平らな深み、緩やかな時間

320.柄谷行人と美術批評について①

前回と同様にお知らせです。

2023年6月3日(土)ー7月9日(日)の期間に開催されている、三浦市の諸磯青少年センターの『HAKOBUNE』という展覧会に作品を三点だけ出品しています。この展覧会のパンフレットのpdfファイルが私のHPからご覧いただけます。ぜひ、ご一読ください。

http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html

遠方で、ちょっと不便なところですが、神奈川県の南の方にいらした折には、ぜひ覗いてみて下さい。天気が良ければ、海を見ながら潮風に吹かれるのも気持ちの良いものです。

 

さて、今回は日本を代表する哲学者について書いてみます。

柄谷 行人(からたに こうじん、1941 - )さんという哲学者、文学者、文芸批評家がいます。「哲学のノーベル賞」と言われるバーグルエン賞をアジア人として初めて受賞したということで、昨年の12月にニュースとして取り上げられていました。

https://www.asahi.com/articles/ASQD85HQ5QD2UCVL01P.html?iref=ogimage_rek

柄谷さんは、その受賞の前に『力と交換様式』という著作を出版されていて、先月はその解説版とも言える『柄谷行人『力と交換様式』を読む』という新書が出版されました。柄谷さんの最近の本はかなり難しいので、私は『力と交換様式』が出版されたときには何の反応もできなかったのですが、『柄谷行人『力と交換様式』を読む』が出たことで、このところの柄谷さんの仕事について、私なりに理解してみようかな、と思いました。もしかしたら、多くの方にとっても、私と似たような状況があるのではないでしょうか。そんな気のせいでしょうか、最近、柄谷さんに関する記事を多く見るようになりました。

そこで今回は、私のように美術のことしか考えていない人間が、どうして柄谷行人という哲学者に惹かれるのか、彼の思想から私は何を学んだら良いのか、ということについて、もう一度考えてみたいと思います。最近の仕事について触れる前に、柄谷さんの初期の文章から考察してみますので、今回は柄谷さんについて考察するシリーズの一回目という感じになりそうです。

 

さて、その柄谷さんが私にとってのブームだったのは、1980年代のことです。私自身が美大生だったこともあり、好奇心が旺盛だった時期でもありました。しかし、そのような私個人の事情ばかりでなく、当時の柄谷さんはまさに日本の思想界のヒーローでした。

その頃の日本は、ポスト・モダニズムと呼ばれる思想的な流行の只中にあり、その流行と関わってブームだったのが、ニュー・アカデミズムと言われた若い思想家たちの活躍でした。浅田彰さん、中沢新一さんを筆頭に、四方田犬彦さん、松浦寿輝さん、細川周平さん、渡部直己さん、絓秀実さんといった学者や批評家が次々と著作を発表し、また彼らより上の世代の市川浩さん、坂部恵さん、木村敏さん、丸山圭三郎さん、今村仁司さん、山口昌男さん、中村雄二郎さんたちの本も盛んに読まれていました。これらの学者たちの中で、私は四方田犬彦さん、市川浩さん、丸山圭三郎さん、中村雄二郎さんの本が特に好きでした。

柄谷さんは、中村雄二郎(1925 - 2017)さんたちの世代よりも若く、ニュー・アカデミズムの人たちよりは年配で、彼らに対する指導的な役割を果たしていたと思います。私は柄谷さんの仕事の中でも『日本近代文学の起源』に大きな影響を受けました。この本の中で柄谷さんは、日本において「風景」という概念がどのようにして生まれてきたのか、ということについて解き明かしたのでした。

私は、この『日本近代文学の起源』についてblogで書いていますので、よかったら参照してください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/db51743922c754965defb33dd92b0305

