ヨーロッパの歴史・経済-中世/中期その1
◆中世中期(1000年~1137年)
中期とは、十字軍により西欧が拡大し、汎ヨーロッパ的な権力を巡って教皇権が世俗王権と争う中世盛期を言う
・イングランド王国のスコットランド支配/イングランドの叙任権闘争
1087年、ウィリアム2世は父が父がノルマンディーで危篤状態に陥ると、兄を差し置いてイングランド王に即位した。1093年には、カンタベリー大司教のスコラ学の父・アンセルムスと対立するようになった。
スコラ学→決して特定の哲学や思想をさすものでなく、学問の技法や思考の過程をさすものである
・ムラービト朝のイベリア半島支配(1091-1118)
ムラービト朝のユース軍がイベリア半島から帰還すると、再び、タイファ諸国は互いに抗争を繰り広げた。その為、カトリック諸国に攻め込められ、再びムラービト朝に応援を求めると、ムラービト朝は自らイベリア半島支配に乗り出した。
1091年に、コルドバとセビリャを占領し、1102年にバレンシアを、1110年にサラゴサを占領、1118年にトレドの包囲した。
・大セルジューク朝の混乱期(地方政権の樹立)
1092年、宰相ニザームルムルクが暗殺され、翌年には大セルジューク朝の第3代スルタンのマリク・シャー1世が死去すると、2人のスルターンが並立する様に成ったが、094年にマフムード1世が病死すると、バルキヤールクが大セルジューク朝の単独スルタンに即位した。
・下ロートリンゲン公コンラッドの離反
1093年、叙任権闘の中、下ロートリンゲン公コンラートは、父皇帝と敵対関係にある教皇側のトスカーナ女伯マティルデからカノッサに招待されたが、その時にマティルデに説得され、コンラートは父皇帝から離反し改革的な教皇ウルバヌス2世側に付き、イタリア王冠を受けると、共に父に十字軍を勧めた。
【大セルジューク朝の内紛(1092-1105)】
・マフムード1世vsバルキヤールク
1092年、4歳のマフムード1世がスルタンに成ると、バルキヤールクは宰相だった故ニザームルムルクの支持者らを味方につけて対抗した為、セルジューク朝で内紛が始まると共に2人のスルターンが並立した。
・バルキヤールクvsシリア・セルジューク朝
1094、バルキヤールクはイラン覇権を巡って、シリア・セルジューク朝を建国した叔父のトゥトゥシュと戦い、095年に叔父をレイの近郊で討った。
・フランス王の破門(1095-1108)
1095年、フィリップ1世は不倫した為、ローマ教皇ウルバヌス2世から正式に破門を通告された。101年、フィリップ1世の代わりに弟のユーグ1世が十字軍に出征して戦死した。その後、フィリップ1世の破門が解かれた。
・第1回十字軍(1096-1099)の遠征
1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議で、ヨーロッパの国王、諸侯に対し、十字軍運動を呼びかけた。それは、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世との叙任権闘争を続ける中、皇帝から奪った西ヨーロッパの主導権を確実にし、教会の東西分裂を再統合するために、ビザンツ皇帝の要請に応えてたものであった。そして、096年に第1回十字軍遠征が行われた。
・民衆十字軍/反ユダヤ主義
1096年、民衆十字軍がアナトリア半島に上陸し、ニカイア周囲の農村を略奪して回った。そして、キボトシュの戦いで、ルーム・セルジューク朝軍に鎮圧された。一方で、フランスやドイツ国内で異教徒への迫害が起こり、再びユダヤ人の虐殺が始まり、多くのユダヤ人がポーランド王国(1025-15)へ逃亡した。
・イングランドのスコットランド征服
1097年1月、スコットランドのマルカム3世が、5度目のイングランド侵攻で戦死すると、後継者問題に乗じてウィリアム2世はスコットランド王をエドガーに継がせて、イングランドを従属させた。その後、ウィリアム2世は1100年に急死する。
・ニカイア攻囲戦(1097年5月-6月)/ルーム・セルジューク朝の敗北
1097年、クルチ・アルスラーン1世はダニシュメンド朝遠征に赴くと、西欧諸公から成る十字軍がルーム・セルジューク朝の首都ニカイアを包囲し、ルーム・セルジューク朝の守備隊とニカイア攻囲戦を繰り広げた。
その後、クルチ・アルスラーン1世も参戦するが、十字軍に敗北し、十字軍の後から来たビザンツ帝国軍に降伏した。その為、十字軍とビザンツ帝国軍には深い不信感が生じる事と成った。
・ドリュラエウムの戦い
ニカイア攻囲戦に勝利し、エルサレムへ向かう十字軍は補給の問題でタラント公ボエモンが率いる小隊と、大軍の本隊に別れた。
1097年7月、アナトリア半島北西部のドリュラエウムで十字軍前衛のボエモン軍とルーム・セルジューク朝及びダニシュメンド朝の連合軍が戦ったが、再びルーム・セルジューク朝が敗北した。
【アンティオキア攻囲戦(1097年10-1098年6)】
・アンティオキア領主VS十字軍
