目覚め

2010年12月20日(月)

つれづれ

2017年11月30日 | Weblog

ここの所、以前にも増して瞑想内観をしている

どのようなものを体感として得たとしても、

肉体を持ち、ここで生活を送れば、気づき続けるのが人生で

気づく度に、「ありがたい」と感謝の念が湧き上がる



時にそれは

屋根のある家に居られるありがたさであったり

美味しいものを頂いたときのありがたさであったり

ちょっとした人の優しさに触れたありがたさであったり

ともすると見逃してしまう様な小さなものであるとが多い


しかし見逃してしまう様な小さなものに

心底ありがたさを感じられた時の

心の豊かさは計り知れない




日常の忙しさに流され

外に目を向け思考してばかりいると

足らないものばかりに目がゆき

常にそこにある豊かさを

当たり前のこととして見過ごす


何かをもって生まれてきた人なんて、一人もいないのに

当たり前にあるものなんて、何一つないのに

今ここにあるものは当たり前と思ってしまう




時にはちょっと足を止めて

足らないもの探しをやめて

今ここにあるものにありがとうを言って

豊かさを感じて見てはいかがでしょうか


 


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全てが一通過点

2016年10月24日 | Weblog

昨年末から今年初頭にかけて、私には特定のグルが居ないので、グルとは何ぞやを模索していました。

私なりに行きついたグルとは、やがて「導かれるものも導くものも居ない」という場所に到達するまでの、流れの中の一通過点であると言う事でした。
私のように杉の木を始めとし、見るもの全てが師(グル)と捉えている場合もありますし、特定のグルの教えにより学びを得る方も居ます。 
その、どちらにも良し悪しはなく、ただそうあるというだけの事でした。


意識が大きなが変化を起こすパターンは、一定の流れがある訳ではありません。
娘や片割れ君も、特定のグルが居たわけではなく、見るもの全てが師と捉えているパターンですが、その流れは各々違います。

娘のくぅちゃんは、自分を振り返り、足らないものは感謝だと気づき、ありがとうを言い続け、善行を重ねていたら、ある日突然にそれはやって来て、一気に肉体を離れそうになったと言います。

片割れ君は、3.11の地震を切っ掛けに大きく変化し、肉体を離れそうになったと言います。

他にも、ヨーガを続けているうちに変化する方もいれば、誰かのヒーリングがきっかけであることもあるでしょうし、ツインに会ったことが切っ掛けになる方もいるでしょう。
このように、気づきと共に起こる意識の変化の流れは、人の数だけあると思います。


私には特定のグルがいるわけではありませんので、その都度接した物や方々から学ばせていただき、少しづつ内なる統合が起こったので、全てが師であると感じています。

眠りきらず半開きのまま大人になり、20代で一旦眠ったものの、30代で再び少しづつ開き始め、大きく変化したのが6年前。
その後はゆっくりと階段を上がるように変化し、5年目で宇宙の概要を垣間見て、未だに変化し続けています。

体験してきた変化のきっかけは様々で、チャクラ浄化のCDを聞いているうちに、クンンダリーニ昇華し、杉の木との共振共鳴で意識が反転しました。

その後は出会った方々からの学びの変化や、娘のくぅちゃんのヒーリングによる変化、片割れ君との松果体の共有による変化、誘導瞑想による変化、アンマのダルシャンにより最後まで残った執着が外れるなど、こんな流れで、全てのカルマが消えた後、梵我一如の体験があり今があります。



梵我一如とは、ウキペディアより引用
>梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。不二一元論(advaita, アドヴァイタ)ともいう。


この表現にもあるように、師も個の私も消えた時に、作り手と作られ手が揃って一つの物であり、全ての様を見ているだけの、完全自立にも似た、たった一つのものであると同時に、全体そのものであることに気づいた瞬間でした。


全ては無常である故、刻々と変化して行くものです。
私という一人の人間が、悟りで生まれ、眠り、再び永遠の悟りに向かい、どのような足跡で肉体の終りに近づいて行くのかという記録を残して行こうと思うと同時に、より肉体をクリアリングし軽くしてゆく事に興味があり、やがては自身の意志でそこを去る事ができるようになるものなのか・・・興味津々の日々です。


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宇宙と意識

2016年10月12日 | Weblog

2010年に、大きな意識の変化があって、それ以降約5年かかって、
球体に例えればざっくりとですが一周し、その全体観を捉えることはできたのではないかと感じています。

