天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

Bobby Solo - UNA LACRIMA SUL VISO

2008年03月31日 | 歌詞ア行

Bobby Solo - UNA LACRIMA SUL VISO

Da una lacrima sul viso
ho capito molte cose
dopo tanti tanti mesi ora so
cosa sono per te

Uno sguardo e un sorriso
m'han svelato il tuo segreto
che sei stata innamorata di me
ed ancora lo sei


Non ho mai capito
non sapevo che
che tu che tu
tu mi amavi ma
come me
non trovavi mai
il coraggio di dirlo ma poi


Quella lacrima sul viso
e' un miracolo d'amore
che si avvera in questo istante per me
che non amo che te

(instrumental break)

Non ho mai capito
non sapevo che
che tu che tu
tu mi amavi ma
come me
non trovavi mai
il coraggio di dirlo ma poi

Quella lacrima sul viso
e' un miracolo d'amore
che si avvera in questo istante per me
che non amo che te

 

Bobby Solo - UNA LACRIMA SUL VISO

 

 


House of The Rising Sun

2008年03月31日 | 歌詞ハ行

There is a house in New Orleans,
they call the rising sun.
It`s been the ruin for many a poor girl, and me, oh Lord, I`m one.
My mother was a taylor, she sewed our new blue jeans,
my father was a gambling man, down in New Orleans.
If I had listened to what my mother said,
I`d have been at home today,
but I was young and foolish, oh, God, let a rambler lead me astray.
Oh Mothers, tell your children not to do what I have done,
to spend their lives in sin and misery
in the house of the rising sun.
I`m going back to New Orleans, my race is almost run,
I`m going back to spend my life beneath the rising sun.

 
                                     House of The Rising Sun

 


John Cale - Hallelujah

2008年03月31日 | 歌詞ハ行
John Cale - Hallelujah
 
John Cale Hallelujah Lyrics
Words & music by Leonard Cohen

I've heard there was a secret chord
That David played and it pleased the Lord
But you don't really care for music, do you?
It goes like this
The fourth, the fifth
The minor fall, the major lift
The baffled king composing Hallelujah

Hallelujah

Your faith was strong, but you needed proof
You saw her bathing on the roof
Her beauty and the moonlight overthrew you
She tied you
To a kitchen chair
She broke your throne, she cut your hair
And from your lips she drew the Hallelujah

Hallelujah

Baby I've been here before, I know this room
I've walked this floor
I used to live alone before I knew you
I've seen your flag on the Marble Arch
Love is not a victory march
It's a cold and it's a broken Hallelujah

Hallelujah

There was a time you let me know
What's real and going on below
But now you never show it to me, do you?
And remember when I moved in you
And the holy dark was moving too
And every breath we drew was Hallelujah

Hallelujah

Maybe there's a God above, all I ever learned from love
Was how to shoot at someone who out drew you
And it's not a cry you can hear at night
It's not somebody who's seen the light
It's a cold and it's a broken Hallelujah

Hallelujah
Hallelujah
 
John Cale - Hallelujah
 

春の訪れ

2008年03月28日 | 日記・紀行

春の訪れ

今年も春が訪ねてくる。里山は華やぎを増してくる山にひとり静かに咲く梅は小町の肌のようにほのかな紅の中にしっとりと白い。

西行法師のように歌を詠めればいいのだけれど、不肖不才の我が身を嘆いても仕方がない。歌の修行を積んでせめて師のその影でも踏みたい切ない気持ちはあるけれども。

我が師、西行法師の御歌四首を今日の記憶とともに。

     題しらず

756  さらぬだに   世のはかなさを    思ふ身に
                ぬえ鳴きわたる   あけぼのの空

そうでなくても、この世のはかなさを思い沁みている私に、
ぬえこどりのか細い鳴き声が、追い討ちをかけるように、夜明けの空に聴こえてくる。

法師の心の痛みが伝わってくる。

759   世の中を    夢と見る見る    はかなくも 
          なほ驚かぬ    わが心かな

この世を夢のようにはかないものと知りながら、愚かなことに、
いまだ覚めることもなく
悟ることさえできない我が心よ。

760   亡き人も    あるを思ふも    世の中は  
          ねぶりのうちの    夢とこそ見れ

すでにこの世になく時間の彼方に消え去ったあの人も、かってはこの世に私と同じように生きていたことを思うと、すべてが深い眠りのなかの夢のように見える。

薄い紅を染めたようなほの白い梅の花を見て。

1248     色に出でて   いつよりものは    思ふぞと 
            問ふ人あらば    いかが答へむ

いつから思い初めてお前の恋心は顔色に出るの、と訊ねる人がいるなら、梅の花よ、あなたはどう答えるのでしょうね。

 

