ヨーロッパの歴史と経済-中世/初期その2
◆中世初期(10世紀~)
・ムラディのバヌー=カシ家討伐/イスラム教徒の排除
901年、アルフォンソ3世はメリダ領主と共にクーデターを起こし、バラゲー地域を支配していたムラディのバヌー=カシ家を倒し、エブロ川沿いのトゥデラに住んでいたイスラム教徒を排除した。
・最後の西ローマ皇帝/ベレンガーリオ1世
901年、ローマ皇帝アルヌルフの死去により、プロヴァンス王ルイ3世が教皇ベネディクトゥス4世から皇帝に戴冠をされた。翌年、ベレンガーリオ1世はマジャール人の傭兵を率いて新皇帝ルイ3世と激突して勝利を治め、ルイ3世をプロヴァンスに追い返した。05年、再び両者は戦い、ルイ3世はヴェローナに幽閉された。915年、教皇ヨハネス10世よりベレンガーリオ1世は最後の西ローマ皇帝に即位した。
【イスラムの三カリフ時代】
・ファーティマ朝(909 - 1171)/アフリカの覇権
905年、アッバース朝からトゥールーン朝が独立してエジプト及びシリアを支配したが、再びシーア派の騒乱を機に、アッバース朝に討たれた。09年、アッバース朝を宗主国としてチュニジア・シチリア島を支配していたアグラブ朝がイスマーイール派のファーティマ朝に滅ぼされた。910年には、ファーティマ朝のウバイドゥッラーが自らをカリフと名乗ると、929年には後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世もカリフと名乗り、アッバース朝・後ウマイヤ朝・ファーティマ朝がアフリカ覇権を巡る三カリフ時代が到来する。
・ルーシ・ビザンツ条約(907-911)
キエフ大公オレグはビザンツ帝国のコンスタンティノポリスを襲撃してルーシ・ビザンツ条約を結ばさせ、ルーシ商人をコンスタンティノポリスに移住させるのに成功させ、キエフ・ルーシを繁栄させた。
【修道院改革運動】
910年、フランスのブルゴーニュ地方に教皇以外の一切の権力の影響を受けない自由修道院、つまりクリュニー修道院が建てられると、教会・修道院の堕落に対して本来の信仰主体の回復を目指す修道院改革運動が始まった。ベネディクトゥスの修道精神に厳格に従うことで、西ヨーロッパに広く影響を与えて行った。
・レオン王国・ガリシア王国・アストゥリアス王国←アストゥリアス王国の三分裂
910年、アストゥリアス王アルフォンソ3世は息子ガルシアの反乱した為、ガルシアを捉えると、嫁のヌノがヒメナ、フルエーラ、オルドーニョに支持されて反乱を引き起こし、ガルシアを釈放させた。その後、アルフォンソ3世はサモラで隠居した。
その後、アストゥリアス王国はレオン王国、ガリシア王国、アストゥリアス王国に三分割された。
・西フランク領ノルマンディー公国の誕生
911年、シャルル3世はノルマン人の長ロロと条約を結び、フランス北部のノルマンディー地方にノルマンディー公国を建国させた。
・ブルガリア皇帝の誕生
913年、ビザンツ帝国アレクサンドロスが貢納金を断ると、再びシメオン1世がビザンツ帝国を攻撃し、貢納金を払わせ、コンスタンディヌーポリ総主教ニコラオスから皇帝として戴冠された。やがて、それを取り消す姿勢をビザンツ帝国が見せると、イスラムのファーティマ朝と手を組んだが、927年にシメオン1世が死去すると、急に弱体して行った。
・レオン王国の併合/ガリシア王国
914年、レオン王ガルシア1世が死去すると、ガリシア王オルドーニョ2世はレオン王国を併合し、首都をレオンに移した。その後、オルドーニョ2世はイスラムのメリダやエヴォラを略奪し、地元のイスラム教徒総督に購入するよう強要した。また、パンプローナ王サンチョ1世と同盟を結び、コルドバの太守アブド・アッラフマーン3世と対抗した。17年のサン・エステバン・デ・ゴルマスの戦いでイスラム軍を破り、18年にはバヌ・カシー家からアルネードとカラオーラを奪った。
【ドイツ王国/神聖ローマ帝国時代へ】
・東フランク→ドイツ王国
919年、非フランク人のハインリヒ1世が東フランク王に即位する事で、東フランク王国はドイツ王国に変わって行った。就任当初、バイエルン公アルヌルフが対立王に選ばれたが、2年後には降参させた。また、西フランク王シャルルのも東フランク王である事認めさせた。
・バルデフンケーラの戦い/パンプローナ王国の敗北
920年、後ウマイヤ朝のアブド・アル・ラフマーン3世はオスマとサン・エステバン・デ・ゴルマス奪還に乗り出し、バルデフンケーラの戦いでパンプローナのキリスト教徒軍を破り、トゥイとサラマンカの司教を逮捕した。
・カスティーリャの伯爵の殺害/
920年、パンプローナ王サンチョ1世の要請によりレオン王オルドーニョ2世は、直に後ウマイヤ軍に反撃を開始し、ラ・リオハを占領、ナバーラにナヘラとビゲーラを併合した。その後、キリスト教徒軍の敗北を招いたカスティーリャの伯爵たちを殺害と、カスティーリャ貴族と対立する様に成った。