1097年10月、十字軍の前衛部隊はシリア地方のアンティオキアに到着すると、アンティオキア攻囲戦を開始したが、十字軍は完全に包囲出来ずに、戦いは長引いた。12月末、食料調達の為にタラント公ボエモン及びフランドル伯ロベールが戦場を離れると、アンティオキア領主ヤギ=シヤーンがトゥールーズ伯レーモンを襲撃するが、逆に大敗して城に戻った。
・シリア・セルジューク朝ドゥカーク王VS十字軍
十字軍のボエモン公とロベール伯もシリア・セルジューク朝のドゥカーク王から攻撃を受けるが、辛くも勝利してアンティオキアに引き返した。
・ハインリヒ5世の反逆
1098年、ハインリヒ4世は息子のコンラッドからローマ王、イタリア王位を剥奪すると、三男のハインリヒ5世をローマ王位継承者に決めるが、ハインリヒ5世も諸侯の離反を恐れて父に反逆した。
・十字軍国家エデッサ伯国の誕生
1098年、ブローニュのボードゥアンはアンティオキアとエルサレムへ向かう十字軍本隊を離れ、地中海に面したトルコ南部のエデッサに向かうと、エデッサ領主のソロスの養子に成り、十字軍国家のエデッサ伯国を樹立してセルジューク朝から守った。6月頃、ヤギ=シヤーン救援に応じたモースル領主ケルボガと交戦した。
・シリア・セルジューク朝リドワーン王VS十字軍
1098年、十字軍は飢餓に見舞われると、ビザンツ帝国のタティキオス軍が離脱した。2月、十字軍はシリア・セルジューク朝のリドワーン軍と交戦し、勝利した。5月末、が大軍を率いてアンティオキアに出兵したが、途中でエデッサ攻撃に向かった。
・アンティオキアの陥落
1098年6月、ブロワ伯エティエンヌが戦いに嫌気がさし、十字軍から離脱した。その後、アルメニア人衛兵フィルーズがヤギ=シヤーンを裏切り、十字軍のボエモンらと手を結び、アンティオキア城を陥落させると、アンティオキア領主ヤギ=シヤーンは逃走し、息子シャムスは山頂にある城塞で十字軍に抵抗した。やがて、ケルボガ軍が到着すると、逆にケルボガがアンティオキア城ごと、十字軍を包囲した。
その為、多くの十字軍兵士が脱走し、救済に来た皇帝アレクシオス軍も諦めてコンスタンティノープルへ引き返した。
・アンティオキア城外の戦い/イスラム軍の撤退
1098年6月末、ケルボガは十字軍を城外に引きずりだして戦うが、十字軍の数に圧倒され、ダマスカス王ドゥカークらが逃亡し始めると、イスラムの連合軍は崩壊状態となった為、ケルボガ軍も退却せざる負えなくなり、ボエモンが率いる十字軍が勝利した。
・マアッラ攻囲戦/アンティオキア公国
1098年8月、アンティオキアに疫病が蔓延して教皇使節アデマールが病死すると、十字軍諸侯のボエモンと、レーモンが対立し、更に十字軍は飢餓状態に陥り、殆どの者がエルサレムへの関心を見失った。11月に入るとマアッラ攻囲戦を決行して食料を奪った。その際、兵士たちが人肉を食う事件を起きた。更に、ボエモンがアンティオキア領主を主張して諸侯と揉めると、十字軍の進軍が止まった為、巡礼者らがエルサレムへ向かい始めた。099年1月、レーモンが率いる十字軍が再結成され、再び十字軍がエルサレムへ進軍し始めた。一方、ボエモンはアンティオキア公国の確立に専念する。
・ゴール朝の独立
1099年、セルジューク朝の遠征によってガズナ朝が弱体すると、ガズナ朝のゴール地方に住んでいたシャンサバーニー族が独立してゴール朝を築いた。
・アルカ攻囲戦(1099年1-5月)
1099年1月末、レーモン率いる十字軍はシリア内陸のオロンテス川渓谷を南下し、下ロートリンゲン公ゴドフロワとフランドル伯ロベールの別働隊は、2月に地中海沿いに南下し始めた。
レーモンの十字軍本隊はトリポリを攻撃する前に、アルカ攻略を決行したが、市民の抵抗が激しく、3月に別働隊がアルカに到着しても、未だにアルカ攻囲戦を続けていた。5月、十字軍はアルカ攻囲戦を諦め、トリポリに向かった。
・エルサレム攻囲戦い
1099年6、十字軍はトリポリ、ベイルート、ティールの各地から歓迎されながら、ファーティマ朝の領土と成ったエルサレムに到着した。
7月中頃、十字軍はエルサレム城内に入り、エルサレム市民への虐殺が行われ、イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方正教会や東方諸教会のキリスト教徒まで殺害された。それが終わると、ゴドフロワが聖墓守護者を名乗り、エルサレムを統治した。
・アスカロンの戦い/十字軍遠征の終結
1099年8月、十字軍はファーティマ朝からエルサレムからの撤退を促されると、アスカロンの戦いでファーティマ朝軍を完全に破ると、十字軍の大半はエルサレムへの巡礼という大目的を果たしたことに満足し、数100人ほどのわずかな騎士を除いてその大半が故国に戻り始めた。
・メリテネの戦い/アンティオキア公国vsダニシュメンド朝
