主夫の目

ニュースを見て気になることを、日記代わりに書きためていこうと思います。頭の老化予防になればいいのですが。

アベノミクスの対案としての1000時間労働制

2016-10-13 10:59:18 | 国内政治
 国会中継が始まっている。時々、なかなか鋭いと思う野党の質問もあるが、安倍首相に論点をはぐらかされてしまう、いつものパターンが繰り返されている。安倍首相の最大の反撃の武器は、「対案を出して下さいよ。」だ。これで野党は、すっかり腰砕けになってしまう。これといった名案を持たない野党の自信喪失は隠せない。与野党議員のみならず、日本経済の低迷を抜け出すための、合理的な提案ができない経済学者どもの無能力にいらだちを抑えきれない。
 私は、アベノミクスの対案として、『年1000時間労働制』を、経済政策の観点から提案したい。これについては、すでに、1年ほど前に投稿済みであるので、その項をご覧いただきたい。繰り返しになるが、ここでは、『年1000時間労働制』が生み出す効果を以下に提示しておきたい。必ずや関心を持たれるものと思いうが、ぜひとも先の投稿の本文をお読みいただきた。

 観光業の発展
 音楽産業の発展
 各種観客動員数の増加 
 スポーツ人口の増加
 国民の健康増進
 医療費の削減
 パソコン教室の増加
 語学教室の増加
 DIY・家庭菜園の流行
 女性の社会進出の拡大
 スーパーの営業時間の短縮
 離婚率の低下
 出生率の上昇
 政府の社会保障支出の減少
 少年非行の減少
 自殺の減少
 老人介護の改善
 自治会の活性化・災害に強い地域社会
 経済犯罪の減少
 ごみの減少
 原発廃炉の加速化

年金 5兆円 東電 東芝

2016-08-18 14:01:59 | 国内政治
 安倍政権は、アベノミクスが成功したので、株価が上がったのだと自慢げに言っています。あなたも株をお持ちですか?株価が上がって喜んでいるのですか?でも、わたくしのような年金生活者は、株などまったく持っていません。株価が上がったといわれても、それがどうしたの?という感じです。
 さて、不思議に思うのは、昨今言われている、GPIFが年金の株式投資で5兆円の損をしたというニュースです。株価が上がっているのに株式投資で損をしたということに合点がいきません。GPIFはよほど無能な人々の集まりかと疑いが生じてきます。彼らは、この損失に対して何らかの責任を取ることがあるのですか?たぶんないでしょうね。
 私が思うには、実際は、彼らはそんなに無能な人たちではないと思うのです。というより安倍首相の意向をくんで、あえて、見込みのない株式に投資したのではという疑いがぬぐいきれないのです。もちろん投資先に選ばれたのは、東電や東芝などの企業だということは、お気づきのことだと思います。さらに踏み込んで言えば株価操作のために国民の年金が使われたということです。明らかに犯罪だと思います。また、仮に事実だとすれば、GPIFのこの背信行為は断じて見過ごされるべきものではありません。厳しく追及されなければならないでしょう。
 株式投資では損失が生じるのも仕方ないことだとし、この5兆円も想定内のことだと安倍政権を擁護する輩もいますが、この損失は、安倍政権が2014年10月に年金運用の株式投資を倍増させてからのことです。その意図は、東電や東芝などの政府自民党と関係の深い企業の株価の買い支えにあったのではないかと十分に推測されるのです。
 GPIFの個別の投資先など庶民の目には届かいないので、推測しかできないのが残念です。その結果、GPIF(つまり安倍政権)のやりたい放題ということでしょう。損失は庶民がかぶればよいという考えは、消費増税と同じ発想ですな。

年間1000時間労働制の提案(その2)

2015-06-11 00:28:24 | 国内政治
※ (その1)からの続きとなっています。まず(その1)をお読みください。

◎営業時間の短縮で売上高を維持できるのかの疑問に答える。
○変わらない食料品の消費量
 一人当たりの食料品の量的な消費量は、飢饉でも起こらないかぎり、余り変動するものではないと考えるのが常識だろう。短時間勤務の世の中になったとしても、仕事があって収入がある人々は、必要な量の食料品をスーパーなどで買い入れる生活は変わらないはずである。もし収入が減れば、廉価商品を買うことになるだろう。労働時間が減っても収入が必ずしも減ることはないことを述べた。逆に収入増加の可能性もあるわけであるから、そのときは、高級食料品を買うことになるだろう。よって、食料品の販売額は余り大きな変化はないと見てよいであろう。 
○自動車の売れ行きは
 今までは、せっかく大金を払って買ったマイカーだが、休日取得もままならず、遠乗りする機会がほとんどなかった。おかげで、自動車が傷むことも少なかった。当然、自動車販売店は売れ行きの伸び悩みに苦しむことになる。自動車のセールスマンは顧客の家庭をたびたび訪問するなど、並々ならぬ努力をしてきたものだ。メーカーも、テレビのコマーシャルなどの広告宣伝費に経費の多くをつぎ込んできた。しかし、旅行など、自動車の利用機会が増えれば、自動車の消耗も早くなる。自然と販売台数は伸びるだろう。労働時間の短縮の結果、人件費が高くなって、自動車の価格は高くなるだろう。結果として、価格競争力が落ち、自動車の輸出は減少するにちがいない。もともと、日本の自動車メーカーの生産台数の半分以上は海外の工場で生産されたものである。輸出の落ち込みは海外工場がカバーしてくれる。一方、輸出減少分は、国内需要の高まりが幾分相殺してくれるだろう。

◎労働力移動を容易にする非正規雇用制度
 今や、従業員の雇用をなんとしても守らなければならないと、必死で取り組む意欲を持った経営者が少なくなった。しかし、このことが法定労働時間の短縮の実現にとって有利に働くことが予想される。投資家も見込みのない企業からはあっさりと手を引く。長時間労働ゆえに利益を上げていた企業は、労働時間の短縮によって、人々の生活のあり方が変わってしまうと、今までの商売のやり方では売り上げを維持できなくなる。売り上げの減少に伴って、経営者は赤字削減のために、非正規雇用の従業員をあわてて解雇するだろう。不振の企業から資金を引き上げた投資家は、成長を見込める新たな企業に資金を投入しようとするだろう。労働者も職場選択の幅が広がり、働き甲斐のある場所を見つけることができるようになるだろう。
 法定労働時間の短縮という、国をあげての大変革に意外とスムーズに移行できるのかもしれない。もちろんさまざまなトラブルも起こるだろう。しかし、皮肉なようだが、収益第一の投資家や経営者の行動傾向が、こんなときになってよい働きをしてくれるのは面白い。

