こんな感じになると思います!まあ到底予定通りに進むとは思えませんが、ハプニング含めてワイワイと楽しくお届けしますので、皆さんも是非ご視聴ください!よろしくお願い致します!
『緊急開催‼ 明太子蕎麦がきメニューをみんなで開発しながらマニアソングスも楽しもう!』
・2020年9月27日(日)20:00配信開始
・出演:片手袋を見守る会(石井公二、マリボ、ゆき)田口めんたいこ、むらたぬき
中学2年生の時、私は文化祭実行委員になった。学校が早く終わるある日の土曜日。私を含めた実行委員の男4人は、放課後に文化祭についての話し合いをする事になった。しかし給食が無い日なので、皆弁当を持参していた。
同級生が帰った後、4人は同じ教室に集まる。いつも通り馬鹿話に花を咲かせていたが、会議までの時間がさほど無かったので早速弁当を広げる事に。机を4つくっつけて、一応テーブルクロスも敷いた。
「さあ、食べよう!」
皆が弁当箱の蓋に手をかけた瞬間、私の心に突然、妙な気持ちが湧きあがってきた。
(なんか、弁当の蓋を開くのが恥ずかしい・・・)
既に弁当仔犬期に突入していた私である、今日も親が何かをやらかしている可能性は十分にある。しかしこの時は、一番視線を気にしてしまう女子がいるわけでもなく、仲の良い男友達だけ。それでも、なぜか蓋が開けられない。
が、不思議な事に、なんとそんな状況に追い込まれていたのは私だけではなかった。その場にいる全員が何故か同じようなプレッシャーを感じたらしく、誰も蓋を開けようとしないのだ。誰かが一番最初に開けてくれないか、互いに窺っている。そんな気配がみるみるうちにその場を支配してしまい、益々開けられない。 わずか10秒ほどの沈黙であったと思うが、それが永遠にも感じられる。
私は勇気を持って切り出した。
「なんだよ、この空気!おい、お前開けろよ!はやく食えよ!」
「え~、やだよ~。勘弁してくれよ~」
突然振られたIはニヤニヤと照れ笑いを浮かべ開けようとしない。
「じゃあ、お前開けろよ~」
「え?俺は嫌だよ~」
「じゃあお前は?」
「俺はサンドウィッチだから最後でいいよ」
「何それ?意味分かんない。いいから開けろ!」
「嫌だって~」・・・。
そんなやり取りが永遠に続くが、誰も弁当を開けられない。そしてとうとう文化祭の会議を始める時間になってしまい、先生が教室に入ってきた。
「あれ?おまえら、まだ弁当食ってないのか?早く食えよ!」
しかし、私達は全員一致で弁当を食べずに会議を始める事を先生に告げたのだった。
なんだか分からない雰囲気に支配され、突然、弁当の蓋すら開けられない状況が発生してしまう。本当にどうでもいい出来事だが、「思春期」という言語化が難しい時期を象徴するような出来事でもあったような気がする。
大人になった今、自分の子供にはつい「自分だけの将来の夢」や「独自の感性」を求めてしまう。しかし、なんの変哲もない、没個性の極みのような学生服やジャージ、味気ないと思ってしまいがちなコンビニ弁当などがむしろ救いになることもあったと、自分の経験からも忘れずにいたい。
