真実史観で子孫に遺す日本適者生存99年史

歴史には真実と捏造が有るのみ。東大やマスコミ等、虚業が造語の、自虐も保守も革新も右も左も無い!真実の歴史を子孫に遺そう。

1陳寿明解魏志倭人伝卑弥呼墓判明邪馬台国は邪マイツ国壹與はイツヨ

2009-03-13 18:40:15 | Weblog
陳寿は明解に記していた。混乱は学者識者の驕り、無検証が原因。
邪馬台国は邪(じゃ。しゃ。や)まいつ国、壹與は(いつよ)が正当。
日本人のルーツ
 20代の半ば、仕事で三重県尾鷲市の幼稚園を訪問、園長先生に面会、名刺を差し出した。名刺をじっと見つめた初老の女園長先生は、「宮城県でしょう、出身は」。「そうです、どうして分かりましたか」おどろき問い返すと、「私の亡くなった主人も同じよ」と言いつつ、同姓の名刺を取り出した。三重県尾鷲市と宮城県、陸では遠隔の地であるが、古くから漁船の交流があり、隣町のようなものと、話に花が咲き、懐かしげに語っておられた。数十年前のことであるが、今でもこの事が鮮やかに思い出される。点から点への移動、陸はジンギスハーンの馬、海は船。地中海の船、バイキングの船、大航海時代の帆船、卑近な例ではドラクエの船の入手、文明の加速は全て船が起点である。島国日本、船の発明、船を語らずして古代は語れない。
 7万年~1万年前の氷河時代最後の氷期に、大陸からナウマン象を追い氷河を渡り、後期旧石器人、古モンゴロイドが渡来し海や山の民として定着。後に船が発明され、山の民から別れ、あま(海)の民として日本海海洋文化圏を築く。一方船を発明した南方の新モンゴロイドも、陸伝い島伝いに北上し渡来、揚子江河畔の船を発明した新モンゴロイドも渡来し、在来の古モンゴロイド(山の民、海の民)と融合した。モンゴロイド海洋文明圏を築いたあま(海)人、そして水稲文明圏を築いたあま(天)人。かれらが日本人の先祖と言える。耽羅(済州島)や半島南の祖先でもある。

 古くから黒曜石日本を中心とした海洋文化圏として中国揚子江、朝鮮半島南(百済、新羅、任那、高句麗)、耽羅(たんら、済州島)、南西諸島、五島列島、対馬、壱岐、九州(南方文化)、島根(出雲)、隠岐、能登、佐渡、新潟(越)、瀬戸内海、黒潮ルートの尾鷲が存在し、文化を共有する地中海文明と同様の海洋人がいた。
 黒曜石の伝播が、海洋文化圏の隆盛を促進し、あま(海)の道が、米の伝播を促進した。古代日本、あま(海)の民は日本海を制し自由に航海、大陸や半島沿岸に黒曜石文明を伝播、居住した。九州の黒曜石が沖縄本島(佐賀県の腰岳産)や、朝鮮半島南部の釜山広域市影島区(ヨンドグ)にある東三洞(トンサンドン)貝塚(佐賀県の腰岳産、大分県姫島産)で、隠岐と脇本(秋田県)産の黒曜石が、ロシアの沿海州で、確認されている。黒曜石研究の動向
 日本海呼称は、海洋文化圏を築いたあま(海)の民日本の、由緒ある名称である。由緒なき東海などではない。
 文明の伝播は地中海文明や、大航海が示すように、海路がはるかに速い。北方民族が陸路最南端の地に辿り着き、文明を開いたので無いことは、南下途中の継続文明皆無や、同時期発祥の共通文明で証明済み。古代の朝鮮半島南部人は、中国と日本の海洋民族が祖先であることは明白である。
 完成した北部九州の団体作業水稲耕作技術は、海洋人を経て朝鮮半島南、耽羅(たんら)(済州島)に同時に伝播し、百済、新羅、伽耶諸国、耽羅(済州島は火山島なので畑作中心だが、海洋人の寄港地として栄えた)国が生まれた。朝鮮北方には皆無の半島南に限定された日本と同様の文化は、日本と百済、新羅、任那、高句麗が同一文化圏を物語り、日本の支配下にあったことを証明している。百済人、新羅人、任那人、高句麗人は、現代の東北人、名古屋人、大阪人のような地域呼称で、朝鮮人ではなく皆日本人。したがって桓武天皇の母百済人は、百済出身の日本人で、北方民族と日本人が混血した、現代の朝鮮人ではない。

稲の伝播が語る歴史
日本、旧石器時代、約3万5千年前からで、終りは約1万3千年前。
1万6千5百年前から約2700年前、日本、縄文時代。縄文式土器。稲の陸稲栽培開始の時代
 稲の陸稲栽培・焼畑稲作。水田を使わない稲作。
 稲の水耕栽培・田に水を張り(水田)、その水の中に苗を植えて育てる。種から収穫まで、陸ですべて終えるよりも、水耕の方が品質が高く収穫量が多いため、定期的な雨量のある日本では、ほとんどの場合、水田を使っている。
 イネの品種には、ジャポニカ「日本型・温帯ジャポニカ(水稲)と熱帯ジャポニカ(陸稲)」・ジャバニカ(ジャワ型)とインディカ(インド型)がある。
 稲の陸稲栽培 熱帯ジャポニカは、インディカの分布と重なり、更に広い範囲に分布し、陸稲と密接に結びついている。
 稲の水稲栽培 温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に分布している。弥生時代以降の水稲は温帯ジャポニカである。
 ・・・揚子江沿いに在った「長江文明」を発見したのは国際日本文化研究センター教授の安田喜憲氏らでした(1996年)。この中国南方長江文明は、畑作中心の中国北方黄河文明に対し、稲作中心で、ジャポニカ種が栽培されていた。

 安田喜憲教授によれば、『今のところ、稲作の起源は、少なくとも8,600年前までは、確実に遡れる。もし、土器にある圧痕が稲作の証拠とすれば、少なくとも11,000年位前までは確実に遡れます。玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡や仙人洞遺跡では14,000年前まで遡れる可能性が指摘されているという段階まできている』。「長江文明の探求」 監修・稲盛著者・梅原・安田 新思索社刊 2004,8,30発行)
 1万2000年前 中国陸稲栽培 長江中流域にある江西省や湖南省で1万年以上前に遡る稲籾が続々と発見。焼畑による陸稲栽培と考えられている。
 7000年前 中国水稲栽培 長江下流の浙江省寧波の河姆渡(かぼと)村から約7000年前の水田耕作遺物が発見されており、稲の水田耕作は長江下流に起源。
 稲の陸稲栽培の伝来 日本へは、まず、江南から熱帯ジャポニカが南西諸島を通って伝播南九州へ(黒潮ルート)。
 
 稲の水稲栽培の伝来 長江下流域から直接北九州に伝来(対馬暖流ルート)。江南から西南諸島を経て南九州へ(黒潮ルート)。温帯ジャポニカによる水稲農耕の始まりも近年の稲DNAに基づく研究では、南方経由の可能性が高いとされる。佐藤洋一郎「DNAが語る稲作文明」

捏造ルート 遼東半島から朝鮮半島南部を経て北九州に伝来(朝鮮ルート)。かつてはこの捏造された朝鮮ルートが有力視されていたが、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島での確認された炭化米、紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れない点、極東アジアにおける温帯ジャポニカ種/熱帯ジャポニカ種の遺伝分析において、一部遺伝子が朝鮮半島を含む中国東北部から確認されない点などの複数の証拠から、対馬暖流ルートや黒潮ルートによる日本への伝来が、2000年近く早かったという学説が有力視され、朝鮮ルート否定。

 ・・・中国、朝鮮半島、日本列島の水稲在来品種250種のSSR多型を調べてみると、8つの変形版が見つかった。これらには小文字のaからhまでの字があてられる。aからhまでの変形版がどこに位置するかを調べると下記のようになる。

SSRの多型からみた温帯ジャポニカ(水稲)の渡来。
日本の品種 abの2種類
中国の品種 abcdefghの8種類全品種あり (aが少ない)
朝鮮の品種 acdefgh の7種類 (aが60%)
 唐古鍵遺跡(奈良)と池上曽根遺跡(大阪)の炭化米からもこのb遺伝子が発見されたことも注目に値する。いずれも弥生時代中期(宇約2100~2200年前) の遺跡であり、SSR遺伝子はいくら時を経ても全く変化しないので、これらの炭化米は、2000年前からここに埋まっていた事がわかる。 すなわち、2000年前明らかに中国大陸からb遺伝子を含む水稲が渡来してきたことが実証できるのである。 見えてきた稲の道1
(注・上記では。単純に「中国大陸からb遺伝子を含む水稲が渡来」としているが、中国渡来説では、朝鮮にb遺伝子欠落の説明がつかない)
仮説をたててみよう。温帯ジャポニカ(水稲)の伝播。
1・4、200年前に訪れた寒冷化によって、中国北部の稲作牧畜民(漢民族、c品種の稲所持)が南下し、稲作漁労民(a品種の稲所持)である長江文明を、攻め滅ぼした。中国の長江文明は崩壊したが、稲作漁労民(a品種の稲所持)はさらに南下して定住、aを栽培。
2・最古の品種aは、対馬暖流ルートで紀元前7世紀(2600年前)日本伝来。日本aを国内や朝鮮南に伝え、国が誕生する。
3・日本、新たな品種bを得てabとなる。
4・中国は更にdefghの新たな品種を得る。acdefgh。
5・朝鮮中国の属国となり、cdefghを得、紀元前日本から伝来のaを加えacdefghとなる。
6・日本、品種bを中国に伝える。
7・中国、日本から伝来したbを加え、abcdefghとなる。

