【訪問日時】
11月14日(月)19時頃
福しんの炒飯は憎めない。盛られた炒飯の中にまだライスの白さがチラホラ見え隠れしたりしても、その盛られ方の量的な傾向が店舗によって違いが散見されてあってもだ。それはやよい軒で出される味噌汁が何かを入れ忘れたらしく時々まったく味がしないことがあったとしても憎めないのと同じように。理由は福しんの炒飯が美味いということに他ならないからで、なぜなら日高屋の炒飯よりも味わいが重層的で、ぎょうさの満州の炒飯よりも濃厚で、王将の焼き飯よりも焼き飯らしくもあり、幸楽苑の炒飯よりもグルグル回らず人手がかかっていて、紅虎餃子房のレタス炒飯よりも脂がいつまでも尾を引かないからだ。福しんの炒飯の正式名称は「焼豚炒飯」。焼豚の欠片が混在していて、叉焼に塗されている焦がした醤油のような旨みだろうか、このグッとくるようなアクセントがたまらない。食感も昔ながらの焚いたご飯をそのままフライパンに飛び込ませ、油で解きほぐしたかのような粘着系。私にとってこれがいいのだ。いつからか炒飯は”黄金”だとか”パラパラな状態”などという変なテクニカルな要件が美味しさのスタンダートとなってしまい、愚かな見た目重視の、味気ない軽さを伴なった退行に走ってしまった。あんかけなども同じことだ。炒飯の悲惨さはそこから始まっている。今一度福しんの炒飯を豪快に食べきって、炒飯単独の大いなる存在感を取り戻そうではないか。
レシートのクーポン券でサービス杏仁をいつも頼むけれど、最近は日本語片言の店員さんに顔を見られるたびに「チャーハンサービスアンニン!?」と連呼されるまでになってしまった。
11月14日(月)19時頃
福しんの炒飯は憎めない。盛られた炒飯の中にまだライスの白さがチラホラ見え隠れしたりしても、その盛られ方の量的な傾向が店舗によって違いが散見されてあってもだ。それはやよい軒で出される味噌汁が何かを入れ忘れたらしく時々まったく味がしないことがあったとしても憎めないのと同じように。理由は福しんの炒飯が美味いということに他ならないからで、なぜなら日高屋の炒飯よりも味わいが重層的で、ぎょうさの満州の炒飯よりも濃厚で、王将の焼き飯よりも焼き飯らしくもあり、幸楽苑の炒飯よりもグルグル回らず人手がかかっていて、紅虎餃子房のレタス炒飯よりも脂がいつまでも尾を引かないからだ。福しんの炒飯の正式名称は「焼豚炒飯」。焼豚の欠片が混在していて、叉焼に塗されている焦がした醤油のような旨みだろうか、このグッとくるようなアクセントがたまらない。食感も昔ながらの焚いたご飯をそのままフライパンに飛び込ませ、油で解きほぐしたかのような粘着系。私にとってこれがいいのだ。いつからか炒飯は”黄金”だとか”パラパラな状態”などという変なテクニカルな要件が美味しさのスタンダートとなってしまい、愚かな見た目重視の、味気ない軽さを伴なった退行に走ってしまった。あんかけなども同じことだ。炒飯の悲惨さはそこから始まっている。今一度福しんの炒飯を豪快に食べきって、炒飯単独の大いなる存在感を取り戻そうではないか。
レシートのクーポン券でサービス杏仁をいつも頼むけれど、最近は日本語片言の店員さんに顔を見られるたびに「チャーハンサービスアンニン!?」と連呼されるまでになってしまった。