こずみっく・ふぉーとれす

不定期更新です。特に意味はないですが、宜しくお願い致します。

『数分間のエールを』-明け方の星は微かに-(ネタバレ注意)

2024-06-18 18:15:13 | 駄文
 小さい頃は絵を描くのが好きだった。すぐに自分よりうまい人が現れて、時々思い出した時に書くような、その位になった。
 パソコンを手に入れてすぐのころ、RPGツクール2000の体験版を入れて、ゲームを作るようになった。テストプレイをしていた兄が作ったゲームに、凝ったシステムがあった。色々と試行錯誤をしてみたが、納得のいく作品は得られず、パソコンの故障と共にゲーム作りもしなくなった。

 漫画研究会に入って、記念くらいのつもりで漫画を描いたりもした。恥ずかしいくらい画力に差があるのは、この時には慣れた感覚で、あまり気に留めなかったが、それだけに、色々とこだわるようなこともできなかったと思う。ただ、誰かに書いてもらう作品に関しては、納得のいく出来栄えの作品に仕上げたつもりだ。

 漫画研究会の後半ごろから、小説を書き始めるようになった。その内に、文章を書くことが日課になって、社会人になってからも、取りつかれたように文章を書き続けた。

 そして、今は、魔法が解けたかのように、小説を書く熱が冷めて、他の創作にも手がつかない。

 何も手応えがえられないと感じるようになったのは、いつ頃からだろうか。

 映画『数分間のエールを』は、2024年6月14日から上映開始された、脚本花田十輝・映像制作 Hurray!によるアニメーション作品である。

 MVの制作に没頭する主人公・朝屋彼方が、音楽の道を諦めて教師となった織重夕の歌に感動し、そのMVを制作したいと依頼する。物を作ることに没頭している、あるいはしていた人々の思いが交錯する物語だ。
 予告トレーラーを一目見た時から心を囚われた。

「これ、絶対見よう」と、そう思った。

 物作りを通して、手探りで星を探す人、眩いばかりの光を捕らえたくて、必死に手を伸ばす人。早速計画を立てて、映画館へ赴いた。

 寝不足の主人公の姿を、少し前の自分に重ねるところから始まる。書き物に没頭していると、本当に時間を忘れることがある。そして、彼のMV制作の過程を見て、思わずうんうんと頷いてしまった。なかなか嵌らなかった時の懊悩、逆にかっちりと嵌った時の言葉にならない興奮、あの新鮮な感覚。そうそう、これが物作りの楽しさなんだよ。

 とは言え、今の私にはちょっと眩しすぎて直視できない感覚もあった。それでも、あの高揚感、言いようのない喜びは本物で、確かに私の中にもあったものだ。
 あるいは、今も、あるのかな。

 その上で、彼を取り巻く人々の、夢を諦めた織重夕や、友人の外崎大輔の、彼とは違った挫折の、喉に刺さった骨のような苦しみが胸を締め付ける。現実がうまくいかないことは、他でもない自分の経験から分かっている事だ。

 私には才能がない。堪え性がない。どうしようもなく承認欲求も抑えがたい。だから余計に苦しむのだ。あの、かっちり嵌った時の興奮や感動を、どうしたら取り戻せるのだろうか?

 物語は進むにつれて、重苦しさを帯び始める。そして、主人公の心にも、少なからず変化が訪れる。この辺りで、私は泣いてしまった。全然泣くようなシーンでもないのに、こう、人の心を掴めなかったような、あの挫折感が蘇ってきたのだ。

 それでも、この映画は執拗に「星はあるのだ」と訴える。主人公がどうしてもと自転車に跨るシーンで、届きそうもないものを追いかけるシーンで、改めて、色々な思いがあったのだと再認識した。

 少し話はずれるが、もし、ここに来た方が、少しでも、作品制作に携わる方であったら、少し聞いてみたいことがある。

「それでも、あなたがモノを作る理由はなんですか?」
と。

 アマチュアなどは顕著だが、作品制作というやつはどうしようもなく「コスパ」が悪い。資料を集めなきゃいけないし、頭をひねっている間は無償労働のようなものだし、ゲームがおかしな挙動するときは、腹立たしくて机を叩きそうになる。
 それでも、あなたは、どうして「モノを作って」いるのだろう。その答えを、映画を見ている間に考えてみて欲しいのだ。