  陸稲熱帯ジャポニカや、南方長江下流原産水稲温帯ジャポニカ(緯度は日本の屋久島)が、中国北方の遼東半島や朝鮮北部(緯度は青森)に北上し、南下して伝播(北九州)は誰が考えても不可能。長江下流から北九州は、船のほうがはるかに近く、対馬暖流に乗れば、寝てても北九州に到着する、地図を見ればすぐわかる素人の常識問題だ。捏造は迂回するが、文明は迂回せず。
 
日本の稲の起源
 「プラント・オパール」とは、植物の葉の細胞に含まれている珪酸体というガラス質の小さな結晶(40~60μm)のことで、葉っぱに触れて手や足を切ることがあるのはこのためだ。このプラント・オパールは、葉が腐っても土の中でずっと残ることが知られており、これを分析することにより、稲作の起源を調べる試みが続けられている。

 この手法を開発したのは宮崎大学名誉教授の萩原宏志氏で、現在までに確認できた稲作の痕跡は全国9カ所の遺跡にあり、約6,000年前から見られる。(ただし現時点では、プラント・オパールの発見だけでは、それが野生種か栽培種かを区別できないことから、稲作の確実な証拠とはされていない)

 6,000前、陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培。縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6,000前の地層から稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例めだが、今回は化石が多量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。縄文時代前期にまで遡れる。高橋護・元ノートルダム清心女子大教授ら研究グループは、プラント・オパールが大量だったことや他の食物も有ったことを「縄文前期の本格的農耕生活」を裏付ける根拠とし、水田が無いことについては「大半が焼畑農業だったのでは無いか」と推測する。読売新聞,2005,2,19

 2,600年前(紀元前600年)、水稲(温帯ジャポニカ)栽培。わが国の稲作の歴史は、福岡市板付遺跡より更に古い、佐賀県唐津市の菜畑遺跡(2,600年前)で確認された水田遺構が最古(水稲栽培)と見られる。熱帯ジャポニカも水田で栽培された。

 縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県の上ノ原遺跡などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールに至っては、後期後半の西日本各地の遺跡から30例発見されている(外山秀一さん、皇學館大学)。縄文時代の前期以降、西日本の各地で稲作が行われていたことを示す証拠である。このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。

 石器の産地の考察から、縄文時代にも海洋を越える交易があったことも分かってきている。また、死者を埋葬した跡があることから、縄文の人々には初期の宗教観があったことも確認されている。

紀元前8百年~3百年(炭素14年代測定法により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前9世紀まで遡る可能性が出てきた)日本、弥生時代。弥生式土器。稲の水稲栽培開始の時代。
 紀元前9世紀に、大陸や南西諸島から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。弥生時代早期に完成した北部九州の団体作業水稲耕作技術は、弥生時代前期中葉には東北へと伝播し、青森県南津軽郡田舎館(いなかだて)村垂柳(たれやなぎ)遺跡などからも見つかっている。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及した。また海洋人を経て朝鮮半島南、耽羅(たんら)(済州島)に同様に伝播し、百済、新羅、伽耶諸国、耽羅(済州島)国を生んだ。
 これまでの自給自足狩猟採取移動の生活を、稲の水稲栽培、これがすべてを一変させた。水田作り、水路作りは集団が協力しないと出来ない。田起こし、代掻き、田植え等々季節が過ぎないうちに済ませないと駄目な作業ばかりなので、集団が協力して作業に当たった。結果集団で住むようになり、大量生産、仕事の分業化が始まり、物づくりの技術が一気に進んだ。中国から農耕具の青銅器や鉄器も輸入し使用した。さらなる開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされ、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生した。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれ、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれた。稲の水稲栽培が国を造ったといえる。
 水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。

 このようにして、狩猟採取定着の、あま(海)海洋文明集合体から、農耕定着の、あま(天)水稲文明集合体に権力が移動した。あま(海)の衰退ではない。あま(天)のほうが大きく勃興し、はるかに巨大化したため、権力は禅譲されただけである。あま(海)は以後も隆盛を成し、島国日本の礎となった。水稲栽培は天候が命、集合体の命の要、あま(天)を神とし、太陽を最高神として崇めた。日海子、日水子(卑弥呼、日巫女)、天照大神となり、現代に至る。
佐賀県の腰岳、大分県姫島、島根県隠岐、秋田県脇本、瀬戸内海や黒潮ルートのあま(海)の子孫は、競合しながら同様に進化し、一つとなった。

黒曜石が語る邪馬壹国と卑弥呼
 前述のように島根県隠岐産の黒曜石がロシアの沿海州で発見され、島根県出雲神話は、あま(海)の民、古代海洋国家を物語っている。
一方、九州佐賀県伊万里腰岳産の黒曜石も、沖縄本島や朝鮮南部で発見され、大分県国崎半島東端の姫島産も朝鮮南部で発見され、古代朝鮮南部は、日本同様のあま(海)の民海洋文明圏で、3世紀末の魏志倭人伝にも、倭人の北岸狗邪韓国と明記され、中国も公認の、黒曜石海洋文明圏の継続を物語っている。
黒曜石、稲、青銅器鉄も、あま(海)の民が最初に入手し隆盛、伝播した。隆盛した国家(稲を最初に入手)魏志倭人伝中の邪馬壹国は、九州佐賀県伊万里腰岳黒曜石や、大分県国崎半島東端の姫島黒曜石を生業とした海洋文明国家あま(海)の民、子孫を物語って余りある。魏志倭人伝中「其山有丹」と記載された丹(丹砂、辰砂)は、いずれにも産地有り。青銅器、鉄の伝来で黒曜石はすたれたが、あま(海)の道で得た稲と、あま(海)の道の交易(丹や稲の伝播と、青銅器鉄の入手伝播)で隆盛を築いた。祭神も、あま(海)とあま(天)になり、卑弥呼(日水子、日巫女)があま(天)に使えるようになった。当然、あま(海)の道の交易で、太陽神信仰や諸々のものも、同時に各地に伝播され、また、入手もした。

真実史観で検証魏志倭人伝邪馬台国と卑弥呼
 あま(海)の民の世界は、板子一枚下はまさに地獄、方角距離の間違いは死である。正確だから生きて海洋文化圏を築けた。これまでの実技無き仮想現実界の歴史家は、この現実界の道理を簡単に無視、魏志倭人伝記載の距離方角を間違いとし、勝手に書き換え解釈、日本を混乱の坩堝にした。歴史には流れがあり、理由もなく突然邪馬壹國や卑弥呼が生まれる訳など無い。戦後の迎合識者と同じである。現代文明などワット以後の化石燃料文明、たかだか250年である。鳥も渡り鮭も回帰する。古代人には現代人が失った鋭敏な、確かな五感があった、矮小判断すべきではない。
 前述のように、あま(海)の民により山の民に水稲がもたらされ、あま(海)の民と山の民とが融合し定着、大集団となり、国が生まれ、やがて国家が連合した。卑弥呼の時代は正にその時代といえよう。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)
 中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)の東夷伝倭人の条をいう。「三国志」全65巻は280年~289年に完成している。正式名称「三国志魏書東夷伝倭人条」。全文で2008文字。「三国志」はその後、歴代王朝が木版本を刊行し現存は6種類。12世紀中葉に作られた南宋の紹興本が有名。日本で最も入手しやすい魏志倭人伝資料は、石原道博編「新訂 中国正史日本伝1」。百納本(張元済が20世紀に刊行)の「倭人伝」写真版が掲載されている。
陳寿について
 魏志倭人伝は魏の後継の晋、著作朗という官職にあった西晋の陳寿(蜀の国で誕生233~297年)が著者。3世紀末(280~-290年)に書かれた。著者陳寿の死後、正史となる。陳寿は蜀の皇帝に仕えた後、浪人となり魏が晋に滅ぼされた後で晋に仕えた人。魏には恩顧はない。つまり魏に都合のよい話ばかりを魏書に書く必然性は低い。 三国志の編纂に取り掛かったのは西暦280年とみられる。同じ歴史家の夏侯湛(かこうたん)は陳寿の三国志を読んで、その内容に感銘、自著である魏書を自ら焼き捨てたと言わている。陳寿の三国志は、文章が簡潔で感情に左右されることなく冷静、公平に書かれている。
?「魏志倭人伝」
?「魏志倭人伝」と『後漢書倭伝』
 范曄が著した『後漢書』東夷伝は『魏志倭人伝』より後に書かれている。しかしその内容は「魏志倭人伝」にない「桓霊間倭國大亂」などの記事がある。范曄の『後漢書倭伝』は、「魏志倭人伝」の原史料を見ているのではないか。
?「邪馬壹国」と「邪馬臺国」と「祁馬臺国」
 現存の『三国志魏志倭人伝』の版本は、「邪馬壹國」、「邪馬一國」。
 5世紀に書かれた「後漢書倭伝」では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書倭伝』では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』には魏志(魏志倭人伝)のいう「邪馬臺」。原文は「邪馬壹国」
?『魏志倭人伝』の「景初2年」と「景初3年」
 『魏志倭人伝』は景初2(238)年。
 『梁書』や『太平御覧』引用の『魏志』では、景初3年(239年)が遣使の年。
景初2年8月23日(238年)公孫淵が司馬懿に殺された(『三国志』魏志公孫淵伝)。魏が帯方郡を治めたのは、それ以後と言うのが理由。原文は景初2(238)年
?があるがありのままに読む
魏志倭人伝邪馬壹国までの道程をありのままに読む
国名、方角、距離、国の特徴だけを抜書き。全文は後述。原文はスペースなし。国名は表音記載なので、限定せず、事典の字音を記載。
?「對馬國」と「對海國」
「對海國」(中国側呼称)は宋紹熙本。「對馬國」(日本側呼称)は宋紹興本。一大國(中国側呼称)。壱岐(日本側呼称)。
倭(ワ・吾。我。和。イ・)人居住地
倭人在 帯方東南 大海之中 依山島爲國邑
 倭人の住んでいるところは帯方の東南、大海の中。山や島に依りそって、国や村を為している。
倭国北岸狗(ク、コウ)邪(ジャ、シャ、ヤ)韓(カン、ガン)國
従郡 至 倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到 其北岸狗邪韓國 七千餘里
 郡より倭に至るには、海岸に循(沿)って、水上を行き、乍(たちまち)南、乍(たちまち)東と階段式に韓國を次々と通過、倭の北岸、狗邪韓國に到った。郡より七千餘里の道程である。
對(タイ、ツイ)海(カイ)國・「對(タイ、ツイ)馬(マ、バ、メ)國」
始度一海 千餘里 至  對海國(對馬國)所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
 一海を度り始めて、千餘里で對海國(對馬國)に至る。居住地は絶島で、島の方(⇔距離)は四百餘里可(ばか)り。土地は、山險しく深林多く、道路は、禽(鳥)や鹿の徑(こみち)の如し。千餘戸有るが、良田無く、海物を食し自活、船に乗りて南(九州)北(韓半島)に行き、米を入手している。注・方角記載がないのは、「乗船南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。
一(イチ、イツ)大(ダイ、タイ、タ、ダ)國・壱岐 2につづく