◎労働時間を短縮しても、生産高は維持できるのかの疑問に答える
○農林漁業
 政府の発表した「職業別就業者数」なる統計によると、平成25年度の総就業者数は6300万人余りである。そのうち農林漁業従事者は、約230万人である。全就業者数の4%にも満たない。彼らによる生産物はほとんどが国内で販売されるものだろう。したがって国内需要に見合う生産高を維持しようとすれば、個人の労働時間が減った分に見合うだけの従事者数を増やさなければならなくなる。米や牛肉をはじめとしてアメリカなどからの輸入品に脅かされている作物は、人件費の上昇を価格に容易に転嫁できない。困った。どうしよう?????
 日本の農家の中で、兼業農家の割合は極めて高い。そのうち農業収入が総収入の50%以上を占める第1種兼業農家の数は、専業農家総数のおよそ2分の1だ。第2種兼業農家数は専業農家数のほぼ2倍である。彼らは、農業に従事する時間数を柔軟に決定できる。農業外の労働時間が短縮されれば、今までと変わらない程度に農作業をしても、全体としての負担は軽くなっている。農業生産高の減少はそれほど心配しなくてもよさそうだ。もちろん、農業従事者も総労働時間が他の労働者並に短縮されるのがベストであることにはちがいない。
 正直に言えば、法定労働時間の短縮がすべての経済問題を解決できるわけでないことは、ご理解いただけるものと思う。そうはいっても、食料自給率の維持は、食糧安保の重要な課題だ。
 必要は発明の母。生産技術の進歩や近代的な機械の導入による生産効率の高まりに期待したい。農業も、今までのような個人業種的な労働の仕方から、組織的な労働へと変化が見られるだろう。財産としての土地ではなく、田畑を純粋に生産手段と見られるように農業従事者の思考が変革されれば、生産力の向上もそう難しいことではなくなるだろう。
○製造業
 製造業こそが戦後の日本の経済発展に最も貢献してきた。それは、だれもが認めるところである。資源の乏しい日本がここまで経済発展できたのは、鉄鉱石、石炭、石油などの一次産品を輸入し、それをもとに製造された付加価値の高い製品を輸出して儲けたおかげなのだと。しかし、21世紀の今、日本の労働者のうち製造業に従事している人の数は、大方の人の予想をはるかに下回るものであると思う。
 建設業と製造業の従事者は合わせて 1500万人ほどである。働く人のおよそ4人に1人だけが建設業と製造業に携わっていることになる。労働時間の短縮はもちろんコスト上昇につながる。もはや他国の企業と同種の商品で価格競争しても打ち負かすことは不可能になる。当然輸出量が減少するのは間違いない。国内企業が生き残るためには、発展途上国の技術では生産できない高品質の製品に製造を特化しなければならなくなるだろう。日本の利益のために製品を輸出するのではなく、発展途上国が自らの力で自国民のための製品を生み出すことができるように協力することで、日本は、尊敬を得るようにしなければならないだろう。商品ではなく、技術や知識を輸出するべきだろう。
 輸出総額の減少は、必然的に輸入総額も減少させる。日本は自国で消費するよりはるかに多くの石油や鉄鉱石をはじめとする鉱産資源を輸入している。輸出量が減ればそれに見合うだけの資源の輸入量も減少する。排ガスや産業廃棄物の排出も減少する。これは、日本の美しい自然を保つことに貢献する。日本の自然美を維持・改善できれば、海外からの観光客の増加を期待できる。輸出の減少で生じた利益の多くを観光収入の増加で穴埋めできるかもしれない。スイスが観光立国としてやっていけるのも美しい自然があるからだ。
 いずれにしても、今まで国内需要に対しては過剰であった生産設備をそのまま活用すれば、労働時間を短縮しても、輸出減少後の需要に応じることができるだろう。夜間勤務の人員も大幅に削減できそうだ。製造業に従事する労働者の労働時間の総合計が半分近くに減少したとしても、内需中心の需要には十分対応できる生産力を維持できるだろう。
 日本国内がデフレ状況にあって、労働力過剰であったため、低賃金の雇用が可能になっていた。しかしそのことが、企業の効率化促進の努力を緩める原因になっていたかもしれない。低賃金の労働力に甘えることができなくなれば、いっそうの技術革新に向けた努力がなされるにちがいない。日本を支えてきた技術者たちには、発展途上の国々にはまだまだ追い抜くことが不可能な高品質の製品を生み出す力があるはずである。しかし、十分注意しなければいけないことがある。技術者というものは、とかく金儲けよりも研究開発そのものに生きがいを見出す人種のようである。ほうっておいても家庭を顧みず長時間勤務に陥ってしまいがちである。働きすぎに注意である。
 製造業に従事している人がすべて生産工程に配置されているわけではない。実は事務や管理など生産工程外に従事している人のほうが多いぐらいなのである。生産・運輸関係の職業に従事している人の数は、全就業者数のおよそ3分の1の2000万人ほどである。そのうち生産工程に従事している人の数は、半分に満たない900万人ほどである。輸出量が減少すれば、生産高も縮小すればよいのであるから、法定労働時間の短縮に伴う労働力不足は、輸出品製造の減少でほとんど相殺されるのではないか。したがって生産工程従事者の人数の変化は余り多くないように思われる。
 運輸関係職業の従事者は、200万人余りである。経済の発展に伴い運輸関連の仕事は増大していく傾向にあることは間違いない。しかし、消費傾向が物品の購入からサービス関連のものに移り、また輸出も減少すれば、運輸業に対する需要はいくぶん減ると考えてよいだろう。そうなると労働時間の短縮による労働力不足もそれほど深刻にならないのかもしれない。
 製造業においても事務や販売に従事している人の数は、製造工程従事者に引けをとらないぐらいいる。したがって、先にショップ店員や自動車のセールスマンについての話で述べたように、労働時間の短縮が、顧客対応の効率化をもたらすならば、販売高の減少は心配するほどのことはないかもしれない。労働時間の短縮がパソコン教室に通う人の増加を生むという話もした。従業員のコンピューター技能の向上は、企業の事務の合理化を大いに進めてくれるに違いない。人手不足は解決されるだろう。
 いずれにしても数量的には、輸出関連産業での雇用機会の減少は避けられない。しかし、サービス産業を中心とした国内需要の高まりが、輸出関連産業での減少分以上の雇用機会を生み出すことは間違いないだろう。国内需要に見合った製造業の生産能力は十分すぎるほどだ。携帯電話をはじめとする通信関連企業の収益が、自動車や家電製造企業の収益より高いことが、最近発表された。このことからも分かるように、物にあふれた日本では、ますます製造業の比重が小さくなっていくにちがいない。

◎企業戦士であること
 日本の労働者の多くは、自分の人生の多くを勤めている企業に託している。中間管理職以上の会社への帰属意識は、非正規雇用の現場労働者よりはるかに強い。彼らは身を粉にして企業のために奮闘努力する。まさに企業戦士の名にふさわしい忠誠心だ。
 兵士というものは、戦場に赴いた時、目の前の敵を殺すことが主たる任務だ。敵を殺さなければ自分の命が危うくなる。彼らが戦場に出る前には、自分の命をかける戦争の意義や目的を十分に理解していたにちがいない。しかし、ひとたび戦場に身を置いた時、戦争の意義や目的など、もはや考えている余裕はない。目の前に現れた敵を殺さなければ、自分が殺されるのだ。
 企業戦士もまた戦場に赴いた兵士同様、企業経営の意義や目的を念頭に置いて常に働いているとは言い難いのではないだろうか。厳しい競争社会の中で、他社との競争に敗れることは、自身の企業戦士としての地位や名誉を失うことにつながる。したがって、常に戦いに勝利しなければならない。戦場におもむいた兵士たちが殺人ロボットと化すように、企業戦士たちもまた、日々、市場という戦場において、戦闘マシーンに変身してしまう。戦場での目を覆いたくなるような作戦遂行の報道がなされることがある。人道上許されざることだと非難の声が上がる。敗北が死を意味する戦場では、勝利のためには手段を選ばずということなのだろう。独占禁止法違反の企業が摘発されたニュースを聞くことがある。また海外の日本企業が、不当な取引きで数百億円の罰金を科せられたというニュースも、そう珍しいことではなくなってきた。これらの醜聞もすべて優秀な企業戦士のなせるわざである。勝利こそ正義なのだ。犯罪に手を染めることもいとわない企業戦士にとって、無給の長時間の残業など問題になるはずもない。血の小便なにするものか。彼らは、現場の労働者も自分たちと同様の働き方をするのが当然と考える。異議を唱えるものは、自ら負け犬となることを宣言したと解されてしまう。自然な成り行きとして、日本の低賃金長時間労働の仕組みが出来上がってしまった。
 このような働き方は間違っているという声が、企業戦士である中間管理職から上がってこようはずもない。また、現場の労働者でさえ、企業で働くということはそういうものだと納得してしまっているふしがある。不幸なことである。

