こずみっく・ふぉーとれす

不定期更新です。特に意味はないですが、宜しくお願い致します。

「他者」について。あるいは、自己について。

2015-06-18 00:36:21 | 駄言
 お久しぶりです。今日(昨日)、後輩と久々に話すことができました。私と仲良く振舞ってくれている後輩です。そういう後輩がいてくれることはありがたいことですね。
 そこで、いろいろお話をしていたのですが、その中でかなり長々と話したことを一つ、まとめておこうかなと思います。
 自分とは違う他者の存在についてのお話です。他者とは、広義では「自分以外のもの」、狭義では「自分以外の人間」をさします。では、そもそも他者というものがどのように成立しているのかと、考えてみましょう。他者の存在の認識には、常に自己が存在します。自己の存在は、他者を認識する第1条件です。そうでないと、何もない状態で他を意識することはできません。では、他者とは自己があって初めて存在しているのでしょうか。答えは、否です。別に自分がいようがいまいが、存在している真実は揺るぎようがないのです。
 そもそも自己とは、他者の存在が前提となって存在しているのではないでしょうか。他者が自己を認識している、あるいは他者という自己とは違う何かが区別されうる状態を持って初めて現出するのではないかと思います。
 そして、ここからは持論です(暴論かなと思います)が、自己の認識それ自体が、他者の評価によってしか現出しえないのではないかという仮説です。他者の評価によって初めて、自己の評価の内容が理解しうるのではないか、ということです。そもそも、他者、自己という意識が存在するためには、自己が他者を評価し、他者として存在する必要があると同時に、他者によって自己が形成されている必要があるのではないかと思います。常に、他者と自己の関わりの中で、自己を形成していくのではないかと。
 現代は、「個性」を重んじる社会ですが、ある意味で個性とは他者の介在によって作られていると考えられはしないでしょうか。他者が存在しなければ、自己を区分する必要はなく、他者による評価の存在、あるいは他者を評価する自己の存在によって、個性とは作られると思うのです。他者の存在なくして個性が生まれず、それが他者の評価によって生まれるのならば、私たちは個性というものをどう捉えるべきでしょうか。
 他者論については、哲学の授業で習ったミシェル・トゥルニエの作品である『フライデー あるいは太平洋の冥界』を、参考にさせていただきました。哲学は解説がないと理解できない無能ですが、授業で習えばある程度理解できるものです。ある意味、これも自己の経験という形を持った他者の介在かもしれませんね。
 駄文長々と、失礼いたしました。
コメント
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