特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

茨城急行 北越ケ谷駅~岩井警察線を追憶した その3 松伏町

2018年07月31日 14時01分50秒 | 旅行
皆さま台風の害は大丈夫でございましょうか。東京地方に竜巻警報まで出ました。
何年前だったか越谷に竜巻が起こって松伏→野田と移りながら害をなしたことがありました。
今わたくしが必死に思い出そうとしているバス路線はその竜巻と同じようなルートです。


越谷もとい、当時の茨急バスのしきたりに従うと「越ケ谷」をいでて岩井警察署前行のバスは松伏町に入りました。



町域に入るや否や沿道で町名を強く主張する松伏石材店に出くわします。
昔は漢字で「松伏石材店」の看板でした。明治の創業だそうです。
石材店を過ぎてほどなく道路右側に「バナナで釘が打てます、綺麗な薔薇もこのとおり」のモービル石油のスタンドがありましたが、現在はもう無いようです。


 
松伏町最初のバス停、小河原。ここもなんだかんだで昔からあるバス停です。
そして人の乗降りも激しいものがありました。
後年道路左側に「ヨークマート」ができて開店記念セールに親と一緒に買い物に来た記憶がありますがいつの間にやら消え、ただの家が並んでいます。

松伏町の人も岩井の人も昭和50年代後半、よく愛宕のヨーカドーで買い物してこのバスに乗り降りしてくださっておられました。
それは野田の子供としては非常に嬉しい光景でした。
ヨーカドーには越谷松伏・岩井行きのバスの時刻表が大きく掲示されていたことは野田~流山線の話で触れた通りです。

『松伏町史』によれば古来、松伏の人々は野田か越谷を買い物先としていて、アレを買うなら野田、アレは越谷大沢町とどこで買うか決めていたそうです。
同書には野田の「旭屋呉服店」に買い物に行った、あるいは野田の「たけのや」というパーマ屋へ行った、はたまた名産の桃の花や榊をリヤカーに積んで野田で売りさばいていた古き松伏町民のエピソード、
醤油樽を締める藁縄を野田醤油に納めていた古き松伏の農家のエピソードが載っています。
千葉県野田市ナントカと書いてある地元の店屋の袋を抱えて乗ってきて子供に袋を持たせて空いた手でチャリリンと運賃箱に小銭を投じて松伏で降りていった乗客の面影が脳裏をよぎるとともに、
愚昧な野田の者どもが忘れていた県境を越えた絆を知らされ心打つものがあります。




「赤岩入口」。このようなルーフ屋根も自転車置き場など昔はなくまるで違うバス停のように見えます。





松伏町の役場に来ました。


 
昭和の昔からある歩道橋を上がり、以前申し上げた「埼玉県東部地区の交通」展のパンフに乗ってる昔の役場前と見比べてみました。
歩道が広がりましたが東芝ストアー、そしてその隣にあった確か「長門酒店」なる名前だったと記憶するお店さんがもうありません。

ここに再び『松伏町史』を紐解きますと、当地のバス路線は大正末期に春日部駅~大川戸~松伏間を1日2往復したのが嚆矢で、
「野田橋が昭和3年に開通してから幸手から野田橋行きのバスがあった、バスは手を上げるとどこでも乗せてくれた。同じく昭和初期頃、越谷から野田間を3往復程度走っていた。
松伏小学校(現在の役場 原註)では、バスが来ると子供たちは大騒ぎで『バス来たよ!廊下に出てみろ』と大騒ぎをした」(松伏町史 昭和60年)。



『電車時刻表附乗合自動車時刻表』から越ケ谷線の部分(昭和18年 野田商誘銀行)


「野田ゆき自動車連絡」という看板が見える戦前の越ケ谷駅(昭和10年代 『埼玉の100年』埼玉新聞社)



「越ケ谷」と書いてある野田橋上の総武鉄道乗合自動車(『写真が語る野田の歴史と文化』)



