平らな深み、緩やかな時間

321.柄谷行人と美術批評について②

前回と同様にお知らせです。

2023年6月3日(土)ー7月9日(日)の期間に開催されている、三浦市の諸磯青少年センターの『HAKOBUNE』という展覧会に作品を三点だけ出品しています。この展覧会のパンフレットのpdfファイルが私のHPからご覧いただけます。ぜひ、ご一読ください。

http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html

遠方で、ちょっと不便なところですが、神奈川県の南の方にいらした折には、ぜひ覗いてみて下さい。天気が良ければ、海を見ながら潮風に吹かれるのも気持ちの良いものです。

 

さて、哲学者の柄谷行人(1941 - )さんの思想について、美術家の立場から考察するblogの二回目です。

柄谷さんが世界的な哲学の賞を取ったこと、私の若い頃に柄谷さんらの思想が流行したことについて、前回もお話ししました。それは柄谷さんの思想の質の高さが影響してい

たのと同時に、当時の状況も関わっていたのだと思います。柄谷さん自身は、そのことをこう書いています。

 

ここ数年に日本の批評のタームが変わってしまった。そのことに私自身も加担しているので傍観者のように語ることはできないが、それにしてもこの変化は何を意味しているのだろうか。新しい事態には新しい概念が必要であるということは確かである。しかし、それは本当に新しい事態なのだろうかと、ときどき考えてしまう。むしろ新しい言葉(翻訳後)で、今までいわれてきたことをいいかえただけではないのか、と。本当に「知の変容」がおこり、未知の新たな光景がひろがっているのだろうか。私にはとうていそう思えないのだ。この“光景”に私は見おぼえがある。それは次のようなものだ。

 

《わたしたちの詩歌の歴史は、いつかどこかでとてつもない思いちがえをしてしまったらしい。これは、たえず優位な文化から岸辺を洗われてきた辺境の島国という歴史的な宿命を負ってきたことを考えると、痛いほど身に沁みて感じられることである。わが国では、文化的な影響をうけるという意味は、取捨選択の問題ではなく、嵐に吹きまくられて正体を失うということであった。そして、やっと後始末をして、掘立小屋でも建てると、まだ土台もしっかりしていないうちに、つぎの嵐に見舞われて、吹き払われるということであった。もちろん、その度ごとに飛躍的な高さに文化はひきあげられた。でも、その高さを狐につままれたように、実感の薄いままに踏襲しなければならなかった。》

(吉本隆明「初期歌謡論」)

 

この光景は現在もくりかえされているのではないか。私にとって、西欧のたとえばポスト構造主義の思想はけっして流行の観念にとびついたというようなものではなかった。それは私自身がそれなりに考えてきた諸問題とたまたま交叉したというようなものである。だが、十年前にアメリカに滞在したとき、それは個人的な思い込みに過ぎないかもしれないという気がした。というのも、ちょうどそのころアメリカの批評界が、フランス系の批評の「嵐に見舞われて」いたからである。どうみてもポスト構造主義やニーチェと無縁そうなアメリカ人の学生が、それらを「狐につままれたように」受け止めかねている光景は、滑稽だった。しかし、それを嘲っている自分の方がずっと滑稽なのだ。むしろ私はこれらに親しみをおぼえた。

(『批評とポスト・モダン』「批評とポスト・モダン」柄谷行人)

 

この吉本隆明(よしもと たかあき、1924 - 2012)さんの『初期歌謡論』の一節は有名です。そして、このような「狐につままれたよう」な表現の高みというものは、国家や民族などの共同体単位での話だけでなく、優れた作家個人にも起こりがちなことです。彼らはあまりに自覚なく高みに達してしまうので、その後、無自覚に失墜してしまうことも多いのです。

それはともかくとして、フランス系の批評が世界を席巻していた少し後に、日本でもフランスの現代思想が輸入され、それと時を同じくしてニュー・アカデミズムなどと呼ばれる動きがあったことは、前回、書きました。