・西フランク/ロベール朝の誕生
922年、パリ伯ロベールのクーデターにより、シャルル3世は廃位され、ロレーヌへ逃れた。その後、ロベールが、西フランク王として戴冠した。
23年、再びロベールは廃王シャルルとソワソンの近くで交戦して勝利するが、自身は戦死してしまった。その後、廃王シャルルは娘婿のラウールと、ロベールの息子ユーグ大公に捉えられて幽閉された。
同年7月にラウールが西フランク王に即位した。その後、ロワール川から侵入するヴァイキングを退けた。
925年、ロートリンゲンをドイツ王ハインリヒ1世に奪われ、ドイツ領はフランケン、ザクセン、シュヴァーベン、バイエルン、ロートリンゲンになった。
936年、ラウールが病死した為、ユーグ大公はカロリング朝ルイ4世を即位させた。
・イタリアの諸家対立王時代
922年、イヴレーア辺境伯がブルグント王ルドルフ2世をイタリア王に即位させ、皇帝ベレンガーリオ1世からイタリア王の位を奪った。その後、ベレンガーリオ1世は報復の為、ルドルフ2世がブルグントに帰還した時を狙って、ハンガリー人傭兵軍を派遣し、パヴィアを占領した。
しかし、ハンガリー人傭兵が虐殺を行なった為、24年にベレンガーリオ1世が暗殺され、ローマ皇帝も空位に成った。その後、ルドルフ2世もイタリア貴族から嫌われ、プロヴァンス公ユーグ・ダルル(ウーゴ)をイタリア王に立てて挙兵する。
26年、ルドルフ2世はイタリアから撤退し、ウーゴがイタリア王に即位した。しかし、イタリア王の象徴である聖槍はドイツ王ハインリヒ1世に渡された。
28年、プロヴァンス王ルイ3世が死去すると、ウーゴはプロヴァンスの実権を握った。31年には、息子ロターリオ2世をイタリア王に即位させた。32年、ウーゴは異父弟トスカーナ辺境伯グイードの未亡人マロツィアと結婚式を挙げると、その最中にアルベリーコ2世のクーデターが起こった。その為、33年に、ルドルフ2世と同盟を結び、プロヴァンスのヴィエンヌとリヨネーを譲る代わりに、イタリアのすべての権限を放棄させた。
・アストゥリアス王国の併合/レオン王国の再分配
924年にオルドーニョ2世が死去すると、弟のアストゥリアス王フルエーラ2世がレオン王に即位し、アストゥリアス王国を併合した。翌年、ハンセン病に罹患して数日で急逝した為、フルエーラ2世の長男のアルフォンソが即位すると、後継者争いが勃発し、オルドーニョ2世の三人の息子たちはパンプローナ王ヒメノの力を借りてアルフォンソ・フロイラスをアストゥリアス東部の辺境へ退け、残った領土を3兄弟で分割した。
・ドイツの領地拡大/バイキング退治
926年、ハインリヒ1世は貢納金の支払を約束して、マジャール人と9年間の休戦協定を結ぶことに成功した。その間、エルベ川を越えてたマイセンに要塞を築き、ボヘミア公ヴァーツラフ1世にドイツの宗主権を認めさせた。33年、ドイツの全部族連合軍を率いてマジャール人をドイツから追いやった。翌年にはデンマークのバイキングを退治した。内政面では分割相続を禁止して単独相続に切り替えた。36年、ハインリヒ1世が死去し、オットーがドイツ王に即位するが、母親の反対によって兄弟で争うように成った。38年、異母兄タンクマールや弟のハインリヒが反旗を翻し、窮地に立たされるが、シュヴァーベン大公ヘルマン1世に救われた。
・イングランド王国の建国(927-1707)
アングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンのイングランド全土統一
・ズィヤール朝(928-1043)の建国
928年、サーマーン朝がカスピ海の南岸に興ったザイド派のアリー朝を滅ぼすと、サーマーン朝に仕えていたマルダーウィージュがこの地域にズィヤール朝を建国し、イラン高原のゴルガーン、タバリスターン地方、カスピ海沿岸のギーラーン地方、アルボルズ山脈南麓のレイやクーミス地方を支配した。
・アルフォンソ4世の反乱
932年、ガリシア王国とレオン王国の統治をアルフォンソ4世から託されたラミロ2世は後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世軍に包囲されているトレド救出に挙兵すると、アルフォンソ4世が復位を企んで反乱を起こすが、カスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレス、パンプローナ王サンチョ1世の協力を得て兄アルフォンソ4世を捕まえてルイフォルコ修道院に幽閉した。その後、マドリードに進撃して後ウマイヤ朝を破った。
【イスラムの二重構造の始まり、カリフ:宗教的権威、アミール:世俗的権威】
・ブワイフ朝(932 - 1062)の建国
