新婦という縁を結んでいます。私たちの視線を通して見つめるこの縁、この相対的な縁には、歴史的な視線が注がれており、歴史的な叫びが響き渡っていることを知るべきです。


このような縁の心情を感じ、父を呼べる瞬間、その自我の意識が戻る時、その私は今日の私であるけれども、この地に限定された私ではなく、永遠の世界の理想の中で保証される私です。このような者を天は完成した者と名付けるでしょう。私が知る限り、真の信仰者の態度とは、何よりもまずこのような縁の心情を感じることです。皆さんが受けた恩賜も、今日の喜びの縁によってもたらされた恩賜ではなく、歴史的な縁を引き継いだ恩賜であることを知るべきです。


今日、私に天のために尽くそうという心があるならば、その心の前にまず頭を下げることを知るべきです。その心は私から始まったものではありません。それは私の心から自動的に生まれたものではなく、ある真理を通して、ある事情を通して、天と地に結ばれた縁を通して生まれたものです。これを知り、心に感じるものを大切にすべきです。心に決めたことを大切にし、心に誓ったことを大切にすべきです。その決意、その誓い、その心情に感じた衝撃を、その日限りで終わらせてはなりません。それを歴史と共に終わらせ、歴史と共に解決しなければなりません。ここに天の恩賜が共にあるのです。そのような縁を持っているからこそ、決心したその決意が歴史と共に消えてはならず、誓ったその誓いも歴史の解決点と共に消えてはならないことを、皆さんは知るべきです。


このような責任ある使命を感じる者がいるならば、天は安心して命令できるだろうと私は考えています。私たちが悲しみに打たれていると言っても、今まで天の縁を一日に何度も裏切る心を持った邪悪な人間を前にした天の悲しみはどれほど大きいでしょうか? 天はこのような人間を見つめながら、彼らを量りにかけていることを感じるべきです。


行こうにも行けない縁であり、抜け出そうにも抜け出せない縁です。天国に行っても逃れられず、地獄に行っても逃れられない縁です。だからこそ、地獄で苦しみを感じるのです。


皆さんと出会った時間が短くても、天からの恩恵を受けたのが1ヶ月、2ヶ月、あるいは1年、2年、3年、4年の歴史を持っていても、その期間だけ恩恵を受けたと考えてはいけません。「私は天からの恩恵を6千年も受けてきたのです」と言える感情を感じなければなりません。そのような心が湧き上がると、皆さんは天に対して非常に恐縮することでしょう。千万回死んでも当然であるこの私を救い立てるために苦労されたのは天であり、喜んでいるのは自分というような悪しき存在になってはなりません。


だからこそ、本来の縁の中で生き、本来の縁の中で泣き、本来の縁の中で死ぬ者、その者が歴史の主人であり、時代の主人であり、未来を切り開く者であることを知らなければなりません。天はそのような者たちを集め、そのような者たちを呼び、そのような者たちを立てるために、縁を結ぶ歴史を諦めずに摂理を進めてこられたという事実を忘れてはなりません。裁きがあるなら、この縁を捨てた者以上に恐ろしい裁きを受ける者はいないでしょう。


皆さんは統一教会についてどのように考えていますか? そのような人は、ここにあるこの建物を考えている者でもなく、世の中のどんな真理を信じている者でもなく、ここに集まったこの群れを考えている者でもありません。これを超えて、神と縁を結んだ統一教会を認識し、その統一教会の真理に従うことができ、その縁で集まった統一教会の家族の感情を通じて理解できる人が、真の統一教会の家族です。これ以上の話はしません。


次に、信仰者の態度とはどうあるべきか? それは、待ち望む心情を持つことです。縁を持っているため、待ち望まずにはいられないということを、皆さんは知るべきです。では、天は何を待ち望んでいるのでしょうか? 天は信仰者を待ち望んでいるのではなく、生活の中で実践する者を待ち望んでいます。私も信仰者になることを待ち望んでいるのではなく、生活の中で実践する者になることを待ち望んでいます。希望の国を待ち望んでいるのではなく、その国で生活できる人を待ち望んでいるのです。


今日、私たちは「信仰」という名詞を掲げて待ち望んでいますが、その段階を超えて、生活的な信仰を持たなければなりません。つまり、天と共に生活する家族、天と共に生活する国民、天と共に生活する教会となるべきです。そのように生活しながら、楽しむことができ、歌うことができ、栄光を捧げることができる信仰生活をしなければなりません。天はそれを待ち望んでいます。


