天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

万葉考(1)

2012年06月08日 | 文化・芸術

 

万葉考(1)

天皇遊猟蒲生野時額田王作歌

二〇  あかねさす  紫野逝き  標野行き
                   野守は見ずや  君が袖振る

                       額田王

あかね草の植わった、紫野を過ぎて、私たちは御門の猟場にまで来ましたが
野を見張る番人は見とがめないでしょうか、あなたが私に向かって袖を振るのを。

皇太子答御歌  明日香宮御宇天皇諡曰天武天皇

二一  紫の  にほえる妹を  にくくあらば
                   人妻ゆゑに  われ恋ひめやも

                        天武天皇

紫の色の匂うような、高貴な美しさを秘めたあなたを、もし憎らしく思うのであれば
人の妻であるあなたを、私が恋しく思うでしょうか。

日々の生活に追われていると、万葉集をひもとくなどということは、なかなか思いもつかない。それでも、何かの折りに、昔に学校などで習った万葉集のいくつかの歌がふと頭をよぎって思い出されることがある。

私たちが生活のなかで繰り広げるさまざまな行動や、そこで出会うさまざまな体験、またそれらを通じて湧き起こってくる感情や思念が、かって過去において経験したことと重なることも多々ある。それを記憶が教えるとき、そうした現象は「デジャブ」とか「既視感」とも言われる。

過去の経験といっても、それは必ずしも私たちの現実に体験したことばかりとは限らない。単なる個人的な経験を越えるものであることも少なくない。詩歌、演劇その他の芸術を通じて疑似体験したこと、そうした無数の「経験」をも記憶に留めてもいるからである。それは学校教育などに典型的に見られるような、言語などと象徴的に結びついた文化環境でもある。

日々の暮らしのなかで引き起こされる情感は、すべて個別的で特殊な情感であるとしても、同時にそれらはまた、古代人の体験したものと同じ体験、同じ表象、そこから湧き出る同じ感情であることも多い。その思念や情感は現代人にも共通する普遍的なものでありうる。だからこそ万葉集などに記録された感情や思念は、今に生きる私たちの記憶や表象において蘇る。さもなければ、一五〇〇年も前の詩歌に共感を覚えるはずはない。

男と女が存在していて、互いに面識があり、それどころか袖を振りあって自らの存在を相手に知らしめようとするほどに、お互いに親近感を持っている。それは単なる親近感以上の恋愛感情にまで深まっている。

二〇番の「あかねさす」の歌には「天皇の蒲生野におん狩りせられし時に、額田王の詠める歌」という前書きが付せられている。このことからも、この和歌の背景には帝の狩りの行幸のあったことがわかる。しかし、この和歌が果たして実際の狩りの途中に詠まれたものか、あるいは、その後の宴の中かどこかで、狩りの記憶を留めながら詠まれたのかどうかを実証することはむずかしいと思う。しかし、いずれにしても、狩りの御幸のさなかに交わされた男と女の感情の交流がこの歌の主題であり、その折りの繊細な情感が和歌として象徴化されているという真実には変わりがない。

額田王が天智天皇と大海人皇子の二人の男性から実際に愛されたかどうかは、この歌の本質には係わらない。ここでは身分の差を超えて、世の中の男と女の常として、二人の異性から同時に思いを寄せられることのあったことさえわかればいい。それはいつでもどこでも、誰にでも普遍的に共有される感情でもある。しかし、それが身分や近親関係その他の社会的な禁忌に触れる場合、その感情の抑制はいっそう深刻なものとなる。

個人の自然的で自由な欲望も、社会という共同性の中に生きるという宿命のなかで、それが往々にして悲劇的な結末に至るということも少なくない。この歌に続く天武天皇の「紫の・・・」の応答歌の中に「人妻ゆゑに」という一句があることによって、紛れもなく疑う余地のないものとなっている。

額田王のこの詠唱は、そのような状況におかれた女性の不安と歓び、動揺と怖れなど入り混ざった複雑で微妙で繊細な、矛盾しあう感情の美しい表出となっている。額田王のこの不安は、やがてこの歌を詠じた大海人皇子(後の天武天皇)が、兄である天智天皇の崩御ののち、その皇子であり甥でもあった大友皇子と皇位をめぐって争い、敗れた大友の皇子は自害することになる。額田王の詠唱に見られる不安なおののきも、672年に起きた古代の内乱、「壬申の乱」と無関係とは言えないかもしれない。

万葉集に収めれた和歌は古代の日本人の思考や感情の記録を留めるもので、それらのより純粋な始源としての価値は揺るがない。仏教や儒教など人為的な道徳感情や形而上学にもいまだ冒されてはおらず、日本人の意識にそれらが深く浸透する以前の、素朴な古代人の純情が保存されている。貴族たちの技巧と洗練で作歌された新古今和歌集などの詠唱と比べれば、それは歴然としている。万葉集は天真爛漫で素朴な感情が滾々と湧き出ずる清流の源泉ともいえる。

現代人の思考や感情は複雑で紆余曲折があって、それが二重化された自意識の大人の産物であるとすれば、万葉人のそれは、まだ少年のように一面的で、それだけに単純で素朴である。また言語としての日本語の純粋さや原点を思い起こすときにも、万葉集は常に立ち還るべき原風景であり故郷でもある。また、日本の古代史探究の上でも興味は尽きない。

 


津山(二)――――種子と土壌の問題

2010年02月16日 | 文化・芸術

 

津山(二)――――種子と土壌の問題

津山では、私も商店街を歩いてみましたが、多くの地方都市がそうであるように、たしかに気がつくかぎり、津山もまた商店街の一部にはシャッターが下ろされていました。それほどに活気があるようにも思えませんでした。

日本国の力強い経済復興は、そして地方都市の再生という困難な課題の解決は、鳩山由紀夫氏のような、夢想家の指導者には望むべくもありません。それどころか、現在の鳩山(小沢)民主党政権の政策のゆえに、やがて一億国民が総化して、かってのアルゼンチンなどのように、いずれ国家破産を招くことになるでしょう。

それにしても、津山で私が思ったことは、「文化の土壌」という問題です。文化の育つ土壌ということを考える時、その土地の歴史と伝統とは切り離せません。文化の一つの象徴的な事例として、キリスト教のことを取りあげてもそうです。

安土桃山時代に南蛮文化が渡来してからも、キリスト教は全国に普及しましたが、徳川政権によって、その切支丹禁教政策によってほとんど息の根を止められてしまいました。

明治時代に入ってキリスト教は解禁になりましたが、しかし、それが受け入れられるとしても、全国津々浦々というわけには行きませんでした。

おなじイエスの教えを聴いても、それを受け入れる土壌がなければ枯れてしまいます。それが育つためには、それなりの土壌が必要だというわけです。このことについては、イエスが「種を蒔く人」にたとえて話されたことで有名です。

その種子がやがてどんなに美しい花を咲かせる可能性を持っていても、その種が道端に落ちてしまっては、鴉が啄んでいってしまって、花も咲きませんし、石だらけの土地に落ちても根付きません。茨の間に落ちても、成長を妨げられて育ちません。(マタイ書第十三章)

これまでも限りなく多くの人がキリスト教についても聴いているはずですが、津山の森本慶三や信州の井口喜源冶のようにそれを根付かせる者は限られていたという事実です。

ここでの私の問題意識は、キリスト教であれ何であれ、一つの文化的な事象が「根付くか根付かないか」その根本的な差異はどこから生まれるか、という問題です。その背景にその土地の文化、その場所の「歴史と伝統」があると考えざるをえません。

森本慶三の育った津山という土地、あるいは場所は、かっては織田信長の小姓であった森蘭丸の弟の森忠政が美作国津山藩の初代藩主となったところでした。しかし、その後、跡継ぎを得られなかった森家は断絶し、津山藩は改易となりました。そうして一六九八年(元禄11年)に越前松平家から、松平長矩(宣富)が美作津山藩を拝領して藩主となり、江戸幕府の直轄地となってそれが幕末、明治維新まで続きます。幕末、明治に日本の洋学の発展に尽くした箕作 阮甫などはこの津山藩主松平家の藩医として抱えられた家系に属していました。