1100年、ダニシュメンド朝にキリキア・アルメニア王国の北部が攻めれれると、同盟関係であったアンティオキア公国ボエモン1世がフランス人部隊を引き連れて応援に駆けつけるが、メリテネの戦いにおいてダニシュメンド朝に敗北すると、メリテネを失い、更に多額の身代金を十字軍に請求する為、ボエモン1世を捕虜にした。
・バルキヤールクvsムハンマド・タパル(セルジューク朝の内紛)
1100年、バルキヤールクと異母兄弟のムハンマド・タパルの間で、スルタンを巡って権力争いが巻き起こり、大セルジューク朝は、ムハンマド・タパルとバルキヤールクによって分割統治されるように成った。
・アンティオキア公国の拡大/ビザンチンとの対立
1100年から3年間、ボエモン1世が捕虜に成っていたが、甥のタンクレードが摂政の地位に即き、地中海に面したトルコ南部のキリキアや、シリア北部のアレッポを領地した。すると、ビザンチン皇帝アレクシオス1世はダニシュメンド朝と手を結び、アンティオキアを圧迫した。
・ノルマンディー公の反乱/長兄の抗争
1100年、ノルマンディー公ロベール2世が十字軍遠征中に、次男のウィリアム2世が死去し、三男のヘンリー1世がイングランド王に即位した。その後、ノルマンディー公ロベール2世はノルマンディーに戻ると王位を主張してイングランドに侵攻したが、ヘンリー1世はこれを防ぎロベール2世に王位を承認させた。
【1101年の十字軍遠征】
1100年9月、第1回十字軍遠征の成功を機に、ヨーロッパ各地でエルサレムへの増援の声が湧くと、ローマ教皇パスカリス2世は新たな遠征軍の編成を企図し、途中で第1回十字軍遠征から離脱した諸侯に圧力を掛けると、ロンバルディア集団、ヌヴェール集団、フランス及びバイエルン集団などが、次々とエルサレムへ赴いた。
・エルサレム王国の樹立/ダマスカス政権の消滅
1100年12月、聖墓守護者のゴドフロワが死去すると、弟のエデッサ伯ボードゥアンはエデッサ伯国を従兄のボードゥアンに譲った後、急いでエルサレムに進軍すると、その途中でダマスカスのドゥカーク王が待ち伏せていた。しかし、トリポリの法治官と組んだボードゥアンによって破られた。その後、ボードゥアンはエルサレム城に入り、エルサレム王ボードゥアン1世に即位してエルサレム王国を樹立した。
・ボエモン1世の救出/アンカラ攻略
1101年5月、トルコのニコメディアで野営したロンバルディア集団は、第1回十字軍遠征に参戦した諸侯軍、及びコンスタンティノープルに滞在していたレーモン軍・ビザンチン帝国のペチェネグ人傭兵部隊と合流後、ニコメディアを出発してドリュラエウムに到着すると、ボエモン1世の救出の為、黒海へと北上し、ルーム・セルジューク朝領(トルコ)のアンカラ、ガングラを攻略すると、7月のカスタモヌ戦でルーム・セルジューク朝と膠着状態に成った。
・メルシヴァンの戦い/ロンバルディア集団の壊滅
1101年8月、メルシヴァンの戦いで、十字軍はルーム・セルジューク朝・ダニシュメンド朝及びシリア・セルジューク朝のアレッポ政権の連合軍と激突し、5つの集団に分かれた。その後、十字軍が大敗すると、ロンバルディア集団(北イタリア人)だけが捕まり、殺された。それ以外の集団は黒海へ逃げた。
・ラクレア・シビストラの戦い/ヌヴェール集団・フランス及びバイエルン集団の壊滅
同年8月、ロンバルディア集団が全滅すると、十字軍のヌヴェール集団もトルコ中南部のヘラクレア・シビストラでクルチ・アルスラーン1世率いるルーム・セルジューク朝軍の奇襲を受け、壊滅した。同年9月、ヌヴェール集団に続いて、フランス及びバイエルン集団もヘラクレア・シビストラで壊滅させられた。
1101年の十字軍の失敗により、クルチ・アルスラーン1世率いるルーム・セルジューク朝はアナトリア半島中部の支配を取り戻した為、十字軍国家は海路のみと成った。
・ラムラの戦い/ファーティマ朝VSエルサレム王国
1101年の暮れ、ヌヴェール集団やフランス集団の僅かな生存者がアンティオキア公国に入り、翌年の1102年の復活祭にエルサレムに到着すると、殆どの者が帰還したが、一部の者はエルサレムに残り、ファーティマ朝とのラムラの戦いに参戦し、敗北した。
・トリポリ包囲戦/レーモンの死
1102年4月、トゥールーズ伯レーモンは地中海の強国ジェノヴァ艦隊の助けをかりて、トリポリ北部のトルトーズやジューバイルを占領すると、更にビザンチン帝国の支援を受け、トリポリを包囲したが、05年にレーモンが死去した。その後、従兄のギヨーム・ジュルダンに引き継がれる。
・西カラハン朝の侵入
1102年、西カラハン朝がセルジューク朝が支配するホラーサーン地方に侵入し、サンジャルによってテルメド近郊の戦いで殺害される
・エデッサ伯国VSビザンチン帝国
1103年、エデッサ伯国ボードゥアン2世は、高い身代金と引き換えに、ボエモン1世を開放させると、翌年に、ボエモン1世とボードゥアン2世はビザンチン帝国軍をキリキアから追い払った。
・大セルジューク朝の内紛終結