2ああ終に女王の所に到着帯方郡から水行十日陸行一月は長かったなー!

2009-03-13 18:25:05 | Weblog
2ああ終に女王の所に到着帯方郡から水行十日陸行一月は長かったなー!
又南渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耗田猶不足食 亦南北市糴
 又南一海を渡る。千餘里、名を瀚海(かんかい)と曰い、一大國に至る。島の方(⇔距離)は三百里可(ばか)り。竹木叢林多く、三千許(ばか)り家有り。差(やや)田地有るも、収穫少なく食不足。ここも同様に、船に乗りて南(九州)北(韓半島)に行き、米を入手している。
末盧國
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之
 又一海を渡る千餘里。至末盧國に至る。有四千餘戸有り。濱(浜)、山、海に居る。草木茂盛し、道路なのに、前の人見えず。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深淺に関係なく、皆沈沒して之を取る。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。注・?末盧國だけが、官記載無し。
伊都國
東南陸行五百里 到 伊都國 有千餘戸 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐
 東南に陸行五百里、伊都國に到る。千餘戸有り。世(よよ)(代々)王有り。皆女王國に統屬。郡使往來の時、常に駐(とどま)る所。
奴國
東南至奴國百里 有二萬餘戸
不彌國
東行至不彌國百里 有千餘家
投馬國
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
邪馬壹國
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸
狗奴國
其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
其の南狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に屬さず。
郡至女王國
自郡至女王國 萬二千餘里
郡自り女王國に至る、一萬二千餘里。

2009年邪馬壹國へ真実史観の旅
出発地点帯方?
 帯方は、循海岸水行(海岸に循(沿)って、水上を行き)とあるように、帯方郡南海岸、現在の黄海南道南岸が自然だ。狗邪韓國も、(歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國) とあるように、東三洞(トンサンドン)貝塚もあり、現在の釜山界隈が自然ではないか。
魏志倭人伝の一里?
 魏志倭人伝中で現代と間違いなく一致する所が、一大国=壱岐である。しかも方可三百里(島の方⇔距離は、三百里ばかり)とある。壱岐長辺南北18kmを、三百里で割ると、一里は60mとなる。次に該当する南対馬長辺南北24kmを、四百里(倭人伝は四百餘里)で割ると、一里は60mとなった。次に該当する対馬南南端から(対馬海峡)壱岐北端50kmを、千里(倭人伝は千餘里)で割ると、一里は50mとなる。次に想定した釜山から(朝鮮海峡)、対馬北、北端(晴天の日は、釜山目視可能)55km、南、北端80kmを、千里(倭人伝は千餘里)で割ると、一里は55mと、80mとなる。黄海南道南岸から釜山迄直線距離450kmを、七千里(倭人伝は七千餘里)で割ると、一里は64.2mとなった。
 渡海千餘里(朝鮮海峡)の一里は50m。渡海千餘里(対馬海峡)の一里は80mと、誤差が大きい。まず目視可能最短の対馬北を目指し、次に目視確認しながら南下、南対馬に至るのが当時の航法で、港釜山から、対馬北の距離と考えれば、納得がいく。又、対馬南、港から、壱岐北端は60km(一里は60m)である。魏志倭人伝の一里は、餘里ではなく方可三百里と記載の60mを用いる。

末盧國?末(バツ・伐。マツ・松。末。待。俟。バチ・撥。鉢)盧(ロ・路。ル・留。縷。流)國
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之
 又一海を渡る千餘里。至末盧國に至る。有四千餘戸有り。濱(浜)、山、海に居る。草木茂盛し、道路なのに、前の人見えず。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深淺に関係なく、皆沈沒して之を取る。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。注・?末盧國だけ、官記載無し。
 これだけの航海をしている、疑いも無く倭人はあま(海)の民でもある。邪馬壹國はあま(海)の民からはずしては語れないのは明白である。對馬國、乗船南北(九州や韓半島)市糴、一大國、亦南北(九州や韓半島)市糴とある。海洋民あま(海)の民である、船で行ける所までは行って、陸行が自然。末盧國から「東南陸行五百里 到 伊都國」である。陸行は川沿いが自然だ。福岡、唐津、伊万里が候補地となる。福岡は当時も大平野で港、数万は想定できる。「有四千餘戸」ではいかにも物足りない。「南北市糴」の常用ルートからは、遠い。「有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛」とある。唐津は松浦川があり捨てがたい。あま(海)の民の黒曜石産地佐賀県腰岳、ふもとの伊万里も、記載条件を満たしている。渡一海千餘里である。末盧國は、佐賀県伊万里界隈か唐津界隈を、候補とする。
 6,000前、陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培。縄文前期の本格的農耕生活。水田が無いことについては「大半が焼畑農業だったのでは無いか」と推測する。イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。
 2,600年前(紀元前600年)、水稲(温帯ジャポニカ)栽培。わが国の稲作の歴史は、福岡市板付遺跡より更に古い、佐賀県唐津市の菜畑遺跡(2,600年前)で確認された水田遺構が最古(水稲栽培)と見られる。熱帯ジャポニカも水田で栽培された。
 これまでの自給自足狩猟採取焼畑農業の生活を、米の水稲栽培、これがすべてを一変させた。水稲は水が不可欠、川沿いに移動し水田作り、水路作りに集団であたった。田起こし、代掻き、田植え等々季節が過ぎないうちに済ませないと駄目な作業ばかりなので、集団が協力は必須の要素。結果集団で住むようになり、大量生産、仕事の分業化が始まり、物づくりの技術が一気に進み国が生まれた。
 川沿いに国が生まれたのである。初めは高低管理し易い上流、進歩に従い下流へ。下流は平地が多いので開田し易いが、高低差がないので水管理が難しいのと、氾濫で壊滅し易い。両刃の剣ではあるが、大量の収穫を得られる。水田管理が進化し、下流を制した集団が大国を築いたであろうことは、うかがい知れる。水は上流から下流へ流れる、下流を制した集団は、当然上流も支配は必須なので支配した。いわば一つ一つの川が一つ一つの集団国家と言える。倭国大乱は、上下流支配で統一するまでの過渡期の水権利争い、であったろうことは想像に難くない。
 黒曜石を半島日本に伝播した海洋民あま(海)の民は、陸稲(熱帯ジャポニカ)入手も先駆け栽培伝播した。「里」は区画した「田」、「畑」が本来の意である。中里、二里、伊万里、有(あ里)田、佐里、伊万里界隈は多い。
 当然水稲(温帯ジャポニカ)栽培も先駆け伝播した。食料を安定確保した栽培の民の人口増加は、必然。不可欠の水、川の新天地を求め集団で移動、各河川に定住した。当然、近隣の松浦川流域にも定住した。そして、伊万里南東30キロ、唐津南東30キロは、佐賀県、数多の河川と伴う平野、水稲栽培絶好の新天地伊都(いつ)、そして不彌(二美)である。有明海に注ぐ河川上流伊都(いつ)は、どんなに輝いていたか、それは、国名伊都(いつ)国が証しだ。注・「厳・稜威」(いつ)は、食物などが威勢良く繁茂すること。広辞苑
 「南北市糴」の常用ルートなら、末盧國は、唐津界隈(松浦川河口)が濃厚である。しかし、伊都國への道は、米栽培伝播移動ルートでもある。その起点、伊万里界隈(黒曜石古代ルート起点)は捨てがたい。伊都國への道筋の難易度で、検証できるが、現時点の資料では、決定力不足。伊万里界隈、唐津界隈いずれかから、伊都國に到ったと、特定せず両論併記とする。