それから、もしかしたら1995年に発行した『モダニズムのハード・コア』という雑誌で、柄谷さんの名前を知った方もいらっしゃるかもしれません。この雑誌は浅田彰さんと柄谷行人さんらが編集した季刊誌、『批評空間』の臨時増刊号として発行されました。この当時はアメリカのモダニズム美術の大評論家、クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)や、その愛弟子で後に袂を分かったロザリンド・E・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )などの主要論文でさえ日本で翻訳されていなかった時代に、その一部が翻訳され、加えて関係論文やディスカッションなどの多角的なアプローチでモダニズム美術の理論的な背景を解説した、本当に画期的な雑誌でした。ただし、この増刊号に関して言えば、美術家、美術批評家の松浦寿夫さんや岡崎乾二郎さんたちが中心を担っていたようで、柄谷さんはそれほど穿ったコメントを寄せていませんでした。それでも、この雑誌から柄谷さんの存在に気付いた若い美術家もいたかもしれませんね。

 

このように、直接的な美術との関わりということで言えば、柄谷さんは決して深い繋がりのある学者ではありません。しかし、柄谷さんが魅力的なのは、その思想が自分の内面にとどまらずに、何か「真実」らしきもの、自分の「外部」にあるものに触れようとしている感触があることだと思います。先日からのセザンヌ論に合わせた言葉でいえば、その「外部」にあたるものは「リアリティ」という言葉で言い表すことができるでしょう。『日本近代文学の起源』で論じられた「風景」の発見も、私たちが当たり前のように見ている「風景」について疑問を呈し、深い考察を加えた上で「風景」という概念の「リアリティ」について論じたものだと言えると思います。

私は先のblogで、このような柄谷さんの魅力について次のように書いています。

 

柄谷の試みを見るまでもなく、私たちがものを考える手段としている言葉も、参照している本も絵画も、すべて私たちの世界の内部にあります。新しいテクノロジーを駆使したからと言って、それが「外部」に通じるという保証もなく、すべては私たちの内部で起こっているできごとなのです。いま制作されている新しい芸術作品が「外部」に近い場所にあるのか、と言えばそういうわけでもなく、夏目漱石の文学論のように100年以上前のエッセイが「風景の発見」を導き出すこともあるのです。私は他者によって「外部」へと導かれることを期待するのではなく、私の表現が見る人を「外部」へと導くような作品をつくるべきでしょう。いまだにそんな作品はできませんが、その最前線にいたい、とは常に思っています。

(96.柄谷行人『日本近代文学の起源』「風景の発見」について)

 

この文章を書いたのが、もう4年ぐらい前になります。この当時に比べると、今の私は「外部」にあたるものに確実に触れていると思います。私自身のヤワな内部に在るものではなく、もっとヒリヒリとした私の「外部」に在るもの、繰り返しになりますが、それを「リアリティ」と言っても良いのだと思います。

そんなことを考えながら柄谷さんの最初の評論集、『畏怖する人間』という本をパラパラと見返していたら、「あとがき」に次のようなことが書いてありました。

 

現実はさまざまな観念の過剰によって歪みぼやけている。あるいは薄汚れた観念の射影が「現実」と錯覚されているにすぎない。私はそういうところでは何一つ書く気になれなかった。しかし、私があたかも内的世界に固執しているかのようにみえたとしても、それは内的な自閉によってではない。もともと私は俗にいう「内面」や「心理」など少しも信じていないからである。それは俗にいう「現実」を少しも信用していないのと同じことである。いずれも私にはいとわしいものに思われたので、そういうところで他人と饒舌に交錯することばを見出すことは困難だった。

私が欲したのは、確かなものの輪郭であり構造である。確かなもののかたちを見出すためには、拡散する雑多なぼやけた光を一点に凝縮して、太い光の束に変えるレンズが必要である。私がそれを「内的世界」に求めたのは、一つは社会科学や文化史・文明史的カテゴリーにもとづく安直な発想への反撥からであり、もう一つは、いろんな意味での実存主義的発想への嫌悪からだといえる。私は、たとえば、「内的世界」をそれ自体として純化して考えることはできないかと思った。そのとき外界や歴史性を捨象してよいとみなしうるには、この純化された内的世界はいかなる条件をみたしていなければならないか。要するに、そこに「現実」の何ものも本質的に捨象されてはならず、さらに「現実」以上の濃密なリアリティがなければならないのである。出来映えはともかく、漱石試論で私がやろうとしたのはそういう試みだった。

