昭和57年頃まで野田市内で見かける茨急バスは5:1程度の比率で一世代前の東武によく似たこんな塗装でした。
下手くそで恐縮ですが車体各部に起きる応力をモノコック構造で放勢していた時代なので
本当はボディにリベット鋲の頭が吹き出物のように何本も出ています。
下手くそで恐縮ですが車体各部に起きる応力をモノコック構造で放勢していた時代なので
本当はボディにリベット鋲の頭が吹き出物のように何本も出ています。
柏・我孫子の阪東バスもかつてこの塗装だったようですが、当時すでに柏へ行っても次世代のものしか見かけませんでした。
色味が色味だけにわたくしは乗りバスを初めて1年くらいは茨城急行を見ても
「花田入口」。交差点の信号機はまだありませんでした。
丸昇という食堂は昭和もありました。
昼飯時は何かを揚げている油のよい香りがやはり鋭敏な鼻に漂ってきたものです。
バス停眼前には自動販売機を置いて、食品らしきものを軒に並べていた商店がありましたが無くなっています。
当初は工業団地として予定していた「弥十郎」という水耕地を落札した小田急不動産が1400もの戸建住宅群に変えてできた小田急弥栄団地。
東武鉄道不動産部門も入札したそうです。自社が落札しなかった腹いせか何か知りませんが東武野田営業所はなかなかバス停を設けず
地元住民運動でしぶしぶ作ったバス停だそうです。越谷営業所の越谷駅~弥栄団地なる路線ができるより前のことです。
その時のゴタゴタは当時東武の新入社員であった叔母から後年聞いたことがあります。
沿道の三平食堂。昔は文字がひっくり返って「食堂 三平」と書いてあったように思います。
昭和の御世、街灯のない夜道で灯台か航空認識灯のようにお店の照明が明るく見えましたが現在は店じまいしているようで残念です。
この路線、越谷市最後のバス停「新方橋」。
このように茂みに隠れずオレンジ色の柱が分かりやすくドンと立っていたものですがいつからこのようになったのかわかりません。
後方に逆川という小川があり川べりに公園めいたものを設けているようですが、当時はそんなものありません。
川は道路のすぐそばを流れ、野田へ行くバス待ち人のすぐ後ろに木で出来た柵と川面が見られ、
子供を抱いたお母さんが夕日の映える川を見て佇んでいるという穏やかでのどかで心癒される眺望がありました。
道路の反対側の停留所は「加藤商店」というお店屋さんの目の前にオレンジ色したポールが立っていて
これは地元の子供らのよい集り場になるであろうな、と思いながらバスから眺めていましたが、今ではもうお店はありません。
道路を進むとほどなく信号機付き交差点に達します。昭和時代も信号機がありました。
停留所の名前の「新方橋」はここを左折するとある橋ですがバスは直進し違う名前の「寿橋」という橋を越えます。
右側のクリーニング屋と床屋さんは昭和もありました。
橋たもとの左側にはナントカ衣料店という服屋と石原裕次郎がCMに出ていた清酒「松竹梅」のポスターを貼った酒屋、
その真向かいに御覧の「岡安商店」がありましたがいずれも消失したか店じまいしてしまっています。
寿橋からはこの路線のメインたる松伏町が始まります。
つづく
「境町かあるいは茨城のもっと奥地の車両更新の遅れた営業所の東武バスなのであろう、しかしすれ違い時に挙手しないのはどうしてだろうか?」
と不思議に思っていました。
と不思議に思っていました。
この塗装は年を追って少なくなり、茨城から埼玉に本社を移して久しい昭和60年頃には全く見かけなくなりました。
岩井市には関東鉄道バスでまだ車掌乗務車がいたそうですから、ワンマン表示板や「整理券をお取りください」という音声案内も重要です。
ハンドルは細いが大きい、しかしながらパワステなど夢のまた夢の時代。
左折でハンドルを短時間のうちに大回転させなければならないときは、あまりにハンドルが重たいので運転士のおじさんの腰が浮いてしまい、
身を乗り出すかたちでまるでハンドルを上半身で覆い隠しているような体位で回しており、
今日に比すればまるで曲芸のようにしか見えず「これは体育の成績が5の人でないとできない仕事だ」と思いました。
ハンドルは細いが大きい、しかしながらパワステなど夢のまた夢の時代。
左折でハンドルを短時間のうちに大回転させなければならないときは、あまりにハンドルが重たいので運転士のおじさんの腰が浮いてしまい、
身を乗り出すかたちでまるでハンドルを上半身で覆い隠しているような体位で回しており、
今日に比すればまるで曲芸のようにしか見えず「これは体育の成績が5の人でないとできない仕事だ」と思いました。
客がガタガタ震えてる真冬でも運転士だけはただ一人脇腹や耳の後ろに玉のような汗をかいており、普通の一般路線に冷房車などいるはずもない時代で
信号待ちのたびに「うぃー」と唸りながら運賃箱の側面のフックに引っ掛けておいた白いタオルで顔を拭き拭きしている、
今年のような連日熱中症死者が続出する夏を迎えようものならば彼らの肉体を見舞う辛苦の激甚さは、もはや見る者の目を覆わしめるほどであろう、
そういう時代の思い出です。
信号待ちのたびに「うぃー」と唸りながら運賃箱の側面のフックに引っ掛けておいた白いタオルで顔を拭き拭きしている、
今年のような連日熱中症死者が続出する夏を迎えようものならば彼らの肉体を見舞う辛苦の激甚さは、もはや見る者の目を覆わしめるほどであろう、