◎安かろう悪かろうから日本ブランドへ
 戦後、まさに焼け野原であった日本の都市。復員してきた人々がありあわせの道具や機械を使って生活に必要なものを作り出した。やがて日本製品がアメリカに輸出されるまでに、日本の工業は回復した。初めは安かろう悪かろうの評判そのものであった。それがやがて日本たたきを引き起こすまでにアメリカ経済の脅威となった。しかし、日本製品は、やがてジャパンブランドとして尊敬を受けるまでになった。
 頑張りにがんばりつづけ、現代の発展をもたらした日本の労働者たち。彼らはその働きに応じた報酬を得ているのであろうか。年金の引き下げ、福祉の切り捨て、安心できる老後は手の届かないものとなった。おかしなことだ。
 かつてのアメリカの人々が、日本の発展に恐れをなし、ジャパンバッシングに走ったように、コリアバッシングやチャイナバッシングをしていると思われる日本人が少なからずいる。誇り高い日本が韓国や中国に負けることが許されないのだろう。しかし、やがてはアメリカの人々がジャパンブランドとして日本製品を評価するようになったのと同じく、今度は日本人が韓国製品や中国製品を尊敬の目で見る時代が、すぐそこまで来ているのだ思う。
 国際分業という言葉がある。分業は生産効率向上の方策の主たるものである。しかし、国際分業は、ありがたい効果をもたらすものと安易に評価することはできない。先進国は往々にして、発展途上国を資源調達の地また製品販売の地と捉えがちである。その考えは各国間の経済格差の固定化の原因となりかねない。日本はODA(政府開発援助)では世界有数の国であり、発展途上国の人々から日本人が尊敬を受ける大きな理由のひとつとなっている。発展途上国の人々がより豊かな暮らしを送れるように協力することが、先進工業国の責務である。しかし、先進国の企業経営者たちは、自分たちの製品の輸出相手国であるかぎり、発展途上国をお客様として大切に遇する。しかし、かの国々が発展し自分たちと競合するほどの実力をつけることは望まない。発展途上国の製品に市場を奪われまいと、自社の従業員の賃金を低く抑えて価格競争に勝とうとする。しかし、日本の企業がジャパンバッシングを受けながらも、やがてアメリカの人々からジャパンブランドとして尊敬を受けるようになったように、今度は、日本が新興国に市場を明け渡すときが来ることを認めなければならない。価格競争にだけとらわれていては、決して明るい未来はない。まさに日本の今の社会がそれを示している。
 戦後の日本人が頑張り続けて今の豊かな日本を作ったように、新興国の人々も日本人に負けない頑張りをして、今に至ったことを称えるべきである。
 また、いくら中国が資源や人材に恵まれていようと、中国だけですべてをまかなうには、厳しいものがあるはずだ。やはり国際分業は有効なのだ。このとき、自国の利益優先に囚われて、企業経営者が労働者を低賃金長時間労働に追いやれば、全体としての国は再びデフレスパイラルに陥ってしまう。相手国の利益を重んじれば、豊かになった相手国が自国の優れた商品を買ってくれるだろうし、海外旅行の目的地として自国を訪れてくれるだろう。まさにウィンウィンの発想が大切だ。

◎欲望の支配からの解放
 経済発展の原動力は人間の持つ欲望だ。確かに、よりよい生活をもとめて、人々は懸命に働いてきた。おかげで、かつての王や皇帝に負けないほどの豊かさを多くの民衆までもが享受できる時代となった。しかし、過ぎたるは及ばざるが如しの言葉がある。人間の持つその貪欲さこそが、まさに、現在の日本経済の停滞の原因だと私は思う。
 かつて公害問題の解決が社会の最重要課題となったときがあった。人間の持つ強欲さを省みる必要が説かれた。富の獲得の前に、人として犯してはならない内なる規律があると。経済第一主義の反省もあってか、空気も水もずいぶんきれいになった。喜ばしいことだ。しかし、戦争体験者が少なくなったように、あのスモッグにさえぎられた空、ヘドロからあぶくの湧く川を知る人も少なくなってきた。バブル景気を体験した人も経済活動の中心からはずれてしまった。
 満州は日本の生命線と、戦争に突き進んだ大日本帝国。国民は、欲しがりません勝つまではと、芋のつるをかじって飢えをしのいだ。今また、自衛隊の海外出兵の可能性が強くなってきた。歴史に学ぶことが苦手な日本人の特性がまたもや頭をもたげてきた。
 経済活動においても、おかしなことばかりの時代がやってきた。労働の価値を称える言葉として、額に汗して働くというものがあった。しかし、その言葉を裏切る現実がある。額に汗して働いたものが、それに見合った報酬を受けているのだろうか。高額所得者は、どれほど額に汗を流して働いたのだろうか。商道徳などという言葉さえ知らないものたちが日本経済の中心に居座っている。不気味さに寒気がする。先年、世界経済を揺るがしたリーマンショックを引き起こしたのは、ハーバードやMITを優秀な成績で卒業した若者たちであった。彼らは莫大な報酬を受け取っていた。しかし彼らは間違っていた。大きな過ちを犯した。彼らには人間としての重大な欠陥があった。貪欲さに支配されるという心の弱さがあったのは間違いない。彼らにはその罪に見合った償いをできるはずもない。かつて、日本中に公害をばら撒き、故郷を破壊し、人命を奪ったものたちも、その悪行に見合った償いをすることはなかった。
 若者たちに先祖の犯した過ちを正しく伝えなければならない。平和であれ豊かな社会であれ、それと正反対の道を歩んだ時代があったことを。

◎年1000時間労働制のもうひとつの提案理由
 年1000時間労働制がもたらす効果を書き連ねてみた。共感いただけたものもあったのではないかと思う。数量的な検証は、政府のスーパーコンピューターにでもお願いするほかない。そうなればしめたものであるのだが。今の政府の矛盾だらけの経済政策よりは幾分ましな結果がでるのではないかと思う。
 貪欲さに心を支配された人間には、道徳的な説教は入らない。たとえ、その貪欲さが不幸の原因だとしても。彼らは、目の前の戦いに勝たねばならないからだ。経済的損得だけが判断基準の人間に、金儲け以外の価値を説いても心には響かない。しかし、新たな投資機会の創造という経済的効果を目の前にちらつかせば、視野の狭い守銭奴たちも関心を示すのではないだろうか。そして、長時間勤務から解放された人々が作る、心の豊かさを実感できる社会ができたとき、それを目にした彼らもまた、それまで心を支配していた愚かさから解放されるだろう。
 核戦争を引き起こすことなく、100年後、200年後も人類が生き延びたなら、未来人は、21世紀初頭の混乱する世界をどのように振り返るだろうか。幸いにもわれわれは、産業革命と帝国主義戦争の時代を、平和で豊かな社会を築くための反省材料として、捉えることができている。さて、未来の人類は低賃金長時間労働に多くの労働者が苦しむこの時代を、哀れみを持って振り返ってくれるだろうか。100年後といわず、私の子供たちが働いているうちに、正しい評価が下される時代が来ることを願わずにはいられない。

