特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

茨城急行 北越ケ谷駅~岩井警察線を追憶した その1

2018年07月19日 21時24分38秒 | 旅行


冒頭からなんですが、わたくしは小学生のある日警察に連れていかれたことがあります。
そして警察に着くと運賃を要求され、降りる際に「俺は何もしてねぇ!無実だぁ」と暴れることなくおとなしく「ありがとうございました」と運転手にお礼を言って降りました。降りてもカツ丼は用意されてないし火葬されて四女に遺骨引取られることも無いしですぐシャバに戻されました。

今回はそのとき乗った今は無きバス路線、茨城急行バスの北越ヶ谷駅~岩井警察署前線の乗車紀行をお話ししたいと思います。

野田市駅を折返点として今なお残存しているではないか、と訝しむ方がおられるかも知れません。ここで留意いただきたいのは終点が岩井車庫ではなく岩井「警察」なのです。正しくは「岩井警察署前」。昔の東武バス・茨急バスも現在と同じくその名で呼んでいましたが、岩井警察署はわたくしの生まれる遥か前に「境警察署警部補派出所」に格下げされていて今なお交番はあっても警察署はありません。

さらに茨城急行は北越谷駅ではなく「北越ヶ谷駅」と古風な書き方をしたのもぜひご記憶いただきたいと思います。こんな書き方するバスは他にみたことがありません。

また当時この路線には北越谷ないし岩井を発して道中の「愛宕駅」で打ち切る区間運行がありました。区間といっても折り返しではありません。その頃の愛宕駅には転回スペースなどありませんし、東武野田車庫には入れません。わたくしが客席から垣間見た行路表の記憶では愛宕駅から岩井または松伏町の自社折返場へ回送することになっていました。そのうち北越谷~愛宕駅にも乗ったことがありますのでそれも含めて以下お話したいと思います。

この路線は贔屓にしていた東武バス野田営業所とは全く違う事業者が、ちょこっとだけ野田市を掠めて他所へ走り去ってゆくという路線でしたから当時のわたくしは正直興味が大きくはありませんでした。

しかしながらその車両の見てくれは、幼き日母に手を引かれて乗った「どなたか子供の靴下落とした人いませんかぁ~」などと車内で車掌さんが大声を張り上げていた頃の東武バスによく似ており、
色数が2つしかない東武よりも派手な印象で市内で見かけると目立って見えました。この路線は現在でも終点が変わっただけで死絶したわけではないので、このブログでは茨急のみならず同じ路線を走っていた東武バスの思い出も含めて触れたいと思います。


 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(平成12年『常陽藝文 ふるさとのバス』から)茨城急行、現在は「イバキュー」という、頭の上に毛が3本のお化けみたいな名前を称しているこの会社のバスの、古い塗装といえばこれを想起される方がほとんどでしょう。まことに遺憾ながら今回はさらにそのまた一世代前の塗装の時代、アラフォーからアラフィフになったわたくしが11歳か12歳の頃というとてつもない大昔の話です。


茨城急行バスを「イバキュー」と呼ぶ人はすでに当時いました。どうしてかというと経路上のバス停の円板に「東武バス 茨急バス」と連名表記したものがあったからです。車内で聞こえてくる8トラテープの音声は東武とほぼ変わないように思いましたが、当然社名読みパートは違います。テープのオバサン、もといお姉さんは社名を必ず「イバラキキューコー」としか言いません。

公式見解がない以上「茨急」の「茨」を単純に「イバ」と読んでいいものかどうかわたくしは後年まで長い間悩んでおりました。
その頃のテープには「整理券を紛失したり折り曲げたりいたしますと始発地からの運賃額をいただく場合がございますのでご注意ねがいます」という啓発スクリプトこそありましたが、今では当たり前の沿道のお店や病院の商業宣伝が一切ありません。
唯一あったのが東武動物公園関連のPRで、団体割引がどうしたこうしたというスクリプトが柏03の江川~水堰橋間とか野田~境車庫線の火の見下~船形入口間など停留所間の距離が長い部分でよく流れてきました。またこれも今では当たり前のように流れる「降りたバスのすぐ前や後ろの横断は非常に危険です。道路は正しく横断しましょう」は
わたくしが高校1年生の時に柏駅のバス車内で商業宣伝ともども初めて聞きました。