(『畏怖する人間』「あとがき」柄谷行人)

 

この柄谷さんの初期の評論集の「あとがき」のなかに、最近、私がセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)を通じて学んだこと、そして書いてきたことがすでに書かれているような気がして、唖然としてしまいます。しかし、こればかりは生まれつきの能力の違いなので、どうしようもありません。そんなことを嘆くよりも、ここで柄谷さんが「漱石試論」で「やろうとしたこと」について、ちょっとだけおさらいをしてみましょう。

柄谷さんのテキストを基礎資料として引用してみますが、長くなってしまうのでところどころ端折ります。読みにくかったら、ぜひ『畏怖する人間』の原文をお読みください。

 

漱石の長編小説、とくに『門』『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』などを読むと、なにか小説の主題が二重に分裂しており、はなはだしいばあいには、それらが別個の無関係に展開されている、といった感を禁じえない。たとえば、『門』の宗助の参禅は彼の罪感情とは無縁であり、『行人』は「Hからの手紙」の部分と明らかに断絶している。また『こゝろ』の先生の自殺も罪の意識と結びつけるには不充分な唐突ななにかがある。我々はこれをどう解すべきなのだろうか。

<中略>

たとえば『門』における宗助の参禅は、三角関係によって喚起されたものでありながら、その三角関係が宗助の苦悩に匹敵しないで別の方向に向けられるほかないというところに起因している。したがって、「どのように筋を仕組んでも、そういう宗助を表現するわけにはいかない」のであって、やはり漱石も「彼の手に余る問題を扱おうとしたと結論する」ことができると私は思う。それにしても、漱石は「どういう種類の経験をした結果」そのような問題をかかえこむにいたったのか、そしてそこにはどんな本質的意味があるのか。

<中略>

ここに漱石が『虞美人草』以後長編小説の骨格にすえた「哲学」が端的に示されている。人間の「自然」は社会の掟(規範)と背立すること、人間はこの「自然」を抑圧し無視して生きているがそれによって自らを荒廃させてしまうほかないこと、代助がいっているのはこういうことだ。注意すべきなのは、漱石が「自然」ということばをきわめて多義的にもちいていることであり、逆にいえば今日のわれわれならさまざまなことばでいいあらわすものを「自然」というただ一つのことばに封じこめていることである。そのこと自体は、おそらく漱石に固有の時代的教養の産物といってよい。

(『畏怖する人間』「意識と自然 漱石試論Ⅰ」柄谷行人)

 

いかがですか?『こゝろ』という小説をどのように解釈すべきなのか、中学や高校の頃に国語の授業でやったような気がします。しかし、いろんな先生からどのような解釈を聞いても、私にはまったく納得できませんでした。かといって、自分自身がなにかもっともらしい解釈を持っていたのか、というとそうではありません。むしろ漱石の小説は、その理不尽さのままに放っておくことが読み手としての正しい態度ではないか、とおぼろげに思っていました。

柄谷さんはそのことに明確な言葉を与えてると思います。

 

人間の「自然」は社会の掟(規範)と背立すること、人間はこの「自然」を抑圧し無視して生きているがそれによって自らを荒廃させてしまうほかないこと

 

そして柄谷さんは、この「自然」という多義的な言葉について、さまざまな思想家の概念を紹介しながら考察を進めていきます。

アメリカの思想史家のラヴジョイ(Arthur Oncken Lovejoy、1873– 1962)、フランスの哲学者のルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712 - 1778)、イングランドの哲学者のホッブズ(Thomas Hobbes, 1588 - 1679)、日本の政治学者で思想家の丸山 眞男(まるやま まさお、1914 - 1996)、そしてシェークスピア(William Shakespeare, 1564 - 1616)の作品との比較、あるいはそれを論じたイギリスの詩人、文芸批評家のT・S・エリオット( Thomas Stearns Eliot、1888 - 1965)によって、「自然」と人間との関係について、あるいはそれをどのように表現するのか、ということを考察しているのです。

ちょっと話が横道にそれますが、柄谷さんのこの程度の博識な引用や解釈は、まだわかりやすい方です。ラヴジョイを除けば、私だってここに書かれている思想家や評論家の名前ぐらいは知っていますし、彼らを引き合いに出して柄谷さんが言おうとしていることも大体わかります。しかし、この後の著作からの柄谷さんの文章は、そんなに容易にはわかりません。とにかく引用されている思想家たちの名前すら聞いたことがなく、その内容に至っては難解を極めているのです。何かの噂で、あの大江健三郎さんでさえ、柄谷さんの博識には舌を巻いていた、という話を聞いたことがあります。(噂なので、真偽はわかりません!)

