天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

荻の上風

2006年10月30日 | 文化・芸術
 

季節の変わり目を深く実感する今日のような日は、西行の歌を思い出す。秋の紅葉や春の花に触れては、西行の歌を介して世界を眺めたくなる。芸術家ならぬ私には、私の感性を芸術に形象化する技量はない。

日本にも歌人や俳人は多くいるが、その生涯の思想と行動について深く知りたいと思う者は少ない。西行はその数少ない一人である。私の見た西行の伝記をいつか書いてみたいというのは、いまだなお見果てぬ夢である。


松尾芭蕉や与謝野蕪村にないものが西行にはあると思う。芭蕉などは、私にとっては漢意(カラゴコロ)が強く、また現世的で、永遠の余韻が弱い。西行は仏教の影響を深く刻した歌人であったからだと思う。仏教思想が西行の和歌を深くしている。彼の歌には仏教の形而上学がある。

西行もまた多くの花を題材に詠んでいる。桜はいうまでもなく、紅葉、藤、なでしこ、菊、おみなえし、萩、桔梗、橘などそれぞれの季節に西行の思いを添えて詠んでいる。荻もまた秋を象徴する植物である。西行が秋風にそよぐ竹と荻に題材に取った和歌。二首。
おそらくこのふたつの歌は、同時に詠まれたものだろう。

   山里へまかりて侍りけるに、竹の風の荻に
   紛えて聞こえければ

1146 竹の音も  荻吹く風の  少なきに  たぐえて聞けば
   やさしかりけり

ある山里に参りましたところ、秋風が強くもなく、竹林の葉ずれの音も、あたかも荻の上を吹く風のように錯覚するほど、やさしいものでした。

   世遁れて嵯峨に住みける人の許にまかりて、 
   後の世のこと怠らず勤むべき由、申して帰りけるに、
   竹の柱を立てたりけるを見て


1147 世々経とも  竹の柱の  一筋に  立てたるふしは
   変らざらなむ

出家して嵯峨野に住んでいる人の許を訪ねて、怠らず仏道修行に勤め励むことなどを語らって帰りましたが、その人がわび住まいをしている庵に、竹の柱を立てていたのを見たことを思い出して詠みました。

西行は親友が出家して嵯峨野に隠棲している庵をひとり訪ねてゆきます。秋も深まりつつあります。よく晴れた日も夕暮れて、しかも、風もほとんど吹くか吹かずです。いつもなら、竹林のこずえを吹き渡る風も凄まじいけれど、今日は荻の上を吹く風のように、やさしく柔らかい。竹林に差し込む秋の夕日が、友を思いつつ道行く西行のわびしさをなおいっそうつのらせます。

友だちは、嵯峨野の山里に粗末な竹の庵を結んで暮らしていました。久しぶりの再会に、いろいろ話もはずみましたが、お互いに西方浄土に救い取られることを願って出家した身の上、この世の執着も煩悩も強いけれど、互いに仏道修行を勤めようと励ましあって別れました。その帰途、友だちの庵にまっすぐな竹を柱に据えていたのを思い出して、次のような歌を詠んだことでした。

あなたのお住まいになる庵の、竹の柱がまっすぐ一筋に立っていたように、あなたが悟りをめざした仏道修行の志も、いついつまでも変らないでほしいものです。

こうした歌からも、西行などが生きた時代―――平安、鎌倉期――に、人々がどのような世界に生きていたかを垣間見ることができる。当時の人々にとって、生は決してこの世限りで終わるものではなく、むしろ、死後の生のために現世を生きていたことがよくわかる。

嵯峨野は今もいたるところに竹林におおわれている。秋も深まった頃に荻の花の上を吹き抜ける風は西行の当時と同じだろう。

今までに見たもっとも美しい荻野原は、遠州灘近くにあった公園の、池のほとりで、秋の風に荻の穂花がそよいでいた光景。

2006年10月27日  


アニエールの水浴

2006年10月01日 | 文化・芸術

スーラーは後期印象派の画家として知られている。

印象派がなによりも捉えようとしたのは光である。丘の上で風に吹かれながら日傘をさす貴婦人に注がれる陽光のきらめく自由な美しさ、水平線の彼方から霧を透かして朝日が上るとき、海原に揺らめき反映する赤い光の美しさを画布に捉えようとした。ルノアールやモネらの印象派の画家たちは型にはまりつつあった古典派の画家たちから離れて、色彩にあふれた自由な自然を再発見し、光の変転極まりない動きと色彩を瞬間において捉えようとする。


新興のブルジョアが機械と動力を用いた工業的生産によって豊かな富と作りだし、それによって自由と快楽に満ちた個人主義の都市生活を享受しつつあるとき、伝統的な貴族社会が崩壊して、かっての宮廷画家たちの長い徒弟修業の後に習得される古典的な技巧によって確立された様式美は、時代精神には合致しなくなった。


資本が産業や工業の世界で作り出す都市での豊かな富と自由な生活は、モネやマネ、ドガたちの絵画にも見られるように、古典的な技巧から絵画を解放し、色彩という人間の感覚と不可分な光を捉えることによって、精神は自由な色彩の表現へと、さらに、具象から抽象へと進もうとする。やがてそれらはカンデンスキーらの純粋抽象へ橋かけるものである。

絵画は線と面と色彩という二次元の世界で思想や精神を表現するものである。上の「アニエールの水浴」と呼ばれているスーラの絵は、セザンヌの水浴の裸婦たちのような、三次元の立体を色彩と線と面によって抽象化を力強く進める芸術家の対象把握と自然の理念化とは少し異なり、ロマン的な感情移入を色濃く残している。

キャンバス画面は、遠景の橋によって、上下1対2に分割構成され、さらに、左上から右下へと大きく伸びる対角線によって斜めに二分割されることによって、静かな画面に動きを呼んでいる。私たちの視線は導かれるようにして、画面の中央に座っている少年へと注がれる。

川辺の芝草の上に座し、あるいは寝そべっている男たちの視線はみなそれぞれ対岸へと向かっている。ただ、中央の少年の右脇にあって、背をこちらに向けて、胸まで浸かっている金髪の少年だけ、他の人物たちとは視線の動きが逆になっている。

画面右下で、川の瀬に半身を浸からせている小年の口に手を当てるしぐさは、水平と垂直の構図から漂う静寂の中に、何らかの音の響きを感じさせる。

画布の中の男たちのそれぞれの造形は互いに自由で独立的で共通性がなく、都会生活の中の孤独と不安を感じさせる。遠く橋の向こうにたちこめる煙りは、工場の煙突から吐き出るものだろう。スーラの精神的内面はすでに現代人のものを予感している。

習作

2005年09月10日  


天高群星近