天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

勤労感謝の日

2008年11月23日 | 日記・紀行

今日は勤労感謝の日。山で畑仕事に関わりはじめたのも昨年の十一月だったから、まだ一年にもならない。ずいぶん長い時間が経っているいような気がしているが、まだ一年にしかならないのだ。先日からタマネギと麦のために畝づくりをはじめた。

去年はタマネギの苗をもらって育てたが、今年は種を播いて苗を育てることからはじめた。一ミリにも足りない小さな種から苗を育てる農業がこれほど繊細な仕事であるとは思わなかった。それはとくに箱庭農業の日本だけの特色なのかもしれない。アメリカやオーストラリアのような広大な農地を相手に耕作をやる場合は、ここまで繊細にはならないだろうと思う。私の大雑把な気質としては、トラクターを駆って大地を掘り起こす方が向いているように思う。
とにかく出遅れた種まきだったけれど、何とか人並みに苗は育った。

先の記事でも歌人の西行を取りあげた関係で、ネットで検索してみると、さすがに昔からの国民的な歌人らしく多くの人がブログやサイトで西行を取りあげ論じていた。とくに『digital 西行庵』さんなどは西行周辺の資料としてはこれ以上望めないほど充実している。また管理者の新渡戸広明さんという方は、理科系の人らしく、西行についての解釈をおこがましく語ることなく、ただひたすら客観的な資料そのものに西行の人となりを語らせようという謙虚な姿勢に徹しておられる。その他にも、西行に関する優れたホームページも少なくない。お気に入りに記録しておく価値のあるブログやサイトも少なくない。

いくつかの西行関連のネットサーフィンをしていて知ったことは、とくに、栂尾高山寺の開山として知られる明恵上人が、西行について聞き書きを残していることだった。知れば知るほど西行の姿が大きく重くなってくる気がしている。とくに西行の和歌も本当に知るためにも、仏教思想も知っておく必要もありそうだ。

また、東京工業大学教授の桑子敏雄氏に『西行の風景』(NHKブックス)という著書のあることを知った。それで先日、京都の図書館にその本のあることを知って借り出した。そして、今日読み始めた。

本を読んで、新しく視界が開けるという体験はそうざらにあるものではないけれど、桑子氏の『西行の風景』は、西行を見る新しい一つの視点を持たれているようで、示唆に富むように思われる。一言でいって、私には和歌の世界を思想的に哲学的に軽く見ているきらいがあったかもしれない。

書評は書いておこうと思っている。この本のキィワードは「空間」と「言語」である。私などはそんなときすぐに、なぜ「時間」がないのか、と生意気な反論を思い浮かべるが、大切なことは、私自身がどれだけ西行の真実に迫れるか、ということであるにちがいない。
桑子氏の「空間と言語」論は興味が持たれる。まだ三十ページほど読んだばかり。

先日、右京花園の宝金剛院を訪れたときのことを、紅葉紀行としてブログに書き始めた。偶然かどうか、ヘーゲルを読み囓っている私には「すべての個人は時代と民族の子である」という命題がつねに頭にあって、西行や待賢門院璋子などの歴史的な人物を論じる場合にも、場所と時代と伝統文化の視点で捉えようとする。おそらく私にとっての「場所」が先の桑子教授の「空間」と重なるところが多くあるのだろうと思う。この「場所」の概念は西田幾多郎などの哲学のなかでも重要な位置を占めているようだ。

先の記事でも、待賢門院が再建を尽くした宝金剛院が花園双ヶ丘という「場所」にあることを重視して、私の視点からその地理的な位置をできるだけ記録しておこうと思った。また、写真もいつになく多く撮ってしまったけれど、その風景もまた私という主観によって知覚せられ切り取られた客観的な世界の記録である。それが「風景」でもある。ただ残念ながら西行のようにそれを言語によって和歌として表象する力はない。
次は待賢門院璋子をめぐる歴史紀行にしたいと思っている。調べれば調べるほど、歴史についての無知が明らかになる。

 