年間1000時間労働制の提案(その1)

2015-06-09 13:31:55 | 国内政治
年間1000時間労働制の提案 
高度工業化社会(=生産過剰社会)での真に豊かな社会をめざして
労働時間の短縮がもたらす投資機会の拡大と経済の発展・ゆとりある社会生活


◎労働時間の短縮で生み出されるものあれこれ
 理由はすぐに気づくと思うが、いかがだろうか。
 観光業の発展
 音楽産業の発展
 各種観客動員数の増加 
 スポーツ人口の増加
 国民の健康増進
 医療費の削減
 パソコン教室の増加
 語学教室の増加
 DIY・家庭菜園の流行
 女性の社会進出の拡大
 スーパーの営業時間の短縮
 離婚率の低下
 出生率の上昇
 政府の社会保障支出の減少
 少年非行の減少
 自殺の減少
 老人介護の改善
 自治会の活性化・災害に強い地域社会
 経済犯罪の減少
 ごみの減少
 原発廃炉の加速化

◎観光業の足を引っ張る長時間労働
 日本という国は、多くの外国人が旅してみたいと思う国の上位に入っているらしい。実際、円安効果もあって、外国人観光客の増加が著しい。近年の対中国外交の失敗にもかかわらず、中国人観光客がその急増の中心であるのには驚きだ。まさに日本は、観光立国の名乗りを上げるに十分な資格があるにちがいない。然るに、国内の観光客の増加は思うように伸びていないのではないか。わが国には、すばらしい観光地が、確かに多数ある。しかし、地方の観光地は、あれやこれやの客寄せの取り組みを必死の思いでしているにもかかわらず、なかなか効果が上がっていないようだ。なぜだか理由はお分かりだろうか?
 年次有給休暇も満足にとれないほど、長時間勤務の毎日を過ごしている労働者にとって、長期旅行に出かけるのは至難のわざだ。
 かつて、リーマンショック後の景気対策のひとつとして、休日の高速道路の通行料金が上限千円という政策が実施されたことがあった。観光地は大いに賑わったようである。しかし、以後の政権は、主に財政上の理由から、この制度を廃止してしまった。残念だ。
 国民全員が、欧米並みに 1か月の夏休みをとるのがあたりまえになったらどうだろう。観光地は活気づき、宿泊施設の収入が増え、土産物店の売り上げ増加は間違いない。観光客の増加で乗客が増えたJRは、運賃を適正な額に引き下げることができる。それがまた、観光客の増加につながる。
 日本人は世界に類を見ないほどの勤勉な国民であると評価が高い。それが、今日の日本の繁栄の原動力であったことは間違いないだろう。だが、観光業の例にみられるように、誇るべき日本人の勤勉さ、つまり長時間労働こそが、低迷する今の日本経済の回復の足を引っ張る最大の原因になっているのではないだろうか。

◎「勤勉は美徳である」に潜む落とし穴
 かつてバブル全盛期のころ、いわゆる『リゾート法』が制定された。豊かになった国民がリゾートを楽しむことで、地方が活性化されるものとして期待された。残念ながら、その目論見は見事に外れてしまった。地方には、夢破れたホテルやレジャー施設が、無残な姿をさらしているところがいくつもある。しかし、私は、リゾート法の発想や狙いは決して間違っていたとは思わない。もし、日本国民が遊ぶということにもっと価値を置く文化を育てていたなら、リゾート法は日本経済に大いに貢献し、現在の惨めな経済状況を見ずにすんだろうにと思う。
 リゾート法の失敗は、労働時間短縮に向けた十分な取り組みを怠った政府の不手際こそが、その主たる原因であると思う。
 「勤勉は美徳」と言う言葉がある。一生懸命働くことで、自分の暮らしも向上し、国全体としても豊かになるということなのだろう。あたりまえの理屈のように思える。しかし、誰かが勤勉であることが、別の誰かの幸せを奪うのならば、「勤勉は美徳」とは簡単に言うことはできない。
 生きていくことに精一杯であった時代には、遊びに時間を費やすことには、後ろめたさが伴っていた。怠けていてはその日の糧にも事欠くような環境にあって、人より長時間働けば、働き者と評価された。まさに勤勉は美徳だった。のんびりしているものは、怠け者と蔑まれかねない。やがて、満足することを知らない人間は、より豊かな生活を目指して、とめどなく働き続けるようになった。しかし、美徳であったはずの勤勉が、経済発展の足を引っ張る時代がやってきた。
 オーストラリアにはかつて、白豪主義の名で知られる、中国人をはじめとするアジア系の移民を拒むという、恥ずべき政策があった。オーストラリアは白人のものだという、民族差別の思想だとして厳しく糾弾されている。しかし、白豪主義が生まれてきた原因をたどれば、単なる民族差別と断罪して終わり、というわけにはいかない。白人に遅れてオーストラリアに移民してきた中国人労働者たちは、豊かな生活を夢に描いて、懸命に働いた。土曜も日曜もなく働いた。白人よりも低賃金で長時間働いた。当然彼らは自分たちの母国での生活よりも豊かな生活を手に入れることができた。しかし、先輩移民である白人たちは、アジア系移民の頑張りを勤勉だと称えることはできなかった。中国人移民が低賃金で働けば、白人の労働者の賃金も引き下げられた。あるいは労働機会をアジア系移民たちに奪われもした。白人たちの怒りが、中国人をはじめとするアジア系移民に向かったのは自然の流れだった。白豪主義は、白人労働者が自分たちの生活を守るための手段でもあったのだ。
 勤勉は美徳だという哲学は、のんびり暮らすことの持つ価値を否定してしまった。のんびり暮らすものは厳しい競争社会の敗者となって、今までの生活のやり方では収入を得ることができなくなってしまった。立派と称えられる働き者が、他人の不幸の原因となっていると言えるのではないか。ほとんどの人は、このことに気がついていないようだ。ゆったり畑仕事をして収穫の喜びにひたるなどということは、現役を退いた大企業の元重役さんたちの、趣味としての畑仕事からしか得られない贅沢な代物になってしまった。
 「勤勉は美徳」ということばが、低賃金長時間労働を許す罠となっていると思われる。
 