(短歌の試み)

薄い紅を染めたほの白い梅の
                野山に咲いているのを見て。

         薄紅の唐衣着なれし小梅   小町が面影宿しつ  野に佇みし

気にかかっていたジャガイモの仮り植えを今日ようやく終えた。桃の木とイチジクは木の芽の膨らみから根付き始めたのは何とか確認できた。木の堅い柿はまだわからない。

 


小野小町7

2008年03月22日 | 文化・芸術

小野小町7

小町の恋愛とその生涯が後の世にこれほど広く深く広まったことには、さらに南北朝時代から室町時代に生きた観阿弥、世阿弥の親子の力があったと思う。

彼ら親子は能という芸術を通じて、小町の恋愛と仏教の無常観を象徴的に描き出した。それが武士階級を通じてやがて民衆の間にも広まっていったと考えられる。しかし、卒塔婆小町や通小町など七小町として謡曲などの物語の主人公となった小野小町は、もはや仁明天皇に采女として仕えた歴史的な小町ではない。ひとりの生きて泣き笑う具体的な肉体をもった女性ではなく、すでに物語の中の小町は、人々に人間と人生の真実を告げる普遍的な小町そのものになっている。

勅命を受けて古今和歌集の編纂に従事した紀貫之たちは、同じ氏族の紀静子を母とする惟喬親王や、父の謀反の失敗ゆえに出世の路を閉ざされた在原業平と同じく、当時天下を牛耳りつつあった藤原氏のようには運命を謳歌することはできなかったにちがいない。そんな彼らに代わって、紀貫之は六歌仙の世代に属する人々の笑いや悲しみや恋の物語も美しい歌物語として編み残そうとしたようである。

古今和歌集の末尾には、

698         恋しとはたが名づけけん言ならん 
                      死ぬとぞたゞにいふべかりける

と詠じた清原深養父の歌を連想させるように、深養父に呼びかけながら、詞書きとともに貫之自身が次の歌を詠じて締めくくっている。

    深養父  恋しとはたが名づけけん言ならん下

1111        道しらば摘みにもゆかむ 
                      住之江のきしに生ふてふ恋忘れ草

この歌は明らかに鎮魂歌でもある。歴史の中に生まれ、そしてその中に姿を消していった多くの人々の恋の歓びや悩み、花の美しさや別れの悲しみを歌いながら時間の彼方に消えて行った人々の心を慰めるために歌ったようにもみえる。

しかも、貫之は、仮名序の中で小野小町のことを衣通姫(そとほりひめ)にたとえていた。そのそとほり姫が帝のことを恋い慕って詠んだ歌が貫之の歌の前に置かれてある。

      そとほり姫のひとりゐてみかどを恋ひたてまつりて

1110        わがせこが来べきよひなり  
                      さゞがにの蜘蛛のふるまいかねてしるしも

 


小野小町6

2008年03月21日 | 文化・芸術

小野小町6

小町が思いを男性に託して恨みを述べている歌としては、ただ一つ
残されている。それは小野貞樹に当てたもので次の歌。

                                       をののこまち

782         今はとて  わが身時雨にふりぬれば 
                           言の葉さえに移ろひにけり

          返し                          小野さだき  貞樹

783         人を思ふ心この葉にあらばこそ  風のまにまにちりもみだれめ

小町が当時のきびしい身分制度をのりこえられずに、恋を成就させることができたのは、この小野貞樹だけだったのかも知れない。この歌からも推測されるように、貞樹との交際は、小町が若き日々を過ごした宮仕えを離れてからのことであったように思われる。

もし若き日に小町が采女として帝にお仕えしていたとすれば、小町が帝に身近に接する機会もあったはずだし、当時は北家藤原氏の子女のほかには御門の正室や側室になることはむずかしかったから、帝の方もかなわぬ恋でありながらも、政略のからまない美しい小町に思いを寄せたことがあったとしてもおかしくはない。

同じ古今集の墨滅歌の中にも、天の帝が、近江の采女に我が名を漏らすなと詠っている歌がある。また、巻第十四の恋歌四には、世間の噂を心配する近江の采女に贈った帝の歌(702番)ものせられている。

702         梓弓ひき野のつゞら  
                すゑつひにわが思う人に言のしげけん

このうたは、ある人、天のみかどの近江の采女にたまひけるとなむ申す

703         夏びきのてびきの糸を 
                      くりかへし言しげくとも絶えむと思ふな    

この歌は、返しによみたてまつりけるとなむ

采女や更衣はそれほど帝とは身近なところにいた。

深草の少将が実際に誰のことであるのか少し調べてみても、桓武天皇から土地を賜った欣浄寺にゆかりのある深草少将義宣卿がその人であるとするには無理がある。この人は仁明天皇が生まれて間もない頃にはすでに亡くなっている(813年)。仁明天皇にお仕えしたと考えられ、この帝の亡くなられた(850年)後も交際のあったらしい小町や僧正遍昭とは、世代が会わない。

