前回と同様にお知らせです。
2023年6月3日(土)ー7月9日(日)の期間に開催されている、三浦市の諸磯青少年センターの『HAKOBUNE』という展覧会に作品を三点だけ出品しています。この展覧会のパンフレットのpdfファイルが私のHPからご覧いただけます。ぜひ、ご一読ください。
http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html
遠方で、ちょっと不便なところですが、神奈川県の南の方にいらした折には、ぜひ覗いてみて下さい。天気が良ければ、海を見ながら潮風に吹かれるのも気持ちの良いものです。
さて、今回は最近見た展覧会の作品から話を始めたいと思います。それは東京・京橋のギャラリー檜で6月12日から17日まで開催されていた『街Ⅰ』に展示されていた間々田佳さんの作品です。
https://hinoki.main.jp/img2023-6/b-3.jpg
このDMだけでは、作品が分かりませんね。次のリンクを見てください。
https://kei-mamada.jimdofree.com/works/
これらの作品のパネル状のものが、今回の出品作品に近いものです。いくつかの作品が彼女の展示スペースに飾られていて、同じ矩形の形状ですが、和紙の表面のもの、白い絵の具(胡粉?)の細かな筆致で塗られたもの、金属の表面のもの、などそれぞれが違ったテクスチャー、表現となっています。
展覧会に寄せた間々田さんのテキストを読んでみましょう。
「街について」
耳、鼻、口、目、皮膚。
どの感覚器官からの情報が最後まで記憶に残るだろうか。
マスクを外すと、空気を吸っていると改めて気がついた。
匂いが意識され、感覚器官の存在を強く感じた。
体の表面にある感覚器官は人間の身体から凸状で、表面積を増やして情報を集めている。
私たちは、感覚器官から街を記憶する。
街に立つ私たち自身も、街の感覚器官のようである。
街を構成する時間、空間、人間を表現した。
2023.6.10
作品とテキストが気負うことなく、素直に交錯する素敵な表現となっていますね。間々田さんがふだん、街を歩いていて皮膚感覚で感じたことを、そのまま言語化し、あるいは視覚化したテキストと作品なのだろうと思います。
私のような世代の人間から見ると、彼女の作品にはミニマル・アートの時代にありがちだった表現のような既視感があります。1980年代の前後にかけて、矩形の作品を連続的に並べた作品をよく見かけました。ドナルド・ジャッド(Donald Clarence Judd 1928 - 1994)の作品を真似したような、それでいてジャッドほどのハードな表現になり得ていない、正直に言えばちょっと退屈な作品が、街の画廊に溢れていたのです。
◎ドナルド・ジャッド作品
https://www.artpedia.asia/donald-judd/
あの時代のありふれた作品と、間々田さんの作品とはどこが違うのでしょうか?今から50年ほど前のあの時代には、誰もが時代を先導するような表現を過剰に意識していたと思います。それは、自分が時代を担っている、という気負いではなくて、もっと義務的な、もっと強迫観念のようなものでした。つまり、今、美術作品を作るのならこうあらねばならない、というような追い詰められた気持ちでした。
しかし、現代ではどんな表現が時代を先導しているのか、よくわからなくなっています。それだけ自由に表現できる時代であるとも言えますし、何を表現したらよいのかよくわからない困難な時代であるとも言えます。
そんな中で、間々田さんはモダニズムの美術をしっかりと学習した作家であると感じます。しかしそれでいて、間々田さんの作品は、かつてのモダニズムの強迫観念に囚われた作家たちとは違って、どこかに自分の内面や感性と正直に向き合った素直さと柔軟さを作品に宿しているのです。
例えば今回の作品のように、同じ矩形を連続して並べる展示をするのなら、モダニズムの時代のミニマル・アートの作家の場合、ミニマルな表現を強調するための反復表現として展示することでしょう。つまり、まったく同じ仕上がりの作品を並べるか、あるいはほんの少しずつ表現の「ずれ」が見えるような作品を意図的に並べるのです。
ところが、間々田さんの作品は、一つ一つの素材が違っています。それは間々田さんが街中で感じた、様々な感覚を表現しているようなのです。作品が同じ矩形であるだけに、その皮膚感覚の違いが際立って見えてくるので、ある意味ではミニマルな表現の対極にある作品であるとも言えます。
