職案人

求職・歴史・仏教などについて掲載するつもりだが、自分の思いつきが多いブログだよ。適当に付き合って下さい。

アシモの為の108の煩悩

2006年12月07日 | ブログ
こんにちは
今日は、新年も近いので108の煩悩について、調べてみました。
煩悩を知る事も、悟のひとつです。

この事を考えたのはテレビでアシモを見たからです。
ロボットはなぜ、自ら動こうとしないのか?
それは煩悩が無いからでしょう。多分
実際は、こころと言うプログラムが書けないからです。

■煩悩には根本煩悩と枝末煩悩から成る。
・根本煩悩は貪、瞋、癡、慢、疑、見の六煩悩
・枝末煩悩は根本煩悩に伴って起こる従属的な煩悩
 
■惑は見惑、修惑とに分けられる。
・見惑とは仏教の真理に迷うもの
見道位という修行段階で滅ぼされる煩悩

・修惑とは現象的な事物にとらわれ迷うもの
修道位という修行段階で滅ぼされる煩悩

■108 という数について
 さて、その見惑・修惑の数え方ですが、倶舎宗では 88 と 81 (88+81=169)、唯識宗では 112 と 16 (112+16=128) です。宗旨宗派ごとに違う数え方をしますし、その数も 108 ではありません。
 古代インドでは、108 やその他大きい数字は大抵「大変多い」という意味を表す使い方をされていまして、数字自体にはあまり意味はありません。煩悩については他に「八万四千の煩悩」という表現があり、これは「煩悩は大変多い」 と解釈すべきでしょう。
 除夜の鐘を 108回ならす習慣は中国に始まるものですが、その 108 のいわれは 12ヶ月+24節気+72候で 108 というものや、眼(げん)・耳(に)・鼻(に)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根×好(気持ちがいい)・悪(いやだ)・平(何も感じない)の三種×浄(きれい)・染(きたない)の2種×現在・過去・未来の三種で 108 とするものなど色々ありますが、すべて俗説のようです。

引用ーーーサイト:浄土真宗やっとかめ通信より
■根本煩悩
無意識の内に身に付けたもの
I)意識による六つの根本煩悩
1.貪:みだりに求めること
2.瞋:怒り・憎しみ・怨(うら)みなどの憎悪の感情
3.痴:愚かなこと
4.慢:他人をあなどる。思い上がる
5.疑:怪しむこと
6.悪見
仏教の教義に反する五つの誤った考え。
1.自己の実在を考える我見と周囲のものが自己に所属すると考える我所見を合わせた身見
2.自己の死後の永続を信じる常見と死後の断絶を信じる断見を合わせた辺見、
3.因果の道理を否定する邪見、
4.誤った見解を信じる見取見(けんじゆけん)、
5.誤った宗教的行為を信じる戒取見(かいじゆけん)。

II)末那識の4つの根本煩悩
自分が有ると思う事から生じる。
1.我痴
2.我見
3.我慢
4.我愛

■随煩悩
根本煩悩に付随して起きる煩悩と云うことで随煩悩と言い、小・中・大と言うのは、他の煩悩との共通性が小さいとか、中ぐらいとか、大きいと云う意味

小随煩悩
気持ちが平静だと、すぐに納まる。
忿(ふん)・・・いかりの爆発
恨(こん)・・・うらみ、陰性のいかり
覆(ふく)・・・自分の名誉・利益を守るために、罪を一生懸命おおい隠す心
悩(のう)・・・気に入らないことに対して、一人で腹を立て、一人で悶々とする心
嫉(しつ)・・・嫉妬心(しっとしん)
慳(けん)・・・ものおしみするケチ根性
誑(おう)・・・自分の利益の為に相手をたぶらかし、自分を売り込んでいく心
諂(てん)・・・人の心を自分の方にむけさせるために、心にも無く、へつらう心
害(がい)・・・人の悲しみの分からぬ心
驕(きょう)・・自分をおごりたかぶる心

1.貪を根元とするもの 覆、慳、誑、諂、驕
2.瞋を根元とするもの 忿、恨、悩、害、嫉
3.癡を根元とするもの 覆、誑、諂


中随煩悩
・内的無反省【無慚(むざん)】
身にも法にもはじずして、善根をかろくして、もろもろの罪を作る心なり。
・対他的無反省【無愧(むぎ)】
世間に恥じずして諸罪を造る心なり。

恥じ無き人と申すはこの無慚無愧の増せる人なり。
中随煩悩と呼ばれるのはこの二つの心所のみであり、悪のこころの底に一貫して底流のように流れている。
貪(むさぼり)にも慢(あなどり)にも、我見や偏見にも、その底には厚顔無恥のこころが流れているのだ。

大随煩悩
掉挙(じょうこ):のぼせ
昏沈(こんぢん):おちこみ
不信(ふしん):まごころのなさ
懈怠(けたい):おこたり
放逸(ほういつ):いいかげんさ
失念(しつねん):ものわすれ、
散乱(さんらん):気がちっていること
不正知(ふしょうち):正しいことを知らないこと

鋭く人を傷つけるわけではありませんが、根本煩悩が小随煩悩として表層の心に現われる時は大随煩悩が作用している。

道元禅師は、

「人の心、もとより善悪なし。
  善悪は、縁に随っておこる。」

といわれる。
しょせん、凡夫の私たちの精神は定まらない。せいぜい、善き縁を求めねばならぬのである。

―引用サイト:無相庵
以上より

 如何やても、素の自分が出てしまう。だから、友達を選べ!

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