このほど東武バスより極めて重大なる発表がありました。
「2021年10月1日付で、東武バスセントラル株式会社と東武バスイースト株式会社を合併、東武バスセントラル株式会社が東武バスイースト株式会社の権利義務の一切を承継する吸収合併とし、合併後の商号は東武バスセントラル株式会社を予定」とのこと。
東武バスセントラルは東京と埼玉の2都県にまたがっていてそれほど県境の意識がないのですがイーストは千葉県1県に絞って営業しておりそれゆえ千葉県民の愛着はひとしおなものがあるのではないかと思います。わたくしも従前よりお話ししてきたようにガチの千葉県民なのでなんとなくそんな気がする。まあほとんど茨城と埼玉みたいなとこですが。東武バスには松戸と三郷・八潮間のバス路線があるのですがあれはイーストではなくセントラルですね、乗ってる人もほとんど埼玉県の人ではないでしょうか。
それで今後千葉県の熱意と志ある若い人々の手によって故・東武バスイーストの輝かしい歴史-それは千葉県が誇る欠くべからざる重大な歴史でもある-がWEB上に纏められて表出するであろうと思われます。それは大変すばらしいことなのです。
しかしながら翻ってみればわたくしが路線バスに大いに情熱を傾けていた昭和の昔にはイーストもウエストもノースもサウスもなかった、その古すぎる時代の東武バスの姿が今後スポットを浴びる東武バスイーストの歴史の影となって千葉県民の記憶におけるプレゼンスが薄まってしまうかもしれない、わたくしはそう危惧した。
そこでわたくしは今まで当ブログを書くときにちまちま見ていた古い書物の情報をまとめて老骨に鞭打ち掉尾の勇を奮ってここに年表を作成することといたしました。
実はわたくしがこんな労多くして功少ないことをなすよりはるか以前にWEB上には「東武バス年表」というハイクオリティな年表があってわたくしもよく見たのですが、2016年4月にアーカイブ化されたのを最後にネット上から消えています。年表も東武バス分社化直前をもって記述が終わっております。この年表は東武鉄道の発した社史とか営業報告書とか市役所の市史とかまあ一言でいえば「正史」からのみ採っております。それをオマージュしつつもわたくしはさらに千葉県にフォーカスしてそのバスの走った風土や人の姿が見える正史ではない民衆史といえるような東武バス史ができないものかと試みたところ関所が無くなって人の往来が自由になったというバスの歴史にはあるまじき古い時代から説き起こさねばならないこの不思議な年表が出来上がった次第です。しかも今回東武バスが千葉県に誕生する前の時代で終わってしまっている!まあ三国志に対する三国志演義みたいなものができたらなと思って作りました。勉強不足からどうしても常磐線の南側が手薄なことをあらかじめお詫び申し上げます。
ところでくだんの「東武バス年表」を今改めて概観しますと大変愉快なことに気づかされます。標題だけみると東武バス全体を包括する壮大な一大年表であるかの如き感がありますが実態としては千葉県内のテーマが大部を占め他県が些かおざなりになっています。
「年表の中には東武が買収した運行事業者も含まれている」と宣言していますが、第1行が大正9年開業の筑井仁三自動車(昭和9年3月27日買収)でも大正11年開業の宝華園自動車でもなく、もっと後年の大正12年、桝田貞吉、野田うんたらかんたらと千葉県の業者から始めています。柏市域に大変な分量を割いていますが関宿さらには境営業所への言及がはるか後年まで出てきません。
このことからこの年表は千葉県において東武バスを見ることが出来たが野田市北半より北のエリアには土地勘が薄く、千葉県と他県を結ぶ東武バスを見かけることが少ない若しくは全くない地域、恐らくは松戸市北半、沼南町あるいは柏市極西南域、そうした辺りでバス路線を理解し得るだけの十分な時間を過ごしてきた人物が作成したのであろうと推察されます。
この人はわたくしとは地域軸の全く異なるイマジネーションを東武バスに抱いている人なのです。
表は昭和時代の東武バスのあるものにちなんで背景をオレンジに文字を濃青色にしました。「月・日」の文字列が乱れてますが直すの面倒なののでそのままです、空欄なのは何月何日のことなのか分からないということを表しています。またブログを始めてから今まで目を通してきた諸々の資料は山のようにあってとてもここに書ききれないのでテキストファイルにざっくり書いてこちらに上げておきました。次回以降に出てきますが、「東武バス年表」には記載があるけれども当時の県紙や古書を見てもどうしてもウラが取れないという記事もあります。それについてはかたじけなくも丸パクリしっかり引用させていただいてそのかわり「★」をつけてリスペクトの意を表しました。