◎投資機会を奪う長時間労働の社会
 現政権は、超低金利政策で、投資の増加を目論んだ。しかし、その成果は、政府の自画自賛にもかかわらずかなり怪しい。超低金利であろうと、投資家は、売れ行き低調の製造業にはなかなか資金をつぎ込みにくい。しかし、観光客が増えれば、投資先としてホテルやレジャー施設への投資が増えるだろう。建築業にしても、人口減少に伴って空き家が全国にあふれている今、受注獲得に並々ならぬ苦心をしている。観光客の増加は、苦戦している建築業にも活躍の場を与えてくれる。世界に誇る日本製の高性能大型テレビだが、いくら低価格で店頭に展示しても、まだまだ現役のテレビをリビングから追い出すのは難しく、赤字決算の家電メーカーも少なくないようだ。しかし、家電製品の家庭への販売量の減少を、活気づいたホテル業界がそこそこ穴埋めしてくれるかもしれない。
 ニューディール政策の時代は、政府主導で公共事業を増やし、投資機会や雇用機会を増やすことができた。しかし、現在の日本では、政府支出の増加は、満足いく効果が望めないだけでなく財政危機をつのらせるばかりである。
 政府は、景気回復のために補助金を乱発したり、効果の薄い公共事業に税金をばらまくなど、資本主義国の原則である自由競争からほど遠い政策に走ってしまっている。政治家も官僚も、金で解決しようという発想から抜け出せずにいる。造船業界に潜水艦の海外への売却を認めたり、国防予算を増大して戦備増強を理由に国内企業の受注額を増やしてやったりなど、国是に反するような後ろめたい経済政策にも走ってしまった。
 金をばらまくのではなく、社会のシステムに労働時間の短縮という、ちょっとした刺激をあたえてやるだけで、需要が顕在化し、投資機会が格段に増加することに気づくべきである。それでこそ資本主義経済体制下での経済政策と言える。

◎潜在需要の顕在化を妨げている長時間勤務
 たまに、『時間があればやってみたいことは何ですか?』という、アンケートを目にすることがある。旅行、スポーツ、音楽鑑賞、語学の勉強などを筆頭に、さまざまなものが出てくる。アンケート結果から見られるように、国民の間にはまだまだ多くの需要が埋もれているのだ。その多くは、テレビや自動車、家のような形あるものに対してではなく、時間を必要とするものだ。政府は、経済再生のために需要の掘り起しに努力するなどと声高に叫んでいるが、ピントがずれている。政府が努力しなくても潜在需要は山ほどあるのだ。
 過労死、ブラック企業、貧富の格差の拡大、円安誘導による輸出の増進政策など、現在の日本の社会状況を見ていると、200年ほど前の産業革命発展期のイギリス社会の丸写しかと見まがうばかりだ。はたして人類は進歩しているのかと首を傾げたくなる。
 かつて産業革命の時代、コスト削減に力を入れる経営者によって、非力な労働者は、低賃金で毎日十数時間の労働を強いられた。そして、資本家は、国内で捌ききれないほど大量に生産された商品を輸出することで利益を上げようと躍起になった。
 イギリスの労働者たちは、やがて労働組合を結成し、ストライキを打って資本家と渡り合い、自身の地位の向上を勝ち取っていった。同様に、低賃金と長時間勤務に苦しむ現在の日本の労働者が、団結し資本家と厳しく対峙することができれば、格差の是正なども期待できるのかもしれない。残念ながら、非正規雇用の増大で、弱体化した現在の日本の労働組合には、かつての労働組合のような力強さは見るべくもない。飢え死にの危機と背中合わせの昔の労働者とは違い、それなりに豊かになった現在の労働者には、経営側に厳しい闘いを挑む切実さは生まれにくいようだ。
 歴代政権もあれやこれやと苦心はしているようだが、労働条件の改善に関しては、国民の不満を解消する効果的な具体案が出されているとは思えない。野党側の対案も自由競争が原則である現実の資本主義経済の中では、実現は容易ではない。
 長時間勤務があたりまえの職場環境をそのままにしておけば、日本経済の回復を望むことはできないだろう。私は、法定労働時間の短縮こそが、国内需要を増大し、投資機会を増やし、停滞した日本経済の再生を導いてくれるものと、確信している。

◎8時間労働制の呪縛
 労働基準法に定められた、1日8時間、週40時間労働という規定を引きずっている限り、解決策は浮かばないだろう。8時間労働制は、長時間労働に苦しめられた労働者の、命をかけた闘いによって勝ち取られたすばらしい制度である。8時間以上の長時間勤務では、人間らしい生活を送れないということである。
 さて、1日8時間の労働を 9時間や10時間にしようというのは、人類の進歩に逆行することになる。しかし、8時間ではなく1日5時間の労働にするというのは、人類の進歩の現れと見て、評価できるのではないか。
 与野党ともに、法定労働時間の削減の声を上げないのはなぜだろう。必死で競争社会を勝ち抜いてきた高学歴のまじめ人間の政府役人や、企業に顔が向いている政治家にはなかなかわいてこない発想なのかもしれない。

◎年間1000時間労働制が導く産業の発展
 1日5時間、週4日間働けば、1年間で1000時間の労働となる。これだけ働けば、現在のように高度に工業化されたすばらしい生産力を誇る日本では、国民が必要とする物資の生産量の維持は可能ではないのだろうか。年間1000時間労働制の社会を想像してみてほしい。
 先にも述べたように、旅行客が増えるだろう。観光地で働く人の所得は大幅に伸びるだろう。法人税・所得税の納税額も大きく伸びて、赤字に苦しむ政府財政を大いに潤してくれることになる。JRの運賃収入も増える。ガレージに眠っていることが多かったマイカーも出番が増えるだろう。レジャー産業の就業者数が増加し、失業率の低下に貢献する。
 スポーツの観戦やコンサートのライブ鑑賞を楽しむ人も多くなるだろう。それだけでなく、するスポーツ、する音楽も増えるだろう。少年野球のコーチぐらいしかやることのなかったサラリーマンが、スキーやスノーボードにチャレンジするかも知れない。利用者が少なく、財政難解消のために売却がうわさされていた公共のスポーツ施設に、利用者の声が響き渡るようになるだろう。スポーツ用品メーカーは売り上げの増加に大喜びするにちがいない。また、スポーツインストラクターの需要が増えて、体育大学卒業者の希望する就職先が増えるのは確実だ。これは、アスリートにとっても好都合だ。時間があれば、ピアノのほか、ギターやバイオリン、クラリネットなど、楽器演奏にチャレンジしてみたいと思っている人も少なくないのではないか。楽器の販売量が伸びるだけでなく、音楽教室の先生も忙しくなる。音大卒業生も就職先の心配が減る。
 海外旅行を楽しみたい人が、語学教室に殺到するかもしれない。語学教室の繁盛は、とかく語学オンチと言われる日本人の評価を大幅に引き上げる力となりそうだ。退社後、語学教室でスキルアップをはかった社員は、自身の勤める会社の国際競争力向上に必ずや貢献してくれるだろう。サラリーマンのスキルアップといえば、パソコン技能の向上も不可欠である。時間がなくて、パソコン技能の習得に遅れをとっていた中高年の人々も、パソコン教室でじっくり学び、やっと肩身の狭い思いをしなくてすむようになるだろう。語学教室やパソコン教室の繁盛は、まさに日本企業の競争力の向上となって反映されるのだ。

