1929(昭和4)年 26歳
1/9「時々特高におびやかされている」
15日、葉山嘉樹宛書簡「「郷利樹」というのは私の時々使うペンネームです。私はご存じかどうか知りませんが、『戦旗』11/12月号に「一九二八・三・一五」を発表したことがある者です。」
原稿帳に「馬鹿野郎!!」〈1・24〉
「推奨する新人」(アンケート 『創作月刊』29年1月号)
1月5日発行『海上生活者新聞』第創刊号に、「海員は何を読まなければならないか」で、葉山嘉樹「海に生きる人々」を推薦。葉山より礼状が届き、文通が始まる。
「略歴と作品その他」(『読売新聞』1月5日号)
2月10日、日本プロレタリア作家同盟が創立(藤森成吉委員長)され、中央委員にえらばれる。伊藤信二らと小樽支部準備会をつくる。
2月14日発行『海上生活者新聞』第2号に、「『殺され(・・・)』たく(・・)ない(・・)船員(・・)へ(・)」 。
3/5 山本宣治刺殺される。
3/10 斉藤次郎宛書簡「『東京朝日』の文芸時評で、平林初氏「柳氏の工芸美論」というのがある。・・・在来の二科、春陽、帝展の絵画の、美学的生命に、致命傷を与えるものかもしれない」
3月22日発行『海上生活者新聞』第3号に、『寄(ヽ)らば(ヽヽ)切る(ヽヽ)ぞ(ヽ)!』。
前年10月28日に起稿した「蟹工船」が3月30日完成。
3/31蔵原惟人宛書簡 「蟹工船」の執筆意図について。
「形式主義文学理論を如何に観るか」(アンケート〈4・8〉『文芸レビュー』5月号)
4月16日、「4・16事件」。小樽で約40名が検挙される。この影響で、多喜二も20日、小樽警察に拘引・家宅捜査された。
4月 島崎藤村「夜明け前」
5月14日、2年ぶりに田口タキと再会。
5/16 タキへ書簡「僕のしている仕事、しようとすること、そういうことに対してどういう考えをもっているか知らせて貰いたいと思う。」
「蟹工船」が『戦旗』5、6月号に発表される。
5/23 蔵原への書簡。杉本良吉が「蟹工船」の脚本を望まれているという話ですが、もちろん喜んで、承諾申し上げます。」
『朝日新聞』(5/7) 平林初之輔「日本のシンクレーア」、『新潮』(6月号)文芸時評「「蟹工船」他」加藤武雄/「「蟹工船」―後半読後直後」小宮山明敏、『新潮』(7月号) 勝本清一郎「「蟹工船」その他」と大きな反響。
徳永直「太陽のない街」(『戦旗』6月号)
6月評論「プロレタリア文学の『大衆性』と『大衆化』について」 (〈6・2〉『中央公論』7月号 )
小説「『カムサッカ』から帰った漁夫の手紙」 (〈6・8〉『改造』7月号)
評論「こう変っているのだ。」(〈6・9〉『北方文芸』6月発行第7号)
7/1 広津和郎宛書簡「わざわざ御鄭重な御手紙を下され、有難く思います。」
7/6 「不在地主」起稿。
7月26~31日、帝国劇場で「蟹工船」を改題した「北緯五十度以北」(高田保、北村小松増補脚色土方与志演出5幕12場)が新築地劇団の手で帝国劇場上演。その劇場パンフレット『帝劇』7月号に「原作者の寸言」〈7・14〉。
宮本顕治「『敗北』の文学」小林秀雄「様々なる意匠」(『改造』8月号)
8月23日、全小樽労働組合創立、準備活動に参加し、内部の協調的見解とたたかい「組合綱領」を起草。
9月10日、調査係から出納係へ左遷された。
このころ、蔵原惟人日本共産党に入党。
「断片を云う」(感想『文学時代』10月号)
評論「プロレタリア文学の大衆化とプロレタリア・レアリズムに就いて」(〈9・28〉『プロレタリア芸術教程』第2輯)
9月25日、「一九二八年三月十五日」を収めた処女作品集『蟹工船』戦旗社版が刊行されるものの、即日「安寧禁止処分」に付され、発売禁止になる。
7月6日に起稿した「不在地主」が9月29日完成(『中央公論』11月号に発表)。
10月、幾春別炭鉱を見学。
10月24日 ニューヨーク株式市場大暴落、世界恐慌始まる
「頭の蠅を払う」評論(〈10・11〉 『読売新聞』10月20日号)
「来年は何をするか」 アンケート〈11・1〉
小説「暴風警戒報」(10月30日脱稿11月3日加筆完成)『新潮』30年2月号を書く。
同月16日、「不在地主」が直接の理由で拓殖銀行を解雇された。
「不在作家」感想(〈11・6〉『文芸春秋』12月号)
『蟹工船』改訂版〈定本日本プロレタリア作家叢書〉(戦旗社 昭和4年11月8日 装幀 浅野方夫)が発売された。「後記」に「「三月一五日」そのものが、現在の検閲制度治下では発売頒布を禁ぜられるものとなっている。」とある。昭和5年2月15日安寧禁止処分に付された。