1104年1月、兄弟の間で和約が結ばれ、バルキヤールクがイラン中央部を、ムハンマドがアゼルバイジャン、アルメニア、北イラクを、ムハンマドの弟サンジャルがゴルガーン、ホラーサーン地方を統治する事が決まった。しかし、暮れにはバルキヤールクが、1105年にはマリク・シャー2世が死亡した為、ムハンマド・タパルが大セルジューク朝の唯一のスルタンに成った。
・十字軍国家のイラク遠征/ハッラーンの戦い
1104年、エデッサ伯国とアンティオキア公国の十字軍国家はシリアのハッラーンを制圧すると、イラク遠征を実施してモースルやバクダットを占領しょうとしたが、ハッラーンの戦いでモースルのムスリム軍に完敗し、ボードゥアン2世と息子ジョスランが捉えられた。その後、ボエモン1世は助けを求めて南イタリアに帰還した為、タンクレードが両国の摂政に即いたが、ビザンチン帝国にラタキアを奪われ、リドワーン王にはシリア領を奪還された。
・ダマスカス政権の消滅/ブーリー朝の建国
1104年、シリア・セルジューク朝のドゥカーク王が死去すると、トゥグ・テギーンがダマスカスの実権を握る事になった。トゥグ・テギーンはドゥカーク王の息子・トゥトゥシュ2世や、ドゥカークの弟のエルタシュを相次いで立てるが、後見人のトゥグ・テギーンの権勢を恐れて、ダマスカスから逃げたため、シリア・セルジューク朝は消滅し、ブーリー朝が誕生した。これによって、シリア・セルジューク朝はアレッポ政権のみと成った。
・大セルジューク朝のシリア遠征/十字軍国家との休戦協定
1104年、ブーリー朝のトゥグ・テギーンはエルサレム王国と休戦宣言を交わすと、シリアにおける十字軍国家群の事実上の支配を許し、それを利用して互いに助け合うなどダマスカスの生き残りを図った。大セルジューク朝のシリア遠征に際し、十字軍と共に対戦してダマスカスを守った。
・ダニシュメンド朝VSルーム・セルジューク朝
1104年、ルーム・セルジューク朝はダニシュメンド朝が弱体し始めると、ビザンチン帝国軍と組んで攻め込んだが、ダニシュメンド朝はアンティオキア公国と手を結んで抵抗した。
・アンティオキア公国のアレッポ奪還
1105年、タンクレードはシリア・セルジューク朝のアレッポ政権・リドワーン王と戦い、オロンテス川以東の領土をアレッポ周辺を征服すると、シリアの強国としてアンティオキア公国を君臨させた。
・イングランドのノルマンディー遠征
1105年、イングランド王にヘンリー1世が即位した後も、ロベール2世がイングランド襲撃を繰り返した為、ヘンリー1世はノルマンディー遠征を決行し、06年のタンシュブレーの戦いでロベール2世の反乱軍を制圧すると、ロベール2世を幽閉して殺した。
・ハインリヒ5世の即位
1106年、有力諸侯やローマ教皇らに息子のハインリヒが支持され、ドイツ王ハインリヒ5世に即位すると、父の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は廃位されて急死した。
・エデッサ伯国とアンティオキア公国の対立
1107年、ボードゥアン2世が開放されると、エデッサ伯国の実権を巡り、ボードゥアン2世とタンクレードが争いを始め、タンクレードが破れた。その後、タンクレードはアンティオキア公国に帰ると、ビザンツ 帝国皇から地中海のラタキアを取り戻した。
・ルーム・セルジューク朝のモースル遠征/混乱
1107年、ムハンマドに抵抗しているモースルの市民に頼まれて、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世はモースル遠征を行い、ハッラーンや、ディヤルバクルや、モースルなどを占領すると、ハーブール河畔で、大セルジューク朝・アルトゥク朝・アレッポ政権のリドワーン王などの連合軍に攻められて大敗し、クルチ・アルスラーン1世は敗走中に溺死した。その後、5人の息子らによって後継問題が勃発し、内訌に介入したビザンツとダニシュメンド朝によって領土の一部を奪われる。
・マズヤド朝の敗北
1107年、大セルジューク朝のムハンマドはモースルを奪還した後、「アラブ人の王」を称するマズヤド朝スィドカ1世に勝利した。
・大セルジューク朝のゴール朝支配
1108年、ゴール朝はアフガニスタン北西部からイランにかけてのホラーサーンに拠るセルジューク朝のサンジャルによる支配を受け、セルジューク朝に服属した。やがて、ゴール朝とガズナ朝が対立して行くことに成る
・デヴォル条約/アンティオキア公国の独立
1108年、ヨーロッパで援軍を探していたボエモン1世は、ビザンチン帝国の強大さを前についに抵抗をやめることを決意し、デヴォル条約でアレクシオス1世に臣従することを誓い、アンティオキア公国はビザンチン帝国の封臣国家であると約束するが、摂政のタンクレードが拒んだ為、ビザンチン帝国から独立した。
・トリポリ伯国の樹立
1109年、従兄のギヨーム・ジュルダンがトリポリを4年間包囲し続けると、エルサレム王やタンクレードなどの援軍を得て陥落し、トリポリ伯国を樹立したが、レバノンの継承権を争ったレーモンの庶子のベルトランに暗殺され、トリポリ伯国の領主はベルトランが成った。