伊都國?伊都(いつ)國=(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。伊(イ・斎。委。威。井、堰。夷。囲)都(ト・所。門。外。図。途。渡。登。ツ・津。通。都(とりしまること)國。開拓当初はいつ(厳・稜威)の地だが、この水稲栽培下流隆盛の時代には、意味変化の可能性はある。
東南陸行五百里 到 伊都國 有千餘戸。 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐
東南に陸行五百里(30キロ)伊都國に到る。千餘戸有り。代々の王は、皆、女王国の統治下に属している。郡使の往来では、常にここにとどまる所である。
 到は曲がりくねって到着(到其北岸狗邪韓國、到伊都國)。至はほぼ直線で到着、および方向。
 「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」(女王国より以北は、特別に一大率を置き、諸国を検察している。諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国が常に治めている。國中に於いてあり、中国の州の刺吏のようだ)と詳細が後述されている。川の管理、諸国検察、邪馬壹國玄関が、主な任務と推察される。
 常識に基づき検証しよう。「魏志倭人伝」は国王への、説明紹介文だ、旅程記載は概略から詳細へが常道。伊都國は邪馬壹國の玄関。まず玄関の近隣を述べ、そして邪馬壹國へ行き、邪馬壹國の近隣や状況を述べるのが自然。現代でも案内図記載の常道である。「魏志倭人伝」は国王が読者。玄関からさらに水行二十日、水行十日陸行一月などは、打ち首もので、そんな不敬な記載は、不可能。記述不備不敬の疑問も呈されず、正史『三国志』「魏志倭人伝」として残ったことは、歴代誰一人、邪道な解釈をしなかったことの、証明である。帯方郡から「水行二十日」は、頻繁に往来する当時の常用ルートの旅程で、誰が読んでも分かる、常識であったことを物語って余りある。玄関伊都國、南北接する投馬國は、邪馬壹國と同一とみなし、投馬國に従来の常識、常用ルート旅程、邪馬壹國に倭国周旋ルート旅程と、混乱を避け分割記載、明解にした。最後に帯方郡からの全距離(自郡至女王國 萬二千餘里)を記載し、まとめている。中国帯方郡からの「倭」への常用ルート旅程、周旋ルート旅程、全距離、皆おさまっている。注・有明海経由、帯方郡までの「水行二十日」の常用ルート、嘉瀬川河岸の港が、投馬國に在る可能性は大である。北九州海岸からのルートは、陸行し水行なので誰の目にも不便、「行不見前人」とある、すたれたのではないか。また、後の倭の五王の隆盛、末盧國の官名記載無しから推察すると、従来の北九州海岸からのルートは、倭の五王の先祖に支配され始めていることが窺える。結果、有明海を常用ルートとしていた。今回は中国帯方郡からの使者なので、倭の五王の先祖も不問に付したが、真相ではないか。
奴國?奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。野。沼。ド・笯。弩。土」國。表意『瓊國』
東南至奴國百里 有二萬餘戸。
伊都國から東南百里(6キロ)で奴國に至る。二萬餘戸有り。

不彌國?不彌國=二(ふ)美(み。び)國。不(フ・二。フウ・奉。附。府ブ・。フツ・。ホチ・)彌(ミ・美。水。曲。回。神。霊。ビ・美。弥。備。傍)國。不彌(二美)國は、二つ目の、再びの、美しい国の意味か。二番目の開拓地であろう、だから道路がある。
東行至不彌國百里 有千餘家。
伊都國から東の道百里(6キロ)で不彌國に至る。千餘家有り。
伊都國から不彌國は、行=道路がある。

投馬國?投(トウ・。倒。討。淘。闘。祷。稲。踏。纛。ズ・)馬(マ・魔。真。間。磨。摩。澗。バ・メ・)國
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸。
伊都國の南投馬國に到着。帯方郡からの常用旅程は、水行二十日。五萬餘戸ばかり。
「自女王國以北 其戸敷道里可得略載」と後述され、投馬國は「自女王國以北」なのは明白。帯方郡からの常用旅程以外の解釈、「水行二十日」は、不適。
 伊都國・郡使往來 常所駐(郡使の往来では、常にここにとどまる)と有り。また往来は、度々後述もされており、頻繁にあった。「其行來渡海詣中國 恆使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰」「渡海する中國詣のその行來には、常に一人、頭髪を櫛で梳(くしけず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを名づけて持衰(じさい)と為す」と航海の詳細が後述されているように、「對馬國・・・乗船南北市糴」、「一大國・・・亦南北市糴」と、島民が日常の交通に用いている今回の安全水行ルートとだけでなく、厳しいが速い、水行主体(後述の、皆臨津捜露)の常用ルートがあることを明解に語っている。
 ここで常用ルートの旅程を記載し、次の倭国周旋ルート旅程と対比、理解を明快にした。

邪馬壹國?邪(ジャ、シャ、ヤ)馬(マ、バ、メ)壹(イツ)國
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸。
投馬國南、邪馬壹國に到着。ああ終に女王の居る都に着いた、帯方郡から、水行十日陸行一月は長かったなー!七萬餘戸ばかり。
注・「之」は、・・・に至る。「所」は、場所、住所。「都」は、みやこ、ああ、感嘆を表す言葉。
 常用ルートなら水行二十日の旅程。「魏志倭人伝」に採録なので、韓国陸行倭国周旋特別ルート、水行十日陸行一月の、倭国周旋旅程記載となった。「之」、「所」、「都」、の無検証、読み違いが混乱の原因。初心に帰り辞書を繰れば判明すること、原点回帰がいかに大事か、物語って余りある。「都」と到着の感動を掛詞にしたのだ。東大と京大の邪馬台国論争は、原典無検証、検証回路皆無、空論の証明でもある。
 「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國」と後述され、倭國最南端は女王國を指示している。
七萬餘戸は、あま(海)(漁業)とあま(天)(農業)の民。
其餘旁國遠絶?
 自女王國以北 其戸敷道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳女王国より北は、その戸数、道里を簡略に記載しえた。そのほかの旁国は遠く険しく、詳細は得られない。
次有・ 斯馬 己百支 伊邪 都支 彌奴 好古都 不呼 姐奴 對蘇 蘇奴 呼邑 華奴蘇奴 鬼 爲吾 鬼奴 邪馬 躬臣 巴利 支惟 烏奴 (注・次有と国は、略記) 次有奴國(・・・つぎに奴國有り)。
此女王境界所盡
これが、女王の勢力の及ぶ範囲。

 女王国の位置から推察すれば、奴國は、女王国の北で接していることになり、伊都國から「東南至奴國」と合致。また、上記「其餘旁國遠絶」とあるが、南は「其南有狗奴國」、西も「其山有丹」と記載されている。「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國」と後述され、最南端は女王國と語っている。上記「其餘旁國」は、女王国北(略載以外の北)、北東、東の河川流域各国となる。
注・1784年、博多の志賀島で発見された「漢委奴国王」金印にも、後述の「狗奴(玖瓊)國」にも、上記にも、「奴」は数多である。「奴」は「瓊」(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。「瓊。ぬ」は、中国語「國」伝来以前の、「集団、族、国」を表す、日本原語の一つ、南方系原語の可能性が高い。「魏志倭人伝」は中国風に翻訳し、皆「國」を付しているが、当時の倭は、「瓊」から「國」への過渡期で、「國」呼称は未定着ではなかったのではないか。

狗奴國?狗(ク)奴(ヌ)國。クヌ國は玖(美しい黒色の石、九の大字)瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする)國が、正当。意訳すると、(九つの川の国々から成り立つ国)となる。
其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
邪馬壹國の南狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に屬さず。

郡至女王國?
自郡至女王國 萬二千餘里
帯方郡南海岸自り女王國に至る、一萬二千餘里(720キロ)。
注・帯方郡南海岸、現在の黄海南道南岸。
注・佐賀県吉野ヶ里遺跡は長期間にわたって繁栄した集落であり、末期が邪馬台国の時代と重なる。

邪馬壹國などの表音と表意?方言考慮があるが、指針として試行。
○邪馬壹國表音に該当する読み
邪(ジャ・闍。邪。社。シャ・闍。邪。社。ヤ・輻)馬(マ・真。魔)壹(イツ・厳。稜。斎。稜威)(イン・)國。
意味・邪(よこしま。有害なこと)。闍(うてな。二階になった城門。城の外ぐるわの内側にあるまち)。社(神社。土地の守護神)。輻(多くのものが集まる)。真(真実)。魔(まもの)。
イツ・「厳・稜威」尊厳な威光。斎(い)み浄(きよ)められていること。食物などが威勢良く繁茂すること。広辞苑。イツ・稜(おごそか)。イツ・斎(ものいみ)。イツ・稜威(いつ。りょうい。いつえ。みいず。みいつ)きわだった神霊の威光のこと。天子の威光。
表意
邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、闍真(イツ・厳・稜・斎・稜威)國
邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、社真(イツ・厳・稜・斎・稜威)國
邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、邪魔(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
邪馬壹國(やまいつ)國は、輻真(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
邪馬壹國(やまいつ)國は、輻魔(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
?邪馬壹國(シャマイツ)國は、シャーマン(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
○卑彌呼 表音に該当する読み
卑(ヒ・日。霊)彌(ミ・水。海水。神。霊。ビ・)呼(コ・子。ク・)。
彌呼(ミコ・巫女。神子)。
表意
卑彌呼(ひみこ)は、(ヒ・日。霊)(ミ・水。海。神。霊)(コ・子)。
卑彌呼(ひみこ)は、(ヒ・日・霊)(ミコ・巫女・神子)。
○壹與 表音に該当する読み
壹(イツ・厳。稜。斎。稜威)與(ヨ・与。予。世)
表意
壹與(いつよ)は、(イツ・稜威・稜・斎・厳)(ヨ・与・予・世)。
○「漢委奴国王」金印。1784年、博多の志賀島で発見された。表音に該当する読み。
漢(カン)委(意味・まかせる)(イ・五。五十。斎。畏。夷。威。偉)奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。ド・」国王。
表意
漢(カン) 委(イ・五。五十。畏。夷。威。偉)奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする」国王。『漢・(五。五十)瓊(光輝く玉)国王』
漢(カン)委(イ・まかせる) 奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする」国王。『漢委・瓊(光輝く玉)国王』
丹(丹砂、辰砂)
 丹(丹砂、辰砂)は硫化水銀鉱。水銀と硫黄からなる。倭の水銀鉱は中央構造線沿い、九州西部鉱床群・佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市、九州鉱床群・大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附、に産出する。
 血の色でもある朱、これは、活力と蘇生、死との対決、死霊封じ、太古の人々は朱を呪術具としたのである。葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。・・・施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった」。
 朱丹を身体に塗るというのは元来、中国の風習にもあった。丹沙は、殷代において、朱の顔料としてト骨、王戈、壁画に記されたもの、清め、防腐、邪よけとして遺体にふりかけられたものがあり、秦漢時代においては道家により、精神安定あるいは長生の薬として用いられていたとされる。
 中国の水銀鉱は、砂金に混じって辰砂が存在した漂砂鉱床で、山海経の丹粟に相当し、産出地が10ヶ所挙げられていた。先秦時代の水銀鉱は、湖北省荊州、陝西省南山、四川省水立口陵、甘粛省槐江山が代表とされ、史記、貨殖列伝によれば「巴・蜀で丹沙を産する」とあり、また、「丹沙を重さにして千斤を一年間に取引する人々は年に二十万銭の収益をうる」とされた。どうやら秦漢時代に戦費調達や道家の錬丹術ブームにより、大量に消費され、随の時代には日本から輸入される事態となっていた。3につづく

