なんでもそうですが、言葉の意味、概念、本質…と、
奥深まって広がっていきます。
意味は一つでもない、
その奥に大きな枠に概念という意味もあり、なんとでも捉える事も出来る。
そして奥には物や言葉の本質という意味があり、奥深いものです。
取り違えたり、思い込んだり、決めつけたりしているとそこが限界となり、自分が制限する事になり、自分の中で葛藤する事になります。
それを他人事とし、人との間に葛藤が起こります。
昨日までに話してしていた自分の理想と他人や社会のカタチとのズレが生じるとまた葛藤となり、ズレが大きいと葛藤も大きくなりと比例してそれがストレスとなったりするという話をしていました。
自分の理想を持つ事は大切ですが、一気にそれをかなえようとすると、それはエゴとなりますし、身勝手となり、心身ともにバランスを崩します。
理想というのはある意味制限でもある。
制限は自由を奪い、枠に自分を閉じ込めたりします。
理想が無いとどこに向かって行けばいいか迷路に迷い込む場合もあるけれど、理想があり過ぎても制限となるんですね。
理想がそのまま言葉となったり、行動にもなる。
言葉というのは自分から出たら分離の始まりだと言っていますが、
それは人がどう捉えるかその人次第になるからで。
だからむやみに言葉を出せない人もいますね。
思うように受け取ってもらえないかも知れないからです。
意味が違うのにって、なんでそうなるかなってエラーが起こります。
それも自分の理想と食い違うからでもあるのです。
自分から放った言葉を人がどう捉えようが止める事も訂正できることも無いんです。
ある意味、解き放たれた自分がそこにいるだけ。
解き放って、その後に自分の理想通りにその言葉が進むかどうかなんて気にしても仕方がない。
自分が言葉に責任を持ちそのように生きるだけしかない。
その言葉をどう説明しても、言い訳しても理想の押し付けにしかならない…ですね。
その言葉を自分から離して、自分が進むしかないのかなって…。
共感しているようでもどこまで細かく共感しているかなんて、それも理想の一端でしかない。
それぞれに深層心理、潜在意識のズレが在るかなんてそれぞれには分からないかも知れないからです。
本質はお互いにそれ以上を求めないし、結果も求めない。
人の話しを聞いて、人に話をして…っていうのも
お互いがそれぞれに影響受けてどう進むかだけしかない。
神様だってその結果を評価なんてしない。
人間関係においては密接に関わっている事で、
自分の理想像に相手を近づけようとしているだけかも知れませんよね。
常にどんな時でも内観できるように、
自身を俯瞰できるようにしたいもんです。
相手に文句言っていたり、批判したりしている人は自分の事を無視しているとも言えます。
だから自分の心が苦しい。自分の身体が苦しいのです。
特に自分の周りの小さな世界、家族であったり、家庭、知り合い、コミュニティのような身近な世界に理想像を持ってしまいがちですね。
子供も理想通りにいかないし、パートナーでもそうです。
家庭を作るにもですね。
自分の育った環境と照らし合わせて描かれることが往々にしてあるんでしょうね (^^;)
理想は自分の中のもの。
理想にはズレが生じるもの。
そんな事を理解しながら制限しないで生きる事が楽な生き方なんでしょうね。
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