幕府親藩の城下町として、津山という土地は、それなりに高い武家文化を保持していました。それは、歴史民族館を見学していてもわかることです。そして、商人の家系として、銀行の頭取の息子として森本慶三はそうした場所で生育し、明治と東京という時代と場所で内村鑑三のキリスト教と出会い、それを種として津山という土地に持ち帰り根付かせたのです。

とは言え、文化の継承と土着いう問題は、そこに人間の意思という問題が介在するゆえに、たとえ、森本慶三と全くおなじ境遇が存在したとしても、それで必然的に同じくキリスト教が受容されるということにはならないと思います。それが文化の継承という問題が、機械のようには一筋縄には行かない、むずかしいところなのでしょう。

 

 

 


HIROSIMA MON AMOUR――広島、私の愛しい人

2010年01月31日 | 文化・芸術

 

HIROSIMA  MON AMOUR――広島、私の恋人


もうすっかり古い映画になってしまっていたが、その名前だけは聴き知っている映画というものも、決して数少なくない。先日YOUTUBEを見ていた時に、たまたまそうした映画の一つで、「HIROSIMA  MON AMOUR」が投稿されているのを発見した。アラン・ルネ監督、マルグリット・デュラス脚本作品である。時間の合間に見た。これまでもこの映画の存在自体は知っていたが、DVD版でも購入して見るほどでもないだろうと思っていた。また、フランス語など、ラテン系の言語についてはまったく盲目の私にとっては、フランス語の映画にも縁が遠かった。YOUTUBEの投稿映画には英語の字幕がついていたので、何とか映画の内容も追いかけることが出来そうなので見た。

Hiroshima Mon Amour 1/9
http://www.youtube.com/watch?v=Hgh5zH0yZXo&feature=related

この作品は、ほとんど抽象化された名前も持たない二人の男女が主人公である。この映画の邦題が「二十四時間の情事」」となっているように、フランスから来た女優と日本の建築家の男性との間の、24時間のrendez-vousをめぐって物語は展開して行く。映画の冒頭は、クローズアップされた二人の肉体の絡み合いに象徴されるエロスのなかで交わされる対話から始まる。

広島で出会った男は、フランスから来た女に向かって、「あなたは広島に来て何も見なかった」と言う。それに対して、女は「原爆博物館を四回も見学し、広島の原爆について多くの説明も聞き、まだ、原爆被害者の多くの入院している病院を訪れ、悲惨なその被害も実際に見、多くのニュースフィルムも見て、広島の原爆と戦争の現実を十分に知っている」と言う。
 
この映画の冒頭に、広島の原爆被害の記録フィルムをドキュメントとして映画の中に挟み込むことによって、この映画はドキュメントとしての性格を、先の第二次世界大戦の歴史的な記録性をも留めている。そうした歴史的な事実の上に、一人の女と男が、しかもフランスと日本という互いに遠く離れた国籍を持つ男女を関わらせることによって、この映画に、さまざまな象徴的な意味をもたせようとしている。

男と女がベッドの上で交わす会話のなかで、それぞれの過去が明らかになってくる。二人はいずれも、先の第二次世界大戦という戦争の西と東で戦われた惨劇の傷を深く心に刻んだ個人であることがわかる。女は今は女優となり、その仕事から撮影する反戦映画に出演するために広島を訪れる。広島は人類史上戦争ではじめて原子爆弾が投下された土地として、人々の意識に深く刻み込まれている。だからこそ、この女優でもある女は、いまや反戦平和の象徴ともなっている広島を訪れ男と出会う。そして、それぞれ戦争の傷を深く抱え込んだ被害者同士の出会いが、合わせ鏡のように、それぞれの心の戦争の傷を互いにさらけ出すようになる。

女は今は女優として、反戦映画にかかわっている。しかし、先の世界大戦では敵国ドイツの兵士を愛したことで、故郷ヌベールの人々から屈辱を受け、両親の家からも追い出されるようにパリに出ることによって、彼女には戦争の記憶が深いトラウマになって残っている。だから彼女にとって故郷ヌベールの記憶は、ドイツ兵との初恋の記憶とも重なる。彼女がつらい記憶から忘れ去ろうとしていたドイツ兵は初恋の人でもあり、また、村を流れるローレ川の岸辺の美しい土地の記憶は、同時に一方で、故郷の人人から屈辱を受け、また地下室で狂乱の日々を暮らした精神的な深い傷を残した場所でもある。

だから彼女にとって、その記憶を失うことは、苦しみから救われることでもあるが、また、ドイツ兵との初恋の思い出を記憶として喪失してしまう恐怖にもなる。いずれにしても、彼女は故郷ヌベールの刻印とそれへの憎しみの呪縛とから解放されない。たとえ、その記憶の古傷の痛みのために、表面的にはその記憶は狂気によって無理矢理に喪失させられているとしても、いつでも、どこでも、きっかけさえあれば、その記憶の古傷は蘇ってきて、現在の彼女を苦しめる。

それゆえに、彼女は自分の古傷を思い出させる男、広島に対して怒りの叫びで抗議をする。戦争は深い傷跡を残す。第二次世界大戦で、人々に、人類に残したその精神的なトラウマのもっとも深刻で象徴的な事件の起きた場所が、広島でありアウシュビッツである。また、女がフランスの故郷ヌベールで体験したような悲劇は、小アウシュビッツ、小広島のような事件として、戦争の行われたところならいずこにも無数に存在した。

この作品が撮られたのは、1958年から1959年に架けてである。だから、まだ戦後14、5年しか経っていない。この映画にも、広島も原爆の惨劇から復興し始めている町並みが撮され記録されているとは言え、まだ多くの原爆被害者たちも病院の至るところで見られる。また左翼による反戦活動や、原水爆禁止運動などが激しく戦われていた時代の背景も記録されている。映画の中に、反戦映画の撮影現場自体を画面に登場させることによって、たとえ皮肉なかたちによるとしても、この映画もまた兵器としての原子爆弾の現実を告発している。この映画の作られた翌年の1960年にはフランスにおいても、アメリカ、ソ連、イギリスに次いで世界で第4番目に核爆発実験を成功させている。

映画の冒頭で女が原爆博物館に訪れる画面で映し出される、広島が深く刻み込んでいる戦争の記憶は、女に昔のトラウマをふたたび呼び起こす。戦争が深い精神的な傷を刻み込んでいるということでは、男にとっての広島も、女にとってのヌベールも変わりがない。

彼女がふたたび不可能な愛を見出してしまった広島の男もまた、家族を失って戦争の深い傷を抱えた男であり、男は広島の象徴として存在し、この男との出会いは、彼女につらい記憶の傷の痛みから忘れ去ろうとしていた初恋のドイツ兵のことを思い出させる。

故郷ヌベールの記憶は、ローレの美しい川に象徴される甘くなつかしい記憶とともに、敵国ドイツ兵との恋愛ゆえに、彼女が故郷の人々から受けた屈辱や、地下室で過ごした狂気のつらい記憶も留めている。彼女はその心に受けた傷によって、過去の記憶をすべて忘却の淵に流し去っていたのだ。しかし日本の広島で彼女は男を愛することによって、そして広島のつらい戦争の記憶を自分のものとすることによって、フランスで忘れ去ろうとしていた故郷ヌベールのつらい自分の記憶とともに、異国の土地日本の広島の男との不可能な恋の記憶とともに生きようとしている自分に気づく。

戦争をどのように理解するか。その象徴としてのヒロシマやアウシュビッツをどこまで理解しうるか。この映画が問題提起するそのレベルも人によってさまざまだろう。また、人間にとって記憶がどのような意味をもつのか、またその記憶が、心に刻み込まれる精神の傷として残されたとき、人はその傷とどのように関わりながら未来の日々を生きてゆくべきか?この映画はたしかに、愛がそのための勇気を与え、癒し、救う可能性を秘めたものとして描いてはいる。

