多摩爺の「書棚の肥やし(その4)」
聖断 (半藤一利・PHP文庫)
週末の度に列島各地を襲った台風で、なんとなく冷めてしまった感が否めないが、
すったもんだあったものの・・・ 明日(27日)の午後、
大規模な警備体制が敷かれるなか、海外からの要人を含め、約6,000名規模で、
昭和天皇、吉田茂元総理に続いて、戦後3人目となる・・・ 元総理の国葬が行われる。
さて、戦後のこの国で、国葬に値する実績を残した為政者は、他にいなかったのだろうか?
そんなことを思いながら、昨春に購入したものの、
父や、義父母の葬儀などで、半分読んだだけで書棚の肥やしになっていた、
故・半藤一利さん著作の「聖断(せいだん)」を・・・ この夏から、再び読み始めていた。
「聖断」の裏表紙には・・・ 次のような紹介が記されている。
連合艦隊の壊滅、沖縄の陥落、広島、長崎への原爆投下、ソ連の満州侵攻など、
刻一刻と破局へ突き進んでいった、敗戦末期の日本、
本土決戦が当然のように叫ばれ、一億玉砕論が渦巻くなか、
平和を希求する昭和天皇と心を通い合わせ、二人三脚で戦争を終結へと導いた老宰相がいた。
その名は鈴木貫太郎・・・ 武官(海軍大将)でありながらも、侍従長として昭和天皇に仕え、
79歳という高齢ながら、昭和天皇が自ら「他に人がいない。」と説得した鈴木貫太郎は、
昭和20年4月7日に、その任に就くと、戦争の終結に知恵を絞り、
わずか4ヶ月で、一億玉砕を訴える陸軍の圧力を巧みにかわし、
国民を救い、国土を守った・・・ 至誠の仁人、敢為の武将、忠節の重臣である。
偶然なのか、それとも巡り合わせなのか・・・ はたまた、なにかしらの因縁なのか、
海軍大将の鈴木貫太郎が首相に就任した、昭和20年4月7日は、
無敵といわれていた戦艦大和が、九州の南方沖で壮絶な戦いの末、海の底に沈んだ日でもあり、
裏表紙に記された、連合艦隊の壊滅、沖縄の陥落、広島、長崎への原爆投下、ソ連の満州侵攻は、
その総てが、鈴木貫太郎首相が在任した・・・ 4ヶ月の間の出来事でもある。
著作権の問題があることから、詳細を記載することはできないが、
次のような、興味深い序章から・・・ 本文は始まる。
(以下、序章から抜粋)
総理大臣・鈴木貫太郎元海軍大将は、すくっと立つと、原稿はおろかメモ一つなく語り始めた。
8月9日の第一回の聖断いらいの、総ての出来事をよどみなく報告する。
そして・・・ 最後にいった。
「 ここに重ねて、聖断をわずらわし奉るのは、罪軽からざるをお詫び申し上げます。
しかし、意見はついに一致いたしませんでした。
重ねて何分のご聖断(天皇陛下の判断)を仰ぎたく存じます。 」
不気味な静寂がしばし流れた。
やがて、天皇裕仁が静かに口をひらいた。
昭和20年8月14日(終戦の前日)、時刻は正午に近かった。
天皇は言葉を何度ともなく中断し、落ち着きを取り戻してはまた続けた。
「 反対論の趣旨は良く聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。
私は、国内の事情と世界の現状を十分考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。
(中略) この際、先方の回答(降伏)をそのまま、受諾してもよろしい。 」
鈴木首相をはじめ、いならんだ23人の男たちは、
深く頭を垂れ、嗚咽し・・・ 眼鏡を外して目を拭った。
天皇のとぎれとぎれに訴える語気が、憔悴しきっている男たちの胸をうった。
翌8月15日、玉音放送を受けて鈴木内閣は総辞職し、翌年には公職追放になっており、
当時の状況から察するに・・・ 国葬の検討はなかったようだが、
もし、鈴木貫太郎が、あの場(御前会議)に居なかったら、
もし、鈴木貫太郎が、時の首相でなかったら、
いまごろ、この国はどうなっていただろうか・・・ 想像するだけで身震いしてしまう。
この国の教育は、悲しいかな・・・ 近代史を疎かにしていることもあって、
鈴木貫太郎という首相が、いたことは知っていても、
鈴木貫太郎という首相が、なにをしたのか、それを知る人は少ない。
裏表紙に記された一節を引用すれば、
平和を希求する昭和天皇と心を通い合わせ、二人三脚で戦争を終結へと導いた老宰相の功績は、
吉田茂元総理の功績(戦後復興)を大きく超えていると・・・ 私は評価する。
なぜなら、戦争が終わってなければ、復興はもっと遅れていただろうし、
もしも、陸軍が訴える・・・ 主戦論、一億玉砕論に突入していたら、
復興はもっと遅れるどころの騒ぎではなかった。
急激な進路変更は、国内に四分五裂を招き、修羅場に陥れることは必至であり、
そんな八方塞がりのなか、難局を切り抜けて終戦に導いたのである。
その一点だけで、私の評価は・・・ 吉田茂元総理よりも、鈴木貫太郎元総理の方が高い。
数年の時を経て、歴史が鈴木貫太郎を評価したとしても、
残念ながら・・・ 軍人を評価する価値観が、戦後この国からなくなったことから、
改めて国葬をしようといった、発想には至らないし、そういった機運が高まることもないだろう。
今回、国葬を行う予定の、元総理の功績について、検証すべきとの声がある。
尤もな声だと思いもするが・・・ 数ヶ月も経って、その検証結果が出てきてから、
「さぁ、国葬をやろう。」といった機運が、果たしてあるだろうか?