毎月28日は「ニワトリの日」でケンタッキーがお買い得なセットを販売するらしく、一昨日初めて買いに行ってみた。細長い箱にはフライドチキンが数個と、ナゲットが入っている。ケンタッキーのナゲットというのは初めて食べたが、なかなか美味しい。
「ニワトリの日」から二日後の今日。今年の夏前半は涼しい日も多く、TwitterのTLでは久しぶりにあの平成の記録的な冷夏の話題を目にした。
ナゲットと冷夏。私は中学2年生になる前の春休みを思い出していた。
✳︎
埼玉の祖母の家。祖母が「こんなもんでゴメンね」と謝りながら食卓に上げたのは、冷凍食品のナゲットと細長い粒のご飯だった。
私の両親は、私が小学校低学年の時点で既に修復が困難な関係に陥っていた。苦悩の末に母親は「義母を呼び寄せ同居してもらう」という奇策に打って出た。一般的に嫁にとって義母というのは決して居心地の良い存在ではない筈だが、当時の母はむしろ一緒にいてもらい父の様子を見てもらった方が良いと考えたようだ。後期ビートルズがビリー・プレストンを呼び寄せたようなものだろう。しかし、程なく父親はうちを出てしまい、義母(私にとっての祖母)と母、我々兄弟という奇妙な組み合わせの共同生活が始まった。
私は祖母に猛烈に可愛がられた。いや、「祖母は私を可愛がった」と言った方が正確かもしれない。私はそれを愛情だと理解できなかったから。「何より教育が第一」という考えの持ち主だった祖母は、毎日広告の裏に手書きの問題をみっちり書き込み、学校から帰宅した私はそれを全て解いてからでないと遊びに出られなかった。
また食べるものにも煩く、ポテトチップスなどは絶対に買ってもらえず、甘味といえば蒸した芋などが中心。晩ごはんも出来合いのものは決して食卓に上げず、塩辛でさえも毎回イカを捌いて取り出した肝を和えて作っていた。図工の時間に「ドーナツの絵を描くので見本として一人一個買ってきてください」と言われた時ですら、自分で手作りのドーナツを揚げていた。とにかく私には「本物」を与えたかったようだ。夏場の土曜日。お昼前に学校が終わり帰宅すると、祖母はよく真っ黒な汗をかいていた。祖母は「クーラーをつけるのは贅沢」と考えており、うだるような暑さの室内で白髪染めをしていたのだ。頬に黒い線を作りながら、「すぐにお昼作るからね」とソーメンを茹でる祖母が私は怖かった。
しかし、幼い私は学校から帰ったら一目散に遊びに飛び出したかった。既製品の人工甘味料たっぷりのお菓子が食べたかった。粉雪のような粉糖を纏ったドーナツを持って行きたかった。ソーメンよりカップラーメンが食べたかった。
ある日、読書が好きだった祖母が『温もりの〇〇』というタイトルの本を読んでいた。
「お婆ちゃん、“温もり”ってなーに?」
「この家にないものだよ」
いつになく素っ気なく答える祖母の様子に、私はそれ以上質問を重ねなかった。程なくして、祖母は埼玉の家に戻ることになった。
暑い夏の日。私は友達とマンションの中庭で野球をしていた。
「お婆ちゃん、車に荷物を積み終わったよ。お見送りしなさい」
母親が私を呼びに来たが、私は頑として見送りに行かなかった。幾ら怖いという印象を抱いていたとはいえ、数年間ずっと面倒を見てくれた相手である。あの時、何故見送りに行かなかったのだろう?