深草の少将のゆかりの寺とされるこの欣浄寺にはその後、仁明天皇から寵愛を受けた少将蔵人頭、良峰宗貞(後の僧正遍昭)が御門の菩提を弔うためにそこに念仏堂を建て、帝の祈られた阿弥陀如来像と御牌を前にして念仏にいそしまれたという。だから、畏れ多いこの帝が後の人々によって深草の少将に名を変えられたとしてもおかしくはない。また、この天皇は深草に葬られて、その御陵も深草陵と呼ばれている。ただ、これ以上の詮索はたいして意味があるとも思えないのでこれくらいにしておきたい。

 

 


小野小町5

2008年03月20日 | 日記・紀行

小野小町5

また小町自身がどのような女性であったかについては、1300年頃の鎌倉時代に生きた吉田兼好の徒然草の第百七十三段に小野小町が事として、「極めて定かならず」とすでに書いている。吉田兼好自身は小町ゆかりの山科の小野の山里に領地を買って住んでいたらしいから、小町の言い伝えなどは、よく耳にする立場にいたはずである。深草の少将が誰であったかについては語られていないから、まだその頃にはこの伝説も成立していなかったのかも知れない。

つれづれ草で語られているのは、晩年の小町の衰えた様子が『玉造小町壮衰書』という本に見えること、清行という男がそれを書いたらしいこと、また、この本を当時すでに流布していたらしい弘法大師空海の著作とするには、小町の若く美しい盛りは大師の死後のことらしいから、道理にあわずおかしいと言っている。だから、たとえそれが「極めて定かではない」ものであったとしても、すでに小町のことが世代を越えて人々の記憶に留められていたことは明らかである。

兼好がここで小町のことを書いたのは、その前段の中で、心の淡泊になった老年の方が憂いと煩いが少なく、情欲のために身を過ちがちな若い時よりも勝っているという感慨をもったことから僧正遍昭や小町のことを連想したためらしい。小町の晩年について流布している言い伝えも、この『玉造小町壮衰書』という本が大きく影響していることは明らかであり、それは仏教の教えの中に取り入れられて語られている。

113   花の色はうつりにけりな   いたづらに我が身世にふるながめせしまに

小町が美人の代名詞であればこそ、その美のはかなさも嘆きも深刻なものになる。恋多き生涯とその時間の移ろいの早さを嘆いた小町の歌が、時間という絶対的な流転のなかに生きざるを得ない人間の運命を象徴するものとなった。このような歌はおそらく小町のような女性のほかに詠まれる必然性はない。伊勢にも紫式部にも詠まれなかった。

そして、それがやがて仏教思想の流入と広がりとともに、小町の生涯は無の諦観によって解釈し直されて『玉造小町壮衰書』などにまとめられ、もう一つの小町の伝説になっていった思われる。

兼好法師は、この本は弘法大師ではなく清行が書いたと言っているが、この清行という男が、小町とともに真静法師が導師をつとめる法事に参加したときに、導師の説教にかこつけて言い寄って肩すかしにあった(古今集第556番)あの安部清行のことであるなら、振られた意趣返しに、小町の晩年をこの本で残酷なものに描いたとも考えられる。彼なら小町の生涯を身近に見聞きしていたとも考えられて興味深い。

      下つ出雲寺に人のわざしける日、真静法師の導師にて
      いへりけることばをうたによみて、小野小町がもとに
      つかはせりける
                            あべのきよゆきの朝臣

556   つつめども袖にたまらぬ白玉は  人を見ぬ目のなみだなりけり
           
      返し                   こまち

557    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす  我はせきあへず  
                  たぎつ瀬なれば
 


小野小町4

2008年03月19日 | 文化・芸術

小野小町4

小野小町にまつわる伝説には二つの方向があると思う。一つには深草の少将の百夜通いの話と、老いて落魄し行き倒れる小町である。

小町のこの二つの女性像には理由がないわけではない。いずれも小町の残したわずかな歌の中にその根拠があるように思う。

深草の少将の百夜通いの言い伝えは、まことに美しく幻想的でさえある。小町に恋いこがれた深草の少将が、小町のもとに百度訪れるという誓願を立てて通ったが、最後の雪の日に思いを遂げることのできないまま亡くなったという。                                              
小町の心も知らないで足が疲れくたびれて歩けなくなるほど繁く小町のもとに通っていた男のいたことは、事実としても次の歌からもわかる。