歴史の過程で、多くの私たちの先祖たちの前に「信仰」という名詞を掲げ、神が彼らに対して待ち望んでいたものは何だったのか? その場で戦っている信仰者としてのその姿ではなく、最後まで残って父と共に生きることができる人を待ち望んでいたのです。天が私たちを待ち望んでいたことを知らなければなりません。神が待ち望んでいたのは、信仰のために喜んで消えていける私であり、信仰のために死んで蘇ることのできる私であり、死の権から抜け出し、命の権内で復活の価値を歌い、永遠の世界で神を父と呼んで生きることのできる、そのような私を待ち望んでいるのです。これを考える時、天が待ち望んでいた私、その私を思い出し、その私を探し出すために、皆さんはその私に会うために奮闘すべきです。


今日、皆さんがここに立っているとはいえ、皆さんは天が待ち望んでいるその私ではないことをよく知っているでしょう。天が探している私ではないということです。だからこそ、皆さんには天を思う心があり、天のために尽くす心があり、天との縁があるならば、本来の私を待ち望む切なる心が、自分の生活基準として立てられるべきです。


そのような私を見つける時には、その私を誇り、私の価値を歌い、そのような私を探し求めていた父をお迎えして生きることができるでしょう。このような私を待ち望む皆さんでなければなりません。この心情を失ってしまえば、信仰の道を歩むことはできません。


人は自分を中心に始まり、自分を中心に解決し、自分を中心に批判して進む道が最も効果的です。したがって、皆さんは天が探している相対的な私を追求するよりも、相対的な私の価値を追求するその心に加えて、直接的な縁を持つ自分を追求しなければなりません。そのような私を見つけるために泣き、戦い、その衝撃が自分の中から始まり、自分自身を揺り動かす必要があります。そして、その揺り動かされた自分と希望の私が縁を結ぶ感覚を持たなければ、難しい信仰の道を無難に乗り越えることができるということを、皆さんは知らなければなりません。


皆さんが従っているこの先生は、今日の人々を前にして無限に悲しんでいます。今日の縁に対しては無限に嘆きたい反面、希望するその私に対しては歌いたいのです。


皆さんも、そのような心を時間ごとに、人生を通して感じられるべきです。対人関係や教会関係において、どのような環境や状況でも構わず、そのような自分を見つける歩みです。それをどうして自分から捨てられるでしょうか? どうしてそれを遅らせることができましょうか? どうしてそれを躊躇してただ見ていられるでしょうか? そのような歩みを後退する者であれば、望んだその私を手に入れることはできないでしょう。そのようになれば、その時から私は嘆くことになるでしょう。今までしてきた生活を続けるならば、嘆き、失望し、自己崩壊する状態に陥り、無力で無能な自分を嘆かざるを得ないことを、皆さんは認識すべきです。


だからこそ、理想的な信仰者に最も近い基準は、その希望の私を探し、待ち望むことです。したがって、皆さんがいつその私と出会えるのか、その心情に満ちているならば、天を仰ぎ、その私を見つけるために戦うでしょう。


神が創造の理念を立てられ、待ち望んだ一つの存在の姿が、歴史の過程を通して希望の姿としては現れましたが、実質的な姿としては現れていません。神が6千年の歴史の道を耐え忍び、戦って来られた理由は、希望の日を待ち望む心、希望する人間を待ち望む心があったからです。その心が強かったからこそ、いつかその実体的な姿と出会える日が来ると知っていたので、天は今まで耐えてこられたのです。


イエス様は十字架を越えて復活の恩賜を持たれましたが、その日を誇ることなく、「再び来ます」と希望の日を掲げて去られました。その後、「再び来ます」と約束された日を待ち望みながら、2千年間戦って来られたのです。天もこのように進まれたのであれば、地上にいる今日の私たちも同じ道を進まなければなりません。さらに、私たちはこの地に建てられた本来の姿、その私を立てるために天の苦労の歴史があることを知る者でなければなりません。そして、天の体面と威厳を気にかける心を持つべきです。歴史的な希望の日を歌いながら進むべきです。すなわち、栄光のうちに来られる復活の主を迎える私はどうあるべきかを考え、その私に対する確固たる基準を持って、その私を見つける日まで、どんなことが起きようとも進むという決意と誓いを持つべきです。そうでなければ、今日までの信仰生活がむしろ自分を踏みにじる生活だったということを否定できなくなるでしょう。