◎国民生活の質の向上
 かように労働時間の減少が、需要を呼び起こし、投資機会を増やし、失業率を低下させるというまい話である。どうお感じになっただろうか。生産力の維持、給与の問題、海外との価格競争などさまざまな疑問がわいてくることだと思う。それへの答えは後ほどに譲るとして、労働時間短縮が生む効果をもう少し一緒に考えてもらいたい。
○女性の社会進出
 女性の社会進出についての国連等での評価において、日本の順位はお恥ずかしいかぎりだ。先進国と呼ばれる国々の中では、まさに最下位と言えるようだ。保育所の増設や、男性社員の育児休暇の推進など、まさに無い知恵を絞っているといえるような政策をしばしば耳にする。おいおい、もっと原因を追究しなければならないだろう、と言いたくなる。
 保育所に子供を預けることができたからといって、女性が簡単に勤めに出られるようにはならない。通勤等の時間を含めると、定時に退社しても少なくとも1日に10時間は拘束されるのが普通のサラリーマンではないか。亭主も定時に退社できるのであれば少しはありがたいのだが、残業や付き合いも仕事のうちの男性の言い訳が顔を出す。あわてて保育所に子供を引き取りに行った女性には、疲れた体で炊事、洗濯、掃除と専業主婦と変わらぬ仕事が待っている。子供の相手などしている時間はほとんどない。子供を寝かしつけた後、職場でできなかった仕事を、無給と知りながらこなしている姿は痛ましい。よって既婚女性は正社員であることをあきらめざるを得ないのである。男性以上に有能な女性が数知れずいるにもかかわらず、女性からまともに働く機会を奪うことは、国家全体にとっても大きな損失である。
 9時出社3時退社ということになれば、女性もずいぶん働きやすくなるだろう。もちろん男性もこの時間に出退社が義務づけられれば、女性も何の負い目を感じることもなく、堂々と男性と実力で勝負できる。保育所に預けていた子供と一緒に帰宅した後、落ち着いて買い物ができる。レトルトや冷凍食品に頼っていた食事が、作り手のぬくもりの感じられるものになるに違いない。
 男性も定時に退社できれば、子供の相手をすることができる。泣いている子供が、料理をしている妻の手を止めることもない。もちろん、妻は正社員として男性と同等の給与を受け取るのだから、夫と家事を分担することに妻は何の遠慮もいらない。男性の家事能力の向上という副産物も出てくるだろう。
 かように、女性の社会進出を阻んでいる一番の原因が、男女ともに長時間勤務であることはまちがいない。勤務時間を減らそう。
○離婚率の低下・出生率の上昇
 男性の帰宅時間が早まれば、夫婦一緒に過ごす時間が増えてくる。家事の協力もあたりまえになる。かつては、放課後の子供たちしかいなかった公園に、まだ日の高いうちに子供連れで散歩する夫婦の姿が普通のこととなる。夫婦で映画やコンサートに行く時間も取れるようになる。夫婦で旅行する回数も増える。夫婦のほほえましい情景がもっともっと思い浮かんでくる。いずれにしても離婚率は確実に低下するだろう。
 人口減少に歯止めのかからない状況に、政府は児童手当の増額などの政策で対応しようとしている。庶民にとってはありがたいことだが、金が解決してくれると考えるのは、政策立案者の品性がなせる業なのか、想像力の欠落か、原因究明を放棄しているのは間違いない。
 子育ては、苦労も多いが、この上ない喜びを女性に与えてくれる。その喜びを知っていても、一人っ子世帯が増えているのだ。わずかばかりの児童手当を受け取ったからと、長時間勤務の状況が続くかぎり、出生率の上昇は望むべくもない。子育てがわずかの児童手当で軽くなるとでも考えているのだろうか。手間ひまと、絶え間ない目配り気配りを要するのが子育てだ。わずかな児童手当に、それを解消するほどの力はない。
 3時退社があたりまえになれば、子育てはずいぶんやりやすくなるだろう。男性も子育てに参加できるだろう。親子の愛情も深まるにちがいない。子育ての喜びを味わえた夫婦は第二子の誕生も望むことになる。長時間勤務の社会では実現不可能だったことが、今や実現可能となるのである。出生率は間違いなく上昇に転じる。人口減少もストップする。おかげで、労働力人口の減少や年金負担増などの政府にとって超難解な課題にも解決の光明が差してくる。
○国民の健康増進・医療費の削減・政府の社会保障支出の減少
 時間にゆとりの出てきた労働者の中には、スポーツに費やす時間が増える人もいるだろう。適度な運動は健康増進につながる。残業続きの人は、少々のカゼなど、売薬を飲んだだけでがんばり続けなければならないのが現実だ。病気が重くなってやっと医者にかかるということも少なくないだろう。もっと早く医者に診てもらっておけばよかったのに、ということもありがちだ。
 勤務時間が短くなれば、医者にかかる時間の余裕も出てくる。重病化することも少なくなる。医療費の削減となり、政府の社会保障費支出も減るだろう。
○スーパーマーケットの営業時間の短縮・少年非行の減少
 勤務時間の短縮は、退社後に落ち着いて買い物できる時間的余裕を生む。スーパーも深夜にまで店を開けておかなくても、十分な売り上げを確保することができるようになる。また、アルバイト店員を長時間雇う必要もなくなり、スーパーの経営効率が上がる。照明などの光熱費が節約できることはエコにもつながる。
 スーパーだけでなく、多くの店が閉店時間を早めても営業成績は維持できそうだ。深夜にオープンしている店が減れば、深夜徘徊する青少年の数もおのずと減ってくるだろう。勤務時間の短縮が、少年非行の減少につながるのなら、これまた、風吹いて桶屋が儲かるの一例だ。
○老人介護の改善
 要介護度の高い老人のいるすべての家庭が、老人たちを高額の老人ホームに入居させる経済的余裕があるわけではない。また、老人の多くが、老後を家族とともに暮らしたいと望んでいるようだ。必然、家族による世話が必要となる。やむなく勤めを辞めなければならないという娘や嫁の話があふれている。政府も赤字財政の改善のためとの口実で、社会補償費の削減を目論んでいる。デイサービスや訪問ヘルパーを活用すれば、労働時間の短縮は、女性が働き続けても、望ましい老人介護を可能にしてくれるだろう。
○自治会の活性化・災害に強い地域社会
 夫婦共働きで長時間労働の家庭は、近所づきあいもままならない。自治会が存在しないということが、若い夫婦の引越し先決定の重要条件になっている。満足に夫婦でくつろぐ時間も取れないのに、輪番で自治会の役員が回ってきたら身動きが取れなくなってしまう。隣近所に誰が住んでいるかが分からないというようなことがあたりまえの都会暮らし。地震・洪水など、災害時の対応力のなんとも心許無いことか。
 労働時間の短縮によって、自治会活動にも参加のゆとりが出てくる。ご近所さんとも顔なじみになる。災害時にも、ご近所で協力して困難を乗り越えることができるはずだ。地域の子供たちへの目配りや不審者の発見など、防犯の効果も期待できる。
○DIY・家庭菜園の流行
 アメリカでは、DIY(日曜大工)があたりまえに行われている。ガレージにけっこうな大工道具を備えている家も少なくない。日本も勤務時間が短縮されれば、DIYを楽しむ人が増えるだろう。元来日本人は手先の器用な民族と言われている。部屋中に傑作があふれた家庭が多数出現するかもしれない。
 家庭菜園も流行するのではないか。植物を育てることを楽しむのは、時間の余裕がないと難しい。多くの家庭で花や野菜が育っている景色を見てみたいものだ。
 DIYや家庭菜園は、親子がふれ合うよい機会になる。巧みな技をふるう親の姿を子供が尊敬のまなざしで見つめるかもしれない。子供たちにとって、ものを作ることの難しさや楽しさを経験できるすばらしい教育の機会となるにちがいない。自分が水をやった植物が生長する姿を見て、自然の不思議さに心惹かれる子供も出てくるだろう。彼らは、未来の偉大な芸術家や科学者なのかもしれない。
 労働時間の短縮が、金で計ることのできない多くの価値を生み出すのだ。
○ごみの減少・原発廃炉の加速化
 物品購入から時間を必要とするサービスに消費の傾向が移ることによって、ごみとなって捨てられる使用済みの消費財が減少する。まだ十分使用に耐える耐久消費財は、あわてて新型に買い換えられることなく、その寿命を全うすことができる。ごみ問題の解決に一歩近づくことになり、限りある資源の保護につながる。
 サービス関連の産業に新たな国内需要が開拓されると、エネルギーを大量に消費する重化学工業に頼らなくても、投資家の収益獲得の機会が増加する。また、法定労働時間の短縮は、労働力不足の原因となり、必然的に、賃金上昇を引き起こす。賃金上昇は、外国企業との価格競争にマイナスに働く。輸出のために価格競争に明け暮れてきた製造業も、輸出量の激減に見舞われるだろう。労働時間の短縮は、製造業からサービス業へと日本の産業構造を大きく変化させるになるにちがいない。製造業の縮小に伴って、エネルギー消費も激減するにちがいない。よって、原発の必要性も小さくなり、廃炉のスピードも速まる。国民の不安がうすらぐことになる。