623    みるめなきわが身をうらと知らねばや  かれなであまの足たゆくくる

おそらく深草の少将の話は、安部清行や文屋康秀たちに返したような男を袖にした和歌が小町にいくつかあることに由来するにちがいない。

しかし、小町が単なる色好みの女性であっただけとは思われない。言い寄る者たちの中に彼女が深く思いを寄せた男性のいたことは明らかだ。それは次の歌などからもわかる。ただ、その男性とはかならずしも自由に会うことはできなかったようで、そのために夢の中の出会いを当てにするようになったり、その出会いに他人の目をはばかったり、世間の非難を気にかけたりしている様子がうかがわれる。だから、小町にとって真剣な恋は秘めておかなければならなかったようにも見える。

552    思ひつゝぬればや人の見えつらむ     夢と知りせばさめざらましを

553    うたゝねに恋しき人を見てしより    ゆめてふ物はたのみそめてき

554    いとせめて恋しき時は   むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

657    限りなき思ひのまゝによるもこむ   夢路をさへに人はとがめじ

1030    人にあはむつきのなきには    思ひおきて胸はしり火に心やけをり

ただ、小町がおいそれと心を許さなかった、この百夜通いの伝説の深草の少将が実際に誰であるのかはよくわからないらしい。百夜通いの伝説の根拠についてはすでに黒岩涙香が江戸時代の学者、本居内遠の研究を引用している。それによれば、同じ古今和歌集の中にある次の歌、

762    暁の鴫(しぎ)のはねがき百羽がき     君が来ぬ夜は我れぞ数かく
     

が、三文字読み替えられて、

あかつきの榻(しぢ)の端しかきもゝ夜がき     君が来ぬ夜はわれぞかずかく
     

となり、それが、深草の少将が小町のもとを訪れたときに、牛車の榻に刻んでその証拠にしたという話になったという。歌の内容と伝説との関係から見る限り、その蓋然性については納得できるところはかなりある。

そうして恋する女性のもとに通いつめながらも、その思いも遂げられずに雪の夜に亡くなった男に対する民衆の共感と同情が、やがて伝説として伝えられることになったにちがいない。

 

 


Abba - I Have A Dream

2008年03月17日 | 歌詞ア行
Abba - I Have A Dream
I have a dream, a song to sing
To help me cope with anything
If you see the wonder of a fairy tale
You can take the future even if you fail
I believe in angels
Something good in everything I see
I believe in angels
When I know the time is right for me
I'll cross the stream - I have a dream

I have a dream, a fantasy
To help me through reality
And my destination makes it worth the while
Pushing through the darkness still another mile
I believe in angels
Something good in everything I see
I believe in angels
When I know the time is right for me
I'll cross the stream - I have a dream
I'll cross the stream - I have a dream

I have a dream, a song to sing
To help me cope with anything
If you see the wonder of a fairy tale
You can take the future even if you fail
I believe in angels
Something good in everything I see
I believe in angels
When I know the time is right for me
I'll cross the stream - I have a dream
I'll cross the stream - I have a dream
 
Abba - I Have A Dream

小野小町3

2008年03月16日 | 文化・芸術

小野小町3

古今和歌集の中でも実際にその贈答歌の中で、互いの名前が記録されて、小野小町との人間関係が成立していると考えられる可能性の高いのは、巻第十二恋歌二で(556に対する557)小町の返歌のある安部清行、また巻十八雑歌下(938)に小町の返歌がある文屋康秀、それに後撰集の中に歌を贈ったことが記されている僧正遍昭の三人である。

実名の記録されているこれらの人はおそらく小町と何らかの関係もあったのだろうけれど、業平についてはわからない。古今集巻第十三の恋歌三(622、623)にも在原業平の歌に次いで小町の歌が並べられてはいるが、紀貫之が意図的に編集したかも知れず、いずれも歌の上手な美男と美女として高名であったところから、並べて取り沙汰したということも考えられる。互いの贈答歌であるかどうかについての詞書きもなく、それぞれの歌の内容から言っても疑わしい。

しかし、実際二人の間に何らかの直接的な人間関係のあった可能性が決してないわけではない。むしろその可能性は大きい。業平の恋人だった二条の后(藤原高子)に文屋康秀が仕えていたことは、巻第一春歌上8からも明らかであるし、その文屋康秀自身が三河の国に下級官吏として赴任するときに、小町を誘っているから相当に親しい関係にあったことは推測される。

業平も、仁明天皇(在位833年~855年)、文徳天皇、清和天皇に蔵人として仕えたし、
僧正遍昭については、そもそも仁明天皇に仕えていた良岑宗貞がその崩御に殉じて出家して僧正遍昭になったものである。