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紅葉紀行(3)待賢門院璋子――青女の滝

2008年11月22日 | 日記・紀行

 

紅葉紀行(3)待賢門院璋子――青女の滝


それでも庭園の事跡に、わずかながらも待賢門院璋子の面影を偲ぶことはできるのか。とくに御堂の北東に木立の影に宝篋印塔をめぐって静かに端座している供養仏のたたずまい仏足石を眺めたとき、藤原璋子の信仰の名残を見たような気がした。

そこから少し南に歩いたところに青女の滝がある。名は滝でこそあれ、私が訪れたこのときには、流れ落ちる水はなく枯れていた。梅雨や夏の雨の季節にこの滝が蘇るのかそれはわからない。この滝が待賢門院の意思によって造られたことは確かで、それは璋子の当時の関係者の日記にも残されている。その後彼女の意向に添って、さらに滝の高さを増し加えられたことなども記録されている。青女の滝の水涸れの跡が、涙の枯れ果てるまで泣いた待賢門院や西行の面影のように思えた。

    秋深く芹なき野辺の滝枯れは恋ひしき人の涙の跡しも  

      
さらに池に添って歩いてゆくと歌碑が目に付いた。見ると西行のではなく待賢門院堀河の和歌が刻まれていた。

ながからむ心もしらず黒髪のみだれて今朝は物をこそ思へ(千載和歌集)

堀河の局が仁和寺に住んでいたことは山家集にも記録されている。往時この法金剛院も仁和寺の敷地の一部とされていたからこのあたりに暮らしていたのかもしれない。和歌自体は待賢門院とは直接関係はなく、後朝の思いに乱れる堀河の局の気持ちを詠ったものである。

いつどこで詠まれたのかわからないが、西行は次の歌を詠んでいる。

1033   なにとなく芹と聞くこそあはれなれ摘みけむ人の心知られて

これは美しい后の姿に恋心を抱いた殿守りが、ふたたびその姿を見たいと思って御簾近くに芹を供えたという故事によるもので、この歌からも、また西行や堀河の局たちが待賢門院を追悼して交わした和歌などからもわかるように、中宮璋子に仕えた人々のあいだには共通する思慕の情があった。

西方浄土への道案内として西行を頼りとしていたという堀河の局に、その甲斐が本当にあったのかどうか、もし生きているなら訊ねてみたくて詠んだ歌。

    黒髪の思ひみだれしきぬぎぬにたのみしひとのしるべ有りしか

さらに池の廻りを巡って行く。池の端に立って紅葉の向こうに御堂を眺める。夏にはこの池も美しい蓮の花で埋め尽くされるらしいけれども、秋の深まりつつある今はその面影はない。嵯峨菊の彩りが木陰に覗かれるだけである。

池の畔に植えられた山椒薔薇やナナカマドや黒椿、紺蝋梅などの木々の名前をその標識によって記憶しながら歩いた。紫式部も池に風情を添えていた。すでに葉を落とした沙羅双樹が、薄く曇った空に梢の枝先を突き刺すようにして立っていた。

南門の傍に小さな鐘楼が残されている。これも往時を偲ばせるものかもしれないけれども、青女の滝がわずかに小さく発掘されて残されているように、待賢門院の生きた頃の古図に描かれてある寝殿造りの御所は失われてないし、五重の塔も南御堂もない。かっては池もはるかに広く舟で渡ったという。

池の紅葉を振り返り見ながら歩いていると、背中に誰かとぶつかった。振り返ると異国の、きれいな女性が微笑んでいる。灰色の眼の柔和な表情で立っていた。嵐山などとは異なってほとんど人影もないこの古寺をひとりで訪ねて来たらしい。彼女の清楚な面影を思って詠む。

    夏過ぎてなほ咲きのこる外つ国の青き瞳の撫子の花

御堂の中に入れなかったこともあり、西行や堀河の局たちの面影を髣髴させるようなものはなかった。そして保元の乱で兄の崇徳院が讃岐に流された後、妹君の統子内親王、上西門院は1160年にこの地に隠棲したらしい。その面影も、庭先のどこを見回してもない。確かに待賢門院璋子は皇子や内親王の不遇を知ることなく亡くなった。しかし、それを幸いと言えるはずもない。