映画を構成する一つの要素である音楽の効果も優れている。すだく虫の音が、多くの画面でBGMのように使われている。カメラワークが映し出す復興しはじめた当時の広島の街と人々の暮らしの様子。この映画には戦後まだ十四年しか経っていない広島の街や夜の歓楽街と人々の暮らしが、美しく記録されている。女を演じているまだ若いエマニュエル・リヴァも、彼女がフランス人の女優であったからこそ、まだ復興し始めたばかりの広島の古くさくみすぼらしい街並や駅の構舎の光景にも、それほど違和感も感じさせずに溶け込んでいるのかもしれない。アメリカ人女優やアメリカ映画に、果たしてこの映画のような共感と情感はかもしだせただろうか。

 

 

 

 


敗戦国民の焼き印――「浮雲」―成瀬巳喜男監督作品から

2009年01月17日 | 文化・芸術

 

敗戦国民の焼き印――「浮雲」―成瀬巳喜男監督作品から

もう1月も半ばを過ぎて、お正月気分ももうどこかへ消えかかっているが、お正月休みの時、テレビ番組も低俗でマンネリ化していてつまらないので、久しぶりにDVDで今は亡き成瀬巳喜男監督の「浮雲」という古い作品を取り出して見た。

浮雲
http://www.geocities.jp/yurikoariki/ukigumo.html

主演女優は高峰秀子、男優は森雅之である。こうした一昔前の俳優は今の人にはすでに忘れられて知らない人も多いかもしれない。成瀬巳喜男の監督した作品は芸術として事実を淡々と描写して行くだけで、社会批判や理屈をとくに大上段に振り上げているわけではない。しかし、この「浮雲」のなかで高峰秀子さんが演じていた「ゆき子」も、太平洋戦争の日本の敗戦の過程でみずからの運命を大きく変えられ、薄幸のうちに亡くなった一人の無名の女性だった。現代国家の運命は女性や子供も含めて国民ひとりひとりの運命に直結している。

映画の発端となる舞台は太平洋戦争で、日本軍が仏領インドネシアに進駐するに従って農林省の技官であった富岡(森雅之)も日本から出張してくる。その時に事務所にタイピストとして働きに来ていたのが、ゆき子(高峰秀子)だった。そこでふたりは知り合うが、富岡は現地に単身で赴任してきており、日本に妻を残していた。だから、ふたりの関係はいわば不倫の関係であった。そして当時のすべての日本人がそうであったように、敗戦によってふたりの運命は暗転する。

映画「浮雲」の批評そのものはまた別の機会に語りたいと思うけれども、要するに、主人公の「ゆき子」は、空襲によって荒廃した日本に終戦にともなって帰国したものの、すでに妻のいた富岡との復縁もかなうことはなく、それでとうとう食い詰めてオンリー(進駐軍兵士専門の娼婦)に身を落としてしまう。敗戦後も間もなく流行した「星の流れに」という歌の中にも、「こんな女に誰がした」という歌詞があったが、主人公ゆき子のような境遇の事例は数多くあったのだと思う。実際にも多くの日本人女性が戦争花嫁としてアメリカなどに渡っていった。ゆき子のつらく悲しい生涯に戦後の日本が象徴されている。

日本の敗戦によって威信や信用を失ったのは、だれよりも旧大日本帝国軍の軍人たちだった。実際どのような国においても、敗戦国の軍人や男性が信頼や価値を失うのはやむをえないといえる。とくに戦前の日本はかならずしも民主化が十分に進んでおらず、封建時代の名残もあって軍隊には階級意識や権威主義、事大主義が濃厚で、偉ぶっていた軍人も事実として多かった。だから、敗戦をきっかけに旧日本国軍や軍人たちが国民の信用を大きく失うことになったのもやむをえない面があったといえる。

それに輪を掛けたのがGHQなどの占領軍の手によって行われた占領政策だった。日本をアメリカに二度と対抗できない国にするための戦後教育を受けて育った女性たちには、旧日本国軍人についてとりわけ悪印象を植え付けられている。彼女たちの多くが兵士について抱いているイメージと言えば、売春宿の入口で眼の色かえて「順番待ち」をしている脂ぎって汚れた兵士たちの顔であったり、二等兵をいじめている醜い顔の軍曹であったりする。

こうした軍人観がとくに戦後の日本女性の多くの中に戦後教育や映画などを通じて刷り込まれているために、軍隊や軍人たちに対して、さらにはそこから父や兄弟など男性そのものに対して尊敬心など持てなくなってしまっている場合が多いのではないだろうか。少なくとも潜在意識の中ではその傾向にあるといえる。とくに法政大学教授の田島陽子女史や東京大学の上野千鶴子教授など教育を受けたインテリ女性ににその傾向が顕著に見られるように思える。

しかし、国家と国民の身体、生命、財産の安全を、みずからの命を呈して守ろうとする軍隊や軍人に対して尊敬の念を持てないでいる国民は不幸で哀れだ。アメリカやイギリスなど、かって大きな敗戦をこうむったことのない国民の間では軍隊や軍人ははるかに尊敬されているし憧れられてもいる。日本の自衛隊のように、たんに占領時代に制定された憲法上ばかりでなく、これほどに多くの国民から白眼視されている「軍隊」の存在も他国には例を見ないだろうと思う。

映画「浮雲」の女性主人公ゆき子に象徴されているように、戦争では多くの女性が薄幸の運命を担わされた。満州からの避難民や広島、長崎の原爆、東京大空襲のような悲惨な体験をした日本の女性の多くに軍隊や軍人に対する嫌悪や忌避の傾向の強いのも仕方がないと思う。また、戦後の日本の教育をになった教師などに共産主義者も多かったから、彼らは自分たちの階級史観から戦前の旧大日本国帝国軍隊や軍人を全否定する教育を行ってきた。

その教育宣伝による意識形成の典型が先の田島陽子女史やノーベル賞作家の大江健三郎氏なのだと思う。彼らの軍隊観、軍人観には肯定的な要素はまったく見られない。自国の軍隊や軍人の道義性に対する信頼やその意義についての認識が完全に失われているのである。しかし、このような国が日本以外にあるのだろうかと思う。占領統治が終わって戦後60数年も経った現在もなお軍人、軍隊に対するコンプレックスを克服しえていない現状には、日本国民の資質に、とくに主体的な民主化能力に欠陥があるというしかない。そのコンプレックスは今なお、茶髪や一重まぶたの整形手術にも現れている。

評論家の櫻井よし子さんは、戦後の女性の変化に触れ、次のように述べておられる。
「手本となる先人に思いを馳せその学びを新しい年に生かしたい」
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2009/01/03/

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「戦後の日本でいちばん大きく深刻に変わったのが女性ではないかと、私は感じている。家庭のあり方が妻や母たる女性の価値観や姿勢で決定づけられるように、戦後の日本社会の変化は、男性よりも、女性によってなおいっそう促されたと思う。だからこそ、かつて世界の人びとを感嘆させた日本人と日本社会のすばらしさの原点が、控えめながらも芯の強い、公の意識を持った女性たちであった面を思い起こし、その実例を知ってほしいのだ。」
>>

女性解放が声高に叫ばれる現代においても、とくに「女性解放」の遅れていると言われる日本では、確かに女性はいまだ社会の表面では表だって目立つ存在でないかもしれない。しかし、社会のあり方を決める上で女性の存在のあり方が決定的に重要であることは、「女性解放」などという安っぽいスローガンが叫ばれる以前に、封建時代と言われる江戸時代においても現代においても変わりがない。

とくにわたしたちの話すことばが母語とも言われるように、人は誰でも、まず母親から感化されるのである。民族の文化はとくに母親を通じて受け継がれてゆく。ユダヤ人社会でも、母親がユダヤ人であれば子供もユダヤ人になる。父親がユダヤ人であるだけではユダヤ人とは見なされないのである。