さて、話を戻します。

例えばこの後の文章で、柄谷さんが漱石とシェークスピアの『ハムレット』とを比較している部分を読んでみましょう。

 

むしろ、それは古典悲劇をはみ出した『ハムレット』を考えてみれば明白となろう。たとえばハムレットが初期シェークスピアの一群の史劇の主人公のように躊躇なく行動して死んだとすれば、この劇にはエリオットの指摘するような虚無はなかったはずである。この劇をつらぬいている「セオリー」をとりだせば、亡王とその王子ハムレットが代表する中世的な「規範」と、王位を簒奪する叔父とその妻になる母王妃を是とする近世的な「自然」の対立であり、この対立はシェークスピアの悲劇のいずれにも存在する。つまり、それhこの時代の世界像の転換そのものに根拠をおいているのであり、かくあるべきだという規範(当然)が人間の行動倫理だけではなく社会秩序から宇宙体系にいたるまで整備されていた時代思潮の中に、「自然」の衝動を是とするアナーキーな傾向性が滲透してきたことを意味しているのである。たとえば、『リア王』のなかで、私生児(英語でそれをnatural sonということに注意)エドマンドは、「僕は自然の女神、自然の法則に従う」といい、「われわれは人眼を忍ぶ野生の楽しみの中でできた子」であり、「猛烈な精力」と継いでいるのだから、「おざなりの飽き飽きする寝床のなかで」できた嫡子より優れているのだと主張する。

これは『それから』の代助が、「世間の掟と定めてある夫婦関係」より「自然の事実として成り上がった夫婦関係」の方が正当なのだというのと同じことである。しかし、ハムレットが立っていたのは、規範(秩序)が疑わしいとなれば、自然(叔父や王妃の行為は自然的であり正当である)も疑わしい、というような自意識の世界である。彼の自意識は、ある時は規範に傾き、あるときは自然に傾きながら、しかもそこにどんな必然性も発見しえないでいる。エリオットがいうように、シェークスピアは「規範」と「自然」の間隙に分泌される虚無に眼をふさいで、この復讐劇を強引に完了させたのである。

(『畏怖する人間』「意識と自然 漱石試論Ⅰ」柄谷行人)

 

このように比較してみると、漱石の小説の割り切れなさは、漱石自身が経験した明治維新前後の激動の時代と関係していたのかもしれません。そしてイギリス留学の過酷な経験も影響していたことでしょう。漱石にとって、何が「自然」で何が「人間」的なことなのか、それらのどこに道理があるのか、その答えを出すことはほどんと不可能だったのです。だから彼には、シェークスピアのように強引に物語の幕を引くことができなかったのだと思います。ですから、学校の国語の授業で漱石を取り上げるのは素晴らしいことだと思いますが、そこに何か明快な解釈を求めようとしても無理があって、そうするとちょっと嘘っぽい授業になってしまうのではないでしょうか。むしろ生徒が漱石と一緒に悩むのに任せて、何も解釈を与えずに放り出してしまうのが正しい読み方なのかもしれません。

しかし、その漱石も最後の未完の小説、『明暗』を書くにあたっては少し態度が違ったのではないか、と柄谷さんは書いています。柄谷さんは、漱石が『明暗』を書く前のエッセイで、「一体ニ様」の見解を抱いている、と書いていることに注目しています。「一体ニ様」とは、すなわち自分の中で矛盾する要素を「同時にしかも矛盾なしに両存」するような世界を表現する、ということです。漱石は『明暗』を書き出す少し前の大正5年の元旦に、『點頭録』というエッセイで次のように書いていたそうです。

