多摩爺の「旅のつれづれ(その3)」
海峡物語 門司港レトロ(福岡県北九州市)
コロナ禍により、東京(多摩)ナンバーの車が嫌われるようになって・・・ 大よそ1年が経つ。
極端すぎると、笑われるかもしれないが、以来遠出することなく籠りっぱなしだったが、
フォローさせていただいているブロガーさんが綴られた、故郷の界隈で楽しまれた旅行記に触発されてしまい、
遠い昔の思い出に・・・ 少しだけ浸ってみたい。
5年前の晩秋、翌日に行われる姪の結婚式に出席するため、北九州市(小倉)に向かう途中、
ちょっと時間に余裕があったもんだから、関門橋を渡って門司港ICを降り、レトロ地区に寄ってみた。
この港町には、45~6年前(女房と出会う1年前)の夜・・・ ちょっとした、淡い思い出が残されている。
隣町なのに、故郷・山口(下関)と北九州(門司)の間には、早鞆の瀬戸と呼ばれ、
強い潮が流れる海峡があり、
目の前に見えているのに・・・ 近くて、遠い町だった。
そのお蔭と言っちゃなんだが、知った人に出会う可能性が少なく、
ある意味で、都合の良い町でもあった。
時は昭和50年代が始まって、間もなくのころだった。
開通して間もない関門橋の夜景を、対岸の九州から眺めようと・・・ 門司港にやってきた。
海峡を臨む、ちょっと小洒落た喫茶のドアを開けると、
年代物のJBL(スピーカー)から、聞き覚えのあるジャズが聞こえてきた。
窓際の席に座り、波間に揺れ動く、朧げな明かりを眺めながら、
ロングピース(煙草)に火をつけると、
注文を取りに来た、蝶ネクタイの店員を一瞥(いちべつ)しただけで、
二十歳そこそこの若者は・・・ カッコつけて横を向いたまま、アメリカンと告げていた。
店内に流れていたのは・・・ 当時流行っていた、デオダートの「ツラトゥストラはかく語りき」
サックスやトランペット、さらにはピアノが主流だったジャズの世界に、
シンセサイザーを使った音楽は画期的で、
10分弱の長さが気にならなければ、軽快なリズムに、気分が高揚するアップテンポの曲だった。
入り口付近で、ドアが開いたような音がした。
待ち人・・・ 現る。
数分だけ話した後、店を出た二人は、すぐさま海峡を包む闇に紛れ、
門司港の夜は、静かに更けていった。
その夜のこと、
そして、その後のこと、
覚えてはいるが、いろいろあって、こればっかりは胸に秘めておくしかないだろう。
さて、時を戻そう。
門司港という町は、そっくりそのままの地名でもあり、JRの駅名も門司港駅で、門司駅は別にある。
兵庫県の神戸駅から始まる山陽本線は、山口県の下関駅を経て、関門鉄道トンネルに入り、
福岡県の門司駅で鹿児島本線へと繋がっているが・・・ その途中に、いまある門司港駅はない。
関門鉄道トンネルができるまで、本州と九州を結ぶ鉄路は、
下関駅から門司港まで連絡船がその役目を担っていた。
よって、関門鉄道トンネルができる前までは、下関から連絡船を乗り継いだ次の駅は門司港だったが、
関門鉄道トンネルが開通すると、門司港駅から三つ先の大里(だいり)駅が門司駅と名前を変え、
門司港駅は鹿児島本線の始発駅ではあるものの、山陽本線とは直結していない。
正確に言えば・・・ 関門トンネル開通前までは、連絡船で繋がっていた門司港駅が門司駅で、
開通後には、山陽本線と直結した大里駅が門司駅となったことから、
それまでの門司駅は、門司港駅に名称を変えている。
ちょっと、ややこしいが・・・ そういうことであり、門司と門司港は全くの別物なのである。
門司港は、明治から昭和の初期にかけて大陸貿易を中心に、
ヨーロッパ航路の寄港地として栄えた港町だったが、
戦後は大陸との貿易が減少するにつれて、かつての勢いは薄れ寂れていった。
ところが、かつての栄華を今に伝える、忘れ形見ともいうべき大正時代の建物が、
幸いなことに戦火を免れていたことが功を奏し、
門司港レトロ地区として、町おこしが進められ、勢いを取り戻すことに繋がっている。
同じ北九州でも、中心地の小倉の西に位置する八幡は空襲を受けたが、
門司の建物はなぜ無事だったのだろうか?