多次元を、分離の概念である文字に置き換え表現するには無理があり、理解されにくいとは思いますが、
今回は、今現在までに体感として得た宇宙と意識のビジョンを、書いてみようと思います。





球体を作ろうと中心から外に向かい線を引くと、引ける線は無限にあり、
線の引き方が細かければ細かい程、まんまるな球体になるかと思います。

無限に引くことのできるその線を次元とするならば、
まんまるな球体の宇宙を創るには、無限に次元の線を引き続けて行かねばなりません。
無限の次元の線を引くとは、無限の視点を持つ事と同様の事を指します。

中心の源の中に入ると、そこにはエネルギー(光)しかありません。
外の世界(分離の世界)を見ようとしても、フィルターを通さないと見ることができません。
そのフィルターの数が多ければ多い程、分離の世界が豊かに創造されてゆきます。




一方、創造された側である分離の個の私は、光だけでは体験できないので、肉体という着ぐるみをまといました。
何かになろうとする必要もなく、在るがままで過ごし何を想い感じるか、それを知りたくてここに居ます。
それを純粋に感じるためには、脳で思考して作り上げた、観念や概念は必要ありません。


思い返せば、以前ハート(体でいえば心臓のあたり)を中心に、体をリバーシブルにしたことがありました。
すると、外の宇宙に出てしまい、内なる宇宙は、外の宇宙はつながっていて、同様の物であることを知りました。 
その辺りから宇宙全体の仕組みが見え始めたと思います。

そして、根源と分離の成せる、それらの一連の出来事を観ているのが、本当の私であり、
さらには私という感覚すらない、ただ観ている何者かということを知りました。


ツインレイも、源(一元)から見れば、分離(二元)を観る時の視点の一つであり、分離の概念です。
しかし同じものを分離(二元)側から見れば、それは実在であり体験体感の事実として、
魂の記憶に刷り込まれてゆく情報の一つでもあります。

体験を観察し、その移り行く様を言葉に置き換えた私の覚書のようなものですが、
これからも色々な視点から、綴って行きたいと思います。




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真我実現

2015年11月03日 | Weblog

※ 以前アメブロにUPしたものを手直しし、こちらにも載せておきます。

 

アンマのダルシャンを受けてからは、苦手だったグラウンディングはできている様子です。

そもそもグラウンディングとは私の体感によると

天と地が一本の軸(光の柱)で完全につながっていて

軸とは真我そのものでありその領域には、僅かの自我も入り込んでいません。

真我の外側に自我が張り付いているような感覚で

真我は自我の全てを良しとし認め受け入れています。

そして分離での体験を表現する表現者が自我ともいえます。

真我と自我の間に境目はなく、そろって一つの物です。

 

【マハルシによる教え】

>カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存している。

>自我がその源のなかに溶けて姿を消してしまえば、

>それに依存しているカルマも生き残ることはできない。

 

また、これと同じような現象を起こしている感があります。

カルマらしき物は何一つ感じられません。


これが一時的なものなのか、ずっと続く物なのかは今のところ私には解りませんが

少なくてもこうしてブログに書いている時点では、

当然分離し言葉と言う分離のツールを用いて自我で伝えているわけです。


このような状態になってまず最初に気づいたのが、ツインレイと言う概念の捉え方です。

再三ブログに書いてきましたように、ツインレイが分離の概念だという認識はできていたのですが、

今回それを更にアリアリと体感しました。


原初の魂の片割れである事には間違いは無いのですが、

親子、兄弟、友人、知人...etcと同じ領域にあり、真我からの距離のようなものは

他のくくりと全く同じ場所にある物と感じました。


分離の視点で捉えると原初の分離なので真我に限りなく近い、

なにか特別なトンデモナイ関係の様に感じますが、

真我から見れば、分離の一側面でしかないのです。

 


ツインレイは、意識、認識が、ある一定の周波数を超えると、

自分の中の女性であれば男性性が、男性であれば女性性が具現化されて、姿を現します。

内なる男性性、女性性を統合し、魂が根源と同じ光、両性具有になるために、

内なる異性を見せてくれる存在です。


統合は、ツンレイに逢っても逢わなくても起こせます。 

逢って統合するという流れを

プログラミングされて生まれてきた人のみが

出逢うものと思われます。

 

ツインレイとの関わりは、真我実現の流れの最終段階であり、

真我の外にある物は原初とは言えツインレイとて分離であり、

源と同じ両性具有になるための出逢いではあるけれど、

それと真我実現はまた異なるものです。


真我実現はその次元(ツインレイとの関わり)に留まっていてはあり得ず、

その概念を完全に超えた時にはじめて成されるものです。

 