また文屋康秀も下級官吏として仁明天皇やそれに続いて文徳、清和天皇に仕えた。一方の小町も女官として同じ仁明天皇に仕えていたから、在原業平とも交際の機会のあったとことは十分に考えられる。

これら業平や小町ら六歌仙の世代はいずれも紀貫之よりは一世代か二世代上で、たとえば平成昭和の人間が大正明治の人間を回顧するようなもので、その人間像の記憶もまだ生々しいものだったと思われる。紀貫之も土佐から京へ帰還する途上の桂川で、惟喬親王や業平を追憶している。

時代は平安遷都から日も浅く、いまだ権力も固まらず、薬子の乱や承和の変、応門の変などの騒乱が続いた。そうした歴史的な事件の詳細な実証的な検証は歴史家に任せるとして、ふたたび小町の残したわずかな和歌と人々が彼女に託した伝説から、人間の内面の問題により入り込んでゆきたい。

古今集巻一春歌上8

二条の后の東宮の御息所ときこえける時、正月三日おまへにめして、仰せごとあるあひだに、日はてりながら雪のかしらに降りかゝりけるをよませ給ひける
                                      文屋 康秀

8   春の日の光にあたる我なれど  かしらの雪となるぞわびしき

後撰集1196

石上といふ寺にまうでて、日の暮れにければ、夜明けてまかり帰らむとて、とどまりて、「この寺に遍昭あり」と人の告げ侍りければ、物言ひ心見むとて、言ひ侍りける 
                                      小野小町

岩のうへに旅寝をすればいとさむし苔の衣を我にかさなむ

返し
                                         僧正遍昭

世をそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたり寝む

 


wham! - Last Christmas

2008年03月16日 | 歌詞ラ行

 

wham!      -       Last Christmas 


I gave you my heart
But the very next day you gave it away
This year
To save me from tears
I'll give it to someone special

Last Christmas
I gave you my heart
But the very next day you gave it away
This year
To save me from tears
I'll give it to someone special

Once bitten and twice shy
I keep my distance
But you still catch my eye
Tell me baby
Do you recognize me?
Well
If it's been a year
It doesn't surprise me
"Happy Christmas"
I wrapped it up and sent it
With a note saying "I love you"
I meant it
Now I know what a fool I've been
But if you kissed me now
I know you'd fool me again

Last Christmas
I gave you my heart
But the very next day you gave it away
This year
To save me from tears
I'll give it to someone special

Last Christmas
I gave you my heart
But the very next day you gave it away
This year
To save me from tears
I'll give it to someone special

ooooo
oh oh baby

A crowded room
Friends with tired eyes
I'm hiding from you
And your soul of ice
My god I thought you were
Someone to rely on
Me?
I guess I was a shoulder to cry on

A face on a lover with a fire in his heart
A man under cover but you tore me apart
oh oh
Now I've found a real love you'll never fool me again

Last Christmas
I gave you my heart
But the very next day you gave it away
This year
To save me from tears
I'll give it to someone special

Last Christmas
I gave you my heart
But the very next day you gave it away
This year
To save me from tears
I'll give it to someone special

SPECIALLLLLL

A face on a lover with a fire in his heart ( Gave you my heart)
A man under cover but you tore me apart
Next year I'll give it to someone
I'll give it to someone special.
special
someone someone
I'll give it to someone,I'll give it to someone special
who'll give something in return
I'll give it to someone
hold my heart and watch it burn
I'll give me to someone,I'll give it to someone special
I've got you here to stay
I can love you for a day
I thought you were someone special
gave you my heart
I'll give it to someone,I'll give it to someone
last christmas i gave you my heart
you gave it away
I'll give it to someone,I'll give it to someone

 

 
 
 
 

小野小町2

2008年03月15日 | 文化・芸術
しかし、古今和歌集に収められてある小町の和歌を詠む限り、紀淑望の「艶にして気力なし。病める婦の花粉を着けたるがごとし」というのは少し言い過ぎのような気がする。やはり、紀貫之ぐらいの評価が妥当であると思う。そこにみられるのは、和歌の創作よりも、恋愛そのものに関心を示している女性らしいふつうの女性像である。小町の歌からは女性としてとくに特異なところはみられないと思う。ただ和歌からもわかるように、彼女自身も自分の美貌を自覚していたようで、そのことから多くの男性との交渉もあったのかも知れない。しかし、恋愛においてはむしろ受け身で控えめな女性ではなかっただろうか、彼女の歌からはそんな印象を受ける。

和歌については、小町の語彙は必ずしも豊かではなく、後の紫式部や西行の和歌にみられるような、哲学的ともいいうるほどの思想的な情感や、しみじみと自然に感応した描写や詠唱があるわけではない。恋愛感情を叙してはいても深みがあるとは思わない。おそらく当時は仏教思想などもまだ民衆にはそれほど深いレベルで浸透していなかったことも読みとれる。また紫式部のような教養豊かな環境には育たなかったせいもあると思われる。