 私の小説は、大きなテーマが「祈り」だ。「追想」と言い換えてもいいかも知れない。そう言う作品を作りたくて、筆を執ったはずだ。
 では、今、筆を置きたかったのは?多分、「祈り」は届かないと悟ってしまったのだろう。
 それでも、手に余る欲求を抑えられない。溢れ出るインスピレーションを止めることはできない。だから、作品制作を諦めることは、途轍もなく難しいのだ。

 もし、もしも。この祈りが誰かに届くのであれば、それは作品を作り続ける理由になる。「星はそこにあるのだ」。

 今、物作りに情熱を注いでいる方、あるいは、情熱が醒めてしまった方、それに、志半ばで折れてしまった方。あなたに、あなたに、あなたにこそ、この作品を勧めたい。だって、作品を作ることは、どうしようもなく楽しいのだ。

 この作品のタイトルは、「数分間のエールを」だ。私は、映画を見終えた後だからこそ、このタイトルを噛み締めて、思わず涙が溢れる。
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『レッドフード』-書く人として「沁みる」理不尽の物語(ネタバレ注意)

2023-06-05 22:29:42 | 駄文
 世の中にはたくさんの漫画がある。特に日本という国は、不朽の名作から色褪せない傑作まで、様々な輝きを放つ作品がたくさんあるだろう。
 そんな中で、沢山の駄作と失敗作が生まれ、人知れず消えていくこともある。
 今回は、集英社はジャンプコミックスにて連載され、僅か18話で完結した、川口勇貴氏著『レッドフード』を読んだ感想を、記していきたいと思う。
 はじめに、これは個人の感想でしかない。多くの意見があるのは喜ばしいことだ。それがどのような批評であったとしても、物語の存在した足跡になる。だから勝手に、私は書くのである。

 この作品、とにかく展開が遅い。作品の最初の舞台である主人公の村から中々旅立たず、しかも気が付けば本筋とは関係のないところに最も長い尺を取って完結してしまった。作者が恐らく大好きなのであろうヤドカリとカニと言った甲殻類をのんびり眺めながら、私はこんなことを良く思ったものだ。

『この描写今いる?』

 とても冗長なスタートから、冗長なまま進んでいき、そしておそらく打ち切りになる予定に合わせて何とか書きたいことを詰め込んで終幕した作品なのだろう。当時の読者はこれを望んでいなかったし、作者には申し訳ないのだが、やはり描写の必要性や展開の遅さについて、気になる部分の多い作品だった。

 ここまでが、私が『レッドフード』について思った、取ってつけたような感想である。前置きとしては冗長だが、本番はここからだ。

 結論から言おう。私はこの作品が大好きになった。そして、それを伝えたいと思ったから、あえて感想を書くことにした。

 第一話は、小さな村の人狼被害をきっかけに、少年ベローが大人になるまでの物語だ。この一話に物語の魅力がギュッと詰まっている。

「狩人は正義のヒーローではない」
川口勇貴『レッドフード 第一巻』(集英社、2021・11・9)「1 赤い狩人」20頁

 前金を要求する狩人のグリムに対して、少年ベローは警戒心を露にする。それに対するグリムの返答である。契約という概念に慣れ親しんだ私達には、お金は魅力的で便利なものに映る。「それが全てでは無い」という意見もあるだろうが、少なくとも私は、最後には金で落ち着けることしか出来ないと思っている。
 私刑が禁止された我が国では、復讐などというのはナンセンスであるし、自由主義的な国においては、最も便利に使えるお金を労働の対価にするほうが双方の満足に寄与するだろう。何よりも、お金を頂くということは、責任を負うということである。それだけの仕事を保証するという行為が、どれ程誠実なものかは納得して頂けるだろう。それが、神か悪魔が私達に与えてくれた叡智である、契約というものだ。

