宮沢賢治〈雨ニモマケズ〉に新解釈の玄侑宗久氏 (2)
無名の宮沢賢治を高く評価し世に送り出されたのは、草野心平、高村光太郎の功績と伝えられる。照明を当てて頂いたことにいちファンとして、感謝の念でいっぱいです。
さて、その高村光太郎は、東京の駒込林町のアトリエを空襲で焼失。宮沢賢治の令弟宮沢清六宅の岩手県花巻町へ疎開した。
ところが、宮沢宅も1945年敗戦の8月に戦災にあった。花巻町の中心街はほとんど焼失したといわれる。賢治の書きかけの原稿の一部が焼け焦げもした空襲であった。
光太郎は、清六宅を出ざるをえなくなり、転々ののちに落ち着いた先は岩手県稗貫郡大田村山口(現在:花巻市太田山口)の鉱山小屋であった。このとき光太郎は63歳。その鉱山小屋で自炊農耕の独居生活を始めた。
自分を鞭打つかのような雪の吹き込む陋屋での小屋生活であった。
光太郎は敗戦後、軍国主義に加担し若者を戦場に送ったことを悔い、自省から、みちのくの小屋に籠もり謹慎生活を選びとったとみられている。
その「謹慎」生活の日々のなかで、高村光太郎は賢治のナマ原稿の束に本格的に向き合うことになれたのではなかったかと思われる。それまでは、賢治の送りつけた詩集『心象スケッチ 春と修羅』のみの接点でしかなかった筈、と思う。では、その『春と修羅』には「雨ニモマケズ」が網羅されていたのであろうか。ノーである。
国会図書館では宮澤賢治生誕100年(1996年)を記念して、「春と修羅」初版本の復刻出版がなされた。インターネットで『心象スケッチ 春と修羅』を検索なさるなら確認できましょう。
「雨ニモマケズ」は、賢治の死後、遺品片づけのおりに発見された、と伝えられる。ということから、私はノーであると述べた。
第一号の賢治碑の碑文選定作業のおりに、膨大なナマ原稿のなかから光太郎が選びとったとする話は、ありえないことであろう。このことは、年譜も検討しながら考察したい。
和田文雄著の一章「椿説」によると、東京の光太郎宛へ碑文用作品を写し採って送った、とする話が披露されていた。では、誰が賢治の作品を選びとり、碑石のサイズ内に美的におさまる文字数はいくつまでなら妥当か、も検討された上で、揮毫をお願いしたのであろう。
高名な光太郎先生の手を煩わすことは最小限にとどめるのが礼儀であろう。そのためには作品を選び取って書き写し、お届けする案が、妥当な思慮ではないだろうか。
雨ニモマケズの全文を碑文とすると、文字は細字化し読み難くなる、そこで、碑石には、雨ニモマケズの後半のみの判断を決定した上で、揮毫をお願いしたのであろうと思われる。
ということで、和田文雄著『宮沢賢治のヒドリ――本当の百姓になる』に記述されている「椿説」は、光太郎が作品のなかから選びとり、その選んだ作品の文章を勝手に直したかのような断定的記述が紹介されていたかと思うが、はたして、そのようなことをする詩人光太郎であろうか。
揮毫を頼まれて、快諾された光太郎さんである。
〝改竄〟問題で犯人扱いされていると知ったならば、あの世で悲しまれておられよう。
イーハトーブの人々は、恩のある人を、そのような決めつけをなされるのであろうか。
されないだろうと私は思いたい。
パソコンで検索をしておると、岩手の地元のお人であろうか、先行して研究をされる御仁を発見した。ほっとした。以下のブログの発信者「みちのくの山野草」さんである。
《 1853 高村光太郎の名誉のために - みちのくの山野草『遺作(最後のノートから) 故宮澤賢治』(昭和9年9月21日付岩手日報)》 最近恩師 より『遠野物語と21世紀 東北日本の古層へ』(石井正己・遠野物語研究所編、三弥井 書店平成22年4月28日発行)という本を頂いた。 興味深く読ませてもらっ .. blog.goo.ne.jp/.../e/796efb4528cfe48c0dc219bb1d7d9131 - ・・》。
みちのく山野草さま、感謝もうしあげます。ネーミングから 察しますに山登り、山野草を愛好の御仁さまとおみうけします。
私は、ひよっこですが、山がすきで、岩手山の頂上で出合った群生のコマクサは、それはそれは見事でした。未だに忘れられません。そして岩大山岳部のOGさんに教えられて岩手山鬼ヶ城コースを歩いたことも忘れられぬ思い出です。
早池峰山の蛇紋岩のあいだに咲く山野草も、格別の思い出です。