✳︎
数年後。私は中学生になっていた。ブカブカだった学生服がちょうど良いサイズになり、2年生に進級する間近の春休み。
「どこか行きたいところある?」
と母親に聞かれた私は、埼玉の祖母の家に行きたい、と答えた。母親は明らかに嫌な顔をした。祖母の家には別居した父親も住んでいる。今から考えれば両親は既に離婚が成立していたか、成立する間近だった筈である。後年、「そのタイミングであんたをあの人のもとに行かせるのは怖かった」と母親は語ったが、さすがの私もその時点で二人が良くない関係にあることは理解していた。それでも私は祖母の家に行くのを望んだ。
一つには久し振りに父親と釣りがしたかった。父親は釣りの天才で、幼い頃から私は様々な技術や知識を叩き込まれた。そして、どういう訳か祖母に会いたい、という気持ちもあった。最後に別れの挨拶をしなかったことが、ずっと心のどこかに引っ掛かっていた。
母親は「一人で行くこと、帰りは迎えに行くからダラダラしないですぐ帰ること」を条件に渋々許可をした。
埼玉県某町。駅前に車で迎えに来ていた父親は、私を乗せるなりそのまま釣り場に直行した。街道沿いに立ち並ぶ山田うどんを幾つも通り過ぎ、田んぼ沿いの名もなき川に到着する。ヘラブナ釣り用の台座をセッティングして糸を垂らすと、面白いように釣れる。和竿で釣るフナというのは思いの外引きが強く、それほど大きなサイズでなくても本能を刺激する堪らない感触がある。
夕方。サイズの良い数匹を魚籠からバケツに移し、祖母の家に帰る。久し振りに会う祖母は少し小さくなっていたが、昔と同じように「よく釣れたね」と笑顔で出迎えてくれた。ひと目見てもらったら祖母の家の前の用水路に魚を逃すのも昔と同じである。「釣りの後はよく頭を洗わないとミミズが住み着くぞ!」。子供の頃と同じ脅し文句を投げてくる父親。祖母の家の風呂場は少し古くて、中学生になっても怖かった。何もかも変わっていなように思える。
風呂から上がると、三人で食卓を囲む。
「こんなもんでゴメンね」
謝りながら祖母が食卓に上げたのは、冷凍食品のナゲットと細長い粒のご飯だった。前年の冷夏が影響し、年が明けても連日米不足が報道されていた。いわゆる「平成の米騒動」である。どこから手に入れていたのか知らないが、私の家ではずっと国産米が食卓に上がり続けていたので、この時初めて、テレビを賑わしていたタイ米を目にしたのである。
当時「タイ米は不味い」と誰しもが口を揃えて批判していたが、これは国産米と特徴が異なるタイ米をいつものように炊飯器で炊いていたことが原因であると今では分かっている。しかし、当時初めてのタイ米を口にした私は、そもそも全く不味いと思わなかった。というより普段の米との違いすら分からなかった。単純に舌が馬鹿だったのだろう。
それよりも問題はナゲットだ。あの祖母が、まさか冷凍食品を使っているなんて。そのことの方が私には衝撃だった。最近は白髪染めもあまりしていないのだろうか?一緒に住んでいた時よりも、明らかに白いものが目立つようになっている。
「もっとちゃんとしたもの作りたかったんだけど」
しきりに謝る祖母。しかし、正直に言うと、私は手作りの塩辛や小麦粉を炒めて作るカレーより、よっぽどこちらの方が美味しく感じられた。しかし、とてもじゃないが、そんなことは言えない。
外は暗くなり始め、突然雨が降り出した。土壁の古い家は、湿気に満たされた。
それから数日間、食卓にはレトルト食品や冷凍食品が必ず並んだ。深夜、大声でうなされる祖母の寝言で必ず目が覚めた。
最終日。母親が迎えに来た。父親はどこかに出かけてしまっていた。玄関から中に上がらず、祖母に通り一遍の挨拶を済ませる母。中から出てきた私を見て少し安堵したような表情を浮かべた。
「帰りの電車、時間分かります?」
母が尋ねると、祖母は引き出しの奥から時刻表を取り出した。
「あ、○時に一本来るね」
「なら間に合いますね」
僅かな滞在時間でそそくさと母親は別れを告げた。祖母は門まで見送りに出て、いつまでも私達に手を振っていた。祖母が私の家を去ったあの日、私もキチンと手を振るべきだった。
祖母が見えなくなって、私は
「お婆ちゃん、冷凍食品使ってたよ」
と母に教えた。母は
「…そう」
と短く答えた。遠くの方に駅が見える。突然一筋の光が真っ暗闇に包まれた新興住宅地を照らし出した。電車が駅に入っていく。祖母から伝えられた時間にはまだ、だいぶ時間がある。どうもかなり古い時刻表を見たらしい。
「まったく!だから田舎は嫌なのよ!」
母親は不機嫌な表情を浮かべそう吐き捨てた。私は(そんな言い方をしたらお婆ちゃんが可愛そうだな)と心の中で思った。
それが祖母に会った最後の日々である。