私が所属していた地区の折伏の状況等についてここまで一気に書いてきたので、
あの頃の自分の気持ちや、当時触れ合った創価学会員の方々の気持ちに思いを巡らせながら、
あのとち狂ったような成果主義がいったい何だったのか、少し自分なりに分析をしてみたいと思います。
あくまでも自分の気持ちを整理するためのブログで、創価学会の汚点を晒すのが本来の目的ではないので。
でも、こうしてブログで赤裸々に過去のことを綴り、自分の気持ちと向かい合ったおかげで、随分と自分の気持ちの整理はついてきました。
私が本当の意味で創価学会を卒業できる日も、そう遠くはないのかなという気がしてきました。
それぞれの環境などもあるのと思うのですが、もし創価学会関連のことで傷つき、今も苦しんでおられる方がいたら、
気持ちを整理する方法として、こういう方法もひとつの方法として、ありなのではないかなと思います。
所詮、自分の気持ちには自分で決着をつけるしかないのだなと、つくづく思います。
本題に入ります。
実家の田舎の組織から、都会の組織へ移った私は、そのノリの良さには好感を覚えつつも、
ノルマ達成のための何でもありな裏の事情をさまざま見てしまい、ショックを受けることが多かったです。
そういうことは実家のほうの組織でもいくらかはあったんですが、
こちらの組織は想像を遙かに上回っていました。
欲望が欲望を生むというのか、毎年のように表彰されているという自負も手伝って、
どんな手を使ってでもノルマを達成しなければならないという執念のようなものを感じました。
そして、それはほどなく地区リーダーになった私にも、当然のように押しつけられてきました。
でも、私はそうしたえげつない方法でのノルマの達成に、疑問を抱く日々が続きました。
折伏にしても、本来なら同居家族を説得しての入会になるはずが、「同居家族を説得するまで紹介者が預かる」という体裁で数を増やしていました。
また、男子部員が折伏のために付き合った彼女を折伏が終わるとポイ捨てしても、賞賛こそされても咎められることはありませんでした。
どうしてそこまでして「数」を得ることにこだわるのか。
ステータスのためとか、そういうことだけではあそこまでとち狂った折伏はできないだろうという疑問がわいたので、
改めて、当時のことをよくよく思い出して考えてみました。
組織の人に対する見栄もあると思います。毎年表彰されているというプライドのような者もあると思います。
でも、もっとそれ以上に何か彼らを何でもありの折伏に突き動かすような理由がなかったか?
私が折伏をしていた時に言われたことなどを思い出してみたんですが、「一発逆転の奇跡」への期待もあるんじゃないかなと思いました。
おかしなヒドイ折伏をしていた男子部員の多くが、営業職、自営業、芸術部系でした。
普通の会社員の人はそんな無茶な折伏はしていなかったと思います。
実は私もフリーランスになってから、女の子の友人を折伏したことがあったのですが、
あの時の感覚はそれまで彼氏を折伏していたときのものとは違っていました。
まるで崖から飛び降りるような調子で、「この折伏が決まれば仕事の結果も出る」と思い込み、友人を巻き込んでしまったのです。
このときのことはまた別の記事で詳しく書きたいと思います。
創価学会の信心をすれば「奇跡のような結果」を得ることができると幹部たちは口をそろえて言います。
出所不明の体験発表や、事実よりさらに盛った奇跡の体験発表などが、奇跡を望む創価学会員たちを煽ります。
たとえ自分の目で確かめた奇跡でなくても、幹部による口伝で出所不明であっても、逆境にある人間は信じたくなってしまうものです。
特に創価学会の人たちは年中、しかも何年も逆境にあるような人ばかりでした(←これがもうすでにおかしいということにほとんどの人が気付いていない)
ただし、その結果を出すためには「勇気を奮い起こして」戦う必要があるそうです。お題目だけでは駄目だそうです。
いっぺんのお題目にもものすごい功徳があると言ったりもするのに、矛盾してますよね。
そして、その勇気とは具体的に折伏をすることだったり、新聞啓蒙をすることだったり、選挙で票を取ることだったりします。
鎌倉時代に聖教新聞はなかったと思うのですが、この仏法を広めるための道具だから、新聞啓蒙をすると功徳がすごいんだそうです。