鎌倉幕府を開いた源頼朝も若き日には蔵人としてこの統子内親王に仕えていたという。その縁で上西門院統子に仕えた女房たちにも鎌倉幕府に縁のある者もいるという。また、不遇のうちに晩年を過ごしたらしいこの上西門院統子は、母に似て容姿が美しく、弟宮の雅仁親王(後の後白河天皇)と法華経読誦の早さを競い合ったりしたことが当時の歴史書、今鏡や愚管抄などにも記録されている。愚管抄の作者である大僧正慈円は、西行や藤原俊成などとも交流のあった歌人でもある。

今となっては法金剛院の境内に西行や待賢門院璋子らしき面影を偲ぶことのできるものはない。過去の歴史の中に消え去ったこれらの人々を蘇らせるためには、平家物語や保元、平治物語などの軍記物、また今鏡、愚管抄、栄花物語などの歴史物語をあらためて繙くしかないようである。また、そこに転変する時代の狭間に生きた人々の哄笑も落涙もともども映し描かれているようである。

駐車場を出ると来た道を戻り、仁和寺の前を南に向かい、嵐電の御室駅の前を過ぎて帰る。                                                                                              

                           

 

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紅葉紀行(2)待賢門院璋子――歴史

2008年11月21日 | 日記・紀行

 

                                                                                                                              紅葉紀行(2)待賢門院璋子――歴史

私が訪れたときには、駐車場にも、またそこから拝観受付所に通じるあたりにも人影はなかった。紅葉は目に付いたが、その色つきからまだ絶頂を迎えていないことはすぐにわかった。

拝観受付所で呼び鈴を押すと、ご住職とおぼしき袈裟姿の男性が奥の方から出てきた。拝観料と引き換えにパンフレットを受け取る。東の御堂の方に向かって歩きはじめて間もなく、後ろから二人連れの女性の歩いてくるのがわかった。私はその時お寺の中をゆっくりと見回りたかったし、またカメラにも記録しておきたかったので、彼女たちに先に行き過ぎてもらうことにした。それで御堂の間の道に入り、脇に咲いていたこれまで見たこともないような大きな鶏頭の花や、黄色い実をつけた千両などを眺めていた。

仏殿は修理中のために拝観できなかった。待賢門院璋子たちによっても多くの仏画、仏像などが寄進されたのだろうが、来年四月まで見ることができない。落ち着いた桜の季節の頃にふたたび訪れてもよいと思う。

藤原冬嗣を祖とする藤原北家の公実の女として待賢門院璋子は1101(康和三)年に典侍藤原光子を母に生まれている。七歳の頃に父と死に別れ、白河天皇の猶子となった。このことが藤原璋子の生涯を決定づけることになった。

藤原氏の摂関政治の全盛を誇った藤原道長の没した11028(万寿4)年からこの頃すでに八〇余年を経過している。藤原氏が外戚となり摂政関白の地位によって実権を握る政治は続いていたが、白河天皇には藤原氏とは姻戚関係はさほど深くはなかった。

白河天皇の治世については、平家物語のなかでも「みずからの意のごとくにならないものは、賀茂川の水と、双六の賽と山法師のみである」と語られている。歴史的にも白河天皇は院政をほしいままにしたことでも知られている。白河天皇の後を嗣いだ堀河天皇が若くして亡くなられて、孫の鳥羽天皇がわずか五歳で即位する。このとき白河天皇は法皇として幼い新天皇を後見し、藤原氏の外戚を排除してみずから親政を執り行うことになる。