932年、ズィヤール朝が内紛に陥るのを機に、イラン・イラク地方でイマード・ウッダウラがブワイフ朝を建国した。
・イフシード朝の建国(935-969)
935年、アッバース朝エジプト総督ムハンマドがアッバース朝から半独立してエジプトにイフシード朝を建国し、ファーティマ朝の侵攻からエジプトを守った。
・カロリング朝の復活/西フランク王国
936年、ユーグ大公はカロリング朝のルイ4世を西フランク王に即位させたが、統治権はランの街と北フランスしか与えなかった。39年、ロタリンギアを巡ってドイツ王オットーと争ったが、ルイ4世はオットーの妹と結婚した為、ロタリンギアはドイツ領に成った。この頃から、ユーグ大公との対立が始まった。
45年、ルイ4世はノルマン人と戦って捕らわれた時、ユーグ大公はピカルディ領地と交換に救い出した。
54年、ルイ4世が落馬して死去すると、ユーグ大公は息子のロテールが西フランク王に推薦し、代償にブルゴーニュとアキテーヌとを得た。そして、2年後にユーグも死去した。
・シマンカスの戦い/後ウマイヤ朝の大敗
939年、ラミロ2世はスペイン史上最大規模の戦闘であるシマンカスの戦いを繰り広げ、後ウマイヤ朝を大敗させ、ドゥエロ川とトルメス川の辺境にまで領土を広げた。レデスマ、サラマンカといった土地に再植民が行われた。
・イタリア王ウーゴの廃位/ベレンガーリオの即位
941年、アルベリーコのクーデターを機に、要職を親族や友人に分け与え続けたイタリア王ウーゴは、ベレンガーリオ伯からイヴレーアを取り上げ、ドイツへ追放した。その後、45年にドイツから帰還したベレンガーリオによってウーゴは廃位された為、
短い間ロターリオ2世が単独王と成るが、直にウーゴも王に復帰する。2年後、ウーゴは死去すると、950年にベレンガーリオはロターリオ2世を毒殺し、イタリア王に即位した。
・イスラムのシリア分割統治
942年、ハムダーン朝のハサンがアッバース朝を牛耳る大アミールのイブン・ラーイクを討つと、バクダットに入城すると、ハムダーン朝のが大アミールに任命されると、アッバース朝の政権を牛耳った。44年には、シリア地方に進軍してアレッポを占拠した後、イフシード朝と協定を結んでシリア地方を分割統治した。一方ではマケドニア朝東ローマ帝国の東アナトリア・北シリアへの攻勢が激化し、キリキア方面の北部領土を奪われた。
・カスティーリャ伯フェルナンの反乱/スペイン
944年、辺境地帯にレオン軍を駐留させるラミロ2世に不満を持ったフェルナンは反乱を起こし、カスティーリャ伯の称号を剥奪された。ラミロ2世は自身の子サンチョをカスティーリャ伯とし、重臣アンスル・フェルナンデスを摂政においた。
イラン高原でのイスラム覇権
・ブワイフ朝とハムダーン朝の覇権争い
945年、ブワイフ朝がハムダーン朝からアッバース朝の保護権を奪うと、大アミールの地位を世襲制にし、アッバース朝のカリフには何の権限も与えなく成った。これ以降、ハムダーン朝とブワイフ朝はバグダードの支配権とカリフの庇護権をめぐって激しく争ったが、ハムダーン朝はブワイフ朝に圧迫されて勢力を失っていった。
※ブワイフ朝がアッバース朝の権力を握ると税制がアター制からイクター制に!
・アデライーデの救出/ドイツのイタリア介入
950年、イタリア王ベレンガーリオはアダルベルト2世との結婚を拒んだ未亡人アデライデを幽閉しすると、ドイツ王オットーの息子リウドルフがアデライーデ救出にイタリア遠征を行なった。しかし、父オットーに無断で行なった為、オットーは激怒し、弟ハインリヒと婿コンラート赤公の大軍を率いてイタリアへ向かい、アデライーデを救い出した。
・イタリア総督/息子リウドルフの乱
51年、オットーはアデライーデを後妻してイタリア王を名乗り、ベレンガーリオをイタリア総督に任命した。52年にはアデライーデがオット2世を産むと、翌年にはリウドルフの乱が勃発し、オットーは窮地に立たされるが、非キリスト教徒であったマジャル人たちが攻め込んで来た為、リウドルフに味方する貴族がいなく成り、父オットーに降参した。
・ユーグ大公の死/西フランク王国
956年、ユーグ大公が没し、幼い息子のユーグ・カペーがフランク公位に即いた為、ロテールの叔父でケルン大司教のブルーノが西フランク王国の摂政役を務めた。また、ブルゴーニュ公の死去に伴い、後継者問題でカペーと西フランク王ロテールが対立した。
・サンチョ1世の廃位とレオン王位回復/レオン王国
951年、王位継承権を巡って異母兄オルドーニョ3世とサンチョ1世が対立するが、56年にオルドーニョ3世の急死によってサンチョ1世が即位した。2年後、サンチョ1世は肥満を理由にフェルナン・ゴンサレス率いるレオン貴族・カスティーリャ貴族によって退位させられ、新たにオルドーニョ4世が即位した。その後、サンチョは後ウマイヤ朝カリフ、アブド・アッラフマーン3世と取引し、ドゥエロ川両岸地域を与える代わりにレオン王位回復の支援を受けた。