私はこういう表現が間々田さんのような若い作家から何の気負いもなく出てくるところに、時代の成熟を感じます。現代美術の明るい未来を見るような気がするのです。もちろん、間々田さんという作家個人の素晴らしい才能も見逃せませんが、街の画廊で、ごく自然にこういう作品が置かれていることに希望を感じるのです。
さて、先ほど私が触れた1980年代という時代について、印象的だった展覧会について書いてみます。1980年代のはじめに、『今日のイギリス美術』という展覧会が開催されました。私がこの展覧会を見たのは、1982年の春のことで、東京都美術館でのことでした。イギリスの現代美術といえば彫刻のアンソニー・カロさんやオップ・アートのブリジット・ライリーさんがすでに有名でしたが、この展覧会は彼らの作品とともに、その後の世代を紹介することに主眼が置かれていました。これらの作家(ごく一部ですが・・)について、カタログに書かれた基本情報とともに、作品の画像が掲載されたサイトをご紹介します。
◎アンソニー・カロ( Anthony Alfred Caro、1924 - 2013)
1924年ロンドンに生まれる。ケンブリッジのクライスト・カレッジで工学を学び、1947-1952年王立アカデミーに通う。ロンドンのセント・マーチン美術学校、バーモントのベニントン・カレッジで教職につく前に、2年間ヘンリー・ムーアの助手を務める。1969年大英勲章第3位(CBE)に叙せられる。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/25408/pictures/3
◎ブリジット・ライリー (Riley, Bridget Louise, 1931 - )
1931年ロンドンに生まれる。1949-52年ロンドンのゴールドスミス美術学校、続いて1952-55年王立美術学校で学ぶ。1965年ニューヨーク近代美術館で開催された<応答する眼>展に参加、世界的に注目を浴びる。1968年ヴェニス・ビエンナーレでイギリス代表となり、絵画部門で国際賞受賞。1969年ピーター・セジリーとともに、美術家に安価なアトリエを提供する組織<スペース>を創立。作品は世界各地のパブリック・コレクションとなっている。ロンドンに在住し制作。
https://bijutsutecho.com/exhibitions/1734
今では世界的な画家となったデイヴィッド・ホックニーさんも『今日のイギリス美術』展の中に含まれていました。彼はこの当時の日本では、ポップな画家にすぎない、と評価されていたように思います。
◎デイヴィッド・ホックニー(David Hockney、1937 - )
1937年ブラッドフォードに生まれる。1953-57年ブラッドフォード美術学校に学ぶ。1959-62年王立美術学校に学ぶ。1961年初めてニューヨークを訪れ、以来アイオワ、コロラド、ロサンジェルス、カリフォルニアで断続的に教える。1973-75年パリに住む。
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/9632
私もホックニーさんのことを、サブ・カルチャー的な作家にすぎないと思っていましたが、この展覧会でイギリスの現代美術の代表的な画家として紹介されたことで、少し見方が変わりました。ホックニーさんの作品には、ポップな軽さと同時に、古典的な佇まいが感じられたのです。
この展覧会では、他にも興味深い画家が何人かいましたが、今日は間々田さんの作品から想起した、三人の彫刻家について触れておきましょう。
まずはトニー・クラッグさんです。
◎トニー・クラッグ(Tony Cragg, 1949 - )
1949年リヴァプールに生まれる。1969-70年グロスターシャー美術・デザイン学校、1970–73年ウィンブルドン美術学校、1973–77年王立美術学校に学ぶ。王立美術学校在学時に、フランス文化省の招きによりフランスのメッツで1年間教鞭をとる。1977年ロンドンのホーンジー美術学校、1978–79年デュッセルドルフ美術アカデミー、1979–80年王立美術学校およびスレード美術学校、1980年チェルシー美術学校およびマースリヒトのヤン・ファン・エイク・アカデミーなど、多くの美術学校で客員講師を務める。ドイツに在住。
