天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

真珠の耳飾りの少女

2006年09月30日 | 文化・芸術

 

真珠の耳飾りの少女

拡大図

ここに描かれているのは、明らかに妙齢の婦人ではない。幼児でもない。少女である。まだ女性になる前の。彼女は振り返るようにして、私たちを見ている。

その二つの瞳の視線が交流するその焦点は、この絵の前に立って少女を見つめている私の眼の位置に合わせられている。そのことによって、平面の運命を免れないこの絵が、彫刻のような三次元の立体感をかもし出し、あたかもこの少女と、同じ時間、同じ空間を共有しているかのような存在感に捉えられる。

少女は私を見ている。その瞳も、鼻も、やさしくあどけなく開いた色鮮やかで健やかな唇も、まだ小さく幼っぽく清らかで柔らかい。かといって幼児のそれでないこの少女の小ぶりな顔は、これからの彼女の成長を暗示するかのように、まだ開き切っていない莟のようにかわいらしい。内に静かに秘められた成長するエネルギーを感じる。

この少女のふたつの瞳は何を見ているのだろう。声を掛けられて振り返った一瞬を捉えたようなこの瞳は、否応なく私に彼女と二つの精神の出会いを自覚させる。それは、この絵に描かれた少女の心の、短い履歴を一瞬の内に想像させ、また、一方で、世の中の塵と芥に薄汚れてしまった私自身の過去の来歴を思い出させる。この体験は作品にこめたフェルメールのテーマなのだろう。

この少女は、教会に飾られたマリアではなく、地上に降りてきて私たちと生活をともにする少女マリアである。フェルメールはこの少女の面影に、明らかに聖母マリアを見ている。私たちの世俗の中のどこかに生きるマリアを思い出させる。

漆黒の闇のなかに、画面の左から差し込む光に照らし出されて浮かび上がる少女の肖像は、レンブラントの肖像画の技法と同じである。ターバンの先端と彼女の胸と背中によって、二等辺三角形に画面の中に大きく揺るぎなく据えられた構図は、単純で骨太く落ち着きを感じさせる。

トルコの民族衣装風の青いターバンと、銀の耳飾りの輝きと、白い襟は、互いに響きあって、この少女の純潔を印象づける。たしか白と青は伝統的にマリアを象徴する色彩ではなかっただろうか。

フェルメールという画家は、きわめて寡作な画家である。日本では人気のある画家である。この少女像はモナリザほど高貴ではないが、それだけ親愛感を抱かせる。さまざまな折りに触れたい名品である。

 

 

 

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秋風が吹く

2006年09月09日 | 日記・紀行
 

 

九月に入り、少しは涼しくなった。風が秋らしくなった。温暖化や環境破壊など騒がれるようにはなったけれど、季節の流れの根本まで崩れたわけではない。
風に秋の到来を感じる。この感性は日本人にはなじみのもので、万葉集や古今和歌集に見られるように、奈良や平安の昔からのものである。
土佐日記の作者で、古今和歌集の編者でもあった紀貫之は、その昔の立秋の日に、貴族の若者たちの伴をして賀茂川の河原を散策したおり、秋を感じて詠んだ歌を残している。

河風の すずしくもあるか うちよする 

        浪とともにや 秋は立つらむ

川風が涼しいね。秋風に打ち立てられるようにして寄せくる浪が、いよいよ秋の到来を感じさせるよ。

古今和歌集に収められたこの歌が、いつ詠まれたのかは正確にはわからない。しかし、紀貫之は9世紀に生まれた人だから、すでに千年以上も昔の出来事である。詞書によれば、五条か六条あたりに貴族の屋敷が多かったから、貴族の青年たちと五条川原あたりを散策したときの歌かもしれない。賀茂川はもちろん今も流れている。けれども今は、京阪電車が走ったり、川沿いの道路を自動車が走るなど、その面影はすっかり変っている。私たちは、観念の中で往時を追憶できるだけである。

「土佐日記」のなかには紀貫之が大阪から京にいたるまで桂川を遡ったことが記録されている。桂川はその堤防の上はよく走る。もちろん今の桂川を舟でさかのぼることはできない。コンクリートで堰が造られたりして、舟のみならず魚すらも遡ることがむずかしい。

もし、行政の施策が行き届いていれば、紀貫之が生きた当時の美しい景観を保つことも可能なのだろうが、そうなってはいない。桂川で舟遊びができればどんなに楽しいだろうと思う。現代の市民が平安の貴族たちのように、その河原で散策を楽しめるようになるのは、まだ遠い先のことかも知れない。

JRの駅から自宅に至るまでには、まだかなりの稲田が残っている。やや色づき始めた稲田の間のあぜ道を風に吹かれて歩く。用水路に白い羽のセキレイが見える。
いつ南国に帰るのか、ツバメの夫婦も少し色づきはじめた稲穂の上をまだ飛び交っている。農家の人が作った小さな垣に白や紫の小さな朝顔がまとわりついている。朝顔を植えるのを忘れていたことを思い出す。来年は植えようと思う。もう夏の名残になってしまったけれど、露を帯びた朝顔の花を早朝に眺めるはすがすがしい。

オシロイバナも目に付くようになった。そのほとんどは赤か白の花である。近くを通りかかると、この花特有の香りが漂う。赤と白の縞模様をもった突然変異に交配した花を見るときもある。たまに見る黄色のオシロイバナがとても美しい。

 

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