「外国語を知らない人は母国語も知らない」(Johann Wolfgang von Goethe)
グーテンアーベント、フロイライン。ヴィーゲツ イーネン?
東武鉄道松原団地駅が「獨協大学前」と改称してはや2年の月日が過ぎました。
獨協大学といえば「とくダネ」の小倉さんの母校としてのみならず広くドイツ語学・文学の権威として名高い大学です。
今はどうだか知りませんがわたくしが花も恥じらう某大学生であったほど遠い昔、大抵の大学では理系か文系かで第二外国語を何語にするかもほぼ定まっているのが普通で、理系は「ドイツ語」でした。
先日中学生がドイツ語検定1級に見事合格したという凄いニュースがありました。
今回は獨協大学の目の前を往くバスに乗った話なので、脳内に残る怪しいドイツ語を思い出しながらお話ししたいと思います。ちょっと前「進撃の巨人」というアニメがありましたね。その二期OP曲はドイツ語なのですがわたくし一語もわかりませんでした。
東武スカイツリーラインもとい、トウブヒンメルバウムリーニエで北千住から急行・鈍行とり混ぜて15分程度でこの駅に着きます。
駅前にはさぞビールを煽りながら焼きフランクフルトに舌鼓をうちつつニーチェやゲーテの分厚い原書をめくるローレライのような見目麗しい女子大生たちで満ち溢れていることであろう、と思いきやバスのりばに佇む中高年しかいませんでした。オー、ナイン!
未だ「松原団地駅」のままの路線図を見ますと、1時間に数本程度の新田駅へ行くものが主で、あとは土休日かぎりで数便しかない東武の草加駅行きと今回乗った松原団地循環があります。
松原団地循環線は以前少年時代の個人的記憶をお話しした千葉県柏の豊四季団地循環線とともに東武ワンマンバスの始祖となった路線です。現在もある「銀杏通り」バス停前を駅から団地方面へ向かっている埼玉ナンバーの日野RE100らしきこの画像は東武社史にも草加市史にも出ている印象深い一枚です。この塗装を身に纏って関東平野を縦横無尽に走っていた東武バスの神々しさたるや、もはやブランデンブルグ門で四頭馬車を曳く女神ビクトリアに比肩してなお余りあるものがありました。
団地の諸々の記録をみるところによれば、草加松原団地には「地区」というのがあってABCDの4地区があります。
豊四季団地はABCなどなく19号棟とか35号棟とか数字しか付けていませんが松原団地はA10とかC7とか地区番号を頭に付けて番振りしています。
『日本住宅公団史』(昭和56年 日本住宅公団)によると豊四季団地が4000なんぼのところ松原団地の総戸数なんと5926!競馬でも40倍と59.2倍とでは実入りが全然違います。
豊四季団地は全ての号棟が駅から離れていて東武の要求を満足する旺盛な需要があるのでバスは団地内をあまねくぐるぐる回っていますが、しかしながら松原団地はいきなり駅前にA地区の棟があって以降順次BCDと続き、うちAとBは駅近すぎてお話しにならず、Cは微妙、D地区辺りでようやっとそろばんをはじくことができるのではないかと思われます。
つまり標的にできるのは5926戸の全部ではなく一部なのです。
なので豊四季団地の古い記録を見ると「バス停作れ」「朝の本数増やせ」とか東武バスへの苦情が極めて多いのですが、バス依存度の低い松原団地のそれにはそのようなものが見当たらないのです。
一時期松原団地に居を構えた作家の一人に後藤明生がいます。後藤は作品内容からしてCかD地区にいた可能性がありますが団地そのものについて饒舌に語っている一方、路線バスについては特筆すべき文章が見当たりません。
それで団地まるまる循環するわけじゃないので「D地区循環」と書いてあるわけです。
戸数が1000戸以上少ない豊四季団地線を保有し続ける一方、こちらは早々に東武が手放してしまったのはこういうとこにもあるかもしれません。
しかもそのD地区も団地建替えで住人諸共消え失せてしまいました。来年辺りにまた新しいのが建つそうで増便するでしょうが今の時点では団地内のバス停を休止してザムスタークとゾンタークに1本づつしかないレア路線と化しているのです。
ちなみにこれはレア化する前のダイヤ。
問題の松原団地循環線は西口から出ておりますが、ご覧の東口のほうがバスの出入りが賑やかです。