https://www.museum.toyota.aichi.jp/collection/tony-cragg
『今日のイギリス美術』展では、このサイトの中の『スペクトラム』や『アフリカの文化神話』のような作品を展示していました。素材となっていたのは、日本のゴミ捨て場から拾ってきたプラスチックのカラフルな容器でした。ミニマル・アートや「もの派」の作品を見慣れていた眼で見ると、何とも軽やかで楽しそうな作品に見えました。それでいて、日本に来てから、クラッグさんが自分で素材を収集するという真面目さ、そして廃棄物を作品化してしまうという明快なコンセプトに打たれました。こんなにも軽くて、分かりやすい作品が現代美術として見る人の心に響くというのは、本当に新鮮な驚きでした。
次はバリー・フラナガンさんです。
◎バリー・フラナガン(Barry Flanagan、1941 - 2009)
1941年ウェールズのプレスタンチンに生まれる。1964–66年セント・マーチン美術学校に学ぶ。1967–71年同校およびセントラル美術学校で教える。ロンドンに在住し、制作を続ける。
* * *
フラナガンを同時代の芸術家に比べ、ユニークな存在たらしめているのは、アナーキーなウィットである。・・・(以下、長い批評が書かれています)
https://www.barryflanagan.com/
この人を喰ったようなウサギの彫刻は、当時では「これでいいの?」と言いたいぐらいの衝撃でした。しかしそれでいて、彫像としての骨格はしっかりとしていて、作者の確かな力量を感じさせるものでした。また、有機的な形をした不思議な量塊の大理石彫刻は、具象とも抽象とも言い難い魅力を放っていました。フラナガンさんの作品の中でも、ウサギやゾウの形をした作品は、日本でも人気があったように思います。
最後にナイジェル・ホールさんです。同名のミュージシャンがいるようですが、インターネットで彼の作品を探すなら、「彫刻家のナイジェル・ホール」で探してみてください。
◎ナイジェル・ホール(Nigel Hall , 1943 - )
1943年ブリストルに生まれる。1960–64年ウェスト・オブ・イングランド美術学校に学ぶ。1967–69年ロンドンの王立美術学校に学ぶ。1967–69年ハークネス奨学金を受ける。ロンドンに在住。
* * *
これらの作品のうちの2点につけられているタイトルの『無名の大地』とは、おそらく、なじみのない土地であったり、記憶されるべき特徴をはっきりとつかむほどには、足しげく訪れたわけでもないから、その名前を欠いているのだろう。多分、そこはまだ発見されておらず、決められた入口の作られることを待ちながら、均衡状態を得ようとバランスをとる必要のある世界かもしれない。神話の国?・・・・(以下、本人の1981年11月の日付のコメントが続きます)
https://www.artsy.net/artwork/nigel-hall-wandering-star
この当時のホールさんは、金属の棒をレリーフ状に壁に貼り付けた作品を発表していました。その形状は、間々田さんの作品に比較的近い表現なのではないでしょうか。トニー・クラッグさんもナイジェル・ホールさんも、その後はプリミティブな形状の、大きくて重たい、言わば本格的な彫刻作品として見られるものに移行していったようです。しかし私個人としては、この当時の彫刻の概念を逸脱しているような二人の作品が好きです。
芸術家は巨匠と言われるようになってくると、作品も大きくて重たくなる傾向があるようです。しかし、人生の最後まで軽やかに、楽しく造形表現を続ける作家がいてもよいと思うのですが、いかがでしょうか。私は巨匠になることはありませんが、死ぬまで軽やかさを標榜して生きていきたいと思います。
さて、これらの作品が日本で展示された頃と前後して、このところ私のblogで取り上げている哲学者の柄谷行人さんは『日本近代文学の起源』(1980)、『隠喩としての建築』(1983)、『内省と遡行』(1985)、『探究I』(1986)、『探究II』(1989)といった著作を意欲的に発表していたのでした。この日本とイギリスの、まったく関連のない哲学論文と美術作品とが、たまたまそれらが交錯する時期に居合わせた私にとっては、奇妙に符合する出来事だったのです。
例えば、この『今日のイギリス美術』展の翌年に発表された、柄谷さんの『隠喩としての建築』の中の文章を覗いてみましょう。