960年、ナバーラとイスラームの連合軍はサモーラ・レオンを占領し、サンチョは王として復位した。オルドーニョ4世はアストゥリアスへ逃亡した。やがて、カスティーリャ貴族やガリシア貴族の独立運動が高まり、サンチョ1世は毒殺された。
・オットーの戴冠/神聖ローマ帝国(962-1806)の誕生/
オットーは聖職者による統治政策を始める為、ロートリンゲン公をコンラート赤公から弟のケルン大司教ブルーノを変えると、マクデブルクに大聖堂を建立し、そこを拠点に東方へ進出した。55年、レヒフェルトの戦いでマジャル人をパルテノン高原に追いやると、ヨーロッパ中から賞賛される。
960年、ベレンガーリオ親子がローマ教皇ヨハネス12世を攻撃した。翌年、オットー1世は7才の我が子を共同統治者に任命すると、二回目のイタリア遠征を行い、ベレンガーリオ親子を討伐した。962年、オットー1世はローマ教皇ヨハネス12世によって戴冠を受け、神聖ローマ帝国を築いた。67年、オットー2世を共同皇帝に任命し、72年には東ローマ帝国の皇女テオファヌと結婚させた。73年、オットー1世が死去する。
・カラハン朝のカシュガル遠征
960年、イスラム教に改宗したカラハン朝はホータン王国を攻撃し、カシュガルを奪い取って首都にした。69年、ホータン王国は天山ウイグル王国、吐蕃と同盟を結び、カシュガルを奪還した。
・トルコ系ガズナ朝(955?/77-1187)の建国
962年、サーマーン朝アブド・アル=マリク1世が死去すると、弟マンスール1世が新たなアミールに即位した。その為、弟マンスール1世の即位に反対していたホラーサーン総督アルプテギーンが総督職を解任された。その後、アルプテギーンはアフガニスタンのバルフでサーマーン朝と戦いで勝利を収め、更にガズナ(ガズニー)を占領すると、ガズナ朝を立ててサーマーン朝から独立すると、翌年に無くなった。
・ブロワ伯の反乱/西フランク王国
962年、ノルマンディー公国のルーアンにブロワ伯ティボー1世が侵入すると、西フランク王ロテールは必死になって介入した為、ノルマンディー公の報復は避けられた。65年、叔父のブルーノが死去する。
・スヴャトスラフの戦い/キエフ大公国
965年、キエフ大公国のスヴャトスラフ1世はハザール・カン国を滅ぼし、71年には第一次ブルガリア帝国を壊滅させ、ビザンツ帝国に進軍する。スヴャトスラフの戦いでビザンツ帝国に大敗した。
・レオン王国と後ウマイヤ朝に依るバイキング退治
968年、レオン王ラミロ3世はカリフ・ハカム2世との和平を批准し、ガリシア貴族ロセンドを副官に命じてスペイン北西部のガリシアに上陸したヴァイキングを退治した。
・ファーティマ朝のエジプト遠征/イフシード朝の滅亡
969年、エジプトを支配するイフシード朝の黒人宦官カーフールが死んでしまうと、内部崩壊が始まった。その結果、ファーティマ朝のエジプト遠征を招いてイフシード朝は滅亡し、ハムダーン朝はファーティマ朝の庇護を受けるように成った。
・ビザンツ帝国のファーティマ朝討伐
971年、キエフ大公国を破ったビザンツ帝国は第一次ブルガリア帝国を滅ぼすと、神聖ローマ皇帝オットー2世に姪テオファヌを嫁がせて神聖ローマ帝国と和平を結ぶと、イスラムのファーティマ朝討伐軍を派遣し、75年にはパレスチナまで占領したが、ビザンツ皇帝ヨハネス1世の死去によって帰還した。
・後ウマイヤ朝のアフリカ遠征/サン・エステバン・デ・ゴルマスの戦い
973年、将軍のガーリブに軍を預けて、ファーティマ朝の領土であったマグリブを奪取した。75年に後ウマイヤ朝はサン・エステバン・デ・ゴルマス城を攻略すると、レオン王ラミロ3世は危機的状況に成った。
・後ウマイヤ朝のレオン襲撃(976-781)
976年、後ウマイヤ朝のカリフにヒシャーム2世が即位すると、レオン王国への襲撃が激しく成り、サモーラ、ルエダ、アティエンサ、セプルヘダがイスラム教徒の手に落ちた。
・神聖ローマと西フランク王国の領土争い
977年、ロレーヌを巡って神聖ローマ皇帝オットー2世と戦い、80年には西フランク王ロテールはロレーヌを放棄した。
・インドのイスラム化/ガズナ朝
977年、サブク・ティギーンがガズナの元領主ラウイークが反乱を鎮圧し、ガズナ朝の君主に成ると、インドのパンジャーブ地方に侵入し、ラージプートを中心とするインド諸王の連合軍を撃破し、パキスタンのペシャーワルを占領した。
・ブワイフ朝の全盛期
978年、ブワイフ朝のムイッズ・ウッダウラが死去すると、イラク政権が混乱したため、ファールス政権とイラク政権が統一され、ブワイフ朝が全盛期を迎え、西アジアを支配したが、やがて、テュルク系のマムルークたちに牛耳られ、ブワイフ朝はほとんど形骸化していた。
