伊勢の祈り

大いなる働きを信じて。共に幸せになりましょう。

人の一生は仮の夢を見ているようなもの

2017年06月16日 09時15分54秒 | 日記
自然と人生


「この世が幻のように仮りにあらわれた現象界だという観点に立てば、

功名富貴などはいうまでもなく、わが肉体でさえ、仮りの形でしかない。

この世が真の実在世界だとう観点に立てば、父母兄弟はいうまでもなく、天地万物もみなわれと一体である。

そこで、この世が幻のような現象界だということを見破り、同時に、

実在界における真を認識することができた人であってこそ、はじめて天下を一身に背負って立つことが可能であり、

また、人間世界の拘束を超えて、自由の境に遊ぶことができる。」『菜根譚さいこんたん』鉄筆文庫



天地万物と一体



この『菜根譚』の言葉を今日は皆様とご一緒に考え、理解を深めてまいりたいとおもいます。

宇宙の誕生から悠久の時間が流れ、そして、未来へ時間が流れていきます。

その時間の流れを考えると、自分の一生の時間はほんのわずかしかありません。

死んでしまえば、もう”人間”としてこの世にはいなくなります。

大きな流れの視点から見ると、”人間”としてはすぐ消えていなくなる存在です。

そのような世界に生きているわけですから、・立派な肩書・お金持ち・有名であるというものがあっても、

所詮、狭い小さな世界で一時的なものにすぎません。

そういったものに興味や関心を寄せても意味がありません。


見せかけのものに騙されずに、こだわらずに生きるのが一番です。

正しく生きる、清く生きるものは、真(まこと)の実体を見抜きます。


曇り多い我が心を映し見る


日本は、豊かな緑に恵まれた美しい四季がめぐる国です。

そのような環境の中で、私たちの祖先は草木はもちろんあらゆる自然界の生き物の中に神さまの霊が宿ると見てきました。

そして、人もまた、神さまから霊を頂いている存在だと見てきました。

そのため、私たちは神社にお参りをし、お祭りに参加するようになっています。

したがって、古代から優れた徳があって、著しく畏き働きのあるものを、神と呼び、お祀りしました。

人は誰しも、その神によって御霊(みたま)を授けられた実に神性な存在です。

しかし、世俗にまみれ、我欲に囚われると、心の鏡は曇り、輝きを失います。

そうなりませんように、つねに自分自身の心をきれいにお掃除しまして、

”まことの心”を取り戻していく努力が大切であり、重要なことだと思います。



「目に見えぬ神に向かいて恥じざるは、おのが心の”まこと”なりけり」


明治天皇御製の言葉を残し、今日の記事を終えます。


お読みくださり有り難うございました。
明日もアップします。

この世で一番大切な心がけ

2017年06月15日 09時33分01秒 | 日記
しあわせのヒント


江戸時代の儒学者貝原益軒(かいばらえきえけん)は、

『養生訓(ようじょうくん)』のなかで、・人間はいかに生きるか・人生の中で何が大切かを、

やさしく、そして、鋭い洞察とともに愛情をもって温かく伝えています。

この養生訓は貝原益軒、83歳の時に書いたと言われています。その長い人生から経験した

言葉は、静かな重みと深い味わいを含んでいるように思います。



ココロ豊かに生きる


「ひとの身体はきわめて貴重であって、全世界のなにものにもかえることのできないものではないか。

しかるに養生の方法を知らないで、欲にふけり身をほろぼし命を失うことは、もっとも愚かなことである。

生命と私欲との軽重をよく考えて、日々の生活を慎み、私欲の危険性を恐れること、

深淵にのぞむような、薄氷をふむような細心の注意をはらって生活すれば、長生きもできて、災難をまぬがれるであろう。


さらに続きます。

「ともかく人生は、楽しむべきである。短命では全世界の富を得たところで仕方のないことだ。財産を山のように殖やしても何の役にも立たない。

それゆえに、道にしたがって身体をたもって、長生きするほど大いなる幸せはないであろう。」

『養生訓』で貝原益軒は以上のように言葉を残しています。(伊藤友信訳、講談社学術文庫の『養生訓』より引用)