西洋的な知において重要なことは、あたかも基礎があるかのようにみえる実際のあるいは知の諸建築ではなくて、たえず危機において更新される「建築への意志」にほかならない。それは混沌たる多様な生成に対して、自立的な秩序・構造を見出そうとする非合理的な選択であり、危機において、それが一つの選択にほかならないことが明らかにされる。フッサールが『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』においてみた「危機」は、そのようなものであった。《ところで、すでにガリレイのもとで、数学的な基底を与えられた理念性の世界が、われわれの日常的な生活世界に、すなわちそれだけがただ一つ現実的な世界であり、現実の知覚によって与えられ、そのつど経験され、また経験されうる世界であるところの生活世界に、すりかえられているということは、きわめて重要なこととして注意されねばならない》。
フッサールが知覚あるいは身体における多様な「生成」をみようとしたことは事実であるが、彼の関心は、けっして近代科学の知をそこにde-constructしてしまうことにあったのではなく、現象学が開示する多様な混沌的世界のなかでの「建築への意志」を再確認することにあったのである。だからまた、彼は、ガリレイ以来の“合理主義”に安住しているがゆえに逆に“非合理主義”が支配している1930年代ヨーロッパの「危機」において、それをのりこえるものを「建築への意志」にもとめたのである。彼にとって、理性は、あるいは精神は、実現された諸建築にあるのではなく、「建築への意志」としてしかないのであって、したがってそれはやはり西洋にしかないという結論に到達する。彼が歴史そのものに「理性」の目的論を見出すとき、そうとは知らずにヘーゲルに回帰しているのだが、あとでのべるように、ヘーゲルにとっても、「精神」とは、一つの「建築への意志」あるいは一つの投企にほかならないのである。
(『隠喩としての建築』「隠喩としての建築」柄谷行人)
ここで柄谷さんが「ガリレイ以来の“合理主義”に安住しているがゆえに逆に“非合理主義”が支配している」というヨーロッパの「危機」について注目してみましょう。この「危機」とは、まさにモダニズムの美学を突き進んだ現代美術が直面していた「危機」だったのではないか、と思います。
オーストリアの哲学者フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)が1930年代には警鐘を鳴らしていた「危機」に対し、美術の世界ではヨーロッパからアメリカへとその中心が移っていった中で、その「危機」が認識されないままに継承されてしまったのではないか、と私は思います。それが40年ぐらい遅れてミニマル・アートの作品として「危機」が具現化し、日本の美術はアメリカの現代美術しか見ていなかったが故に、アメリカよりも遅れて1980年代になってから、表現の「危機」に陥ってしまったのでした。このことについては、過去のblogでかなり書いてきましたので、よかったら参照してください。
しかしヨーロッパにありながら、海を隔てた島国であるイギリスでは、アメリカやヨーロッパ大陸とは別な形で現代美術の「危機」をのりこえる動きがあったのだと思います。私の見た限りでは、イギリスの美術は作家個人のパーソナルな表現を大切にした結果、現代美術の大局的な「危機」をのりこえることができたのではないか、と思います。それは柄谷さんの言葉を借りれば、作家一人一人の「建築への意志」を尊重したことにより、ユニークな美術表現が展開したのではないか、ということなのです。
このようなイギリスの美術はどのような環境で生まれたのでしょうか?この展覧会が開催された当時、美術評論家連盟会長だった岡本謙次郎(1919 – 2003)さんがカタログに次のような文章を寄せています。
ロンドンーイギリスを構成するさまざまな要素が集約的に集まっているロンドンーここは、はじめ、一見すると、人を冷たくつっぱなす街だ。取りつくしまもなく、そっけない。が、いったん、その中にいて行為する人間の特性を認めたら、あらゆるものを受け入れる街である・・・私の狭い経験では、そういう感じを受ける。
価値観がどれほどちがっていようと、それが未来に向かって開ける普遍性を帯びる可能性が窺えると認めれば、余計な世話はやかぬが、ある種の積極性をもって受容する。
