『ある画家の数奇な運命』という映画が、だいぶ前から話題になっていました。
https://www.neverlookaway-movie.jp/
https://youtu.be/6ZOMMMG2fEU
ドイツの巨匠、ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 1932 - )がモデルになっている映画です。私はこのblogでも何回か書いていますが、リヒターに関して複雑な思いがあるので、この映画を見ることにためらいがありました。ところが友人から、面白いからぜひ見た方が良い、と勧められましたので、視聴することにしました。
そして見てみたところ、名作とまでは言えませんが、なかなか面白い映画でした。しかしそれは、リヒターとはあまり関係のないところで楽しめたのです。
そんなことですので、美術好きの方でこの映画を気に入った方には、あまり納得のいく感想ではないかもしれませんが、とりあえず拙い文章を綴ってみます。
まずは映画のストーリーです。
まだ公開が現在進行形なので、内容をどれくらいここに書いて良いのかわかりません。そこで公式ホームページのストーリを書き写してみましょう。
ナチ政権下のドイツ。少年クルトは叔母の影響から、芸術に親しむ日々を送っていた。ところが、精神のバランスを崩した叔母は強制入院の果て、安楽死政策によって命を奪われる。終戦後、クルトは東ドイツの美術学校に進学し、そこで出会ったエリーと恋におちる。元ナチ高官の彼女の父親こそが叔母を死へと追い込んだ張本人なのだが、誰もその残酷な運命に気づかぬまま二人は結婚する。やがて、東のアート界に疑問を抱いたクルトは、ベルリンの壁が築かれる直前に、エリーと西ドイツへと逃亡し、創作に没頭する。美術学校の教授から作品を全否定され、もがき苦しみながらも、魂に刻む叔母の言葉「真実はすべて美しい」を信じ続けるクルトだったが―。
(上記アドレスの公式ページより)
言うまでもなく、クルトがリヒターをモデルにした画家です。しかし、この物語の主人公はエリーの父親、つまりクルトの義父となるカール・セーバント/俳優セバスチャン・コッホ(Sebastian Koch 1962 - )という悪玉の医者なのでないか、と私は思いました。
インターネットで調べてみた限りでは、リヒターの最初の妻の父親がナチスの高官で、物語の中にあるように断種手術を施したということ、そして被害にあった女性たちの中で命を奪われた方もいた、というのは事実のようです。また、リヒターの叔母がナチスによって命を奪われたというのも事実らしく、時間的な整合性や住んでいた地域などを総合すると、映画のような経緯があり得たかもしれない、ということなのです。
映画のネタバレになっては困りますが、必要に応じて映画の中の、クルトの叔母と義父に関することを少し書いておきましょう。
まずは、クルトの叔母に関することです。叔母とは言っても、映画の中のエリザベトという女性はまだ学生です。利発で若くて美しく、感受性が強い女性という設定です。幼いクルトは彼女をとても慕っています。ところが、美しさゆえに目立つこともあって、極度の緊張感を強いられることもありました。自宅に帰り、高ぶる気持ちのままに全裸でピアノを弾き、自傷行為に至ったことで、彼女は精神科にかかることになりました。そして家族の願いも虚しく、精神病と判断され病院に連れて行かれます。
エリザベトが精神病院に入院してまもなく、ナチスは戦争に備えて病床を空けるために、精神障害だと判断した人を選別して、ガス室に送ることにしました。ただでさえ、選民思想の故に精神病だと判断された女性は断種手術を受けさせらる運命であったのに、その上、医者の判断一つでガス室送りになるのです。映画では、クルトの義父のセーバントが、クルトの叔母をガス室送りにする判断をしたのです。
やがてナチスが敗北し、セーバントも裁かれる時が来ます。自分の罪を認めないセーバントですが、たまたまロシア将校の妻の出産を助けたことで命拾いをします。そして東ドイツの中でも出世していくのです。
そんなセーバントが、貧しい画学生のクルトと自分の娘の結婚を許すはずがありません。娘には子宮に病気があると偽り、クルトとの子供を宿した娘に堕胎手術をしてしまいます。そんなある日、セーバントを救ったロシアの将校が転勤することになり、自分が去ればセーバントが裁かれるだろうから西側へ移住しろ、と言い残していきます。セーバントは西ドイツに行き、そこでもうまく出世するのです。
クルト夫妻もそのあとで西ドイツに移住し、そこでもクルトを見下げる態度をとるセーバントですが、逃走していたナチス時代のセーバントの上官が逮捕され、セーバントの運命にも暗雲がたち込めます。そしてクルトも直感的にセーバントの正体を見破り、それを写真絵画の作品にすることで才能を開花させます。