・ベルベル人のイスラム国家/ズィール朝の誕生(983 - 1148)
978年、ファーティマ朝が首都をチュニジアからエジプトに移す時に、チュニジア(イフリーキヤ)以西のマグリブの統治をベルベル人のズィーリーに委ねると、ズィーリーはズィール朝を開き、宗主国・ファーティマ朝の力を借りてトリポリタニア・リビアを支配した。更に西マグリブ遠征により、ファスとシジルマーサを占領した。
・レオン王国の分裂→ガリシア&レオン
982年、相次ぐイスラムの攻撃に対してガリシア貴族とポルトガル貴族はレオン王ラミロ3世に不満を募らせ、ガリシアで従兄弟のベルムード2世がガリシア王に即位した為、レオンはガリシア王国とレオンに分かれた。翌年にはガリシア、アンタス・デ・ウリャ近郊でラミロ3世とベルムード2世は激突し、ベルムード2世はガリシアに残り、ラミロ3世はレオンでイスラム軍と戦っていたが、85年に死去した為、レオンの王位はベルムード2世に渡った。
【西ヨーロッパの封建時代の幕開け】
・フランス王国の誕生
986年、ロテールが死去し、ルイ5世が西フランク王に即位するが、987年には不慮の死を遂げた。同年、ユーグ・カペーがランス大司教アダルベロンよって戴冠され、西フランク王に成ったことでカペー朝フランス王国が誕生した。暮には、息子のロベールを共同統治者に定めた。しかし、カペー朝は国王の権力基盤が非常に弱く、パリ周辺だけで、大半は伯と呼ばれる諸侯と、イングランド王のノルマンディー公に支配していた。
・西ブルガリア帝(989-1014)の建国
ビザンツ皇帝ヨハネス1世が死去し、ビザンツ帝国は混乱に陥った為、ボリス2世の弟ロマン1世の共同統治者としてサムイルは皇帝を称し、オフリダを首都して勢力を拡大し、バルカン半島の西北部やギリシャのラリサを占領した。89年のトラヤヌスの門の戦いで東ローマのバシレイオス2世軍に勝利し、西ブルガリア帝国を建国した。
・サーマーン朝の滅亡(-999)/カラハン朝の南下
980年、カラハン朝の南下に伴い、サーマーン朝は北アラル海に注ぐシルダリヤ川流域を占領された。その後、ホラーサーン総督とヘラート知事の裏切りに遭い、サマルカンドと首都ブハラを占領された。92年、カラハン朝の君主が急病でカシュガルに帰還した為、首都ブハラに帰還したサーマーン朝のヌーフ2世はガズナ朝のサブク・ティギーンに援助を求めてイラン東部のホラーサーンを回復させたが、再びサーマーン朝とガズナ朝は対立し始めた。
やがて、サーマーン朝の臣従国のガズナ朝とカラハン朝が同盟を結んだ。97年、サーマーン朝のマンスール2世が新たなアミールに即位すると、カラハン朝はマー・ワラー・アンナフルを侵食し始め、アフガンのガズニーを首都するガズナ朝はイランのホラーサーンを占領した。
999年、マンスール2世が家臣に暗殺されると、幼少のマリク2世が即位したため、カラハン朝のイリク・ハンがマリク2世の保護を名目にサーマーン朝の首都ブハラに進軍し、サーマーン朝を滅ぼした。
・後ウマイヤ朝のレオン征服
987年、レオン王ベルムードは後ウマイヤ朝からサモーラを奪還したが、カスティーリャ伯領が不安定であった為にイスラム軍を排除しきれず、逆に後ウマイヤ朝のアルマンソール将軍の報復を受けた。イスラム軍が、ポルトガルのコインブラを落し、レオンに進むと、ベルムード2世はサモーラへ逃げた。その為、997年までにはレオン・アストルガ・サンティアゴが襲われ、ベルムード2世は999年に死去した。
・ナバラ王国(パンプローナ王国)のキリスト諸国支配
サンチョ3世(1000-1035)はカスティーリャ伯領の女子相続人ムニアドナと結婚し、イベリア半島のキリスト教圏の大部分を支配し、その勢力圏は最大に達した。その後王国はレオン王国に属していたピスエルガ及びセアを制圧し、カスティーリャを得て、ガリシア国境からバルセロナまでの間を支配した。
・ハムダーン朝(-1004)の消滅
1004年、ハムダーン朝のモースル政権がブワイフ朝に倒された後、アレッポ政権がハムダーン朝を支えていたが、ファーティマ朝に吸収され、王家は断絶した。
・タムリ盆地のイスラム支配/カラハン朝
1006年、ウイグルのカラハン朝は、ガズナ朝のインド遠征に伴ってホラーサーンを支配し、一方でタムリ盆地のカシュガルに拠点を移し、ホータン王国を滅亡させた。17年には同じ民族でマニ教国家である天山ウイグル王国を攻略し、トルファンまで進軍した。これより、タムリ盆地のオアシス国家はイスラム勢力下に置かれた。
・ガズナ朝とカラハン朝の対立
1008年、ガズナ朝マフムードはパキスタンのラホール県でアーナンダパーラやラージプートの軍団に勝利、シャーヒー王朝を制圧すると、カラハン朝に奪われたホラーサーン(現トルクメニスタン)を取り戻した。そして、1018年に北インドのプラティハーラ朝の首都カナウジを攻略した。それにより、プラティハーラ朝は他のヒンズー王朝に滅ぼされた。