◎合成の誤謬・・・低賃金と購買力不足
 高度工業化時代の不景気は、低賃金による購買力不足がその主な原因のひとつだ。各企業は、販売量の拡大のため必死にコスト削減に努力している。安価な商品ほどよく売れるという経済の常識に基づいて行動しているわけだ。価格競争に勝ち残るためには、給与を低く抑えることが求められる。自由競争の原理に基づく資本主義社会では、個別の企業の行動としてはまことに合理的な戦術だ。しかし、そのことがまさに販売不振の原因であることに気づかなければならない。資本家が配当を多額に受け取ろうとすればするほど、社会全体の購買力が落ち込んでしまうのだ。大企業の生産ラインから生み出される商品は、ほとんどが一般大衆に向けたものだ。いくら多額の貯えがあろうと裕福な人々が大量に購入したがるものではない。一方、低賃金ゆえに限られた収入で生活しなければならない一般大衆は、希望どおりにその商品を購入できるとは限らない。需要と供給のアンバランスが生じるわけである。その結果、商品が売れ残り、不景気になる。必然、企業はその有り余る生産力を頼りに、輸出によって利益を上げようとする。そこには、他国の企業との熾烈な価格競争が待っている。またしても賃金抑制のモーメントが強まることになる。労働者の生活改善への道は相変わらず険しいままだ。
 各企業が最善を目指して行動したとしても、すべての企業の業績を総合した結果は最善なものになっていないことがある。経済学の言葉に合成の誤謬というものがある。これもそのひとつといえる。そこにカルテルや談合などの生じる要因がある。そのような消費者に不利に働く策略ではなく、もし賃金がもう少し高かったら、社会全体として購買力が高まり、商品の売れ行きが伸び、結果として資本家の利潤が増すということも考えられなくもない。自由競争は社会の発展に大きく寄与したという評価は否定できないが、完全無欠ではない。

◎奴隷制社会の経済と日本の格差社会
 資本家の利潤増大の期待に応えようと経営者は、支出の多くを占める人件費をできるかぎり抑えようと試みる。経営者が創業者である場合、経営者には、従業員に対して、ともに会社の発展に協力してきた同士としての思いが働く。従業員の生活にまで自然と配慮が行き届く経営者は、利潤拡大にとらわれて、従業員の不都合に目をつぶってしまうような経営方針に陥ることにブレーキがかかる。しかし、いまや発展期をとっくの昔に過ぎ去ってしまった企業では、経営者も2代目、3代目と引き継がれ、経営者と従業員の心理的なつながりが貧弱になったといわざるを得ない。このとき経営者心理が、奴隷労働的な労務管理に引き寄せられる危険が非常に大きくなってしまう。経営者にとって、労働者の地位は消耗品である機械と代わらないものになってしまっている。非正規の契約社員はまさに消耗品そのものだ。
 南北戦争以前のアメリカでは、南部の黒人奴隷が綿花栽培のための重要な労働力であったことは、ご承知のとおりだ。南部の農場経営者は収穫された綿花を国内で販売するのではなく、イギリスに輸出することで莫大な利益を得ていた。もし南北戦争で、リンカーンの率いる北軍ではなく、南軍が勝利して南部の独立を勝ち取っていたとしたら、南部連合はどんな国になっていたと思われるだろうか。相変わらず農場経営者は巨万の富を得ていたことだろう。必需品の多くやぜいたく品はイギリスから十分に買い入れることができるので、彼らには何の不自由も生じなかっただろう。だが、このイギリスからの輸入品は、購買力を持たない黒人奴隷の手に届かなかったにちがいない。いくら地主が贅沢な暮らしを楽しんでいても、貧しい奴隷が多数いる限り、南部連合全体としては、豊かになったとはけっして言えない。
 同じことが、つい最近までの南アフリカにも当てはまる。アパルトヘイトのもとに、少数の豊かな白人と多数の貧しい黒人によって国が構成されていた。低賃金の黒人の労働力が生み出すダイヤモンドや金は世界一の採掘高を誇っていた。しかしながら、軽蔑される度合いも世界一の国であった。
 奴隷制のもとでは、国内産業は育たない。自国民向けの商売で儲けようと、商品生産に手を出しても、結局は思ったほどの販売量を確保できず、この投資は失敗に終わるにちがいない。奴隷には購買力がないからである。いくら奴隷たちが欲しがるものを生産しても、彼らはその商品を手に入れることができない。結局、国内で生産されるものは、輸出のための農産物や鉱産資源に限られてしまう。
 かたや、世界屈指の工業生産力を誇る日本の輸出品は、当然のごとく、そのほとんどが工業製品である。にもかかわらす、格差の拡大が進む日本の様相は、かつてのアメリカ南部連合や南アフリカに非常に似ているように思われる。
 輸出によって大いなる収益が日本にもたらされる。しかしその収益の多くが投資家のものとなる。しかし、投資家たちは、そうして得た金銭のほとんどを国内の消費のためには使わない。彼らはより多くの収益を求めて新たな投資先を探す。投資家の利益を第一とする経営者は、人件費の安い中国や、東南アジア、中南米などの国々に工場建設を推し進める。投資家が得た収益はその海外生産拠点の建設のために再投資される。日本の企業とは名ばかりで、世界に誇る家電メーカーや自動車メーカーの海外工場での生産高は、総製産高の50%から80%を占めているようだ。日本企業がいくら業績を上げ株価が高くなろうと、日本の労働者の所得の増加にはつながらない。
 海外との賃金格差を原因とする産業の空洞化が叫ばれて久しい。海外との価格競争は日本の労働者の賃金抑制の大きな圧力となる。『国際競争力の維持』という免罪符は、労働者に不利益を与える経営や政策をいとも簡単に可能にする。よって、現在の低賃金長時間労働のシステムが確立したのである。嘆かわしいかぎりである。かつてのアメリカの黒人奴隷の製産した綿花の輸出に頼る経済にも似た、今の日本の輸出中心の産業構造では、これを抜け出すのは不可能に思われる。潜在する国内需要に応える社会の仕組みの構築が急務だ。