「喰べることは生きることだ そこに正義も悪もない」
 川口勇貴『レッドフード 第一巻』(集英社、2021・11・9)「1 赤い狩人」47頁

 私達は生き続けるうちに、何度も食事をしてきた。肉、野菜、魚、虫に至るまで、沢山の命を頂いて生きてきたのである。だが、それを食べる時、自分が悪人になったと意識することは無い。「喰べることは生きること」なのだから、優しい人間ならば心を苛まれる問題であろう。しかし、私達はそれを通り過ぎてしまう。人間にとって好都合なように解釈して、「食べる」。それは、人間を食べる動物も同じだ。一度でも苦悩しても、結局は生きるために犠牲にするのだ。大切なものを守るために誰かを傷つけるのも然り、相手から見れば理不尽極まりない振る舞いだ。
 このエゴイズムこそ大人の第一歩なのかもしれない。次の頁を捲ればきっと心が震えるだろう。

「竜を見たことがあるか 少年」
 川口勇貴『レッドフード 第一巻』(集英社、2021・11・9)「1 赤い狩人」5頁

 絶滅動物について思いを馳せたことがある私には、この後の会話も見過ごせない。利己的で理不尽な要求で、人類は幾つもの種を滅ぼしたのだ。ニホンオオカミなどが代表的な例だろう。彼らは害獣として駆除され、絶滅していった。お互いに譲れない領域に入り込み、結果的には人類が勝利したのだ。ちょうどニホンオオカミと人間のように、ベローと人狼のように、理不尽はいつも、どの立場でも襲い掛かって来る。自然の摂理とはそう言うものだからだ。

 さて、物語は進み、主人公ベローは狩人組合に入団するための試験を受けることになる。多くのキャラクターが突然登場するので、この辺りで既に作品の評価に対して暗雲が垂れ込めていたのだと思う。そして、それを飲み込むためには、キャラクターたちが個性的すぎたのだろう。
 私はそこを含めて、この作品を魅力的だと感じた。

 試験とは、一般的な遊び「ケイドロ」を通して、「制限時間終了後に逮捕されていないもの」を合格者とする単純なものだ。ここでいう逮捕とは手錠を用いて拘束することであるが、ベローと幾人かの受験者達は、一計を案じることとなる。こうした、作戦の奥深さこそ、本作の魅力であり、人狼狩りの本質でもある。読者からは不評だったようだが、良く練られていてなかなか面白い。個人的には非常に読みごたえがあった。

 さて、そんな試験の中で、主人公は何度か逮捕されてしまうことになる。厳しい試験の中、多くの受験者達の姿を見てきたベローは、牢屋の中でこんなことを呟いた。

「俺には何もないや」
 川口勇貴『レッドフード 第三巻』(集英社、2022・3・9)「14 第42期最終降車試験」10頁

 ・・・すっっっごいわかるわ。
 他者の姿を見るたびに、自分の粗が見つかって虚しくなることがいつもあるので、私はこの言葉に以上に共感してしまった。特に、社会に出ると、それまで小さな枠組みの中で評価されてきた時と違って、急に自分より圧倒的に能力の高い人々が目の前にうじゃうじゃ現れる。才能がなかったのか、努力が足りなかったのか、両方なのかは分からないが、そうした人を見るたびに、この言葉に強い共感を覚えた。
 とはいえ、私のように下に慰みを求める人もいるが、ベローはきちんと下積みを重ねた叩き上げだ。周りと劣っている事などないと思う。作中でも明言されているが、これは救いの言葉であり、あえて言及をしない。

 そんな凄い人々にも、様々な悩みがあるものだ。人生とは往々にしてそう言うものなのだが、その悩みや内心は相手には見えず、見えたとしても完全に理解し合うことも出来ない。きちんと話し合おうとしても、話し合ったところでお互いの視点が同じ場所には向かわない。苛立たしいことだが、出来る人間は自分を「出来る」と思っていないし、出来ない人間はどこまで行っても「出来ない」と思ったまま成長するのだ。だからいつも会話は平行線をたどる。
 それでも、仕事をしていればこういう人にこうさせようか、とか、この人は向いていないが妙に板についているとか、もっと上を目指すべきだという綺麗ごとでは語れない「その人らしい生き方」というものがある。自分らしい生き方などとよく取り上げられるが、そんな喜ばしいものでは断じてないと思う。ただ、今の自分を疎ましいと思いながら生きることは、別に悪いことではないのだ。