・ポンテ・マンモロ協約/神聖ローマ皇帝の破門
1110年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世は叙任権闘争を解決するため、ローマ遠征を決行した。翌年にはローマ教皇パスカリス2世との間でサンタ・マリア・イン・トゥーリ条約が交わされ、教会は土地などの所有権を放棄する代りに、教会の叙任権が認められた。しかし、直ぐにドイツの聖職者たちの反乱が起こった為、ハインリヒ5世は挙兵してローマから教皇や高位聖職者らを拉致し、新たにポンテ・マンモロ協約を結び直した。これにより、ローマ教会側はハインリヒ5世を破門し、事実上ポンテ・マンモロ協約はあっという間に破棄され、諸侯とハインリヒ5世は対立を深めていった。
・ボヘミアの内戦
1110年、長男のヴィプレヒト3世は母方の伯父に当たるボジヴォイ2世をボヘミア公に復位させようと図ったが、ハインリヒ5世の不興を買って、ヴィプレヒト3世は親子共々、ハンマーシュタインの城幽閉されるが、しばらくして開放された。
・シリア・セルジューク朝とアンティオキア公国の同盟
1111年、ボエモン1世が死去すると、摂政のタンクレードがボエモン1世の息子を即位させるが、翌年にタンクレードも病死した為、摂政にサレルノ伯ロジェが即いた。一方で、シリア・セルジューク朝・アレッポ政権のリドワーン王は大セルジューク朝のモースル総督やルーム・セルジューク朝との抗争の為、アンティオキア公国と手を結んだり、シーア派の過激派教団ニザール派(暗殺集団)を保護し始めた。
・イングランドのシュルーズベリー伯の反逆
1112年、イングランドのシュルーズベリー伯ロバート・オブ・ベレームはノルマンディー公ロベール2世の息子・ギヨームを保護してヘンリー1世に反逆するが、捉えられてシュルーズベリー伯を剥奪された。
・シリア・セルジューク朝の無政府状態
1113年、リドワーン王が死去すると、法治官のハシャーブがニザール派教団員を粛清し、リドワーンの子アルプ・アルスラーンを即位させたが、アルプ王は狂乱政治を行った為、114年には摂政のルウルウよって暗殺された。その後、幼いスルターン・シャーが即位すると、アレッポ政権はアンティオキア公国やニザール派の圧迫によって無政府状態に成った。
・大セルジューク朝とアルトゥク朝の対立
1114年、大セルジューク朝のムハンマドと対立を深めて行ったアルトゥク朝のイル・ガーズィームはブーリー朝やアンティオキア公国と同盟を結び、ハンマド・タパルが率いる大セルジューク朝とモースルの連合軍と戦い、翌年には大勝利を収めた。
・ドイツ王の反皇帝同盟
1113年、ヴィプレヒト2世はテューリンゲン伯ルートヴィヒ・デア・シュプリンガー(テューリンゲン方伯ルートヴィヒ1世の父)及びヴァイマール=オーラミュンデ伯ジークフリート2世と反皇帝同盟を結んだが、マンスフェルト伯ホイヤー1世に打ち負かされた。
・ヴェルフェスホルツの戦い
1115年、父のヴィプレヒト3世は反皇帝派のザクセン公ロタール・フォン・ズップリンブルク側に参戦ザクセン公ロタールと共にハインリヒ5世に勝利した。
・セルジューク朝のガズナ支配
1115年、ガズナ朝で後継者問題が勃発すると、セルジューク朝のホラーサーン領主サンジャルが介在して首都ガズナを征服し、1117年2月にはバフラーム・シャーを傀儡君主として即位させた。
・ルーム・セルジューク朝のダニシュメンド朝侵略
1116年、ダニシュメンド朝と同盟したマスウード1世が、ビザンツ攻撃で成果を挙げられないマリク・シャーを廃位し、ルーム・セルジューク朝のスルターンに即位すると、ダニシュメンド・ガーズィの没後混乱するダニシュメンド朝を攻撃し、アンカラ、チャンクルを占領した。
・シリア・セルジューク朝の消滅/アルトゥク朝のシリア進出
1117年、ルウルウの暗殺が起きると、シリア・セルジューク朝の支配は崩れ始めた為、ハシャーブはアルトゥク朝のイル・ガーズィーを後見人に指名すると、翌年にはイル・ガーズィーはリドワーンの娘と結婚し、アレッポ政権の実権を握り、シリア・セルジューク朝のスルターン・シャーを廃位した。
・セルジューク朝のゴール支配
1117年、セルジューク朝のサンジャルはガズナ朝の地方政権であるゴール朝を征服した。
・ブレミュールの戦い/フランス王国VSノルマンディー公国
1118年、ギヨームを保護したボードゥアン7世の反乱軍がアルク包囲戦でヘンリー1世軍に敗れると、翌年にギヨームはフランス王に即位したばかりのルイ6世に保護され、セーヌ川下流のノルマンディー公国へ攻め込みたが、ブレミュールの戦いでヘンリー1世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の連合軍に敗北した。
・大セルジューク朝の分割統治
1118年4月、大セルジューク朝の第7代スルタンであるムハンマド・タパルが死去すると、大セルジューク朝はムハンマドの弟・アフマド・サンジャルと、ムハンマドの長男・マフムード2世との間で分割統治された。マフムード2世にはイラン・イラク領が与えられた。
