多摩爺の「時のつれづれ(葉月の21)」
人生の先輩方に問いたい抑止力
8月15日、この日は・・・ 76年前、正午からの玉音放送(ラジオ放送)により、
ポツダム宣言を受諾して、先の大戦においてこの国が降伏したことを国民に公表した
「終戦の日」であり、戦没者を追悼し、平和を祈念する日として、天皇陛下のご臨席を賜り、
政府が主催して、日本武道館において「全国戦没者追悼式」が毎年行われる厳粛な日でもある。
メディアでは・・・ 先の大戦を体験した人々の、生々しい声をニュースや報道番組で放映し、
過ちを繰り返さない戒めとして、毎年報道してくれるのはありがたいが、あと10数年も経てば、
そういった方々の肉声を聞くこともできなくなり、
名目だけの日にならないかと、老婆心ながら心配になってくる。
一方で今年の8月15日には・・・ もう一つ、気になるニュースが飛び込んできた。
駐留アメリカ軍が撤退したアフガニスタンにおいて、劣勢だった武装勢力タリバンが息を吹き返し、
首都カブールが制圧されて、イスラム原理主義をベースにした勢力に、
国の実権が移ったとの報道があった。
8月15日、わが国の終戦の日にも、そしてアフガニスタンの首都カブールが陥落した日にも
アメリカ軍が深く関わっていることに・・・ なにかしらの縁を感じてしまう。
「戦争ほど残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはない。」
「戦争だけは、ぜったいにやっちぁだめだ。」と、
先の大戦を体験した人生の先輩方は・・・ 訥々と語りながら、人々の心に訴えかけてくる。
持ったくもって、その通りだと思うし・・・ 異論はない。
しかし、76年という歳月を経て、改めて人生の先輩方に問い、
知恵をもらわねばならない難題が一つある。
それは・・・ 抑止力
平たく言えば、在日米軍の核の傘下にあることを、どう捉えるかということである。
頭のなかには、自分の答えがあるにも拘わらず、
その答えを言葉に置き換えて、自らの口から言いだし辛い難題は、
人生の先輩方からしたら「おいおい、それを私に聞くのか?」というような、
いささか厄介な問いでもある。
この国には、外交上の一丁目一番地に日米同盟(アメリカ軍の駐留)というものがあり、
戦後76年が過ぎてなお・・・ 陸海空のアメリカ軍が、国内各地に駐留しており、
海を挟んで対峙している核保有国との、さまざまなシチュエーションを想定して、
睨みを効かす抑止力をもたらしている。
レフトウイングに属する方々のみならず、
政権与党のなかにも・・・ 対話を重視する声は大きい。
まずは、話し合うことだろう。
たしかに、その通りだと思うし、そうあるべきだとも思うが、
話せば分るような柔な相手ではない。
なぜなら・・・ 対峙している国々は、社会主義を国家の理念とし、
共産党が政治の中心にある国であり、スポーツや、文化、芸術での交流を除けば、
欧米型の民主主義をベースにした我が国とは、基本的な部分で相容れないところが多く、
話し合いの随所に、恫喝という裏の顔がでてくることから、
そう簡単に落としどころが見つけられるとも思えない。
さらには、国際的なルールなどは・・・ どこ吹く風で、
社会主義に基づく、自国の論理を展開したうえ、領土や領海には強い拘りがあり、
いざとなったら、軍事力を行使することすら厭わない・・・ 厄介どころか、ぶっそうな国でもある。
そんな国々と、さまざまな場面で、対等に議論をぶつけ合うには、
アメリカ軍の存在をチラつかせた抑止力は・・・ どうしても欠かすことはできない。
もし、在日米軍が撤退したら、尖閣どころか、沖縄まで失ってしまうだろう。
アフガニスタンの首都カブールが、タリバンに陥落した翌日
あろうことか、イスラム原理主義をベースにした武装勢力タリバンと、
「友好関係を発展させる用意がある。」と・・・ 厚かましくも表明したのが中国である。
そりゃ、そうだろう。
タリバンと手を握れば、アフガニスタンを経由して、
イランまでの陸路(シルクロード)が・・・ 確保できるのだ。
先月のうちから、口だけは達者で、テレビでよく見る外相が、
タリバンと内政不干渉の交渉を進めていたんだから・・・ したたかと言わざる得ない。
抑止力なんて・・・ そんな物騒なものは、ないに越したことはない。
とはいえ、台湾有事が起こった場合、
我が国が関与すれば、核攻撃をするとの動画を流して軍を鼓舞し、
わざと世界に見せつける、恫喝まがいのことを・・・ シラッとやってくるのが中国である。
解決策があるとすれば・・・ ただ一つだけ、
それは中国という国が、民主化されることだが、先に民主化したロシアを見れば分るように、
民主化されたからといって、長い時間をかけて教育された人々の頭のなかが、
そう簡単に一変することはない。
さて、先の大戦を体験された人生の先輩方は、この難題をどう捉えているのだろうか?
おそらく「戦争はやっちゃぁいけんが、難しことはわしらにゃ、ようわからん。」ではなかろうか?
私の両親や、義父母がそうだったから、皆がそうだというのは短絡的すぎるが、
「そんな難しいことを、年寄りに聞くなよ。」
「それは、現役世代が責任を持って決めることだ。」と、いまは亡き親父はそう言っていた。
さて、どうする。
アフガニスタンの現実を目の当たりにし、在日米軍という抑止力をいったいどう捉えれば良いのか?
ストレスとして捉えるのか・・・ それとも、平和の武器として捉えるのか?
8月15日は、先の大戦への反省と、犠牲になられた多くの方々を追悼する日だが、
これから先の方向性を、国民に問いかける日でもあると思う。
いまさらだが、抑止力の是非について真剣に向き合い、
恐れずに議論することが・・・ 肝要なのではなかろうか?
ここでは毎日タリバン、アフガニスタン臨時ニュースばかり流れています。
アメリカ軍はアフガニスタンから完全撤退し(武器や備品なども全て残したまま)
バイデン大統領もアフガニスタンとは関わらないことを発表しました。
私個人の意見はまあ、どーでもいいことですが、
アフガニスタンと手を切るべきだと思っていました。
自分らの市民戦争に他国が関与すべきでないかと。
戦争は経済効果を狙って起こすこと、ですよね。
或いは、人口過密になると弱肉強食現象の結果起こることだと思っています。
人の命など、政治家が気にするはずがない、と思うので、戦争は起こすべきでないと、起こるべきでないと反対しても、人類の歴史の流れというもんでしょうね。
私の父は植民地や韓国戦争を経験した世代ですが、
国がやっていることに(やられたことも)文句を言ったことが一度も無かったです。
ただ、日本に住んでた時に学習塾を経営してましたが、早稲田や慶応大学生を講師として結構雇いました。
15年間経営して、こんなエリートな子たちが戦争を起こすのか、と実感しましたね。
理論立ててなぜそのように思ったか、説明できませんが、
だから、戦争を起こすんだ、と納得したことがあります。
まあ、あくまでも私個人の意見にすぎませんが。
人生の先輩方は、過去の反省と戦争への不安は語ってくれますが、
現実をどう捉えるかについては、なんとなく口をつぐみ他人事になってしまいます。
いまを生きる我々は、それじゃ困るんだと言うことを自覚してない人があまりに多く不安が高まります。
国民が賢くならなきゃいけないと思いますが、自由と我が儘をはき違える者たちが多すぎて困ったものです。
台湾有事は、中国の民主化がない限り、いつか必ずあるでしょう。
いずれにしても、そのときどうするのか、議論をしておくのは必要だと思っています。