本当は生きているだけで十分幸せ


人はもっと美しくなりたい、もっとお金持ちになりたい、もっと贅沢をしたいと欲がわきます。

それらを手に入れることが幸せだと勘違いしているからです。

しかし、この欲を満たすように生きていたのでは、不満、不安の一生が続くことでしょう。

美しくなること、お金持ちになること、贅沢をすることが幸せと思い求めたけれども、幸せになれない。

逆に求めることによって、幸せから遠い生活と貧しい心になってしまったとなりかねません。

人の欲と幸せは同じではない。ということを頭の中に入れておいてください。

本来の幸せは別のところにある。



有り難いのココロが輝きとなる


容姿をよくしても、お金を増やしても、美味しいものを食べても、真の幸せは手に入らない。

人は生きていることに有り難いと思ったとき、感謝の念を感じたとき、初めて本当の幸せに包まれることでしょう。

そのような人は、穏やかで、まわりの人を和ますオーラを放つように感じます。自然のままに生きているような感じの方です。
(これは私のこれまでいろいろな人を見てきて感じたことです。)



大いなる自然のなかで、自然のままに生きていく、そのような視点にたたれてお過ごしくださればと思います。

森羅万象にやどる流れにそいながら。

お読みくださり有り難うございました。明日も記事をアップします。

まごころを尽くすと、それが自分の「力」となる

2017年06月14日 20時39分19秒 | 日記
磨くと輝きを放つ


内に誠意がなく、ただ外部に表れたものは、一つの虚礼にすぎない。

礼節の形式はあっても、その精神がない。内部に欠けた敬意を故意にありそうに装うのは、

むしろ、無礼に近い」


戦前、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造はこう述べています。さらに続けて、

こう言うと、「私には尊敬するべき人がいないから、礼節を表すことができない」などの

暴論を吐く者があるかもしれない。しかし、他人を尊敬する念は、誰の心中にも必ず

潜んでいるものである。また少し注意すれば、どんな人に対しても、必ず尊敬すべき理由を発見し得るものである。

もし他人を尊敬する念のない人があるとすれば、それは、その人に自重心がないのである。

いやしくも自らを重んじる人であれば、必ず人を尊敬する。他人を尊敬する念が起こらないという人は、

自分の心中に大きな欠陥があることを告白するものである。




自分のココロと向き合う


新渡戸稲造の残した言葉を見ますと、他人をあれこれ評価する前に

まずは、自分のココロと向き合い、自分の態度・行動を見つめ直す大切さを説く思いが感じます。

昔からある言葉で、人の振り見て我が振り直せの精神を言い換えてやさしく諭すようです。



見つめ直す素直な心


神社にお参りにくる方からこのような質問があります。

・「神さまのご利益がありますか?」
・「ここの神社で効果がありますか?」
・「ここの神社で何が祀られていますか?」

以上のような質問をされる方は、神さまを自分の思うように何でも聞いてくれる存在としか

思っていない方なのかもしれません。

本来、神さまに対しては感謝のまごころを捧げるのが正しいあり方です。

そのまごころを捧げるにあたり、自分自身が神さまに向き合うにあたり神さまが望まれる

生き方をしているだろうか?

汚い心をなくし、清らかな心で過ごしているか?

と常に反省を繰り返しながら、目に見えない世界に謙虚に向き合うのが大切なのです。

神さまは、そういう人をご覧くださり不思議と守ってくださるのです。

自分の外側(他の人など)でなく内側(自身の心)を大切にする、大事にする。


そのような視点を頭の片巣においてくださり、お過ごしくださればと思います。

お読みくださり有り難うございました。

悠久の時間の流れに、まかせましょう!