それから、冒頭のところで柄谷さんは「そのことに私自身も加担しているので傍観者のように語ることはできない」と書いていますが、確かに柄谷さんの当時の仕事は、それらの新しい思想と同期しているように見えました。柄谷さんの『近代日本文学の起源』における「風景」という概念への言及は、まるでクロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908 - 2009)の「親族構造」の研究や、ミシェル・フーコー(Michel Foucault 、1926 - 1984)の「知の考古学」を彷彿とさせます。私たちがすでに前提としているものごとの秩序や序列を可視化して、それらの向こう側に見える「外部」に触れること、そしてそこにある「リアリティ」を感受すること、それがレヴィ=ストロースやフーコーのなし得たことでした。

レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』を書いたのが1948年、主著である『構造人類学』をまとめたのがその10年後ですから、柄谷さんの著作群はその30年後に彼らの仕事を継承したもの、ということになるのかもしれません。

柄谷さんは、文芸評論家としてキャリアをスタートさせましたが、その時に夏目漱石(なつめ そうせき、1867 - 1916)の作品をモチーフとして、柄谷さん独自の「自然」、「外部」、「リアリティ」などの問題について考え始めていたのでした。さらに1980年代において、柄谷さんはそれら問題を驚くべき広範囲の領域において展開させ始めたのです。

私がほぼ同時代的に柄谷さんの著作を読むようになったのは、1985年の『内省と遡行』、それから先ほど引用した『批評とポスト・モダン』あたりからでした。その頃の私は就職したばかりで、生活にまったく余裕がありませんでしたが、それにもかかわらず、たとえば『内省と遡行』を読んだ時のスリリングな感触を今でも忘れることができません。言語学、文化人類学、哲学、現象学、数学、進化論、資本論、精神分析、などのさまざまな領域で、私の理解の及ばない論理が次々と展開していくさまに圧倒されたのです。そこでは章ごとに古代ギリシャの哲人からフランスの現代思想家までが動員され、入れ替わり立ち替わり彼らの思想が俎上にのり、考察されていったのです。

ここで比較的私たちにとって理解しやすい、絵画の遠近法を例にとった記述を読んでみましょう。

 

われわれは深さ(深層)という考えになれている。マルクスやフロイト以後の諸科学は、深層あるいは奥に隠された構造の発見と名づけてもよいかのようにみえる。だが、まずわれわれはそのことの自明性を疑う必要がある。「深さ」はどのようにして存在するにいたったのか。ある時期から突然「深層」を問題にするにいたったのはいかにしてであるか。たとえば、プラトンにとって、われわれにはその影しかとらえられない〝隠された〟イデアは、けっして深層すなわち下方にあるのではなく、いわば〝上方〟にある。また、十八世紀西欧の知において、ひとびとは、空間的な分類に関心をもっており、「深層」を意識しなかった。はじめてわれわれの知の自明性を考古学的に疑ったルソーにおいても、彼のいう「自然状態」は「かつてあったこともなくこれからもあることはない」仮説であり、それは「深層」への関心ではない。深層(下方)に、あらわれとはちがった構造を見出そうとするわれわれの知の方向づけは、どこからくるのか。  

この問いは、「深層」に何が見出されたか、またこれから何が見出されうるかという問いに先行されなければならない。たとえば、近代の遠近法が確立されるまでの絵画には、「奥行」がない。この奥行は、消失点作図法という、芸術的というよりは数学的な努力の過程で確立されたのであって、それは現実に、いいかえれば知覚にとって存在するのではなく、もっぱら〝作図上〟存在するのである。この作図法は、「幅・奥行・高さのすべての値をまったく一定した割合に変え、そうすることによってそれぞれの対象に、その固有の大きさと眼に対するその位置とに応じた見かけの大きさを一義的に確定する」(パノフスキー『<象徴形式>としての遠近法』木田元訳)。この遠近法空間に慣れるや否や、われわれはそれが“作図上”存在するということを忘れて“現実”をそれまでの絵画がみていないかのように考えがちである。