・後ウマイヤ朝の反アーミル家革命(-1009)
1002年、アル・マンスールのムハンマドが死去し、次男のアブドゥル・マリクがハージブに成った。08年にアブドゥル・マリクが急死すると、ナバーラ王女アブダを母に持つ三男のサンチェロが権力を握り、カリフの様に振る舞い、ベルベル人を重用することにより、ウマイヤ家やコルトバ市民から反感を買った。09年、コルトバ市民は反アーミルを掲げ、アーミル家一族及びサンチェロを討ち、ヒシャーム2世を廃位し、ムハンマド2世をカリフにした。
・ベルベル族とコルトバ市民の対立/後ウマイヤ朝
その後、アーミル家のサカーリバたちはサラゴサやバレンシアに逃れて、小政権を樹立した。09年11月には、ベルベル族とカスティーリャの連合軍がスライマーンを擁立し、コルドバ市民軍を破って、スライマーンをカリフにした。しかし、10年には、サカーリバのワーディフとバルセローナ伯たちが、コルトバを襲撃すると、ベルベル族以外のコルトバ市民は受け入れるが、ベルベル族は挙兵した為、ワーディフはヒシャーム2世が復位させ、和解を試みたが失敗し、ベルベル族はアンダルス南部へ移動した。
・ランゴバルト系貴族による反乱/ノルマン・東ローマ戦争の勃発(1011-1185)
1009年、ランゴバルド人貴族メールスは南イタリアのバーリを独立国と宣言して東ローマ帝国に反旗を翻すと、東ローマ皇帝バシレイオス2世が討伐軍を派遣して011年に南イタリアを回復した。その後、再びメールスは援軍のノルマン人傭兵と共に東ローマ帝国軍が戦うが、018年のカンネーの戦いで東ローマ帝国に敗北をするが、その後もノルマン人はイタリアに住み着くように成った。
【第一次タイファ時代】
・ベルベル系の後ウマイヤ王朝の誕生/ターイファ
1010年、ベルベル族はコルトバを攻め、013年にコルトバ市民軍を降伏させ、スライマーンをカリフに復位させて、ベルベル王朝を築いて行った。その為、コルドバ北部や東海岸の諸地域はこれに従わず独立し、小国分立(ターイファ)の時代を迎えた。
・第一次ブルガリア帝国(西ブルガリア)の滅亡
1014年、西ブルガリアのサムイル帝はクレディオン峠の戦いで東ローマに敗北して戦死したため、018年、ブルガリアは東ローマ皇帝バシレイオス2世によって完全に併合し尽くされ、第一次ブルガリア帝国は滅亡した。
・ハンマード朝(1015 - 1152)の建国/ベルベルのイスラム国家
1015年、ズィール朝の王族のハンマードはアルジェリアを支配すると、ズィール朝から独立してハンマード朝を築き、シーア派のファーティマ朝と断交してスンナ派のアッバース朝をカリフとして承認した。
・北海帝国の誕生(1016-1035)/イングランドのデーン朝(1016-1042)
1016年、イングランド王国のエドマンド2世は、エセックスのアッサンダンの戦いでデンマーク人のクヌートに敗北し、テムズ川の北部をクヌートに譲る事で和解するが、エドマンド2世が急死した事でクヌートがイングランド王に即位してデーン朝を築くと、次にデンマーク王位とノルウェー王位も手に入れ、北海帝国を樹立しが、クヌートの死と共に北海帝国は崩壊した。その後、イングランド王位を巡って息子のハーデクヌーズとノルウェー王マグヌス1世が争っているうち、兄のハロルドがイングランド王に即位するが、継承問題は治まらず、7年後には再びウェセックス朝がイングランドを支配した。
・カラハン朝の東西分裂
1025年、ガズナ朝がマー・ワラー・アンナフル(ウズベクスタン)の侵入を開始すると、カラハン朝は次第に東西に分裂した。1032年、カラハン朝の君主の子であるアリーがサマルカンドを首都としてマー・ワラー・アンナフルの西部に西カラハン朝を建国すると、1041年にカシュガルの支配者ユースフがキルギス、ウズベキスタン、タジキスタンに股がるフェルガナ盆地に東カラハン朝を建国した。その後、ユースフが没すると、055年にはキルギスのタラス領主ムハンマド1世によってカシュガルを支配された。
・ズィール朝のアドリア海遠征(1026-1035)
1026年、ズィール朝は東ローマ帝国のアドリア海岸、エーゲ海岸を襲撃し始め、035年まで続けた。
・後ウマイヤ朝の滅亡(-1031)
ベルベル系のハンムード家出身者が相次いでカリフに成ったが、ムハンマド3世の時、ベルベル系ハムード朝軍がコルトバに攻めてくると、ムハンマド3世はサラゴサへ逃亡した為、家臣に殺された。その後、ウマイヤ家のヒシャーム3世がカリフに成るが、直にハンムード家によりコルドバを追放され、1031年に後ウマイヤ朝は名実共に滅んだ。その後、イスラム勢力はタイファと呼ばれる小国が乱立した。
・ナバラ王国の分割統治
