天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

ナスビ

2008年07月23日 | 日記・紀行

 

駅を降りてから我が家へと向かう途中の景色も、一昔から見ればずいぶんに様変わりしたものだ。要するに畑や稲田などの農地が減って宅地が増えたということである。

市街の中心部に通勤通学する人たちのベッドタウン化が進みつつあるとはいえ、それでも市街地からは少し外れているので田圃はまだまだ残ってはいる。朝夕に徒歩か自転車で稲田の間を抜けるとき、青サギや白サギが田圃で餌を啄んでいる姿も見られるし、遠く南の方角から、青い稲を波打たせながら涼しい風が吹いてくるのを感じることもある。

そうして道々に農家の人たちの労働の結晶であるその青い稲田や畑を眺めたり観察したりしながら帰ることも多い。

水田の間に混ざってところどころにかなり大きなナスビ畑がある。農家が近隣のマーケットなどに、ナスビを商品として納入しているのだろうと思う。ナスビの葉や茎が畑の畝に見事に育っている。ナスビの茎や葉を支えるためにつるされた白い紐の、そのきれいに整然とした配列は、遠くから見ると製糸工場で紡織機が列んでいるようにも見える。

ちょうど夕方に私が歩いているとき、まだ農家の人が畑でたまたま仕事をしてしているようだった。道路の片側に軽トラックを寄せていた。その荷台には丸い大きな口の開いたポリタンクも載せられていた。日焼け予防の帽子と手ぬぐいで顔を隠した農家のおばさんがホースを手にしながらそこに腰をのせていた。エンジンかポンプ機の回転する音がする。見たところどうやら農薬を散布しているらしい。

この人の旦那さんはどこにいるのだろうと眼で探すと、畑の真ん中あたりに白い帽子の先が見え、散布するホースから霧が吹き上がっていた。よく見ると旦那さんは白いマスクをして作業をしていた。何か薬を散布しているようだった。マスクをしなければならないということは、直接にその霧を吸い込むと身体によくないということなのだろう。

そういえば、山に私が植えているナスビは、葉っぱがかなり虫に喰われたのか、茎や葉脈だけ残って錆びた金網のようになってしまっているのもある。葉や茎や実を支えるために、農家の人と同じように私も茎を麻紐でつるしてナスビを支えているが、それだけである。だからナスビの花に実がなっても、形はいずれもいびつであるし、収穫の後れたものは、熟れすぎて裂け目さえ見える。

都会の女性の多くが化粧によって容姿を整えているように、マーケットなどに出回っているナスビは、その薬の撒布によって「きれいな姿」が保たれている。撒布しているのはおそらく防虫剤などなのだろうけれども、しかし、マスクをして農作業をしなければならないというのは、吸引すると身体の健康によくないからにちがいない。虫食いのない見栄えのよいナスビでないとマーケットでは売れないからだ。その美意識のために、不健康をも甘んじている。考えてみればおかしなことである。

こうした労働と生産の現実は、単に農家の生産にとどまらないだろう。現代の資本主義的な生産様式に大きな意義のあることは確かである。しかし、そこには多くの矛盾もある。また人間の「生産労働の概念」にかなってもいないようである。だとすれば、それらもいずれは変革されて行かざるを得ないということなのだろう。

 


幼子

2008年07月12日 | 日記・紀行

 

帰りの電車の中で、サラリーマンやOLなどが乗り降りするのに混じって、若い夫婦がベビーカーに子供を乗せて乗り込んできた。それほど混んでもいなかったので、奥さんの方は座席に腰を下ろした。そして、ベビーカーの引き手を押さえながらそのまま立っていたご主人と何かにこやかに話していた。

私の座席からはちょうどすぐ斜め向かいあたりで、ベビーカーの中で気持ちよさそうにすやすや眠っているまだ三つぐらいの男の子の寝顔がよく見えた。
私は電車内のつれづれに任せて、かわいいその男の子の寝顔に惹かれてしばらく興味をもって眺めていた。

確かに私たちは、あまりにも余計な重い鎖を引きずり過ぎている。この子のように天真爛漫に受け入れるのでなければ神の国には入れないのだ。

 

 


市街地眺望

2008年07月09日 | 日記・紀行

市街地眺望

山に登る。高いところから眺望するのは好きだ。さまざまな思いに浸れるから。キュウリが食べきれないほどなっていた。ヨナのとうごまのように一夜にして育つ。トマトもはじめてもぎ取って食べた。少し早すぎたようだ。まだ青臭い。もっと真っ赤に熟れてからだ。
みんなと草を刈っているとき、アンナ・カレーニナの隠れた主人公であるレヴィンが農夫たちと草刈りを競う場面を思いだした。