小町の歌を詠んでいて、あらためて気づいたのは、古今和歌集に

623   みるめなきわが身をうらと知らねばや     かれなであまの                                  足たゆくくる

という歌の前に、

                             なりひらの朝臣

622   秋の野に笹わけし朝の袖よりも  あはでこし夜ぞひちまさりける

と在原業平の和歌が並べておかれていたことだ。そして、この二つの歌が、伊勢物語の第二十五段において、恋愛する二人の男女の贈答歌として取り入れられている。この段では女性は単に「色好みなる女」といわれているだけで、小野小町という女性の名はここでは明らかにされてはいない。

しかし、古今和歌集の読者にしてみれば、歌の贈り主が在原業平であり、返歌の作者が小野小町であることは分かり切ったことであったから、伊勢物語の読者は当然に二人が恋愛関係にあるとみるだろう。ここから、後世の古今和歌集の注釈家たちも小町と業平が恋愛関係にあったと言うようになったらしい。

ただ、古今和歌集を少し読んでみてわかったことは、後代の藤原定家の小倉百人一首と同じように、あるいはそれ以上に、この古今和歌集おいても、個々の和歌の美しさ以上に、それぞれの和歌の選択と配列の妙に紀貫之の絢爛たる美意識が編纂されているらしいことだ。その秘密を読み解く古今和歌集の注解釈がそのために特定の家系の秘伝のような趣をもたらすことになったのではないだろうか。

紀貫之が、小野小町の歌と業平の歌をあたかも贈答歌のように隣あわせに配列にすることによって、単独の和歌では醸し出せない交響曲のような躍動する美しさを生みだすことになった。そこから、逆に小町と業平との間に恋愛関係か推測されるようになり、また、それが伊勢物語にも組み入れられることになって、小町と業平の伝説になったと。この事実はすでに広く周知のことであるに違いないが、私には新しい知識であったので、これまで頭の中にバラバラに存在していた二人がはじめて結びついて、推理小説を読んだときのようなおもしろさを感じる。

たしかに、小町と業平は同時代人であったから、実際に恋愛関係にあり、それがそのまま、古今和歌集に取り入れられたと考える方が、より興味を駆り立てられるには違いないけれども、もしそうであるなら、伊勢物語の第五十段に登場する「うらむる人」も小野小町であって、業平と二人は「あだくらべ」(浮気くらべ)をしていたことにもなる。女の返した歌も小野小町が詠んだ歌ということになる。

しかし、二人の関係について歴史的な実証はむずかしいのではないだろうか。古今和歌集の成立は913年(延喜十三年)、伊勢物語は880年頃に原型ができ、集大成されたのは946年頃であるとされるから、紀貫之らが、業平と小町の二人に歌の世界で架空の恋愛を仕組んだとも考えられるし、それとも遷都してまだ間もない新しい町並みの京の都のどこかで、実際に二人は顔を合わせていたか。

 


小野小町 (1)

2008年03月14日 | 文化・芸術

小野の随心院で、小野小町ゆかりの「はねず踊り」の催しがあるそうで、一度訪ねてみようと思い、その際、小野小町などについてもう少し詳しく知ってから行けば興味も増すのではないかと少し調べてみた。

これまで、小野小町について知っていることと言えば、せいぜい百人一首に収められている「花の色は移りにけりな  いたづらにわが身世にふる   ながめせしまに」という歌を歌った、美人薄命の運命を嘆いた歌の作者であることくらいだった。小町がどんな女性であったのか、いくつまで生きたのか、ほとんど興味も関心もなかったし、ただ意識の片隅に、おとぎ話か伝説の住人として存在していたにすぎなかった。だから、この女性の百人一首の歌が、紀貫之の編纂になる「古今集」の巻第二春歌下にもともと収まられてある歌であるということも知らなかったし、どのような時代に生きた女性であるのかさえ知らなかった。少し調べて見て小町が在原業平と同時代に生きた女性であることを知って驚いたくらいである。それくらいの知識しかない。

小町という名前は今では美人の代名詞のように使われている。しかし、小町という名前そのものは、本名ではない。女性の場合は忘れられている場合が多い。源氏物語の「桐坪の更衣」のように、彼女の住まわっていた場所と身分の呼び名が、彼女自身を示す呼び名となったものである。