10月20日発行の『勤労界』創刊号に、「前頁の文を読みて」(北方勤労社 全集未収録)
10月 雨宮庸蔵宛書簡「削除部分の発表のことは、如何でしょうか。蔵原氏は「戦
旗」12月号に出すよう話してみるとのことです。」
『中央公論』で削除された不在地主の12~15章を「戦い」と題し、(『戦旗』12月号で発表。
「来年は何をするか」(〈11・1〉『文学時代』12月号)
「『蟹工船』と『不在地主』」『新潮』12月号
「小林多喜二君の昨今」12/3付『小樽新聞』
「『蟹工船』支那訳の序文」〈12・7〉 30年4月潘念之訳本
小説「救援ニュースNo.18.附録」 (〈12・7〉『戦旗』30年2月号 松山文雄の挿絵4枚、「誰かに宛てた記録」の改作)
12月20日発行『松竹座パンフレット』第1集に、評論「無鉄砲過ぎる期待だろうか?」
「私の顔」(『新文芸日記』30年版)
「岩藤雪夫」(『改造』1月号)
「葉山嘉樹」(『新潮』1月号)
12/18「工場細胞」執筆着手。舞台となった北海製缶は、当時北洋漁業を独占していた三菱系の日魯漁業の子会社で800人の従業員を持つ当時最も近代的工場だった。工場の取材には、長年この工場で働き、全小樽労働組合の書記をしていたナップ小樽支部の詩人、伊藤信二が協力した。多喜二は工場の実地調査、生産工程なども詳しくしらべ、原稿帳に調査記録をまとめた。
評論「北海道の『俊寛』」(〈12・21〉『大阪朝日新聞』30年1月9日号)
年末、札幌松竹座が新築開場したときの「松竹座パンフレット」第一集に「我等の観点から1930年以後の松竹映画に望む事」のアンケートに答え、当時の日本映画が人気小説の映画化に夢中になっている状況を批判、「『不壊の白珠』の代りにゴールキーの『母』であったらどうだろう。『斬人斬馬剣』の代りに『戦闘艦ポチョムキン』ならどうだろう」と書いて、さらに「何も外国に例をとらなくても」と葉山嘉樹の『海に生くる人々』と並べて『蟹工船』『不在地主』の名前を挙げている。『斬人斬馬剣』は多喜二が期待する伊藤大輔監督が時代劇の形を借りて反権力のテーマを試みた力作だ。
1/9「時々特高におびやかされている」
15日、葉山嘉樹宛書簡「「郷利樹」というのは私の時々使うペンネームです。私はご存じかどうか知りませんが、『戦旗』11/12月号に「一九二八・三・一五」を発表したことがある者です。」
原稿帳に「馬鹿野郎!!」〈1・24〉
「推奨する新人」(アンケート 『創作月刊』29年1月号)
1月5日発行『海上生活者新聞』第創刊号に、「海員は何を読まなければならないか」で、葉山嘉樹「海に生きる人々」を推薦。葉山より礼状が届き、文通が始まる。
「略歴と作品その他」(『読売新聞』1月5日号)
2月10日、日本プロレタリア作家同盟が創立(藤森成吉委員長)され、中央委員にえらばれる。伊藤信二らと小樽支部準備会をつくる。
2月14日発行『海上生活者新聞』第2号に、「『殺され(・・・)』たく(・・)ない(・・)船員(・・)へ(・)」 。
3/5 山本宣治刺殺される。
3/10 斉藤次郎宛書簡「『東京朝日』の文芸時評で、平林初氏「柳氏の工芸美論」というのがある。・・・在来の二科、春陽、帝展の絵画の、美学的生命に、致命傷を与えるものかもしれない」
3月22日発行『海上生活者新聞』第3号に、『寄(ヽ)らば(ヽヽ)切る(ヽヽ)ぞ(ヽ)!』。
前年10月28日に起稿した「蟹工船」が3月30日完成。
3/31蔵原惟人宛書簡 「蟹工船」の執筆意図について。
「形式主義文学理論を如何に観るか」(アンケート〈4・8〉『文芸レビュー』5月号)
4月16日、「4・16事件」。小樽で約40名が検挙される。この影響で、多喜二も20日、小樽警察に拘引・家宅捜査された。
4月 島崎藤村「夜明け前」
5月14日、2年ぶりに田口タキと再会。
5/16 タキへ書簡「僕のしている仕事、しようとすること、そういうことに対してどういう考えをもっているか知らせて貰いたいと思う。」
「蟹工船」が『戦旗』5、6月号に発表される。
5/23 蔵原への書簡。杉本良吉が「蟹工船」の脚本を望まれているという話ですが、もちろん喜んで、承諾申し上げます。」
『朝日新聞』(5/7) 平林初之輔「日本のシンクレーア」、『新潮』(6月号)文芸時評「「蟹工船」他」加藤武雄/「「蟹工船」―後半読後直後」小宮山明敏、『新潮』(7月号) 勝本清一郎「「蟹工船」その他」と大きな反響。