昭和40年代のバス(場所不明 『松伏町史』)


今も昔も次が「松伏」でした。
松伏町にあって停留所名が「松伏」ですからここが町のセンターポイントであろうと思われます。
昔は乗る人数も降りる人数もすさまじいものがありました。
北越谷行きの停留所位置から道が二股に分かれていて、それは昭和も同じでした。



岩井・野田行きのバス停は現在のこの場所よりさらに野田寄りのところ、信号機を超えてすぐにあったワンカップ大関の自販機などがあった酒屋さんの前に立っていました。



越谷方面行きバス停の眼前にある山崎商店さんは昔はもっとおとなしい地味な佇まいの建物だったと思います。
看板の「灯油」と「たばこ」を離して書いてあるところにれっきとした危険物取扱責任者であることが窺えます。

 
このお店は今行ってみたらホワイト餃子とかマックスコーヒーとか野田の産物があって、海外旅行先でご飯と味噌汁が出てきたときのような深い感動を覚えます。

そしてバス停が昔はオレンジ色したお馴染みのが一本つまらなそうにボソッと立っていただけなのに、現在はなかなか面白いバス停になっています。


まず規制緩和後に参入してきたタローズバスの柱を見ますと、せんげん台駅行きの路線を乗客減で運行休止するという告知は今回スルーしていただき、
頭部丸板を御覧なればお分かりのように黒い目ん玉が二個書いてある。
「人の顔を模しているんだ、なかなか考えたもんだ」と思って裏面を見ると、




バスの赤味が退色して黒いタイヤが残っただけだった、という。


さらに茨急、タローズバス双方の表示板に「バス停での喫煙はご遠慮ください」と啓発ステッカーがありますが

バス待ち用に灰皿スタンドが置いてあります。


松伏町の商業地的な眺めは大体この辺で終わってしまい、ここから先は当時すでに完全舗装道路で中央線も引かれていましたが「上河原」→「十一軒入口」→「豊橋」→「内川神社前」→「野田橋」と凡庸たる田舎道を進んでいきました。
乗客から「整理券が出ない」とか「降車ボタン押したのに音がならない、降りるから今すぐ停めろ」とかクレームが発生してゴタゴタしてた好ましくない思い出が当時の茨急バスにはあるのですが、
突如8トラテープが回らなくなってしまい「えぇ・・・・ゴホンゴホン」と痰の絡んだ滑舌の悪い運転士の肉声によるジャイアンリサイタルのようなまことに耳障りな車内案内がボェ~と流れてくるトラブルが概ねこの辺を走っていたときに起こりました。
幸いそのバスは終点が岩井ではなく途中愛宕駅止まりの便だったので運転士、そして無理やり聞かされて金取られる乗客も被害は少なくて済みました。

なお現在途中にある「第一保育所入口」なる停留所は昭和時代にはありません。



十一軒入口過ぎると左に見えたホテル松伏。
昔は日没になると大変綺麗なネオンが真っ暗な田舎道に浮かぶ星座の煌めきのように見えたものですが、はてさて今も営業しているのやら。



「豊橋」は思わずトヨハシと読みたくなりますが「ゆたかばし」と言います。
ここと次の「内川神社前」は松伏町ではなく北葛飾郡吉川町(現埼玉県吉川市)という隣町の区域でしたが、わたくしは
久しくここも松伏町だと思っていました。
豊橋には当地を走る新興企業のタローズバスは来ませんが、経営母体の丸和運輸の社屋が橋上から見えます。
総武鉄道における野田醤油みたいなもんか。
昔の埼玉県知事の娘で桃子という名前の人物が経営に絡んでいたので桃太郎便を称したと聞き及んでいます。
お腰につけたきびだんごが傷んでも隣に第一三共が控えているので無問題です。





次回は野田はそこそこにして、茨急バスから見ていた昭和時代の岩井の商店街の記憶をお話しして終わりにしたいと思います。

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