鳥羽天皇もその誕生と同時に母である藤原苡子を失ったために、鳥羽天皇もまた祖父白河天皇に引き取られ養われていた。だから時を経てほとんど運命的に璋子は入内し、そして鳥羽天皇の中宮となった。もともと璋子も鳥羽天皇も白河法皇の猶子どうしである。二人は白河法皇の寵妃、祇園女御に養われていた。しかも鳥羽天皇の母である藤原苡子はまた璋子の父である藤原公能の姪でもあった。

歌人の西行法師は出家前にはこの鳥羽天皇に北面の武士として仕え、藤原璋子の兄である藤原実能の家人であった。だから藤原璋子は西行と関わりが深かったはずである。

仏殿が工事中であったので拝殿することもできず、藤原璋子の事跡を偲ぶことのできるものは境内に見あたりそうもなかった。ただ、いかにも嵯峨野にある寺らしく、御堂の傍らに色とりどりの嵯峨菊が鉢に植えられて並べられていた
西行が法金剛院を訪れたときに、いつどの場所で待賢門院を懐かしんだ和歌を詠んだのかはわからない。しかし、出家して間もなく西行は嵯峨野に庵をもって隠棲していたし、嵯峨野から内裏までの途上にあるこの双ヶ丘の地に仁和寺や法金剛院は位置しているから、西行も折に触れて立ち寄ることもあっただろう。

鳥羽天皇の譲位にともなって璋子は待賢門院の院号を賜る。この待賢門院に生まれた皇子顕仁親王(崇徳天皇)が鳥羽天皇の皇子ではなく祖父の白河天皇の落胤であるという噂は昔からよく知られていたらしい。それは歴史的な文書である古事談などにも記録され、また鳥羽天皇が崇徳天皇について「叔父子」であると語ったことなどが伝えられていることによるらしい。

また、それらを根拠にされたのだろうと思われるが、現代において待賢門院璋子の生涯を詳細に考証された角田文衛氏などは、女性の月事なども手がかりにそれ事実として立証されようとしている(『待賢門院璋子の生涯』朝日選書)。しかし、果たしてそれは真実であっただろうか。

ただ、若い日の待賢門院璋子がかなり放埒であったことは確かであったようである。しかし、この時代の人々を現代人の倫理意識によって批判しても真実を洞察することにはかならずしもならないと思う。ただ、この藤原璋子が養父である白河法皇の深い愛情を受けて育ったことはまちがいはなく、またその影響を受けたことによるのか、自身も仏教に深く帰依されたことは明らかだ。この法金剛院の建立に尽くされたことや、また、たびかさなる熊野参詣などによっても、待賢門院の信仰と立場が推測されうる。

もともと平安期のはじめに清原夏野が建てた山荘のあとに文徳天皇が天安寺を建立し、そのあとに待賢門院によって再建されたのがこの法金剛院であるといわれる。白河法皇や鳥羽上皇に寵愛されて待賢門院璋子は栄華を誇った。その歴史的な事跡として今も残されているのがこの法金剛院である。

そして彼女が熱心に行った寺院建築や熊野参詣が当時の荘園制度の発達と、そのうえに立った経済基盤の上にあったことは明らかで、院政によって強大な権力を保持しえた白河法皇の時代の背景には、すでに藤原道長の摂関政治の全盛期は過ぎ、その力が弱まっていたこともあった。

また荘園の発達は法皇やその庇護を受けた寺社に大きな富をもたらす一方、その権益を実力で保証する武家が、公家や貴族に代わって台頭して来ており、世相にはすでに末世的な時代の転換期を予感させるものがあった。

待賢門院璋子はこうした時代に生きた女性で、彼女自身は生前にその悲劇を目撃する不幸は免れたものの、その没後十数年にして皇子である崇徳天皇は反乱の廉で(保元の乱)讃岐に流されることになる。そうした時代の不安は晩年の璋子にも忍び寄っており、それがいっそう深く彼女を仏教に帰依させることになったにちがいない。

京の町ではすでに璋子の時代にも多くの邸宅が放火によって焼失することも少なくなかった。その後さらに時代をさかのぼる応仁の乱など、度重なる戦火によっても、内裏の邸宅など京都の多くの市中が灰燼に帰している。この法金剛院も待賢門院が建立した当時とは大きく姿を変えているともいわれる。さらに近代現代の都市の発達で、この法金剛院も敷地の多くは切り取られ失って、待賢門院往時の壮大な光景は失われている。