・イスラムのムラービト朝のイベリア撤退
1118年12月、アラゴン王アルフォンソ1世がサラゴサの奪還に成功すると、カスティーリャのアルフォンソ7世にも遠征軍を送られて、後退を余儀なくされていた。
・アンティオキア公国の衰退/サルマダの合戦
1119年、エルサレム王ボードゥアン1世が死去したのを機に、エデッサ伯ボードゥアン2世がエルサレム王に即位した為、エデッサ伯にジョスラン1世が即位した。一方、アンティオキア公国はサルマダの合戦でアルトゥク朝とブーリー朝の連合軍に敗北し、サレルノ伯ロジェを失うと、エルサレム王ボードゥアン2世がアンティオキア公国の摂政を兼ねた為、アルトゥク朝はグルジア、ビザンツなどキリスト教勢力とは交戦しなかった。
・大セルジューク朝の再興/イラク・セルジューク朝の誕生
1119年8月、イラク・セルジューク朝のマフムード2世はイランのサーヴェの戦いで叔父のサンジャルに大敗し、大セルジューク朝を宗主国に認めた。更に、サンジャルの娘と結婚して、イラク・セルジューク朝のスルタンに成った。
・ノルマンディー公ロベール2世の遺児ギヨームとシビーユの結婚
1120年、ホワイトシップの遭難によりヘンリー1世の息子ウィリアムが死去すると、ノルマン貴族はギヨームを支援し始め、アンジュー伯フルク5世も未亡人と成った娘シビーユをロベール2世の遺児ギヨームに嫁がせ、メーヌ伯領を与えた。
・イラク・セルジューク朝のグルジア遠征
1121年、イラク・セルジューク朝マフムード2世はアルトゥク朝のイル・ガーズィーを使って、グルジア侵攻を試みるが、マフムード2世は失敗してトビリシ領を失った。一方、イル・ガーズィーはマイヤーファーリキーンを獲得した。
・ムワッヒド信者の反乱/ムラービト朝
1121年、ムラービト朝のマーリク派が、同じベルベルのマスムーダ族のイブン=トゥーマルトに批判され始め、神の唯一性を重視する彼の信徒(ムワッヒド)と共に、ムラービト朝への反乱が各地で起こるように成った。
※イスラム教徒は四法学に従う→コーラン・ハディース(ムハンマドの言行録)・イジュマー(イスラム共同体の合意)・キヤース(類推的判断)
・ポルトゥカーレVSレオン
1121年、ポルトゥカーレ伯領を巡って、妹テレサと姉ウラカの長い戦いが終わると、テレサのポルトゥカーレ伯領はレオン領になった。
・ヴォルムス協約/叙任闘争の終わり
1122年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と教皇カリクストゥス2世の間で、皇帝が教皇の聖職叙任権を認めるヴォルムス協約が結ばれて、叙任権闘争に終止符が打たれた。
・ユーフラテス川の戦い/十字軍国家vsアルトゥク朝
122年、アルトゥク朝のバラクが、ユーフラテス上流でエデッサ伯国と戦って勝利し、ジョスラン1世を捕虜にした。その後も、イスラエル王国と戦い、ボードワン2世を捕虜にした。123年、バラクはアレッポからシリア・セルジューク朝のスルターン・シャーを追放、ついでハルトパルトの本拠での十字軍捕虜と同地のアルメニア人による反乱を鎮圧した。
・ザクセンの自立/神聖ローマ皇帝の崩御
1123年、マイセン辺境伯ハインリヒ2世の死去に伴って、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世は家臣のヴィプレヒト2世をマイセン辺境伯に任命したが、コンラートとザクセン公ロタールの同盟軍により、ヴィプレヒト2世を追放され、コンラートがマイセン辺境伯に即いた。
・2度目のノルマン貴族の反乱
1124年、ヘンリー1世は教会法に強く訴えたが、最終的にギヨームとシビーユの結婚は血縁関係の近さを理由に無効にされると、深刻な貴族の反乱が、ギヨームを支持するノルマンディーで起きた。ところが反乱は、ヘンリー王の情報網と指導者の組織化の欠如で敗北した。
・アルトゥク朝のマンビジ包囲戦
1124年、シリアのマンビジがエデッサ伯国と同盟を結び独立を企てると、アルトゥク朝のバラクはマンビジ包囲戦を開始して戦死すると、バラクの領地が甥のティムルタシュと、ヒスン・カイファー領主のダーウードによって分けられた。
・アルトゥク朝のアレッポ撤退/シリア・セルジューク朝の断絶
1124年、アルトゥク朝のティムルタシュは十字軍と同盟を結んだシリア・セルジューク朝のスルタン・シャーから圧迫されると、ボードワン2世を釈放し、アレッポからマルディンへと戻った。その後、スルタン・シャーが死去すると、アレッポの裁判官の決断により、モースル総督アル・ボルソキの保護下に入る事が決まると、暗殺集団によって二人とも殺された。
・西遼の建国
1124年、遼の属国であった金朝に追われ、遼の皇族である耶律大石が中央アジアのトルキスタンに逃れて西遼を建国する。翌年、金は内モンゴルを支配し、南宋と対峙した。
・イングランド女王の誕生