だから、母親の受け継いでいる伝統文化や倫理が歪められ損ねられた民族は崩壊してゆくだけである。もし明治期に優れた人物を多く輩出したとするなら、その背景には彼らを生み育てた明治の立派な母親たちの存在を抜きにしては考えられない。その母親たちは、たしかに田島女史や上野女史のように社会的にも有名にもならず歴史に名も残さずひっそりと消えていったかもしれない。しかし、その誰にも知られない生涯の価値は決して見過ごされてよいものではない。女性はその国家、民族の気質、伝統を守り育てる母胎である。

だから、ある国家、民族を崩壊させようと思えば、その女性の気質を破壊すればいいのである。そのために田島陽子女史のようなもっとも亡国的なウマシカ女性を無数に作り出せばよいのである。

さらに、日本の軍隊や軍人に対する忌避や軽べつの感情の根源には、日本の敗戦のために、日本軍人による過失や戦争犯罪を、日本軍自身の手による軍法会議などによって自律的に裁く機会を持ち得なかったということもある。日本の敗戦のために、日本の将兵たちの過失や戦争犯罪を旧日本国軍みずからの軍法会議で裁くことができず、それらをすべてこの戦争の勝者である連合国占領軍の手にゆだねざるをえなかった。

そのために軍人政治家から参謀本部の指導者、末端の将兵にいたるまで、日本軍人の過失や戦争犯罪を日本の軍法会議や司法の権限で裁きにかけることができなかった。そのことも、日本軍人に対する国民の信用をさらに大きく失墜させることになった。

日本軍兵士たちが戦争の混乱にまぎれて非戦闘員である女性や子供たちに対して犯した戦争犯罪や軍規違反、またインパール作戦のなどの戦略上の重大過失を、日本軍の軍法会議や一般司法裁判所で自律的に糾弾し処断することができていれば、もう少しは日本軍人たちの名誉も信用も権威も保つことができたかもしれない。

敗戦によって一切の権威と権力を失っていた旧日本軍には、みずからの軍法会議と司法によって、戦争の混乱のどさくさにまぎれて行われた日本軍の将兵たちの戦争犯罪を、旧日本軍自身がみずからの手で主体的に厳しく断罪することはできなかった。

もし旧日本国軍がそれだけの自浄能力を備えていれば、後世幾世代にもわたって同じ日本国民から、とくに日本女性たち自身から、彼女たちの祖父や父や兄弟に当たる旧日本国軍人に対する、あることないこと一切合切の軽べつの罵詈雑言その他の言辞を投げつけられるような哀れな状況を避けることができたかもしれない。

 

 


短歌と哲学(4)

2008年10月23日 | 文化・芸術

 

ここで古典作品の二三を検討することで、短歌における芸術と哲学の関係について考察してみたい。

まず『伊勢物語』の中からいくつかの作品を取りあげてみる。

第九十七段  四十の賀の歌

むかし、堀川のおほいもうち君と申す、いまそかりけり。四十の賀、九条の家にてせられける日、中将なりける翁、

櫻花ちりかひ曇れ老ひらくの来むというなる道まがうがに

この和歌の中にも多くの事柄が語られている。「堀川のおほいもうち君」という人物が、「むかし」という言葉によって、歴史的に存在した人物として記録されている。この太政大臣が藤原基経であること、そして、基経の四十歳の誕生を祝う祝賀会が九条通にあった基経の屋敷で開かれていた事実も歴史的な背景を探ることによって明らかになっている。しかし、和歌、短歌としては、そうした個別具体的な歴史的な真実についての知識や認識を和歌の鑑賞の必須要件としているわけではない。

確かにこの和歌には、「太政大臣」という平安時代の官職制度や、中将という地位にあった在原業平とおぼしき人物など、これらが短歌の背景であり舞台となった歴史的な事実も記録されているし、またこの短歌を手がかりにさまざまな歴史的な真実を探ることもできる。

しかし、言うまでもなく和歌によって詠われている主題は、そうした個別具体的な事実を超越したところに成立する。それは観念的に昇華された普遍的な真実であり、そこに芸術としての意義もある。この短歌においても、桜花の散り舞い落ちる道という具体的な美的な形象のうちに「老い」への道程を断ち切ることを願う人間的な真実が詠い込まれている。

一個の独立した芸術ジャンルとしての短歌は、三十一文字の裡に言い現された美と真実の統合のうちに、そのとき歌人が揺り動かされた心への実存的な共感に、その価値を見出すのだろう。もちろん、それが時代と個人のその歴史的な記録性としての価値をもつとしても、それは従属的な副次的なものである。

次の歌は、儀礼的な環境で詠まれた先の四十の賀の歌よりは、真率な感情が詠われている。

第百二十五段(伊勢物語)

むかし 男わづらいて 心地死ぬべくおぼえければ

つひに行く道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを

ここでは、人間にとって絶対的な制約である死が歌の主題になっており、それがひとりの人間に対してどのように臨んだかを和歌の詠唱という形式において明らかにされている。哲学が散文的に概念的に死の意義を論じるのに対して、短歌においては直観的に感覚的に訴える点において、そこから受ける印象は哲学以上に強烈であるといえ、また概念的ではないだけ大衆的でもある。

この歌には死が何らかの具体的な表象において描かれてはおらず、もっぱら死という普遍的な人間の真実に「きのうけふ」直面した人間の心情が率直に詠われているだけである。
業平はもちろん自然発生的な感情に駆り立てられてこの和歌を詠ったのであって、現代的な意味で死を哲学的な自覚において作歌したとは考えられない。

しかし、もし「死」が植物、動物をはじめあらゆる生命として存在の、したがって同時に人間としての究極的な原理の一つで絶対的な限界であるとするなら、業平によって詠まれたとされるこの短歌の主題は、まぎれもなく哲学と共通している。

死は確かに個別具体的な「事実」ではあるけれども、その事実も、またその際に人間にもたらす精神的な「感動」も、それが「短歌」という形式において作られることによって、死のもつ意義を感情的にまた反省的に捉えることができる。それは言語をもつことによって本来的に「観念的」な動物となった人間のみに可能なことである。人間の感情はすでに言語を介在させたものになっている。言語をもたない動物は「死」を反省的に捉えることはできない。

すでにここでは短歌が芸術と哲学の接点において詠われていることは明らかである。万葉歌人にはまだ死をこのように反省的に捉える段階には達していなかった。実際「死」というような哲学の主題ともなりうる事柄が、業平によって象徴的に感情的に詠われはじめたことに短歌の発展が見られるといえる。

ただ短歌においてはそうした抽象的な主題が、感覚的に感情的に表象することに意義がありまたそこに限界もある。個別芸術としての短歌はそれに満足するしかないが、しかし、業平の時代とは異なって、はるかに深刻で分析的な意識を持った現代人が歌を作るときには、そこにより自覚的に哲学的な主題を短歌に設定することもできるだろう。

西行の『山家集』の中には次の歌がある。

六波羅太政入道持経者千人集めて、津の国和田と申す所にて供養侍りけり。やがてそのついでに万燈会しけり。夜更くるままに、燈火の消えけるを、各々点しつぎけるを見て

862   消えぬべき  法の光の  燈火を  かかぐる和田の  泊まりなりけり

西行や紫式部の和歌は、もはや万葉歌人のように天真爛漫のものではありえない。彼らの歌には当時の時代思潮である仏教思想が浸透している。仏教の観念を意識した人間によって詠まれている。その意味で歌人もまた時代と民族の子である。時代の不安に仏教に救いを求めて出家した西行の意識が、この和歌の中にも色濃く反映している。

当時の没落しつつあった貴族社会に流布していた末法思想の不安な世相の中で、万燈会に点された灯火が今にも消え入るように揺らいでいる。和田の泊まりの海面は、そのおびただしい灯火を映している。それを見た西行の不安な心象風景が、美しく妖しく幻想的に詠まれている。

この短歌の詞書きには、この歌の詠まれた背景がくわしく語られている。それによって私たちはこの和歌の詠われた背景をくわしく知ることによって、この和歌の鑑賞においてより深く味わうことも可能になる。

時代の混乱と不安の中におかれたこの現世で、西行が出会い見つめた美しい光景の一瞬がこのように詠まれることによって、一個の短歌の作品として象徴的で普遍的な独自の存在価値をもった創作として記録されている。

