価値観が時代をまたいで受け継がれて行ってるという話をしていました。
それは日本の常識や慣習、伝統の様にです。
もう既に時代は変化しているのに変わることも無く、それが正解不正解だと決め込みます。
本質を置き去りにしてその表面的形だけが受け継がれていく事もあります。
例を挙げるとお祀りみたいなものもそうで、儀式だけを受け継ぎその心や意図がすれて行くのと同じような。
その価値観とか心とか概念とかの意識です。
見える形ではなく、意識の見えない世界です。
本来はその価値観も意識も変化して進化していくもの。それがずっと縛られていたり、残っている。
それと同じように、亡くなった人の無念や念も残っていたりするのです。
それも子孫の心に残ったりする。
実際にその亡くなられた方の意に添わなかった意識はその人の意識も残るし、遺族の心にもそのまま残る。
私自身は亡くなる時には念を残さないようにするのが自分の目標で責任だと思っていて子供にも話しています。
たとえ飲みまくって酔っぱらって亡くなったとしても、飲む時は楽しい時だから思い残すことはないと!まあ極端ですがそういう事です。
いろんな考えも話すようにしています。
子供の頃の思い出も話します。何度も同じ話をするとうざいかも知れないけど、親の思いがそこに在る事に気づいてもらえれば良いと思ってます。
その話は子供たちの今にとっては意識もしない事だけど、亡くなってから理解したり、消化したり、自分たちで進化させてくれたりすると思っているのです。
親が間違っていたとか歪んでいたとしたら、自分たちで変えて行ってくれたらいいと思うし。
親の考えに反抗するのだって良い事だと思います。
進化に繋がります。
もし親が亡くなるまでにそんなに対話も無く、対話できる状態でもなくって事も多々あると思います。
遠く離れて暮らしてたり、病床についていたり、認知症になっていたりと。
そんな人たちもなおさら無念や念を抱えていたかも知れません。
そうなると子供たちに伝わり、子供たちも親がどんな生き方だったか、どんな死に様だったかときっと考えるでしょう。
子供たちに後悔の念を置いていく場合もあります。
昔の価値観では子が親孝行をするとか親を看取る義務とか、そんな常識が当たり前だと言われてきたから余計でしょう。
その常識が正解とか不正解ということも無いです。
こうしてやればよかった、ああしてやればよかったという所に念があるだけで。
もし、親が辛かったのかなとか、苦しかったのかなと思うなら、自分がそれを繰り返さない事です。
自分がそう思っているからそんな風に念を受け取っただけ。
それを進化させる課題を引き継いだだけ。
自分の代でその価値観や考えや思いを進化させるだけで、
どう繰り返さないのかは自身で考えるだけです。
それぞれだからです。
良い思いへと進化させてあげる。
それが完璧でなくても良い、その時に不正解でもずっと続いていくから、自分が納得したところで良いと思います。
昔というか、私の場合は昭和ですが、
そんな時代は親子の会話でも詳しく話しませんでした。
常識を押し付ける時にはいろいろ言いますが、子供の話は聞きません。
それが当たり前だというだけでした。
今は親もしっかり理由を話さないと子供は理解しません。
それによっても中身が空っぽな親の話は聞きません。
親の考えや思いだけはしっかり伝えるけど、後は子供が自分で考える。
その方が価値観も進化していくかなと思います。
私は父親や舅姑が亡くなった時もしっかりその人の人生を理解しようと努めました。
代わりに人生を納得してあげようと思ったぐらいにです、
そしてそのままの父を労ってあげて、良かったねと。
かなり偏屈なところもあったけど、それもそのままで父らしかったと受け止めてあげることが成仏だと思いましたから。
嫌な性格とか苦手だなと思ったところは引き継いでるかもしれないので、私で終わらせるという思い出です。
それが価値観の進化でもあると !(^^)!
念の成仏です (^.^)
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