年 | 月・日 | で き ご と |
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1869年明治2 |
正月20日 | 関所廃止の太政官布告が出され関宿、松戸の関所が廃される |
〃 | 3月 | 新政府、三井八郎右衛門に対し失業対策による下総旧幕領での集団開墾を命ず。後に開墾集落に豊四季、十余二など数字地名が出来る |
1871年明治4 |
4月8日(旧暦) | 野田町六代茂木佐平治死去。この日より以前に茂木佐平治二男が花野井村(柏市)の豪農・吉田甚左衛門の養子になり吉田家当主となる。1874年3月7日その子ないし孫、吉田銀之助出生 |
1874年 明治7 |
根本村(松戸市)村内に人力車夫4人、人力車10数両あり。この頃川間村(野田市)平民に徒歩と人力車で東京府内に行った者がいる | |
1876年明治9 | 6月8日 | 太政官達により陸前浜街道(水戸街道)が千葉県道に指定される |
1885年明治18 | 2月24日 | 水戸街道が国道に昇格し国道14号となる |
1894年明治27 | 我孫子町平民飯泉喜雄が土浦線計画中の日本鉄道に停車場設立を懇請し所有地を割譲する | |
1895年明治28 | 4月1日 | 関宿町のうち大字向河岸・向下河岸の管轄が千葉県から埼玉県へ変更され西関宿と名づく |
1896年明治29 | 富勢村(柏市)平民小柳七郎、日本鉄道株式会社に対し10町歩の私地寄進をなし陸前浜街道に停車場の開業を懇請す | |
〃 | 12月25日 | 松戸町・我孫子町および豊四季村に日本鉄道土浦線(JR東日本常磐線)停車場が開業す |
1897年明治30 | 11月1日 | 東京市麹町区に東武鉄道株式会社が設立される |
〃 | 12月5日 | 成田鉄道株式会社が田中村(柏市)花野井を停車場設置予定地とする成田川越間鉄道敷設免許状御下附願を出す |
1898年明治31 | 11月27日 | 東京地方専売局、野田町清水区に野田出張所を開設 |
1899年明治32 | 初夏 | 日本鉄道、常磐海岸遊覧列車を計画し見どころとして「手賀沼風光」「布施の弁天」を挙げる |
1900年明治33 | この年、茨城県境松岡町に境-古河間乗合馬車専用発着場ができる | |
〃 | 1月28日 | 野田醤油醸造組合、組合募金22,500円を資本金(発行株数900)として野田町に野田人車鉄道株式会社を設立 |
1903年明治36 | 春 | 大阪天王寺内国博覧会に於いて醸造組合の子弟に四輪自動車に乗った者がいる |
〃 | 5月6日 | 野田醤油醸造組合、組合員を発起人として株式会社野田商誘銀行創立総会を開く |
1906年明治39 | 4月10日 | 清水公園の日露戦争凱旋式に鈴木貫太郎兄弟が招かれる |
〃 | 11月1日 | 鉄道国有法により日本鉄道が国有化 |
1910年明治43 | この年のうちに東武鉄道粕壁駅前の貨物取扱越沼商店が粕壁・宝珠花間に乗合馬車を開業す。ほどなく関宿との間にも馬車営業を開始 | |
〃 | 12月2日 | 県営鉄道野田線柏駅予定地の豊四季村民が千葉県を相手取り補償請求をする |
1911年明治44 | 6月6日 | 電力王福沢桃介、野田町に野田電気株式会社設立 |
〃 | 7月5日 | 千葉県営軽便鉄道野田線が営業運転を開始(開業式は5月9日) |
1912年明治45 | 野田醤油醸造組合、例会を開き野田町外在住の醤油商、正田文右衛門(上皇后曾祖父、子は元野田醤油取締役兼東武鉄道取締役会長正田貞一郎)および吉田甚左衛門(銀之助)を准組合員に列す | |
〃 | 5月9日 | 河岸廻船問屋戸邊五右衛門および桝田定吉の両名、野田人車鉄道株式会社を買収し野田町駅前に合資会社丸三野田運送店(資本金5千円)を開業 |
1913年大正2 | 1月頃 | 野田町人口1万人を突破し千葉県下町村人口第5位。野田電気株式会社が千代田村(柏市)柏停車場前に村で最初の電灯を設置。 |