そう捉えれば・・・ 大喪の礼のような、国として必須の行事を除けば、
天皇陛下を除く人物を対象とした国葬は、時の政府がタイミング良く判断するか否かしかなく、
そのタイミングを逸してしまうと、
後になって、いくら声をあげても・・・ ただのマヌケになってしまうだろう。
時間をかけて功績を検証することを、けっして否定するわけではない。
とはいえこの国は、鈴木貫太郎の功績を評価することなく、昭和史に埋もれさせた国であり、
現職総理に向けて、遣唐使を捩(もじ)って、
検討使などと揶揄する人たちが、国会議員をやっている国でもある。
野党やメディアから上がった、功績を検証せよとの声は、間違いなく正論ではあるが、
一方でそれは、国葬のタイミングを逸することにも繋がり、
功績を称える機運を、雲散霧消させてしまい、反対のための反対になるのではなかろうか?
鈴木貫太郎にとって、事態が急変したのは、首相就任して間もなく、
敵国アメリカの大統領・ルーズベルトが、脳溢血で亡くなったことが大きい。
注力すべきは、ルーズベルトの死に際し、鈴木貫太郎が弔意を示したことである。
陸軍が厳しい視線を向けるなか、敵味方の立場を越えて、平然と人の死を哀惜するところに、
人間・鈴木貫太郎としての真骨頂があり、
この国の野党幹部と比較するのもなんだが、驚くほどに・・・ 器の違いが見えてくる。
さて、明日はどんな国葬になるのだろうか?
雨が降ったら良いかも・・・ なんて、思ったりもしている。
警備に当たられる方々には申し訳ないが、少しぐらい場外の喧噪を治めることになるだろう。
静かに送ることができれば、それで良いと思うが・・・ 如何なものだろうか?
閑話休題
前もって触れることを怠ってしまったが、本件はあくまでも個人的な思いであって、
コメントをいただいても、勝手ながら議論するつもりはないので、
申し訳ないが、ご理解をいただきたい。
帯封に記されているとおり、戦争を知らない世代に、100年先まで伝えたい昭和史が記されている。
より具体的な基準で法制化してこなかった原因。
政治家及び国民の無関心なツケが回ってきている
気がします。そこで、後出しジャンケン?
国葬、統一教会、憲法改正など、非常に不可解?
改めないといけない気風と反省はありますが
それをより具体的に解決し法制化しない?
その点でこの岸田内閣は能力不足です。
いつになると、実行するのか?問題の先送り?
これを速やかに整理と解決を切望します。
難しい問題ですね。
さまざまな出来事が重なり社会が乱れると、人は得てして結論を早く求め、
その思考はメディアが垂れ流す情報に誘因にされ、差配されて、大きく揺れてしまいます。
そんなときだからこそ、凡庸かもしれませんが、岸田さんのような、中庸的な思考があっても良いのかなと思っています。
岸田さんはコロナ対策と、国葬を除けば、大きな仕事をしてないのは事実なんでしょうが、
8月にNPTで訴えた、核への提言はとっても価値あるもので・・・ 私の琴線に触れました。
あまいかもしれませんが、来年予定されている広島サミットまで、見守っても良いのかなと思っています。