 

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紅葉紀行(1)宝金剛院――地理

2008年11月20日 | 日記・紀行
 

紅葉紀行(1)宝金剛院――地理

焦かれる思いで出かけたけれど紅葉にはまだ余裕があった。春の花にせよ秋の紅葉にせよ、そのもっとも美しい盛りに巡り合わせるのはむずかしい。

だいたい京都に出るときはまっすぐ東に走って桂大橋の西詰めまで出る。そして洛北を目指すときには橋を渡らずそのまま桂川の左岸をまっすぐ北に上がる。洛中に出る場合はこの橋を渡って行く。

この桂大橋の西詰めには桂離宮がある。これほど近くを何度も通り過ぎながらこの離宮の中にまだ一度も入ったことがない。いや遠いむかしに誰かに連れられて来たことがあるかもしれないが、すでに多くの観光地名所と一緒になってしまって定かではない。それほどに神社仏閣にはさしたる関心もなかった。しかし今は、この桂離宮はできるかぎり近い内に見ておきたいと思うばかり。

洛西から洛央に入るためには、いずれにせよ桂川を渡らなければならない。桂大橋でなければ上野橋を渡る。桂川に架かる橋にはその他に久世橋、久我橋、羽束師橋、五条西大橋などがある。行き先によって渡る橋も代わる。紀貫之たちの生きた昔は土佐日記にもあるように、難波から京に入るためにはみな淀川からこの桂川を上って行った。

山家集で待賢門院に寄せた西行の歌を詠んだ縁で宝金剛院を訪れてみようと思い立つ。場所は花園近くと聞いていたから、距離としては桂大橋を渡っていた方が近い。けれど途中に嵐山にも立ち寄ろうと思い上野橋から行くことにする。

上野橋を渡り桂川の右岸に沿って北に走るとやがて左手に松尾橋が見える。さらに北に走ると嵐山や遠く愛宕山の山容が姿を見せ始める。桂川のせせらぎは午後の陽光を川面に照り返していた。ススキの穂が川面の光を背に風に揺らいでいる。荻と区別ができない。

遠くの小倉山や愛宕山のあたりをながめても、まだ紅葉には間があるように見えた。西行が詞書きに詠っていたように「紅葉未だ遍からず」で、「かつがつ織れる錦」にも至っていなかった。

それでも秋は秋で、ところどころの黄葉と紅葉は美しい。画布に向かい油絵の具を手にすることもできないから、持参したデジカメにせめて秋の名残を留めておこうと数葉の写真を撮る。できるだけ人出を避けるために平日を選んできたけれど、すでに秋の観光シーズンに入っているのか、嵐山にはもうかなりの人出があった。

渡月橋の橋のたもとは観光客で混み合っていた。その間を抜けて大堰川の右岸にそって往くと右手には何軒かの料亭が列んでいる。このあたりの料亭で宴会に出た記憶も今はもう忘却の淵の中。時雨殿の前を通って夢窓疎石の開山になる天龍寺の境内に入る。境内の紅葉はよく色づいていた。

勅使門から出て山陰嵯峨野線を横切り新丸太町通りまで出る。このあたりは観光客と自動車の列で混み合っていた。嵯峨小学校の脇を抜けてそのまままっすぐに往けば清涼寺に出る。ここから大覚寺や落柿舎も近い。またいつの日か時間を掛けて歴史探索に訪れる日を期待して、今日は東にまっすぐ目的の新丸太町通りを行く。二時を少し回っていた。

京福常盤駅を過ぎ双ヶ丘の交差点を横切り、花園黒橋のバス停に至ったときふと脇を見ると法金剛院の標識のある駐車場が目に入った。地理を探すのに手間取るかもしれないと思っていたのにあまりにもあっけない。

 

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天高群星近