社名の連名ですが今一度思い出しても数的に「東武バス」しか書いていない停留所と五分五分程度ではなかったかな、と思います。野田市の下町・愛宕神社前・愛宕駅・岩井市の辺田並木のバス停には「茨急バス」と書いてあったことは間違いなく、同じく大利根ゴルフ場入口の野田市駅行きのバス停には「茨城急行」と書かれていました。

野田でも越谷でも時刻表板は東武のものとは別板で取り付けられていました。ポールは東武と共用で時刻表板も東武と同じ橙色の板でしたが、罫線枠外の右下端に「茨 城 急 行」と社名がひっそり添えられていました。

越谷から岩井までいかなるバス停においても時刻表板の上下順は必ず東武が上で茨急は下。この光景から「茨急というのは東武の補完役」ということが子供にもおのずと理解されました。

当時すでにこの路線に限ってはワンマン化されていて車掌さんの姿を見たことがありません。運賃表示器は前回当ブログで申し上げたフィルム幕のものが東武と同じく車内前方にありました。

東武と同一区間なので運賃も同一ですが東武鉄道発行の回数券は使えませんでした。うっかり運賃箱に入れそうになって運転士のおじさんに怒鳴られた経験があります。今なおトラウマなので詳述しませんが、三つ子の魂百までと申します。東武や京成のことは書いても茨急について書くのが今日はじめてなのはここに理由があります。

嫌な記憶を暴露したところで悪口を続けますと、まったくもってこの会社のバスは素人目に見ても車両が古いのが一目瞭然で、5Eまで進化しつつある東武に比して恐らく3Eか13型らしき外貌で、
乗ったら乗ったで座席の緑色したモケットは毛羽立ちが大いに目立ち、指先についた食べ物汚れをこすり落とすのに丁度よいほどにひどくゴワゴワしていて、木の床板の軋みの音や3速から4速への加速時のエンジン音と振動の大きさは東武ではついぞ味わったことがないほどのものがありました。

さらに運転士名や車ナンバーの札の掲示を見れば「茨城急行自動車 株式会社」の札が驚いたことに木製で、まるでどこかの人んちの表札のように見えました。車内の広告掲示物は境営業所の東武バスと同じく茨城県の事物ばかりで、知る人ぞ知る地酒・徳正宗、総和町とかあの辺の個人経営の学習塾、境の松岡町のバス通りにあった仏具屋、角隠しを被った花嫁の微笑み顔のついた古河の結婚式場ホテルなどがありました。
なお東武ではないので東武動物公園はありません。先日柏で阪東バスに乗ったら東武動物公園のポスターがあって驚きました。後年埼玉県に本社移転すると埼玉の産物だらけになったようですが、当時は松伏町に大正大学ができたばかりでまだ松伏営業所はなかったと思います。


昭和54年の東武時刻表で北越谷駅茨急の項を見ますと、8:30と17:20にある下妻行に目を奪われます。松伏営業所が未開設なので岩井営業所とあります。この路線は元来、岩井ではなく茨城下妻~東京駅という現今の大和八木~新宮線に勝るとも劣らぬ長距離路線であったことが知られています。今更説明不要の大ヒット映画「下妻物語」で有名な下妻市は、京都広島に続くことわずか数年、
早くも明治40年代に茨城県初と言われるほどのスピードで乗合自動車業者が出現したというバス開明の地で茨城急行もこの地で創業しました。
さらに下妻街道という、東武鉄道が走っている日光街道が影も形もなかった大変古い時代にできた古代の商業路があって、そのルートは武蔵を発しわたくしの郷里の「小山の渡し」で河川沼沢を越え、水海道宿を経て下妻に達するというありようで、このバス路線が下妻街道に沿うものであったことがわかります。ネットに眠る情報によれば同年中に廃止されたそうで確かに翌年発行の同書にはもう載っていません。




 

(『松伏町史 昭和60年』から)