「勘違いしているようだが 組合が欲しているのは英雄ではない」
川口勇貴『レッドフード 第二巻』(集英社、2022・1・9)「13 いろんな奴」111頁

「真っ向勝負なんてするわけねぇだろ 俺は逃げ続けて生きてきた男・・・」
川口勇貴『レッドフード 第二巻』(集英社、2022・1・9)「13 いろんな奴」119頁

 逃げる人生も魅力的だと思わせてくれた、最高に格好のいい台詞だと思う。それが、彼の世界へ対する立ち向かい方なのだ。
 そう言った個性的な世界への立ち向かい方を持った人間の集合体が社会であり、それが歪でない筈もない。世の中には様々な才能に恵まれた人や才能に恵まれなかった人がいるが、それぞれどの生き方にも不足はある。それを補い合うためのシステムが、他者を巻き込んだ社会の本質なのだろう。個人というよりは、全体を見て作られた互助的な集合体。この中で、様々な個人が足掻き、「世界へ立ち向かう」ことで社会は成り立っている。こうして俯瞰すると、社会という装置は案外よく出来ているのだな、と感じる。まるで社会が私達をシステムに組み込んでいるかのように。

 さて、ここまで私の思う所をつらつらと述べてきたが、最後に、物語が終わる瞬間について、考えてみたい。
 私は底辺アマチュア物書きなので、誰からも評価されてい無さそうな作品をつらつらと書き綴っている。展開が遅いなどというのは序の口で、そもそも構成から取っ散らかっている。本人は本当に面白いとは思っているが、世間は正直だし真理を突いてくる。どの物語にも結末はあれど、「愛されなかった」作品というのはあまりに悲しいことだ。

 だが、それも仕方のないことだと思う。読者は目の肥えた餓狼だから、まずい肉は吐き捨ててしまう。
 「レッドフード」は、メタフィクションとして結ばれる。創作の世界は常に、作者と読者がいる。作者は読者の満足のいくように物語を描き続けなければ、その物語は読者の声を聞いた第三者によって、歪められたり、方針を変更されたりもするだろう。作者はそれでも手を止めることができない。人気の為には書きたいものを書けないことは珍しいことではないし、人気を取るための正解も、なかなか難しい。作者としての意見では、どうしてもこの無念を叫びだしたくなる。共感してしまう。読者としての意見では、その無念の叫びも無関係で、はっきり言ってどうでもいい事だと思うし、いい気分はしない。その叫びは正直言って見苦しいと思ってしまう。私は読者であると同時に作者だから、この奇妙な板挟みに遭い、もしかしたらあまり多くの人が感じなかった読後感を覚えたかもしれない。

 ただ、一人の物書きとして、思う所を述べるとすれば、「レッドフード」に出会えてよかったと思う。
 この理不尽な世界の要求に対して、最後に結末を書かなければならないとしても、物語の中で生きた人々が作者や読者の心の内から解放されて、その先に思いを馳せることは楽しいことだ。だから、ベローの言葉の重みに、つい嬉しくもなってしまった。

「俺は生きるよ」
 川口勇貴『レッドフード 第三巻』(集英社、2022・3・9)「最終話 戦いは」102頁

 こんな理不尽な結末に対して、餞の言葉として、僕たちはこの言葉を添えるのだろう。

「俺たちの戦いはこれからだ」
 川口勇貴『レッドフード 第三巻』(集英社、2022・3・9)「最終話 戦いは」105頁
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僕が卯月コウに影響を受けたことについて語らせてほしい。