ツインレイは恋愛ではありません。 

勿論であった当初は、もう一人の私ですから、

愛しくて恋しくてという気持ちも湧き上がります。

しかし、いつまでもそこに留まっていられないのは、

今まで書いてきたような、一連の流れの中の出逢いであるからなのです。

 

人生とは楽しむ物である一方、一生学びでもあると感じていますが、

片割れ共々しっかりと真我実現に向かい、

真我と言う軸を捉えたままの一元の視点を持ち、

完全に自我をコントロールし、必要に応じて自我の選択をして、

分離の二元を楽しむという境地に達する事ができたならば、

片割れとは揺らぎない信頼と愛で結ばれることでしょう。

 


独身、既婚、結婚などの、分離の概念である形式に捕らわれる必要は

全くと言っていいほどありません。

独身同士でも、供に生活しなくてはいけないという事もありませんし、

既婚者同士なら、そのために離婚しなくちゃと思う必要もありません。

 

形式に捕らわれる事無く、心地よい魂の関わりを体験するために

常に内を見て真我に向かってゆくことをお勧めします。

 

 

また、真我に向かったままで居ると、分離とのバランスが取れないと

感じている方も居るようですがこれは思考が作り出した幻想です。

 

内的探求の先に、宇宙全体がありそこには叡智が溢れており、

自然な流れに身を任せていることで、意図せずとも

内と外のバランスは自動的に取れて行きます。

 

 

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アンマのダルシャン(抱擁)

2015年07月04日 | Weblog

7月20日ヨーガの会

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2015年5月28日アンマ来日3日目の午後の部に 初めてダルシャン(抱擁)を受けに行きました。
最終日の午後の部だけはアンマからマントラが貰えると言う事もあり、その時間帯に行きました。
会場に着くと整理券を受け取るための長い列が幾重にもできていて、とんでもない人数でした。

 

【プログラム内容】
アンマのスピーチ&歌(インド音楽)、 
メディテーション、
アンマによる来場者一人ひとりの抱擁

 

アンマのエネルギーが充満している部屋では、疲れと言うものを感じず、時間の感覚も殆どありませんでした。
私のダルシャンの順番が回ってきたのは夜遅くだったと思います。

 

私の順番が回ってくると抱きしめながら「愛しい。愛しい。」と日本語で繰りかえし、
片方の手で私の背中の 第二チャクラと第三チャクラのあたりを しきりにさすってくれました。
以前より、ハートより下のチャクラが開きにくく、グラウンディングしにくい所があった私だったので、
アンマがそれに気づいて詰まりをとってくれてるのだなと思いました。
ダルシャンそのものの時間も、少し長かった気もします。

 

ダルシャンが終わったときにアンマに「マントラプリーズ」とお願いすると、マントラを貰うための整理券を渡されました。

ダルシャンそのものを、無我で受けた感じではありましたが、その後は更に思考が止まりしばらくボーッとしてました。  
会場であった友人が私を見て大丈夫か? と聞きながら、笑うくらいの腑抜けぶりでした。

その後マントラガイドさんから説明を聞き、アンマからマントラを受け、もう一度別な場所でマントラの確認があり、
それで私個人の受けたかった事柄は、全て終わりました。 時間はすでに真夜中だったと思います。
残りの方々のダルシャンはまだ続いています。 

何時間も席を立つことも食事をすることもなく、アンマは抱擁し続けています。
会場に残った人数はどうみても千人以上、2千人近いかもしれません。
それでも人ごみに疲れることはなく、会場のエネルギーの軽さのお陰なのか、なんだかとっても元気です。

明け方近くになってやっと、ボランティアの方々のダルシャンまで終了しました。

 

最後はアンマが残った来場者達全員を一瞥します。
後ろのほうで友人達と雑談をしていましたが、急に私は吸い寄せられるかのように、
とことことアンマの顔が見えるところまで出て行きました。

手にいっぱいの花びらを持ったあんまが、中央に立っています。
私の周りも人でいっぱいで、アンマの顔がやっと見える感じでした。

するとアンマがどうも私の居る方向を見ているような気がします。

まさか私を見ているとは思えないし、誰をみているのかなぁと思っていると、アンマがニコッとわらいました。
誰かに笑いかけてるなと思い、誰見てるのかしら?と私は周りをきょろきょろしてました。