あれあれ・・・、ちょっと、書きすぎましたね・・・。
しかし、徹底的に嫌な奴として描かれる義父が、この映画を面白くしていることは、間違いありません。この映画は、ナチス、東ドイツ、西ドイツという体制の変化に翻弄された人たちの物語であり、クルトが自分の芸術的な感性に正直に生きた真の成功者なら、セーバントは常に体制の中でうまく泳ぐことしか考えない偽りの成功者、そして最終的には敗者となる運命にあったのです。このセーバントという存在がなければ、クルトの輝きも半減したことでしょう。
そして物語というのは、歴史的に未知の部分が多ければ多いほど、面白くなる傾向があります。私の個人的な見解ですが、NHKの大河ドラマを見ていても、面白いのは主人公が幼くて歴史的な事実が曖昧なころまでで、成人して史実がはっきりしてしまうと、それを追いかけるだけのドラマになってしまいます。この映画も同じ傾向にあって、最も魅力的な人物は悪玉のセーバントであり、クルトの亡くなった叔母です。
悪玉セーバントは実際にはオイフィンガーという名前の人物らしく、すでに亡くなっていますが学識深い人道教育者として評価されているそうです。彼の本当の人生は闇の中にあり、リヒターの伝記を執筆した記者によって彼の東側での行為がはじめて明らかになったそうです。
そして叔母エリザベトは鋭い感受性ゆえに人一倍輝いて見えるのですが、それゆえに不幸を招いてしまう悲劇的な人物として描かれています。実際の彼女がどういう人であったのか、今となってはわかりませんが、彼女はガス室で殺害されたのではなく、餓死させられたのだとホームページの記事には書かれています。
http://indietokyo.com/?p=14077
この悲劇的な女性を輝かせたのは、映画の創作によるところが大きいのだと思います。
そしてふと考えると、彼女のような人が不幸なのは、ナチスの政権下だけのことでしょうか?たとえば現在の私たちの社会では、彼女のような人がのびのびと暮らせて、その才能を開花できるようになっているのでしょうか?疑問に思い始めると、ちょっと不安になりませんか?私たちの社会の同調圧力も相当なものです。それに日本には、女性は男性の一歩後ろを歩いているぐらいがちょうど良い、と思っているおじさんたちが、まだまだ大勢います。このところ、そういうことを考えさせられることが多いので、ますますエリザベトに惹かれてしまいます。こんな風に、映画の人物について私たちが思いをはせるというのは、映画表現ならではの成果であると言えるでしょう。そしてこれがドキュメンタリー映画でない限り、ここでの話が実際にあったことなのかは、どうでも良いことだと私は思います。
さて、現代の巨匠をモデルにした映画ですから、美術に関する映画としてどうなのか、ということにも触れないわけにはいきません。
上記のホームページでは、リヒター自身がこの映画を気に入っていないことが書かれています。人物描写が大仰で、事実を物語に沿わせるために、無理に解釈している点があるからでしょう。私は先ほども書いたように、リヒターの伝記と映画の物語との食い違いをいちいちあげつらうことには興味がありません。しかし美術に関することで私が気になったことだけは、すこし書いておきましょう。
まず、映画の中で東ドイツ時代のクルトのことが描かれています。その当時の東側の画家がどのような環境にいたのか、私にはわかりませんが、実際のリヒターは1959年に中央ドイツの都市カッセルで開催された国際美術展「ドクメンタⅡ」を見に行っています。そこで西側の美術作品を見た上で西ドイツに移住していますので、映画のクルトのように体制的な絵画を描くことに漠然と不満を抱えていたというだけではないようです。かなり確信的なわだかまりがあったのでしょう。
そして、映画の中でクルトが西ドイツに移住したのがいつの年代だったのか憶えていませんが、リヒターが実際に移住したのは1961年です。彼がデュッセルドルフの美術学校を見学に来たときに、学校内の話し声の中で「ヒトラーの敬礼を真似するなんて」といった言葉が聞こえてきます。はっきりとそのセリフを記憶しているのではありませんが、前回のblogで取り上げたアンゼルム・キーファー(Anselm Kiefer、1945 - )の初期の写真作品を彷彿とさせるうわさ話であったことは間違いありません。そう思わせるための演出だったのです。しかし現実のキーファーがそれらの作品で世に出たのが、1960年代末のことです。キーファーはリヒターよりも10歳以上年下ですし、キーファーも法律を勉強したのちに美術に転じたので、早熟の天才というわけではありません。彼もリヒターと同様に、デュッセルドルフ芸術アカデミーのヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys、1921 - 1986)のもとで勉強したのです。だからリヒターが移住した頃に、すでに敬礼のパフォーマンスがうわさになることはありえないでしょう。