右に停まる東武日野レインボーⅡのそばにやはり東武が受託しているパリポリくんバスなるコミュニティバスが来ました。
ほぉ日野リエッセか、日野の並びだなと思ってたらいすゞのジャーニーJだそうです。どこがどう違うんだこりゃ。ナンバーが800ですがモンゴル語はありませんし、人に優しくされなくとも自車の小ささを知ることができます。あーなーたーに会いたくないです、別に。
さて、松原団地で唯一残存するバス停、松原小学校前。これは元来は今は亡きD地区をぐるっと循環した後、駅へ戻る途上の標柱。
松原小学校は元は北谷小学校といって「Rの法則」のMCだった山口達也氏の母校です。
北谷小学校だった時にはなんという名のバス停だったのかわたくしにはわかりません。
一方これからD地区へ行きますという標柱がこちら。隣の電柱巻看板の「学研教室」がそっくりの色彩です。
「次は グランド前」と書いてありますが来年3月予定の経路復活まで行くことはありません。
これはただひたすらここに立ってノイ・マツバラダンチ完成のその日を待っている休眠バス停なのです。ここにいてもバス来ませんよという注意書きが下方に掲示されています。
松原ストアーという味わい深い趣きの魅力的なお店がすぐそばにあります。
今すこし天気が良ければ軒下で売ってるお弁当でミッタークェッセンしたいところです。
元来は次停留所だったグランド前の跡地。作業ゲートの手前にあったそうです。休眠どころか天に召されて亡きがらすらありません。
そのまた次停留所の「D地区センター」跡地。天に召されて墓穴が掘られています。
飛行船ツェッペリン号や戦艦ビスマルクの何倍も巨大で東洋一と称した松原団地がここにあったとは容易に想像しがたい光景です。
(『草加松原団地40年の歩み』 草加松原団地自治会)
いかに解体中とはいえ地名の由来となったキーファーヴァルトすなわち松原がどこにもないのはどうしたことかと思いましたが、肝心の松原は駅の反対側にあります。
松原の並木は旧日光街道にあって昭和30年~40年代の路線バス黄金期には東京と千葉埼玉を結ぶ東武であったり都営であったり様々なバスがその道を走っていたのです。汝が魔力は再び結び合わせる、時の流れが力を込めて切り離してしまったものを!
学童通りバス停跡。赤い花びらの綺麗な草加藤幼稚園は松原団地開場翌年に完成。その幼稚園前にあったといいます。キンダーガーテン奥の白フェンスの向こうにはD地区のマンションが林立していたそうですが跡形もありません。
獨協大学正門前。アルファベットのDがゲルマン伝統のひげ文字になっています。
Berlin Olympischeの聖火ランナーみたいに構内から走って出てきた人がいます。開会式当日のベルリンもこのような曇天下だったそうです。
「獨協大学正門」となっていますが真新しいステッカーで直され、下の英文は大学名のみで高輪ナントカみたいに「ゲート」とは付いていません。英国王室はドイツハノーヴァ家出身なので英文があっても驚くに足りません。ドイツ電気学界の巨人Georg Simon Ohmが発表したV=IRすなわち極東の団地住まいの中学生でも知ってるオームの法則はドイツではなくイギリスの研究者たちによって評価され世に広まりました。
原町三丁目経由という文字上にも目隠しテープが貼られた痕跡があります。
昭和50年代後半の獨協大学。今日の停留所位置と同じところに橙色の東武バスの懐かしいバス停が見えます。(『獨協大学二十年史』 獨協大学二十周年記念事業企画委員会)
バス通りと大学の間に草花を植えているスペースがありました。『ジョジョの奇妙な冒険』によりますと松原団地が東洋一なのと同じくらい「ドイツの医学薬学は世界一ィィィ!」 だそうですから薬草でも植えてんのかな?と思ったらどこかのNPO団体が借りてる花畑らしいです。エントゥシュルディグング。
歴史的評価は置いといてドイツ史上最も有名な人物、アドルフ・ヒトラーはジョジョの荒木飛呂彦先生に勝るとも劣らぬ嫌煙家であったことが知られています。大学前には奇抜でしかしレトロな公共灰皿があります。松原団地開闢時に設けられた歴史的遺物かも知れません。
ところが困ったことに将来獨協大学生になるやも知れぬ子供たちもいる歩道上に、吸い殻がポロポロ散らかっています。
ダス イスト シュムツィッヒ アッシェンベッヒャー!
