Ezio Bosso: Rain, In Your Black Eyes
The Beatles - Now and Then (Official Complete Version)
I know it's true
It's all because of you
And, if I make it through
It's all because of you
And, now and then
If we must start again
Well, we will know for sure
That I will love you
Now and then
I miss you
Oh, now and then
I want you to be there for me
Always to return to me
I know it's true
It's all because of you
And, if you go away
I know you'll never stay
Now and then
I miss you
Oh, now and then
I want you to be there for me
I know it's true
It's all because of you
And, if I make it through
It's all because of you
2023(令和5)年3月03日(金)曇りのち晴れ。桃の節句。
今日は桃の節句。世界に「女性の日」があるのかどうか、知らないし調べる気もありませんが、端午の節句の子供の日が男の子の日であるのに対して、わが国に伝統的な「桃の節句」の今日の三月三日はまぎれもなく、女の子の日です。
私もまた、母をはじめ、妻、連れ合い、娘たち、幼い頃から今に至る女ともだちなど、さまざまな女性たちとの関わりの中で生きてきました。
日本の女の子たち、やまと撫子という言葉もすでに死語になりつつあるかもしれませんが、また本当に美しい日本女性も少なくなりつつあるようですが、それでも、世界と比較すれば、まだまだ、有名無名を問わず健気できれいな日本女性も少なくないようです。
また三組のうち一組が離婚するとも言われる今日でも、婚姻の破綻のその不幸を多く背負わなければならないのは、女性と子供たちです。
しかし現代の日本には、離婚の罪悪を諭して、女性や子供たちを不幸から救おうとするものは誰もいません。政治家、宗教家、教育者たちも堕落して、子どもや女性たちのために自らの責任を果たす能力もありません。
それでもせめて桃の節句の今日は、三人の日本の歌姫の歌を取り上げて、日本の女性たちへの思いを新たにしました。とはいえ、私の世代から見て、どうしても過去の追想になりがちなのはやむをえません。
松任谷由実 - ひこうき雲 (Yumi Arai The Concert with old Friends)
駅 竹内まりや・岩崎宏美
時代 -ライヴ2010~11- (東京国際フォーラムAより)
慈円 | |
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諡号 | 慈鎮和尚 |
宗旨 | 天台宗 |
師 | 明雲 |
著作 | 『愚管抄』 |
慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日[1])は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したとされることで知られる(杉橋隆夫立命館大学名誉教授 によると、そうではないとする異説がある[要出典])。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。
父は摂政関白・藤原忠通[2]、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。
幼いときに青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒。治承2年(1178年)に法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継いだ(なお、覚快は生前に別の人物に譲る意向があったが、慈円の兄である九条兼実が慈円に譲らせようと圧迫したと伝えられている。また、行玄から覚快への継承に異論を抱いていた実寛も慈円への継承に反対したため、覚快・実寛両者が没するまで継承できなかったという[3])。
建久3年(1192年)、38歳で天台座主になる。その後、慈円の天台座主就任は4度に及んだ。『徒然草』には、一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがったとある。
天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・九条道家の後見人を務めるとともに、道家の子・藤原頼経が将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、承久の乱によって後鳥羽上皇の配流とともに兼実の曾孫である践祚した懐成親王(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して懐成復位を願う願文を納めている[4]。『愚管抄』には「鳥羽上皇が亡くなった後に動乱が続いて武者(むさ、武士)の世となった」と記しており、建久3年(1192年)や文治元年(1185年)に成立したとされる鎌倉時代以前から武士の時代が既に始まっていたことを、当時から認識していたようである[5]。また、『門葉記』に採録された覚源(藤原定家の子)の日記[6]には、没後に慈円が四条天皇を祟り殺したとする噂を記載している。
また、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受けている。
歌人としても有名で家集に『拾玉集』があり、『千載和歌集』などに名が採り上げられている。『沙石集』巻五によると、慈円が西行に天台の真言を伝授してほしいと申し出たとき、西行は和歌の心得がなければ真言も得られないと答えた。そこで慈円は和歌を稽古してから再度伝授を願い出たという。また、『井蛙抄』に残る逸話に、藤原為家に出家を思いとどまらせて藤原俊成・藤原定家の跡をますます興させるようにしたという。『小倉百人一首』では、「おほけなく うきよのたみに おほふかな わがたつそまに すみぞめのそで」の歌で知られる。越天楽今様の作詞者でもある(歌詞はs:謡物を参照)。
※出典
慈円 - Wikipedia https://is.gd/4Mz47Q
2022年12月25日夜、ベランダから写した比叡山麓の夜景。雪曇の切れたわずかな晴れ間に星々が美しく輝いています。
今年もクリスマスの夜を迎えました。クリスマスおめでとうございます。今年もクリスマスの宵を共に過ごすことのできなかった方々に平安な一夜の幸をお祈りします。
ながき道を ひとりあるきて
罪多き 過ぎし日よ
すくいぬしの み声を聞きて
こころうごき わき立ちぬ (讃美歌Ⅱ-140)
詩篇第百三篇註解 - 海と空 https://is.gd/hr0wXw
Yesterday (With Spoken Word Intro / Live From Studio 50, New York City / 1965)
Yesterday
Yesterday, all my troubles seemed so far away
Now it looks as though they're here to stay
oh, I believe in yesterday
Suddenly I'm not half the man I used to be
There's a shadow hanging over me
Oh, yesterday came suddenly.
Why she had to go?
I don't know, she wouldn't say
I said something wrong
Now I long for yesterday.