同じことが「深層」についていえるはずである。深層は“現実に”あるいは“知覚”にとって存在するのではなく、やはり一つの遠近法的“作図法”において在らしめられたものなのだ。近代絵画における奥行は、一つの中心的な消失点に対する事物の配置において出現する。つまりわれわれに奥行を感じさせているのは、ある種の配置なのである。同様にわれわれに深層を感じさせているのも、ある種の配置なのだ。だが、いっそう「深層」を見きわめようとする知の方向が、そうした遠近法的(パースペクティヴ)配置にもとづいていることは忘却されてしまっている。マルクスやフロイトの仕事を「深層の発見」として位置づけてしまうとき、実は、われわれは深層を在らしめている遠近法的配置を温存し強化し、彼らの仕事ーそれはいわばこの配置を非中心化することにあったーを封殺してしまうことにしかならない。

(『内省と遡行』「第三章 知の遠近法」柄谷行人)

 

この文章は、私たちが私たちの「外部」にある「リアリティ」を認識することの難しさを語っています。ここで柄谷さんが例としてあげている「遠近法」について考えてみましょう。

私たちは「透視図法」による「遠近法」に慣れてしまっているので、それを絵画表現の成熟度を測るものさしのように感じています。「透視図法」は写真で撮影した画像ともほぼ一致しますから、「透視図法」的ではない絵画を見ると、それは技術的に未熟な絵画だと見做してしまうのです。

その「透視図法」は、1400年代のはじめにイタリアの建築家、ブルネレスキ(Filippo Brunelleschi, 1377 - 1446)によって、幾何学的な図法として完成されたと言われています。そしてその後の絵画は、先ほども書いたように「透視図法」としての整合性が保たれているのかどうかが、その絵画の成熟度を測る基準となっている面があるのです。さらに美術史的に見れば、「透視図法」が定着したルネサンス期の西欧絵画を絵画表現の完成期と見做し、それ以前の絵画はその過度期の表現として評価してしまう傾向があるのです。

しかし、これはちょっと考えてみるとおかしな話だとわかります。例えばブルネレスキ以前の画家、ジョット(Giotto di Bondone、1267頃-1337)の素晴らしい作品を思い出してみましょう。彼の作品が「透視図法」を用いていないからといって、その芸術性の高さが否定されてしまうことなどあり得ません。

ところが私の若い頃に出版された美術史の本を読むと、ルネサンス以前の中世の画家たちは、ルネサンスに至るまでの過度期にあった表現者として評価されていました。今では、そのような見方に偏りがあることを多くの人が認識していますが、ほんの数十年前までは科学や文化の進歩が右肩上がりに続いていくと信じられていましたから、中世よりはルネサンス、ルネサンスよりは近現代、という序列ができていたのです。1950年代からのレヴィ=ストロースやフーコー、1970年代からの柄谷さんたちの仕事は、そのような偏った考え方に対して覚醒を促すもの、柄谷さんの言葉で言えば「外部」の存在やそこにある「リアリティ」を突きつけたもの、と言えるのです。

この「透視図法」は、それが制度として一旦作動すると、私たちの頭の中に明確な配置図を作ってしまいます。これと似たようなことが、例えば精神分析についても起こっていたのです。フロイト( Sigmund Freud、1856 - 1939)が発見した人間の「無意識」の問題ですが、「無意識」を人間の心理の「深層」にあると位置づけてしまうと、それは「意識」の奥深くにあるものだという配置図が頭の中でできてしまいます。フロイトの業績は、本来そのような配置を「非中心化」して、「無意識」の重要性を私たちに知らしめるものであったのに、私たちはそれを「意識」の遥か奥深くに配置して、そのままの構図で受け入れてしまうのです。

 

それでは、どのようにしたらそのような強固な配置から解放されるのでしょうか?その解放された状態こそが、さきほども少し書いたように柄谷さんが『畏怖する人間』から継続して探究してきた「外部」へと出ることであり、あるいはそこにある「リアリティ」に触れることでしょう。