ちなみにキーファーはのちにボイスと袂を分かって活動しましたが、そのせいでしょうか、同じ師のもとで学んだリヒターは、キーファーについてかなり辛辣な感想を述べています。
キーファー展。あれらのいわゆる絵画。もちろんあれは絵画などではない。絵画としての本質が欠けているので、作品はまずは陰惨でショッキングな魅力をもつのかもしれないが、遅くともそのあとには、本質のかわりにあれらの「絵画」がなにをもっているのかは、自ずと明らかになるだろうー無形式、不定形のゴミ、固まった粥のような塊、吐き気のするような汚れ、イリュージョ二スティックには一種の自然主義なのだが、それもデザイン効果を上げるだけで、最上の場合ですら演劇の効果的な描き割り程度のクオリティしかもっていない。作品全体としては情熱と疑いなき自信をもって提示されているらしい。なぜなら、作品の内容が文学的な動機をもっているからだ。一塊のゴミが意味するのは、歴史から乱暴にもぎとられてきたこのことがら、あちらのゴミはあのことがらを意味することになっている。明解な定義がないかぎり、作品上のすべては連想の役にたつという状況を利用しているのだ・・・自分もまったく同じようにひどい絵を描いていないかと不安になるだけだ。
(『写真論/絵画論』「ノート 85年3月25日」リヒター著 清水穣訳)
これは痛快で面白い批評です。この本を読んだのがずいぶん前のことなので、内容をすっかり忘れていました。前回のキーファーのことを書くときに、この文章を思い出していたら絶対に引用していたと思います。そしてキーファーの作品に危うい文学性と演劇的効果を感じていたことが、私の感想と一致していたので、ああ、やっぱり誰もがキーファーに対してこう感じるのだな、と納得しました。
それから、映画の中でクルトの友人が何度も「絵画は終わったんだ」と言って、クルトに対して絵画に執着することをやめた方が良い、とアドヴァイスをします。確かに、その時代にはそういう美術批評が蔓延していたと思います。
ところがリヒターの実際の友人のジグマー・ポルケ(Sigmar Polke, 1941 - 2010)という画家は、模様のある布の上に絵を描くという作品を制作しています。
https://images.app.goo.gl/erMeWjaouwTiWthVA
同じく、リヒターの友人のブリンキー・パレルモ(Blinky Palerm、1943-1977)は、次のような抽象絵画的な作品を制作しています。
https://artbook-eureka.com/?pid=89744938
また、やはりボイスに学んだ同時代のイミ・クネーベル(Imi Knoebel、1940 - )の、絵画の発展形のような作品もご覧ください。
https://www.museum.toyota.aichi.jp/collection/imi-knoebel
私はボイスの教室で学んだ彼らが、どうして絵画、もしくは絵画的な表現へと向かっていったのかが知りたくて、1993年の年の暮れに栃木県立美術館で開催された『冬のメルヘン』という展覧会をわざわざ見にいきました。ここで名前を挙げた作家たち、すなわちボイス、キーファー、パレルモ、クネーベル、そしてリヒターらドイツの現代美術の作品が集められていて、数は少ないもののリヒターについては写真絵画から抽象絵画まで揃っていました。1990年代の前半はまだ彼らに関する情報が少なくて、その展覧会はとても貴重な機会だったと思います。日本人の指向性はどうしても一つのところに偏りがちで、ニューヨーク、パリ以外で起こっている美術活動はほとんで見えていなかったのがその時の状況でした。ミニマル・アートの次はニュー・ペインティングだ、というような短絡的な流行とは別の次元で作品を制作していた彼らのような存在が、実に興味深かったのです。
ちょっと話が映画から離れてしまいました。映画の中で、明らかにボイスがモデルだと思われる教授が出てきます。ボイスにしては、ずいぶんと人の良さそうな先生です。彼は実際のボイスと同様に、第二次世界対戦時に空軍の飛行機に乗ったところを撃墜され、墜落後に遊牧民に助けられたのだ、とクルトに話します。そのときに体温が下がらないように脂肪(ラード)を塗られて、フェルトにくるまれたという話です。だから彼の作品にはラードとフェルトが大きな意味を持っているというのです。その教授にとっては脂肪とフェルトが真実のようなものだが、それではクルトにとって真実とは何か、と教授は問いかけます。クルトは悩んだ末に、写真を絵画にすることを思いついたのです。