下妻行きが12に加えて境町が5。これはすごい。下妻から乗ったという方の乗車紀行を昔ネットで見たことがありますが、ここでは昭和57年の春休みのとある小学生の乗車紀を記して後代に残したいと思います。
わたくしは東武バス野田営業所のバス路線に愛情と運賃を湯水のごとく注ぐ一方で他社線にはいささか冷淡なあるいは何かを感じたとしても朴念仁のような顔しかできない非常にいびつな感情を持つ小学生でした。目を輝かせたのは流山で京成バスとすれ違ったときぐらいです。しかしながら他社線たる茨急バスも路線が野田市の一部に食い込んでいる以上完乗しないと気にくわないところがありました。





その頃の北越谷の駅前はアスファルト舗装こそすらあれ、白線らしきものは何も引かれておらず車道と歩道の区分すらなく雑然としていてバス乗り場にムシロを広げて野菜を並べている行商の人なども見られました。



現在東武プレオンというスポーツジムらしきものがある辺りは砂利が敷かれ建物一つない全くの空き地で、そこから転がってきた夥しい砂つぶ石ころで駅前の路面は未舗装のごとく車が通るたびにジャリジャリと音をたてていました。野田から来たバスで折り返し時間のあるものは乗り場に直行せず砂利敷きスペースで客降ろしをしてぐるっと方向転換をして待っていたことを覚えています。
遅延で着発となったバスはいちいち待機せず乗り場そのもので客降ろしをしていました。



東急ストアがズンっと建ってる場所には、「parlor ビクトリア」というネオン看板を掲げ入口脇に大宮か浦和の生々しい成人映画館の看板が2つ3つ置いてあるという、女子供が近寄るには余りにも敷居の高いパチンコ屋さん、とインベーダーの看板を掲げたナントカハウスというゲームセンターがありました。その隣には今と同じく足利銀行と埼玉銀行(現埼玉りそな)の建物とフォンダン?だったかそんな名前の手作りの洋菓子屋さんのようなお店がありましたがいずれもせいぜい2階、3階程度の高さの建物で、晴れた日には子供の低い目線でもバスのりばから綺麗な青空がよく見えました。 
東武線はまだ非高架の地上線でスペーシアのスの字もありません。しかしながら野田醤油の巨大プラントや貨物専用線をゴトゴト走るタンク貨車を見て過ごすことができる野田と異なり、
地味な店舗が秩序なく広がった退屈な眺めの北越谷のバスのりばからは、廃枕木に有刺鉄線を渡して作られた線路柵越しにときおり通過するデラックスロマンスカーを眺望する楽しみがありました。

駅のバスのりばは3つありました。 駅舎は改札と駅前とをエスカレータを具していない簡素な階段で結んでおり、バスのりばには階段に近い方から1,2と番号がふってありました。ずっと後年平成元年頃にやはり野田からバスに乗っていった時は遠い方が1番に変わっていました。階段を下りてすぐのところに当時でもかなりの古さを感じさせる「北越谷駅ワンマンバスのりば」だったか「北越谷周辺バス路線図」だったかそんな標題で森やら池やらイラストが描かれたボードが線路敷と乗り場の境の壁に付いていました。見る者の理解を阻むようなイラストの隅っこに「沓掛」という漢字を見つけて頭の悪い小学生にはそれが茨城県の地名とも判らず「『沓掛』とは松伏町のどこだ?どう読むのだ?」と思案にくれたことがあります。
バス停柱は野田市駅のと同じくスカイブルー色した金属の四面体もしくは六面体枠に摺りガラス板2枚をはめこんで、罫線枠から行先から時刻から全てフェルトペンらしきもので手書きしたA4かB5程度サイズの一枚紙を板に差し挟んで掲示時刻表とし、タイムスイッチで日没頃に内臓蛍光灯が自動点灯する電照型バス停でした。 
 