3淀姫与止日女は与と卑弥神社卑弥子墓は本庄神社壹与墓は与賀神社

2009-03-13 18:21:44 | Weblog
3淀姫与止日女は与と卑弥神社卑弥子墓は本庄神社壹与墓は与賀神社
 辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。中国で枯渇した水銀鉱を求めて呉、越あたりの技術集団が渡来し、丹生氏がとりこみ開発した。後に秦氏がこの役割を担う。丹生氏は水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。この技術を持ち込んできたのは秦氏である。
 また、丹沙は船舶用塗料として海人族の必需品ともされている。丹には塩と同じく防腐作用がある。(地質ニュース351号)(丹生の民俗;丹生都比売伝承)(海人の藻塩;海人の國)。
特定してみよう、もちろん海岸線は今より上流である
狗奴國は、熊本長崎両県の、有明海に注ぐ河川流域の国で、有明海海洋民でもある。北限は熊本県境より北。
邪馬壹國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川下流域の国で、北は投馬國、奴國と接している。(其山有丹)山があり丹がある。有明海海洋民でもある。当時は平野が尽きたであろう熊本の山、福岡県境界隈が南限。
投馬國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国で、南は邪馬壹國、北は伊都國と接し、東は奴國と接しか?
奴國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国で、南は邪馬壹國と接している。
伊都國と不彌國は、佐賀福岡両県の、有明海に注ぐ河川、平野部の上流域。
「其餘旁國」は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国。博多湾に注ぐ河川流域の国は、現資料では特定できない。
邪まいつ國とクヌ(玖瓊)國の争いは、有明海、水稲、海洋文化圏の、覇権争いと言えよう。
 末盧國は伊万里か唐津か?伊都國、不彌國、投馬國、奴國、邪馬壹國、卑弥呼の墓は何処か?地勢図等を参考に、机上で想定は出来るが、特定は現地踏査が決め手。現地の皆さんは挑戦してみてください。鍵は水稲栽培。かなりの確立で特定可能。
発見実証へ
 水稲栽培は水が命。国の起因水稲文明は、川と平野を無視しては語れない(文系実技無き記憶機械の学者は、皆これを無視し、狂奔した)。古代の河口は現代よりも上流、つまり現代の河口に発展した都市部よりは上流に、水稲文明は開かれた(吉野ヶ里遺跡)。古今、河口に氾濫は付きもの、初期水稲栽培は、水を高低管理し易い上流と考えるのが常識。水の高低管理が進化し下流に拡大したが河川氾濫で再び上流へ、上流下流行きつ、戻りつし、水稲文明を拡大した。つまり、河口の遺跡より、上流の遺跡が古い。陸稲(個人)から水稲(集団)へ、稲作は山から麓へ下りてきた。奴國二萬餘戸、投馬國五萬餘戸、邪馬壹國七萬餘戸は、食料確保の田畑や海があり、まかなえる食料を所有していることを意味する。食料確保が人工増加となり、人工増加が、さらなる食料をもとめる南下開拓に、拍車をかけた。前記戸数は、この事を物語っている。
遺跡は、都市化が進み開発されてはじめて発見される。未開発地の遺跡いまだに未発見は当然のなりゆき、遺跡多少で断定する従来の学問は間違い。都市化が進み開発され発見された、現代の河口部の遺跡は、氷山の一角、上流には、更に古い膨大な遺跡が眠っている。長崎自動車道は山、南の平野であったならと惜しまれる。
 国は忽然とは生まれない。起因過程を経て誕生する。論理回路欠落の仮想現実界は、この現実界の常識を無視し暴走、空論がはびこった。
 弱肉強食の戦国時代を隠蔽し、日清日露大東亜戦争起因過程を、論理的に検証せず、平和な時代を侵略し、破壊した極悪日本と、なんと64年間も条件反射で、オウムがえし。まさしく仮想現実界は論理回路欠落、人間性喪失の、虚実無検証で記憶する、単なる記憶装置である。火の無いところに煙は立たない。誰も戦争などしたくない。調べれば直ぐ分かることなのだ。そして、辞書を繰れば即座解明の、壹(いつ)と臺(たい)、女王之所都、これすらも調べなかった。まさに無検証そのもの、単なる記憶装置だ。
 仮想現実界の教授、作家、歴史学者は、間違いだ改竄だと称し著者陳寿を冒涜、言葉と文字のあいまいさ無責任をフル活用、傍若無人の愚行を未だに続けている。著者陳寿冒涜は、おのれの学問も、そんな類のものであることを自白していることに他ならない。
 「三国志魏書東夷伝倭人条」は、滅びた蜀の国の人陳寿が、後世に遺す正史として書いたものである。正史は末代まで遺る、間違いは、己のみにとどまらず、末代の己の子孫の汚名ともなる。正に諸刃の剣。自らの名誉と自らの子孫の名誉を懸け、乾坤一擲の思いで陳寿は書いた。私はそのようにしか思えない。肩書でもてあそぶ金儲けの輩と、乾坤一擲の陳寿。迫力、次元が異なる。(注・聞き書きの戸数や国名や国の数は、誇大捏造の可能性はある。陳寿の罪ではない)
 真実史観は東大と京大の原典無視の邪馬台国論争と、仮想現実界の先人愚弄をあらわにし、文系高学歴の正体、条件反射でオウム返し、単なる記憶装置と暴露した。正に、検証回路皆無を証明して余りある。日本の文系仮想現実界は、肩書が墓標の墓場である。原典を批判し無視の前に、原典の徹底検証が学問の初歩で常道。学徒なら丸暗記などせず、シュリーマンを鑑とすべき。真実史観はこれに基づいただけである。ネチズンの皆さんも常道に基づけば、間違いなく続々と新発見可能である。そして、東大と京大の学問は、初めに結論有りで、学問ではないことに皆気付くはずだ。
 学問は仮想現実界だけの、慰み物ではない。肩書(墓標)作成の道具ではない。実事求是で役立てるものだ。手弁当での、ネチズンの学究姿勢こそが、学問の原点である。文系心ある志学の徒は、原点回帰し、学問に帰れ。
邪馬壹國のその後真実史観の検証
 検証は、佐賀市大和町川上の、与止日女神社(河上神社)から始まった。河上神社は6世紀創建で、祭神は、與止日女命(よどひめのみこと)で旧県社。旧社号は河上神社で、與止日女神社と社号変更は最近のこと。地元では、「よどひめ」さんと呼称されており、肥前国一宮(古代末期から、中世初頭にかけて発生した社格)。一宮呼称は、千栗神社(祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)と争った、とある。旧社号河上神社は、川神(かわかみ)神社で、與止日女(よどひめ)は、「與(壹與)と卑弥(卑弥呼)」「与と日水」で、はないかと推定し、よどひめ神社を、1:3万の地図と神社事典、神社名鑒で検証し、年表で変遷を追った。詳細は稿を改めるので、ここでは割愛する。
 
246~247年この頃卑弥呼死す。墓を作る。
247年(正始8年)卑弥呼宗女(卑弥呼と同じ血筋)壹與(いつよ)13歳を、王とする。
266年(泰始2年)『晋書』起居註に倭の女王の使者が朝貢したとの記述。この女王は壹與(いつよ)と考えられる。
壹與(いつよ)死す。墓を作る。
 以後起こった争乱と天変地異を鎮めるため、平和な時代を作った壹與と日水子を邪馬壹國の守り神とし、壹與と日水子の社を、信奉する子孫が重要な川沿いに祀り、與と日水(よとひみ)社とした。
與と日水(よとひみ)祭神神社
嘉瀬川流域
◎淀姫神社。佐賀市富士町上無津呂「上無津呂川河畔(嘉瀬川最上流)」。淀姫「與(壹與)と日水(卑弥呼)」神社は、本流、支流合流部に鎮座している。文久2年(1863)の棟札に1350年祭をとりおこなったと、記録にあるので、513年創建と考えられる。旧郷社
 上無津呂川は、雷山(953.3)が水源。上無津呂川は、支流五つが合流し神水川ともいう。上流の、本流と支流はあわせて六つ。「雷山」「上無津呂川」表意は、「来山」「神六つ路川」と推測できる。神水川は、嘉瀬川(古場川)と合流し嘉瀬川となる。嘉瀬川と今はなっているが、表意は川神川、ではなかったか。上流下流にかかわらず、ダム、発電所名は川上で、下流景勝地名は川上峡である。
◎淀姫神社。佐賀市富士町古湯(貝野川合流河口部河畔)。旧村社。資料無し。
◎河上神社(前出の與止日女神社)「よどひめ」さん。佐賀市大和町河上。欽明天皇25(564)年創立とある。最後の支流が合流し終えて、分流する直前の嘉瀬川河畔「景勝地河上峡」に鎮座している。
◎淀姫神社。佐賀市三日月町堀江(祇園川河畔で、嘉瀬川合流河口。嘉瀬川下流)資料無し。
◎淀姫神社。佐賀市川副町福富。旧村社。資料無し。
◎与賀(よか)神社(與止日女神奉斎)。佐賀市与賀町。
 「神社名鑒」欽明天皇25(564)年創建し、與止日女神大明神と称したとある。旧県社。
 「ふるさとの文化遺産・佐賀県・人文社」欽明天皇26(565)年に、佐嘉郡小津西郷の塚原大明神を遷して祀ったと伝えられるもので、初めは塚原大明神と称したが、朝廷より、與止日女大明神の神号を賜り、勅願所となったと伝えられる古社。祭神は豊玉姫命のほか、七柱の神を祀っている。
◎本庄神社(與止日女神奉斎)。佐賀市本庄町。本荘大明神とも称す。昭和38(1963)年、鎮座1400年祭がとりおこなわれた(563年創建)。佐嘉郡本荘妙見山淀姫大明神が、大塚妙見社において、示現したともいう。旧郷社。
 嘉瀬川は川上峡下流から放射状に分流し、佐賀平野を潤している。日と水が頼りの水稲栽培、「川神」呼称、河畔の祭神「よどひめ(與と卑弥)(與と日水)」さんは、得心できる。