そのことを考える上で、興味深い文章があります。柄谷さんが、その当時の柄谷さん自身を振り返った、『内省と遡行』のふたつの「あとがき」です。一つは、この本を書き上げた当時の1985年に書かれたもの、もう一つはこの著作が「文芸文庫」に収録された2018年に書かれたものです。この時には、すでに柄谷さんは『力と交換様式』の論文を書いていたようです。

両方とも興味深い文章なので、それぞれ少し引用してみます。

 

この十年間、私は何をめざしてきたのだろうか。一言でいえば、それは《外部》である。それは、(4)の『マルクスその可能性の中心』でいえば、古典経済学やドイツ・イデオロギー(ヘーゲル哲学)の外部である。私はそれをたとえば差異・自然・場所などとよんでいたと思う。しかし、この時期の私はまだナイーブだった。商品の「価値」について論じているあいだ、私は言語の「意味」について考えたとたんに陥いるワナをまぬかれていたが、逆にいえば、それは不徹底だったからである。

「内省と遡行」において、はじめて真正面から言語について考えはじめたとき、私はいわば《内部》に閉じ込められた。というより、ひとがどう考えていようと、すでに《内部》に閉じこめられているのだということを見出したのである。一義的に閉じられた構造すなわち《内部》から、ニーチェのいう「巨大な多様性」としての《外部》、事実性としての《外部》、いいかえれば不在としての《外部》に出ようとすること、それは容易なことではなかった。それは内部すなわち形式体系をより徹底化することで自壊させるということによってしかありえない、と私は考えた。

私は積極的に自らを《内部》に閉じこめようとしたといってもよい。この過程で、私は二つのことを自分に禁じた。一つは、外部を何かポジティヴに実体的に在るものとして前提してしまうこと。なぜなら、そのような外部はすでに内部に属しているからだ。それは、主観性をこえるどんな外的な客観性も、それとして提示されるならば、すでに主観性のなかにあるというのと同じことである。第二に、いわばそれを詩的に語ること。なぜなら、それは最後の手段だからだ。そして、実際には、ありふれた安直な手段だからだ。私は可能なかぎり厳密に語ろうとした。いかなる逃げ道をもふさぐために。

困難は、この二つの拘束から生じている。しかし、私は不徹底且つ曖昧な言説に止めをさすために、この不自由で貧しい道筋を積極的に選んだ。したがって、私は「内省」からはじめる方法において可能なギリギリのことをやったという自負がある。たぶん「言語・数・貨幣」は、この十年間の総決算となるべきものであった。だが、それを書いているあいだに生じた“危機”も、最も深刻なものだった。それは心身ともに私をうちのめし、書きおけることを許さなかった。

(『内省と遡行』「あとがき」柄谷行人)

 

カッコよくて、しびれる文章ですね。おおむね、次のようなことが書かれていたと思います。

柄谷さんは「外部」について探究していたのですが、そのモチーフとして「言語」について考え始めたときに、自分の方法の限界を感じました。なぜなら、「言語」を使って思考しつつ、その「言語」の外側を考えることは不可能だからです。言葉の外に出ようと思っても、その方法は言葉による思考しかありませんから、これではまるで、釈迦の手の上で遊ばされている孫悟空のようなものです。そのことがわかった柄谷さんは、あえて「外部」に出ることをやめて、徹底的に「内部」(の内側)で考えようとします。そして柄谷さんは、安易に「主観」に対する「客観」というものを想定することもやめようとします。「客観」というとき、私たちは「主観」ではないもの、つまり「主観」の外側にある「外部」にあるものの視線を想定しています。その「外部」を想定しているのが「内部」にある私の「主観」なのですから、「客観的に見れば・・・」というような安易な言い方では、「主観」から解放されないのです。

話がややこしくなってきましたが、こういうときに才能がある人ならば、「詩的」な言葉を使うことで、言葉の常識を乗り越えようとします。しかし「それは最後の手段」だと柄谷さんは言っています。そういう言葉を使おうと思えば使えるぞ!という自負があるのでしょう。ここが私のような凡人とは違うところです。凡人が「詩的」に語ってしまえば、それは陳腐な言葉の羅列に過ぎなくなってしまうので、そもそも意味がないのです。私が柄谷さんの立場だったら、「詩的」な言葉でも何でも、使えるものなら使ってしまおう、と考えるところです。しかし柄谷さんは、飽くまで思想家としてこの問題に取り組まなくてはだめだ、と思ったのでしょう。

そして、ぎりぎりまで自分を追い詰めた柄谷さんは、その後どうしたのでしょうか?