 さて、肝心の茨急バスは何番のりばであったか?それは1番2番と同一直線上にありながら最も階段から遠い3番、というか正確には無番。と申しますのは駅頭の茨急バス停には不思議なことに何ら番号が書かれておらず、電照ではなくこのブログで以前申し上げた二面式というスタイルでした。角がポロポロ剥落した台石、金属部を侵食する鉄錆の甚だしいことは使用年月の異常な長さを物語るに十分すぎるものでした。当時柏駅頭で垣間見た阪東自動車のバス停でもこれほどのものは見たことがありませんでした。ところがバス待ち人は結構いて、東武ののりばよりも並んでいることがありました。北越谷に雨の日に行った覚えは殆どありませんが悪天候時はさぞ厳しいものがあったでしょう。



いまざっくりと当時の北越谷から東側にあったバス経路のいくつかを単線で示すとこんな感じです。それにつけても今だに忘れることができないのは当時の茨急バスの車内で見た路線図です。
ただのガリ版刷りでわたくしの目にはどこかの古文書かなにかのようにしか見えませんでした。
ガリ版というのは謄写版と呼ぶのが正しいそうですが、まず包丁の砥石みたいな板があってそこに縫い針の親分というか藁人形に刺す五寸釘の子分みたいな鉄棒で文字やら図形やらともかく表示したい事柄はほぼ全てフリーハンドで書いていく、というか板を引っかく。この引っかく時にガリガリと音がするのでガリ版と呼んだと思います。
書けたら紙を敷いてインクがべっとりくっ付いたローラーを板の上にゴロンと転がせば紙に写るので出来上がり・・・
ですが所詮手作りのものなので文字・図形のかすれが非常に多く商業印刷に比べれば遥かに視認性は乏しい、江戸時代の木版かわら版のほうがよっぽど見やすかろう、というクオリティの印刷技術です。言葉で説明してもわからないと思うのでいろいろネット検索してみてください。

野田辺りの田舎小学校だとクラスごとに月に一回、「学級だより」といったタイトルの学級報が児童に配られたものです。今もあるかもしれませんが、当時は先生が藁人形ならぬ「藁半紙」という極めて安価な低質紙にガリ版で刷って作るのが通例でした。野田の者が高級紙を手にできるのは醤油瓶を贈答用に包装するときだけです。担任がズボラな人物だと児童にローラー転がしをさせるので体操着の名札にインクが飛んだ女子がギャアギャア泣き喚いたりしてまあ大変でした。コピー機とかワープロとかいう奇妙バテレンな妖術はまだ野田の貧しい子供の前には現れていません。

しかしくだんの路線図は妖術どころではない。手書きガリ版刷りですから例えば停留所を示す円、円と円とを結ぶ直線などあちこちに途切・擦れがあるのです。路線図において線種というのは極めて重要な構成要素で、ましてやガリ版のような黒単色のものでは命とも言えましょう。標準・太・細・極太という線幅と実・破・点・一点鎖・二点鎖という線種の組み合わせを凡例欄から読み取って
ある任意の線がどの路線を指定しているのか判断させるものなのに途切れや擦れがあったら実線なのか鎖線なのかわからないではありませんか。

しかもその路線図の収めているエリアは北は古河下妻から南は越谷まで、すなわち当時の茨城急行の全バス路線の停留所をいささかも略することなく紙一枚に凝縮して書いてあるのです。さらに紙の判サイズがこれまた東武のそれより小さい。文字は途切れや擦れを伴い人の手による米粒写経文のように小さな自然字体、なおかつ小学生がまだ習ってない漢字もあるしで30秒も見てると目がクラクラしてきました。右上のほうに下ナントカカントカという漢字が見え、下妻駅か下館駅のどちらかを表しているらしいと思いました。ナンタラ鉄鋼と思しき会社名のついたバス停の名前がその下に書いてありましたが鋼のへんがかねへんなのは何となくわかる、ところがつくりの「岡」のほうが無駄に画数しっかりと書いたところへインク盛りすぎてて字体がつぶれて読めない、そも我が家のある野田市がどこにあるのかが全然つかめない、段々イライラしてきます。当時視力2.0を誇り運転席に隠された行路表を瞬く間に解読する特殊能力を誇示したわたくしもこれには参った。