その他の與止日女神奉斎神社
◎野波神社。佐賀県神崎郡三瀬村。旧村社。
◎淀姫神社。佐賀県武雄市朝日町。旧村社。
◎淀姫神社。佐賀県武雄市岩本町桃ノ川。
◎河上大明神(淀姫神社)。佐賀県伊万里市大川町大川野。河上大明神だったが、明治に淀姫神社に改号。「松浦記」に欽明天皇25(564)年創立とある。旧郷社。
◎豊姫神社。佐賀県伊万里市松浦町桃ノ川。旧村社
◎淀姫大明神。佐賀県伊万里市松浦町境川。
◎淀姫神社。佐賀県伊万里市黒川町黒塩。
◎淀姫神社。佐賀県西松浦郡有田町広瀬。
◎豊玉姫神社。佐賀県嬉野市下宿。旧郷社。
◎河上神社。佐賀県藤津郡平町。旧村社。
◎淀姫神社。長崎県松浦市示佐町。欽明天皇25(564)年鎮座式。旧郷。
◎淀姫神社。福岡県三池郡高田町江浦。旧村社。
◎伏見神社。福岡県筑紫郡那珂川町。旧村社。
◎平川淀姫神社。熊本県菊池大津町。旧村社。
 長崎県松浦市、佐賀県伊万里市、有田町、武雄市、嬉野市、小城市、佐賀市大和町、佐賀市、神崎市、福岡県三池郡高田町と地図に記載。邪馬壹国が現出した。まさに、邪馬壹国のルーツと勢力範囲が、征服と社号変更の嵐の中、残ったのだ。
◎与杼神社。京都市伏見区淀本町。旧郷社。
372年 369(泰和4)年百済王七支刀をつくり、372年に倭王「旨」に贈った。国王名一字の時代始まる。
391年広開土王(好太王)碑文。「倭、辛卯の年(391年)を以って来り、海を渡り百残、○○、新羅を破り、以って臣民と為す」
4世紀海神(わだつみ)神社対馬に鎮座とある。豊玉姫が祭神。国王名一字の王の先祖が創建したのだろう。対馬伊呂波は50音の異称。対馬の国人がこれによって梵音を伝えたという。
413年(義熙9年)の倭王讃の中国への朝貢開始。以後、珍・済・興・武まで12回の朝貢(倭の五王)。朝貢の目的は、征服した半島の勢力維持のため。
502年倭王武朝貢。
 與と日水(よとひみ)から淀姫、河上、河上大明神、与賀、本庄、野波への痕跡無き社号変更は、国王名一字の王に征服され成されたものだろう。旧号は、與と日水(よとひみ)を暗示して余りある。社号変更しているので、国王名一字の王は、佐賀県の腰岳産黒曜石の海洋民がルーツではなく、大分県姫島産黒曜石の海洋民がルーツか、隠岐と脇本(秋田県)産黒曜石の海洋民がルーツで、北部九州河川の水稲栽培地を背景に有した、湾岸海洋民主体の国の王であろう。「魏志倭人伝」對海國(對馬國)の北島記載無し、末盧國官記載無しの理由は、他国ではあるが(狗邪韓國を有しているので、全盛時は領土の可能性が高い)、当時は友好国であったと、合点がいく。以後の変遷から推察すると、「魏志倭人伝」記載の邪馬壹國は末期であった。シャングリラ(桃源郷)佐嘉で農耕民と化し、水稲一大王国を築いたが、同時に武力を失った。騒乱の地北部九州で、ひたすら武力をみがいていた海洋民主体の王に敗れたが、真相であろう。
528年磐井の乱。大和朝廷に磐井は切られた。九州王朝の黄昏。
 豊姫、豊玉姫、伏見、平川への社号変更、豊姫、豊玉姫などの祭神追加は、大和朝廷征服以後のことだろう。◎淀姫神社(佐賀市)513年創建。◎河上神社(564)年創立。◎与賀(よか)神社(564)年創建。◎本庄神社(563)年創建。◎河上大明神(564)年創立。◎淀姫神社(長崎県)(564)年鎮座式。宇佐神宮も欽明天皇32年(571)鎮座とある、社号変更と考えるのが自然。奥宮に三つの石体を有する宇佐神宮、祭神は比売神(ひめがみ)(地主神)と応神天皇、神功皇后である。
肥国(ひのくに)
712年「古事記」では、「肥(ひ)。佐賀、長崎、熊本」。「筑紫(つくし)。福岡から南西部まで」。「豊(とよ)。九州北東部」。「熊襲(くまそ)。九州南部。宮崎・鹿児島」の4国。
713年肥前国風土記は、肥君らの祖、健緒組が土ぐも(大和朝廷に従わない、土着の民の蔑称)を討ったとき、火が天から山に降って燃えたため、火の国としたと伝えている。元、肥の国。7世紀後半肥前肥後2国に分け、「延喜式」に11郡。国府は現在の大和町付近。
967年「延喜式」内の河上神社(與止日女神社)の比定社。肥前国一宮。
 あま(海)⇒あま(天)⇒ひ(日)⇒天照大神。あま(海)⇒あま(天)⇒ひ(日)⇒ひ(肥)⇒ひ(火)。と継承された。

壹與(いつよ)と卑弥呼(日水子)の墓
 佐賀県の弥生時代の墓は、甕棺や箱式石棺などを埋めた上に数個の支石を置き、その上に巨石を載せた特徴的な形式である。神崎郡脊振村や唐津の支石墓(ドルメン)は名高い。古墳は、佐賀平野一帯や、伊万里唐津湾沿岸で800余り発見されたが、ほとんどが破壊され、残っているのは少ない。「ふるさとの文化遺産・佐賀県・人文社」とある。「與と日水」を「與止日女」として奉斎した子孫なら、破壊されるような墓には決してしていないはずだ。まず、神社の起源をおってみよう。
百科事典マイペディア・広辞苑・古語辞典
石神
 神霊が降臨する石。磐座(いわくら)・磐境(いわさか)や、超自然力をもつという石の信仰は古く自然石を神体とする神社は多い。また陽物に類する石を(しゃくじん)、(さごし)などと呼び、安産性病の治癒、雨乞いなどを祈願する例も各地にみられる。依代(よりしろ)が人間である場合を尸童(よりまし)という。
尸童(よりまし)。
 神霊の依代(よりしろ)としての人間。依座とも。清浄な生活をする童男・童女の場合が多く、祭礼の場合などは着飾って行列の中心となる。また、人間を馬に乗せて尸童とすることもある。いずれも神に魅せられた姿とされる。古くは託宣が尸童の口から語られた。また、童児に限らず、成年男女が立てられたこともあった。
依代(よりしろ)
 神の依りつく物をいう。神霊が降臨して、その意志を伝えるためには憑依(ひょうい)体を必要とするとの信仰に基づく。山、岩石、樹木、御幣、動物、人間などがあてられる。神社では普通、依代を霊代(みたましろ)と呼び、神像、鏡、御幣、石などをあてる。
磐座(いわくら)・磐境(いわさか)
 神社の原始的斎場。自然の岩石、またそれに多少の人工を加えたもので、そこに神を招いてまつった。高天原のそれが天津磐境であり、その岩石が扁平で神座にふさわしいものを磐座という。一説には死者を葬った場所に置いた石が起源であるとされ、降臨石・陽向(ようご)石なども磐座の一種という。今もこの形の神社があり、本殿のないものを普通とする。「日本書紀」によれば、天孫の座を磐座とし、磐境は結界(けっかい)・神境の意となっている。
神籬(ひもろぎ)。
 そこに神霊を招き、祭祀の対象とするために設けられたもの。清浄な地にある常緑樹や清浄な地にサカキ(榊)を立てたものと推察される。
榊・賢木(さかき)
 境(さか)木の意か。ときわ木(常緑樹)の総称。特に神事に用いる木をいう。ツバキ科の常緑小高木。葉は厚い革質、深緑色で光沢がある。古来神木として枝葉は神に供した。ヒサカキも同様に用いる。古くはシキミなども含めてサカキといったらしい。(注・佐賀の神社にはクスノキ(クスノキ科の常緑高木)の巨木が実に数多だ。最初の榊は、ときわ木(常緑樹)の、クスノキではなかったか)
祠・叢祠(ほこら)
 ホクラ(神庫)の転。神をまつる小やしろ。
社(やしろ)。
 百科事典:天神地祇を鎮祭する殿舎。語源的には屋代であり、斎場をもって殿舎に代える意。
 古語辞典:神が来臨する所。古代では、地を清め臨時に小屋などを設けて、神を迎えたという。
 広辞苑:屋代(やしろ)の意。神籬(ひもろぎ)を神霊の来臨する屋の代わりとする意。神の降下する所。神をいわい祭った斎場。後世、神社。
神社
 磐座(いわくら)・磐境(いわさか)のような神聖な場所に、神籬(ひもろぎ)を設けて神をまつったものと考えられる。秋の豊年祈念と、秋の収穫感謝の祭りが中心であった。
古墳時代
 弥生時代についで、ほぼ三世紀末(卑弥呼、壹與の時代に該当)から七世紀に至る。ただし、土盛りした墓は弥生時代に始まり、古墳時代以降も存続。
神社建築
 神を祭るための建築で、本殿、拝殿、舞殿、祝詞舎(のりとや)、鳥居などからなる。磐座(いわくら)・磐境(いわさか)・神籬(ひもろぎ)を前身とし、おそくとも古墳時代(三世紀末)には存在したと考えられる。