1035年、サンチョ3世が死去すると、息子たちにナバラ王国は分割統治され、ナバラ、カスティーリャ、アラゴンに分かれた。
・カスティーリャ=レオン王国
1037年、カスティーリャを相続した次男フェルナンド1世はカスティーリャ王を称し、さらにレオン王ベルムート3世を倒してレオン王位をも獲得し、カスティーリャ=レオン王国を築いた。
・イスラムのセルジューク朝の誕生(1038 - 1308)
1038年、トゥーラーンに定住していたセルジュークの子孫たちは、進軍して来たカラハン朝に追われ、ニーシャプールの支配者に迎え入れられ、セルジューク朝を建国した。040年、セルジューク朝トゥグリル・ベグ兄弟らはダンダーナカーンの戦いでガズナ朝のホラーサーンを獲得し、042年にはアム川下流のホラズムを、050年にはイラン高原のイスファハーンを占領した。
・ムラービト朝(1040-1147)
1040年、イスラームのスンナを信仰したサンハージャ族たちがセネガル川にある島に城塞(ラバート)を築き、修道生活を始めた。056年頃から、ジハードを繰り返してモロッコ南部のオワシス都市シジルマサを確保すると、ムラービト朝を築いた。その後、061年からムラービト朝はモロッコ遠征とガーナ王国遠征に乗り出し、
・ズィヤール朝の滅亡/イラン
1043年、カスピ海南岸からイランのギーラーン州を支配し、中央アジアの三大イスラム国家の一つであるズィヤール朝がブワイフ朝との争い衰弱すると、ガズナ朝に吸収されて消滅した。
・第一次イタリア遠征
1046年、シルウェステル3世が教皇ベネディクトゥス9世を教皇座を簒奪し、再び教皇ベネディクトゥス9世が教皇座を取り戻すと、それをグレゴリウス6世に売却した為、ドイツ王ハインリヒ3世はイタリア遠征を敢行し、スートリ教会会議において、3人の教皇を罷免し、バンベルク司教のスイトガーを擁立して教皇クレメンス2世を誕生させると、ハインリヒ3世は戴冠して神聖ローマ皇帝に即位した。
・ケルマーンのセルジューク朝(1048 - 1187)
大セルジューク朝の初代スルタン、トゥグリル・ベグの兄弟チャグリー・ベグの長男カーヴルト・ベグがイランの東南部にあたるケルマーン地方を占領して政権を樹立した。051年にはペルシア湾の要衝ホルムズ海峡を抑え、対岸のオマーンまで窺った。
・キリスト教会の東西分裂
1054年、ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教が完全に互いを破門して分裂した。和解は900年後であった。
・第二次イタリア遠征
1054年、前年ローマ教皇レオ9世がノルマン人との戦争で囚われ獄死すると、皇帝ハインリヒ3世はアイヒシュテット司教ゲープハルトをローマ教皇ウィクトル2世に即位さた。055年、ハインリヒ3世は再びイタリア遠征を行い、教皇領の譲渡を禁止し、司教にシモニア(聖職売買)と妻帯の有無の申告をさせ、バルセロナ伯ラモン・バランゲー1世とアルモディス・ド・ラ・マルシュを不貞の罪で破門した。これより、教皇権強化が図られた。
【セルジューク・東ローマ戦争】
・ブワイフ朝の滅亡
1055年、バグダードの支配権を握ったセルジューク朝に奪われ、062年にはトルコ系のマムルークたちに牛耳られ、ブワイフ朝は滅んだ。
・ノルマン人の南イタリア攻略
1057年、フランスのノルマンディー地方から兄弟と共にイタリアにやってきたノルマン人の騎士ロベルト・イル・グイスカルドは東ローマ帝国領だった南イタリアを占領した。
・カンパーニャの戦い/教皇抗争
1058年、選挙せずベネディクトゥス10世がローマ教皇に成ると、イルデブランらがニコラウス2世を対立教皇に擁立し、ベネディクトゥス10世への対抗を表明した。その後、ニコラウス2世派はノルマン人の援助を得ると、059年のカンパーニャの戦いに勝利し、ベネディクトゥス10世を廃位し、サンタニェーゼ修道院に幽閉した。ロベルト・イル・グイスカルドにアプーリア、カラブリア、シチリアの公爵位を、カプアのリチャード1世にカプア公国を、教会の擁護の誓約と引き換えに厳かに与えた。
・教皇選挙法の制定
1059年、クリュニー修道院出身の改革派は教皇選挙法を定め、教皇は直属の諮問機関である枢機卿会議で選出されるべきものとして、俗権の介入を排除した。
・カスティーリャ=レオン王国の遺産分割/再統一
1065年、フェルナンド1世が死亡すると、カスティーリャ=レオン王国は遺産分割が起こり、再びサンチョ2世に依るカスティーリャ=レオン王国の統一がなされる。
・ヘイスティングズの戦い/ノルマン朝の建国