さきの単線図に当時の主だった路線を色を付けて入れるとこんな感じです。せんげん台~八幡神社というのは乗ったことがありませんが、当時せんげん台でそういう方向幕を見たので記しました。
岩井辺田~下妻の路線は昭和56~57年頃でも健在だったそうですが、わたくしは一度も見たことがありません。ただし岩井にあった茨城急行・岩井営業所の建物は野田~岩井車庫線の途上にあってよく覚えていますので、その段になりましたらお話ししたいと思います。越谷~岩井間のバスは当時すべて野田下町経由でした。市役所経由すなわち今日中野台経由と呼ばれる経路は野田市駅発着の東武バスしか通りません。




今日ある「東大沢橋経由」なる経路は昭和時代にはいかなる路線であっても存在していません。さらにエローラだの東埼玉ミニスカポリスだかなんだかポリスだとかいうのも全くありません。




岩井・野田~北越谷間のバスは大沢4丁目からは往復路が異なっており、往路は今消防署のある広い両側通行路を北上して駅へ進入していました。当時は消防署ではなく岩井のささやかな警察とは趣の異なる厳めしい越谷警察署であって、停留所も「越谷警察前」と言っていました。するとこの路線は昭和の昔は岩井警察・野田警察・越谷警察の3箇所を巡る警察署見学ツアーのような路線だった、ということに気づいて「これはぜひ乗りたいぞ」と思ってももう後の祭りです。何かやらかしてパトカーの後部座席にでもお乗りくださいませ。



「越谷警察前」→「駅入口」間にある越ヶ谷包装。昭和時代もありました。今のような暑い夏のある日、野田から来たバスから見えた、店の前で大きな空き段ボール箱を軍手した手で引きちぎろうとするも手が滑って掴みずらいので軍手をめくり取って素手でブチッブチっとちぎって始末し始めたらちぎった欠片が車道に飛んで行ってしまい放っとこうと思ったら、渋滞で動かない満員のバスから大勢の客が自分を見ているのに気づいて焦り、車道で回収すべく車が来ないか左右をきょろきょろ見ていた丸首の白シャツ一枚のおじさんの姿を昨日のことのように思い出します。




駅名を付けて入口と書いてありますが、昭和時代、否、平成13年野田出張所廃止の日でも「北越谷駅入口」などと長ったらしくなく単なる「駅入口」が名前でした。野田市駅~中野台~北越谷駅線は子供のころ北02が系統番号でしたが最後のあの日には昭和55年以前と同じ野02となっていました。バス停は昭和時代はオレンジ色したお馴染みのスタイルでしたが平成13年には現行スタイルに変わっていて北01と野02そして松伏溜入下線の野03と紫ゴルフ場線の野08、計4つの系統番号が書かれていましたが野08はすでに廃止されていました。また越谷警察前とここは昭和56・57年ではバス停に「東武バス」しか表示されていませんでしたが平成13年では「茨急バス」も併記されていました。


 
復路はこの天理教会の眼前を南北に通ずる一方通行路を行く1パターンでしか野田へ戻ることが出来ませんでした。だからといって当時のバスがみんな天理臨だったと早合点しないようにご注意ください。
17年前野田からバスに乗って久しぶりにきたとき、一方通行だったはずのこの道が御覧のように反対車線から車が来るので一方通行で無くなっているのに気づき子供のころの原風景がまた一つ失われたな、ともの寂しさを覚えました。そのまた何十年も前、子供の頃バスから眺めたこの道の幅は、自転車が一台走ってきただけで減速しなければならないほどに非常に狭いものでした。一方通行なのでセンターラインもありません。後年拡幅工事をなしたのでしょう。
秋めいた季節のある日、天理教のもっと手前にあったさるお家で葬式をやっていてちょうど出棺の頃合いだったようで、花輪と真っ黒い喪服を着た出席者の群れと横づけされた宮型霊柩車でひどい渋滞を起こしていて大沢4丁目の交差点まで脱出するのに10分以上かかったことがあります。


 


かくしてバスは狭い一方通行から松伏・野田へと通じる下妻街道でえっちらおっちらと戻っていくのです。野田あるいは岩井、はたまた下妻まで長い旅です。

つづく


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