一見、冷厳で、人をよせつけぬかのような街に、実に多くのものが混在している。最も保守的と思われるものも、最も新しいと思われるものも、矛盾ではなく、同時に存在する坩堝なのだ、いってよかろう。
現代芸術にたずさわる人々は、様式はさまざまだが、つつましい生活をしながら、自分の創りたいもの、羅針盤の指示によって、創らずにはいられないものを作っている。
表面、一見冷たく、多少いかつい街のたたずまいの底には、混沌とした渦が巻いている。何かわけの分からぬ雑然とした中に、まるで突然変異でもあるかのように、美しく、優雅なものが生まれている。
(『今日のイギリス美術』カタログ、「『今日のイギリス美術』展にあたって」岡本謙次郎)
私には海外の街の様子も、その比較もまったくできませんが、おそらくイギリスーロンドンの街は、一攫千金の成功を求めて世界中の芸術家が集まるニューヨークとは、かなり雰囲気の異なる街なのでしょう。「現代芸術にたずさわる人々は、様式はさまざまだが、つつましい生活をしながら、自分の創りたいもの、羅針盤の指示によって、創らずにはいられないものを作っている」という様子は、私から見ると理想的な街であるように思えます。東京の街も混沌とした坩堝である点では、ロンドンと似ているかもしれませんが、その外見とは裏腹に同調圧力の強い点で、やはり東京はロンドンとは違っていることでしょう。
しかし、国や街という集合体で比較すると、どの街だと芸術家として過ごしやすい、ということが出て来るのでしょうが、しょせん創造活動は芸術家個人が実践するものです。仮に息苦しい東京の街で生きていても、「つつましい生活をしながら、自分の創りたいもの」を創り続けることは可能です。あとは、そういう人たちがお互いを認め合い、時には励まし合う状況を私たち自身が作っていけば良いのです。そんなことを思いながら、このblogを書いています。
さて、この『今日のイギリス美術』に出品していた芸術家たちは、前回までの私のblogで書いた柄谷行人さんの言葉を借りて言えば、自分の「内面」を掘り下げつつ、そのことによって「リアリティ」に突き当たり、その「リアリティ」を表現することで「外部」に触れていたように見えます。「外部」を外の世界に安易に求めずに、自分の「内面」をしっかりと見つめることで「外部」へとつながっていくという点で、まさに柄谷さんが1980年代に標榜していた思想的な実践を、彼らは芸術作品として具現化していたのではないか、というふうに思えるのです。
このような芸術表現は、1980年代の日本においてはかなり奇異なことでした。それが『今日のイギリス美術』展を衝撃的なものにしていたのです。しかし現在においては、たとえば間々田さんの作品に見られるように、若い作家はごく自然に「内面」ー「リアリティ」ー「外部」という関係を構築しているのではないか、と感じます。1980年代以降、現代美術は混迷していて、ろくな成果を上げてこなかったなあ、というため息まじりの感慨をもっている私ですが、間々田さんのような作家が育っているのなら、これまでの時間の蓄積も無駄ではなかったのではないか、という希望を抱くことができるのです。
そんな若い方たちの参考になれば、という気持ちで1980年代の『今日のイギリス美術』展を、ごく一部ですけど紹介してみました。クラッグさんもホールさんも巨匠然とする前の、フットワークの軽い若者であった頃の作品を、現在の若い人たちと共有できたら素敵だと思ったのです。そんなことを考えていたら、次のような歌の一節を思い出しました。
いつも勇敢で
まっすぐ立ち、強くいられますように
いつまでも若くいられますように
と歌ったのは、ボブ・ディランさんでした。
https://lyriclist.mrshll129.com/bobdylan-forever-young/
私たちも、そうありたいものです。「いつも勇敢で、まっすぐ立ち、強くいられ」れば、私のような年寄りでも若くいられるのでしょうか?私は、偉大な作家であっても巨匠然としてしまっては、もうその表現活動は終わりだと思っています。巨匠のように振る舞うよりも、街の普通の人であり続けることの方が、勇敢であると思っているのです。(私が巨匠になれないから、こんなことを言っているのではありません、念のため。)
優秀な若者は、いつか巨匠として扱われるようになるのかもしれませんが、どうかいつまでも街の画廊を徘徊する若者であったことを、忘れないようにしてください。