2022-10-07 18:40:41 | 駄文
 いつ頃からだったか、僕は、卯月コウを見なくなった。卯月コウだけじゃない。その頃から、きっとvtuberとも疎遠になっていた。
 昔よりかなり怒りっぽくなってきていて、合わない上司への果てしないストレスも溜まりに溜まってきており、小説もちっとも上手くいかず、悶々とする日々を送っていた。将来の不安も、その逃避の手段すら失って、そろそろ自分は学生時代の計画通りに自分の人生にとどめを刺すべきなのだとさえ感じてさえいた。
 「卯月コウがライブに出る」というのを知って、懐古のつもりで無料部分を見た。
 「脱法ロック」を歌う彼の姿を見て、思わず心が震えた。しばらく逡巡して(大事なことほど逡巡して決断を先延ばしにし、後悔するのは僕の常だ)、耐えきれなくなり、コンビニへと走る。支払いを終え、再びパソコンの前に座ると、彼がにじさんじにデビューするまでを描くMAD「にじさんロック」の映像を思い出し、そして地続きの世界で彼が確かに生きていることを知ると、言いようのない感情が込み上げてきた。

 思えば、彼はアナフィラキシーショックで、病院に搬送されたこともあった。あの時本気で心配して、卯月コウを検索しまくったことがあったっけ。彼の雑談配信や企画配信が楽しみで、毎日楽しかった。
 仕事の帰りが遅くなって、配信の視聴を後回しにしてからだろう。徐々に観に行くことが出来なくなって、心のもやもやが積もっていった。

 話は変わるが、卯月コウという人物は、多くの人物に影響を与えてきた。ある自殺志願者の視聴者をほとんど無意識の言葉で生き残らせ、彼が主人公のMAD「にじさんロック」を通して、三枝明那がにじさんじに向かう道を作り、「アイシー」の歌唱を通して、加賀美ハヤトは「WITHIN」を撮り直させた。
 にじさんじseeds一期生としてデビューし、決してにじさんじのvtuberとして花形ではないが、多くの人物に影響を与えた卯月コウ。彼が影響を与えた人々と共に、彼が舞台に立つ。眩いばかりの世界で歌い踊り、内輪ネタを差し込み、そして笑う。そこには確かに、僕の見ていた頃の卯月コウがいた。

 そして、僕も、彼に影響を受けた人の一人だ。

 僕が物書きとなったのは、学生時代、漫画研究会にいた頃からだ。部員としてはあまりに名前負けしているが、今でも笑ってしまうほど絵が下手で、結局小説に行き着いたのも、僕らしい、ありきたりで臆病な「逃げ」だったのだろう。
 それでも、社会人になっても続けていた執筆活動は、ある時シリーズ完結という形で終わるところだった。
 しかし、僕の中にもやっとした感情が残った。「まだ、語りきれていない」という感覚を抱いた僕は、その物語を終わりを定めた。「人類が月に至るまでを描こう」と。
 月面着陸は、人類史の一つの区切りでもあるから、題材としてちょうどいい。そして何より、それならば、「彼に手を伸ばす物語」のように感じられて、逃げずに続けられると思ったのだ。
 それからは本当に長かった。いつの間にかこの「理由」を忘れて、数字に振り回されて苦悩もした。

 10月の初め、物語の結びまでをひとまず描き切って、ひと息ついた時に、ふとタイムラインを見て、「FANTASIA DAY2」開催の話題を目にしたのだった。

 普段なら雑談配信くらいしか見ないのに、まさかこんな風に彼に辿り着くなんて思わなかった。「らしさ」を聞き、背中を合わせる二人の姿に、目頭が熱くなった。
 「どうしようもなく今を生きている」僕が、卯月コウと出会い、沢山の配信の中で泥の中で咲く花のような視聴者の話や、彼のくだらない雑談、オタクらしい話を聞いた。自分が何とか(みっともなく?)しがみついた趣味を続けるために、「人が月に手を伸ばす」物語を描くと決めた。
 そのきっかけは、今も、強く、眩く、輝いていた。

 こんな話は大した話じゃないかもしれない。それでも、僕にとっては大事な話だ。
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『犬王』・『平家物語』‐‐あるいは、「今を生きる」ということの意義‐‐(ネタバレ注意)