1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世とイングランド王ハロルド2世との間で戦争が勃発し、ギヨーム2世はヘイスティングズの戦いで勝利すると、ロンドンにノルマン朝を樹立し、王権が強力な独自の封建制を作って行った。同年12月には、ギヨーム2世はウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。1086年には自分への忠誠を誓わせる「ソールズベリーの宣誓」を実施した。
・フランドル(フランダース)へ征行/フランス王国
1070年、母アンヌを摂政としたフィリップ1世のフランス軍はフランダース遠征を行なった。
・マラズギルトの戦い-セルジューク朝VS東ローマ帝国
1071年、アッバス朝のスルタンと成ったセルジューク朝は、マラズギルトの戦いでビザンツ帝国を破った。ビザンツ帝国の軍事的影響力が弱まったアナトリアではトゥルクマーン系遊牧民の進出が始まった。
・ノルマン・シチリア王国の建国
1071年、ルッジェーロ1世はシチリア全島を占領し、シチリア王国を建てた。この功によりルッジェーロ1世は兄・ロベルトからシチリア伯位を与えられた。
・ザクセン戦争
1073年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に対するザクセン公国の貴族達の反乱が勃発した。翌年、ザクセン軍はハインリヒ4世が逃げ込んだハルツ城を包囲すると、二者の間でゲルシュトゥンゲンの和平交渉が開けれ、ザクセン戦争は終結するが、075年には再びザクセン戦争が勃発し、ハインリヒ4世が勝利した。
・ルーム・セルジューク朝(1077-1308)の誕生
075年、セルジューク朝のマリク・シャーはアナトリア方面のトゥルクマーン統制のため、スライマーンを送り込むと、スライマーンは東ローマ帝国領であったイズニクまで占領した。更にシリア北部のアンティオキアまで征服すると、マリク・シャーと対立し始めた。1077年、スライマーンはセルジューク朝から独立し、ルーム・セルジューク朝を築いた。
・グレゴリウス改革(1073-1085)
教皇グレゴリウス7世によって行われたカトリック教会の改革。叙任権の世俗権力からの奪還と聖職者の綱紀粛正が改革の二本柱であった。
・叙任権闘争/神聖ローマ帝国
1076年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世によって破門される「カノッサの屈辱」が起きると、翌年には自らの政治的地位が危うくなることを恐れたハインリヒ4世はグレゴリウス7世に贖罪した(カノッサの屈辱)。その後、ハインリヒ4世は体制を立て直すと、グレゴリウス7世をローマから追いやった為、叙任権闘争が始まり、政教分離がなされるようになる。
・イングランドとフランスの和解
1077年、イングランド王兼ノルマンディー公ウィリアム1世(征服王)がブルターニュ征服を諦め、フィリップ1世と和解した。
・カスティーリャ王国の台頭
アルフォンソ6世が、再びカスティーリャ=レオン王国を統一すると、タイファに対して貢納を強要し、諸国間の争いに介入することで影響力を行使し、1085年にトレドで内紛が発生するとそれに乗じて都市を攻囲して征服した。
・ノルマン人のギリシャ遠征
1081年、南イタリアを征服したロベルトはビザンチン帝国征服を企て、ギリシャ遠征を実施しデュラキウムを占領すると、神聖ローマ帝国が南下し始めた為、占領地を息子のボエモンに任せて、イタリアに帰国して、神聖ローマ帝国を追い払うと、再び占領地に戻り、085年に病死した。
・シリア・セルジューク朝(1085 - 1117)の誕生
ファーティマ朝とセルジューク朝の戦いが膠着すると、マリク・シャーは弟のトゥトゥシュがシリアに派遣した。トゥトゥシュはトゥルクマーンの部族長アトスズを処刑し、シリアやダマスカスを自らの手中に収めると、1085年に地方政権のシリア・セルジューク朝を築いた。
・サグラハスの戦い/カスティーリャ王国の敗北
カスティーリャ王国の脅威に晒されたタイファ諸王はムラービト朝に救いを求めた。1086年には、ムラービト朝のユースフはイベリア半島に上陸し、サグラハスの戦いでアルフォンソ6世軍を破った。
・ルーム・セルジューク朝VSシリア・セルジューク朝
1086年、アレッポの支配を巡ってルーム・セルジューク朝とシリア・セルジューク朝が戦い、ルーム・セルジューク朝のスライマーンが戦死した。
十字軍の遠征
1095年、セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスは、ローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。
1096年、この呼びかけに応えた騎士団によってエルサレムの遠征(第1回十字軍)が行われた。
以上で中世初期が終わり
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