もともと小町の「町」とは、宮中で女官たちが住んでいた一角が局町と呼ばれていたことから来るらしい。内裏の北東にもかって采女町があった。その町がそれぞれの出身にしたがって呼ばれていたらしい。采女とは、群司や諸氏の娘たちの中から容姿端麗な女子が選ばれて、天皇の身近にあって食事などのお世話をした女性を言う。小野小町も采女であったらしいから、そう呼ばれるようになったのかも知れない。小町には同じ采女の姉がいたことは確からしく、姉の方は小野町と呼ばれ、古今集にも、小町の姉の歌が記録されている。伊勢物語に登場する惟喬親王の母、紀静子なども三条町と呼ばれていた。この姉の小野町に対して、妹の方が小町と呼ばれたらしい。「小」にはかわいいと言う意味もある。

『古今和歌集目録』に「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右姫云々」とあることから、奥州秋田の出身であるとされ、『小野氏系図』には小野篁の孫で、出羽郡司良真の娘とあるそうだ。しかし、諸説ありその信憑性は定かではない。ただ、その出自はとにかく、実在していたのはたしかなようで、古今集の仮名序の中で、撰者の紀貫之は六人の歌人(六歌仙)を取り上げ、在原業平の名前とともに、小野小町の名を挙げて、彼女の歌ぶりについて次のように解説している。

「いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。」

古今集に採録されている小町の歌は、次の全十八首。これらの歌の中には、恋しき人との出会いを夢に願うとか、容貌の衰えを嘆くとか、男の誘いになびくそぶりなどの歌の多いことから、紀貫之らは、「強からぬは、女の歌なればなるべし。」と評したのかも知れない。真名序では紀淑望は「艶にして気力なし。病める婦の花粉を着けたるがごとし」と評している。後の世の源氏物語に出てくる桐壺の更衣のような女性をイメージしていたのかも知れない。しかし、百歳近く生きて、むしろ奔放で弱々しくなかったと言う人もいるようだ。


               題しらず

113   花の色はうつりにけりな   いたづらに我が身世にふるながめせしまに

              題しらず

552    思ひつゝぬればや人の見えつらむ     夢と知りせばさめざらましを

553    うたゝねに恋しき人を見てしより    ゆめてふ物はたのみそめてき

554    いとせめて恋しき時は   むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

               返し

557    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす  我はせきあへず   たぎつ瀬なれば

              題しらず

623    みるめなきわが身をうらと知らねばや  かれなであまの足たゆくくる

              題しらず

635    秋の夜も名のみなりけり  あふといへば事ぞともなく明けぬるものを

              題しらず                                    こまち

656    うつゝにはさもこそあらめ    夢にさへ人めをもると見るがわびしさ

657    限りなき思ひのまゝによるもこむ   夢路をさへに人はとがめじ

658    夢路には足もやすめず通ヘども   うつゝに一目見しごとはあらず

               題しらず

727    あまのすむ里のしるべにあらなくに うらみんとのみ   人のいふらむ

             題しらず                    をののこまち

782    今はとて  わが身時雨にふりぬれば    言の葉さへに移ろひにけり

                                           (返歌あり)

             題しらず                         こまち

797     色みえでうつろふものは    世の中の人の心の花にぞありける

             題しらず                                小町

822    秋風にあふたのみこそかなしけれ    わが身空しくなりぬと思へば

       康秀が三河の掾(ぞう)になりて、「あがたみにはえいでたゝじや」と、
       いひやれりける返り事によめる

938  わびぬれば   身をうき草の根を絶えて   誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ

              題しらず

939     あはれてふ言こそ   うたて    世の中を思ひ離れぬほだしなりけれ


              題しらず

1030    人にあはむつきのなきには    思ひおきて胸はしり火に心やけをり

古今墨滅歌1104    おきのゐ、みやこじま        をののこまち

       おきのゐて身を焼くよりもかなしきは   宮こ島べの別れなりけり


小町の姉の歌                                  こまちがあね

              あひ知れりける人のやうやくかれがたになりけるあひだに、
              焼けたる茅の葉に文をさしてつかはせりける

790    時すぎて    かれ行く小野の浅茅には    今は思ひぞたえずもえける

                                     (歌番号は「国歌大観」による)


 


女流詩人

2008年03月12日 | 日記・紀行

聖橋

 

女流詩人

昔、東京の茗荷谷にしばらく住んでいたことがある。近くに小石川植物園もあった。そこからはお茶の水も近かった。お茶の水には聖橋があり、この聖橋を渡ったところにJRの駅がある。

昔のことで今では記憶も薄れてしまったけれど、この駅の近くに一軒の立ち飲み居酒屋(あるいは寿司屋だったか)があった。春らしい宵方、滅多に入らないこの店で私がたまたま夕食を済ませようとしてこの店に入ったとき、私の隣で食事をしていたのがこの人だった。