イエス以後2千年の歴史を経ながら、天は再び来る希望の日を見つめながら、忍耐してこられました。歴史の道筋がそのようであったことを思う時、地上で私が家族のために奉仕し、私が家族を訪ねて助言することは当然のことです。新郎である主人公を迎えるためのその日を探すことにおいて、それは新婦として備えるべき一つの飾り物であり、一つの装飾であることを知り、それに感謝し、それを喜びながら、お父様の前で涙を流すことができるべきです。天の世界は遠く、無限の世界です。その世界において、一つの存在は無限の存在であるという心を持ち、天に対して切実に訴える場に進む時、イエス様は私を探し出し、希望をもって来た私を歓迎してくださるでしょう。それが皆さんの霊的な体験の時間であり、霊的な面においてイエスと出会う時間です。ですから、会いたいという心が皆さんに満ちることを願います。その心がない者は、お父様の前に立つ第2の自我を見つけることができず、さらにお父様の前に立つことができないという結論に至ることを、はっきりと知らなければなりません。


次に、我慢できる者でなければなりません。神もまた耐えてこられました。エデンで罪が犯されたその日から今日までの歴史の道は、忍耐の道であったことを否定する者はいないでしょう。民族に対して歩まれた神の足跡を辿ってみても、それは涙を流しながら耐え、血を流しながら耐えられた道であることを、私たちは知っています。特にキリスト教の歴史を見てみてください。愛する独り子が敵に侮られ、死の犠牲として消え去ってしまうことがあっても、天は耐えてこられました。


さらに、天が選ばれたイスラエル民族は、長い歴史を経る中で、どの民族の前に現れた時も、侮られなかったことはなく、迫害されなかった時代もありませんでした。では、その民族の神であり、その民の神であられるにもかかわらず、なぜ今まで耐えてこられたのでしょうか? 耐えられず堕落した人間が原因であったため、耐える者が勝利の一日を築くまで、神も耐えずにはいられない運命に置かれているのです。耐えられずに意志を破ったために、耐える者が現れるまでは、神の心情が解放されることはありません。つまり、耐えて神の心情を解放し、耐えて民族を解放し、宇宙を解放して、幸福の一日を望み、戦いの道、迫害の道、死の道の中で、耐えた者に出会うまで、神はこの歴史を終わらせることができず、裁きの業を行うことができないということを、皆さんは知るべきです。6千年の間、耐え続けられ、悔しい思いがこみ上げておられ、裁きの権限を持っておられても裁きを行えないという、お父様の悲しみとお父様の苦しみ、お父様の悔しさがあるので、耐えることから始まり、耐えることで終わるのです。


キリスト教には「裁き」という名詞がありますが、その裁きとは何でしょうか? 天が耐えてこられた歴史を終わらせることのできる一瞬です。天はその一瞬を待ち望んで、耐えてこられました。それは神ご自身が解決できるものではなく、人を通して解決できるのです。裁きの権限を持ち、裁きの場に立ち、敵を裁くことができるキリスト教でなければなりません。そして、私たちには6千年の間耐えてこられた神のその忍耐が支えとして必要です。歴史の道で耐えてこられたお父様の心情を体感し、それを引き継いで「お父様! 耐えてこられた心情を解き放ち、私を通して解放してください」と言える覚悟を持って進む者が必要です。6千年の間、天は意志を立てられ、先祖たちを対して、時代ごとに、また世紀を越え、言葉に尽くせぬ戦いの歴史を経ながら耐えてこられました。このように耐え続けられた神の心情に、皆さんの心全体を合わせ、さらに余裕を持って耐える心を持って現れなければなりません。そうでなければ、神が耐えてこられた心情の基準を超えることはできず、それによる解放の基準を立て、裁きを促すことはできないのです。


天は終わりの日に「7年の大患難がある」と私たちに予告されました。そして、聖徒たちのために、「終わりの日には選ばれた者さえも惑わすだろう」と仰せられました。また、「終わりの日には、この患難の中で最後まで耐え忍ぶ者が救いを得る」と言われたことを、皆さんはよく知っているはずです。


では、その忍耐の終着点はどこでしょうか? 忍耐の終着点はどこでしょうか? 皆さんはその終着点を探し求めて迷い歩いてみましたか? それはアダムの家庭でしたか? そこでもありませんでした。ノアの家庭でしたか? そこでもありませんでした。歴代の預言者たちでしたか? そこでもありませんでした。今日の私自身にも、やはり忍耐の歴史が残っており、この社会にも忍耐の歴史が残っており、私の後の子孫にも忍耐の歴史が残るだろうと考える時、私は忍耐の王子としての資格を備え、お父様の前に現れなければなりません。6千年の間耐え忍んでこられた父を慰めようという心を持ち、天の前に出ていくことを考える者が、この地上にいなければなりません。