2022-06-06 08:42:04 | 駄文
 しめやかに最後を迎えたアニメ『平家物語』に続き、古川日出男著の続編・『平家物語 犬王の巻』の映画化作品、『犬王』が5月28日に公開された。色々な都合で足踏みをしていたが、つい先日鑑賞する機会を得たので、ようやく見ることが出来た。

 室町時代を舞台に、猿楽能をテーマとした本作は、その言葉だけをなぞればどこか硬派な印象を受けるだろう。しかし、実際は、鮮烈な体験であった。
 呪われた主人公・犬王と、草薙剣を抜いた呪いで盲いとなった琵琶法師の友魚が、相棒となって京の都を熱狂させる猿楽能(ライブ)を披露する。そのパフォーマンスはさながら現代のライブであり、犬王の呪いが解けていく様まで含めて、人々に鮮烈な経験を与えてくれる。

 さて、アニメーションの簡単な説明をしたところで、一度、作品の鍵となる要素について、確認していきたい。
 『平家物語』は、平安末期の源平合戦を主題として語り継がれてきた軍記物であり、琵琶法師を通して現代まで語り継がれている。様々な形式で語り継がれてきており、多くの版があったことは明らかになってきているが、その決定版ともいえる一つの版が、室町は南北朝時代、明石覚一によって編まれた『覚一本』である。『犬王』は、丁度この覚一本成立時期に当たる時代であり、まさに足利義満が南北朝統一を目指して活動していた時代に当たる。
 そして、犬王。またの名を道阿弥と称し、殆ど記録に残っていないものの、当時近江猿楽の大成者として人気を博した人物とされている。現在伝わる能楽は、有名な観阿弥・世阿弥に連なる大和猿楽であり、近江猿楽は大和猿楽に吸収される形で、その要素に含まれているにとどまる。

 歴史の敗者として水底に消えていった平家と、歴史の中で忘れられていった記録の殆ど残っていない「犬王」。この二つを題材とすることで、両作は全く違うテイストの「継承」を描いていく。
 『平家物語』に込められた祈りは、長きにわたって語り継がれ、多くの人々によって読み継がれている。それは、敗者に寄り添って、死者を弔う、日本人特有の文化の現れであり、過去を語ることで未来へと生き続ける継承の一形態である。
 『犬王』に語られる友情と熱狂は、室町時代という「今」を生きた人々が、歴史という正史の中に埋もれて消えていく様を描く。私達が今を生きているが後に忘れ去られるように、私達は室町時代に生きた友魚のことも犬王のことも、忘れ去ってしまう。
 ギリシャの英雄が今も語り継がれて生きているように、継承された平家は今も生き続けている。そして、今、『犬王』を鑑賞した人々の中で、犬王と友魚も生き続けている。
 そうして、生き続けるのだろう。誰かが語り継ぐことで。

「自分達がこの世にいたことを、誰かが知るだけでいいんだ。それで報われる」
 映画『犬王』より引用

 映画全体を通した、ライブ映像の様子も勿論見所だが、その最期、映画を締めくくる演出の妙にも胸を掴まれる。

 本作は、ミュージカルアニメーションである。上映時間の多くを歌が占めている。だが、先ずは平家を知らない人も知っている人も、本作を見て欲しい。特に、私と同じように、物書きを続ける人には、刺さるものが在るかもしれない。
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『平家物語』‐それは、800年の祈りの物語(ネタバレ注意)

2022-03-28 13:38:23 | 駄文
「源氏物語とか平家物語とか、古典の内容覚えてる?」

 そんな言葉を母が呟いた。先ず第一にその2つが同時に並ぶというのがちょっとした違和感を感じないでもなかったが、一方で私はこんな風に返した。

「殆ど覚えてない」

 『平家物語』と言えば、その名を知らないものは殆どいないだろう。繁栄を極めた平家一門が源氏に敗れて滅亡していく過程を描く、「軍記物」に分類される古典作品だ。
 平家は最後には壇ノ浦の戦いで敗れ、一族で入水して滅亡し、続く武家政権、つまりは源氏の鎌倉幕府成立へと向かっていく。