〃 | 2月13日 | 幸谷村(松戸市)酒井市郎ヱ衛門、市川停車場前-鴻之台-松戸停車場間自動車営業並びに松戸駅構内10坪営業用地使用許可被下賜(東葛飾郡最古のバスの記録) |
1916年大正5 | 3月14日 | 流山町に流山軽便鉄道開通 |
〃 | 8月15日 | 大蔵大臣が茂木佐平治出願の野田町中ノ台および梅郷村(野田市)大字梅郷外国貨物仮置場設置を認可 |
1917年大正6 | 12月7日 | 野田町・流山町の醸造家一族八家合同を宣し、資本金700万円で千葉県東葛飾郡野田町野田339番地に野田醤油株式会社を設立 |
1919年大正8 | 1月11日 | 内務省、自動車取締令を布告し自動車の運転を免許制とする |
〃 | 4月11日 | 水戸街道が国道14号線から国道6号線に改まる |
〃 | 8月24日 | 吉田甚左衛門、千代田村大字豊四季字向原における耕地整理の施行認可を受く |
1920年大正9 | 10月20日 | 東武鉄道専務取締役吉野傳治らが千葉町寒川1157番に千葉貯蓄銀行を設立し相談役に吉田甚左衛門を迎える |
〃 | 11月 | 野田醤油株式会社一部出資のうえ野田運輸合資会社を設立 |
〃 | 12月28日 |
埼玉県北葛飾郡金杉村金杉・野田町中ノ臺間の野田渡および流山町加・北葛飾郡早稲田村田中新田間の矢河原渡管理者を千葉県知事と定める。 |
1921年大正10 | 10月12日 | 茨城県境町で桜井自動車が境-古河間に乗合自動車を開通(4回/日、1円20銭) |
1922年大正11 | 4月5日 | 北総鉄道株式会社設立。本社を東京市本所区押上町・京成電気軌道株式会社内に置く。資本金150万円、発行株数30,000。代表取締役に政友会本多貞次郎、取締役に茂木七郎右衛門(11,200株)、吉田甚左衛門(500株)の外6名を選任 |
〃 | 7月26日 | 鉄道省、「千葉縣營千葉縣東葛飾郡千代田村同野田町間鐡道ヲ北總鐡道株式會社ニ譲渡ノ件」を許可 |
〃 | 7月4日 |
千葉県知事齋藤守圀、流山町の矢川原渡に有賃渡船場を設置することを許可 |
〃 | 9月18日 | 野田醤油、花野井醤油吉田甚左衛門工場を10万5千円で購入し「野田醤油花野井工場」と改称させるが翌年設備取壊のうえ一括償却 |
1923年大正12 | 4月 | 越沼運送店、粕壁宝珠花間で乗合馬車を廃して乗合自動車の運行を開始 |
〃 | 8月30・31日 | 白昼、江戸川や東京隅田川で遡上する大量のうなぎの群れが現れる怪奇現象あり。翌日関東大震災発生。 |
〃 | 9月 | 野田醤油組合員出資株式会社共樂館が野田幸町に演芸場を設立 |
〃 | 9月1日 |
11時58分関東に大地震起きる。 |
〃 | 9月6日 | 福田村(野田市)三ツ堀で香川県三豊郡の行商15名が福田村・田中村自警団に惨殺される |
〃 | 10月24日 | 警察機構拡充され、千代田村に松戸警察署巡査部長派出所、関宿町に野田警察分署巡査部長派出所設置さる |
〃 | 12月16日 | 丸三運送店桝田定吉、野田町駅~中野臺・川間村小山渡船場・関宿渡船場間に定期乗合自動車開業 |
1924年大正13 | 4月 | 東葛飾郡内に中学校を、との機運高まり松戸町・野田町との熾烈な誘致合戦の末、吉田甚左衛門らの推す千代田村に千葉県立東葛飾中学校が開校する |
〃 | 8月 | 水戸街道の舗装工事始まる、柏駅前通り該年10月頃、柏・根戸間大正15年に工事終える |
〃 | 11月 | 野田運輸合資会社と東京野田屋合名会社合併し野田運輸株式会社を設立 |
〃 | 12月 | 埼玉県寶珠花船橋組合(組合員数50)、二川村・埼玉県寶珠花村間に寶珠花橋を開通。同月野田商誘銀行、千代田村字豊四季821番に柏派出所を設く |
1925年大正14 | 1月2日 | 境町・桜井自動車と下妻町・古橋自動車商会が提携し境-下妻間に乗合自動車線開通(6回/日、1円60銭) |
〃 | 4月20日 | 午後4時頃、野田町上花輪553野田醤油第12工場から出火し野田大猛火に包まれ丸三運送店、罹災者の無料輸送実施 |
〃 | 10月24日 | サカエ自動車商会(岩崎総太郎)が柏駅で乗合自動車業起業。T型フォードで柏駅~篠籠田~流山間を一日五往復、運賃十銭 |
次回に続く |