卑彌呼の墓の大きさ
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」「この時卑彌呼は既に死去しており、立派な盛り土の墓を作る。径(直径)は百余歩「1里(60m)/300が一歩。0,2m×百余=20数m。漢字源」。径(直径)は20数mである。
卑彌呼と壹與(いつよ)の墓は?
 前記のように、与賀(よか)神社本庄神社は社号も淀姫と異なり、縁起も特異な二社である。場所も直線で1350メートルと非常に近い。資料不足ではあるが、あえて想像力を喚起し特定すれば、与賀(よか)神社は壹與(いつよ)の墓でやしろ(社)。元の呼称は與ミヤ、與社、與神社。本庄神社は日水子の墓でやしろ(社)。元の呼称は本ミヤ、本社、本神社または日水ミヤ、日水社、日水神社。分社され、與と日水社、與と日水神社となったが、政変で改号。度重なる改号を余儀無くされたが、隠れ「與と日水」として現代に至った。
現資料ではここまでが限界。仮説から真理へ。残るは、発見による実証のみである。更に詳しくはネチズンの力をお借りしたい。また下記に対訳してあるので、論理的に果敢に挑戦してほしい。
シュリーマン(ドイツの商人、後に考古学者。1822~1890)貧しい牧師の家に生まれ、大商人として財を成した後、トロイヤ、ミュケナイなどの遺跡を発見した。著書自伝「古代への情熱」は著名。
 ホメロスの叙事詩トロイヤの物語を、単なる創作物語として一笑に付し、当時の学者は誰一人顧みなかった。シュリーマンただ一人、少年時代に愛読したホメロスの世界を信じ、「イーリアス」「オデュッセイア」を疑わず、ダーダネルス海峡のほとりのトロイヤの遺跡を、1870年(48歳)に自費で発掘開始し、発見した。
 末盧國は伊万里か唐津か?伊都國、不彌國、投馬國、奴國、邪馬壹國、卑弥呼の墓は何処か?地勢図等を参考にすれば、川と地形が鍵なので、机上でかなりの想定は出来るが、特定は現地踏査が決め手。現地の皆さんの実証に期待。第一発見者シュリーマンに挑戦してください。鍵は水稲栽培、伊都國、不彌國。そうとうな確立で特定、発見可能。1800年に及ぶ日本文系学者の空論は、現実界の道理で破壊され、2009年真実史観で、陳寿の邪まいつ國は眼前に姿を現した。陳寿は明解、実証は目前だ。2009.1.23.4につづく

4陳寿魏志倭人伝原文と対訳卑弥呼墓は径20数m台与は壹与イツヨ

2009-03-13 18:08:06 | Weblog
4陳寿魏志倭人伝原文と対訳卑弥呼墓は径20数m台与は壹与イツヨ
伊都國不弥國卑弥呼の墓シュリーマンへの鍵
陳寿著「三国志魏書東夷伝倭人条」。通称、「魏志倭人伝」原文と対訳。原文にスペース付加。真実史観訳

倭人在帯方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
 倭人は帯方郡の東南、大海中に在り。山や島に寄り添って国や村を造っている。昔は百余国。漢の時代には朝見する者もいた。今は使節をつなぐ所30の国である。

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
 帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、たちまち南たちまち東と韓国を通り、倭の北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。

始度一海千餘里 至對海國(對馬國) 其大官曰卑狗 福曰卑奴母離 所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
 一海を渡り始めて、千余里で對海國(對馬國)に至る。そこの大官は卑狗という、副は卑奴母離という。ここは離れ島である。領域の距離は四百余里ほど。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の小道のようだ。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活し、船に乗り、南や北の倭国の市に出かけ、米や穀物を求めている。注・方角記載がないのは、「乗船南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。

又南渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耗田猶不足食 亦南北市糴
 また、南に一海を千余里渡る。名を瀚海という。一大國(壱岐)に至る。ここも官を卑狗という、副も卑奴母離という。領域の距離は三百里ほど。竹や木が群生している林が多い。三千ばかりの家がある。田畑らしきものはある。田を耕してもなお、食べるのには不足。ここもまた、南や北の倭国の市に出かけ、米や穀物を求めている。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之
 また、一海千余里を渡る。末盧国に至る。四千余戸あり。浜、山、海に暮らしている。草木が盛に茂っており、前を行く人の姿が見えない。上手に魚やアワビを捕り、水の深浅にかかわらず、皆が水中に潜って、これを採取する。注・?末盧國だけが、官記載無し。

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐
 東南に陸行五百里。伊都国に到る。官は爾支という。副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸有り。代々の王は、皆、女王国の統治下に属している。郡使の往来では、常にここにとどまる。

東南至奴國百里 官曰兕(じ)馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
 伊都国東南、百里で奴国に至る。官は兕馬觚という。副官は卑奴母離という。二万余戸有り。

東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
 伊都国東の道、百里で不彌国に至る。官を多模という。副官を卑奴母離という。千余家有り。

南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
 伊都国南、投馬國に到着。帯方郡からの常用旅程は、水行二十日。官を彌彌という。副を彌彌那利という。五万余戸ばかり。

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
 投馬國南、邪馬壹國に到着。ああついに、女王のいる都についた!帯方郡より水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は彌馬升という。次は彌馬獲支という。次は奴佳鞮という。七万余戸ばかり。

自女王國以北 其戸敷道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
 女王国より北は、その戸数、道里を簡略に記載しえた。そのほかの旁国は遠く険しく、詳細は得られない。

次有斯馬國 次有己百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國
次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國
次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 
次有り 斯馬 己百支 伊邪 都支 彌奴 好古都 不呼 姐奴 對蘇 蘇奴 呼邑 華奴蘇奴 鬼 爲吾 鬼奴 邪馬 躬臣 巴利 支惟 烏奴 つぎに奴有り。

此女王境界所盡
 これが、女王の勢力の及ぶ範囲。

其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王 
 女王国の南、狗奴国有り。男子を王と為す。其の官、狗古智卑狗有り。女王に従属せず。

自郡至女王國 萬二千餘里
 帯方郡より女王国までの里程は、一万二千余里である。

男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於曾稽 斷髪文身 以避蛟龍之害
 男子は大人も子供も、皆顔と身体に刺青をしている。古より、その使者中国を詣でると、皆、大(ダイ、タイ、タ)夫(フ、フウ、フ、ブ)と自称した。夏后(夏王朝)の少康(第六代皇帝)の子が、会稽の領主にされたとき、短髪にして身体に刺青をし、蛟龍(伝説上の怪物)の被害を避けた。

今倭水人好沈沒捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以爲飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差
 今の倭の水人は、水に潜って上手に魚や蛤を採取する。身体の刺青は大魚や水鳥が厭うからである。後世この刺青は、飾りとなる。諸国の文身は各々異なる。左右、大小、身分の尊卑で差がある。

計其道里 當在曾稽東治(冶と改定、原文は治)之東 其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫
 その道里から推測すれば、まさに会稽の東治(冶と改定、原文は治)の東に在る。その風俗、淫らではない。男子は皆頭に何も被らない。木綿で招頭。その衣は横にひろく、ただ互いに連ね結束しただけで、細かな縫製はない。

婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之
 婦人は垂れた髮を曲げて結び、衣は単被(ひとえ)のように作り、その中央に穴を開け、この衣に頭を突き出す(貫頭衣)。

種禾稻紵麻 蠶桑緝績 出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐡鏃或骨鏃 所有無與耳朱崖同
 粟、稲、紵麻(麻の一種)を種え、養蚕して絹織物を紡ぎ、細い麻、薄絹、綿を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)がいない。兵は矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い。竹製の矢は鉄、あるいは骨の鏃で、有無する所は海南島の儋耳や朱崖と同じ。
注・倭の風俗は呉のはるか南からも伝播していることを記載している。擔耳・朱崖は、中国の南海に浮かぶ島、海南島、西はトンキン湾を隔ててベトナムに至る。「武帝の元封元年(BC110年)に略し以って人耳(たんじ)、珠(しゅがい)郡と爲す。民は皆布を服(き)るに單被の如く、中央を穿ち貫頭と爲す。男子は耕農し、禾稻・紵麻を種え、女子は桑蠶織績す。馬と虎亡く、民に五畜有り。山に麈・鹿京(けい・鹿の一種)多し。兵は則ち矛、盾、刀、木弓、弩、竹矢、或は骨を鏃と爲す」(漢書 卷二十八下地理志第八下)。

倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟臥息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用邊豆 手食
 倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みんな裸足である。家には部屋があり、父母、兄弟、別々の寝室。朱丹を体に塗るのは、中国の白粉を用いるが如きである。食飲には竹の器や木の器を用い、手で食べる。