西行は平安期末の京都を中心とした日本という特殊な環境に生きたのであり、それが彼の運命であったのだが、それは西行に限らず、どんな人間においても、その生存は特定の地理的な場所と歴史的な時間の制約にある自然的および社会的な環境の下に生きざるをえない。場所と時間は人間がその生活を営む舞台である。

現代に伝わる万燈会

人間は時代と空間に規定されている。個人はすべて時代と民族の子である。そして、短歌はそのような運命におかれた人間の生存の記録としての意義ももちうる。西行のこの歌はそれを示している。

これらの三つの作品によっても、伝統的な従来の短歌が、今日でいう哲学的な主題をどのように取りあげているかを見ることができる。とりわけ西行の「消えぬべき」などの短歌は、芸術と哲学の境界の上に咲いた美しい花といえる。

最後にもう一つ言い置かれなければならないことは、あるいは、言うまでもないことかもしれないが、西行であれ業平であれ、彼らの和歌に彼らの置かれた社会的な地位や身分が反映されていることである。

当時の社会の中では彼らは貴族階級に上流階層に属し、彼ら自身は生産的労働に直接的に従事しなくてもよい身分にあったらしいことである。生活に余裕がなければ、彼らのような歌もまた詠まれることはなかった。その意味でも、彼らの詠唱はこの上ない贅沢の上に成り立った産物であるということができる。

 

 


短歌と哲学(3)

2008年10月22日 | 文化・芸術



文学は言語のもつリズム、音韻によって本来的に音楽性を含んでいる。また言語は概念と表裏一体である同時に、たとえ抽象的ではあってもその表象が色彩や形象をもつ点で美術の性格の側面も併せもっている。それゆえ言語芸術である文学は芸術と哲学の境界に位置する。

その文学の一ジャンルである短歌は、もちろん個別芸術としてそれ自体の自立的な完全性をもち、独自の価値を追求する。その自立的な完全性は、短歌の形式である三十一文字のもつ音韻とリズム、その言語のもつ表象の象徴性のなかにある。

しかし、文学としての簡易な様式のゆえに短歌は、ちょうど画家にとってのスケッチやデッサン、あるいは音楽家にとっての練習曲のような役目も果たしうる。ちょうど画家がデッサンやスケッチにおいて絵画の基礎的な訓練を怠らないように、またピアニストがバッハなどの練習曲につねに慣れ親しむように、短歌の制作において日常生活の中から素材を発掘し、メモをとりながら主題を発想し、同時に言語の表象を彫琢し、用いる概念を洗練する。

また、その制作の推敲の過程で感性を鋭くし作品としての造型性を深めて、芸術品の創作の価値と能力を向上させてゆくなかで、どのジャンルに属する芸術においても修練としての効用をもちうるのである。もちろんその質的な内容の向上のためには、短歌においても、あらゆる芸術がそうであるように、一定以上の量的な訓練の消化を必要とすることは言うまでもない。

短歌の制作のみならず一般に芸術品の制作において、人間は文化的な社会的な存在として自然や同類である他者に関係する。人間は社会的動物であると同時に文化的な動物として、歴史的に社会的に形成された何らかの認識や行動の枠組みを学習しながら成長する。文化とはそうした思考と行動の様式でもある。

その典型が言語である。言語は人類の歴史的な産物であり文化の頂点にたつ。そして個人は日本語なり英語なり特定の言語を思考の枠組みとして取り入れることによって社会的な存在として生きる。

その意味では文化とは、人間が世界を眺めるときの「先入観」を形作るものである。そうした認識のための枠組としての道具、「パラダイム」は歴史的に社会的に作られるのであるが、その文化も弁証法的であって、人間は文化を形成するとともに、またその属する文化によって規定もされる。すべての個人は民族の子、時代の子として属する文化のもつ価値観、行動様式などの影響を受ける。 

短歌は日本を象徴する一つの文化である。その風土と歴史のなかで発展してきたもので、長く深い伝統をもっている。短歌は日本人が自然や人間などの世界を芸術として捉える一つの型である。

日本人の感覚が短歌において捉えうるものは、その生活の舞台である独自の地理や気候や風俗であり、自然や社会の物象であり事象である。歌人にとってそれらの事物、現象は、その背後に存在するもののシンボル、象徴として現れてくる。そのとき象徴されるものは、現象の背後に隠れている普遍的で恒久的なものとしての本質あるいは概念である。歌人が作歌においておいて捉えようとするものは、その象徴によって映されるさまざまな現象の背後に存在する本質もしくは概念である。

というよりも、歌人が言語によって事物の姿を捉え映そうとするとき、自ずから本質的で普遍的な事柄を現すことになる。なぜなら、言語は本来的に普遍的で抽象的な事柄しか言い現しえないからである。

そして、短歌においてもこの普遍的な事柄の言い現しにおいて、感動の基礎にあった感覚の対象としての個別具体的なものは、その作品で言い現そうとしている事柄すなわち概念の裡に保存されアウフヘーベンされている。そして、そのとき短歌はもとの個別具体的な素材から切り離されて、それ自体の独立した価値をもつにいたる。それが完成された芸術品としての短歌である。このとき短歌は、哲学の目的でもある概念を事柄として捉えることができる。ここに短歌における哲学の可能性を求めることができるのではないだろうか。

もちろん、従来の普通の歌人は歌人として心に受けた感動を言葉に言い表すだけであって、こうした哲学的な自覚は歌人にとって本来の作歌の目的ではない。カントは物自体は認識できないものとして不可知論に終始したけれども、また、現象の総体に本質を見るヘーゲルは汎神論者に誤解されるということはあったとしても、芸術であれ哲学であれ、それらが本来的に捉えようとしたものは、現象に象徴されるものの背後に存在する恒久的で普遍的なものである。この点において短歌も簡易な形式ではあるけれどもその他の芸術や宗教、哲学と同じ意義をもつことができる。

 

 


短歌と哲学(2)

2008年10月13日 | 文化・芸術

 

芸術作品に共通する特徴の一つとして、その軽やかな美しさというものがある。その典型が音楽である。音楽はあらゆる芸術の中でももっとも抽象的で、それゆえあらゆる現実存在の重苦しさからは解き放たれている。それは時間と空間のもっとも抽象的な世界へと私たちを誘うものであり、音楽は一つの啓示である。少なくとも啓示とはどのようなものであるかを予感させるものである。音楽はその意味で純粋な形而上の世界のミメーシスであるといえる。

文学もまた芸術の一つのジャンルとして、言語の表象とリズムによる「影の国」を形成する。それは音楽よりは具体的ではあるかもしれないが、それでも「影の国」としてあるいは「光の国」として、現実存在から自由に解き放たれた精神はその饗宴に遊ぶ。

そして、それぞれの芸術もまた多くの分野で特殊な発展を遂げている。音楽にも交響曲のような重厚長大の作品から小夜曲にいたる小品までさまざまな様式がある。絵画も同様で巨大な壁画、天井画からデッサンやスケッチの類までさまざまである。

短歌という様式はもちろん文学の中の一ジャンルではあるけれど、また詩歌に属するが、とくに五七五七七音と三十一文字という日本語に特有の音韻にそって歴史的に発展してきた。それゆえ当然のことながら、その形式のもつ特殊性のゆえに、短歌においては長編小説のように深刻な人間ドラマや哲学的な主題をその中で具体的に展開することも追求することもできない。

しかしまた、その軽薄短小としての形式として弱点は、一方では長所とも利点にもなりうる。短歌の近隣芸術である俳句などと同様に、その形式の簡易さ単純さゆえに、より大衆的な要素を備えている。実際にも短歌は俳句などとならんで日本においては、農民、商人、教師、主婦などの勤労者、大衆の間にもっとも広く普及している伝統的な芸術様式である。

短歌については、今においてももっともその本質を規定しているのは、やはり古今和歌集の仮名序の中に紀貫之が語っている次の言葉だろう。貫之は次のように述べている。

「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事わざしげき物なれば、心に思ふ事を見る物きく物につけていひ出せるなり。花になく鶯、水にすむ蛙の聲をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をもいれずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和げ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。」

