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『沼尻村』日本プロレタリア作家同盟叢書第二篇が、1932年8月30日に発売された。
この作品は、『改造』1932(昭和7)年4、5月号に連載されたものを一冊にまとめたもので、80ページほどの小説集。
初出は全編にわたって削除や伏せ字が多い。特に第4章。
装丁も、簡略なものでタイトルロゴが表紙に踊るだけのものだ。
著者は、この作を発表するとほぼ同時地下活動に追い込まれていた。
前年9月、中国・東北部で「満州事変」を引き起こし、この年の3月1日、傀儡国家 「満州国」を建国し、新たな侵略戦争拡大を狙っていた日本は、国内に対しては1932年春から文化運動に対して集中的な弾圧を加え、主要な活動家を投獄した(宮本百合子「一九二八年の春」はこの弾圧をクロッキーしている)。ロシアから秘密裏に帰国し、地下にもぐって文化分野の反戦運動を指導していた蔵原惟人は、スパイMの罠にはまり4月4日検挙された。
蔵原は、田中清玄指導部崩壊以後の、中央活動家の幹部の一人として過酷な取り調べと拷問を受けながらも果敢な闘争を続けた。
宮本顕治は、蔵原検挙後の文化分野の指導に多喜二をあたらせた。
この『沼尻村』は、貧しい装丁ではあるものの、そうした多喜二の闘いの姿勢を示すものとして刊行され、読まれたものだった。
当時、作家同盟の出版部長だった猪野省三の証言によると、
この著書の出版については、人を介して地下活動にあった多喜二と相談し、多喜二の了承を受けてのもので、多喜二が加筆、削除を加えたものだという。
この版は、『改造』発表時の伏せ字・削除を大幅に復元し、4章以下の数か所をわずかに伏せ字にしたものだったが、発行直後に販売を禁止された。その後、さらに「改訂版」が刊行された。
同作は、満州事変からまもない、北海道〈沼尻村〉を舞台に、不景気ゆえ、これまで街に出ていた若者たちも食い詰めて村へ戻ってくるようになり、若い娘たちは近くの郁秋別炭山へ日雇いに出かけるものが多くなった農村の人々を描写する。
主要登場人物は、小作農の息子で、東京で全協日本金属の仕事を経験した兼一郎。炭山の選炭場でこきつかわれ、身体を悪くしていた兼一郎の妹・ふみ。自作農の息子で農本主義のファシスト・要吉。
沼尻村・全農組合リーダーで中年の自作農山館。
山村という貧農の小作が、地主の吉田屋から土地を追い出され、その妻子が心中する事件から争議が起こったとき、山館は闘わずして折り合いをつけようとしたため、この事件に憤った小作人たちは山館から離れ、闘争的で若い河原田についた。結果として河原田たちは争議に勝つが、それ以後、全農は山館と河原田の二派に分裂してしまった。
兼一郎は河原田に近づき、村に「倶楽部」をつくり、農民たちが新聞を読んだり話し合ったりできる場を提供するなど、組織的な仕事を始めていった。
秋、米は凶作であったが、過酷な取り立ては行われることになった。しかも、貧農の頼みの綱であった炭山でも首切りが始まった。さらに、満州での戦争が始まったことで、貧しい家の唯一の働き手が召集されていった。それを受けて、組合では会合がもたれた。
兼一郎たちは、これをただの会合ではなく農民大会にし、未組織の農民とともに闘う地盤を作ろうと考えていた。小作人たちが窮乏を訴え、小作料の全免や借金棒引きを要求し、河原田が闘争案を持ち出したとき、山館が、戦争中に国民として騒ぎを起こすべきではない、政府から凶作救済の金や御下賜金まで出る、と発言する。そこで河原田は、これまでの救済金が一度も農民を救済できなかったこと、お上でやる土木事業の無謀さ、そして戦争が働き手を奪うばかりで、余計に生活を苦しくさせていることを話した。
しかし、その結果、警察が河原田を検束しただけではなく、要吉のグループからも殴り込まれ、会を壊されてしまう。警察は、要吉たちは検束しなかった。だが、早くもその晩に、兼一郎は、水原や宮本、そして要吉の妹・ヨシエと立ち上がり、ビラを刷る。ビラを組合の書記に届けてくれるのは、要吉の家に間借りしている女性教師、吉井タキであった。
ビラで闘争を続けていた兼一郎らは、その後、首切り後の炭山で、デモを計画する。労働者が農民を踏み台にする、という要吉の考えとは異なり、兼一郎は労働者と農民が手を結ぶべきだと考えていた。炭山に向かう兼一郎は、途中の分かれ道までヨシエと共に歩いた。二人の間には、信頼と恋が芽生えていた。