鎌倉時代に公明党はなかったはずですが、日蓮さんが当時の権力者を諫めたという歴史があるので、それになぞらえて功徳があると強引に説得します。
実は私、聖教新聞をやめてから初めて一般紙を取ったんですが、
聖教新聞に比べてあまりにも内容が充実しているのに驚いてしまいました。
あんなぺらぺらで広告も多くて中身の少ない新聞に、いったい何年も無駄金を払っていたのだろうと思ってしまいました。
会合などでは、仏法対話をするだけでも功徳があるなどと言いますが、
折伏の締め切りなどが迫ってくると「数の結果を出さなければ功徳はもらえない」というニュアンスに変わってきます。
私の時もそうだったのですが、仕事の状況があまり良くないと、「奇跡の一発逆転」を考えてしまうのです。
折伏を実らせることができれば、必ず仕事の状況は好転する、と思い込んでしまうのです。
いつの間にか「相手の幸せ」よりも「折伏を決めて奇跡をゲット」することのほうが重要になってしまいます。
男子部員Xも、芸術芸能関係の仕事をしていました。だから仕事のために必死だったのだと思います。
ああいう世界も不安定な世界ですから、「奇跡の功徳」をゲットするためには折伏を決めるしかないと思い込んだのかもしれません。
一応、「折伏をすれば相手も幸せになれる」と思っていますから、悪いことをしている意識はまったくありません。
女の子を次から次へと折伏してポイ捨てしても「仏法に縁させてあげた、いいことをした」と思っているので、
罪悪感もなくまた次の女の子を折伏しようとできたのでしょう。
仏壇に巻いたご本尊をため込みながらバリバリ折伏を決めていた男子部のエースも、自営業の人でした。
活動報告をするたびに「今は苦しいけど……」と言っていたような記憶があります。
きっと仕事を得るために必死だったのでしょう。
「奇跡の一発逆転」でなければどうしようもない状態だったのかもしれません。
そういう「奇跡」を望む人の心につけこむような幹部指導が、あの時多くおこなわれていたように思います。
折伏を決めたら大金が手に入った、会社が奇跡的に守られたというような(いずれも出所不明)。
創価学会って、心が豊かになるような奇跡の話ってあんまりないんですよね。
お金や物が手に入ったというものばかりです。
これも何だか宗教としてはいかがなものなのかなぁと、離れて見る今となっては思います。
私なりに結論を出してみたいのですが、とんでもない非常識で理解不能な折伏というのは、
見栄やステータスの確保や賞賛のためよりはむしろ「一発逆転の奇跡」を盲信するためにおこなわれるのだと思います。
そしてその「一発逆転の奇跡」の実例というのは、ほとんどが使い回しで幹部の口伝で出所不明のものや、
幹部たちによって強引に「功徳認定」されたもので、「一発逆転の奇跡」が本当に存在するという証拠はありません。
あったとしても、宝くじレベルの極レアなもので、それが普遍的に誰もにもたらされるものでは決してないのだと思います。
だけど幹部たちは、宝くじとは違い、折伏さえ決めれば、選挙さえ頼めば、誰にでも「一発逆転の奇跡」は起こると訴えます。
私自身は部員さんに活動家になってもらうために、ちょっとしたいいことにかなり盛って「まるで奇跡」のように話したりしていました。
「一発逆転の奇跡」が絶対に起こると言って説得するのに、その実例がないと困ると思ったからです。
身近で聞く体験などは、こうしたものが多いのではないのでしょうか。
つまり、たとえ身近な幹部の話であったとしても、自分で経験、体験したもの以外は信じてはいけないのだと思います。
もしも折伏1という「数」をゲットすることによって仕事が上手く行くというのなら、
仏壇に5コも6コもご本尊をため込んでいた男子部員はとっくに上手く行っていたはずです。
でも、彼はいつも「今は苦しくてもいつかは……」と言っていました。
むしろ、折伏などまったくしていない人よりも疲れ果てているように見えました。
女子部員を五人もポイ捨てした男子部員も、最後までぱっとした話は聞きませんでした。
私自身も、一発逆転を信じて友達を折伏した辺りを境にして坂を転がり落ち、最後にはすべて失うことになりました。
それでも宝くじと同じで「一発逆転の奇跡」というのは、たとえ誰も見たことがなかったとしても、
「奇跡」を必要とする人にとっては縋りたくなってしまうものなのかもしれません。