なお、ボイスに関する基本情報はこちらの『美術手帖』のホームページをご覧ください。適度にあっさりと紹介していますので、読みやすいと思います。
https://bijutsutecho.com/artists/693
さらに興味がある方は、次の記録映画のホームページをご覧ください。その映画の予告編を見ると、ボイスの活動の雰囲気がわかります。映画のような整然とした状況ではなかったようですし、美術家として、活動家として、複雑なボイスの一面が感受できます。
https://www.uplink.co.jp/beuys/
若い方だと、へーっ、こんな人がいたの?と思われるかもしれませんね。当時は(今も?)ボイスは現代美術の最重要人物でした。
さて、私は映画というメディアが、人間のドラマを語るに際して最適な表現手段だろう、と思っています。この映画の中での美術学校の様子、クルトの作品制作の描写などは、映画というメディアの特性の中で、現代美術をどのように語れば観客に理解してもらえるのか、ということをよく考えた上での演出だと思います。映画の中での教授とクルトの人間性のぶつかり合いはとても暖かく、善意に満ちたものです。しかし、この映画に注文をつけるつもりはないのですが、実際にはこんなにわかりやすいものではなかっただろうと思います。
また、映画の中のデュッセルドルフの美術学校の雰囲気も、新しい美術作品のためのアイデア合戦、思いつきの競い合いのような様相を呈していましが、先ほど見たようにリヒターの周囲には極めて知的で落ち着いた中で絵画表現を思考する状況があったに違いないと思っています。しかし、そんな教室の雰囲気を映画で描いたところで、たいして面白くはないでしょう。
ここで実際に、リヒターは何を考えて美術表現にアプローチしていたのか、先程の彼のノートから見てみたいと思います。
なにを描くべきか、いかに描くべきか?この「なに」がもっとも難しい。それが本来のことだからだ。「いかに」は比較的やさしい。「いかに」から始めるというのは軽薄だが、正当である。「いかに」を応用すること、つまり技術と、素材の条件を、自然の条件のように応用すること、つまり創作意図にあわせて利用すること。意図ーなにもつくらない、アイディアなし、コンポジションなし、対象なし、形式なし、・・・それでいて、すべてを維持するーコンポジションも、対象も、形式も、アイディアも、映像も。すでに青年時代、私はある種の素朴さから「テーマ」(風景や自画像)をもっていたけれども、いかなる主題ももたないというこの問題をすぐに感じとった。もちろんモティーフを選んで、それを描写していたが、それはほんとうのモティーフではなく、たいていは月並みで人工的なにせものだと感じていた。なにを描くべきかと問うと、自分の無力がいやというほどわかって、しばしば私は凡庸なアーティストたちがもっている「関心ごと」を羨んだ(今でも羨ましい)。その関心ごとを、彼らは辛抱強く凡庸に描写するのである(だから基本的には私は彼らを軽蔑しているのだが)。
1962年、最初の解決策をみつけた。写真を描きうつすことによって、主題選びや主題の構成から解放された。たしかに写真を選ばなければならなかったが、主題へのかたよりを避けるように選ぶことができた。つまり、あまり主題のない、反時代的なモティーフの写真を選んだのだ。こうして、写真をとりあげ、いささかの変更もなく、現代的なフォルムへの翻訳(たとえばウォーホルがしたような)もしないで描きうつすこと、それはすでに主題の回避であった。この原則を私は今日まで少しの例外(ドア、窓、影などー全部嫌いだ)を除いて、維持してきた。グレイ・ペインティング、色パネル、塗りつぶしの作品、小さなアブストラクト・ペインティング(計画された恣意性に完全に満たされ、どれもなにも伝達しない作品となった)、「ソフトな」アブストラクト・ペインティング、これは小さなアブストラクト・ペインティングから非主題性をうけつぎ、ぼかしと拡大を通じて非表示性を表現した作品の一つであった。大きなアブストラクト・ペインティングでもそうである。そしてそれと矛盾しつつも、つねに意図というか、希望があった。主題をいわば授けられたいという希望、私が創作したのではなく、だからこそ、より普遍的で優れていて、消費されにくく、広く一般に通用するはずの主題を。もちろん、これは真実とはいえないが。なぜなら、たえず私は構成し、なによりもまず拭き消し、避け、限られた主題や技法に力を集中する、つまり完全に意図的に行動するのだから。