そういう時代の思い出です。
せま苦しい一方通行を脱した野田・岩井行きのバスは現在と同じく松伏町と野田を結ぶ野田橋に向けて一路東進していきます。
この「地蔵橋」というまんが日本昔ばなしのサブタイトルのような名前の停留所は常田富士男氏存命の昭和時代にもありました。
駅まで歩こうと思えば歩ける距離かと思われますが、越谷方面行きに頻繁に人の乗ってくるバス停でした。
その次は「紡績工場前」という停留所でしたが現在は「久伊豆神社入口」と改称されています。
紡績工場らしきものは当時でもすでに見当たらず、今日と同じ背の低い集合住宅が並んでいるのが見え、バスカットなどありませんでした。
道の反対側には紡績ではなく軸受けとかスプリングといったそのままバスに流用できそうな機械部材のやや大きめの工場があり、
子供の鋭敏な鼻に研磨クズの匂いがぷーんと漂ってきたものですが現在では普通の民家しか見えません。
久伊豆神社はヒサイズと読むそうですが「クイズ」と読めるのでアタック25とか百万円クイズハンターとかクイズ番組荒らしの人々が参拝すると聞いたことがあります。
この「地蔵橋」というまんが日本昔ばなしのサブタイトルのような名前の停留所は常田富士男氏存命の昭和時代にもありました。
駅まで歩こうと思えば歩ける距離かと思われますが、越谷方面行きに頻繁に人の乗ってくるバス停でした。
その次は「紡績工場前」という停留所でしたが現在は「久伊豆神社入口」と改称されています。
紡績工場らしきものは当時でもすでに見当たらず、今日と同じ背の低い集合住宅が並んでいるのが見え、バスカットなどありませんでした。
道の反対側には紡績ではなく軸受けとかスプリングといったそのままバスに流用できそうな機械部材のやや大きめの工場があり、
子供の鋭敏な鼻に研磨クズの匂いがぷーんと漂ってきたものですが現在では普通の民家しか見えません。
久伊豆神社はヒサイズと読むそうですが「クイズ」と読めるのでアタック25とか百万円クイズハンターとかクイズ番組荒らしの人々が参拝すると聞いたことがあります。
「花田入口」。交差点の信号機はまだありませんでした。
丸昇という食堂は昭和もありました。
昼飯時は何かを揚げている油のよい香りがやはり鋭敏な鼻に漂ってきたものです。
バス停眼前には自動販売機を置いて、食品らしきものを軒に並べていた商店がありましたが無くなっています。
当初は工業団地として予定していた「弥十郎」という水耕地を落札した小田急不動産が1400もの戸建住宅群に変えてできた小田急弥栄団地。
東武鉄道不動産部門も入札したそうです。自社が落札しなかった腹いせか何か知りませんが東武野田営業所はなかなかバス停を設けず
地元住民運動でしぶしぶ作ったバス停だそうです。越谷営業所の越谷駅~弥栄団地なる路線ができるより前のことです。
その時のゴタゴタは当時東武の新入社員であった叔母から後年聞いたことがあります。
子供の頃、バス停周囲の民家はことごとく小田急の借り上げ社員寮か何かだと勘違いし、東武・茨急バスに乗ってくる人を見て
「小田急社員であることがバレたらこの人たちは暗い所に閉じ込められ荒縄で締め上げられて硬い木の棒でお腹や背中を叩かれてお金を取られるに違いない」
と余りにも幼稚な気を揉んだことがあります。
なおバス路線に合わせて「小田」を「茨」に書き変えろ、という住民運動が起こる気配は微塵も感じられません。
「小田急社員であることがバレたらこの人たちは暗い所に閉じ込められ荒縄で締め上げられて硬い木の棒でお腹や背中を叩かれてお金を取られるに違いない」
と余りにも幼稚な気を揉んだことがあります。
なおバス路線に合わせて「小田」を「茨」に書き変えろ、という住民運動が起こる気配は微塵も感じられません。
沿道の三平食堂。昔は文字がひっくり返って「食堂 三平」と書いてあったように思います。
昭和の御世、街灯のない夜道で灯台か航空認識灯のようにお店の照明が明るく見えましたが現在は店じまいしているようで残念です
この路線、越谷市最後のバス停「新方橋」。
このように茂みに隠れずオレンジ色の柱が分かりやすくドンと立っていたものですがいつからこのようになったのかわかりません。
後方に逆川という小川があり川べりに公園めいたものを設けているようですが、当時はそんなものありません。
川は道路のすぐそばを流れ、野田へ行くバス待ち人のすぐ後ろに木で出来た柵と川面が見られ、
子供を抱いたお母さんが夕日の映える川を見て佇んでいるという穏やかでのどかで心癒される眺望がありました
道路の反対側の停留所は「加藤商店」というお店屋さんの目の前にオレンジ色したポールが立っていて
これは地元の子供らのよい集り場になるであろうな、と思いながらバスから眺めていましたが、今ではもうお店はありません。
道路を進むとほどなく信号機付き交差点に達します。昭和時代も信号機がありました。
停留所の名前の「新方橋」はここを左折するとある橋ですがバスは直進し違う名前の「寿橋」という橋を越えます。
右側のクリーニング屋と床屋さんは昭和もありました。
橋たもとの左側にはナントカ衣料店という服屋と石原裕次郎がCMに出ていた清酒「松竹梅」のポスターを貼った酒屋、
その真向かいに御覧の「岡安商店」がありましたがいずれも消失したか店じまいしてしまっています。
寿橋からはこの路線のメインたる松伏町が始まります。
つづく