1125年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世が死去すると、その皇后マティルダはイングランドに返され、ヘンリー1世により、イングランド女王に即位した。3年後には、フランスのアンジュー伯ジョフロワ4世と再婚させられた
・ローマ王ロタールvs対立王コンラート(1127 - 1135)
1125年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の死去に伴い、マインツで次王の選挙が行われ、ザクセン公ロタールがローマ王に選ばれ、ロタールがローマ王ロタール3世した。
127年、シュヴァーベン大公フリードリヒ2世が弟コンラートを対立王に擁立して、ロタール3世と軍事衝突し、8年後、コンラートが王位を放棄した。
・ブルゴーニュ朝/カスティーリャ=レオン王国を樹立
1126年、カスティーリャ=レオン女王ウラカが死去すると、息子のガリシア王アルフォンソ7世がカスティーリャ=レオン王に即位してブルゴーニュ朝を開き、ヒスパニア皇帝として周辺諸国から宗主権を求め始めた。
・フランドル伯の後継者問題/アクスポールの戦い(フランスvsイングランド)
1127年、フランドル伯シャルルが聖職者ベルテュルフによって暗殺されると、ルイ6世はギヨームをフランドル伯に推薦すると、イングランド王ヘンリー1世の支援を受けたティエリーが現れ、伯位継承を巡って争いが勃発した。
128年、サントメールとヘント及びブルッヘなどの都市がギヨームに反旗を翻すと、アクスポールの戦いが起こり、ギヨームはノルマンとフランス騎士の同盟軍と共に、ティエリーを破った。その後、アールスト包囲戦でギヨームが急死した為、ティエリーがフランドル伯に成った。
・イラク・セルジューク朝のバグダード遠征
1127年、アッバース朝の29代カリフ・ムスタルシドが勢力を回復すると、イラク・セルジューク朝がバグダード遠征を行い、カリフ軍と戦ったが、マフムード2世軍は苦戦を強いられ、バスラのザンギーによって助けられた。
・ダマスカスのブーリ朝VS十字軍
1128年、ブーリー朝のトゥグ・テギーンが死去して息子のブーリが即位すると、彼はニザール派を大規模に粛清し、エルサレム王ボードゥアン2世をはじめとする十字軍諸国連合とテンプル騎士団の連合軍と戦って勝利し、最大の危機を乗り越えた。
・ザンギー朝の誕生
1128年、マフムード2世からモースルの太守に任ぜられたザンギーは、混乱状態に陥ったアレッポに入ると、アルトゥク朝アタベクのバラクの妻だった女性と結婚し、自らアタベクと成り、イラク・セルジューク朝から独立してザンギー朝を開いた。
・ポルトゥカーレ伯領(ポルトガル)の独立/カスティーリャ=レオン王国
1128年、アフォンソはガリシア貴族と結託する母テレサに不満を抱くポルトガル貴族から支持を集め、ギマランイス近郊のサン・マメデの戦いで母とフェルナン・ロペスらガリシア派を破り、彼らをガリシアに追放し、母を捕まえてガリシアの修道院へ幽閉した。翌年、アフォンソはポルトゥカーレ伯アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ=レオン王国からの独立を宣言した。
・エルサレム王ボードゥアン2世のシリア遠征
1129年、ボードゥアン2世は捕虜から開放されると、アレッポやダマスカスの占領を試みたが失敗し、31年に死去し、エルサレム王国をアンジュー伯フルク5世と娘のメリザンドに託した。
・反セルジューク派のブーリー朝とザンギー朝との攻防
1130年、ブーリー朝のブーリは、ザンギーに騙され、共同で十字軍攻撃するために、アレッポに向けて出兵した。その後、ザンギーは油断させ、ブーリの子や弟を人質にし、ハマの街と身代金を奪った。
・ムワッヒド朝の樹立
1130年、アブド・アルムーミンがムワッヒド集団の指導者に任命されると、アミール・アルムウミニーンと名乗り、アッバース朝のカリフからの独立を宣言し、ムワッヒド朝を築くと、アトラス山中のティンマルを拠点にし、モロッコの首都マラケシュ攻略戦を開始した。
・ローマ教会の内紛(シスマ)/シチリア王国の誕生
1130年、ローマ教会は教皇ホノリウス2世の死去に伴い、インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世が、両立するシスマに陥った。その結果、教皇インノケンティウス2世はローマ王ロタール3世を支持し、対立教皇アナクレトゥス2世はシチリア伯ルッジェーロ2世を支持した。これにより、ルッジェーロ2世は対立教皇から戴冠を受け、シチリア王国を建国した。3年後、ローマ王ロタール3世も戴冠し、神聖ローマ皇帝に成った。
・大セルジューク朝のサマルカンド遠征
1130年、サンジャルはのカラハン朝の首都サマルカンド遠征を実施し、カラハン朝のアフマドをは廃位し、自らの甥のマフムード2世を即位させた。