2017年06月13日 10時54分30秒 | 日記

知ることから人は変わります

以前、私が神道を学校で学んでいたときに先生から、神葬祭(しんそうさい、

神道によるお葬式のことです)での不思議な出来事のお話を教えていただきました。

関東の大きな神社の神職から聞いたお話だそうです



亡くなった人はこの世に未練を残す

関東の大きな神社に急きょ神葬祭の依頼があり、複数の神職が

ご奉仕する大きな葬儀であったようです。

遷霊祭(せんれいさい)という、亡くなった方の霊魂(れいこん)を霊璽(れいじ)に

遷(うつ)す儀式がありまして、その間、神職が「オー」という言葉を発します。

複数の神職が、「オー」という言葉を一定時間発するのですが、一同なかなか発するのが止まらなかったようです。

参列した神職は、これまでいくつもの神葬祭にご奉仕してきたけれども、このようなことは初めてのことで

不思議に思ったけれども、まずはその儀式を終えることにしたとのことでした。その後、葬儀が終わってから、

他の神職にその時の違和感を話しましたら、他の神職も同じように違和感を覚えていたことに驚きを隠せなかったようです。

「何か違うなぁ。。。」、「どうしてなんだろう?」といろいろ思い、考えたけれども分からない状態が続いていたようです。

葬儀が全て終わり、あまり日にちが経過していない頃、参列した神職は偶然、

亡くなった方の生前について知るようになりました。

亡くなった方は、生前いろいろな方から恨みををかうことが多かったらしく、

常に自分が亡くなった後の家族のことを大変心配していたとのことでした。


その神職は、亡くなった方の強い未練がこの世に残り、素直に霊璽に遷りにくかったことが、遷霊祭の違和感として現れたのでは

ないかと語っていたようです。



安らかに清らかに自然にまかせ生きる幸せ


神道では、すべてのいのちの中に、霊(タマ)が宿っている。魂(タマ)が入っていると捉えています。

『日本書紀』の神代の記述に、「草木ことごとくに能(よ)く言語(ものいふこと)有り」と草も木も人のようにしゃべっていると、

ありますのも万物に宿る霊、魂を意識しています。

私たちは、タマとタマシイを同じように思っていますが、実際には違います。では、どうちがうのでしょう?

タマは生命霊のことを意味すると言われます。一方で、タマシイはちょっと異なります。

古代の言葉に、メシイとミシイという言葉があります。メシイのメは目、ミシイのミは耳のことです。

メシイは、目があまり見えなくなった、弱くなった状態をさします。

ミシイは、耳があまり聞こえない、遠くなった状態をさします。

そのため、シイは、正常な働き、機能を失った、離れた状態をさします。

したがって、タマシイは本来、宿っているべきものから、あるべきその働きを終え、離れてしまった霊(タマ)のことをさします



人は神霊が宿るものとして生きている


私たちは、自分の体と命を自分自身のものと考えます。

しかし、タマシイの言葉を知りますと、神霊が今の体に宿っているに過ぎない。

かりそめの体にタマが止まっているに過ぎない存在となります。

古語で死体の事を亡骸(なきがら)といい、空っぽの遺された体を表しますように

日本語を知ることによって、思いを深められると思いまして紹介しました。

タマが離れるまで、精一杯生きてまいりましょう!


お読みくださり有り難うございました!

〇自然のようにこだわらず、大らからに生きましょう!

2017年06月12日 11時16分36秒 | 日記
いい人生を歩む視点とは?


風わたる青田がやさしい陽をうける爽やかな季節となりました。

なだらかに続く青々とした山の稜線、時間をかけながらなゆるやかに流れる川。澄み切った空。

緑ゆたたかな国土の全ての自然界の生き物が生き生きとしているように感じます。

もしこの景色が、山には木がなくはげ山で、川の水は生活排水で汚れ、冷たい感じの受ける建物

だらけになってしまっていたらと思うとゾッとします。

日本の先人たちが残してくださった美しい自然から、今に生きる私たちはたくさんの贈りものを頂いています。

例えば、山に木があり森となっているから、雨が降った時に雨水を山の木々が蓄えてくれる。

長い月日を経ながら何層にも地下に染みわたり、それがにじみ出て沢となり、川となる。

川から水を引いて田に水を張ることができ稲が育っていく。また、山の養分を含んだ川水は、海へと流れて

そこには、魚がエサを求めて集まる漁場となる。

この大きな自然の仕組みの中で、私たちは関係をもって共に生きていることを思いますと、次の世代の

人々のために、少しでも先人たちから受け継いだ豊かな日本の自然を残していかなければと思います。




人生はタスキを次へつなぐ一区間


神道には、「中今(なかいま)」という言葉があります。『続日本紀』の言葉。

恥かしながら、私は最初、この言葉を見たときに”なかいま”と読めませんでした。

この言葉の意味は、自分の命は過去のご先祖があってこそ、つながっていて今の自分の命に至り、その命を

次の未来の命へとつないでいく、その中にいる存在と言われています。

大いなるはたらきによって最初に地球上に誕生した命を引き継ぎ、つないでいく存在の命。



一人ひとりがつなぐ大切な使命がある


新聞やテレビの報道で、家族による殺人事件が起こるたびに心をいためます。

そして、どうしてこのような事件になってしまうのだろうかと暗い気持ちになってしまいます。

大切な命のつながり、重要な考えがストンと抜け落ちてしまったからではないでしょうか。



神さまを大切にする人は人を大切にする


悠久の時間の流れを経ながら、大いなるはたきによって人の命が

最初に誕生したということは、人の命はそのはたらきによって生み出された命、つまり、人は神さまから御魂(みたま)

を分け与えられた命を宿しているとなります。一人ひとりの中に神さまが宿っている。ということです。

そして、この世で生きながら一生かけて家庭で、仕事で、地域で大切な思いと心を、次の世代にタスキを

つないでいく、中継ぎの尊い存在です。自分のたちの代で終わりではありません。

そのような視点で、大らかに生きましょう!




お読みくださり有り難うございました。
明日は、タマとタマシイについてアップします。
どのように違うのか日本語をたどりながらともに考えていきましょう。