みちのく山野草さまに助けて頂きながら、引用もさせて頂きながら困難な「濡れ衣事件」をみてゆきたい。ねがわくば、賢治の精神理解にむけて努力できればと思っております。
みちのく山野草さまの応援を得て鬼に金棒となりました。私は繰り返し述べたい。
宮沢賢治の遺品の中から黒皮の手帳が見つかり、その手帳に「雨ニモマケズ」の書付があったことが真実ではなかったか。
とするなら、吾ブログ(1)で発信した「ささやき戦術」、と私はみるが、うわさ話的に撒き散らすことは、いかがなものであろうか。
姑息なことをやるイーハトーブの人々ではない、と信じる。
私は、宮沢賢治と高村光太郎の友情を信じるがゆえに、和田氏の「椿説」に憂慮する。
和田氏は歴史的な例証をあげられて立派な理論書「ヒドリ論」を公表された。そのご努力は、労作は賢治をさらに深く理解させ、おし進めたことである。
それゆえに、惜しまれる「椿説」の掲載ではなかろうか。
さて、高村光太郎には毀誉褒貶がついてまわるようだが、誰しも生きておれば、いろいろ云われることだ。己がお天道様に恥じない生き方をすればそれでよいのだがと思う。
高村光太郎は自分にきびしく生きられた。
岩手県の小屋に籠もった高村光太郎はすでに齢63であった。人生50年弱の時代にあって、生老病死を見詰める生活でもあっただろう。
この後、光太郎は自らの生涯を問う詩『暗愚小伝』を編んだ。題名からして、賢治がデクノボーと呼ばれたいと渇望したその信念の影響を強く受けてのタイトル『暗愚小伝』であるように思えてならない。
光太郎は65歳のときに、帝国芸術院会員に推挙されたが、辞退した。この辞退は光太郎の謹慎の表明ではないだろうか。謹慎を本物とする己に突きつけての辞退ではなかっただろうか。
光太郎71歳の時には、日本芸術院第二部会員に選ばれたが、また辞退をした。
誠実な光太郎ではないか、と私には感じられてならない。
その、光太郎が、賢治の雨ニモマケズの詩文を、替えた、と云われている。
日本の良識と尊敬する山折哲雄氏のご指摘もある。私は詩文を、替えた、といわれる本質は、改竄した、という意味にとらえた。改竄はゆゆしきことではないか。高村光太郎は、そのような人間であったのであろうか。――――――――――――次回の (3)へ続く。
無名の宮沢賢治を高く評価し世に送り出されたのは、草野心平、高村光太郎の功績と伝えられる。照明を当てて頂いたことにいちファンとして、感謝の念でいっぱいです。
さて、その高村光太郎は、東京の駒込林町のアトリエを空襲で焼失。宮沢賢治の令弟宮沢清六宅の岩手県花巻町へ疎開した。
ところが、宮沢宅も1945年敗戦の8月に戦災にあった。花巻町の中心街はほとんど焼失したといわれる。賢治の書きかけの原稿の一部が焼け焦げもした空襲であった。
光太郎は、清六宅を出ざるをえなくなり、転々ののちに落ち着いた先は岩手県稗貫郡大田村山口(現在:花巻市太田山口)の鉱山小屋であった。このとき光太郎は63歳。その鉱山小屋で自炊農耕の独居生活を始めた。
自分を鞭打つかのような雪の吹き込む陋屋での小屋生活であった。
光太郎は敗戦後、軍国主義に加担し若者を戦場に送ったことを悔い、自省から、みちのくの小屋に籠もり謹慎生活を選びとったとみられている。
その「謹慎」生活の日々のなかで、高村光太郎は賢治のナマ原稿の束に本格的に向き合うことになれたのではなかったかと思われる。それまでは、賢治の送りつけた詩集『心象スケッチ 春と修羅』のみの接点でしかなかった筈、と思う。では、その『春と修羅』には「雨ニモマケズ」が網羅されていたのであろうか。ノーである。
国会図書館では宮澤賢治生誕100年(1996年)を記念して、「春と修羅」初版本の復刻出版がなされた。インターネットで『心象スケッチ 春と修羅』を検索なさるなら確認できましょう。
「雨ニモマケズ」は、賢治の死後、遺品片づけのおりに発見された、と伝えられる。ということから、私はノーであると述べた。
第一号の賢治碑の碑文選定作業のおりに、膨大なナマ原稿のなかから光太郎が選びとったとする話は、ありえないことであろう。このことは、年譜も検討しながら考察したい。
和田文雄著の一章「椿説」によると、東京の光太郎宛へ碑文用作品を写し採って送った、とする話が披露されていた。では、誰が賢治の作品を選びとり、碑石のサイズ内に美的におさまる文字数はいくつまでなら妥当か、も検討された上で、揮毫をお願いしたのであろう。