・大セルジューク朝のイラン遠征/イラク・セルジューク朝の相続争い
1131年、イラク・セルジューク朝のマフムード2世が死去すると、サンジャルは弟のトゥグリル2世を即位させたが、兄弟のマスウードが反旗を翻した為、再びサンジャルはイラン遠征を実施し、ダイナワル付近でマスウード軍を破った。
・ザンギー朝のバグダード遠征
1131年、イラク・セルジューク朝の後継者争いが起きると、アッバース朝カリフ・ムスタルシドが権威回復を図った為、ザンギーはデュバイスと共にバグダードに進軍し、ムスタルシド自ら率いるカリフ軍と交戦して敗れた。
・ルーベン朝のキリキア支配(第一王朝)
1132年、キリキア・アルメニア王国のルーベン朝が東ローマ勢力を排除して、海岸を含むキリキア地方の全域を手中に治めた。
・ブーリー朝の内紛
1132年、ブーリー朝のブーリがニザール派によって暗殺されると、息子のイスマイルが即位し、ニザール派を討った。その後、イスマイルは莫大な資金を軍事費に費やして市民から反感を買うと、イスマイルは弟サウィンジをはじめ宮廷内外のあらゆる者たちを処刑し始めた。
・アッバース朝のモースル遠征
1133年、前年の戦いでザンギーを破ったアッバース朝カリフ・ムスタルシドはイラク・セルジューク朝の第4代スルタンにマスウードを任命すると、ザンギーの息の根を止めるため、モースル包囲戦を開始した。
・アラゴン王国vsカスティーリャ=レオン王国
1133年、メキネンサ攻撃で、カスティーリャ=レオン王アルフォンソ7世と対立していた継父・アラゴン王アルフォンソ1世に、カスティーリャの東部を侵略された。翌年、アルフォンソ7世はフラガ包囲戦でアラゴン軍を破り、アルフォンソ1世を戦死させた。
・アルフォンソ7世のレコンキスタ(1133-1143)
1133年、タイファのサラゴサ王国の協力を取り付け、南下してグアダルキビール川を越えてグアダレーテ川下流域にあるヘレス・デ・ラ・フロンテーラを略奪し始め、1143年までにはタホ川流域のムスリムを排除した。
・ナバラ及びアラゴンの同君連合解消/カスティーリャ宗主国の誕生
1134年、アラゴン王サンチョ1世による併合以来58年に渡り、アラゴンとナバラは同君連合となっていたが、アラゴン・ナバラ王アルフォンソ1世の崩御を機に、アラゴン王国とナバラ王国は、それぞれ王を立てる事になり、アラゴン王にアルフォンソの弟ラミロ2世が、ナバラ王にガルシア6世が即位した。その後、アラゴン王国はカスティーリャ王国と主従関係を結び、翌年にはナバラ王国も従った。
・マスウード(1134-1152)の即位/イラク・セルジューク朝
134年、トゥグリル2世が死去したため、サンジャルは仕方なくマスウードをイラク・セルジューク朝の第4代スルタンに即位した。
・アッバース朝のムスタルシド暗殺
1135年、ムスタルシドがモスル奪取に失敗すると、部下の武将たちから見放されて、イラク・セルジューク朝のマスウードに捉えられ、乱入してきたニザール派の刺客に殺された。その後、ムスタルシドの子のラーシドがカリフに即位し、イラク・セルジューク朝のマスウードを討とうとして失敗し、逆にマスウードによって廃位され、136年にはムスタルシドの弟・ムクタフィーがカリフに即位した。
・ザンギー朝のダマスカス遠征/休戦協定
1135年、ブーリー朝のイスマイルが、ザンギー朝にダマスカスを売り渡した為、母によって殺害された。その後、もう一人の息子マフムードを即位させた。やがて、ブーリー朝の将軍ウヌルとザンギー軍が長い攻防戦を繰り返した後、ザンギー朝と休戦協定を交わした。帰国の途中、ザンギーはホムス城を襲ったが、またもやウヌル軍に阻止された。
・イングランドのブロワ朝の樹立(1135-1154)
1135年、イングランド王ヘンリー1世が死去すると、王女のモード(マティルダ)と、夫のアンジュー伯ジョフロワ4世が共に、イングランドの王位後継者に指名された。しかし、ブロワ伯家のエティエンヌがロンドンに入ってイングランドを掌握し、カンタベリー大司教を説得してイングランド王スティーブンに即位し、ブロワ朝を開いた。
・ビザンチン帝国のキリキア遠征
1136年、ビザンチン皇帝ヨハネス2世コムネノスはキリキア遠征を実施し、キリキア全土がビザンチン帝国に併合すると、ルーベン朝のレヴォン1世を幽閉した。
・ガズナ朝の反乱/大セルジュークの遠征
1136年、傀儡だったガズナ朝のバフラーム・シャーが反乱を起こしたが、大セルジュークのサンジャルは遠征して再び征服した。
・南イタリア遠征/神聖ローマ皇帝の崩御
1136年、前年に開かれたメルゼブルク会議で、東ローマ帝国皇帝ヨハネス2世コムネノス及びヴェネツィア共和国総督にシチリア討伐を依頼され、神聖ローマ皇帝ロタール3世が南イタリア遠征を実施するが、シチリア王国の打倒にまでは至らず、翌年には帰路に付き、途中で死亡した。
続く
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