其死 有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 己葬擧家詣水中澡浴 以如練沐
 死者の棺は、槨(ひつぎを入れる外箱)がなく、盛り土をし墓を作る。死去から十余日で喪は終わる。服喪の間は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆、水中で不潔を洗い清める。中国の練り絹を着て沐浴する練沐のようである。
注・北九州地方には甕棺が多数出土している。練沐・中国古代では父母の一周忌に小祥祭を行い、練衣(ねりぎぬの衣)を着て沐浴した。

其行來渡海詣中國 恆使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰 
 渡海する中國詣のその行來には、常に一人、頭髪を櫛で梳(くしけず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを名づけて持衰(じさい)と為す。
注・持衰の習俗はインドネシアやマルタ諸島にも多くみられる。

若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹
 もし、行者の航海が吉善なら、その生口財物を顧み、共す(生口財物に相当する物をさしあげる)。もし、疾病や暴風の災害などに遭ったりすれば、ただちにこれを殺さんと欲す。いわゆる、その持衰の不謹慎が、災いを招いたということである。

出眞珠玉 其山有丹 其木有 (木冉) 杼 豫 樟 楺 櫪 投 橿 鳥 號 楓 香 其竹 篠簳 桃支有 薑 橘 椒 蘘荷 不知以爲滋味 有獮(獼?)猿 雉
 真珠や青玉を産出する。そこの山には丹(赤い結晶、丹砂。水銀の原料、顔料、薬の材料)がある。木は(木冉)、杼(どんぐり)、豫(とち、くぬぎ)、樟(くすのき)、楺(弾力のある木)、櫪(くぬぎ)、 投橿(もちの木)、 鳥號(うごう。中国黄帝の弓の名、クワ科のやまぐわ)、楓香(ふうか。かえでの一種)。 竹は、篠(しの竹)簳(矢竹)桃支有り。薑(ショウガ)、 橘(タチバナ)、 椒(サンショ)、 蘘荷(ミョウガ)の滋味なることを知らず。かり(獮?)をする猿や、黒い雉がいる。

其俗擧事行來 有所云爲 輒灼骨而ト似占吉凶先告所ト 其辭如令龜法火拆占兆
 行來の事を起こすとき、することあり、その風習は、まずうらなう所を告げ、そのたびごとに骨を焼いて、吉凶を占う。その辭は、割れ目を見て兆しをうらなう、令龜法のようだ。

其曾同坐起父子男女無別 人性嗜酒 見大人所敬 但搏手以當跪拜
 倭人の会合、坐起には、父子、男女の区別がない。人性は酒を嗜む。大人に敬意をあらわすときは、ただ手を打って膝を着き、身を屈めて拝むだけである。
其人壽考 或百年 或八九十年 其俗國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫 不妒忌 不盗竊 少諍訟 其犯法 輕者沒其妻子 重者減其門戸及宗族 尊卑各有差序 足相臣服收租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
 そこの人々は長命。あるいは百年(50年)、あるいは八、九十年(40、45年)。この国の風習は、大人は皆、四、五人の婦人、下戸(庶民)は二、三人の婦人である。婦人は淫乱ではなく、嫉妬もしない。窃盗をせず、訴訟は少ない。その法を犯せば、軽い者は妻子の没収、重い者はその一門と宗族を滅ぼす。尊卑は、各々に差別や序列があり、互いに臣服し争いはなく、租賦を収めている米倉がある。國國には市があり、双方の有無とする物を交易する。大倭を使い、交易を監視している。
注・真冬と真夏は農閑期。現在の1年を2年としたのではないか。

自女王國以北 特置一大率 儉察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 
 女王国より以北は、特別に一大率を置き、諸国を検察している。諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国が常に治めている。國中に於いてあり、中国の州の刺吏のようだ。

王遣使詣京都 帯方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傅送文書賜遣之物詣女王 不得差錯
 王が使者を京都(洛陽)や帯方郡、諸韓国に派遣したり、帯方郡からの使が倭に来たばあい、皆船着場に臨み露にし、漏れがないか捜してから、文書や賜遣の物を、伝え送りし、女王に詣るので、間違いがない。

下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傅辭説事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾
 下戸が大人と道路で会えば、退いて草群に入る。言葉で伝える説明事は、うずくまるか、膝まづき、兩手を地に着けて敬意を表す。応答する声は噫(い、あい、え)と言い、これが承諾の意味のようだ。

其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐暦年及共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國 自爲王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傅辭出入 居處宮室樓觀城柵嚴設 常有人持平守衞
 その国、本は男性を王としたが、とどまること七、八十年で倭国は亂れ、互いの攻伐が何年も続いたため、一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼という。鬼道を生業とし、上手に国民をあやつり統率する。年齢は既に高齢で夫はなく、弟が国の政治を助けた。王に就いて以来、まみえたものは少ない。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の男性が食事を給仕し、伝辞の時出入する。居住する宮殿や楼観城柵は、厳重に設けられ、常に武器を持った守衛有り。
注・「鬼道」当時の中国は儒教。反儒教の意味か。神託をうかがい、告げる者(巫女。神子)か。

女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其有東南 船行一年可至
 女王国の東、海を渡ること千余里、また国有り。皆倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺。女王国から去ること四千余里、また、裸国、歯国、在り。また在り、その東南、船行一年(半年)で至る可し。
注・真冬と真夏は農閑期。現在の1年を2年としたのではないか。

參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
 倭の地に参り訪ねてみると、海に取り囲まれた島、中央の上に在り、隔絶あるいは連結し、倭の地は周旋五千余里ばかり。

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣都 求詣天子朝獻 太守劉夏遣使將送詣京都
 景初二年(西暦二三八年)六月、倭女王大夫難升米等を都に派遣する。郡に来て、中国の皇帝に貢物をしたいと申し出た。そこで、太守の劉夏は、役人に命じて彼を都(洛陽)に送らせた。

 其年十二月 詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王卑彌呼 帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所獻男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝
 その年の十二月、魏の帝、倭の女王に詔書して報じて曰。
「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方太守劉夏が使いを遣わし、汝の大夫難升米と次官都市牛利を送り、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を献上しに到った。汝の国は遥か遠くにも関わらず、使いを遣わし朝貢したのは、汝のわれに対する忠孝の現れで、我、甚だ汝をいとおしむ」

今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 装封付帯方太守假授汝 其綏撫種人 勉爲考順 汝來使難升米 牛利渉遠 道路勤勞 今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印綬 引見勞賜遣還 
 今、汝を親魏倭王と爲し、金印・紫綬を与える。装封して帯方太守に託して、汝に授ける。それを証拠とし、倭国の人を安心させ、努めて孝順をなせ。汝の使者の難升米と都市牛利は遠きを渡り、旅に苦労した。難升米には率善(そつぜん)中郎将を、牛利には率善校尉という位を与え、銀印綬(青い組みひも)も与える。二人を引見し、慰労してから、記念品を与え帰国させる。

今以地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文綿三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 眞珠 鉛丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
 そこで、赤いつむぎの布、二頭の竜を配した絹織物を五匹、赤いちぢみ毛の織物を十張、茜色のつむぎを五十匹、紺青の織物を五十匹を与えて、汝がもたらした貢ぎ物の返礼とする。また特に汝には、紺地の模様のついた綿を三匹、斑模様の毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹それぞれ五十斤を与える。みな封緘をして、難升米、牛利に託す。帰国したら、録を受けよ。すべての録を国中の人に展示し、国家(魏国)が汝を大事にしていることを知らせよ。そのために、汝に鄭重に、好物を与えたのだ」
注・魏王の法外な喜びと法外な下賜の品である。原文、景初二年は間違いではない。

正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王 井齎詔賜金 帛 綿罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝恩詔
 正始(せいし)元年(二四〇年)、太守の弓遵は、建中校尉の梯儁らを派遣。詔書、印綬を奉じて倭国を詣で。そこで倭王に位を授け、あわせて皇帝の詔書をもたらし、金、しろぎぬ、絹織物や毛織物、刀、鏡などの贈り物を与えた。倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼をした。

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭綿 絳縑 緜衣 帛布 丹 木(犭付) 短弓 矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
 その四年(二四三年)倭王は、また大夫の伊声耆、掖邪狗など八人をつかわし、奴隷、絹織物、深紅と青の色調の薄絹、綿いれ、しろぎぬ、丹、弓の柄、短弓の矢などを献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を拝受した。

其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
 その六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に託して、これを授けさせた。

其八年 太守王到官 
同八年(247年)、帯方郡の太守王頎(おうき)があらたに任官された。

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斬 烏越等詣郡説相攻撃(爿犬) 遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢 拜假難升米爲檄告喩之
 倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は、もともと不和。倭国は載斯、烏越らを派遣して、帯方郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。郡は、砦の曹幢史(そうとうし)の張政らを倭へ派遣、皇帝の詔書と黄幢を与え、このかりた力を難升米がおふれにし、告げさとし、これを拝んだ。

卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喩壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 大狗珠二枚 異文雜綿二十匹
 この時卑彌呼は既に死去しており、立派な盛り土の墓を作る。「径(直径)は百余歩「1里(60m)/300が一歩。0,2m×百余=20数m。漢字源」、殉葬するは百余人。あらためて男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人殺した。再び卑彌呼の宗女(卑弥呼と同じ血筋)十三歳の「壹與」を立てる。国中が遂に定まった。張政らは前の回状を使って、壹與を励ました。壹(イツ、イチ、イシ)與(ヨ)は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を派遣し、張政らを送り届けながら、臺(ダイ、タイ、イ。皇帝の居場所)に詣でて、男女生口三十人、白珠五千、大玉の青メノウ二枚、異国の模様のある絹織物二十匹を獻上した。完
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