たまたま持ってた汗拭きシートでいくつか吸い殻つまんで灰皿の穴に戻し少しは綺麗にしておきました。
「道路掃除夫としてドイツ国の市民であるほうが他国の王であるよりももっと大きな名誉であらねばならない」(ヒトラー)
すべての善人もすべての悪人も東武鉄道がつけたバスの路をたどり快楽は虫けらどもにも与えられ智天使ケルビムは神の前に立つのです。
先に挙げた銀杏通り、いまは平仮名に改まった「いちょう通り」のバス停。周囲の環境がRE100が走っていた時代とは全く異なっています。当時は東武のバス停一本だったのが朝日バスのものになっています。後方ののっぺらぼうみたいに白くマスキングされた謎のバス停は週末しかこない東武バス草加営業所のものです。
某ドイツ人いわく「アーリア人種の輝く額からはいかなる時代にもつねに天才の神秘なひらめきがとび出す」そうですが、アーリア人種の天才の神秘な発明品ディーゼルモートルを搭載した松原団地循環のバスはドレクメーラー社でもメルセデス社でもない日本のポンチョでした。
ポンチョとかリエッセといった小型バスは最前席に座ると全く周囲が見渡せなくなります。それでオタクよりむしろ一般人が座りたがります。わたくしは最後部へ座りました。
いちょう通りを過ぎると大変不思議なことがおこりました。
次の「グランド前」と言い終える前に開始ボタンをパッとすぐ押して「次は学童センター」と出るとまたパッとすぐ押しして本当の次の停留所である「松原小学校前」で固定されました。
車内案内システムが経路変更前のままだったのです。
松原小学校前の発車時刻は12:14ですが11分頃に着いたので時間調整のため後扉を開けたまま数分待機しました。団地住人はいなくなり土日で小学校もお休みで乗ってくる人は一人もいませんでした。こういうタイミングで東武バスの怖い顔したおじさんにおずおずと話しかけて回数券を購入していた少年時代の思い出が彷彿としてまいりします。
「時間というものはね、見張っていると実にのろのろとしか進まないものなんだ」(トーマス・マン)
何事もなく獨協大学正門を通過。降りる間際に運転士さんと雑談したのですが「ここで乗ってくる大学の先生みたいな感じの人がたまにいる」とのこと。ただし団地循環線以外にも駅行きのバスがここに来ますからわざわざ団地循環を狙って乗ってくるわけではないと思われます。よしんば本当に狙ってるならばそれは恐らく高崎経済大の大島教授のような相当に特殊な先生でしょうな。
10分もかからずに終点へ。豊四季団地だと15分くらいは見て置かないといけませんが各駅停車しか停まらない獨協大学前駅では柏駅と違って渋滞もなにもありませんでした。
しかし廃墟に近い状態の無人の荒野をバスでぼーっと走り抜ける、サファリパークのような非常に高揚たる気持ちになりました。IC運賃で175円でした。
東武バスのワンマン運転にこの路線が選ばれたのを知ったのは高校生の時柏の当時は市役所のそばにあった図書館で「写真でみる東武鉄道80年」という書物を見た時でした。どうせ東京のどっかで始めたんだろと思っていたら豊四季団地というなじみ深い地名も併記されていて「あの路線が最初だったのか」とアハ体験のような感覚を得ました。そして小学生の頃の豊四季団地循環のバスに小児運賃で乗ったときの記憶がふつふつと脳裏に浮かんできました。
ゲーテは「人が旅をするのは到着するためではありません。それは旅が楽しいからなのです」と言っております。
到着点ではなく旅の行程に着目したときそれが楽しいか楽しくないかは循環線か一本道か何時間かかるか10分で終点かなど関係のないことです。
松原団地に住んでいた人々にもまたこのバス路線にその人なりの記憶があることでしょう。貴重なその記憶をどうか大事になさっていただきますように。
だんだんドイツ語の単語が出てこなくなりつつありますが、新社会人の頃『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメがTVで放送されていました。当時まだ20世紀でしたけど。まあ今更説明不要の超有名アニメで「残酷な天使のテーゼ」はアニメ嫌いの人でも一度は耳にされたことがあると思います。ゼーレとかネルフとかドイツ語が沢山出てくるアニメです。
来年の新劇場版が非常に楽しみなのですが、当時のTV放送版で惣流アスカラングレーが碇シンジ君に「あんた日本語で考えてるでしょ!ちゃんとドイツ語で考えてよ」「わかったよ・・・Baumkuchen」「馬鹿!」というドタバタな場面があります。わたくしはそれを見て「第二外国語がドイツ語じゃなかった人にとって最初に想起するドイツ語は『バウムクーヘン』なんだ」とそのとき思いました。まあこれも人それぞれでしょうが。わたくしはフランス語というとフォンダンショコラ、プリンアラモード、中国語というと拉麺か麻婆豆腐がまず出てきます。語学力と意地汚さが負の相関を示すことがここに証明されました。
獨協大学前駅からほどなく歩いた所にバウムクーヘンのお店がありました。
Guten Appetit!! Auf Wiedersehen,Fraulein。
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