 

私は2015年に、「移動と批評ートランスクリティーク」という講演をしました。そのとき、私は、自分が書いたことをふりかえらないし、覚えてもいない。私にとって、批評はいつも移動であった、すなわちトランスクリティークであった、ということを述べました。その際、私はかつて「言語・数・貨幣」を未完のまま本にした事情を説明したのですが、それは本書の「あとがき」(1985年)で述べたのと同じようなことです。ただ、この講演の最後で、私はつぎのようなことを口走っていたのです。

 

実は、私は今、過去の仕事を再検討することを考えています。たとえば、文芸評論をまとめる、など。さらに、先ほど『内省と遡行』という本の「あとがき」で、ふりかえることをしない、と書いたことを話しましたが、30年前に未完に終わった「言語・数・貨幣」をこれから完成することも、考えています。再び、挫折して放棄してしまうかもしれませんが。

(『思想的地震』ちくま学芸文庫所収)

 

実はその後、私はそのような仕事をしなかった。私はそう思っていました。ところが、最近、私が近年取り組んでいる「力と交換様式」という論文がそういうものなのかもしれない、と思いいたったのです。この論の主題は、交換様式A・B・C・Dがそれぞれ異なる「力」をもたらすというものです。この力は、物理的な力ではなく、いわば、霊的な力です。たとえば、マルクスは商品の価値(他の物を購買する力)を、物に付着した霊(フェティッシュ)と見なした。同様に、贈与であれ、権力であれ、他人を動かす「力」を考えるためには、様々な交換に付随する霊的な力から始めなければならない。

私が気づいたのは、このような企てが、「言語・数・貨幣」における企てと類似するということです。かつて私が躓いたのは、代数的構造・順序構造を論じたあと、位相構造を論じようとしたときです。簡単にいうと、それは、「この世」が存在するためには「あの世」が存在しなければならない、というような考えです。その場合、「あの世」がたんに数学的な位相空間としてある間はよいのですが、次第にそれが本当に存在し始めた。そのとき、私は精神的な混乱を来して、仕事を放棄してしまったのです。

(『内省と遡行』「文芸文庫版へのあとがき」柄谷行人)

 

このように、柄谷さんはモチーフを変更しながらも探究を続けました。しかし、その探究に一区切りをつけた時期がありました。それはちょうど、私が柄谷さんの広範囲なモチーフについて行けずに、彼の著書を丹念に追わなくなった時期と重なっていたのでした。

ところがここにきて、柄谷さんは「最近、私が近年取り組んでいる『力と交換様式』という論文がそういうものなのかもしれない、と思いいたったのです」と書いています。このように書かれてしまうと、私たちはこの「あとがき」の文章を手掛かりにして、『力と交換様式』を読んでみなくてはなりません。少し時間がかかるかもしれませんが、近い将来、『力と交換様式』の中で柄谷さんはどのようにして以前の探究を継続しているのか、考察してみることにします。

 

それからもう一つ、私が気になっていることを書いておきます。

それは1980年代の半ばのことです。前にも書いたようにその時期は日本においてもフランス現代思想がブームなり始めた頃ですが、そのころに、イギリスの現代美術を紹介する展覧会がありました。これはたいへんに刺激的な展覧会でしたが、今にして思えば、柄谷さんがやろうとしていた「内部」で問い続けることによって「外部」へと触れるという試みを、イギリスの作家たちは無意識のうちに取り組んでいたのではないか、という気がしています。

実は、そのことを思い出させてくれた作品を先日、見たのですが、そのことについて次回、書いてみたいと思います。今度は具体的な美術作品に関する話ですので、お楽しみに。

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