季節の変わり目を深く実感する今日のような日は、西行の歌を思い出す。秋の紅葉や春の花に触れては、西行の歌を介して世界を眺めたくなる。芸術家ならぬ私には、私の感性を芸術に形象化する技量はない。
日本にも歌人や俳人は多くいるが、その生涯の思想と行動について深く知りたいと思う者は少ない。西行はその数少ない一人である。私の見た西行の伝記をいつか書いてみたいというのは、いまだなお見果てぬ夢である。
松尾芭蕉や与謝野蕪村にないものが西行にはあると思う。芭蕉などは、私にとっては漢意(カラゴコロ)が強く、また現世的で、永遠の余韻が弱い。西行は仏教の影響を深く刻した歌人であったからだと思う。仏教思想が西行の和歌を深くしている。彼の歌には仏教の形而上学がある。
西行もまた多くの花を題材に詠んでいる。桜はいうまでもなく、紅葉、藤、なでしこ、菊、おみなえし、萩、桔梗、橘などそれぞれの季節に西行の思いを添えて詠んでいる。荻もまた秋を象徴する植物である。西行が秋風にそよぐ竹と荻に題材に取った和歌。二首。
おそらくこのふたつの歌は、同時に詠まれたものだろう。
山里へまかりて侍りけるに、竹の風の荻に
紛えて聞こえければ
1146 竹の音も 荻吹く風の 少なきに たぐえて聞けば
やさしかりけり
ある山里に参りましたところ、秋風が強くもなく、竹林の葉ずれの音も、あたかも荻の上を吹く風のように錯覚するほど、やさしいものでした。
世遁れて嵯峨に住みける人の許にまかりて、
後の世のこと怠らず勤むべき由、申して帰りけるに、
竹の柱を立てたりけるを見て
1147 世々経とも 竹の柱の 一筋に 立てたるふしは
変らざらなむ
出家して嵯峨野に住んでいる人の許を訪ねて、怠らず仏道修行に勤め励むことなどを語らって帰りましたが、その人がわび住まいをしている庵に、竹の柱を立てていたのを見たことを思い出して詠みました。
西行は親友が出家して嵯峨野に隠棲している庵をひとり訪ねてゆきます。秋も深まりつつあります。よく晴れた日も夕暮れて、しかも、風もほとんど吹くか吹かずです。いつもなら、竹林のこずえを吹き渡る風も凄まじいけれど、今日は荻の上を吹く風のように、やさしく柔らかい。竹林に差し込む秋の夕日が、友を思いつつ道行く西行のわびしさをなおいっそうつのらせます。
友だちは、嵯峨野の山里に粗末な竹の庵を結んで暮らしていました。久しぶりの再会に、いろいろ話もはずみましたが、お互いに西方浄土に救い取られることを願って出家した身の上、この世の執着も煩悩も強いけれど、互いに仏道修行を勤めようと励ましあって別れました。その帰途、友だちの庵にまっすぐな竹を柱に据えていたのを思い出して、次のような歌を詠んだことでした。
あなたのお住まいになる庵の、竹の柱がまっすぐ一筋に立っていたように、あなたが悟りをめざした仏道修行の志も、いついつまでも変らないでほしいものです。
こうした歌からも、西行などが生きた時代―――平安、鎌倉期――に、人々がどのような世界に生きていたかを垣間見ることができる。当時の人々にとって、生は決してこの世限りで終わるものではなく、むしろ、死後の生のために現世を生きていたことがよくわかる。
嵯峨野は今もいたるところに竹林におおわれている。秋も深まった頃に荻の花の上を吹き抜ける風は西行の当時と同じだろう。
今までに見たもっとも美しい荻野原は、遠州灘近くにあった公園の、池のほとりで、秋の風に荻の穂花がそよいでいた光景。