だからこの本質を外れるものは、もはや短歌ではないといえるかもしれないが、しかし、この本質を原点としながらも、短歌がその歴史の中でさまざまに発展してきたことも事実である。それは和歌の初心としての万葉集から始まり、古今集などのさまざまな勅撰和歌集へと、さらに歴史的にさまざまな停滞と変革と発展を遂げながら今日に至っている。

その中で初心を失い完全に様式化されてしまう時代の来ることも避けられない。独自のみずみずしい豊かな発想も失い、マンネリズムにおちいって芸術としても停滞してしまったと言われる古今集以降、あるいは江戸期を経て、今日に至るまで短歌の世界もさまざまな革新の試みがなされてきたようである。学校における文学史の学習でも、とくに近代においては明治維新後の西洋文化の影響を受けて正岡子規らによってなされた短歌・俳句の革新運動がよく知られている。

そうした歴史的な発展の足跡については、別に専門書で調べていただくとして、この小論で明らかにしておきたかったことは、要するに単なる自然に対する叙情や恋愛感情の発露に過ぎないと思われてきた短歌にも、ただに芸術的な意義のみならず、宗教的な、さらには哲学的な短歌としての可能性を見出しうるのではないかということである。

この立場は、従来の伝統的な短歌の立場に立つ人にとっては「邪道」であるかもしれないけれども、短歌のそうした可能性の一つの方向を追求できないか、哲学の立場からそれを問うのも自由であるはずだ。

この発想をもつようになっていた背景には、国民的な歌人である西行の和歌はすでに単なる美的な叙情にとどまらず宗教的な感情や認識をその和歌に示していることがあった。

さらに直接の契機になったのが、日経新聞の毎週木曜日の夕刊に、「現代短歌ベスト20」と題して佐佐木幸綱氏が入門講座を連載されていたのを読んだことがある。その中でとくに渡辺直己、故宮柊二氏の短歌を詠んで啓発されたことである。

そこで取りあげられた現代短歌に、美的な感情表現と同時に、何よりも短歌が人間の日々の生活の中で実存的な記録性をもちうることに気付かされたからである。確かにそれらに着目することを短歌入門の契機とするのは、短歌への道としては本来的でもオーソドックスでもないかもしれない。

一方で、概念のもっとも無味乾燥の世界に終始するのが哲学である。そうした仕事の中で短歌は比較的に短時間のうちに芸術的な表現欲を充足させてくれる貴重な形式である。その点において時間にも余裕の少ない者にも都合がよい。また、短歌の日常的な制作が、その制作上での修練が、言語のもつ表象力や概念の彫琢、吟味の素養の上で果たしうる意義も、また、さまざまな発想や認識の記録としても、決して小さくはないと思われることである。

 

 


短歌と哲学(1)

2008年10月10日 | 文化・芸術

1507    雲につきてうかれのみゆく心をば山にかけてをとめんとぞ思ふ

西行は山の麓に流れ行く雲を見ている。と同時にその雲に誘われるように自分の心に漂泊への思いの兆し始めているのを自覚している。もちろん私たちには西行がどのような場所でこの歌を詠じたのか知るよしもない。

峠を上りつめたところ正面にその山容を眺めたのか。しかし、この歌は、時の過ぎゆくままに流れゆく雲と、その一方で時間を超越したかのごとくに泰然自若として不動の姿を見せている山との、その静と動のコントラストをしっかりと捉えているのであるから、この和歌を詠じた主体である西行自身が動いていてはその対比は捉えきることはできない。

おそらく、隠棲していた庵の窓から、流れゆく雲と、それを遮りつなぎ止めるような大きな山を西行は眺めていたのかもしれない。この歌から読みとる情景は私たちに自由に想像できるし、またそうするしかない。けれども、ただ、この歌から確実に読みとれるのは、流れ行く雲が旅や漂泊に対するやむにやまれぬ憧憬に西行を誘うその一方で、その心を押さえ殺そうとしている西行自身の矛盾した心である。

雲に付き従って行こうとする心、それは旅に出ること、また歌を詠じることであったが、それを「うかれのみゆく」と詠うことによって、仏道修行の真摯さや信心の堅固さを象徴する山と比較している。そして西行は自らを責めているのである。

1508    捨てて後はまぎれし方はおぼえぬを心のみをば世にあらせける

世間を捨てて出家してからは、世俗の煩わしい出来事や執着に思い乱れることはなくなったけれど、ただそれでも、わが心は妻と娘を置き去りにしてきた世の中にいつまでも残されたままである。

このような中古の和歌を深く正当に鑑賞するためには、西行の生きた平安末期という世紀末的な時代の転換期の背景を知っておくことも必要なことだろう。出世間の願望は、すでに平安の貴族である光源氏に象徴的に見られたように、仏教思想の流布とともにまず支配層から浸透していった。そして貴族の社会から武士の時代に移行するとともに禅仏教の思潮が色濃くなってくる。

西行も聖と俗の二律背反をよく自覚し、西方浄土への悟りへの道程の中で、出家と漂泊の間に揺れ動く矛盾する自らの心を詠うことを和歌の主題としていた。だから西行の時代においては、和歌はすでに古今、万葉の時代の伝統的な自然美や単なる恋愛感情の詠唱の段階から、宗教的な感情や表象を主題とする、いわば形而上的な対象を和歌の主題とするという段階に入っていたのである。

 

[短歌日誌]②2008/10/09

ふたたび「マディソン郡の橋」をDVDに見て

アイオワの夏の宵に深南部米国人の熱き情語りたる

 

 


幻の都市計画

2008年06月05日 | 文化・芸術
 

NHKに「そのとき歴史は動いた」という番組がある。6月4日 (水) に放映されたの番組のタイトルは「人を衛(まも)る都市をめざして ~後藤新平・帝都復興の時~」というのもので、日清戦争後の台湾統治や関東大震災後の東京復興に力を尽くした後藤新平が取り上げられていた。

もともと後藤新平は医師として生涯を歩み始めたが、とくに内務省衛生局に勤務したことから、日本の医療行政に深くかかわるようになったようである。とくに日清戦争後の帰還兵の検疫業務に卓越した行政手腕を見せ、それを台湾総督となった児玉源太郎に見込まれたところから、1898年(明治31年)3月台湾総督府民政長官として赴任することになった。ここから、都市経営や植民地行政に深くかかわり始めたようである。このときに後藤新平たちがかかわった台湾統治行政の恩恵は、今日に至るまで台湾人、日本人にも及んでいる。

そして、東京市長時代には、壮大な都市計画の策定にも取り組んだらしい。その後関東大震災が起きてからも、後藤新平は震災後の東京市の復興にも内務大臣兼帝都復興院総裁として陣頭指揮を執った。帝都復興計画についてはいくつかの計画案の変遷があったらしいが、もともとの復興原案となったといわれる「甲案」によると72メートル幅の幹線道路が計画され、また、隅田川には壮大な親水公園(隅田公園)が計画されていたという。

しかし、彼の原案は当時の多くの政治家や大衆からも理解されず、支持も得られなかった。そして、彼は多くの妥協を強いられ、財界からの反対もあって、当初の計画は縮小せざるを得なくなった。もし当時の財界人や政治家たち、行政担当者に優れた先見性と決断があったなら、そして、それを支持する大衆に相応の見識があったなら、今日の東京の交通渋滞や超過密と家屋や家賃などの不動産関連価格の高騰が、ここまでひどく都民を苦しめるものにならなかっただろう。

もし後藤新平の原案がそのまま実行されていれば、その後今日に至るまで東京都民の享受しうる幸福は計り知れないものになっていただろう。持ちたい者は先見性ある先祖である。それでもまだ、後藤新平たちがいたからこそ、そしてまた、曲がりなりにも彼の弟子たちによって受け継がれ実行された区画整理などによって、今日の東京もその最悪の事態を回避できているといえるのかも知れない。