あの頃の自分の気持ちや、当時触れ合った創価学会員の方々の気持ちに思いを巡らせながら、
あのとち狂ったような成果主義がいったい何だったのか、少し自分なりに分析をしてみたいと思います。
あくまでも自分の気持ちを整理するためのブログで、創価学会の汚点を晒すのが本来の目的ではないので。
でも、こうしてブログで赤裸々に過去のことを綴り、自分の気持ちと向かい合ったおかげで、随分と自分の気持ちの整理はついてきました。
私が本当の意味で創価学会を卒業できる日も、そう遠くはないのかなという気がしてきました。
それぞれの環境などもあるのと思うのですが、もし創価学会関連のことで傷つき、今も苦しんでおられる方がいたら、
気持ちを整理する方法として、こういう方法もひとつの方法として、ありなのではないかなと思います。
所詮、自分の気持ちには自分で決着をつけるしかないのだなと、つくづく思います。
本題に入ります。
実家の田舎の組織から、都会の組織へ移った私は、そのノリの良さには好感を覚えつつも、
ノルマ達成のための何でもありな裏の事情をさまざま見てしまい、ショックを受けることが多かったです。
そういうことは実家のほうの組織でもいくらかはあったんですが、
こちらの組織は想像を遙かに上回っていました。
欲望が欲望を生むというのか、毎年のように表彰されているという自負も手伝って、
どんな手を使ってでもノルマを達成しなければならないという執念のようなものを感じました。
そして、それはほどなく地区リーダーになった私にも、当然のように押しつけられてきました。
でも、私はそうしたえげつない方法でのノルマの達成に、疑問を抱く日々が続きました。
折伏にしても、本来なら同居家族を説得しての入会になるはずが、「同居家族を説得するまで紹介者が預かる」という体裁で数を増やしていました。
また、男子部員が折伏のために付き合った彼女を折伏が終わるとポイ捨てしても、賞賛こそされても咎められることはありませんでした。
どうしてそこまでして「数」を得ることにこだわるのか。
ステータスのためとか、そういうことだけではあそこまでとち狂った折伏はできないだろうという疑問がわいたので、
改めて、当時のことをよくよく思い出して考えてみました。
組織の人に対する見栄もあると思います。毎年表彰されているというプライドのような者もあると思います。
でも、もっとそれ以上に何か彼らを何でもありの折伏に突き動かすような理由がなかったか?
私が折伏をしていた時に言われたことなどを思い出してみたんですが、「一発逆転の奇跡」への期待もあるんじゃないかなと思いました。
おかしなヒドイ折伏をしていた男子部員の多くが、営業職、自営業、芸術部系でした。
普通の会社員の人はそんな無茶な折伏はしていなかったと思います。
実は私もフリーランスになってから、女の子の友人を折伏したことがあったのですが、
あの時の感覚はそれまで彼氏を折伏していたときのものとは違っていました。
まるで崖から飛び降りるような調子で、「この折伏が決まれば仕事の結果も出る」と思い込み、友人を巻き込んでしまったのです。
このときのことはまた別の記事で詳しく書きたいと思います。
創価学会の信心をすれば「奇跡のような結果」を得ることができると幹部たちは口をそろえて言います。
出所不明の体験発表や、事実よりさらに盛った奇跡の体験発表などが、奇跡を望む創価学会員たちを煽ります。
たとえ自分の目で確かめた奇跡でなくても、幹部による口伝で出所不明であっても、逆境にある人間は信じたくなってしまうものです。
特に創価学会の人たちは年中、しかも何年も逆境にあるような人ばかりでした(←これがもうすでにおかしいということにほとんどの人が気付いていない)
ただし、その結果を出すためには「勇気を奮い起こして」戦う必要があるそうです。お題目だけでは駄目だそうです。
いっぺんのお題目にもものすごい功徳があると言ったりもするのに、矛盾してますよね。
そして、その勇気とは具体的に折伏をすることだったり、新聞啓蒙をすることだったり、選挙で票を取ることだったりします。
鎌倉時代に聖教新聞はなかったと思うのですが、この仏法を広めるための道具だから、新聞啓蒙をすると功徳がすごいんだそうです。
