まっちゃんは小さな馬です。最近気分が落ち込んでいます。それはなぜですか。わたしたちは先週に起こったことから話しましょう。先週、草原で競走が行われました。参加したい動物はみな参加できます。まっちゃんはふだんも、草原の有名な足の早い馬です。だから、皆さんはまっちゃんが優勝できると思っていました。まっちゃんも自分が正常に発揮すれば、優勝者になるのには問題がないと思っていました。そういうわけで、彼は知らせを受けると、試合場で優勝を勝ち取ろうと手ぐすね引いていました。
試合が行われたあの日、日当たりがよく、風が穏やかで日がうららかでした。動物たちは早々と試合場に行きました。草原は非常ににぎやかでした。審判員の号令一下、試合に参加する動物たちは命がけで前へ走りました。初めのうち、まっちゃんははるか先頭を切るのでした。ほかの動物が自分に大きく引き離されたのを見て、まっちゃんは傲慢になりました。「草原では、自分は本当に足の最も早いものだな」と、彼は走りながら考えていました。この考えのため、彼は考えれば考えるほど浮き浮きし、考えれば考えるほど得意になり、まるで自分が大勢の動物に取り巻かれているという場面を見たかのようです。彼が夢中になって考えているところへ、小さな馬うっちゃんはさっと彼のそばを通り過ぎました。最終的に、まっちゃんは傲慢のため、優勝する機会をみすみす逃してしまいました。
優勝者になれなかったまっちゃんは気分が落ち込んでいて、毎日うなだれています。友達たちと遊ぶ勇気もありません。なぜなら、彼は友達たちが彼の失敗のゆえに彼を軽蔑していると思っているからです。特に友達たちがうっちゃんを取り囲む時、彼の心はもっと暗く、つらいです。皆さんが陰で自分をあざ笑うのではないかと、彼は自制できずに邪推します。友達たちが三々五々集まる時も、彼は皆さんが自分のことについて論じているのではないかと邪推します。長い時間がたった後、まっちゃんは極端に消極的です。彼は閉鎖的になり始め、己を偽り始めます。心が非常にもろいですが、うわべでは強いように見せかけます。他人が自分をどう思っているかをあまりにも気にするので、まっちゃんはつらくてたまりません……。
実は、動物たちは全然まっちゃんをあざ笑いません。まっちゃんが優勝者になれなかったからといって、彼を軽蔑することはしません。このすべての苦しみが生じるのはすべてまっちゃん自身のせいです。
多くの時、わたしたちはまっちゃんのように、他人が自分をどう思っているかを非常に気にます。名誉を得る時、あらゆる人が自分を重く見、崇拝し、自分を取り巻くことを切望し、他人が何を言っても自分に言及することさえ望み、あらゆる栄光を自分と関係づけます。失敗し、つまずく時、他人が自分を軽蔑し、あざ笑うかどうかを気にし、他人がなぜこんな言葉を言うか、なぜあんな目つきで自分を見るかさえ推測し、さまざまな思いがけない考えが次々と出ます。
なぜこれらのばかばかしい考えが現れますか。わたしたちはサタンに腐敗させられた後、虚栄に執着し、メンツが何よりも重要だと思っているからです。メンツを愛するため、わたしたちは他人の自分に対する評価が非常に重要だと思うようになります。わたしたちは考えてみましょう。他人が自分を悪く評価したところで、それがなんだというのですか。自分があらゆる人に褒められることは、本当に自分がよいことを意味していますか。たとえあらゆる人に軽蔑されたとしても、あらゆることで神の心を満足させることができれば、神に尊ばれる者になれます。それは他人に褒められ、重視されることより百倍、千倍よいのではありませんか。これについては、主イエスがわたしたちにこう教えられました。「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタ6:17-18)。
他人が自分をどう思っているかは重要ではありません。他人が自分をどう思っているかを推測することは愚かなやり方です。毎日わたしたちに臨むすべての人、事、物は御座におられる神に許されるものです。神は意義のないことをなさいません。もし誰かが本当にある事のためにわたしたちを軽蔑しても、それは大したことではありません。他人がどのようにわたしたちを扱っても、彼の理由があります。他人がわたしたちに不満を持っていることは、わたしたちに悪いところがあることを証明します。わたしたちが賢い人であれば、謙虚に受け入れ、そして反省し、自分を認識すべきです。そうすれば、わたしたちはこれまでに気づいていない多くの問題を発見できます。こうして、このような批判、非難はかえってわたしたちの成長を促す有利な道具になります。
とにかく、自分は人としての道をちゃんと行い、神の前で生き、神が毎日按配してくださる人、事、物を受け入れ、自分の観念、想像にかなわないすべてのことにおいて真理を求め、神の意志を求め、得るべき真理に入るべきです。最終的に、神の支配、按配に従うことができるという効果を達成すればいいです。他人が自分をどう思っているかなどは、実は全然重要ではありません!
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