高名な光太郎先生の手を煩わすことは最小限にとどめるのが礼儀であろう。そのためには作品を選び取って書き写し、お届けする案が、妥当な思慮ではないだろうか。
雨ニモマケズの全文を碑文とすると、文字は細字化し読み難くなる、そこで、碑石には、雨ニモマケズの後半のみの判断を決定した上で、揮毫をお願いしたのであろうと思われる。
ということで、和田文雄著『宮沢賢治のヒドリ――本当の百姓になる』に記述されている「椿説」は、光太郎が作品のなかから選びとり、その選んだ作品の文章を勝手に直したかのような断定的記述が紹介されていたかと思うが、はたして、そのようなことをする詩人光太郎であろうか。
揮毫を頼まれて、快諾された光太郎さんである。
〝改竄〟問題で犯人扱いされていると知ったならば、あの世で悲しまれておられよう。
イーハトーブの人々は、恩のある人を、そのような決めつけをなされるのであろうか。
されないだろうと私は思いたい。
パソコンで検索をしておると、岩手の地元のお人であろうか、先行して研究をされる御仁を発見した。ほっとした。以下のブログの発信者「みちのくの山野草」さんである。
《 1853 高村光太郎の名誉のために - みちのくの山野草『遺作(最後のノートから) 故宮澤賢治』(昭和9年9月21日付岩手日報)》 最近恩師 より『遠野物語と21世紀 東北日本の古層へ』(石井正己・遠野物語研究所編、三弥井 書店平成22年4月28日発行)という本を頂いた。 興味深く読ませてもらっ .. blog.goo.ne.jp/.../e/796efb4528cfe48c0dc219bb1d7d9131 - ・・》。
みちのく山野草さま、感謝もうしあげます。ネーミングから 察しますに山登り、山野草を愛好の御仁さまとおみうけします。
私は、ひよっこですが、山がすきで、岩手山の頂上で出合った群生のコマクサは、それはそれは見事でした。未だに忘れられません。そして岩大山岳部のOGさんに教えられて岩手山鬼ヶ城コースを歩いたことも忘れられぬ思い出です。
早池峰山の蛇紋岩のあいだに咲く山野草も、格別の思い出です。
みちのく山野草さまに助けて頂きながら、引用もさせて頂きながら困難な「濡れ衣事件」をみてゆきたい。ねがわくば、賢治の精神理解にむけて努力できればと思っております。
みちのく山野草さまの応援を得て鬼に金棒となりました。私は繰り返し述べたい。
宮沢賢治の遺品の中から黒皮の手帳が見つかり、その手帳に「雨ニモマケズ」の書付があったことが真実ではなかったか。
とするなら、吾ブログ(1)で発信した「ささやき戦術」、と私はみるが、うわさ話的に撒き散らすことは、いかがなものであろうか。
姑息なことをやるイーハトーブの人々ではない、と信じる。
私は、宮沢賢治と高村光太郎の友情を信じるがゆえに、和田氏の「椿説」に憂慮する。
和田氏は歴史的な例証をあげられて立派な理論書「ヒドリ論」を公表された。そのご努力は、労作は賢治をさらに深く理解させ、おし進めたことである。
それゆえに、惜しまれる「椿説」の掲載ではなかろうか。
さて、高村光太郎には毀誉褒貶がついてまわるようだが、誰しも生きておれば、いろいろ云われることだ。己がお天道様に恥じない生き方をすればそれでよいのだがと思う。
高村光太郎は自分にきびしく生きられた。
岩手県の小屋に籠もった高村光太郎はすでに齢63であった。人生50年弱の時代にあって、生老病死を見詰める生活でもあっただろう。
この後、光太郎は自らの生涯を問う詩『暗愚小伝』を編んだ。題名からして、賢治がデクノボーと呼ばれたいと渇望したその信念の影響を強く受けてのタイトル『暗愚小伝』であるように思えてならない。
光太郎は65歳のときに、帝国芸術院会員に推挙されたが、辞退した。この辞退は光太郎の謹慎の表明ではないだろうか。謹慎を本物とする己に突きつけての辞退ではなかっただろうか。
光太郎71歳の時には、日本芸術院第二部会員に選ばれたが、また辞退をした。
誠実な光太郎ではないか、と私には感じられてならない。
その、光太郎が、賢治の雨ニモマケズの詩文を、替えた、と云われている。
日本の良識と尊敬する山折哲雄氏のご指摘もある。私は詩文を、替えた、といわれる本質は、改竄した、という意味にとらえた。改竄はゆゆしきことではないか。高村光太郎は、そのような人間であったのであろうか。――――――――――――次回の (3)へ続く。