Yesterday love was such an easy game to play
Now I need a place to hide away
Oh, I believe in yesterday.
Why she had to go?
I don't know, she wouldn't say
I said something wrong
Now I long for yesterday.
Yesterday love was such an easy game to play
Now I need a place to hide away
Oh, I believe in yesterday...
2021(令和3)年12月24日(土)晴.
クリスマス・イブの土曜日の今日、ゲーテ『親和力』第三章を読む。
第三章
大尉がエドアルト、シャルロッテ夫妻の屋敷に来る。到着前に大尉からの手紙を読んで、シャルロッテは大尉の人柄に安心感をもっている。久しぶりの再会でエドアルトと大尉は活発に語り合う。夕方になってシャルロッテは大尉に新しい庭の散歩を勧める。丹精を込めたシャルロッテの庭を大尉は大いに気に入る。東家 ⎯ それは苔葺の小家だったが、シャルロッテは二人のために飾っていた。男たちの会話の中から、大尉とエドアルトがいずれもそのファーストネームがオットーであることがわかる。屋敷の方角から猟笛の音が聞こえてきたとき、三人はお互いのつながりに深く幸福を感じる。
エドアルトは東家からさらに見晴らしのいい丘の頂上へと大尉を案内する。頂上へと通じる段々や坂道はシャルロッテが手入れをしたものである。その山峡の中を渓流が池にそそいでいた。池の傍らには居心地のいい休憩所のように水車小屋が立っている。そこから見渡せる見事な眺望を前にエドアルトは友人に子供の頃の思い出を語る。
やがて三人は満ち足りた思いで屋敷へと戻ると、大尉にはその右翼の広い一部屋があてがわれた。大尉はその部屋に書類や書物などを整えて仕事ができるようにした。エドアルトは初めの数日間は大尉を連れて馬や徒歩で所有地の一帯を案内して回る。エドアルトは所有地を有利に使うために測量術に長けた大尉に計測の計画を打ち明ける。エドアルトはそこで大尉から妻シャルロッテの庭園づくりの素人ぶりを指摘されるが、大尉はシャルロッテの自信を傷つけてはいけないと口止めする。しかし初めの間こそ口には出さなかったが、エドアルトはとうとう堪えきれずに男たちの庭園の構想を話してしまう。シャルロッテはそのことで動揺し、それまでの庭づくりの楽しみを失ってしまう。
一方で男たちは貴族的な暮らしぶりに耽ったので、シャルロッテは日増しに心さびしくなりゆき、それを紛らわすかのように、姪のくらす寄宿学校との手紙のやりとりを交わす。
寄宿学校から届いた女校長と助教師の手紙によって、姪のオッティーリエの寄宿学校での生活の様子が伝えられる。オッティーリエが食事を十分にとらないこと、偏頭痛もちであることなどが明らかにされる。
女校長の手紙に添えられた助教師からは、オッティーリエがフランス語の授業に抜きん出ていること、将来教師をめざしていることなど、しかし、シャルロッテは助教師がオッティーリエについて、まだ若く固い将来を秘めた果実にたとえて書いて寄越したことに、教え子に対する好意以上のものを感じて微笑まずにはいられない。
あけましておめでとうございます。
今年の年賀状の図柄は、西行が東北への旅の途上、遠州の天竜川の渡しで船に乗って渡ろうとしたときの情景を描いた「西行物語絵巻断簡 法師堪忍図」を使わせてもらいました。
そのとき船は乗り込んでくる旅人でいっぱいになりました。船頭は法師である西行に下船するよう命じ、彼の頭を打擲したそうです。西行はあがらうことなく手を合わせて祈りながら命ぜられるままに船を降りたというエピソードが描かれています。
記事一覧
(2014-12-31 23:30:21 | Weblog)
道長・頼通の時代までに拡大した摂関家領は、後三条天皇による延久の荘園整理や、代々の親族への分割譲渡により縮小してきていたが、忠実は摂関家の再興のために摂関家領の復興を行っている。
頼通の所領は正室の隆姫女王・嫡男の師実(忠実の祖父)・娘の寛子(後冷泉天皇皇后、忠実の養母)にそれぞれ分割譲渡されていたが、忠実はこれを全て相続。加えて忠実は母・藤原全子(藤原俊家の娘)、祖母・源麗子(師実正室、源師房娘)の所領も相続した(『近衛家文書』)。忠実は自ら相続したこれらの所領を合わせて、殿下渡領とは別の摂関家の不分割家領とした。
また忠実は個々荘園の拡大も行った。代表的な例として、平季基が開発し頼通の時代に摂関家に寄進した島津荘(薩摩国)がある。これは当初数百町歩しかない小規模なものであったが、忠実の代になって大隅国に約千五百町歩の新たな出作地を獲得している。
また、前述のように忠実は忠通に摂関の地位を譲った後も広大な所領(「宇治殿領」)を引き続き保有しており、後に「宇治殿領」は忠通に与えた「京極殿領」と娘の高陽院に与えた「高陽院領」に分けられたが、預所の補任などは引き続き忠実が行った[5]。さらに前者に関しては仁平年間に忠通を義絶した際に悔返を行って頼長に与え(近衛家所領目録「庄々相承次第」)、後者は高陽院没後は回収するなど、依然として忠実が実質上の所有者であり続けた。この状況は保元の乱後に「宇治殿領」全てを忠通に譲渡するまで続いた[6]。
こうした努力により忠実は豊富な財力を手にし、その邸宅は富家殿と呼ばれた。
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※出典
藤原忠実 - Wikipedia https://is.gd/ehrk5b