22歳になるまで幼少をモンゴルで過ごした義経が
戦国時代の日本で一旗あげようと来日したのは
やはり根っからのモンゴル人の若者ではなく日本人の親を持つ家系だったと推測できる。
その生い立ちははっきり不明だが
『吾妻鏡』からによれば、22歳のときに駿河の黄瀬川に陣を布いた源頼朝を訪ね、兄弟の対面した記録を残しており、
これが彼の表舞台デビューみたいなもん。
そして、この時に身分を証明できる物を持参してるはず
だからこそ源家を頼り名前も上げて出世も希望したのだろう
しかし
源家の扱いは1時的には喜んだものの結局は前向きな支援は行わなかった。
それはやはり微妙な生い立ちのせいであろう
両親が表立って公表できない人物であったと思う。
だから日本に来た義経は数年間特に表立った活躍の場は与えられていない。
このへんの事情は蒙古で育たなければいけなかった理由と見事にかぶる。
(そこが明らかになるのは無期限未来であろうな)
そしてテムジン時代は義経のルーツかというと、そうでもないように思う。
なぜならテムジン(ジンギスカン)には日本的な名称等をあやかったものが多く
必要に応じた虚構として準えたプロフィール内容に思う。
■テムジン時代からの日本的符号の幾多★
●テムジン(鉄木真)=天神(てんじん)のもじり 日本では古代神
●成吉思汗(ジンギスカン)=支那読みでは源義経上(ゲンギケイカミ)はジンギスカンに近くなる。
●テムジンにはジェルメ、ジェベ、クビライ、スブタイらが「四狗」と呼ばれる4重臣がおり。護衛としてボオルチュ、チウラン、ボロクル、ムカリが「四駿」と呼ばれる重臣でいる。
源義経にも義経四天王と呼ばれた4人がいる。
武蔵坊弁慶・伊勢義盛・常陸坊海尊・駿河次郎などだが
文献によってはこれに、鎌田盛政や鎌田光政も混在する。
総勢19人の「源義経19臣」であるなら
テムジンの「四狗」+「四駿」=8人なので誰かが該当する変名かもしれない。
無論これはテムジンの重臣メンバーが義経四天王らからのモデルだとする仮定であるが。
ジンギスカンの時代になっても数十人の家来の中に大男がおり、弁慶ではないかと神津探偵の弁。また身長の記述が曖昧なジンギスカンの影武者も弁慶が演じてた可能性も指摘。
●テムジンの幼少期のエピソードに義経の幼年時代のものと似てる話がある。
:::::::::等・他は後述
これら若きジンギスカンのもじらえたプロフィールであるなら
あまりに義経時代の日本を例えるものであり、それはやはり彼が故郷を愛する
日本人であり、日本に郷愁を持つ、
日本人の両親から生まれた若者である明かしに思う。
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ところで前回の親の部分で未来人とかの可能性言ったけど
単に隠し子の養子でも辻褄は合いそうな。
モンゴルの隠し子・・しかし母はアイヌ人かも知れない
なぜなら後で言うけどアイヌ伝説オキクルミに神として崇められるきっかけは
アイヌの血も貢献したと見るべき。そして彼は女性のような美少年の記述もあり
日蒙ハーフのが美彩は放つのではないだろうか。
また半分の血族としてアイヌの人々とも交流あったとみるべき。
それがアイヌ伝説の発祥とも思える。
続く
(この個人研究は恣意的に行う前提なので後々訂正が入っていく過程も描く予定である。たとえば日蒙ハーフの件も、あるいは蝦夷に逃げ延びた際にアイヌ女性と関わったのかもしれず(その子孫は日本に残された?)その縁でモンゴルに渡る手配もしやすかったとかだと、わざわざ蒙古の隠し子にしなくて済む仮説にはなる。つまり日本史どうりの義経の両親は源義朝×常盤御前)