 

すると!? ビリビリ~っと感電したかのようにエネルギーが、私の頭上から入ってきて、
首を通り肩を通り、身体を抜けて両足まで行き、体全体が帯電したかのようでした。

少しすると、身体に充満していたエネルギーが足元からすーっと抜けてゆきました。
アンマが見ていたのは私だった・・・。 
気づいて笑い返すと、再びアンマが笑い返してきました。

アンマは真我(根源・神)の化身であり、人の姿をして私の前に現われ、私の存在を認めてくれたと同時に、
私は私の全てを受け入れ、認め心から愛し、完全に真我と一体になった事を、
体験として得ることができ、涙ぐんだのを覚えています。

 

人生というものに逆らうのではなく、ひたすら委ね意識が反転して以来、色々な体験体感がありましたが、
この出来事はにわかには、信じがたいと思いました。
その後今回のイベントに誘ってくれた知人の所へ行き、一連の事を話したら、
その知人も10年以上前に同じ体験をしたとのこと。 
いやはや、この広い会場で、知人と私が、時を違えて同じ体験をするとはと、とても不思議な気持ちでした。 

 

 

ダルシャンを受けて1ヶ月が過ぎました。 
マントラを貰ったので、カルマを引き受けてもらうと同時に、この先の人生を導いてももらえるとの事。
確かに今、その手ごたえを感じています。 

苦手だったグラウンデングを難なくしていますし、
今まではどんなに勧められても、腰が重くヒーリングをしようと言う気になれなかったのに、
たまたま遊びに来た友人に、思い立ったかのように全身をヒーリングしてみた所・・・
思考が完全に止まり、今まで体験したことの無いような心の軽さと、疲れのなさを感じるとの感想を貰いました。

 

それをきっかけに、10人ほどにモニターとしてヒーリングを受けていただき、感想を聞いてみたところ、
様々な体感と同時に、地元でヒーリングサロンを開いてほしいとの要望も頂くという、思いがけない流れになりました。

アンマのダルシャンを受けたお陰で、人生が楽しくなりそうで、毎日ワクワクしている今日この頃の私です。

 

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ニュートラルを目指して

2014年12月07日 | Weblog

 

見るもの全てを映し出しているのは

私以外に居ないのですが

時折「こんな事までも・・・?」

と思いたくなることもあります。

私も分離感が何かのキッカケで強くなり始めると

見るものを私対相手とし、幻想を作り出してしまいます。

 

この現実を如何に良く生きるかと言う視点に立った時

やはりそこで思うのは、

物事をあるがままに(中立に)見ることの大切さでした。

 

「あるがまま」それは時に目に見えないものにも及びます。

できる限りの意味づけをはずし、ニュートラルの状態を保つ事で

人の心、人の気持ち、それらは全て愛であることが見えてきます。

 

分離して相手に変わって欲しいと感じるときは、自分が変わる良いチャンスです。

 

自分を変えようとせず、取りあえず選択肢を変えることで、一時その苦しみを回避できたとしても

中心で物事を捉えるようにならなければ、別のシーンでまた同じ苦しみが浮上します。

 

何もかもを頭で解っていても、なかなか腑に落とせない事も多々あります。

個人差はあると思います、年代によって昇華しなければならない物の量も違いがあるとも思います。

インディゴ世代が苦労すると言われるのは、そのあたりをさしているのかも知れません。

 

苦しみさえもまた良しと、そんな風に受け入れて行くことで、ニュートラルに向かって行けると思います。

私自身も、更なるものを追い求めて、ただいま浄化真っ最中。

宇宙を愛で満たせるようにと望む人は、共に歩んで行きましょう。

弥栄!

 

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2012年02月10日 | Weblog

何気にあちこちのスピリチュアルサイトを読んでいるうちに

急に思い出したことがあります。

年齢で言えば30歳頃だったと思います。

ある種の気づきであったと思います。



それは、自分の回りになにか枠のようなものがあるということ。

その枠に入っていようとしても、どうしてもどこかはみ出してしまう自分がいること。

はみ出してしまうと、罪悪感のようなものを感じるので、また無理に押し込めていたこと。

しかし一方で、その枠を壊してしまいたいような、気持ちにとらわれたこと。


今思えばその枠とは、自分で勝手に作り上げた概念だったのですが、

その概念の枠に入っていないと、どこかいい子でないような気もしてたと思います。





本当は枠なんてなくて、有り余る愛に守られた果てしなく自由な存在なのですけどね。









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