目覚め

2010年12月20日(月)

怒りの開放

2019年06月19日 | 修行・他

喜怒哀楽の感情のはどれも皆、同じエネルギーでできています。

しかし、「喜楽は善くて、怒哀は悪」という観念が、無意識のうちに多くの方々にあるのではと思います。

振り返れば私自身もそうでした。

悪と感じる怒りを封じ込め、溜め続け、ある日ある時急に爆発するというのを繰り返していました。

周囲の人々にとっては、非常に迷惑な話だったと思います。

 

このように出すのが難しい怒りですが、瞑想内観を続けていると、必ずどこかで解放をする時期がやってきます。

形としては、他者の誰かが自身にとっての悪人を演じてくれて、それが突破口になり解放に向かうこともあるかと思います。

その悪人(他者も善も悪も幻想ですが)を演じてくれるのは身近な人であることが多く、特に相対的関係で甘えやすい親であったりもします。

 

ため込んだ怒りが、大きければ大きいほど、マグマのようにドロドロとした怒りが、火山の爆発のごとく出始めます。

これは繰り返し抑え込んできたために、この様に溜まってしまったのですから、出て来た時に怒りを抑え込もうとしてはいけません。 

最初は大きな爆発のようでも、次第にそれは収まりますので、出せる時は出してしまった方が良いのです。

時と場合によりどうしても出せない場合は、内に怒りがあると、しっかりと認め受け入れてあげる事です。

紙に書き出すのも良いかと思いますし、M2テクニックなどのメソッドを使うのも良いかと思います。

 

多少の根気はいりますが、溜まった怒りが解放された後は、その場その場で新たに出て来た怒りを、喜や楽と同じように表現できるようになります。

怒りの開放は大きなシフトとなる事でしょう。

 

 


真我への入口

2019年06月16日 | 修行・他
真我覚醒に向け、瞑想内観をし自我を受け入れて(滅して)行くのですが、
自我の受け入れを始めるには、覚悟のような決意の様な、ある種の勇気が要ります。

最初に覚悟し、内観、瞑想が習慣になるまでの間、ほんの少し辛抱も必要になります。
これが私と思いたい自我は、受け入れられ(滅され)るのを嫌います。
滅した先には真我が在るとわかっていても、まず出てくるのは滅する事への恐れです。
最初の恐れを乗り越えるためには若干の勇気が必要で、
それは自我に対し「目を背けずしっかり見る!」と覚悟する勇気とでも言ったらいいでしょうか。

中途半端な気持ちでは、真っ向から自我を見る事はできません。
苦そのものは思考により作り出された幻想(ドラマ)であり、
思考しなければ苦も生じないという真理があります。

ただ、小さいころから「よく考えるように」と周りの人たちに教えられ、
思考しなければ生きてゆけないと思い込んでいるので、
怖くて思考をとめることなんてできないと思ってしまっているのです。

しかし、人は大きな壁にぶつかると、この苦しさから解放されたいとも思います。
真我覚醒した人が悟りを解き続けるのは、苦は滅することができ、
幸せを感じながら生きることができるのを、体感として得ているからです。

幸せを感じながら生きるか、今までと同じように苦を味わい続けるか、
どちらでも選ぶことができますとお伝えしているのです。

内観や瞑想の、作業そのものは地味なもので、出てきたものをただ見続ける、意味を付ける事無くただ観察し続けます。 
それだけで思考で付けた意味づけは、外れてゆきます。

本当の私とは何ぞやを、修行のように問い続け、行きつく先が真我なのです。
あなたもほんの少し、勇気を持って自我と向き合い、永遠の幸せを知ってみませんか。


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樹慧(じゅえ): エネルギーワーカー
2010年クンダリーニ昇華~意識変化~宇宙意識~梵我一如 
8歳より私とは何ぞやを探求し始め今に至る。
詳しいPFはHPからご覧ください。

HP: https://jeweln.amebaownd.com/

Twitter:https://twitter.com/jewel_2


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