鎌倉時代に公明党はなかったはずですが、日蓮さんが当時の権力者を諫めたという歴史があるので、それになぞらえて功徳があると強引に説得します。
実は私、聖教新聞をやめてから初めて一般紙を取ったんですが、
聖教新聞に比べてあまりにも内容が充実しているのに驚いてしまいました。
あんなぺらぺらで広告も多くて中身の少ない新聞に、いったい何年も無駄金を払っていたのだろうと思ってしまいました。
会合などでは、仏法対話をするだけでも功徳があるなどと言いますが、
折伏の締め切りなどが迫ってくると「数の結果を出さなければ功徳はもらえない」というニュアンスに変わってきます。
私の時もそうだったのですが、仕事の状況があまり良くないと、「奇跡の一発逆転」を考えてしまうのです。
折伏を実らせることができれば、必ず仕事の状況は好転する、と思い込んでしまうのです。
いつの間にか「相手の幸せ」よりも「折伏を決めて奇跡をゲット」することのほうが重要になってしまいます。
男子部員Xも、芸術芸能関係の仕事をしていました。だから仕事のために必死だったのだと思います。
ああいう世界も不安定な世界ですから、「奇跡の功徳」をゲットするためには折伏を決めるしかないと思い込んだのかもしれません。
一応、「折伏をすれば相手も幸せになれる」と思っていますから、悪いことをしている意識はまったくありません。
女の子を次から次へと折伏してポイ捨てしても「仏法に縁させてあげた、いいことをした」と思っているので、
罪悪感もなくまた次の女の子を折伏しようとできたのでしょう。
仏壇に巻いたご本尊をため込みながらバリバリ折伏を決めていた男子部のエースも、自営業の人でした。
活動報告をするたびに「今は苦しいけど……」と言っていたような記憶があります。
きっと仕事を得るために必死だったのでしょう。
「奇跡の一発逆転」でなければどうしようもない状態だったのかもしれません。
そういう「奇跡」を望む人の心につけこむような幹部指導が、あの時多くおこなわれていたように思います。
折伏を決めたら大金が手に入った、会社が奇跡的に守られたというような(いずれも出所不明)。
創価学会って、心が豊かになるような奇跡の話ってあんまりないんですよね。
お金や物が手に入ったというものばかりです。
これも何だか宗教としてはいかがなものなのかなぁと、離れて見る今となっては思います。
私なりに結論を出してみたいのですが、とんでもない非常識で理解不能な折伏というのは、
見栄やステータスの確保や賞賛のためよりはむしろ「一発逆転の奇跡」を盲信するためにおこなわれるのだと思います。
そしてその「一発逆転の奇跡」の実例というのは、ほとんどが使い回しで幹部の口伝で出所不明のものや、
幹部たちによって強引に「功徳認定」されたもので、「一発逆転の奇跡」が本当に存在するという証拠はありません。
あったとしても、宝くじレベルの極レアなもので、それが普遍的に誰もにもたらされるものでは決してないのだと思います。
だけど幹部たちは、宝くじとは違い、折伏さえ決めれば、選挙さえ頼めば、誰にでも「一発逆転の奇跡」は起こると訴えます。
私自身は部員さんに活動家になってもらうために、ちょっとしたいいことにかなり盛って「まるで奇跡」のように話したりしていました。
「一発逆転の奇跡」が絶対に起こると言って説得するのに、その実例がないと困ると思ったからです。
身近で聞く体験などは、こうしたものが多いのではないのでしょうか。
つまり、たとえ身近な幹部の話であったとしても、自分で経験、体験したもの以外は信じてはいけないのだと思います。
もしも折伏1という「数」をゲットすることによって仕事が上手く行くというのなら、
仏壇に5コも6コもご本尊をため込んでいた男子部員はとっくに上手く行っていたはずです。
でも、彼はいつも「今は苦しくてもいつかは……」と言っていました。
むしろ、折伏などまったくしていない人よりも疲れ果てているように見えました。
女子部員を五人もポイ捨てした男子部員も、最後までぱっとした話は聞きませんでした。
私自身も、一発逆転を信じて友達を折伏した辺りを境にして坂を転がり落ち、最後にはすべて失うことになりました。
それでも宝くじと同じで「一発逆転の奇跡」というのは、たとえ誰も見たことがなかったとしても、
「奇跡」を必要とする人にとっては縋りたくなってしまうものなのかもしれません。