徳永直「太陽のない街」(『戦旗』6月号)
6月評論「プロレタリア文学の『大衆性』と『大衆化』について」 (〈6・2〉『中央公論』7月号 )
小説「『カムサッカ』から帰った漁夫の手紙」 (〈6・8〉『改造』7月号)
評論「こう変っているのだ。」(〈6・9〉『北方文芸』6月発行第7号)
7/1 広津和郎宛書簡「わざわざ御鄭重な御手紙を下され、有難く思います。」
7/6 「不在地主」起稿。
7月26~31日、帝国劇場で「蟹工船」を改題した「北緯五十度以北」(高田保、北村小松増補脚色土方与志演出5幕12場)が新築地劇団の手で帝国劇場上演。その劇場パンフレット『帝劇』7月号に「原作者の寸言」〈7・14〉。
宮本顕治「『敗北』の文学」小林秀雄「様々なる意匠」(『改造』8月号)
8月23日、全小樽労働組合創立、準備活動に参加し、内部の協調的見解とたたかい「組合綱領」を起草。
9月10日、調査係から出納係へ左遷された。
このころ、蔵原惟人日本共産党に入党。
「断片を云う」(感想『文学時代』10月号)
評論「プロレタリア文学の大衆化とプロレタリア・レアリズムに就いて」(〈9・28〉『プロレタリア芸術教程』第2輯)
9月25日、「一九二八年三月十五日」を収めた処女作品集『蟹工船』戦旗社版が刊行されるものの、即日「安寧禁止処分」に付され、発売禁止になる。
7月6日に起稿した「不在地主」が9月29日完成(『中央公論』11月号に発表)。
10月、幾春別炭鉱を見学。
10月24日 ニューヨーク株式市場大暴落、世界恐慌始まる
「頭の蠅を払う」評論(〈10・11〉 『読売新聞』10月20日号)
「来年は何をするか」 アンケート〈11・1〉
小説「暴風警戒報」(10月30日脱稿11月3日加筆完成)『新潮』30年2月号を書く。
同月16日、「不在地主」が直接の理由で拓殖銀行を解雇された。
「不在作家」感想(〈11・6〉『文芸春秋』12月号)
『蟹工船』改訂版〈定本日本プロレタリア作家叢書〉(戦旗社 昭和4年11月8日 装幀 浅野方夫)が発売された。「後記」に「「三月一五日」そのものが、現在の検閲制度治下では発売頒布を禁ぜられるものとなっている。」とある。昭和5年2月15日安寧禁止処分に付された。
10月20日発行の『勤労界』創刊号に、「前頁の文を読みて」(北方勤労社 全集未収録)
10月 雨宮庸蔵宛書簡「削除部分の発表のことは、如何でしょうか。蔵原氏は「戦
旗」12月号に出すよう話してみるとのことです。」
『中央公論』で削除された不在地主の12~15章を「戦い」と題し、(『戦旗』12月号で発表。
「来年は何をするか」(〈11・1〉『文学時代』12月号)
「『蟹工船』と『不在地主』」『新潮』12月号
「小林多喜二君の昨今」12/3付『小樽新聞』
「『蟹工船』支那訳の序文」〈12・7〉 30年4月潘念之訳本
小説「救援ニュースNo.18.附録」 (〈12・7〉『戦旗』30年2月号 松山文雄の挿絵4枚、「誰かに宛てた記録」の改作)
12月20日発行『松竹座パンフレット』第1集に、評論「無鉄砲過ぎる期待だろうか?」
「私の顔」(『新文芸日記』30年版)
「岩藤雪夫」(『改造』1月号)
「葉山嘉樹」(『新潮』1月号)
12/18「工場細胞」執筆着手。舞台となった北海製缶は、当時北洋漁業を独占していた三菱系の日魯漁業の子会社で800人の従業員を持つ当時最も近代的工場だった。工場の取材には、長年この工場で働き、全小樽労働組合の書記をしていたナップ小樽支部の詩人、伊藤信二が協力した。多喜二は工場の実地調査、生産工程なども詳しくしらべ、原稿帳に調査記録をまとめた。
評論「北海道の『俊寛』」(〈12・21〉『大阪朝日新聞』30年1月9日号)
年末、札幌松竹座が新築開場したときの「松竹座パンフレット」第一集に「我等の観点から1930年以後の松竹映画に望む事」のアンケートに答え、当時の日本映画が人気小説の映画化に夢中になっている状況を批判、「『不壊の白珠』の代りにゴールキーの『母』であったらどうだろう。『斬人斬馬剣』の代りに『戦闘艦ポチョムキン』ならどうだろう」と書いて、さらに「何も外国に例をとらなくても」と葉山嘉樹の『海に生くる人々』と並べて『蟹工船』『不在地主』の名前を挙げている。『斬人斬馬剣』は多喜二が期待する伊藤大輔監督が時代劇の形を借りて反権力のテーマを試みた力作だ。
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