◎労働時間の減少と時間給の上昇
 生産過剰社会は、労働力需要の減少を招く。よって給料はなかなか上がらない。失業者の増加によって商品の購買力が低下するので、ますます売れ行きが悪くなる。デフレスパイラルの始まりである。
 労働時間の短縮は、労働者の収入減につながるではないかと、心配されるのはもっともなことである。しかし、その考え方は時間当たりの給与の額が固定されたものとの思い込みからくるものである。給与の額も労働市場の需要と供給で決められるというのが、自由競争社会の原理であることを思い出してもらいたい。もちろん労働組合の力が働くこともあるだろうが、原則は需給の均衡で決定されるのである。
 観光客が増加すれば、観光業での人手不足が発生する。ホテル業界やリゾート施設では労働力の確保のために給与の額を上げるのは間違いない。語学教室の生徒が増えれば講師の需要が高まる。講師の確保のために給与は自然と上昇する。今までやむなくコンビニや居酒屋でアルバイトをしていた人が、自分の力を発揮できる場所を見つけることができ、今まで以上の給与を得ることができるようになる。時間給の上昇は、労働時間の減少に伴う収入減をかなりの割合で相殺してくれるにちがいない。
 労働力も需要のあるところへ移動する。ブラジル経済が低迷していたとき、多くのブラジル人労働者が日本にやってきた。しかし、ブラジル経済の発展に伴って、多くのブラジル人労働者が日本を後にした。今でも、日本人よりも安い賃金であるにもかかわらず、フィリピンや中国からの研修名目の労働者が多数流入している。本国よりは高給を手にすることができるからだ。短時間労働社会の実現に伴い労働力需要に変化が起きれば、今、低賃金の長時間労働に支えられている業種も、事業を続けていこうとすれば、賃金を上げることで労働力を確保しなければならなくなる。まさに需給のバランスで、労働力の供給量や賃金は決まるのである。
 
◎長時間労働社会だから需要を望める業種
 24時間オープンのコンビニが、乱立している。深夜にも営業しているファミリーレストランがある。元日からスーパーマーケットが営業をしている。非常に便利な世の中になった。利用者としてはありがたい存在だ。
 残業続きでまともにスーパーで買い物できない人にとっては、コンビニは救いの神だ。仕事からやっと解放された一人住まいの労働者にとって、コンビニ弁当や深夜のファミレスは、疲労の追い討ちとなる炊事の手間を省いてくれるありがたい存在だ。
 正月からオープンしているレストラやスーパーは、おせち料理などわずらわしい恒例の仕事から、共働き家庭の女性を解放してくれる。
 一方、深夜に眠ることを許されない人がいる。彼は昼間どんな暮らしをしているのだろう?日曜日に子供とキャッチボールをしているだろうか?太陽の光がまぶしくないのだろうか?子供の授業参観のときはどうするのだろうか?生活のリズムはどんなものだろう?休日の夜、家族が寝静まったときにも起きているのだろうか?
 元日から仕事をしている人は、働き者として称えられるのだろう。でも、その子供はお正月の楽しみを満喫できているのだろうか?
 街に比較的低価格の飲食店が軒を並べている。おじさんたちだけでなく、若者たちも賑わいの主人公だ。低価格のファッションショップが大いに繁盛している。若い女性にとって、たんすからあふれる服が、部屋の片付けのときの悩みの種だ。
 せっかく苦労して手に入れたお給料だ。自分の楽しみのためにつかうのはあたりまえだ。海外旅行にも行ってみたい。でも、「無理無理」と思ってしまう。金がかかるからだけではない。長期の有給休暇を申請するような度胸はない。「明日から来なくてよい。」と言われそうだ。海外旅行なんか贅沢な夢でしかない。ずいぶん安くなったので大画面の薄型テレビが買えた。旅行番組が憧れの地に行った気分にさせてくれる。
 残業続きのうえ、病気や家族の不幸のとき以外は休みを取るのさえ許されない状況では、仕事帰りの一杯や、評判のグルメショップでの一皿が、働くもののプチ贅沢なのだ。楽器の演奏もしてみたい。音楽教室に行く暇などとてもじゃないけどあるわけがない。カラオケでストレスを発散するのが関の山だ。
 かように日本の労働者の多くが、苦労して手に入れたお給料を、本当に楽しみたいことにつかうのではなく、別のことにつかわざるをえない状況におかれている。その受け皿となっているショップの店員や家電製品の製造ラインの作業員もまた、低賃金長時間労働にあえいでいる。
 労働時間の短縮が実現したら、深夜のコンビニやファミレスの来店客数は激減するだろう。コンビニやファミレスの閉店時間が早まるにちがいない。深夜勤務をしていた従業員は、失業することを恐れる必要はない。法定労働時間の短縮が生んだ、新たな職場に移ることができるだろう。
 
◎短時間労働制が引き起こす仕事の効率化と労働力の移動
 車のセールスや保険の勧誘の仕事をしている人は、客が帰宅した時間を見計らってセールストークを聞いてもらうことが多いだろう。ついつい自分の帰宅時間が遅くなってしまう。法定労働時間の短縮が実現すれば、早々と帰宅した客と、日が沈む前に話ができるようになる。喫茶店で待ち時間をつぶすこともなくなる。自分の帰宅時間も早くなる。
 スーパーにセルフレジなるものが現れた。客が自ら商品のバーコードを機械に読み取らせるのだ。支払いもカードで済ませることができる。人手いらずだ。スーパーの中心的戦力であるパートのおばさんやアルバイトの学生も少なくてすむ。セルフレジは、人件費の節約に大いに貢献する。期待の戦力である。法定労働時間短縮の条件作りを助けてくれる。パートとして非正規の雇用に甘んじていたスーパーのおばさんも、新たな職場に気兼ねなく転職できる。客の来店時間のピークも早くなる。今までそこそこ当てにできた深夜の来店客数は、限りなくゼロに近くなる。当然閉店時間も早くなる。販売量は変わらないのに、人件費の大幅な節約が期待できる。照明やエレベーターにかかっていた電気代もずいぶん節約できるようになる。エコの推進だ。政府の二酸化炭素排出量削減の目標達成にも協力できる。
 ファッション・ショップなどでも同様の効果が期待できる。今は、仕事帰りの時間帯に集中する来客の対応にてんてこ舞はするけれども、昼間の閑散とした時間帯は、店員もテンションの下がるときである。労働者の退社時間が早まれば、閑散とした時間帯も短くなる。店員たちも緊張感を持続させ仕事に打ち込める。店員の表情が生き生きしてくるはずだ。客は客で、いろいろな店を見て回る時間的余裕ができる。一番のお気に入りを見つけ出すことが容易になる。閉店時間が早まっても来客数は逆に多くなるかもしれない。そうなると、物品購入からスポーツや観劇などに、労働者の消費傾向が変化したとしても、店の販売額は思ったほど減らないかもしれない。逆に、光熱費の減少もあり、営業利益の増加もありえなくもない。それなら、勤務時間が短くなったにもかかわらず、店員に今までどおりの給料を支給できる。勤務時間の短縮があっても、給与所得の減少を心配する必要はないのではないか。

次回は、法定労働時間の短縮など実現不可能だと思われている方々の疑問に答えてみようと思う。生産力の維持、販売高の維持、給与所得の維持などについて論じたい。