この作品は、『改造』1932(昭和7)年4、5月号に連載されたものを一冊にまとめたもので、80ページほどの小説集。
初出は全編にわたって削除や伏せ字が多い。特に第4章。
装丁も、簡略なものでタイトルロゴが表紙に踊るだけのものだ。
著者は、この作を発表するとほぼ同時地下活動に追い込まれていた。
前年9月、中国・東北部で「満州事変」を引き起こし、この年の3月1日、傀儡国家 「満州国」を建国し、新たな侵略戦争拡大を狙っていた日本は、国内に対しては1932年春から文化運動に対して集中的な弾圧を加え、主要な活動家を投獄した(宮本百合子「一九二八年の春」はこの弾圧をクロッキーしている)。ロシアから秘密裏に帰国し、地下にもぐって文化分野の反戦運動を指導していた蔵原惟人は、スパイMの罠にはまり4月4日検挙された。
蔵原は、田中清玄指導部崩壊以後の、中央活動家の幹部の一人として過酷な取り調べと拷問を受けながらも果敢な闘争を続けた。
宮本顕治は、蔵原検挙後の文化分野の指導に多喜二をあたらせた。
この『沼尻村』は、貧しい装丁ではあるものの、そうした多喜二の闘いの姿勢を示すものとして刊行され、読まれたものだった。
当時、作家同盟の出版部長だった猪野省三の証言によると、
この著書の出版については、人を介して地下活動にあった多喜二と相談し、多喜二の了承を受けてのもので、多喜二が加筆、削除を加えたものだという。
この版は、『改造』発表時の伏せ字・削除を大幅に復元し、4章以下の数か所をわずかに伏せ字にしたものだったが、発行直後に販売を禁止された。その後、さらに「改訂版」が刊行された。
同作は、満州事変からまもない、北海道〈沼尻村〉を舞台に、不景気ゆえ、これまで街に出ていた若者たちも食い詰めて村へ戻ってくるようになり、若い娘たちは近くの郁秋別炭山へ日雇いに出かけるものが多くなった農村の人々を描写する。
主要登場人物は、小作農の息子で、東京で全協日本金属の仕事を経験した兼一郎。炭山の選炭場でこきつかわれ、身体を悪くしていた兼一郎の妹・ふみ。自作農の息子で農本主義のファシスト・要吉。
沼尻村・全農組合リーダーで中年の自作農山館。
山村という貧農の小作が、地主の吉田屋から土地を追い出され、その妻子が心中する事件から争議が起こったとき、山館は闘わずして折り合いをつけようとしたため、この事件に憤った小作人たちは山館から離れ、闘争的で若い河原田についた。結果として河原田たちは争議に勝つが、それ以後、全農は山館と河原田の二派に分裂してしまった。
兼一郎は河原田に近づき、村に「倶楽部」をつくり、農民たちが新聞を読んだり話し合ったりできる場を提供するなど、組織的な仕事を始めていった。
秋、米は凶作であったが、過酷な取り立ては行われることになった。しかも、貧農の頼みの綱であった炭山でも首切りが始まった。さらに、満州での戦争が始まったことで、貧しい家の唯一の働き手が召集されていった。それを受けて、組合では会合がもたれた。
兼一郎たちは、これをただの会合ではなく農民大会にし、未組織の農民とともに闘う地盤を作ろうと考えていた。小作人たちが窮乏を訴え、小作料の全免や借金棒引きを要求し、河原田が闘争案を持ち出したとき、山館が、戦争中に国民として騒ぎを起こすべきではない、政府から凶作救済の金や御下賜金まで出る、と発言する。そこで河原田は、これまでの救済金が一度も農民を救済できなかったこと、お上でやる土木事業の無謀さ、そして戦争が働き手を奪うばかりで、余計に生活を苦しくさせていることを話した。
しかし、その結果、警察が河原田を検束しただけではなく、要吉のグループからも殴り込まれ、会を壊されてしまう。警察は、要吉たちは検束しなかった。だが、早くもその晩に、兼一郎は、水原や宮本、そして要吉の妹・ヨシエと立ち上がり、ビラを刷る。ビラを組合の書記に届けてくれるのは、要吉の家に間借りしている女性教師、吉井タキであった。
ビラで闘争を続けていた兼一郎らは、その後、首切り後の炭山で、デモを計画する。労働者が農民を踏み台にする、という要吉の考えとは異なり、兼一郎は労働者と農民が手を結ぶべきだと考えていた。炭山に向かう兼一郎は、途中の分かれ道までヨシエと共に歩いた。二人の間には、信頼と恋が芽生えていた。
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