その答えは、昭和20年8月9日の朝(長崎へ原爆が投下された日)が関係していて、
当時、原爆を投下する第一目標だった、小倉上空の天候が悪かったことから、
第二目標の長崎に変更されたらしく、せつな過ぎる真実が、米軍の記録として残されている。
もし・・・ 小倉に原爆が投下されていたら、
いまレトロ地区の象徴でもある、大正時代の洋館が、そのまま残っていたことはなかっただろう。
75年という時を経て、いま振り返ってみて「門司は運が良かったのだろうか?」との問いに
明快な答えはなく、そのことについて、知らない人も多くなるとともに、
軽々に口にする人もいなくなった。
私の門司港の思い出は、駅前で行われていた、賑やかで面白かったのが台湾バナナのたたき売りだ。
バカボンのパパのような服装で、ねじり鉢巻きをしたテキヤ風のオッサンが、
巧みな九州弁で客と掛け合い、値段を決めていく競りで、
折り合いがつくと、新聞紙でクルクルっとバナナを包んで、「もってけ、ドロボー」なんて言いながら
キッチリお代を受け取る、まるで大道芸のような路上販売だった。
これが面白いのなんのって・・・ 子供心に腹を抱えて笑った記憶が鮮明に残っている。
いまでも、週末にはレトロ地区の海峡プラザ前でやってるというから、是非とも楽しんでもらいたい。
たしか東京オリンピックの2~3年前に、東南アジアでコレラが流行し、
台湾バナナの輸入が一気に減ったことにつられて、たたき売りも衰退していったが、
バナナが高級品だといわれた時代に、腹いっぱいバナナが食べられた子供は、
裕福な子供か、門司や下関の界隈に住む子供だけだというから・・・ 私は得した方かもしれない。
オヤジの口癖は・・・ バナナは、多少黒ずんでいた方が、甘くて美味いだった。
それはただ単に、廃棄寸前のバナナを安く買ってたことを意味するが、
当時はみんなが貧しかったので、なに一つ疑うことなく、気にすることもなくパクついていた。
随分と横道にそれてしまったが・・・ そろそろ纏めに入ろう。
門司港レトロは・・・ 夜が良い。(夜も良い。)
家族連れで楽しむ、昼間の観光も面白いが、ディープなスポットを探して歩く、夜がまた楽し過ぎる。
コロナ禍が落ち着いたら・・・ この国の美しいところ、楽しいところを探す旅に出かけたい。
キャッチコピーは、GoToトラベルより、
「いま、ふたたびの、ディスカバージャパン」が良いだろう。
そんなこんなで恐縮だが、関門海峡のノスタルジック物語(門司港・下関)を、
是非とも、おススメさせてもらいたい。
門司港を照らす灯りが波間に揺れ、関門橋を借景にした旧門司税関と、
門司港レトロハイマートが見事にマッチした、大正から昭和、平成、令和へと4世代続く、
時空を超えた夜景が・・・ これだ。
40数年前は、こんなに整備されてなかったけど、岸壁沿いはディープなデートスポットだった。
多くの商店が入った海峡プラザ、昼間は岸壁で、懐かしのバナナのたたき売りをやっている。
旧大阪商船ビル、大正時代の石造り建築は、レトロ感たっぷりで見応えがある。
今は他県のナンバーを見ると、傷つける自粛警察がいるので、なかなか近県にも出掛けられず、都内の公園に行くのも、公共の交通機関に乗らなければならないので、お出かけ、難しいですね…。
関門橋の思い出話、染み入りました…。あそこはそれだけ郷愁に誘われる魅力や歴史がありますね。
門司港駅構内も関門鉄道トンネルが開通し、下関と門司を63年間結んでいた関門連絡船が衰退、廃止になりましたが、構内にその桟橋に続く通路の遺構がきちんと残されておりました。
門司港駅前広場にはバナナの叩き売りの碑もポツンと立っておりました。
そのバナナの叩き売りの口上の場面などは見る事が出来ませんでしたが何でバナナなのか、とか言うのは調べて知る事が出来て、なるほどね〜、とか思いました。
夜のライトアップされた関門橋と門司港レトロハイマートを背景にしての旧門司税関や船溜まりのあたりの海峡プラザと旧門司三井倶楽部、そして旧大阪商船三井、どれも大変煌びやかに美しく写っております。
私のは夜景は写りが悪く、恥ずかしいので出しませんでしたが、目に焼き付いているので良く覚えております。
行ってのはそれ程前ではないのに、とても懐かしいです。
素晴らしい記事をありがとうございました。
コメントを頂戴しありがとうございました。
ななだいさまのブログに触発され、ちょっと昔のこと、かなり昔のことを思い出しながら綴ってみました。
楽しんでいただき、ありがとうございました。
海峡物語、心に染みました。
次のシーンもうかがいたいです(笑)
コメントを頂戴しありがとうございました。
いやぁぁ・・・ 恥ずかしい。
若気の至りでした。