(『写真論/絵画論』「ノート 86年10月12日」リヒター著 清水穣訳)
これを読んでいて、面倒くさい人だなあ、とつい思ってしまいます。リヒターにとって、絵の主題は恣意的なものであってはならず、したがって個人的な関心事に過ぎないことを辛抱強く表現してしまう画家は、軽蔑の対象にしかならないのです。
それにしても、リヒターはいったい、何を言っているのでしょうか、そして何にこだわっているのでしょうか。
私には少しだけ、リヒターの言わんとしていることがわかる気がします。
モダニズムという時代の考え方を突き詰めれば、狭雑物つまり不純なものをすべて洗い流して、本物の普遍性へといかに到達するのか、ということの追求の時代だったと言えます。そうすることによって、たとえば近代科学はシンプルで再現性の高い真実へと近づき、それがより速く、より正確に、という私たちの近代生活のニーズを満たすことになったのです。
芸術はより先進的な道を進みますから、表現における個人の恣意性などというものは、普遍的な真実への妨げになるので、まっさきに排除すべきものなのです。そういう不純物を取り除いた先には、ミニマル・アートの純粋でシンプルな色面による絵画があったのです。しかしそのような色面絵画は、絵画としての表現性もミニマルにしてしまうので、もう絵画としてやるべきことなどないように思われます。そこで「絵画は終わった」ということになるのです。
しかし、ミニマル・アートはモダニズム絵画の一つの筋道に過ぎないと考えるなら、それ以外にもさまざまな方法論があるはずです。表現の恣意性をゼロにしながらも表現するべき必然性を持った創作ができれば、アメリカ美術が主導したミニマル・アートという現代絵画の帰結に対して、一つの風穴をうがつことになります。
そこでリヒターは、芸術的な恣意性のまったくない、家族の記念写真や犯罪者の報道写真などを取り上げて、絵画として描いたのです。絵画のモティーフとなった写真にはそれほど意味はありませんし、その写真を選んだという作家の恣意性も、できるだけないように偏りのない写真を選んだというのです。
リヒターの抽象絵画においても、同じことが言えます。アメリカの抽象表現主義の画家たちが、競うように自分の感覚を研ぎ澄ませた絵画を描いたのに比べて、リヒターの抽象絵画は偏りなく色を並べ、作家としての個性を掻き消すように大きな板で画面全体を撫で下ろしてしまいます。それでもなおかつ、制作の意図を持っている以上、自分の作品は普遍的な真実ではない、とリヒターは言っているのです。彼のモダニズム絵画と向き合う姿勢は徹底しています。
そのリヒターの抽象絵画について、美術批評家の藤枝晃雄(1936 -2018)は次のように批判しています。
リヒターとかサイ・トゥオンブリーとかブライス・マーデンも、あれは絵画というものを作家も評論家も見る方もそうだけど、描くことを細分化してきたものですよ、この三十年間。リヒターはただ明るい、一見強力に思われる色を現代美術の認識論的な教科書として塗ってるだけでしょ。文法というのがすでにありすぎるわけね。
(『武蔵野美術 NO.110 特集「現代絵画」p60 藤枝晃雄の発言)
このように「文法というのがすでにありすぎるわけね」とあっさりと言われてしまっては、ちょっとリヒターが気の毒のような気もしますが、その通りなのです。むしろリヒターは文法だけで絵を描こうとした、と言っても良いのかもしれません。そのことが私から見ても、リヒターの絵画を物足りないものにしているのです。
これはお互いに寄って立つ場所が異なるので、仕方のない話なのかもしれません。
たとえばリヒターが批判したキーファーと、当のリヒターを比べてみましょう。リヒターは作家の恣意性を排し、文法的な方法論で絵を描こうとしました。一方のキーファーは方法論にはほとんど無頓着で、自分の表現したいことを文学的、あるいは演劇的と言って良い方法で表現しました。私は前回も書いたように、キーファーの絵画に対して批判的な意見を持っているのですが、その一方でどんなに時間をかけて眺めても、一向に芸術作品を鑑賞した気にならないリヒターの絵画にも困惑してしまいます。
リヒター自身がノートに書き留めていたように、現代は「なにを描くべきか」という問いに応えることがとても難しい時代です。しかし、私はそれをあきらめるべきではないと思います。仮に「いかに描くべきか」という問いから先に取り組んだとしても、やはり「なにを描くべきか」という問いを最後まで忘れてはいけません。