 


七夕は

2008年07月07日 | 日記・紀行

今日は七夕。ブログで生活の記録をたとえ断片的にであれ、残し始めてからすでにというか、まだわずか3年ほどにしかならない。しかも、その七夕の記憶も、2005年と去年の2007年の記録はあるのに、2006年の七夕の記憶がない。

さらに古い七夕の記憶を思い起こしてみる。まず浮かんでくる情景がある。少し年の離れた弟が、お風呂に入ったあと、あせも予防の白粉を塗って浴衣を着せて貰い、短冊を飾り付けた笹を手にして微笑んでいる。それから、近所の人たちと一緒に近くの淀川へ笹を流しに行った時の子供たちの声のさざめき。

しかし、二十歳代、三十代になってからの記憶はほとんどない。その頃の自分は、今頃何をしていただろう。自我の目覚め始めた中学生頃から始めた古い日記を探れば、何とか記憶をたどることは出来るだろうが、そんな気にもならない。

一昨年2006年7月7日前後の、ブログ記事を探してみると、

民主主義の概念(1) 多数決原理(2006年7月6日)
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20060706
阪大生の尊属殺人事件(2006年7月8日)
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20060708
雅歌第八章(2006年7月3日)
http://blog.goo.ne.jp/aseas/d/20060703

などがあるぐらいで、2006年の七夕の日の記憶は残していない。おそらく世事に紛れて、七夕のことなどすっかり忘れてしまっていたのかも知れない。私のアナログ日記(日記帳)を見てみると、確かに2006年7月7日(金)の記録はある。しかし、株価の下落や理論的能力の低さについての記述はあっても、この年の七夕の宵についての論及はない。ほとんど宇宙の彼方に消えてしまっている。

2005年の七夕は、確かまだブログも開設して間もない頃で、かなり激しい夕立のあったことを記録している。「七夕の宵」という日記では、その宵のつれづれを、伊勢物語の中の場面を思いだし『渚の院の七夕』と題して書いた。http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20050707

阪急京都沿線の水無瀬駅近くに、平安時代の昔に惟喬親王や在原業平たちの遊んだ別荘があった。「渚の院」と呼ばれていたが、桜の美しい頃そこで彼らは七夕にちなんだ歌を詠んで残している。

2007年の七夕は、『VEGA』と題して書いた。
http://blog.goo.ne.jp/sreda/d/20070707 そこで七夕の宵に紫の上の一周忌を迎える光源氏の寂しさを回顧した。

七夕がなぜ人々の心を引きつけるのか。織り姫と彦星という星の出会いに、人と人が出会うという奇跡が、象徴されているからだと思う。
何千万人、何億人という人間が存在する中で、妻や夫の関係として、あるいは恋人の関係として私たちが出会う相手は、確率的に言えば本当に奇跡のようなものだ。その出会いが嬉しくないはずはない。

その一方で、本来出会うべき伴侶が、運命や神のいたずらで、一寸一秒のすれ違いに互いに相見えることなく生涯を終えるということもあるにちがいない。私たちの人生の舞台裏をのぞき見ることが出来るとすれば、そんな悲運に流される涙は尽きないのではないだろうか。無数の出会いと別れの織りなすものが私たちの人生に他ならない。

今年の七夕はとくにこれと言った感慨もないし、夜空に星は見えるけれどもさほど美しくもない。牽牛、織姫たちを探す気にもならない。

それでも、少しでも触れて記憶に留めておこうと思う。昔の人が七夕を詠っても、それは陰暦のもっと暑い夏の盛りのことだったけれど。

1264    七夕は   逢ふをうれしと   思ふらむ
                   われは別れの   憂き今宵かな

西行が七夕を詠ったものとしてはさほど優れているとも思われないが、彼が昔七夕の日にどのような感慨をもったかはわかる。

私たちが生きること自体の中に死が秘やかにまぎれ潜んでいるように、「出会い」そのもの中に「別れ」が寄り添っている。別れのつらさを厭うなら、出会わないに越したことはない。

それでも、なお人間は出会いを願うものである。しかも単に出会いを願うだけではなく、出会った相手を独占したいとさえ思う。こうした心情は今も昔も変わらない。

1265     同じくは   咲き初めしより   しめおきて
                   人に折られぬ   花と思はん

 

 


天高群星近