それにしても、やはり感慨深いのは、明治という時代の産んだ人物の偉大とスケールの大きさだろうか。後藤新平という逸材を見出した陸軍参謀長の児玉源太郎もそうなら、後藤新平が1906年、南満洲鉄道初代総裁に就任して満洲経営に乗り出したときにも、後藤新平は中村是公や新渡戸稲造などの台湾時代の人材を多く起用して、優れた都市計画を実行している。そうした功績は、ただに東京のみならず、中国の大連や台湾などにも今日に至るまでかけがえのない恩恵として残されている。驚くべきは明治という時代が産んだこれら日本人の群像である。

ちなみに、後藤新平の後を次いで後に満鉄総裁になった中村是公は夏目漱石の親友であり、彼の招待を受けて満州を訪れた漱石は、「満韓ところどころ」という文章を残している。しかし、残念ながら、そうした逸材の働きにもかかわらず、当時の政治家や大衆の倫理感覚や見識、能力には、今日に至るまで大して進歩も見られないようである。返す返す悔やまれることではある。後藤新平の遺言のような言葉を、今も彼の記念館のサイトで聴くことが出来る。

地方自治にも深い見識を示していた後藤はその精神を、「自助、共助、公助」というモットーにも示している。

後藤新平の声
http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/voice.html

 


景観条例――都市と農村の景観問題

2008年05月27日 | 文化・芸術
日本の都市や農村の景観の醜さについては、これまでに私も何度か論及したことがある。また海外旅行者が旅行先で撮ってきた写真やテレビ番組などで放映される西欧や北欧における都市や農村の景観の美しさと見比べて、わが国の都市や農村における景観の醜さについては体験的にも語ってきた。
 

春の歌(2008年04月01日)

竹を切る(2008年01月20日)

toxandoriaさんとの議論(2007年05月15日)

冬枯れの大原野(2007年01月20日)

二本の苗木(2006年01月06日)

個人的にはこの狭い日本国から外には出たことはないものの、欧米の、とくに西欧や北欧における都市および農村の景観美に、なぜ日本の景観は及びもつかないのか、とくに都市景観についてははるか足下にも及ばないのはなぜか、という昔から抱いてきた問題意識もある。それがたとい観念的なものではあるとしても。

居住空間の一つとしての景観の差異が、いったい民族や人種の資質による先天的な差異によるものなのか、宗教や文化的な質のちがいに起因するのか、あるいは、政治や経済上の原因によるのか、現在のところ、その根本的で決定的な理由を見いだし得ていない。

おそらくそれは、それらすべての複合する要因によるのだろうと推測はしているが、その中でも民族の資質と宗教文化の質的相違によるところが大きいのだろうと考えている。

というのも、とくに日本の都市空間などは、「アジア的都市景観」とでもいいうるほどに、特殊な傾向を帯びているからである。日本の都市空間は、韓国や香港などの都市空間とも共通していて、その雑然とした混沌の特質はアジア的とでもいいうる特殊性をもっているからである。

しかし、わが国においてもさすがに最近になってこの特殊な傾向は反省されて、西洋や都市政策との比較対照の観点からも、景観問題として自覚されるようになってきた。国家の政策の問題として、景観問題の改善に意識的に取り組まれるようになってきた。

とくに歴史的に画期的になったのは2003年7月に国土交通省によって「美しい国づくり政策大綱」が提示され、それに基づいて、景観法が2004年6月に公布されたことである。これによってようやく日本における景観問題の取り組みが始まったといえる。また、最近では全国に先駆けて、今年の二月に京都で景観条例が可決され、歴史的な都市の景観保護にさらに強力な取り組みが行われることになった。それは同時に看板などの商業施設やマンションの立地条件、建て替えの際の高さ規制など、多くの利害関係者の関心と議論を引き起こすこととなった。

近所の大原野あたりについても、もっと美しくあってしかるべきこの景観が、かならずしも十分に守られてはいないなどという現実がある。それはただに政治や行政の拙劣さに起因する問題ではなく、国民の意識や、教育、芸術文化の資質の問題、さらには民族性の問題として自覚し改善されてゆくべきものでもあると思う。景観問題は民族の精神状況が外化したものに他ならない。

取り分けて深刻なわが国のこの景観問題を国家の問題の一つとして考え、わが国の都市及び農村の抱える景観問題を改善してゆくことを、たといライフワークそのものではないとしても、せめてサブライフワークとしてぐらいに、問題の所在の研究とその改善にいささかでも取り組み貢献してゆくべきかとも思っている。
 
  

業平卿紀行録8

2008年05月03日 | 文化・芸術

業平卿紀行録8

在原業平は825年(天長2年)に生まれ、そして紀貫之は866年(貞観8年)頃に生まれたというから、ちょうど昭和の人間が明治の人間を思い出すように、業平の人間像も貫之の世代の人たちにはまだ鮮明に記憶されていただろう。貫之が子供のころには業平はまだ生きていたし、彼は紀貫之と同じ紀氏有常の娘を妻にめとっていた。まして業平は桓武天皇の曾孫でもあり、光の源氏のように浮き名も高かった業平の人間像の伝説は隣人のようにその輪郭も明らかだっただろう。


616     起きもせず    寝もせで夜を    明かしては
                  春のものとて    ながめくらしつ  

この歌も古今和歌集の恋歌三の巻に収められてあるもので、そこには次ぎような詞書きが添えられてあるだけである。

「弥生の一日より、しのびに人にものを言ひて後に、雨のそぼ降りけるによみてつかはしける」

この歌も後朝の思いを女に遣って詠んだもので、伊勢物語には第二段に取り入れられている。その女性が人並み外れて美しかったこと、西の京に住んでいたこと、奈良の都から遷都してまだ間もないころの出来事であったことなど、この歌の詠まれた背景がさらに詳しく物語られている。

747     月やあらぬ    春やむかしの    春ならぬ
                  わが身ひとつは    もとの身にして

仁徳天皇のお后が五条の后と呼ばれていたこと、お后の姪の藤原高子がお后の屋敷の西の対に住んでいたこと、この女性を業平が恋い焦がれたこと、かっては忍んで通い親しく語り合いもしたのに、やがて高子が宮中に上って業平の手の届かないところに行ってしまったことなどが明らかにされている。

梅の花盛りのころ、女性がいなくなってがらんどうになった部屋の板敷きに伏せりながら月が西に沈むまで眺めながらこの歌を詠んだという。

梅の花や月などの自然の景物に、自然の悠久と春の反復を感じる業平の時間意識を感じることができる。そこに同時に業平は自分たちの恋だけが反復を許されないという人間の宿命の悲しみを詠う。その心情は、西洋の近代で詩人哲学者のキルケゴールがレギーネとの恋の反復の不可能を嘆いたものと同じである。私たちの生は反復も不可能な、不可逆な時間の宿命におかれている。このことは業平の時代も近代もまた現代も、洋の東西を問わず変わりはない。

 


業平卿紀行録7

2008年04月18日 | 文化・芸術

業平卿紀行録7

伊勢物語はこの時代に生きた在原業平を主人公にしながら、彼を取り巻くゆかりの深い人たちも多く登場する。とくに清和天皇の女御に上ってからは、もはや業平には手の届かない人となった藤原高子、まだ入内するまえの二条の后がただ人の身分であられた頃に業平と出会う。この二人の恋愛関係が物語の核を作る。彼らのことは当時の人々にもよく知られていたらしく、そのときに詠まれたらしい業平の歌が古今集の中にも詞書きとともに多く取り入れられている。伊勢物語にはそれらの歌の詠まれた背景がさらに詳しく具体的な逸話として記録されている。

奈良の都を離れて新しく平安京に遷都した頃の人々の暮らしも、伊勢物語には象徴的に描かれている。伊勢物語の冒頭の初冠の段には、成人式を終えたばかりの少年の初恋の記憶が物語られる。

領地がそこにあった縁で奈良の京に少年が狩りに訪れたとき、そこで美しい姉妹を垣間見た。そのときの心のときめきを、若紫の乱れ模様に染められた狩衣の裾を切りとり、歌をそこに書いてその姉妹に詠んで贈ったという。