世界的な巨匠の作品に対してこのようなことを書くのは恐れ多いのですが、リヒターの作品は「いかに描くべきか」という点に対しては、とてもシンプルでわかりやすい答えを用意してくれています。その作品は、誰もが真似して描きたくなるほどの魅力があるのです。しかし「なにを描くべきか」という問いに関しては、リヒターの作品はほとんどなにも答えてくれません。もしもあなたがリヒターの作品に一抹の物足りなさを感じているのならば、「なにを描くべきか」という問いの答えを、自分で探さなくてはならないでしょう。
最後に映画の話に戻ると、リヒターがこのように語った彼の写真作品について、映画の中では一つ一つの作品に、「なにを描いたのか」という意味を与えていきます。冒頭に書いたように、彼の義父に対する告発が発想の源であったり、あるいは妻が妊娠をした美しい姿を描きとめておきたい、という夫の愛情であったり、などというふうに謎解きをしていくのです。その後の映画の中での記者会見で、クルトが作品の主題についてわざと素っ気ない答えをしたとしても、映画を見ていた私たちはその絵画の秘密を知っているというわけです。これは映画としてはうまい演出ですが、リヒターの絵画への理解の浅さが透けて見えるという点では、映画の価値を落としてしまっているのかもしれません。絵画というものが人間ドラマを読み解くように理解できる、というありがちな解釈が、私を落胆させるのです。たとえばゴッホ(Vincent van Gogh、1853 - 1890)の芸術の素晴らしさが、彼の激しい人生を知ることで理解できるというような、そんな思い込みと同様のものを感じてしまいます。
さて、いろんなことを書いてきましたが、この映画によってナチスの時代から東西の分裂の時代、そして壁の崩壊以降、というふうに、ドイツの人たちの生活、とくにその内面的な日常生活が激変したということを、あらためて知ることができたのも事実です。この映画は、その時代の変遷とリヒターという巨匠の伝記とを重ね合わせることで、映画興行としての話題性を獲得して成功したのだと思いますが、できればドイツの人たちの内面的な変化に焦点をあてただけの作品も撮ってほしいものです。
ナチズムに対する平凡な人たちの内面的な葛藤ということで言えば、舞台はドイツではないけれど『ブリキの太鼓』(1979)という傑作映画がありました。
https://youtu.be/AHwvuf5LL_w
これも昔見たきりなので、内容をほとんど憶えていませんが、ファシズムという厳しい現実に直面した時の人の心を表現するのには、これぐらいのファンタジーが必要なのだな、と思ったことを覚えています。ちなみに原作はドイツの文学者でノーベル文学賞も受賞したギュンター・グラス(Günter Grass, 1927 - 2015)です。グラスは晩年になってから、若い頃にナチ党の武装親衛隊に入隊していたことを明らかにして大きな波紋を呼びました。日本の新聞でも取り上げられていましたので、私のような事情に疎い者でもそのニュースを知っているのですが、人間の内面的な複雑さ、時代の変遷の過酷さについて、あらためて考えさせられる告白でした。
そしてこの映画ですが、カンヌ国際映画祭でフランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola, 1939 - )監督の『地獄の黙示録』と最高賞パルムドールを分け合ったことでも話題になりました。当時の評判は『ブリキの太鼓』の方が圧倒的に高かったことを思い出します。いま思うと、コッポラだってがんばっていたのに、『ゴッドファーザー』の成功で巨匠となってしまったことの反動という面もあって、彼には厳しい評価でした。黒澤明や大島渚などの日本の名監督たちは、『地獄の黙示録』高く評価していましたが、彼らは冷静だったと思います。
そして『ブリキの太鼓』のことですが、この映画を思うと、絵画においてもこういうファンタジーやユーモアを許すだけの余裕が、今こそ必要なのかもしれない、と思います。もちろんそれは、下手なイラストまがいの絵画を許容することではなくて、もっと表現の質にかかわるような、ウィットに富んだ遊びや冒険のようなものです。
この絵画は文学的だからガラクタだ、とか、方法論だけが立派で見る価値がない、というような批評を読むのも時にはためになりますが、それらの批判を受け止めながらも、その作品の魅力的なところをひき出すような、そんな批評が必要なのではないでしょうか。私も、もう少し力を蓄えて、リヒターやキーファーについて、いつかもう一度語り直したいものです。
最近の「ART」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事