ど ういうきっかけで話すようになったのかは覚えていない。私はたぶん鮨か何かを注文していたかと思う。彼女はそのときお酒を飲んでいたのかどうかも覚えてい ない。どういう話をしたのかも覚えていない。ただ、そのときの記憶を、おそらく二十年以上経った今もはっきり覚えているのは、まったくの初対面であったの に彼女が「いい顔しているね」などと言いながら私の顔を手で撫でまわしたからだ。

おそらく彼女はいくらか酔っていたのかもしれない。もうはるか昔のこと で、自分のことなどはおそらく彼女の方には記憶にもないに違いないだろうけれど。偶然に隣り合わせただけで、それから二度と会うこともない。

そのとき彼女は名刺もくれた。その名刺は今も探せばあると思う。水上 紅さんと言った。詩人という肩書きが書かれていたと思う。名前が印象深くて今も忘れてはいない。せっかく名刺をいただいたのに、その後ふたたび会うこともなかった。申し訳ないけれども彼女の詩集もまだ読んでいない。

これまで私が詩人と称する人に出会ったのは、後にも先にも彼女一人だった。貴重な出会いだったのにと思う。その後東京を離れてからは再び戻ることはない。けれど彼女は今も詩人として東京で暮らされていることと思う。

 

Nathan Milstein plays Vitali Chaconne

 


桓武天皇皇后陵

2008年03月07日 | 日記・紀行

桓武天皇皇后陵

相変わらず寒い日が続く。久しぶりに自転車で散歩(散輪)にでる。散歩はやはり、何の目的も持たず、気の向くまま、足の向くままがいい。

その途中に、桓武天皇の奥様の御陵に出くわした。たぶん、何度もこのあたりも行き来しているはずだけれども、これまでも、このような御陵に関心も何もなかったので足を止めることもなかった。

しかし、以前と違って最近はどうもこのような歴史的な遺物というか遺産に惹かれるようになったと思う。それには、テレビなどでしばしば世界遺産などをテーマにして、世界各国の歴史的事跡や遺産などが放映されるようになったことも影響しているのかも知れない。

近年にも弘法大師のご開山になった金剛峯寺のある高野山が世界遺産として認められたこともある。それに若いときには未来にしか眼が行かなかったのに、年を経るにつれて、それだけ過去を顧みるようになったということかも知れない。おそらく、与えられた時間としては、すでに未来において想定される時間よりも、事実として過ぎ去った時間の方が長くなってしまったからだ。個人として過去に蓄積された時間の方が長い。時間を線分にたとえればおそらくそうなる。その結果として自分の過去の時間の延長として歴史を見るようになったためだろうと思う。

過去の歴史に眼が行くようになった。それで、最近は散歩にもデジカメを持参して、興味のある対象は写真にとって記録してゆこうと思っいる。そして、それと同時にそれに関連する歴史の事跡や背景もできる限り調べて記録しておこうと思うようになった。その調査も昔と比べて、ネットの普及などでずいぶんやりやすくなったこともある。

上の写真は、桓武天皇皇后の御陵で高畠陵(長岡陵)と呼ばれている。この皇后様は藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)と言うそうで、760年(天平宝字4年)に生まれ、 790年5月2日(延暦9年閏3月10日)に没した。続日本紀には、この皇后について、「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り。」と記録されているそうだ。平城天皇・嵯峨天皇の母でもある。物腰が柔らかでしとやかな美しい女性であったようで、妻としても母としても、婦人としてのたしなみ深い人であったようだ。わずか三十一歳の若さで亡くなっている。この人の事跡を読んで、すぐに光源氏の母の桐壺の更衣のことを思い出した。もちろん、この方は皇后として亡くなられたのであって、更衣という身分ではなかった。贈り名は、天之高藤広宗照姫之尊。

桓武天皇は平安京に遷都する前に、今の洛西に位置する乙訓の地、長岡京に奈良の平城京から都を移している。だから、長岡京はわずか10年足らずの造営で終わったらしいが、調べて見ると、その再遷都の背景には長岡京建設の命を受けていた藤原種継が何者かに暗殺されるという事件があったらしい。また「海ゆかば」の和歌の作者で万葉集の編者として知られる大伴家持も、この事件に連座していたらしい。

この桓武天皇の時代は、伊勢物語の主人公である在原業平や藤原高子たちの生きた時代でもあり、空海や最澄も同時代人であるという。とすれば、この桓武天皇の御代は、今日の日本の礎を築いた大変な時代ともいえ、興味をそそられることも多い。できうる限り、そうした歴史的な事跡もたどってみたい思う。

業平の墓も遠くないところにあるようだし、また、三月末の日曜日には小野小町のゆかりの随心院で「はねず踊り」もあるそうだ。忘れずに一度は訪れて見たいと思う。

参照

長岡京

藤原乙牟漏

桓武天皇

 


天高群星近