           みちのくの    忍ぶもぢずり    誰ゆゑに
                     みだれそめにし    われならなくに 
 
しかし、この歌は業平のものではなく、古今和歌集にも収められている河原左大臣、源 融の詠んだ歌がもとになっている。この和歌の一部が変えられて物語の中に取り込まれたものだ。源 融は嵯峨天皇の第12子で臣籍降下されて源氏姓をいただき、六条河原院を造営したことで知られている。 

724         陸奥の    しのぶもぢずり    誰ゆゑに
                   乱れむと思ふ    われならなくに    

源 融のこの歌はすでに幾度か恋愛を経験して知っている成熟した男の詠んだ歌である。それが伊勢物語の中の歌のように変えられることによって、異性を異性としてはじめて意識し始めた少年の、思いがけずときめき始めた自分の心に彼自身が驚いている若者の気持ちが詠われている。

伊勢物語には、業平以外の和歌も多く用いられているけれども、その多くは古今和歌集にもおさめられているものだ。905年(延喜5年)醍醐天皇の勅命を受けて紀貫之らは和歌を編纂するために、すでに大伴家持らの手によって成立していた万葉集以降の、そして紀貫之よりも一世代上の六歌仙たちの生きていた時代と、さらに当時の「今」でもある紀貫之たちの生きた時代に至るまでの和歌を収集して古今和歌集を編んでゆく。すでに古今集そのものが四季の移ろいや恋の高揚して行く様子を物語る構成になっていた。

この編纂の過程でおそらく貫之たちは、古今和歌集に載せた業平の歌を並べることによって、ひとりの男を主人公にした物語が作れることに気づいただろう。それに万葉時代の素朴な歌風を残している「読み人知らず」の歌も古今集に残されて多くある。そして、源 融のように名の知られた業平以外の歌、あるいはまた歌人でもある貫之ら自身の詠んだにちがいない歌をも含めて、それらをとりまとめて業平を主人公とする美しい一代記の歌物語を完成させようと思ったにちがいない。

 


業平卿紀行録6

2008年04月17日 | 文化・芸術

業平卿紀行録6

その後に嵯峨天皇の跡を継いだ異母弟の淳和天皇とその子恒貞親王は、やがて嵯峨天皇の子である仁明天皇と皇位の継承をめぐって対立することになる。淳和天皇の跡を継いだ仁明天皇は、はじめは淳和天皇の子恒貞親王を皇太子としていたが、仁明天皇の女御はそのとき権勢を誇っていた藤原北家の冬嗣の娘順子であり、その兄が良房だった。良房は妹の子すなわち甥の道康親王を仁明天皇の後継に皇位を望むようになる。

このとき淳和上皇とその子恒貞親王に組みしていたのが大伴氏と橘氏であった。嵯峨上皇が亡くなられたあと藤原北家の良房は、恒貞親王を擁立しようとした大伴氏や橘氏たちと争うことになる。

このとき業平の父である阿保親王は、かって自身が連座した薬子の事件に懲りていたのか大伴氏や橘氏に組みせず、藤原良房や嵯峨天皇の后である橘嘉智子に通じたらしい。その結果842年(承和9年)擁立を阻まれた恒貞親王は太子を廃され、その後出家して嵯峨大覚寺を創建したという。これがいわゆる承和の変で、この変の後、藤原良房の妹の順子の子道康親王が文徳天皇として嵯峨天皇の跡を継ぎ、やがて藤原良房は摂政となった。こうして藤原良房は天皇の叔父として外戚となり、大伴氏、橘氏、紀氏などその他の名族を押さえて権勢をかためてゆく。

大化の改新以前は天皇家は蘇我氏との姻戚関係によって蘇我氏の血筋を引くことになったが、大化の改新以後は、先の桓武天皇のお后藤原乙牟漏に見られるように、藤原氏との姻戚関係によって天皇家は藤原氏と祖先を共通にするようになる。

ちなみに、このときの嵯峨天皇は空海と並ぶご三筆のひとりとして知られ、また承和の変に連座して伊豆に流された橘逸勢もこの三筆のひとりに数えられている。そして、この阿保親王の子が在原業平であり、業平は文徳天皇の第一皇子である惟喬親王に仕えた。そして、文徳天皇の子清和天皇の女御が藤原高子である。

古今和歌集の中に六歌仙として取り上げられている在原業平、僧正遍昭、文屋康秀、小野小町はいずれも仁明天皇、文徳天皇、清和天皇の御代に宮仕えをし、とくに、僧正遍昭は仁明天皇の崩御に殉じて出家したものであり、この仁明天皇は深草の御陵に葬られて、小野小町らともゆかりの深い帝として知られている。

 


業平卿紀行録5

2008年04月16日 | 文化・芸術

業平卿紀行録5

朝廷では天皇家や藤原氏を取り巻く皇位をめぐる争いははげしく、天智天皇や天武天皇の御代以前も以後にも絶えなかった。また桓武天皇の即位すらすでに皇位をめぐる権力争いの様相を呈していた。今も昔も政治には権力をめぐる暗闘には事欠かないということである。と言うよりも、権力をめぐる闘争こそが政治に他ならない。それが古今東西にわたる普遍的な人間的な真実なのだろう。

桓武天皇が即位された頃にも、勢力を広げた藤原氏内部の間にも、とくに式家と北家との間には皇位の継承をめぐって争いが絶えなかった。式家の祖は三男の宇合、北家の始祖は次男の房前、いずれも藤原不比等を父とする。そして不比等には天智天皇の落胤という説もあるらしい。

百済王を祖先にもち、身分もかならずしも高くはない高野新笠を母としていた桓武天皇が、それにもかかわらず皇位を継承することができたのも、藤原北家に対して勝利をおさめた藤原式家の後援があったためと考えられる。

桓武天皇が即位してからも天皇家の外戚の地位や皇位をめぐる争いは絶えることはない。桓武天皇の第一皇子である平城天皇は、病弱であった上に、しかもご自分の妃の母である藤原薬子を寵愛したゆえに桓武天皇に疎んじられた。そのためもあったのか桓武天皇は弟の早良親王を太子に立てていた。

しかし、この早良親王は長岡京の造宮使として新京建設の責任者であった藤原種継を暗殺した嫌疑で捕らえられ、淡路島へ配流される途上に無実を訴えながら死んでいったという。平城天皇もこの事件に無関係ではなかったらしい。この早良親王の御霊を鎮めるために造営された神社が上京区にある上御霊神社であるという。

そして暗殺された藤原種継の子供が仲成、薬子の兄妹だった。この兄妹は平城天皇の異母弟である伊予親王とその母吉子を謀反の嫌疑で自害させる。また、平城天皇の寵愛を得て、天皇とともに平城京にふたたび遷都を図ろうとして兵を挙げるが、結局は弟帝の嵯峨天皇に阻まれてその望みを遂げることはできず、平城天皇は出家し、仲成は殺され、薬子は毒を飲んで死んでしまう。これが薬子の変と呼ばれる事件である。

この事件に関与した咎で、平城天皇の第一皇子である阿保親王は、810年(弘仁元年)に大宰権帥に左遷される。また、第三皇子の高岳親王は皇太子を廃され、出家して弘法大師の弟子になる。この親王は仏教の真理を求めて入唐し、さらに天竺にまで赴こうとして消息がわからなくなったという。

この嵯峨天皇との政争に敗れた平城天皇や阿保親王を祖父や父にもって生まれたのが在原業平だった。その血脈から言えば業平は嵯峨天皇の第二皇子であった仁明天皇やその子文徳天皇に劣っていたわけではない。むしろ桓武天皇につながる天皇家の嫡流に属していたといえる。しかし父祖たちの事跡が業平の生涯に深く影を落としていることを思うと、個人が引き継がざるを得ない宿命というものを考えざるを得ない。

嵯峨天皇との政争に敗れた平城天皇や阿保親王を祖父や父にいただいたがゆえにこそ、当時の権勢家藤原一族からは遠く、権力の中枢からは外れざるを得なかった。おそらくそうした鬱屈した思いが、業平の生涯に特別な色相を添えることになったにちがいない。

 


天高群星近