「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

手塚英孝の「今村恒夫」像

2009-01-15 23:58:40 | 多喜二と同時代を生きた人々
手塚英孝の「父の上京」。この作の主人公が「恒夫」であることで、今村恒夫のことを思った。

今村恒夫は筑豊の出身のプロレタリア詩人であり、多喜二とともに特高にとらえられ、築地警察署での多喜二への拷問がいかに残虐なものだったかを証言した一人である。
 彼もまた拷問を受けた。直後に亡くなったわけではないが、それが主因となって1935年12月、郷里で永眠する。


                    ◇
今村の生まれた福岡県東北部はかつて筑豊炭田として知られていた。南西隅にうる嘉穂盆地に、飯塚炭鉱の巨大な「巻き上げ機台座」が残っている。坑内から石炭を搬出した設備だが、今日では赤錆びたそのレンガの建物を見てもそれが、炭鉱の遺物だと気がつく人も少ないだろう。
この炭鉱で朝鮮人や中国人が強制労働をさせられ、多くの犠牲者をだしたことも記録にも、記憶からも消えてしまっていることだろう。

中島鉱業は飯塚炭鉱を1924年に三菱鉱山に経営を移した。1929年に三菱鉱山は株式の全部を買い取って経営権を取得したものの、社名は「飯塚鉱山」として別経営で運営した。太平洋戦争に入ると政府からの命令出炭量は増加の一途となり、1944年には58万300トンに達したものの、1945年には33万2000㌧となってしまった。鉱夫が軍隊にとられ人員が不足したためで、その穴を朝鮮人約1600人を強制的に連行し働かせた。それでも足りず中国人労働者を移入することを計画し、華北労工協会に依頼し塘沽収容所から189人の中国人を受け取り、「日華寮」の監獄部屋で監視し、1日12時間、1日2交代で働かせたという。
 1944年10月に日本に着て(船中で一人が死亡)、翌年11に帰国するまでに19人が亡くなった。

今村恒夫はこういう風土から立ちあがっちたのである。
今村恒夫の文学碑には[俺たちの手を見てくれ給え、ごつごつで無細工で荒れて頽れて・・・」の『手』という詩の前6行が刻まれている。

ちなみに手塚英孝「黒い汗」は、まさに今村恒夫をモデルとしたものである。時代設定は異なるものだか。



                           


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1 コメント

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筑豊といえば (ねこぱんだ)
2009-01-16 22:51:31
麻生鉱業も筑豊で財をなしたというところですよね。その体質を受け継いで、「創氏改名」発言もあったのですね。
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