●鹿地 亘 (かじ・わたる1903~82)
プロレタリア作家・反戦運動家・評論家。
明治36年5月1日、大分県西国東郡香々地町の生まれ。
鹿児島の七高をへて東大国文科、東大大学院博士課程を昭和2年修了。
在学中、新人会に加入。
大正15年、「日本プロレタリア芸術連盟」に参加。マルクス主義芸術研究会を組織。
昭和2年、労働者農民党のオルグとなる。
昭和7年、日本共産党に入党。
昭和8年2月22日 特高に虐殺された小林多喜二の通夜に参加。
9年、治安維持法違反で検挙、昭和10年、転向により出所。
昭和11年、上海へ脱出。日中戦争勃発後、重慶で日本人民反戦同盟を結成。
昭和21年、帰国、新日本文学会に所属。
神奈川県藤沢で結核療養中の昭和26年11月、在日米軍諜報機関(キャノン機関)に拉致され、スパイ容疑で監禁されたが1年後に釈放
(=「鹿地事件」)。
(=「鹿地事件」)。
28年11月、米ソ二重スパイ容疑のため電波法違反で逮捕されたが、44年無罪確定。
昭和57年7月26日没。
〈著書〉『労働日記と靴』(改造社、昭5)『平和村記』(中央公論社、昭22)『脱出』(改造社、昭23)『自伝的な文学史』(三一書房、昭34)
『心の軌跡』全二巻(三一書房、昭35)『暗い航跡』(東邦出版、昭47)
『心の軌跡』全二巻(三一書房、昭35)『暗い航跡』(東邦出版、昭47)
鹿地 亘 (かじ・わたる1903~82)は、『改造』(1929年1月号)に 「最近のプロレタリア文学と新作家」と題して、「小林多喜二の小説『一九
二八年三月十五日』は極めて重大な意義をもっている。これはわが国プロレタリアートにとって最も近い問題―三月十五日のいわゆる共
産党事件を取り扱っている。これまでこの同じ事件を取り扱ったものには、左翼の若い作家の二、三の作品があったが、この事件を小さい
エピソードとしてではなしに、一つの大きい時代的なスケールの中に取り扱ったものは、この作が初めてである。この作には、北海道にお
ける共産党事件の検挙を中心として、闘士たちの種々なるタイプとその生活が描かれている。が、それがこれまでしばしばあったように概
念的ではなく、また英雄としてではなくして、その種々なる欠点と長所とをもった人間として描かれている、――この点においてもこの作は
この種の題材を取り扱った作品の一つの進展を示している」
二八年三月十五日』は極めて重大な意義をもっている。これはわが国プロレタリアートにとって最も近い問題―三月十五日のいわゆる共
産党事件を取り扱っている。これまでこの同じ事件を取り扱ったものには、左翼の若い作家の二、三の作品があったが、この事件を小さい
エピソードとしてではなしに、一つの大きい時代的なスケールの中に取り扱ったものは、この作が初めてである。この作には、北海道にお
ける共産党事件の検挙を中心として、闘士たちの種々なるタイプとその生活が描かれている。が、それがこれまでしばしばあったように概
念的ではなく、また英雄としてではなくして、その種々なる欠点と長所とをもった人間として描かれている、――この点においてもこの作は
この種の題材を取り扱った作品の一つの進展を示している」
と評し、多喜二が上京し、作家同盟でともに活動し、"親友"と称していた。
多喜二虐殺後、作家同盟の書記長となり、作家同盟解散までその責務を果たしたことで知られる。
その後、中国へわたり、抗日根拠地で捕虜となった者を再教育し、鹿地亘は1939年に日本人民反戦同盟を結成後、中国各地にその反戦
活動をひろげ、1940年に延安入りした野坂参三と結んで次第に日本再建のための活動と統合させていった。反戦同盟は、1944年1月、そ
の任務と活動の拡大に応じて名称を日本人民解放同盟とあらためた。
活動をひろげ、1940年に延安入りした野坂参三と結んで次第に日本再建のための活動と統合させていった。反戦同盟は、1944年1月、そ
の任務と活動の拡大に応じて名称を日本人民解放同盟とあらためた。
小林多喜二没後10周年前に、中国で発表された 鹿地亘の「死の日の記録-金沙社小林多喜二記念号に寄せる-」は、1942年2月に
執筆されたもので、副題から中国・金沙社刊行物の小林多喜二記念号に寄せたものとされる。
執筆されたもので、副題から中国・金沙社刊行物の小林多喜二記念号に寄せたものとされる。
鹿地亘は、『改造』(1929年1月号)に 「最近のプロレタリア文学と新作家」と題して、
「小林多喜二の小説『一九二八年三月十五日』は極めて重大な意義をもっている。これはわが国プロレタリアートにとって最も近い問題
―三月十五日のいわゆる共産党事件を取り扱っている。これまでこの同じ事件を取り扱ったものには、左翼の若い作家の二、三の作品
があったが、この事件を小さいエピソードとしてではなしに、一つの大きい時代的なスケールの中に取り扱ったものは、この作が初めてで
ある。この作には、北海道における共産党事件の検挙を中心として、闘士たちの種々なるタイプとその生活が描かれている。が、それがこ
れまでしばしばあったように概念的ではなく、また英雄としてではなくして、その種々なる欠点と長所とをもった人間として描かれている、―
―この点においてもこの作はこの種の題材を取り扱った作品の一つの進展を示している」
―三月十五日のいわゆる共産党事件を取り扱っている。これまでこの同じ事件を取り扱ったものには、左翼の若い作家の二、三の作品
があったが、この事件を小さいエピソードとしてではなしに、一つの大きい時代的なスケールの中に取り扱ったものは、この作が初めてで
ある。この作には、北海道における共産党事件の検挙を中心として、闘士たちの種々なるタイプとその生活が描かれている。が、それがこ
れまでしばしばあったように概念的ではなく、また英雄としてではなくして、その種々なる欠点と長所とをもった人間として描かれている、―
―この点においてもこの作はこの種の題材を取り扱った作品の一つの進展を示している」
と評し、多喜二が上京し、作家同盟でともに活動し、"親友"を称していた。
多喜二虐殺後、作家同盟の書記長となり、作家同盟解散までその責務を果たしたことで知られる。
その後、中国へわたり、抗日根拠地で捕虜となった者を再教育し、鹿地亘は1939年に日本人民反戦同盟を結成後、中国各地にその反戦
活動をひろげ、1940年に延安入りした野坂参三と結んで次第に日本再建のための活動と統合させていった。反戦同盟は、1944年1月、そ
の任務と活動の拡大に応じて名称を日本人民解放同盟とあらためた。
活動をひろげ、1940年に延安入りした野坂参三と結んで次第に日本再建のための活動と統合させていった。反戦同盟は、1944年1月、そ
の任務と活動の拡大に応じて名称を日本人民解放同盟とあらためた。
「死の日の記録-金沙社小林多喜二記念号に寄せる-」(所有者瀬口允子 立命館大学 国際平和ミュージアムに寄託)は、1942年2月
に執筆されたもので、副題から金沙社(平和ミュージアムの資料リストでの全沙社は誤記)刊行物の小林多喜二記念号に寄せたものとさ
れるが、印刷物の存在は確認できていない。
に執筆されたもので、副題から金沙社(平和ミュージアムの資料リストでの全沙社は誤記)刊行物の小林多喜二記念号に寄せたものとさ
れるが、印刷物の存在は確認できていない。
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