皆さんに忍耐があると言っても、その忍耐が歴史的な忍耐の終着点からはまだ遠いことを悟るでしょう。今日、私たちの教会に縁のある人々が「疲れてもう行けない」と言います。「統一教会は良いが、難しくて行けない」と言うのを耳にしますが、そんなことを言える人は幸せな者でしょう。地上では幸せな者かもしれませんが、天を前にしてみれば哀れな者です。そうです。確かに進むのは困難です。進む道は涙の道です。見て泣き、感じて泣き、戦いながら泣く涙の道です。この涙が止まる時が今だと思っていたのですが、そうではありません。涙がさらに続く、つまりさらに忍耐の涙を求める天の心情があることを知り、天がこの哀れな私たちを待っていることを知る時、私が耐えたというその事実も天の前には顔向けできません。私は解放後今日まで歩んできましたが、まだ自分の忍耐の限界を考えたことがありません。また、終わりを望んでもいません。終わりを望むその時から、自分を振り返り、その時から恐れを感じることになるということを、皆さんは信仰生活で感じなければならないのです。


耐えてこられた父、そのお父様が私の父であり、耐えてこられたその方が私と永遠に共に生きる私の父であり、耐えてこられたその方が私が仕える新郎であるということを、皆さんは心の奥底で考えたことがありますか? ほとんどないでしょう。天の前で喜び、栄光を享受した者がいるとしましょう。その者を見て羨むよりも、忍耐の場に堂々と立ち、忍耐の場で泰然自若としていられるべきです。天の前に忍耐の姿で現れたその者が、今日のこの混乱した歴史の中で、忍耐の歴史の過程で、幸福に浸っている者よりも尊い者であることを感じるべきです。そのような心情で今日のこの混乱した時代を越えられない者は、天に対して裏切り者となるでしょう。


皆さんに物質による苦しみがありますか? それを耐えなければなりません。知識による苦しみがありますか? それも耐えなければなりません。自分自身に関する心の苦しみがありますか? それも耐えなければなりません。6千年の忍耐の歴史を裏切る者にならないように、耐え、耐え、さらに耐えなければなりません。滅びるかと思えば、残されたものが天の歴史であり、倒れるかと思えば、蘇ってきたのが天の歴史です。


皆さんは「六臣」のことをよく知っているでしょう。この民族の魂が折れかけた時、民族の精神が曇ろうとしていた時に、再び民族を新しい希望へと導いてくれた基盤は何だったのか? それは私たちが知っている成三問をはじめとする「六臣」がいたからです。忍耐の道も、死の道も、どのような苦しみの場でも、苛酷な刀剣にも耐えたその基盤があったからこそ、私たちの民族精神が支えられていることを知らなければなりません。


では、今日の天の伝統的な、天的な精神を受け継ぐ者は誰でしょうか? それは忍耐の祭壇を高く掲げる者です。忍耐の祭壇を掲げ、天に向かって待ち望んでいる者がその者であることを、皆さんは知るべきです。


このような心が空想的でなく、現実的な感情、現実的な触感から感じられるべきです。それを感じることができれば、自分が耐えると約束し、誓ったことなど問題にならないと笑い飛ばすことができ、そんな余裕が皆さんの腹の底から細胞の隅々まで動かすようになるべきです。そのような衝撃がないならば、残された苦難の度数をどうやって満たすのか? 民族が超えるべき苦難の峠をどうやって越えるのか? 世界が超えるべき苦難の峠をどうやって越えるのか? 天が超えるべきこの峠をどうやって超えるのか? 苦難の城を築き、死の城を築きながら耐える過程を経た後、幸福が現れないとすれば、神の忍耐もある一日に終わりを迎えることはできないのです。


今日、私たちは自らを信仰者と称しています。この天の理念を求めて進んでいると言っています。明日の命を歌い、明日の希望を求め、明日の希望を基準にして、明日の国、明日の民、明日の家庭、明日の私を求めて進んでいます。これが信仰の道ですが、その「明日の私」とは、まだ距離があります。その「私」は今日にはありません。ここで探しても、すべてが失望に終わります。皆さんの周囲にもありません。皆さんはまず歩むべき苦難の道をすべて歩まなければなりません。そして、待ち望むべき切なる心情の基準を高くしなければなりません。築くべき人類の歴史が残っている限り、それを清算しなければ、その日が訪れることはありません。
アーメン

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