 

たゞ年頭に際して、自分は此一体二様の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流に任せる覚悟をした迄である。

 

これに対して、柄谷さんは次のように書いています。これが「意識と自然 漱石試論Ⅰ」という論文の結びの文章となります。

 

私はこれを悟りを開いた人間のいうことばとして読む気にはなれない。あまりに痛々しい「覚悟」が感じられるからである。『明暗』がはたして「一体二様の見解」を実現しえたであろうか。それは誰にもわからない。だが、漱石が『明暗』において、「わが全生活」を「大正五年の潮流」のなかに注ぎこんだことは疑いがない。そして、漱石にもう少し寿命があれば、われわれは『明暗』のなかにある包括的な世界像をもつことができたかもしれない。そこから見たとき、漱石以後の文学と人間の分裂と喪失の形態がより明瞭に浮き彫りされるであろうことは疑いをいれないのである。

(『畏怖する人間』「意識と自然 漱石試論Ⅰ」柄谷行人)

 

柄谷さんは、漱石の言葉を「悟りを開いた人間のいうことばとして読む気にはなれない」と書いていますが、確かに『明暗』という小説には、「悟り」という言葉から連想するような、そんな救いのようなものが感じられません。とにかく主人公の津田という男が、漱石の小説の中でも最も不甲斐ない人間のように思えて、このような人物に漱石的な問題を解決する力があるとは考えられないのです。

そういえば、柄谷さんとは友人関係にある岩井克人さんの連れ合いの水村美苗さんが、『續明暗』という小説を書いていました。これは漱石の『明暗』の続きを書いたものですが、水村さんの小説では津田は完璧に打ちのめされていたように記憶しています。だいぶ前に読んだので印象が曖昧ですが、漱石のそれまでの小説のように「自然」が介入して、問題が人為的な解決を見ないままに通り過ぎる、という結末ではありませんでした。さすがに漱石が書いていたら、こうは書かなかっただろうなあ、と思いますがとても面白い小説でした。

 

さて、このような漱石の小説を題材にした柄谷さんの考察ですが、ここまでの話を踏まえて「あとがき」で柄谷さんが書いていた言葉を思い出してみましょう。

 

そこに「現実」の何ものも本質的に捨象されてはならず、さらに「現実」以上の濃密なリアリティがなければならない

 

漱石の小説が柄谷さんの考察に値するモチーフを持ったものであるとするならば、それは漱石が自分にとっての「リアリティ」を追究したことによるものでしょう。漱石は、決して「人間」と「自然」という概念の「背立」について、安易に表面的な答えを与えていないのです。

小説というのは小説家の創作によるものですし、それを絵画に例えるなら、そこにどのようなイリュージョンを設定しようと作者の自由である、ということになるのでしょう。しかしそれが小説であれ、絵画であれ、作者の思いつきによって自由に書きかえられた作品に対して、私は興味を持つことができません。何の躊躇もなく「自然」を加工してしまう作家の作品には、見るべきものがないのです。「自然」の存在が自分の前に立ち現れた時に、そこに人為が通じない何ごとかを発見し、そのことに対して「畏怖する人間」だけが「リアリティ」を表現することができるのです。

私は自分自身の創作活動にも、常にそのような「リアリティ」を感じていたいと思いますし、柄谷さんの哲学者としての活動にも、同様の「リアリティ」を感じるのです。しかし冒頭にも書いたように、柄谷さんが文学の世界から、より広い哲学的な世界へと乗り出していったときに、その文章の難易度が上がってしまいました。そのために、私は柄谷さんの著作が発表されるたびに、にわかに反応できずにここまで来てしまったのです。

 

さて、今回は初期の柄谷さんの仕事について書いただけで、ここまで来てしまいました。この後に柄谷さんは『日本近代文学の起源』を書くのですが、そのことについては以前に書きました。ですから次回は、そのさらにその後の柄谷さんの仕事について、私が理解できる範囲で書いてみることにします。ちょっと大きな宿題ですが、頑張ります。

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