 敦盛の笛の逸話を知れども、それがどうして伝わっているのかを、退屈な授業では覚えていられない。歴史を暗記する人々にとって、歴史は勉強であって、恐らくは学問ではない。古典も同じように、古典を好きでない人々にとってはきっと勉強であって、学問ではない。そんな時にもし、歴史の面白さを伝えるツールがあったならば、それはどれ程素晴らしいことだろう。

 最近の私は、能動的にアニメーションを見ることが少なくなってしまった。それは多忙さゆえのこともあるが、ようやく腰を落ち着かせることが出来た母が「深夜アニメ」を一通り見るようになったこともある。朝の支度の時間に早めに起きて、準備をしながら母と見るアニメは、母の見たいアニメであることが多い。そんな中で、私がとりわけ注目して、それこそ『願い出て』見たアニメが、この『平家物語』だった。
 私は、語弊を恐れないで言うならば滅亡の歴史が好きだ。滅亡していくという物悲しさに対して、斜陽の一族が見る景色が、私の見る景色に直結しているように思える。私は衰退の渦中にあって、少しずつの衰退にせよ、激しい滅亡にせよ、それらは私達が見る世界そのもののように思える。その儚さや足掻き、結末を知ってなお残せるものを残そうとする姿に、私は酷く感情移入してしまうのだ。
 だから当然、平家物語が見たくない筈はない。ある種の関心事項として、そうして、平家物語を見るようになった。

 平家一門との出会いから、穏やかな日々と残酷な現実とが語られていく。天皇家との確執、富士川の戦いでの呆気ない敗走、木曽義仲の台頭と源氏勢の内輪揉め、それに乗じた復権、そして屋島・壇ノ浦の戦い。戦争に耐えきれず入水した清経、維盛、戦場にあって武士として散った敦盛、彼らの結末を見るにつれ、平家への強い思いが沸き上がっていく。彼らのことを語り継ぐために最後に戦いに同伴したびわと同じように、画面越しの運命へ対する無力感が募っていく。

 天皇と共に入水した時子の思いもまた、どうしようもない現実の中にあって何を残すべきかを考えさせてくれる。三種の神器をここで返してしまえば、これまでの戦争と喪失は何であったのだろうか。自分達は何のために、ここまで逃れてきたのだろうか。敗戦後の一族の女性たちや、天皇の行く末を案じて、共に心中する選択をした彼女を、どうして否定できるだろうか。

 建礼門院となる徳子が入水するが助けられ、灌頂巻の結末が語られる。のちに出家した徳子の寺では仏像の指に五本の糸を結び、極楽浄土へと導いて下さるように祀っていた。徳子と上皇の再開の後に、平家物語冒頭の『諸行無常』が唱えられる。平家一門が海の底にあるという竜宮城で楽し気に団欒をする姿が映され、びわが奏でる琵琶の音と共に、アニメ『平家物語』の結びとなる。

 『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
‐‐平家物語第一巻『祇園精舎』


 かつて繁栄を極めた平家がそうであったように、現代社会の目まぐるしい動きは繫栄と没落の様子を伝えている。一世紀と続く会社はほとんど存在せず、世界のリーダーの一角を担ったソビエト連邦も、解体されてロシアとなった。japan as no.1と言われた我が国の経済もいつの間にか崩壊し、私などはその繁栄を耳で聞くばかりという世代である。
 そして今、憲法9条と平和を謳う日本の隣国である、ロシアはウクライナへと侵攻し、朝鮮民主主義人民共和国が日本海側へとミサイルを飛ばす。平和は一歩間違えれば崩壊してしまうだろうが、それもまた、諸行無常の様相を呈している。
 アニメ最終話の放送日と同じ3月24日の壇ノ浦の戦いの日をアニメーションの中で見届けた私達が、いつ崩れるとも知らない平和と繁栄をどう残して、或いは語り継いでいくのだろうか。
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